挿話 天と地と世界樹
・主な登場人物
天枝優栄:生徒会書記に当選した一年三組の男子生徒。自信家だが真面目な眼鏡くん。
朱野女神:生徒会副会長に当選した一年三組の女子生徒。記憶力が良く、一度見た物は忘れない。
朱野結日:一年四組の女子生徒。女神の双子の妹。学力はそこそこだが、姉よりも運動神経が良い。
この世界の中心には、大樹があるという。
大地に根差し、天へと続くその巨大な木を、人は世界樹、あるいは宇宙樹と呼んだ。その神聖な樹は、生命の象徴であり、永遠の安寧と世界の荘厳さを内包する記号ともいえる。誰もが穏やかな世界の心象風景を持てば、そこに世界樹は寄り添った。信仰される天使や女神が降り立つための天梯として、恵みを意味する泉を携えて、世界樹は安定を示すために、天と地を繋ぐ象徴として考えられてきたのだ。
僕は、自分がいつかそんな存在になるのだと疑ったことはなかった。多くの人に信頼され、人々を繋ぎ安寧を与える、そんな立派な存在に。今までずっと、そうやって成長してきたように、大きな父の背中を追って、自分も強く成長していけるのだと思っていた。
けれど、どうやら僕はまだ青い新芽のようで、誰かを支えるなんておこがましいくらい、自分一人でも立っていられないほどに不安定だ。目標を羽織っても、その虚飾は僕をさらに小さくするばかりで、成長とは程遠い。ただ遠くなっていく背中に、手を伸ばすことしかできない自分に、歯噛みすることすら虚しく感じる。
それは、光だった。いつだって、僕たちは光の下で生きている。けれど、不意に、自分を呼んでいるかのように、雲間から出て眩しく光る太陽を見上げた時のように、その光に僕は灼かれた。この光が無ければ、僕は進んで行けないと回心してしまうほどの、絶対的な存在感を錯視した。
成長していく君が怖くて、けれど、その光に手を伸ばさずにはいられなくて、ようやく君が正しく輝きだしたとき、今度は消えていくことが不安になった。もういっそ、何もかも投げ出してしまいたくなるような不安感と焦燥だけが心に居座り続けている。それでも僕がまだまともでいられるのは、臆病で意固地な僕の両足が、固く大地に根を張っているからなのだろう。
父のようになれない僕は、いったいどうすればいいのだろう。君のように輝けない僕は、どうやって生きればいいのだろう。温かい人々の声すらも、全身に這い上る虫のようにおぞましく絶望的な感触に思えてくる。ああ、この背は無数の声に支えられている。届きもしない天に押し上げられ、失望と軽蔑の中落ちていく未来へ進んでいる。
ああ、それでも少しでも、君のいる天に近づけたなら、それでいいのかもしれない。
生徒会選挙が終わった。それで世界が大きく変わるわけでもなく、関係性が大きく変わるわけでもなく、僕たちはいつも通りの下校路を行く。いつもと違う点があるとすれば、僕はまっすぐに家への道を辿っているというところだ。
「……結日、駅で合流するってさ。本当にお邪魔しちゃっていいの?」
「どうせ、彼女も時間を持て余しているのだろう? ドレスコードがあるわけでもなし、安心してくれたまえよ」
「そういう話じゃないんだけど……」
「僕だって、ドリンクバーを奢り続けるのは面倒だからね。使えるものは使う、違うかい?」
「……そうだね。流石にちょっと緊張するけど」
「君ィ、友達少ないからねェ」
「あなたに言われたくはないね」
軽口を叩いていると、いつの間にか駅まで下りてきていた。朱野さんと合流し、十分ほどで僕の家に辿り着く。自分で提案したことながら、家に人を招くというのは緊張する。部屋の清潔さだとか、友人交流の経験だとか、そういったことではなく、父母の審美眼に彼女たちを晒すことが怖かった。
「うおお、おっきい一軒家ぁ……」
朱野さんが目を丸くして二階建ての屋根を見上げる。女神くんはどこか落ち着いた様子で妹の表情を眺めていた。
