表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
誰も救えない天使の話  作者: 錆井鈴江
台典商高編 三年生
73/81

第六十八話 屏風の中へ

・主な登場人物

まながさき天使てんし:この物語の主人公。生徒会長。


藍虎碧あいとら みどり:生徒会執行部副会長の女子生徒。天使の”友人”の少女。クールに見られがち。


 この学校には、天使がいる。


 その噂は聞いた誰もを笑顔にするという。触れた誰もを幸せにするという。


 しかし、この世界において絶対というものは無い。天使という偶像の輝きが、人知れずくすみ始めているように、天使の噂で心を少し曇らせる生徒がいた。


 生徒会執行部の頼れる先輩。天使の片翼。前門の虎。様々な呼称を以て、ある意味崇拝とは最も遠い親しみを以て尊敬され、信頼される少女は、しかしながら心に焦りを抱えていた。


 残酷に過ぎていく時の中で、生徒たちを導き空に吠えた虎もまた、描かれた屏風の中へと戻り、偶像へと変わっていく。安寧の元に牙は必要なく、成長のために爪は必要ない。けれど、屏風の中の虎はいつも勇壮で、試すような嘘は、果たしてその威厳を保ったまま虎を縛り上げるのであった。






 七月に入り、来る夏休みに高校生たちは期待を高める。然しそれは一方で、大学受験という人生のターニングポイントを控えた三年生たちにとっては、特に重苦しい時間の流れを感じる瞬間でもあった。


 例に漏れず、数多の目に監視されているような緊張感を抱えながら、少女、藍虎(あいとら)(みどり)は自室でテスト勉強に励んでいた。彼女が視線を感じている理由は、自室の壁や写真立てに親友の写真を飾っているせいでもあるかもしれない。見てもらえている気がして生きる気力になるから、と信仰じみた内装は、いまや彼女を縛り付ける枷となろうとしていた。


 ノートからシャープペンシルを離して、数秒固まって回答を精査する。安堵のため息と共にペンを机に転がして、赤ペンに持ち換えた。どれだけ努力しているつもりでも、一向に無くならないインクは、微々たる進歩を笑っているようにすら感じられてしまう。


「これは……なるほど……」


 無理やり解いた問題の解答を見て、その単純明快さに唸る。自分のことを頭が固いと思ったことは無いが、こと勉学においてはそうだと言わざるを得ないのかもしれない。


 合同文化祭は大盛況のまま幕を閉じた。細かな軋轢や生徒間の問題については、目を瞑れる範囲、あるいは来年度以降のブラッシュアップ事項としてまとめられる程度だ。事実、生徒会執行部含め、行事それ自体についてはほとんど満足しているせいで、反省点や要素の拡充の話し合いに難儀している状態だ。


「はぁ…………」


 溜め込んでしまっている資料作りや、感想文と振り返り文章の作成を思い出してしまい、ついため息がこぼれる。今はそんなことよりも喫緊の課題は、期末テストの勉強だというのに。


 三年生の一学期末。多くの教科は入試範囲を修了し、実質的に実力テストへと変わり始める。夏期講習に向けた生徒評価ともなるテストであり、この段階で学力に不安があるならば、来る三者面談で進路の見直しを迫られることになる。


「まずは学年二位を目指そっか」


 春休みの天使の言葉が脳裏によみがえる。簡単にそう言い放つのは、彼女が未だに覆されたことのない学年一位の成績を持っているからだ。単に才能なんて言葉で言い表せるものではないことは、私が一番よく知っている。


 かく言う私は、科目によっては二年次末よりも切迫した状況にあると言って良かった。合同文化祭運営のための準備、並びに合同体育祭の企画。交渉や依頼の多くは二年生に任せているとはいえ、放任にもできず時間を取らざるを得ない。しかし、それが言い訳にならないことは、似た立場にある天使に指摘されることでもあった。


