第七十話 私とあなたと女神の話
・主な登場人物
朱野女神:一年三組の女子生徒。記憶力が良く、一度見た物は忘れない。興味の無いことには無頓着。
朱野結日:一年四組の女子生徒。女神の双子の妹。学力はそこそこだが、姉よりも運動神経が良い。
天枝優栄:一年三組の男子生徒。自信家だが真面目な眼鏡くん。
この世界には、神様がいる。
神様はいつも、私たちを見守ってくれているから。だから、大丈夫。
その言葉が、ほんの一瞬だけ自分を安心させるための、優しい方便であることは、すでに高校生にもなる少女にはとっくに分かっている。けれど、今でも少女にとって、その言葉が心に残っているのは、誰よりもその実在を少女が信じたいからなのだ。
目を閉じれば、幼い日に背に回された姉の腕の温かさが、頭を撫でる手の優しさが、今でも蘇る。大丈夫と抱き寄せてくれたあの日、確かにそこに女神はいたのだ。
賢くて、かっこよくて、可愛くて、頼りになるみんなの女神。だけど、私の前ではお転婆で、おっちょこちょいで、いつも照れたように笑う私だけの女神。
あなたが私を愛してくれるように、私もあなたを愛しているだなんて言えるほど、私はあなたに何も返せていないのかもしれないけれど、それでも、あなたが幸せでありますようにと、私はいつも祈る。悪夢に喘ぐ手を取って、いつか私の手を引いてくれたように、落ち着くまでそばに居るから。
当たり前のように流れる日々は、深い傷すらもいつか洗い落としてくれる。そうして、私は『普通』に馴染んでいける。人込みに流されて、いつしか繋いだ手の温度も忘れて、空も見えない雑踏の中で、私は、『普通』に生きていく。どうか当たり前の幸せが、私たちを包んでくれますようにと、私は女神に静かに祈る。
あれほど待ち遠しかった蝉の声に、気が滅入るようになった八月中旬。世間の例に漏れず、台典商高も夏休み期間となっている。大学受験を控えた三年生の多くは、夏期講習を受講する者や、スポーツ推薦のために部活動に励む者、市外の塾に通うものなど様々だ。一二年生のほとんどは、そうした人生の分岐点はまだ先のことだと言わんばかりに、長い休みを謳歌している。
そうした生徒たちの休暇の間、台典商高生徒会執行部は、来る合同体育祭に向けて、休日を返上しつつ企画を擦り合わせていた。
早くも次代となる二年生が主導となり台典西高校へと向かったのは、三年生の多忙さが原因というだけではない。九月という受験における意思決定においても勉強スケジュールにおいても大切な時期。秋の退屈さを紛らわせる、生徒たちにとってはオアシスのような行事であるとしても、未来とは替えがたいものである。受験担当や三年生の学年団教師との協議の結果、合同体育祭は各校の一二年生で行われる形で合意となった。それぞれの生徒の交流や今後の関係性に重点を置くならば、差支えの無い形態ではある。もちろん、ついでに教師陣から提案された、三年生の合同勉強合宿の案が否決されたのは言うまでもないだろう。
もう夕方だというのに残留したままの熱気と湿気にうんざりとしながら、台典商高生徒会執行部は近くも遠くも無い友人校の生徒会室を去る。
「それでは、明日もよろしくお願いします」
「ええ、また明日。それでは、僕もこちらですので」
「はい、また明日」
駅前で先輩たちと別れて、私は天枝と二人になる。いつもならば、電車に乗らないこいつも、ここで別れるはずなのだが、なぜだか今日はその気配がない。
「帰らないの?」
「ああ……いや、すまない。少し、考え事をしていただけだよ。夏の夕暮れというのは、どこか物寂しくなるものでね」
「ふぅん、珍しいこともあるんだ」
私が、それじゃあと言って天枝と別れようとしたところで、駅の方から私を呼ぶ声がした。それは私の待ち人でもあり、折悪くとしか言いようのない妹の声である。
「もう、結構待ったんだからね?って、あれ、天枝くんだ。もしかして、お邪魔しちゃった?」
「してないから、ほら、さっさと行くよ」
文化祭を終えて、執行部の仕事だからと天枝との会話を仕方なくするようになってから、結日は、さらに私と天枝の仲を茶化すようになった。それはある意味で、高校一年生という青春の日々を生きる妹にとっては、普通のことなのかもしれない。
