第七十二話 また昇る陽
・主な登場人物
愛ヶ崎天使:この物語の主人公。生徒会長。
藍虎碧:生徒会執行部副会長の女子生徒。天使の”友人”の少女。クールに見られがち。
神繰麻貴奈:二年一組の女子生徒。生徒会執行部副会長。機械のようなしゃべり方の上、表情がロボットのように変わらないが、血気盛んでギャンブラー気質。
遠野文美:二年一組の文学少女。生徒会執行部の書記を務める。マイペースな眼鏡っ子。
氷堂空間:二年三組の男子生徒。委員会には所属していない。成績優秀でクラスメイトからの信頼も厚い。丁寧な口調は口癖。
梶鳴テトラ (かじなり てとら):商業科二年の生徒。かなり明るいオレンジの長髪が目立つ健康的な少女。マイペースな性格で、コミュニケーション能力は高いが友人は少ない。
鳩場冠凛:三年一組のクラス委員長の女子生徒。静かな佇まいをしている。部活は運動部を転々とした後、現在は無所属。
三々百目ぽぽ:二年三組の少女。身長が二メートル近くある。睡眠で身長が伸びると困るので、なるべく授業で居眠りしないように努めている。
昨日までの秋晴れが嘘のように、どんよりとした雲が空に立ち込めている。今にも降り出しそうな鈍色の雲は、どうしたって心に影を落とす。
「昼過ぎから雨の予報だから、一応テントはいくつか増やしてもらえることになったよ」
「うん、良かった。晴れの日でも、設置してくれたらいいのにね」
「ははは、そうだね。今日で前例ができたし、来年からは増やしてもらえるかもね」
十月第二週の土曜日。一年生も三年生も、今日だけは勉強を忘れる体育祭だ。来週からの定期考査には、人事を尽くして天命を待つ者もいれば、体育祭で現実逃避する者もいる。
曇って薄暗いグラウンドで、テニスコートのネットに掲げられた一年生の応援旗を眺めながら、二人は静かに寄り添って歩く。雨の予報でも、応援旗は整然と掲示されている。
「体育祭の日が雨になるのは、十年ぶりだそうだよ」
「むしろ、ツイてるのかもね。晴れている方がずっといいけど」
話しながら立ち止まった生徒会長を、友人でもある副会長は振り返った。
「てるてる坊主はさ、雨が降ったら首をちょん切るんだよ」
言葉の先には、一枚の応援旗が悠然と掲示されている。羽の生えた、けれど顔と手の無い女性のような物をモチーフにした、簡素だが勢いのある旗だ。大理石のような色合いの白い体躯は、どんよりとした世界では輝いて見える。
「……怖い話はよしてくれよ。それに、雨が降るなんて、君はこれぽっちも思っていないのだろう?」
無邪気な笑みで応えた生徒会長に、副会長はやれやれと頭をかく。結局のところ彼女は、初めて会ったあの日から、そう変わってはいないのかもしれない。けれど、世界はどうしたって変わっていく。日々は進んで行く。新しい翼の描かれた旗に、どこか懐かしく、少しだけ寂しさを感じた。
顔の無い、腕の無い女神に、人はどんな夢を託すのだろう。疎まれ、壊れた先で、それでも残った光。彼女が船頭に降り立つのはきっとまだ先だが、すでに萌芽は感じられる。あの時、私が天使に感じたように、新たな物語が始まっていくのだろう。
軽快な足取りでグラウンドを踊るように歩く親友に、穏やかなに顔が緩んだ。
世界は続いていく。私たちは進み続け、灯は開拓を照らす。けれど、私たちはいつか終わる。短いようで長かった三年間も、絶望と希望に苛まれたあの一月ですらも。
私にできるのは、見届けることだ。触れることもままならないはるか遠くの君を、けれど確かに、誰にも代えがたい私として、君の隣で。
重たい雲の下、九時のサイレンと共に生徒たちは入退場門に整列した。グラウンド四隅の実行委員からの合図を確認して、私と天使は朝礼台の前で肩をそろえて並び立った。会場はさっきまでの喧騒が嘘のように、静寂に満ちている。それは期待感というよりも、重苦しい空気にあてられて、晴れ間を待っているように思えた。
ちらりと天使が私を見る。生徒会執行部の仕事は、体育祭が一年の区切りと言える。大きな仕事はこれ以降には無く、実質的な活動の総決算だ。こうして天使と肩を並べた共同作業は、きっともう無いだろう。
