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誰も救えない天使の話  作者: 錆井鈴江
台典商高編 三年生
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第六十七話 天使に救われた誰かの話(後編)

・主な登場人物

朱野女神あけの めがみ:一年三組の女子生徒。記憶力が良く、一度見た物は忘れない。興味の無いことには無頓着。


まながさき天使てんし:この物語の主人公。生徒会長。


藍虎碧あいとら みどり:生徒会執行部副会長の女子生徒。天使の”友人”の少女。クールに見られがち。


天枝優栄あめのえ すぐえ:一年三組の男子生徒。自信家だが真面目な眼鏡くん。


襟宮えりみや:三年生のバレー部エース。高身長でスポーツ万能、一部に熱狂的なファンを持つ少女。


影間蕾かげま つぼみ:監査委員長の男子生徒。かわいらしい見た目をしている。


鳩場冠凛はとば かりん:三年一組のクラス委員長の女子生徒。静かな佇まいをしている。部活は運動部を転々とした後、現在は無所属。


田尾晴々(たび はるばる):三年一組のクラス副委員長の青年。チャラい見た目で言動もチャラいため、誰からも信用されていない。性根は優しいが、見た目で損をしている。趣味は読書で、文芸部に所属している。


 この学校には、天使がいる。


 星を見上げても、その形を正確に認識している人はほとんどいない。ただその輝きに魅せられて、空に視線を向けているだけに過ぎないのだ。たとえその星が、今はもう壊れて消えてしまった彼方の残像だとしても、人は星を信じて進もうとする。


 もし、星に挑もうとするものがいたとして、すでにその星は無いのだと分かったとき、何を思うのだろう。


 地に足を付けていては、空は飛べない。そんな簡単な道理ですら、挑戦を忌避させるには十分だ。しかしそれでも高く飛ぼうとする姿を、人は天使と、あるいは女神と呼ぶのかもしれない。


 たとえそれが、羽も無い、光輪も無い、ただの少女だったとしても。





 ざわざわとした話し声が、九時を知らせるサイレンで緩やかに静寂に変わっていく。


 台典商高・西高の合同文化祭三日目。開会式はそれぞれの高校で行われ、午前中の演目は別々で進行される。昼休憩の後ステージ発表のある三年生と教室での展示管理を行う二年生の生徒たち以外は、互いの高校を行き来しても良いことになっている。両校の距離は、徒歩で一時間ほどであり、演目間での移動はできないことも無いが、昼休憩の時間を逃せばひどく面倒な距離でもある。


 また、合同文化祭において最も高い意欲を見せているのは台典商高商業科の生徒たちである。西高では認可されてこなかった出店を、合同文化祭という折に普及させ、台典商高側とは異なる商品を売ることで、生徒側には三日間という期間においても飽きさせず、外部客においては両校を訪問させる口実を作った。何よりも、単純に二倍となった規模の中で、それ以上の利益を求めたのが商業科であった。


 ともあれ、例年通りの集客数でありながら、倍以上の動員数となる見込みである合同文化祭の開会式は、これといった問題も無く始まろうとしていた。


 サイレンの止むタイミングで、台典商高生徒会執行部、二年生の副会長である神繰(かぐり)麻貴奈(まきな)が登壇する。関係者からすれば、いささか緊張した面持ちであることは察せられたが、生徒たちから見れば、いつも通りの無表情だ。波も無く風も無い穏やかな開会宣言に、生徒たちは静かに拍手で盛り上げた。


 生徒列の最後尾に当たる一年生の席で、朱野女神は長ったらしい来賓の挨拶が始まり、静かに目を閉じた。


 三日目となる今日は、いわば文化祭の華だ。一年生の担当する催事である合唱コンクールは、外部のお客さんや保護者達、そして生徒たちによる投票でその順位を決める。例年と違うところは、在校生にはすでに一度、リハーサルを聞かれているというところだ。当然、この一日の間での成長も、安定した合唱のまとまりも、どちらも得票に影響することになるだろう。


 目を閉じていると、否が応でもリハーサルの時の反応を思い出してしまう。失敗の経験は、覚えていても思い出さないものだが、悔しさや至らなさはその限りではない。漠然とした力の足りなさ。伸ばした手が届かない無力さ。この時ばかりは、自分の記憶力が恨めしくなる。