小学校の時、友達を家に呼んだことがある。
その子は勉強が苦手で、勉強会のために家に招いた。まだ幼かった僕たちは、勉強もそこそこに彼の持ってきたゲーム機で遊び始め、夕方帰ってきた父にこっぴどく叱られた。彼をつまみだした父の背中は、憧憬の中で無限大に大きく思い返される。それ以来、僕の両親は鬼だと噂が広まって、僕の家に行こうという人はいなくなった。幸いにも、彼は僕の家の広さやジュースが美味しかった話なんかを言い続けていた。僕自身もクラスの輪から逸れることも無く、中学校で別れるまでは友好な信頼の目を向けられていたと思う。
「————優栄、手を差し伸べる相手は選びなさい。誰にでも公正でいることは美徳ではないんだ」
きっと、その頃から、僕は心の中で線を引くようになったのだ。自分は特別なのだと思うために、手を差し伸べた相手に引きずり込まれないように、諦める境界線を引くようになった。そうしないと、振り返ってしまうから。安心して手を前に、あの大きな背へ伸ばせないから。
「あ、手土産とか必要だったかな。お姉ちゃん、なんか持ってる?」
「いや、どうせ親もまだ帰ってこないだろうし、構わないさ」
「えっ、嘘。私、お邪魔だったよね」
「結日、提出課題が終わるまでは私語厳禁だからね」
「な、なんで終わってないの知ってるの!?」
「はは、賑やかで結構————」
小さな庭の門を開いて、違和感に気が付く。いつもなら開け放してあるガレージが、今日は閉まっている。雨も降っていないのに、庭に植えられた植物は生き生きと輝いていた。花の甘い匂いに混じって、サボンのような馴染みのある柔らかい匂いが鼻をくすぐった。
オートロックの玄関扉にカードキーをかざして開くと、二足分のつま先が僕の方を向いていた。
「あら、優栄。今日は早いのね」
ぱたぱたとスリッパの音と共に現れた母の後ろから、静かに父も居間から出てきた。後ろから困惑したような緊張したような視線が僕を刺しているのが分かる。僕にとっても予想外なことに、両親はすでに帰ってきていたようだった。
「そちらは?」
「朱野結日って言います。私は天枝くんの友達で————」
「生徒会でご一緒させていただいています、朱野女神です。突然の訪問となってしまい、申し訳ありません」
「いや、構わないが————」
父が怪訝な目で僕を見据える。それもそうだ。特に断りも無く同級生の女生徒を二人一緒に家に連れてきているのだ。状況だけ見れば、不信極まりない。
「まあまあ、とにかく上がってねぇ。立ち話もなんでしょう」
母がまた、ぱたぱたとスリッパの音を立てながら居間に戻っていく。椅子を引く音や冷蔵庫を開く音、日常の生活音が沈黙を際立たせた。
「まぁ、なんだ。ゆっくりしていくといい」
父も静かに居間の扉をくぐり、僕たちは外履きを脱いだ。二人に来客用のスリッパを見繕ってから、僕は深呼吸を一つする。
「お父さん、結構似てたね」
「そうだね」
くすくすと笑う朱野さんに、女神くんは落ち着いた声色で返した。
居間に入ると、六人掛けのテーブルの長辺に三人分の椅子が寄せられていた。集団面接のように、正面に両親が座っている。
「二人とも、今日は早かったんだね」
「ああ、言いそびれていたが、今日は職場の忘年会でね。もう直に出発するよ」
「それにしても、優栄がお友達を連れて来るなんて、いつぶりかしら。それもこんなかわいい子をねぇ?」
「君が、女神くんか。優栄からかねがね話は聞いているよ」
「恐縮です」
女神くんは、すっかり板についた社交性で軽く頭を下げた。一方の朱野さんは、緊張などしていない様子で、小分けの袋に入ったビスケットを開けて、一口に食べた。彼女のコップに入った冷たいコーヒーは、いつの間にかもう半分だ。
「今日は生徒会選挙だったと聞いているが、結果は見てきたのかね」