「相変わらず、姉妹で仲が良いようで何よりだねェ」
「それはどうも。それじゃあ、私たちはもう行くので」
嫌味っぽくそう告げて結日の手を引くと、彼女は何か思い付きでもしたような様子で、私を見つめて立ち止まっていた。
「結日?」
「ねえ、天枝くん。もしかして、この後暇だったりする?」
「結日……?」
「あァ、別に用事などは入れていないが」
「それじゃあ、ちょっとだけ付き合ってもらえませんか?」
突拍子も無くそんな誘いをした結びに、私は慌てて彼女の肩を掴んで天枝に背を向ける。
「ちょっと、結日!今日はお祈りの日でしょ?」
「いいじゃん、天枝くんも一緒に行こうよ。私、前からお姉ちゃんの彼氏がどんな人か、話してみたかったんだよね~」
「彼氏じゃないし!それに……」
私は口惜しく天枝の方を振り向く。不思議そうな目で私たちを見るこの男の口からは、断る言葉が出て来そうにもなく、私は静かに頭を抱えた。
電車で数駅。台典市内の雑居ビルの中に、その場所はある。市内に数か所ある貸しスペースの一つで、午前中の適当な時間に管理人数名のうちの誰かが鍵を開けて、大抵は何かの作業をしている。くどくない匂いのアロマが焚かれ、別世界というよりも、落ち着いた自分だけの世界のように感じられる空気が漂っている。
「こんにちはっ」
「はい、こんにちは。ムスビちゃんに、メガミちゃん。それと……」
「メガミちゃんの彼氏の……スグくんですっ」
楽しそうに天枝を紹介した結日に、私は軽い頭痛を覚えながら、婦人に微笑みを返した。場の空気を探るように訝しげな表情の天枝に、私は目で軽く謝意を伝える。
「どうも、ええと……スグと言います。ここは一体……?」
「あらあら、そう硬くならなくても大丈夫よ。ほら、どうぞ座って」
『アムネシア』では、それぞれがニックネームのような短い名前で呼び合う。それは本名でも構わないし、適当な言葉でも構わない。結局のところそれは記号であり、この場での名前以上の意味は持たないのだ。名前が仮であるように、関係性もこの場限りの嘘でも構わない。私と結日は、ここにいる間は友人として見られているし、それ故に天枝が彼氏だと言われても、否定するよりもそういう体でいた方が楽なのだ。
「それじゃあ、まずはお祈りから始めましょうか。スグくんも、見よう見まねで良いからね」
輪になるように椅子を並べて、それぞれ座る。婦人——ここではミハルさんと呼ばれている——は、いつも通り可愛らしい服を着せられた人形を膝の上に乗せた。
手を軽く交差させて甲を合わせる。敬虔な信徒が十字を描くように額にそっと右手を当て、そっと瞳を閉じる。薄目で見た天枝は、戸惑いながらも動きを真似ていた。
「天使の名による祈りを」
「天使の名による祈りを」
ミハルさんの言葉に続いて、つぶやくような声で復唱する。これと言って意味のあるわけではない祈りの言葉。けれど、形式的なものとしてこのコミュニティを繋ぐ合言葉のような物だ。なんて、穿った見方をしてしまうのは、私がどこかこの場所に対して気が引けているからなのだろう。妹を寝かしつけるベッドメリー。氷堂先輩の言葉は、あながち間違いではないからタチが悪い。
「それじゃあ、私から話します。えっと、今日は友達と夏休みの宿題をしました。まだ一学期なのに、高校の勉強って難しくて、分からないことばっかりなんですけど、でも友達が教えてくれてちょっとずつですけど、成長している気がします」
「あらあら、良かったわね。私も学生の頃は随分と苦労した記憶があるわ。お友達と言えば、メガミちゃんとはお勉強一緒にしないのかしら?」
結日の話に優しくほほ笑んだミハルさんは、私に話題を投げかける。
「ええ、時々は……でも、ムスビは私に教えられたがらないので、本当に困ったときだけですね」
「だって、教えるの下手なんだもん」
「ハハハ、女神く——メガミちゃんは、感覚派なところがあるからねェ」
少し緊張の解けた様子の天枝の言葉に、私はクスリと笑う。律儀にメガミちゃんと言い直すところがいつもと違って落ち着きが無く滑稽だ。
「スグくんが理論派なだけでしょう?」
天枝に微笑むと、返す言葉も無くなったのか、喉だけを動かして返答はない。