 ぱらぱらとした喝采の音。誰もが手を叩き讃えている。けれどそれは、心からの賛辞ではなく、空虚な礼賛に過ぎない。体育館を埋め尽くす拍手の音は、ずっと遠くにあるようで、私の心に降りかかりもせずただ地面を濡らす雨のようだった。


 目を開くと、昨日の再現だ。必死で歌う。クラスの思いを乗せる。クラスでの努力を込める。クラスの協調を魅せる。けれど、絡みついてくる不安を振りほどけない。返しのついた茨のとげのように、深く刺さった記憶に引き戻されてしまうようだ。


 この現状を打破するだけの勇気は、私には無い。破調も転調も、握りしめた手汗の上で滑ってしまいそうで、記憶のままに演じるほかに道が無い。


 喝采。それは決して失望ではなく、けれど感嘆でもない。竜頭蛇尾ではないにしろ、画竜点睛を欠いたわけではないにしろ、それ以上を魅せることも無い平凡。


 失意を見せないように努めたが、舞台を去ればため息も出る。それが努力したクラスメイトへの毀損にならないことを私は願った。幸いにも、舞台袖で足を止めた私の落胆は、先に休憩に入ったクラスメイトには届かなかったようだった。


「聞くところによると、天使先輩のクラスは一年生の時、三倍近い差をつけて一位だったそうだ」


 気を遣うようなムカつく声は、何でもない話題のように呟いた。


「僕たちの合唱は、良くて五位と言ったところだろう。まァ、何しろ文化祭は商業科の祭典と言ってもいいくらいのものだからねェ。それに勝つ、何ていう方が土台難しいわけさ」


「それでも、勝つって言ったんでしょう、あなたは」


「正しくは、僕たちは、だ。クラス委員長として、適切な目標設定をするのは当然だろう。それで勝てなかったからって、誰が悪いわけでもないさ。まして、君の責任ではない」


 昼休憩でまばらになった体育館で、私は自分の席に座る。自分の席でもないのに隣に座った天枝(あめのえ)は、暇なのか、立ち去る気配がない。


「気に病んでるとかじゃないから、慰めるのはやめてよ。ただ、先輩なら、もっとうまくやれたのかなって、そう思っただけ」


「一般的には、それを気に病むと言うと思うのだがねェ。そんなに勝つことに拘っていたのかい? まァ親御さんに良い姿を見せたいというのなら、僕も気持ちはわかるがね」


「————来ないよ」


「ン?」


「親なんて、来ない。期待されたくもないし、そんなことを理由にするわけない」


 私の言葉を理解しようと見つめてくる天枝から、私は顔を背けた。


「今日は、用事があるから、一人で回ったら?」


「……ああ、奇遇だね。僕も先輩に呼ばれているんだ。達者でね」


 まるで、私の用事が自分と同じであると疑わないように、天枝は軽い口調でそう返した。私が体育館を去っても、彼が追いかけてくる様子はなかった。ただ何かに浸るように、彼は席から動かないでいたのだった。




 昼休憩が始まってもうずいぶんと経った気がしていたが、まだ午後の部が始まるまでには三十分ほどの猶予がある様だった。


 今朝のことだ。合唱練習のために早めに学校に来た私は、偶然を装って昇降口で待っていた天使先輩と出会った。用件は単純で、昼休憩の時に生徒会室に来てほしいというだけのことだった。きっと文化祭関連か、あるいはまた別の雑務でも頼まれるのだろう。


 体育館から特別棟の方へと戻ると、生徒や保護者の喧騒が遠く聞こえる気がする。特別棟でも展示は行われているはずだが、昼休憩にわざわざ立ち寄る人もいないのだろう。


 短い休息中だからか、いつもより騒がしい職員室を通り過ぎて、生徒会室へ向かう。教室棟への分岐を越えると、いよいよ静謐な空気を感じる。文化祭の最中でも、この廊下を進むような人間はいない。執行部の人間ですら、準備は体育館に置き去ってしまっているために、生徒会室には戻らないはずだ。