「ああ、うん」
「私が、副会長に当選しました」
「……ははは、仲が良いようで結構。今年の台典商高は、優秀な生徒が多いらしいな、優栄」
「……そうだね」
傲岸不遜に言いのけた女神くんに、父はにやりと笑う。女神くんはまっすぐに父の視線を受け止めると、勝気な笑みを見せた。
「だがまぁ、その……色事には気を付けなさい。双子、だとしてもね」
「ご、誤解だよ。今日は勉強会の予定だったんだ、本当に」
「…………そうか。まぁ、お前が家に連れてくるほどに信頼しているのは確かだろう。女神くん、安心したまえ。すぐに優栄は、君を追い抜かすだろう」
価値を吟味するように二人の少女を見た父は、表情を変えずにそう言った。父のコップから水滴が伝って、コースターに染みていった。父はゆっくりと立ち上がると、背もたれにかけていたジャケットを羽織った。
「母さん、あとは若い者に任せようか」
「ええ、二人ともゆっくりしていっていいからね」
不思議と、いつもよりも柔和にみえる両親を見送って、ようやく一息を吐く。落ち着いてみたところで、結局彼女らと三人になることに変わりはないのだが。
「……いいご家族だね」
「ああ、自慢の家族だよ」
父が二人を見て失望しないかなんて杞憂は、安堵の息とともに忘れてしまい、僕は心からそう返した。とりあえずは予定通りに勉強を始めようと教科書類を机に広げていると、朱野さんがこっそり逃げ出そうとしているのが目に入る。
「結日、教えてあげるから座りなさい」
「え~、二人とも理系でしょ? 私には難しいって……」
「はは、まだ文理は関係ないだろうに。朱野さんは何の教科が苦手なんだい?」
「数学とぉ……っていうか、朱野さんって言うのナシっ! 何でお姉ちゃんだけ名前で、私は名字なの?」
「それは、紛らわしいからだろう。双子なんだから、分かりやすいようにだねェ」
「嘘。吉田くんは三人いるけど、天枝、呼び分けてないでしょ」
女神くんは頬杖を突いて、わざとらしく首を傾げる。王手を打ったように思わせぶりに微笑んでいる。
「君は、友人なんだから、多少の優遇は当然だ。……結日くん、早く準備したまえ」
「はーい、結日くん、準備しまぁす!」
手のかかる子供のような妹君に、思わずこめかみをほぐした。おかしそうに微笑みながら僕を見上げる女神くんを軽く睨んで、数学の試験範囲のページを開く。まだそれほど難しい範囲ではなく、解説も問題なく出来そうだ。
「それじゃあ、始めようか」
ふてくされたように机に突っ伏す結日くんに喝を入れながら、もし自分に兄弟がいたら、これまでの人生はもっと違っていたのだろうかと、ふと思う。誰かのためにという思いは、僕にとって、ずっと枷でしかなかった。けれど、女神くんにとってそれが原動力であるように、大切な誰かがいるならば、その責任感も重圧も僕を支えてくれるのだろうか。
「……ふふ」
「どうしたの、結日?」
「ううん、お姉ちゃんに勉強教えてもらうの、久しぶりだなって思ってさ。ずっと、生徒会で忙しかったでしょ? だから、嬉しい」
「そうだね。私も、なんだか懐かしい気持ち」
「最近のお姉ちゃん、天使先輩みたいでちょっと恐れ多いって、皆言ってるよ?」
「そうかな」
「そうだよ! 生徒会ってほら、なんだかすごそうな感じだし、雲の上に行っちゃったみたいでさ」
「それは結日が勉強サボってるからでしょ」
冗談交じりで女神くんは言葉を濁したが、その横顔は少しだけ寂しそうだった。
それから、僕たちは結日くんに勉強を教えながらゆっくりとした勉強時間を過ごした。すっかり真っ暗になった窓の向こうに、居間の時計が荘厳に音を鳴らし、長針は空を指す。
「あ、もうこんな時間か。流石にお邪魔しすぎちゃったかな」
「帰るなら駅まで送ろう。この辺りの道は、迷いやすいからね」
「ごめんね、何から何まで」