「あらあら、二人は仲が良いのね。ムスビちゃんも、学生の頃のお友達は大事よ。私の夫も、学生からの付き合いだったもの」
ミハルさんは愛おしそうに人形のヘッドドレスを撫でながら諭した。穏やかな曲の流れる部屋では、靴下がタイルカーペットに擦れる音も聞こえてくるほどだ。
「家族ももちろん大切よ。でもね、学生の間は、お友達といる時間も同じくらい長いもの。家族と同じで、一緒にいる時間を大切にしないと、愛情も友情も育まれないわ。……なんて、今更二人には言うことじゃなかったかしら」
私は、そんなことはないと軽く首を横に振って示す。
「スグくんは、ご家族とお話しする時間はきちんとあるかしら」
話題を振られた天枝の手が、膝の上で軽く握られたのが分かる。
「ええ、時々ではありますが。父も母も、仕事が忙しそうではありますが、僕のことをよく見ていてくれていると、そう感じています」
「そうよね。スグくん、とっても真っすぐに育てられたんだって分かるわ。ご両親もきっと、きちんとした方なのでしょうね」
「はい、自慢の家族です」
満足げにミハルさんは微笑む。穏やかな沈黙に、時計の音だけが響く。
不意に、静寂を裂くように扉を開ける音が玄関の方から聞こえ、数人の足音が静かな話し声と共に近づいてきた。
「あらあら、ムスビちゃん。今日はメガミちゃんも一緒なのね」
「お久しぶりです。最近、学校が忙しくて来れなかったので、なんだかとっても懐かしい気持ちです」
「文化祭、見に行ったわよぉ。頑張ってたじゃない。なんだか、私すごく感動しちゃってね————」
仕事終わりなのだろう、さらに数人の常連の婦人たちを加えて輪は広がっていく。いささか勢いに飲まれそうになりながらも、天枝もだんだんと馴染み始めていた。
「それじゃあ、結日。私、ご飯買ってくるから、良いところで切り上げてね」
夕方と夜の間になって、大きな輪が小さな複数の輪に別れたころ、私は荷物をまとめて妹にそう声をかけた。いつも通りの軽い応答に私は頷いて『アムネシア』を後にすることにした。
「それなら、僕もこの辺りで失礼します」
「またいつでも来て良いのよ」
「ええ、ぜひ。……天使の名による祈りを」
天枝は軽く手で示して頭を下げると、彼氏役になり切っているのか私についてきた。
それから、行きつけのスーパーマーケットに向かった私に、天枝は特に話しかけてくるでもなく付いてきた。灰色の買い物かごを私が手に取ったところで、ようやく天枝は口を開く。
「少し、説明してほしいのだがねェ、さっきの場所は一体何なんだい?君や妹さんの趣味や私生活のことにとやかく言うつもりは無いが、その、どこかあの場所は危うい気がしてしまってね」
少し小さな声で、天枝はそう言葉を選んだ。私は足を止めないように、半額の総菜を手に取りながら答える。
「別に、変な場所じゃないよ。地域住民の交流の場所みたいな感じで思ったらいい。危ういって言っても、もう何年もお世話になってるけど、今日みたいにお話しするだけの場所だよ」
「と言うがね……。あの婦人、ミハルさんだったか。優しげな様子だが、どこか……不思議な風だ。それに、他のご婦人方もだね……」
「『アムネシア』には、そういう人たちが安心を求めて来るんだよ。何かを失った人、傷ついて、それでも立ち上がろうとする人。そんな人たちが手をつなぐための場所なんだと、私は思う」
「……なら」
ふいに立ち止まった天枝に、私は振り向く。ぐるりと売り場を回った野菜売り場には、人は少なくなっていた。
「なら、どうして君はその手を繋ごうとしないんだ。誰かに触れることを恐れたままでいるんだ」
閉店間際の陳列棚は、ほとんど商品が無い。私はがらんどうの冷気に手を伸ばして、呟いた。
「理由が分かれば、あなたは私の手を握ってくれるの?それとも、いつもの分かったふりで、私には興味を無くすのかな」
エアコンの効いた店内で、じんわりと湿った手の中に冷気が入り込む。手を軽く握ると、肌の熱で冷気は揉み消えていく。それでも私は覚えている。雨の中繋いだ、妹の小さな手の温度を。暗闇の中撫でた、妹の髪の触感を。
「僕は君に同情しないし、君を救いたいとも思わないさ。だけどね、君の隣を歩みたいと思うし、君に隣を歩んでほしいと思う。だから————信頼してほしい。共に台典商高を支え導く友人として」