 軽くノックしてから、生徒会室の扉を開く。それが自然なことであるように、天使先輩は長机の奥で静かに冊子————おそらく劇の台本だろう————に視線を落としていた。


「ここ、静かでいいでしょ? 文化祭の最中だっていうのにさ」


「そうですね、まるで違う世界にいるみたいです」


 私がそう返すと、天使先輩は愛想笑いを浮かべた。台本を机に置くと、手近な椅子を引いて私に示した。


「私と女神ちゃんだけの世界で、ちょうど話したい事があるんだ。まぁ、座ってよ」


 私は雑用を頼まれるような雰囲気ではない先輩の様子に、少し物怖じしながら腰掛けた。天使先輩は、厳粛な裁判官のようなオーラを放ちながらも、椅子を机から大きく離して砕けた体を装おうとしている。


「その、話したい事、というのは?」


「大したことじゃないんだけどね。女神ちゃんは、もうこの学校には慣れた?」


「ええ、はい。天使先輩にいろんな場所に連れていかれてますから」


「それは良かった。私も無理をして連れて行った甲斐があるよ。初めて会った時より、今はかなり落ち着いた印象だし、心配はしてなかったんだけどね」


 天使先輩は、まだ本題に切り出さずに、また愛想笑いを浮かべる。いつもの先輩の笑顔とも違う、どこか手を抜いたような笑み。ひどく疲れ切ったようにも見えるその顔は、むしろ私を信頼してのことなのだろうか。


「早いもので、もう女神ちゃんが入学してから二か月以上経ったわけですが、女神ちゃんは今も生徒会長になりたいと思ってくれているかな?」


「はい。もちろんです」


 思わず拳を体の前で握る。この思いは嘘ではない。天使先輩みたいに、誰かを救える人間に、生徒会長を私は目指しているのだから。たとえ、合唱コンクールが先輩のように偉大な功績とならないとしても、それは自信や意志を失う理由にはなりえない。


「そっか。良かった。今日話したかったのはね、正式に、って言うのも変なんだけど。女神ちゃんを生徒会執行部にスカウトするためなんだ」


 天使先輩の言葉に、少しだけ面食らう。学校内での噂や校内新聞での切り取りで、すっかり私と天枝が生徒会に入ることは決まっているものだと思っていた。それはどちらが優れているかというものとは別として、二人の組み合わせが変わることはないという思い込みでもあった。


 もし、このスカウトを受けなければ、執行部に入ることもできないのだろうか。あるいは、そもそもスカウトされなければ————。


「あの————」


「天枝くんは、(みどり)が今話してくれているところだと思うよ」


 口を突いて出そうになった疑問を見透かされているようで恥ずかしくなる。そう言えば、天枝も用事があると言っていた。


「それで、ね。麻貴奈ちゃんと氷堂(ひどう)くんもだけどさ、女神ちゃんと天枝くんも両方生徒会長を目指しているんだよね」


「……はい」


 下馬評、生徒たちの声、生徒会長としての資質。悔しいが、今の段階で私が天枝に勝っている部分なんて、学力くらいのものだろう。天使先輩が次にいう言葉はきっと、私への落胆の言葉だ。私には、生徒会長を目指すことなどふさわしくないと、そう言われてしまうのだろう。合唱コンクール一つ上手くやり遂げられない私には————。


「だからさ、碧と一緒に二人を教えてあげないとって思ってね」


「はい?」


「競い合う相手がいるなら、きっと二人とも、もっと成長できるでしょ? だから、今日から女神ちゃんは私の、天枝くんは碧の下で指導させてもらうことになりました」


 今度は突拍子の無い提案に面食らう。とっさに思い出されたのは、いつか聞いた生徒会執行部の話。執行部では、役職には大きな意味はなく生徒会長ですら、その立場に拘ることはなかったという逸話だ。ずっと前の代では、ぽっと出の生徒が生徒会長になったものの、その代の学校は、良いものだったと噂されている。


 生徒会長という肩書きにこだわっているのは、もしかすると、私や天枝だけで、先輩たちからすればどちらが生徒会長になろうと変わりないのかもしれない。


 それは少しだけ悲しいことで、同時にかすかな怒りすら覚える扱いだった。確かに、能力だけで見れば大差は無いのかもしれないが、それでも、確かに私を選んでほしかった。それも他の誰でもない、天枝と比べられるのならだ。