 最も誤算だったことは、文化祭の舞台発表だ。初めての演劇。自分でも発声には自信があり、天使ほどではないにしろカリスマ性というか、雰囲気のある人間だと自評していた。していたのだが、どうやら私は壊滅的に演技というものが苦手のようだった。


 あるいは、執行部の冷たい虎として天使に頼れる親友を騙る必要が無くなったせいで、私の中で何かが弛緩してしまったのかもしれない。それとも、私という人間の本質的な怠惰性など、生徒たちにすら見抜かれてしまっているというのだろうか。


 そんな意味の無いことを考えるたびに、舞台発表の視線を思い出して、体の芯から湧き上がる羞恥心に悶える。目の前に天使がいて、何度も言われた「演技を途中で止めてはいけない」という注意を心に刻んでいなければ、私は何度あの場で心を折ったことだろう。


 生徒会執行部の後輩である、一年生の少年に執行部の何たるかや将来性について語った後だった故に、殊更に恥ずかしく思えてくる。内心では彼も私のことを笑っているのではないかと、今でも仕事を教えながら訝しんでしまうほどだ。


 それにしても、天使は面倒なことを提案してきたものだと思う。おそらくは、二年生たちが来年指導するだけでは不安だったのだろうが、だからと言って、受験期の私と天使が教育するというのは無茶ぶりだ。何か考えがあるのかと思ったが、聞こうとすれば「秘密だよ」と朱野(あけの)さんにどんなことを教えているのかも教えてはくれないのだった。


 そもそも、私は生徒会長の仕事について、よく知っているわけではないのだ。とはいえ、本来それは副会長が知るべきことであって、今知る必要も無いことともいえる。天枝(あめのえ)くんにもそう説明したうえで、私の良く知ること、副会長時代の天使のサポートとして行なっていたことを、副会長を目指す彼にブラッシュアップする形で教えることに決めた。しかしながら、文化祭直後は事後処理の仕事に追われたり、一段落したと思えば期末テストに悩まされたりと、十分な時間はまだ取れていない。


 このままでは一学期が終わってしまう。それは受験生である三年生にとってはいよいよ余計なことをしている場合ではなくなるということであり、それほど志望校を高く設定していない私でも、手を抜いていいわけではない。


 それ以上に私が焦っているのは、天使との約束だった。一学期末のテストで学年二位。私の志望校合格には、少し、いやかなり高い目標だとすら思える。天使含め、難関大学への現役合格を目指す生徒は少なくない。その中でトップを目指すということはつまり、それ以上の精度で勉強をしなければならないということだ。


 つまるところ、百点を取ればいい話だ。そう頭の中の悪魔なのか天使なのか分からない怠惰な声が嗤う。どうせ天使には勝てないのだから、それでいい。お前が凡ミスをした分だけ差は勝手に開いていくのだ。


 それで取れたら苦労しないよ。と口には出さずに自嘲する。何とかカバーできていると思いたいテスト範囲は、それでもレンコンのように穴が開いている気がしてならないのであった。






 それから、一週間ほどの苦しい期間が続き、ようやくテストが返ってきた。


 隣席である天使からは、全部のテストが返ってくるまでは点数を言わないと宣告されていた。私の方も、返ってくるくる点数が自己最高を上回るたびに叫びだしたい喜びと、努力の報われたことへの感動でガッツポーズしたかったが、何とか堪えることができた。