「行くよ」
「ああ」
短い言葉に、短く返す。それだけで十分だ。私たちはグラウンドの真ん中へ駆けだし、耳を腕で押さえて号砲を空に掲げる。乾いた炸裂音が二度鳴り、それを合図に吹奏楽部のファンファーレが始まる。行進し始めた生徒たちを確認して、私たちはテントの方へとはけていった。
始まる。高校生活の、私の青春の終局が。学校を導き、生徒を奮わせ、誰もに讃えられた天使の結末が。
校長の長い話が終わると、体育祭の実行委員が静かに壇上に上がり、マイクの高さを整えた。実行委員に軽くお辞儀をして、小柄な副会長は壇上に進み出た。
「皆さん、おはようございます。本日はあいにくの天候ではありますが、これまで各クラスが今日のために努力し、協調してこの場を作り上げ、成功を思ってきたことを私は目にしてきました。保護者の皆様も、本日はご足労いただきありがとうございます。今日まで研鑽してきた生徒たちの雄姿、そしてその思いのぶつかりをぜひともご覧いただければと思います。生徒会執行部副会長、神繰麻貴奈」
司会の号令で生徒たちは礼をした後にまばらな拍手を送った。炎天下で練習を行った分、今日の涼しさは士気をも下げてしまっているらしい。
「続いて、選手宣誓。代表の生徒は、前に出てきてください」
落ち着いた声の司会に、三年生の列から身長の高い少女が駆け足で進み出てくる。不愛想な表情だが、体育会系らしく、手慣れた様子だ。朝礼台には、校旗を携えた生徒会長が曇りでも見紛わない存在感を放っている。例年では校長の役回りである宣誓を受ける場所は、校長直々の提案で天使に代わった。その意図するところは不明だが、生徒の中にそれを不安に思う者はいないだろう。
凛とした少女が二人、向かい合う。高さは違うのに、まるで真っ向から向かい合っているように感じられる。
天使が校旗をつかんでいた手を離すと、旗が重力に従う。布地が地面につかないうちに、天使は校旗を空に掲げた。鋭い棒頭が天を指すと、細い光が天使の足元に落ちた。まるで啓示が現れたように、彼女が旗を掲げた瞬間、雲間から光が差し込み、朝礼台を照らした。正面で見ていた生徒は、思わず息を飲み、選手宣誓の言葉を待つ。
代表の女子生徒が拳を掲げると、朝礼台の晴れ間が広がり、空に晴れ間が現れた。
「宣誓!我々、選手一同は、これまでの練習の成果を十二分に発揮し、クラス、学年の垣根を越えて高め合い、全ての経験を明日へとつないでいくことを誓います!」
厳粛な静寂には、カメラのシャッター音が良く響く。たっぷりとした間を取って、宣誓の生徒たちは戻っていく。
「続いて、準備体操です。生徒の皆さんは、体操の隊形に広がってください」
綱引き、玉入れと順調に競技は進んで行く。基本的に裏方の仕事ばかりで、執行部の生徒は例年、最低限の競技にしか出場しない。昨年度、天使は一種目も出場しなかったし、私もクラス対抗リレーと学年種目の組体操にしか出場していない。相補する形での出場になる綱引き、玉入れへの出場が無いのは執行部の生徒だけだ。
しかし、それでは生徒たちを導くはずの執行部が体育祭を楽しんでいないという声もあり、出場種目に少しの変更が加えられた。その一つが部活対抗リレーである。
部活対抗リレーは、その名の通り部活ごとにチームを組みリレーを行う競技だ。毎年、事前に組み分けが成され、組ごとに出場人数やレーンが決められる。とはいえ、各部の持ち込み道具の関係で、第一走者からオープンレーンとなるため、レーン決めにはあまり意味がない。
生徒会執行部は、今年度からこの部活対抗リレーに出走することになる。二組目に振り分けたのは、他ならない天使だと聞いて、私は頭が痛くなったものだ。
午前の部最後の種目となる部活対抗リレー。一組目がエキシビションじみた多様な個性を出しながら、ゆっくりとゴールしていくのを見ながら、私はようやく入場門に整列した。
「あら、もう出発よ。ずいぶんと余裕なのね」
陸上部と野球部に挟まれた列の中から、鳩場さんが笑いかけてくる。彼女は帰宅部として出場することになったらしい。正直、どんな経緯か気になるところだが、追及するほどのことも無いだろう。