「指導って言うのは、いったい……?」


 少し傷心しながらも、話の続きを聞くことにする。少なくとも、天使先輩に選ばれたのが私であることには違いないはずなのだから。


「別に、今までと大きく変わるわけじゃないよ。スパルタでもないから安心して? ただ、マンツーマンの方が、話しやすいことも多いかなって思ってそうしているだけだから」


 ————話しやすいこと。


 それはつまり、まだ私や天枝が誰にも言わないでいることを開示していかなければならないということだろうか。彼にそんなことがあるのかは知らないが、少なくとも私にはそんなことばかりだ。


 それは綺麗に加工すれば可哀想な過去として私を華やかに彩ってくれるのだろうか。生徒たちの同情を誘って、天枝よりも私が生徒会長にふさわしいと思わせるものなのだろうか。


 たとえ、そうだとしても、私はそんな戦い方はしたくない。フェアじゃないということ以上に、そんな弱い人間になりたくはなかった。


 天使先輩は、用件を言い終わったように立ち上がり、椅子をしまうと軽快に出口の方へと数歩歩いた。それから、心の底から楽しそうに笑って、唇の前で一本の指を立てる。その無邪気な仕草に、思わず私はドキリと心を動かされてしまう。


「まずは女神ちゃんに一つだけアドバイス。なんて、もしかしたら、もうアドバイスをすることはないかもしれないけど」


 もったいぶるように口角を上げて、天使先輩は私に一歩近づいた。貫くように私の目を見る。思わず目をそらしてしまった私に、先輩は屈んで手を取った。


「女神ちゃんは、そのままでいいんだよ。嫌いなものは嫌いなままでいい。好きなものを好きでいていいの。だから、あなたが見上げたものを、決して見失わないであげて」


「私……でも……」


 私には、嫌いなものが多い。

 眠れないまま明ける朝が嫌いだ。鼻を突く香水の匂いが嫌いだ。媚びるような甘い声が嫌いだ。張り裂けるような怒声が嫌いだ。何も見えない暗闇が嫌いだ。選択肢の無い塞がりが嫌いだ。何もできない無力さが、そんな現状に甘んじることが嫌いだ。


 それでも、それはきっと、私が嫌いなだけで、この世界では普通のことなのだと思って生きてきた。それを楽しいと思う人がいる。それを喜ぶ人がいる。ならきっと、私が逸れ者なのだ。いつか私も、そんな普通になり下がるのだ。


「あなたは、私よりもずっとすごい生徒会長になれる。だから、好きに生きていいんだよ」


 天使先輩は、私のことを何も知らない。優しく見つめる瞳も、私を越えてどこか遠くを見上げるようだ。だけれど、初めて会ったあの日からずっと、私の苦しさも悲しさも軋みも葛藤も、全てひっくるめた本当の私を見ているような気がした。


 それはまだ、今の私には遠い偶像だ。手を伸ばしても、どうやっても届くか分からないはるか遠くの光だ。だけれど、天使先輩の言葉で、私には翼が生えたように思えた。空を目指す翼が。地に堕ちて汚れた私でも、空を飛んでいいのだと、そう思えた。


「…………はいっ!」


 まだ手を伸ばしきれない心を震わせて、出来る限り元気にそう応えた。先輩は、少しだけ満足げに笑って私の頭を撫でた。


 暖かな静寂を裂くようにチャイムが鳴る。昼休憩の終わりの合図だ。


「わっとと、もうこんな時間だ。それじゃあ、後の時間は楽しんで、週明けからまた頑張ろ~!」


 思ってもいないような軽口を言って、天使先輩は生徒会室を去る。文化祭期間中は開け放しの生徒会室を出て、私も舞台発表を見に行くことにした。


 またどうせ、天枝の奴は隣に来るのだろう。けれど、ああ、なんだか少しだけ、心が軽かった。



 それから、私は演劇準備で空いた最前の三年生の席に座って、観劇することにした。


「隣、いいですか?」


 可愛らしい声に視線を向けると、そこには小柄な三年生の先輩が微笑んでいた。


影間(かげま)先輩っ。もちろんです!」


「わわっ、そんなかしこまらなくても大丈夫だよ、朱野(あけの)さん。次の出番まで腰を落ち着けたかっただけだから」


 ちょこんと隣に座った彼は、まるで妹のような、いや流石に弟のようだったが、ともかく年下のように思えてしまった。男子生徒だと分かっていても、庇護したくなるような可愛らしさのある先輩だ。天枝とは違って、隣に座られても気を許してしまう感覚だ。