 ようやく迎えたホームルームで、全ての点数が書かれた小紙片を担任から渡される。自席に戻るまで見ないように慎重に運び、ひとまず椅子に座った。


「いやぁ、碧、今回は本当によく頑張ったね」


「もちろんだよ。なにしろ、天使に勝ってやろうと思って取り組んだからね」


「あはは、その調子その調子。会長と副会長でツートップじゃないとね。でしょ?」


 天使は期末テストの点数に不安が無いのか、穏やかな笑みで私を見つめている。


「それじゃあ、見るよ」


「うん、どうぞ」


 私は恐る恐るテスト結果の紙を裏返す。すでに各教科の点数は把握している分、後は周りの、天使の点数次第だ。平均を切った科目は無く、むしろすべての科目で自分が最高点なのではないかと言って過言ではない点数だった。もちろん、天使が満点を取っている可能性はあったが、彼女だって完璧ではない。返却時にも教師が「これは解けなくても今は仕方ない」というものも少なくはなかった。ならば、条件は互角なはずだ。そうだ、いっそ天使も追い抜かしてしまえるかもしれないのだ。


 たくさんの数字の書かれた紙片に滑る視線。数えきれない2の文字。クラス単位、学年単位、教科別はほとんどが二位だ。そして、最後にようやく照準の合う合計点。学年全体の順位は————————。


()()…………?」


 自分の目にした現実が信じられなくて、認識が上手くできない。努力は血が滲むほどした。これまでは苦痛だと思うような努力は無かったが、今回ばかりは明確に苦痛を覚えた。しかし、そのすべてが報われたような、むしろ、いっそ報われない方が良かったすら思えるほどのカタルシスが意識を遠くする。


「ね、碧?」


 天使も遅れて自分の紙片を確認し、満足げに笑ってから、ひらりと表面を私の方に向けた。


 そこに書かれていたのは、()()()()()()()()()。相違点があるとすれば、それは————。


「なんで、なんでそんな————」


 埋め尽くされた百点の文字。当然冠する一位の座。しかし、私を弄ぶように、ノイズのように欠けた一教科分の乱れ。赤点というほどでもないが、明確に低いその一科目だけで、彼女は私に肩を並べていた。


「家庭科ってさぁ、どこを勉強していいか分かんないよね」


 そんなことが聞きたいわけではないのだ。これはただの偶然なのか?そんな訳はない。彼女が勉強を怠るはずも無く、それも()()()()私と同じ点数となったなんて、そんなのは馬鹿げている。彼女が私の点数を予測していたことについてと言うよりも、そんな無法を通せるほど、彼女は他のテストに絶対の自信を持っていたのだ。一点のずれも無い中心を射抜いていると、確信を持っていたからこそ、最後の科目で調整できるのだ。


 天使は、ごまかすように悪戯っぽく笑うと、テスト結果の紙をくしゃりと潰してしまった。委員長の号令に、私が慌てて立ち上がると、天使は教室後方のゴミ箱にひょいと丸めた紙を投げ捨てる。


 号令と共に終礼が終わると、私たちの席にクラスメイトが集まってくる。テスト返却後の定番でもある、天使の成績確認である。今回は態度にこそ出さなかったものの、私が天使と競っていたことを勘付かれていたようで、遠巻きながら普段は興味なさげな生徒も私たちの方を見ている。


