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誰も救えない天使の話  作者: 錆井鈴江
台典商高編 三年生
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第七十四話 清廉なる波紋

・主な登場人物

まながさき天使てんし:この物語の主人公。生徒会長。


藍虎碧あいとら みどり:生徒会執行部副会長の女子生徒。天使の”友人”の少女。クールに見られがち。


朱野女神あけの めがみ:一年三組の女子生徒。記憶力が良く、一度見た物は忘れない。

 この学校には、天使がいる。


 体育祭が終わって、一か月が過ぎ、そんな噂を聞くことはめっきり無くなった。きっと誰もが、天使が卒業していくことを分かっている。だからこそ、そのことを口にせずに新たな話を口にする。


 この学校には、女神がいる。


 それは私とは違う、この学校を見守っているというナニカらしい。曰く、女神に微笑まれると幸運になるだとか、女神の匂いを嗅げば幸福になれるだとか。甚だ迷惑なおまじないばかりだ。


 体育祭の後、台典商高と台典西高の生徒間の距離はぐっと縮まったらしい。特に、まだ互いの高校への帰属意識がそう深くない一年生において、両校の生徒たちは新たな友人関係として受け入れられていった。おかげで、うさんくさい恋愛の儀式だの付き添いだのと、女神の代わりと私は両校を行ったり来たりする羽目になった。


 天使先輩も忙しいからと放任で、本当にこんなことばかりで生徒会長を目指せるのだろうか、そもそも目下の選挙すら勝てるのだろうかと不安になる日々だ。


 私が両校の一年生たちに翻弄されている間、天枝(あめのえ)は上級生たちとの関係を深めていると聞く。天使先輩よりも余裕があるのか、藍虎(あいとら)先輩は時々生徒会室に来ては、勉強と並行して面倒を見てくれた。ありがたいと思う反面、やはり天使先輩に会いたいと思う気持ちは強くなる。


 私が手を伸ばし焦がれた光は、こうも簡単に飛び去ってしまうものなのだろうか。残光となったその影は、眩しさすら夢だったように、思い出せなくなりそうで、そうして忘れてしまうことが何よりも苦痛だった。天使の栄光を、疑いそうになるのが怖かった。


 けれど、いつか私が天使と同じ場所に立った時、きっと、手を伸ばしていてはいけないのだとも思う。その時、もうそこに天使はいなくて、だけれど、その時ようやく、天使と同じ景色を見られるのだ。


 まだ、自分が生徒会長になったとしても、どう在ればいいのかなんて何も分かっていない。思えば、確固たる生徒会長像を持つ天枝に対して、私はどんな生徒会長になりたいのだろうか。全知全能な、天真爛漫な、魅力的で蠱惑的な……どれも自分とは合わないような気がする。


 かといって、天枝に聞くのも癪で、もやもやとしたまま、嵐のように日々は過ぎていく。






 天使先輩が突然に生徒会室に戻ってきたのは、そんな冬の気配が突然に現れた火のことだった。


 十一月の末日だ。生徒会選挙まで一か月を切り、選挙の公示が間もなく始まろうとしている。当然立候補している私は、選挙活動の準備も済ませており、これといって焦る要素も無かった。


 とはいえ、日々の雑事は変わらず続いている。来月の校内目標に頭を悩ませながら私が一人机に向かっていると、静かに扉が開かれた。その相手は、ひっそりと扉の間から顔をのぞかせると、悪戯っぽくほほ笑む。


「天使先輩!」


「今日も熱心だね、女神ちゃん」


 天使先輩は、雑多にメモ書きが散らされた私のノートを見てそう笑う。何か良いことでもあったのだろうか、以前よりも柔らかい表情に見える。


「いえいえ、先輩が教えてくださったことを大切にしているだけです!」


「うんうん、実はずっと見てたから、女神ちゃんが怠けてたりしないことは知ってるんだ。合同体育祭も大成功だったし、本当に女神ちゃんを誘ってよかったよ」


 どこかおべっかのような、しかし一方で本心にも聞こえる声色で先輩は私の頭を撫でた。いつもはどこか人と壁を作るように間合いを保つ先輩に触れられ、私は急に鼓動が高鳴る。