「そんなことないさ。気負うものが少ないというだけでね。ほら、私たちは走力にそれほど自信があるわけじゃないし」
「まったく、ハンデも貰っているのに弱気ね」
「運動部の強さを買っているのさ」
今年度の執行部は全員が女子生徒だ。きっちりと足の早い短距離種目を専門としている生徒で固めてきた陸上部や、男子生徒の中でも走りに自信のある生徒を集めた野球部やサッカー部とは、当然勝てるべくもない。そのため、レース展開や盛り上がりも考慮して、執行部は半周のハンデをもらっている。具体的には、本来三四走者が一周走るところを、第三走者(これは私なのだが)は一二走者と同様に半周走ることになる。天使曰く、スタート位置が違う分、スタートが遅れるし良い調整でしょ?とのことだ。
「まったく、それなら運動部の屈強な皆さんと走ることになる僕の気持ちも考えてほしいものですよ」
「まぁ、これもエキシビションみたいなものだし、あんまり気負うもんでもないさ」
帰宅部の第一走者である氷堂が肩をすくめると、同じく第一走者の陸上部部長が優しくたしなめた。今日ばかりは練習用のシューズではなく、登校用の白い靴のようだ。見れば、陸上部の生徒は全員同じ靴でそろえているようだった。
「運動部でそろえようって話になったんだよ。まぁ、ハンデってことでさ」
「へぇ。随分な自信ね」
私の目線に気づいたのか、サッカー部の第三走者である男子生徒が教えてくれた。鳩場さんの皮肉には、肩をすくめて、彼はグラウンドの方を向く。
入場が近づき、私は横の生徒に合わせるように駆け足の位置を調整する。前種目の片づけの関係で、執行部で入場するのは私だけなのだった。
休憩前だからか、やる気のある歓声の中、予行通りに入場を終え、私はレーンの外で待機する。執行部の第一走者である遠野さんがレーンに入り、私は他のチームの第二走者と共に待機所でレース開始を待つ。
スタート間近になると、どうしても不安が押し寄せてくる。リレーの、それもあまり遊びの無い組だ。部活対抗リレーの二組目は、例年、運動部の対決となる。今年度は、帰宅部の一部の生徒から申請があったために、執行部も加えてややお祭りに近い状態にしようという形になったのだが、結局のところ、執行部だけが走力に自信が無いということに変わりはなく、私は天使に渡す以前に自分が醜態を晒さないかと不安だった。
いや、これは単なる驕りから来る感情だ。執行部は負けないのだと、執行部はいつだって勝つものだという自信が、かえってプレッシャーになっている。運動部に運動で勝てるわけもないのに、妙な自信だけが邪魔をしているのだ。
しかし、なぜ天使はこんなさらし首のような提案を受け入れたのだろう。油断すれば文化祭での発表がぶり返して、無関係に恥ずかしくなってしまう。
新聞部によると、事前の集計では勝利予想はほとんど均等だったそうだ。半周のハンデがどれだけ左右するかだが、追いつかれてしまった後で抜かすことは絶望的だろう。とはいえ……後輩たちの運動能力の低さは察するところだ。遠野さんは急いでいるところを見ないし、神繰さんはアクティブでいて運動神経はあまり良くない。
「まぁ、やるべきことをやるだけ、か」
呟いて息を整える。すでにグラウンドはスタート前の静寂に包まれていた。
ピストルの音、視界の奥で一斉に走者が動き出し、少し遅れて遠野さんも動き出す。歓声は一気に湧き出し、思い思いのチームを応援する。
半周という短い距離ではやはりそう差が出ないのか、団子になった状態で第二走者へとバトンが渡る。バトンの妙か、陸上部がわずかに先行し、その後ろを鳩場さんが追う。予想よりもかなりの健闘具合で遠野さんはすでにバトンを渡し、神繰さんが走り出していた。不格好な走り方は、後ろから追ってくる陸上部の生徒と比べると、余計に際立って見えた。しかし、真剣な表情からは、負けたくないという思いが伝わってくる。