「文化祭はね、僕たち商業科の晴れ舞台なんだけど、舞台発表だけは、普通科が締めるんだよ」


「出店と両立するのがしんどいから……とかですか?」


「ううん。まあ、確かにそれもあるかもだけど、僕たちはきちんと普通科の舞台も観たいんだ。だから、舞台前の緊張の無い状態で、みんなで集まって観れるように普通科を後にしてもらっているんだよ」


「そんなに、普通科の劇は面白いんですか?」


「う~ん。年によるけど、飛びぬけて面白いってことも無い、かな。でも、知ってるみんながやっていることだから、それを加味したら最高だと思う。僕らは体育祭でそんなに活躍できないことが多いから、最後の思い出って考えてる生徒も多い。って、一年生の君に言ったら、重たい話だったね」


 影間先輩は、謝るように手をぱたぱたと振った。そんな仕草もどこか愛らしい。


「いえいえ。……そうですよね。先輩たちからしたら、これが最後の文化祭なんですよね」


 色んなことがあったような、けれど何かが進展したわけでもないような不思議な三日間。私にとってはそんな少し心を騒がせた時間でも、誰かにとっては心に残る最後の時でもあったのだ。


 そう思いながら、ゆっくりと上がる緞帳を眺める。少しだけあくびをしながら見た最初の舞台発表は、そうは言っても退屈に感じた。


 発表が終わり、次のクラスが交代に入っていく。影間先輩もいつの間にかいなくなり、待機していたのだろう、三年生の列に空席が生まれすぐに衣装を着たままの生徒で埋まっていく。


「あれ、エリちゃん。席取られちゃってるよ?」


「今は自由席なんだから、仕方ないでしょう。私はここに座るから」


「ちょっと、そこ私の席なんだけど~」


 身長の高い先輩は、一瞬だけ私の方にしせんを向けたが、すぐに気にせず隣の席に腰掛けた。おそらく運動部なのだろう、よく引き締まった体は少しだけ威圧感を覚える。


「あっ、てかこの子~、さっきちっちゃくあくびしてた子じゃん」


「えっ!? あ、す、すみません」


江津(えづ)、いちいち一年生に指摘しない。あなたも眠いなら寝たら? 誰も気にしないと思うし」


「さ、さすがにそれは……」


 不愛想な先輩の言葉にどう返答していいかまごついていると、反対側の席にも生徒が座ってきた。先輩二人に挟まれて文字通り肩身が狭くなる。


「隣、失礼するよ————おっと、襟宮(えりみや)じゃないか。熱演だったね」


 縮こまる私を挟んで、先輩同士が話し出す。


「舞台袖で寝てた夕原(ゆうばら)には言われたくないけど。台本つまんなさすぎて、一年も眠たいってさ」


「い、言ってないですぅ」


「そうなのかい? まぁ、あれは眠たいし別に構わないけど。噂だと、オオトリが一番つまらないらしいよ」


「トリって、一二組でしょ? そんなことあるのかねぇ?」


 江津と呼ばれていた長い前髪の先輩が疑わし気に顔を出す。一二組と言えば、天使先輩のクラスだ。


「まぁ、始まれば分かるでしょ」


 襟宮と呼ばれていた先輩は、どこか憮然とした様子で鼻を鳴らすと、静かに舞台の方に意識を向けた。私もそれに倣って上がっていく緞帳に体を向ける。


 続く商業科の二クラス目は、先程と負けず劣らずの駄作————というよりも身内ネタが多い台本だった。同じ時をほとんど過ごしていない私には、全てが世代ではなく退屈に思えてしまった。隣で高笑いする夕原先輩と、仏頂面をときどき綻ばせる襟宮先輩の間で、私は眠気を何とか噛み殺していた。