「あ、ありがとうございます」


「それでね、今日は伝えたいことがあって来たんだ。時間もないし、ほら座って」


 先輩に促されて、私は席に着く。先輩も手近な椅子に腰かけた。


 時間が無いとはどういうことだろう。今は放課後だが、閉門までもまだ一時間以上はある。


「前に女神ちゃんをマンツーマンで指導するって話、したの覚えてる?結局、ドタバタしていて全然時間を取れなかったんだけどさ、今日から本格的に始めようかなと思うんだ」


「きょ、今日から、ですか?」


 頭の中のカレンダーをめくってみても、今日も今週も、何か特別なことがあったようには思えない。受験生である先輩は、ましてこれからがこれまで以上に大事な時期のはずだ。それがどうして急にやる気になったのだろう。


「そうだよ。今日が一日目。とりあえず、生徒会選挙を目標にやってみようか。その後は、卒業式の前の週くらいまでかな。そこで私の指導は終わり。でも安心して。その時にはきっと、女神ちゃんは私が必要ないくらいの立派に成長しているはずだから」


 やけに自信気な口調に対して、落ち着いた笑みを見せる先輩は、まるでとっておきのサプライズがあるように表情の奥に本心を隠している。


「よろしくお願いします」


 相変わらず真意は掴めないが、天使先輩の言うことが間違っているはずもない。ひとまず頷くと、先輩は満足げに頷き返した。


「それじゃあ、今日は生徒会長を目指す女神ちゃんに必要な心構えを教えるよ。女神ちゃんは、どんな人が生徒会長に向いてると思う?」


「どんな人……先輩みたいに、賢くて、生徒たちを導けるような人だと思います」


「えへへ、そうかな。ありがとね」


 天使先輩は照れたような作り笑いで頭をかく。いつも以上に大げさな態度は、やはり何か良いことでもあったのだろうかと思ってしまう。


「でもね、賢いだけでも、みんなを先導できるだけでもダメなんだよ。……ダメってことは無いんだけどね、きっとそれじゃあ、()()()()()()()()()。そんな誰かが生徒会長になっても、キミは尊敬しきれない」


 蝋燭の灯が揺らぐように、ほんの一瞬先輩の頭が傾いで、瞬いた後には射竦められるように鋭い瞳が私を捕らえていた。自分でも知らない心の渇望を見透かされているように、胸を締め付けられる。


「女神ちゃんに、まだ足りていないこと。女神ちゃんが、目をそらしていること。……大丈夫。女神ちゃんは、前に進んでいいんだよ」


 一二年主体の合同体育祭では、西高の代表として旗を振っていた九里(くのり)先輩の顔が浮かんで、吹き消える。心をかきむしりたくなるような静かな動悸が、血管の細胞一つ一つを浮き上がらせるように意識を奪う。何かずっと抑え込んでいたものが、優しい快刀で暴露されていく。


「キミは強くなって良い。キミに必要なのは————————」


 先輩の言葉をさえぎって、生徒会室の扉が開かれる。言葉に気を奪われて、足音に気が付きすらしなかった。いつも通り澄ました表情の藍虎先輩が、意外そうに私たちを見つめている。


「……取り込み中、だったかな」


 突然の来訪者に固まってしまった私を見て、藍虎先輩はそう苦笑いをする。


「ううん、ベストタイミングだよ。ちょうど(みどり)に見せたいものがあったんだ」


「私に?少し楽しみだけど、急に言われると怖いな」



 天使先輩の突飛な行動には慣れっこなのか、肩をすくめて先輩は私に微笑む。天使先輩が鞄から出した封筒のような物を、藍虎先輩はゆっくりと開封する。


「ね、女神ちゃん。さっきの話の続き。生徒会長に、ううん、キミが成りたいものに必要なこと。それはね、()()()()()()()()だよ」


「自分を、信じる……?」


「そう。自分の正しさを信じて、自分が信じた他人の強さを信じるの。きっと、乗り越えてくれるって信じて、誰かのために一番良い方法を選ばないといけない。もしそれが、その人を傷つけることになるとしても、ね」