不安げに少しだけいつもより震えた声で、けれど自信気な様子を装って言い切った天枝がどこかおかしくて、私は思わずクスリと笑う。いくつかの総菜が入ったかごを持ってレジに行き、かばんに畳んで入れていたマイバッグに詰め直す。会計を終えて店を後にして、駐輪場に面した入り口のベンチでようやく一息を吐いた。
「面白い話でもないし、特別な話でもないよ」
私はそう前置いて、軽く頷いた天枝に、ぽつぽつと話してみることにした。それは彼を信用したからというわけでもなく、『アムネシア』で話し足りなかったからでもない。少し愚痴を言うような、そんな気軽さで、私は少しだけ、昔の話をする。
「私の親、再婚しててさ。幼稚園と小学生の時に、合わせて三回。その度にあの人は運命の人だとか言ってさ。それで別れてるんだから、どうしようもない人なんだよ、本当に」
親が離婚して、家庭がバラバラになって、でも思っていたほど世界は大きく変わるわけではなくて。普通に学校に行って、普通に友達と遊んで、少し気まずそうに私の名字を言い直す友達に、「ああ、もう私はお父さんの娘じゃないんだ」と思わされた。
「離婚のときは、育児を任せられないからって私たちを無理やり引き取ったくせに、新しい男を見つけたら私たちは邪魔だって忌み者みたいに扱って、本当に自分勝手な人間。夜になってどこかにいなくなるまで、家にも入れてくれなくてさ。ああ、でもおかげで『アムネシア』にも出会えたんだっけ」
偶然出会ったミハルさんに連れられて、まだ小学生だった私たちを『アムネシア』は優しく迎え入れて、辛いことを思い出させないように楽しませてくれた。それはずっとお姉ちゃんだった私がしてきたことで、私は少しばかりの嫉妬心と肩の荷が下りたような安心感を覚えた。
私は女神だと、何度も変わる名字は捨てて、そう胸を張って言うようになったのはその頃からだ。血のつながっていない名字に変わって、母はいよいよ私たちを疎み始めた。
「結日だけが私の家族。たった一人の家族。あの子が普通に暮らせるなら、ううん、幸せに生きていけるように、私はあの子のお姉ちゃんとして、出来ることはなんでもする。何にだってなってみせる」
「それが、君にとっての女神、というわけかい」
私は頷かない。まだ、私には頷けない。あの日、妹に見せた幸せな空想に、私はまだ少しだって近づけてはいないのだから。
「『アムネシア』は、結日のお気に入りの場所なの。確かに、ちょっと不思議なコミュニティではあるけど、本当に危ない場所ではないから、安心してほしい」
夜でも少し明るく感じられる夏の空が、駐車場から車が出ていくたびに暗くなっていく気がする。遠くで聞こえるヒグラシの声が懐かしさを呼び起こす。
「天枝はどうなの?どうして、生徒会長を目指そうと思ったの?」
「はは、僕の方こそ、つまらない、どこにでもあるような理由さ。両親の話は噂で広まっている通りさ。遅く生まれた一人息子で、期待をかけられるのも仕方ない。僕は父が好きだし、重圧だと感じたことも無いけれどね。僕は恵まれた人間だと思いながら生きてきたし、君の話を聞いて、余計にそう思わされるよ。だからこそ、君とは真剣に競いたいと思う」
「フェアに、ね」
天枝の顔を覗き込んで微笑むと、彼はにやりと鼻で笑う。
「ああ、フェアに戦おう。これだけは言わせてもらうがね、僕は君がライバルで良かったと思うよ。そして、君にもそのことを自信に思ってほしい」
「…………うん」
少し話し過ぎてしまったような後悔と、いつも通りを装ってくれる天枝への少しばかりの信頼を、言葉にしきれずに小さく頷く。
「それじゃあ、また明日、だね」
「うん、また明日」
勢いよく立ち上がった天枝は、別れを告げるとまだ明るい夜闇の中に去っていった。
天使のことを知って、先輩に出会って。運命なんて信じていなかったけれど、少しずつ、私は私の運命を前に進んでいるのだと思えるようになった。認めたくはないけれど、私に運命があるならば、きっと彼は私が出会う運命の相手の一人なのだろう。
涼しい夜風に息を吐いて、ベンチに背を預けて空を仰ぐ。そっと手を付いたベンチの座面は、まだ少しだけ温かさを残していた。