「これ、あなたには面白くなかったでしょうね」


 幕が下りてから、襟宮先輩はそう呟いた。


「えっと……はい」


「あはは、素直だ」


「まあ、仕方ない仕方ない。私は楽しめたがね。(たまき)のやつ、よく通したなこれ」


 まだ思い出し笑いをしながら、夕原先輩が江津先輩を嗜めた。


 続く普通科の劇も、目新しいこともなく、名作舞台の焼き直しと言った印象だった。ひとつ前の内輪ネタと比べれば楽しめたが、それでもどこか楽しみ切れない。


「あなた、もう少し前の席に行ったら?」


 三つ目の演劇が終わり、唐突に襟宮先輩はそう切り出した。


「別に、嫌味とかじゃなく。生徒会志望の子でしょ? 次のクラスはあの子も出るし、特等席で見て来なよ」


「で、でも……」


 特等席で私なんかが、という謙遜よりも、つまらなかったときに先輩に合わせる顔が無いというのが本心だった。これまでの劇と同じ反応をしては、天使先輩にも藍虎(あいとら)先輩にも申し訳ない気がする。


「まあまあ、遠慮せずにさ~」


 江津先輩の強引さと、襟宮先輩の体格で私は無理やりに最前列に連れてこられる。


「あれ、田尾(たび)は演劇もベンチなの~?」


「もってなんだよ! 俺たちは大道具だったから、本番は見るだけでいいんだよっ」


「言っておくけれど、私は総指揮だからよ。それと、襟宮さんが座れるほど、ここはスペースが無いのだけれど。関係者席なのよ、ここは」


「いいよ、別に。この子だけ座らせてあげて」


 どこか蛇のような鋭い目の先輩は、私を舐めまわすように見てから、少し嫌そうな顔をして、しかし膝の間にスペースを作って私を抱き寄せて座らせた。


「あ、あのっ……」


「愛ヶ崎さんの匂いがするわね……朱野女神ちゃん、だったかしら? ふふ……まあいいわ。一緒に見ましょう、先輩の舞台を、ね」


「それじゃあ、鳩場(はとば)っち。後はよろしくね~」


 鳩場と呼ばれた先輩に抱えられ、私はいよいよ逃げ場を無くす。飾られた人形のように動けないままで、私は緞帳の上がるサイレンの音を受け入れた。


 明転した舞台に目立ったのは、石垣のようなセットと戦火の跡のような荒れた舞台装置だ。おそらく、中世辺りの戦争がモチーフなのだろう。ということは、おそらく天使先輩が扮するのは、戦争を救う英雄あたりだろうか。


 予想通り、薄手の甲冑のような衣装を身にまとって現れた天使先輩は、ジャンヌダルクの役らしい。出てきてからモノローグが続く。随分と長台詞だが、尺は平気なのだろうか。それにしても、噛まないどころか、思わず見入ってしまう迫力がある。このままいっそソロでも成り立ってしまいそうだ。


 進行上のマンネリ打破のため、上手から現れたのは藍虎先輩だった。整った男装に身を包み、おそらくは貴族の役柄なのだろう。察するに、二人の戦時中のラブロマンス————と考えていると、内容が頭に入らなくなってくる。


「藍虎~、真面目にやれ~」


「練習よりはできてるわよ~」


 息を飲んでいた館内から漏れ聞こえてくる笑い声。私も思わず唇を丸めて、吹き出しそうになるのをこらえる。


 信じられないことに、あるいは、信じられないほどに、藍虎先輩は棒読みだった。棒読みというにも種類はあるだろう。例えば、ロボットの演技をするなら平坦な調子で読む方がいいかもしれない。けれども、藍虎先輩のセリフは、どうしようもないほど固くなってしまっており、緊張と空回りが肌を震わせるほどだった。


 同じクラスなのだろう生徒たちは、練習の様子を知っているからか、これが特別なことではないと知りながらも笑っていいことなのだと観客を安心させるようにヤジを飛ばしていた。


 赤面しながら下手な演技を続ける藍虎先輩は、到底昨日の開会式で士気を高めていた生徒と同じだとは思えない。


 天使先輩はというと、まるで時が止まったようにピクリとも笑わずに、相方の演技終わりを待っていた。弛緩した空気に流されることも無く、圧倒的な憑依力で演技を続けているが、それが却って緩急となり藍虎先輩の拙さを感じさせた。