神繰さんが回ってくるのに合わせて、私はレーンに入る。気付けば、半周の差はすでに詰まり、バトンに少しもたついた陸上部を置いて、帰宅部の第三走者が走り出していた。この調子だと、私に回ってくる前に追いつかれてしまうかもしれない。
焦りすぎないように気持ちを落ち着かせながら、選挙区を見ていると、やはりカーブが終わる寸前で神繰さんは追いつかれ、並走する形でレーンに入った。後ろには陸上部の姿も見えている。
「先行くよっ麻貴奈!」
鮮やかな髪の残像を作りながら梶鳴さんが、減速することなく私の横を駆け抜けていく。私は、神繰さんが渡せるぎりぎりを保ちながら、遅れないようにバトンを受け取り、走り始めた。このくらいの差なら、離されたりするものか————。
「ありがとう、頑張ったね、神繰さん!」
「お願いします、碧先輩っ!」
疲れているようには見えない表情で、しかし全身全霊を使い果たした声で、神繰さんに託される。スタミナを消耗している梶鳴さんは、スピードが落ちているはずだが、それでも追い抜かせるほどの距離ではなかった。自分の不甲斐なさに歯噛みしながら、曲線を走る。後ろから迫ってくる足音が緊張を掻き立てるが、今は構っている場合ではない。
「ぽぽっ!行けるよ————」
軽快な走りの梶鳴さんは、一向にばてる様子も無く走り抜け、アンカーの三々百目さんにバトンが渡る。走り慣らされた土がさらに抉れるほどの脚力で駆けていくその後ろ姿を見ながら、最後まで気を抜かないように足を動かす。
「天使っ!」
軽くほほ笑んで背を向けた彼女に、絶対の自信を持ってバトンを突き出す。持ち上がってきた彼女の手に、間違いなくバトンが渡り、天使との距離が縮まることも無く、完璧なパスがつながった。酸欠で朦朧とする中で、トラックの中に入り、息を整える。遅れてきた陸上部も、アンカーにバトンが渡り、その後ろを追う。
トップを走る三々百目さんは未だに独走状態だ。巨躯故か、グラウンドのきついカーブを走りづらそうにはしているが、それでも速い。天使はじりじりと距離を詰めているようではあるが、それも私の期待から来る錯覚かもしれなかった。
半周が終わり、直線で天使がスピードを上げる。ストライドの長い三々百目さんよりも滑らかに感じる動きで、天使は距離を詰めていく。無駄のない動きは思わず美しいと感じてしまう。しかし、抜かしきるには至らず、競ったままカーブに入ってしまう。三々百目さんの体格では、カーブで抜かすためにはかなりの迂回が必要だ。とはいえ、直線まで体力を温存させれば追いつけなくなってしまうだろう。
「天使、行けぇぇ————————!!」
カーブを終えた二人に、思わず力の入った声が出る。走り終えた生徒たちも立ち上がって応援を始めていた。全員の注目が一位争いに集まっている。少しの波乱でもあれば、たちまちに天使は一位に躍り出るだろう————。
しかし、結局差し切れないまま三々百目さんの体に白いゴールテープが巻きついた。アドレナリンが切れたように、全身の力が抜けて、私は肩を落とす。
「ぽぽっ!やったね、帰宅部ばんざーい!」
「…………ええ、そうですね」
息を切らしながら、三々百目さんと梶鳴さんがハイタッチをする。
私は、膝に手を付いて荒い呼吸をする天使の元に駆けより、背をさすった。午前最後の種目のため、退場せずにこのまま昼休憩だ。そう焦らせる必要もない。
「大丈夫かい?」
天使は地面を向いたまま、背を上下させている。そして、深く深呼吸したかと思おうと、唐突に体を上げた。
「負けた~~~!」
天使は清々しい様子でそう空に叫んだ。天使が元気そうな様子を見て、梶鳴さんたちも集まってくる。
「ふっふ~ん。帰宅部の勝利~」
「私が帰宅部かは怪しいところだけどね」
三々百目さんがそう呟くと、梶鳴さんはいいじゃんいいじゃんと笑う。
「ウチの陸上部、大したことないね」
「おいおい、梶鳴って、あの梶鳴テトラか。そんなに言うなら、陸上部に入ってくれよ。部員募集中だからさ」
「うふふ、本当に弱小部だから、陸上やるならクラブチームに行った方がいいわよ、梶鳴さん」
「お前もいきなり辞めやがって……まぁもういいけどさぁ」