「よーし、それで藍虎よぉ、テストはどうだったのっておいおいお前!」


「あら、一位じゃない。愛ヶ崎さんより高かったってことかしら」


「えへへ、負けちゃった」


 鳩場(はとば)さんがどこか嬉しそうに天使の方を見ると、天使はわざとらしく頭をかいた。


「すげー、()()()も成績が落ちることがあるんだな」


「そりゃあ、愛ヶ崎さんも人の子なんだから、点数の上下はあると思うけどね。とはいえ、やっぱり意外と言えば意外かも。何科目か名前でも書き忘れたんじゃないかな」


「いやいや、受験生が一番気を付けないとダメだろそれは」


「それで、てんちはテスト結果どうだったんだ?」


 留木(とどこ)さんが首をかしげると、天使は申し訳なさそうに笑う。


「うーんと、悪すぎてもう捨てちゃった」


 天使は、私が見ていたことを口止めするように、あるいは口を合わせるようにと口角を軽く上げて示した。


「あ~、気持ちは分かるわぁ。俺もマジで今回のは捨てたくなったもんなぁ」


(はる)くんのは笑えない奴じゃないの? もう三年一学期だけど、まだ三年マイナス三学期のつもりでいるんじゃないよね」


「つってもよぉ…………」


「あら、不安なら私が教えてあげましょうか、お勉強」


「いーよ、なんか怖え―し」


 ニコニコとクラスメイトの話を聞き流している天使に、私はどこか底知れない不安を覚える。彼女は何を思って私を学年一位にさせたのだろう。それは、私が成績をここまで伸ばせると期待を寄せられていたことへの嬉しさと混ざって、思考を攪拌する。


「にしても、藍虎が一位なんてなぁ。やっぱ副会長は伊達じゃねえってか?」


「あ、あはは。まぁ、そんなところかな」


「うふふ、針瀬(はりせ)さんにも話してあげないとね。ついに、愛ヶ崎さんが負けたわよってね」


「そ、そんな広められても困るよ。ね、天使?」


 持ち上げられると余計に劣等感がくすぐられてしまい、天使に助けを求める。


「いやいや、さすがは執行部の柱。でしょ? 今までも頼りにしてきたけど、やっぱりすごいんだって証明できたし、バンバン頼っちゃうよ」


「あら、もう愛ヶ崎さんも定年退職の時期かしら?」


「あはは~、退職金いっぱいくださーい」


 能天気な冗談を飛ばす天使に、私は彼女がいつもよりも穏やかに笑っているように思えた。それは彼女が単に気を抜いていただけなのかもしれないが、そんな気のゆるみすら、この半年の彼女からは考えられないことだ。


 天使は、少しずつ荷を下ろしているのかもしれない。


 不意にそんな考えが頭をよぎる。それは、一年生の育成や私に学年一位という座を譲ることにゆっくりと繋がっていく。そして、それだけの期待が、重圧が自分に分担されているのだと自覚する。


「ねえ碧、二学期はテストじゃなくて、模試で勝負だからね?」


「ああ、分かったよ。でももちろん、みんなで、だろう?」


 天使に期待する人は多い。それは、彼女がどこの大学を志望するかにも当然関わってくる。天使は生徒会執行部を上り詰め、生徒会長という生徒で最も高い場所に立った。彼女の才能なら当然のことだと皆は思うことだろう。しかし、それだけ後続がかすんで見えてしまうことも仕方の無いことだ。例えば、三峰先輩のような強引な行動力や指導力があれば、そんな不安もかき消してしまえるのだろう。しかし、今の二年生にそれほどのカリスマがあるだろうか。無いとは言いたくない。しかし、それをアピールできているとは言い難い現状だ。


 天使は誰もに尊敬されている。彼女を嫌う人も、その才能を認め、ときには素直に賞賛する。けれど、だからこそ。天使は最後まで走り抜けてはいけないということを自覚しているのかもしれない。天使が飛び去った後で、誰も掬う者がいない空を残された人たちが落ちていかないように。


 緩やかな放物線の頂点は、彼女にとって、きっともう遥か彼方なのだ。ならば私は、私にできるのは、そんな彼女から決して目を離さないことだ。最後まで彼女を支え、傍にいて、最後に抱き留めることだ。


 珍しくクラスメイトと一緒に私と天使は教室を出た。それは教室から階段までの、ほんの短い時間だったけれど、その一瞬、天使は普通の、本当に普通の生徒に思えた。


 そんな小さな変化が、私にはひどく嬉しいことに思えた。まるで、私が好きになったあの頃の天使に戻ったみたいだったから。


 君がそうして自由でいられるためなら、私はいくらでも不自由になるよ。それがクールで才能のある副会長なんていう、今の私には随分と荷の重いことだとしても、決して弱さは見せないで、強く正しく在ってみせる。いつか君が、屏風に描かれた冷たい虎のイメージを壊してくれると信じて。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