 いよいよ脚本も終盤となり、救国の聖女は糾弾の前に倒れ、失意の中で連れ添ってきた男も失脚する。やけに真に迫った藍虎先輩の号泣で暗転し、舞台の幕が下りる。


 再び幕が開き、エンドロールなのだろう、ミュージカル風の音楽と共に、演者の生徒たちが歌いながら舞台を下りてきた。藍虎先輩も圧巻の声量で歌い上げている。歌は感嘆するほど上手だ。もう全部ミュージカルにすればよかったのに。


 舞台袖から生徒たちが席に戻り、主役の二人が頭を下げると館内は喝采に包まれる。無理矢理音楽の力で大団円に持っていった気もするが、面白さで言えば、拍手せざるを得ないだろう。藍虎先輩の名誉だったり沽券は著しく損なわれたかもしれないが。


 そう思う一方で、藍虎先輩の少し情けない姿を見て、どこか安心した自分がいることに気が付く。天使先輩ほど憧れていたわけではない。けれども、その相棒、副会長として尊敬に値する素晴らしい先輩。完璧とすら思っていたかもしれないその姿が、今壊れていった。けれども、それは失望ではなく、どこか人間らしさとしてむしろ信頼と親しみに変わっていった。


 それは、天使先輩の言っていたような自分らしくあるということなのかもしれない。私は私らしくあっていい。恥ずかしそうに、天使先輩に手を握られながらマイクの前に立つ藍虎先輩を見て、そんなことを思った。


「本当なら、生徒の皆さんには自分の席に戻っていただき、合唱コンクールの結果発表も行いたいところなのですが、本日は多くの皆さんにご来校いただき、西高の皆さん含め、超満員となっておりますので、このまま、閉会宣言を行わせていただきたいと思います。また、合唱コンクールの結果につきましては、両校それぞれで後日掲示させていただきます」


 閉会宣言に移ろうとしている天使先輩を、藍虎先輩がちらりと見る。未だ二人の手は握られたままだ。


「皆さん、この三日間、合同文化祭という新たな試みでしたが、いかがだったでしょうか!」


 割れんばかりの拍手が会場を包む。最高、楽しかったという野次の中に、藍虎先輩の名前を呼ぶ声もある。


「演技大好評だったみたいだよ、碧?」


「あ、ありがとうございます、というか、その……」


 赤面して顔を背けた藍虎先輩に、会場から慰めるような拍手と指笛の甲高い音が降りかかる。普段見ているクールな印象とのギャップに、どこか胸がざわつく。


「会場の台典商高のみんな、台典西高のみんな、合同文化祭、来年もぜひやりましょう!」


 天使先輩がマイクを掲げると、再び大喝采が起こる。来賓の歴々も思わずどよめくほどの熱気に、天使先輩は満足げな笑みを浮かべる。


「私たち、台典商高生徒会執行部は、皆さんを導き、より良い学校にしていくために活動していますが、実は、こんな風に至らない部分もあったりして、皆さんと歩んでいく組織でもあります」


 おどけた天使先輩の言葉に、会場は笑いながらも少し感心してしまう。


「文化祭は、皆さんのご協力もあり、こうして大団円を迎えることができましたが、合同行事と言えば、文化祭だけではなく————」


 天使先輩が言葉を溜めると、客席は続きの言葉を待ってしんと静まる。


「もちろん、体育祭も行いますっ!」


 来賓たちは、知らなかったのか顔を見合わせ、生徒たちは期待感を爆発させる。会場が揺れているのではないかというほどの反応に、天使先輩は静まるのを待ってから続ける。


「まずは皆さん、怪我無く帰るところまでが合同文化祭ということで、本日はお気をつけてお帰りください。また、会場の片づけにあたる生徒は、一八時ごろに体育館にお集まりください。それでは、これをもちまして、台典商高、台典西高合同文化祭を閉会とさせていただきます。皆さん、ありがとうございました」


 向き直った藍虎先輩と共に礼をした天使先輩に、惜しみない拍手が送られる。


 そうして、大きな転換点となったような、あるいは何も起こらなかったような、そんな合同文化祭は終わりを迎えたのであった。



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