次第に天使の周りに走者たちが集まりだし、雑談を始める。天使も笑顔で話に混じり、まるでリレーの疲れを感じさせない。まるで手を抜いていたようだという考えが頭によぎったが、すぐに追い出す。仮にそうだとしても、それはきっと天使が望む結末のための布石に違いないのだから。
午後の部が始まり、幸いにも応援合戦はつつがなく進行した。どのクラスも応援合戦らしい、どこかこうした行事に熱くなっていた頃を思い出させる演技だった。
クラス対抗リレーが始まると、私と天使は生徒会席で席に着いた。リレーの準備は実行委員に任せている間に、しばしの休憩だ。騎馬戦にも出ない天使は、フォークダンスまでは休憩ということになる。
「今年は司会、やらないのかい?」
丸背先輩を思い出す落ち着いた声のアナウンスが聞こえ、天使にそう尋ねる。
「うん。あ、でもどうせなら女神ちゃんにやらせてみるのはどうかな」
「朱野さんに?いや、さすがに無茶ぶりすぎる気がするよ。天枝くんでもそこまで場慣れはしていないだろうし」
「それもそっか……そうだよね。ごめん、今のは冗談」
気の緩んだ様子で体を傾げる天使に、私も深くは追及しないことにする。きっと天使は、自分の基準で口にしたのだろう。生徒会長になる、経験を積んでよい生徒に育てる。そのためにはどんなステップを踏むべきか。彼女のこれまでは、天使にとってはやりたいことであり、出来ることであったのだろう。けれどそれは、誰もが模倣できる経験ではない。そのことを、今の天使は誰よりも意識している。天使の特別さを、他ならない天使自身が理解している。その上で、天使に代わるナニカを残そうとしているのだ。
「そうだ、天使。今日って、カメラマンの人も来られているんだよね。良かったら、片付けの前に記念に写真を撮ってもらおうよ」
「あ~……うん、いいね。多分、号砲のとかいっぱい写真はもらえると思うけど、オフショットも撮ろうか」
自分で言っておいて、カメラマンに撮られた写真は後で掲示板に貼られ、購入することになるのだと気づく。去年は写真を買っている余裕が無く、その前は何も考えずに天使の写真をすべて買っていたから気が付かなかったが、二人の写真が全校生の前に張り出されると思うと、どこかプライバシーを踏み荒らされるような気分だ。とはいえ、生徒会の二柱として、欲しがる生徒も(あるいはかつての私のように)いると思えば、最後の行事の思い出にしても良いのかもしれない。
「最後の思い出だね」
ぽつりとつぶやいた言葉が、存外に重たくて、私は失言だったと後悔しそうになる。
「そうだね。最後、だからね」
天使も静かにそう呟いた。
「そうだ、思い出と言えばさ。フォークダンスの流れ見た?あれ酷いよね、私が全員と一回ずつやるように調整されてるんだよ」
珍しく口をとがらせて愚痴る天使に、自然と笑みがこぼれる。少し湿気たテントの影の下、こうして天使と話す時間がずっと続けばいいのにと思った。だけどそれはあまりにも強欲なことで、もう十分に私は君に幸せにしてもらったんだと、そんな青春の走馬灯はすぐそこに迫っているのだった。
それから、騎馬戦を終え、組体操もつつがなく進行すると、フォークダンスの時間になった。天使は一人だけすごい速度でペアが変わっていき、私の前にもほんの瞬くほどしか踊らなかった。
結局雨は降ることも無く、むしろ驚くほどの晴れ間の広がりで閉会式までやってきた。生徒たちも、朝の落ち込みようが思い出せないほど生き生きと楽しそうだ。
各学年の得点が発表され、優秀だったクラスに表彰が行なわれた。三年一組はあまり芳しくなかったようだが、クラスメイト達はあまり気にしていない様子だ。天使が各学年の表彰を終え、改めて朝礼台の上に立った。生徒会長としての最後の仕事、閉会の辞だ。
天使がマイクを調整して、司会のアナウンスと共に礼をすると、会場が静かな緊張感に包まれた。それはこの祭りが終わるのだという寂しさなのかもしれないし、太陽が雲に隠れるような不安なのかもしれない。そんな陰りを吹き飛ばすように、天使は笑う。
