第七十三話 君のいない日
・主な登場人物
藍虎碧:生徒会執行部副会長の女子生徒。天使の”友人”の少女。クールに見られがち。
影間蕾:監査委員長の男子生徒。かわいらしい見た目をしている。
留木花夢:三年一組の女子生徒。身長が低く童顔。N大教育学部志望。
鳩場冠凛:三年一組のクラス委員長の女子生徒。静かな佇まいをしている。N大法学部志望だが、私立大学との併願予定。
廓田怜亜:二年二組の女子生徒。テニス部は夏の大会で卒業し、現在は学業優先。
この学校には、天使がいる。
それはもはや、台典商高に通う生徒の中で当たり前のこととして受け入れられている噂話だ。どこにいても、なにをしていても、この学校では天使が見守っていると勇気づけられる。その噂話は、台典商高の生徒たちの向上心の源であり、対抗心の湧き出る理由であり、苦しくても立ち上がれる理由でもあった。
そんな噂話を、誰よりも当事者に近い目線で享受し続けてきた現在の三年生の生徒たちは、目下、受験という人生の壁の前で苦悩していた。
日常に浸透した信仰は、敬虔さを失っていく。青春は幕を引き、狭い世界の檻を抜け出して、新たな独房へ旅立つ生徒たちは、それでも少しだけ大人になって、天使のことを意識しなくなっていくのだ。
校内に流れる新たな噂話にも、フレッシュな生徒たちの美談醜聞にも、かつてほどの興味を持つ余裕も無く、受験生はただ前を向いてため息を吐く。体育祭での生徒会長の挨拶は、自分たちが中心だとすら思えた学生時代の終わりをひしひしと実感させた。ある意味で、誰よりも早く卒業してしまった天使の姿に、時の進みを認めるほかにない。
天使の時代は終わった。卒業式という明確な高校生活の終点は、飾りでしかない。利かせる幅も無く、受験勉強以外考えられない今は、思い出に浸る生徒たちにとって、高校生活の蛇足か、あるいは余命とでも言えよう。
それでも世界は、人生は続いていく。そんな当たり前のことを、改めて口に出してみて、生徒たちはまたアラームのスイッチを入れる。どんな難題も、諦めてしまいそうな文章の波も、立ち向かって進んでいける。きっとそれが、あの天使が望んだ道だと、そう信じているから。
早いもので、体育祭からもう一か月近くが経とうとしている。
生徒会の仕事は、日々の細かな物と時折来る投書への対応くらいだ。来る生徒会選挙に向けて、後輩たちは演説や選挙活動への準備に忙しない様子だが、私に手伝えることはそう多くなかった。
「碧、今日は補習が無いから、みんなで図書館に行く予定なのだけれど、あなたも一緒にどうかしら。ほら、今日は生徒会もお休みでしょう?」
いつもよりも一層静かな昼休み。教室で静かにお弁当を食べていると、鳩場さんがそう話しかけてきた。休みだという連絡のあった隣席を見やってから、私は返答する。
「そう言うわけではない、けれど……そうだね。その方が勉強の効率も上がりそうだ。その、お誘いありがとう。ええと、冠凛」
「ふふ、呼び慣れないなら別にいいのよ。あの子も言っているだけで気にしないでしょうし」
「せっかくだし、ね。勉強ばかりだと、代わり映えしないだろう」
「あら、刺激の塊みたいなあの子と一緒にいるくせに、随分贅沢ね」
「最近はそうでもないよ。執行部でもあまり顔を合わせないし、授業も模試と自習ばかりだろう?」
体育祭が終わり、緩やかに生徒会執行部の仕事が締めに向かっていく中で、天使との関わりも少なくなっていた。教室では変わらず隣の席で、前と変わらない美しい横顔を見ることはできるものの、勉強法も時間の使い方も違う私たちは、昼食を共にする時間以外で会話をすることも無くなっていた。私語をする時間は勉強にあてるべきだ、なんて形ばかりの言い訳で、彼女との時間を避けている。
三年生になる頃、「前期、一緒に受けようよ」と彼女は言った。それがどの程度本気だったのか分からないが、少なくとも、彼女は国公立の志望先に私と同じ大学の同じ学科を記入しているようだった。もちろん、私と比べるべくもない良判定なのだが。