 雨の中繋いだ手の温度を思い出す。泣き出しそうな(結日)の、うつむいて不安げな表情を思い出す。口から出まかせを吐いた、私の心を縛る嘘を思い出す。私は今も、その精算をしている。妹を幸せにするなんて、出来もしない見栄を張った私を本当にするために。


 ずっと、努力は贖罪だと思ってきた。成長は妹のためだと思ってきた。幸いにも、私は芽を出すことができて、花を咲かせば空をも目指せるかもしれない。だけれど、だからこそずっと避けてきていた。決して誰かを傷つけないようにと逃げてきた。私が傷つけばそれでいいならと納得しようとしていた。


 先輩は、いつものように優しい笑みを張り付けている。それはとても孤独な表情で、これが独り空を駆ける天使の表情だというのなら、なんて世界は残酷なのだろう。


「天使……これは、つまり……ああ、それで朱野(あけの)さんが……いや、そうか。そうか……」


 藍虎先輩は封筒の中から取り出した書類に目を通すと、幻覚でも見ているかのように胡乱な目で何かつぶやくと、教室の床に座り込んでしまった。泣くような笑うような不思議な表情で、呆然と天使先輩の方を見つめている。


「碧、そういうことだから、年末までは女神ちゃんの指導に回るね。授業は一緒なんだから、そんな顔しないでよ」


「うん……分かっているさ。でも、その……今日は、先に帰るよ」


 涙の流れそうな潤んだ瞳を切り替えて、藍虎先輩はゆっくりと立ち上がった。ふらふらとした足取りで、考えを整理するように、浅い呼吸を繰り返しながら、生徒会室を去っていく。


「あの、藍虎先輩、大丈夫でしょうか」


「言ったでしょ。信じることが大事だって。誰も傷つかないのが最適解というわけじゃなくて、誰もが前に進めるのが最適解なんだよ」


 藍虎先輩が机の上に置いていった書類は、わずかに開いた扉の光を反射して眩しく光っている。悠々と案内書類を抑え込んでいる、真新しいその合格通知書は少しだけ重たくて、涼しい顔で私に微笑むその天使にはとてもふさわしく思えた。







 それから、私は生徒会選挙までみっちりと、というわけでもないが、天使先輩に主にメンタル面を鍛えられた。元々重労働でもなく、基本的な仕事は役職と関係なく振り分けられる執行部では、生徒会長になるための指導となると精神面のことになるのだろう。先輩も指導されたことがあるのかと聞くと、どうだろうねとごまかされてしまった。きっと、先輩にとっては、それがただの日常で、成長も進歩も、運命のめぐりあわせだったのだろう。


「なんだか、とっても大人びた表情になった気がするよ。まるで三年生みたい」


「ただ疲れているだけですよ……主に精神的に」


「生徒会長になったら、大体毎日そんな感じだよ?だから、後はもう楽しまないと。女神ちゃんが笑っていないと、みんなも安心して笑えないからね」


 例えば、未練がましい関係をすっぱりと別れさせたり、喧嘩している二人を無理やり引き合わせたり、言い訳ばかりの生徒を真っ向から叱ったり。そんな気の引けるような、けれど、これ以上なく正しいことを遂行させられた。何よりも大事なのは、それが正しいからそうするのではなく、私がそうしたいからそうさせるのだと思わせることだと学んだ。


 ひどく迷惑をかけた気もする。恥ずかしさに枕を濡らした夜もある。かくして、台典商高の女神の噂は街談巷説を一色に塗り替え、天使は静かな波紋だけを残して井戸端から天へと飛び立ったのだ。その淑やかで清廉な波紋は、すぐ近くにいた私ですら気が付かないうちに消えていく。


 それはあまりにも自然な幕引きで、誰にも終わりを感じさせないままに天使は生徒たちの光となる役目を受け継がせた。


 進むしかない、迷ってはいられない。天使はもう、いないのだから。


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