「皆さん、本日はお疲れさまでした。今日は雨の予報でしたが、こうして皆さんの思いが届き、無事ハレの場となりました。皆さん、今日は楽しかったですか?」
天使の言葉に、校舎の窓ガラスが割れんばかりの声量でたくさんの歓声が飛ぶ。天使は子供をあやすような優しい笑みを浮かべた。
「それは何よりです。これは私事、いえ生徒会執行部事になるのですが、先日、一二年生で台典西高校の皆さんと合同体育祭を行ない、そちらでも素晴らしい思い出ができたと伺っています。合同体育祭の主導は執行部、と言っても一二年生でした。現在、副会長を務める麻貴奈ちゃんと、今日司会を務めてくれた書記の文美ちゃん。それに、皆さんもご存じですかね。一年生の朱野さんと天枝くんも功労者です」
パチパチと合同体育祭の成果を讃えるように拍手の音が聞こえ始める。
「今期の生徒会執行部の活動は、この体育祭が終われば大きな物は予定されていません。つまり、こうして皆さんの前に執行部が次に立つときには、新しい生徒会長になっているということです。十二月には生徒会選挙が行われ、皆さんの清き一票が明日を作ることでしょう」
殊更に生徒会執行部の、天使のという生徒会長の終わりを思わせる言葉に、冷たい空気が流れ始める。みんな不安なのだ。天使がいなくなることが、上がり続けていたその背が、落ちていくことが。
「なんだか、少し寂しいですが、今日の体育祭も、この閉会の辞を以て終幕となります。ですが……そうですね。こんな噂話を知っていますか?」
天使の言葉に、この場にいる誰もが耳を傾け、神経を研ぎ澄ませる。
「————この学校には、天使がいる。天使に微笑まれた者はあらゆる願いが叶う、なんて。そんな噂話です。残念ながら、私はその天使とやらに会ったことが無いのですが、でも不思議とどこかにいるんだということを疑ったことはありません。それは二階の女子トイレだとか、理科室だとか音楽室だとか、そういったことではなく、きっとそうして願いを強く思い、願いのために努力し、協調して前に進もうとする人の心に現れるのだと、私はそう思います」
まるで、自分は天使ではないような言い方で、生徒会長は胸の前で手を合わせた。
「今年の生徒会執行部の任期も終わり、私も生徒会長としての役目を終えます。ですが、きっと……いえ、必ず、天使はいつまでも皆さんの心で輝き続けるでしょう。今日という日の思い出が、いつまでも記憶の中で輝き続けるように。それでは、少し長くなってしまいましたが、以上をもちまして閉会の辞とさせていただきます。最後にはなりましたが、行事の開催を支えてくださった先生方、生徒の皆さんを見守ってくださっている保護者の皆様に、改めて一層の感謝を述べさせていただきます。本日はありがとうございました」
天使が頭を下げると、拍手の音に司会も読み上げを躊躇した。たっぷりと間を取って頭を上げた天使が壇上から去ると、ようやく会場が静かになった。
「これをもちまして、台典商業高校体育祭を閉会します。生徒の皆さんは解散してください」
執行部席に座っていた私も、片付けのために席を立つ。すべてを片付けてしまえば、ついにすべてが終わる。生徒会の任期もあとわずかだ。そして、この学校で過ごす時間も、天使といられる時間も。
ずっと一緒に居たいなんて子供みたいな願いは、もう抱かない。けれどどうしたって寂しくて、せつなくて、苦しくて。それでいいんだと思うのは、きっと明日で良い。
「碧~、写真、撮るんじゃなかった?」
「ああ、今行くよ」
明日も人生は続く。灯は私たちを導く。けれど、その光は私には掴めなかった光だ。辿りつけなかった光だ。落陽の後で昇る朝日は、必ずしも同じ暖かさを与えてはくれないけれど、私はあの光の暖かさを知っている。あの光の眩しさを知っている。だから、前に進んで行けるのだ。
人はいつだって、やるべきことをやるだけだ。それが運命で、人生で。ああ、でもなんて難しいことなのだろう。自分の至らなさに歯噛みしても、きっとそこに意味なんてない。
ありがとう、さようなら、みんなの天使。きっと新たな陽は昇る。それは君ほど眩しくないけれど、きっと同じくらい暖かいことだろう。