しかしながら、模試や補習で一緒になることはなく、放課後も彼女がどうしているか、私は知らない。橋屋にでも聞けば分かるのかもしれないが、今の私にそこまでして彼女の動向を詮索する理由も無い。
「今日もお休みで、いったい何をしているのやら。ともかく、碧も参加するって伝えておくわ。現地集合でもいいかしら。少しだけ用事があるの」
「ああ、私も執行部の後輩に連絡だけしてくるから、それで構わないよ」
体育祭後の執行部の活動は、ほとんど後輩たちが行なっている。一年生の二人もすっかり板についてきたようで、これと言った憂いも無く引き継げそうだ。
一方で、天使が提案した二人の育成計画については、他でもない天使の多忙によって停滞状態である様だった。私は時間を見つけて天枝くんの相談に乗ってはいるが、朱野さんは天使から「少し待ってほしい」と伝えられているらしい。引継ぎにしても、指導にしても、そう大層なことがあるわけでもないから構わないのだが、放任というのも少し心配だ。もっとも、私から見ても、朱野さんは一人でも成長できるタイプだから、腐る心配は無さそうではあるのだが。
鳩場さんが去っていき、単語帳を開いたままお弁当の続きに箸を伸ばす。出汁の風味が香る卵焼きを口にした時、ふと隣席の空白が気になる。
少し寂しい。けれど、それだけだ。あれほど熱狂し、信仰し、大好きな彼女がいないというのに、彼女がどこにいるのか考えるでもなく、日常を過ごしている。
いや、そもそも日常というのも変なのだ。私にとっての日常は、天使がいて、天使を支えて、天使のことを考えるものだったはずだ。彼女のことを考えない時間なんて、ほとんどなかったはずなのに、どうしたことだろう。
だけれど、そんな自分が正しいのだと冷たい現実を俯瞰してしまう。自分のための努力をして、自分のために時間を使って、少しの空き時間に他人のことを考えて。大学はもしかしたら天使と同じになるのかもしれない。けれど、その先は? 就職して、結婚するのだろうか。家族が増えて、ご近所づきあいに悩まされて、そんな生活に、きっと天使は、愛ヶ崎天使という彼女は存在しない。
一日の休み。二日の休日。二週間の冬休み。一か月の春休み。それから先の人生。君のいない日が増えていく。いつしかそれは当たり前になっていく。それが日常にアップデートされていく。天使なんて、現実にはいなくて、それが現実の社会で。そんな世界に、そんな人生に私は進んで行くしかない。
生徒会長として、体育祭で閉会の辞を述べたとき、きっと彼女は天使でなくなった。一人の魅力的な生徒になって、偶像から外れた。それは天使という象徴に依存した生徒たちを、天使のいない世界で生かすため、次の世代へのバトンを渡したのだ。
天使の時代が終わり、生徒たちが新たな女神の誕生を期待している。天使は強烈な光であり続けているが、順応には抗えない。人は強烈な光に慣れ、その明るさは日常と化した。そして、だんだんとフェードアウトしていく光には無関心だ。いや、きっと反応することが無益だと分かっているからこそ、その終末を受け入れてしまっているのだろう。
どんなものもいつか終わる。いや、正確には、意味がなくなる。天使が天使であり続けることに、意味がなくなる。天使が光れば、その影を生きなければならなくなる。カリスマはありがたいものではなく、平穏を壊すトラブルへと変貌する。平々凡々な日々に、そんな日常に、ビビッドな噂話は必要ない。手のひら大の幸せで十分だ。
それは私も? 空席に問いかけても、私は頷くでもなくうつむくことしかできない。
きっとそうだ。君と話さないことに慣れていく。私が悲しまないようにと、関係性を疎にしていく君を受け入れてしまう。今日のように、君のいない日を意識することも無く過ごすようになる。
あるいはそれが、君の望んだことなのかい。だとすれば私は————。
それから、放課後になって私は生徒会室に寄った。氷堂くんに用事があると伝えると、少し意外そうに承知された。
生徒会室を出て、昇降口へ向かう。図書室ではなく図書館で集合なのは、すでに図書室が受験生で氾濫しているからだろう。もっとも、市立図書館もそうした状態は変わらないのだが。