「気にしなくていい、と言わなくても、君は気にしないのだろう?」
「ふふ、その通り」
女神くんは真面目な顔を作って僕の方を見ると、目に焼き付けるかのようにじっと視線を突きつけた。
「どうかしたかい?」
「ううん、なんでも」
外から、相当勉強会から逃げたかったのだろう、元気な結日くんの声が僕たちを呼んでいる。女神くんは目をそらすと、立ち上がって歩き出す。
「夜はかなり冷え込むねぇ」
靴を履いていると、自分の身を抱いてくねくねと体をよじりながら、結日くんが嘆いた。
「結日、手袋持ってきてないの? 冷え性なのに」
「アムネシアに置いてきちゃった」
「もう、明日取りにいきなよ?」
扉の鍵を閉めて庭の小道に出ると、外気の寒さが体に浸みる。
「……確かに、手袋が無いと中々に厳しいな、これは」
思わず上着のポケットに両手を突っ込んだ瞬間、元気よく僕の方に手が差し出される。
「はいっ」
「?」
握手を求めるように手を差し出してきた結日くんに、僕は困惑する。首を傾げると、彼女もまた困惑して、陸上のバトンパスを思案するように腕をくるくるとと回したり、体を捻ったりと試行錯誤し始めた。
「結日、何してるの?」
「手、繋いだらあったかいじゃん。最近、帰りは一人のことが多かったし、三人もいるんだから、せっかくと思ってさ」
何のためらいも憂いも無く差し出された手に、僕は握り返すことを躊躇する。その純真さに、かえって自分が踏み入っていいものかと尻込みしてしまう。
「あっ————」
「誰でもいいってわけじゃ、ないんですよ?」
学校で見せるように、一歩だけ、何か大切な線を跨がないようにするように、大人びた表情で結日くんは、僕の左手を奪い取って引っ張り寄せた。バランスを崩しそうになって、なんとか顔を上げると、立ち尽くしたままの女神くんと目が合う。一瞬視線を落として、それから、女神くんは僕を試すように、ぎこちなく口角を上げた。
「…………手、握ってよ」
「…………あ、ああ」
寒さからか固くなった手の筋肉を、軽く開閉してほぐしてから、彼女の手を取る。冬の寒さに乾燥した肌が、まるでそうあるように作られたみたいに重なり合う。柔らかなその手の感触は、力を込めれば壊れてしまうガラス細工のようで、優しく指を曲げると確かな力で握り返された。
門灯に照らされた女神くんの顔が、白い息で揺らぐ。同じように白い息を吐きながら、女神くんは微笑んだ。
「天枝くんの手、あったかくてなんだか懐かしいなぁ」
「人と手をつなぐのは、なんだか久しぶりな気がするよ」
「天枝は、結構人と握手してるでしょ」
確かに、と笑って駅までの道のりをゆっくりと歩く。三人分の歩幅は一人よりもずっと穏やかだ。
「ねえ、天枝」
「なにかな」
「前にあなたが言ってたこと。私も、あなたがライバルで、あなたが隣にいてくれて良かったって、そう思う」
「……まるで別れの挨拶だねェ。これからも、僕は君の前を歩かせてもらうとするよ」
「ふふっ…………うん、お願い」
女神くんは視線を俯かせたまま、ほんの少しだけ体を寄せた。温かな脈の感じられる手は、今更になって、彼女が一人の人間であることを理解させた。
頭上を高く舞う天使は、空へ羽ばたいて消えていった。けれど、空から舞い降りた女神は、いつだって人々を慈しみの目で見つめている。だから大丈夫だと、誰もが噂する。この学校には女神がいるから、と。
君が僕を見ていてくれるなら、僕はいつまでも君の手を取ろう。誰もを支え、導く世界樹にはなれないとしても、君という空と人々を繋ぐ天梯になろう。
冬の夜は、僕たち以外誰もいないみたいに静かで、思い出の中の幸せのようだった。この手の温かさも、風の冷たさも、吐いた息の白さも、きっと僕は、君のように覚えてはいられないのだろう。けれど、いつまでも同じように、君の隣を歩いていたいと、今はただ願うのだった。