廊下を歩いていると、生徒会室に用があるのだろう、影間さんとすれ違った。この時期でも変わらず仕事をしているのだろうか。
「こんにちは、藍虎さん。今日はもう帰るの?」
「ああ、クラスの人たちと勉強会をする予定でね。そういう影間さんは、監査委員の仕事かい?」
「うん、まあね。でも、資料運びだけ。ウチも引継ぎ中だから、こういう仕事を手伝ってるんだ」
「執行部も同じだよ。なんとか無事に引き継げそうで良かったよ」
「いつも通り、ちょっと波乱は起こりそうだけどね」
朱野さんと天枝くんの副会長争いを言っているのだろう。影間さんは、去年よりはましかな、と苦笑した。
「そういえば、藍虎さんはどこの大学に行くつもりなの?普通科だし、進学だよね」
「ああ、うん。N大の経済学部を受けるつもりだよ。執行部の推薦の話もあったけど、母親に止められてね。通えるところにしなさいって。学費自体はそんなに変わらないのにね」
「N大なんだ。それじゃあ、僕と一緒だね。ふふ、なんだか嬉しいな」
「影間さんもそうなのかい。やっぱり、結構人気なんだね」
影間さんは、上機嫌に資料を持ったまま、体を軽く揺らしている。
「そりゃあ、ここから近くて偏差値もそれなりで学部も多いからね。そうだ、良かったら二次の勉強、一緒にしない?選挙が終わってからなら、お互い楽になると思うし」
「ぜひお願いするよ。仲間は多い方が良いからね」
それじゃあ、と別れて、彼は生徒会室へ向かった。
私は、大学生活を少しだけ夢に見てみる。同じようにN大を目指しているクラスメイト達。同じキャンパスにいるだろうか、昼休みに今と同じように談話して、長期休みはどこかに出かけたりなんかして、お酒を飲んだり、サークルに入ったり、色んな思い出ができるのだろうか。
その景色に、どう思い描いたって天使がいないのはどうしてなのだろうか。どうして、それを幸せだと思えてしまうのに、こんなにも寂しくなってしまうのだろうか。
期待感と不安感の混じる空気を飲み込んで、私は急いで図書館へ向かった。
市立図書館に来るのは久しぶりだった。元々、それほど本を読む方ではなかったし、数駅先の図書館に行くよりも自室の方が集中できるタチだ。
図書館に着くと、すでにテーブルに見慣れた制服の生徒が数人集まっているようだった。冠凛に目で示され、私もそのテーブルに混ざる。
「針瀬さん……はともかう、怜亜もN大志望なのかい?てっきり私大に行くのかと思っていたけれど」
「廓田さん、碧と同じ大学に行くって張り切っているのよ?」
「うおお、れあちも私とおんなじだな!」
館内に響かないよう、小声でガッツポーズをした留木さん————はむちに、怜亜は穏やかな笑みを浮かべた。去年の生徒会選挙以来、話すことも少なかったが少し丸くなったような印象を受ける。夏頃には、所属しているテニス部での活躍を耳にしたから、上手く文武両道できているのだろう。
「あれから色々考えて、部活も精いっぱい最後まで頑張ってさ。やっぱり、碧と同じ大学行きたいって思って。その、迷惑だったらごめんなさい」
「迷惑なんてこと、ないさ。みんなで目指す、そのための勉強会だろう?」
私が微笑みかけると、怜亜も安心したように破顔した。
みんな。学校の友人、充実した生活だ。これでいいんだと、そう言い聞かせればいいだけなのに、ここに天使がいないことで酷く不安になる。
すでに机には赤本が並べられている。似た形式の他の大学の物や、教師たちに勧められたお勧めの年の物もある。その光景は、夏に見た天使の部屋を彷彿とさせた。
私は一体、何を願っているのだろうか。天使の幸せか、それとも、私の幸せか。彼女を救いたいのか、それともただ、救われたいのか。
錯綜した感情の答えは見つからないまま、私は君のいない日をそれなりに幸せに過ごしていく。何不自由なく、友人たちと前へ進んで行く。
夕暮れ泥む世界の灯は、まるで世界の終りの様な郷愁を覚えさせた。ざわめきたつ心を忘れるように、私は無心で教材に取り組んだのだった。