第六十六話 天使に救われた誰かの話(中編)
・主な登場人物
朱野女神:一年三組の女子生徒。記憶力が良く、一度見た物は忘れない。興味の無いことには無頓着。
朱野結日:一年四組の女子生徒。女神の双子の妹。学力はそこそこだが、姉よりも運動神経が良い。
天枝優栄:一年三組クラス委員長の男子生徒。自信家だが真面目な眼鏡くん。
平良利希:一年三組のクラス副委員長。活動的な少女。
藍虎碧:生徒会執行部副会長の女子生徒。天使の”友人”の少女。クールに見られがち。
この学校には、天使がいる。
それは、まだ自分を青春の担い手だと俯瞰することも無く日々を過ごす若人たちが、狭い学校の外で交流した新たな友人たちに誇らしげに吹聴した噂の一つである。
台典商高と台典西高校の合同文化祭は、無事に一日目を終え、二日目の始まりを迎えようとしていた。両生徒会執行部は、前例のないこの文化祭を成功させるべく、汗を垂らしながら問題に対処する者と、ただ笑顔で佇む者とに分かれていた。
二日目は、主催である台典商高に西高の生徒たちが訪れる。もともと地域住民をも受け入れるキャパシティのある校舎には、人数的な余裕はあるものの、生徒たちの治安や交流の生み出すシナジーに教師たちは不安を抱えていた。
それでも、合同文化祭という先行きの見えない企画が実行に移されたのは、ひとえに台典商高の天使が照らす光が、あまりにも安心感を与えるものであったからとしか、後で振り返ってもまとめることができないだろう。文化の担い手は、卓越した一人ではなく、それを支える有象無象として背景になるような人々だ。
しかし、彼ら彼女らが安心して笑っていられるのは、その大小は問わず、誰もが天使に救われたから、なのかもしれない。
すっかり歩きなれた登校路を進み、いつも通りの教室に辿り着く。
合同文化祭二日目。集合時間の少し早い妹に合わせて家を出た。私のクラスでも、合唱コンクールの練習をするというし、早いに越したことはないだろう。
妹と別れて、教室に入ると、すでに生徒の姿がある。まだ他のクラスメイトも来ていないのに、せっせと合唱練習の準備をするのは、クラスの副委員長だった。
「あれ、朱野さんだ。おはよ」
「おはよう、利希。手伝おうか?」
軽い荷物を置いてCDプレーヤーを教室の隅に運ぶ。朝練では教室でしか歌えないせいで、パートが混ざらないように隅に固まるしかないのだ。
「ありがと。さすがは次期執行部候補さんだ」
「もう、茶化さないでよ」
利希は冗談と言ったように軽く笑うと、誰ともつかない机に軽く体を預けた。
「それで、朱野さんは今日の文化祭も、優栄くんと回るの?」
コンセントを差した手が、唐突な話題にびくりと震える。壁に向いた体を、彼女の方に向けて、何かごまかすべきだろうかと思案する。
「どうかな。あの人、何考えているか分からないもの」
ただ率直に本心を答える。目の前で不敵な笑みを浮かべる短髪の少女、平良利希は、一年三組のクラス副委員長でもあり、天枝のファンの一人でもある。中でも行動力があり、情報網にも精通している彼女が、昨日の天枝の動きを知らないわけもなかった。下手に昨日のことをごまかしても仕方ないだろう。
「そっか。別に、朱野さんを責めたいわけじゃないの。もし、朱野さんが優栄くんのことをどう思っていたとしても、万が一、恋人になりたいなんて言い出しても、私たちは否定したいわけじゃあないからね」
物言いたげに視線を遊ばせながら、利希はそう微笑む。私を理解しているとでも言いたげなその笑みは、すっと私の心に冷たい影を落とす。また恋愛の話だ。誰もが恋愛を、青春を第一にしているかのような物言いだ。そもそも、天枝は友達でもないのだが。
「あなたが素晴らしい人だってことは、誰も疑っていないわ。だって、あの優栄くんが認めてるんだもの。でも、だとしても————いいえ、だからこそ、ね。私たちは朱野さんとお友達になりたかった」
「私たち、友達じゃないってこと?」
「どうかな。朱野さんは、そうだと思ってくれている?」
彼女は、平良利希は私の友人だ。普通の高校生活を送る私にとって、それは正しい仕分けのはずだ。クラスでは話す頻度の高い相手であり、授業でグループを作る際には、多くの場合同じになる。お手洗いに連れ立っていくことも多く、そうでなくとも、移動教室では共に教室を出る。それが友人という概念で表せないなら、何というのだろう。
「友達でも、知っていること、知らないこと、話したい事、話したくないこと、たくさんあるよ。でもさ、私、朱野さんのこと何も知らないの。何も分からないの。それって変だなあって思うの。朱野さんは、私たちと仲良くしたくないの?私のこと、キライ?」
「そんな……嫌いなわけ……」
好きとは言えないかもしれない。特別な感情を持ったことはない、私の平穏な高校生活のランドマークに影が落ちていく。失望と落胆が、私の心を冷静にする。また、私は嫌われる。
「あなたのことが嫌いな人はね、朱野さん。きっと、あなたが思っているより————いいえ、誰もいないわ。みんな、あなたと仲良くなりたい、たくさん話したいって思ってる。だからこそ、どうしてあなたがクラスの私たちと仲良くしてくれないんだろうって不思議がっているだけなの。ねえ、どうして?」
「そんなこと、言われたって————」
私は十分にみんなと仲良く出来ているはずだ。いったい、どこに瑕疵があったというのだろう。
あるいは、これが天枝の言うような人望というやつなのだろうか。それが、決定的に私には無いとでも言うのだろうか。
上っ面の言葉ならいくらでも紡ぐことができる。媚びることもはぐらかすことも、嘘をついてこの場をやり過ごすことくらい簡単にできるはずだ。利希が求めているのは、むしろそんな甘ったるい友情の言葉なのだろう。「私もみんなと友達になりたい」と、そう一言歩み寄るだけで、彼女も、あの子たちも満足してくれる。
簡単なことだ。友達を作ることなんて、とても、簡単な事なんだ。
「————そんなこと言われたって、私には分からないよ。全然、みんながどうしてほしいのかなんて、私には分からない。
だから、ごめんなさい。きっと、私がうまくみんなと話せていないんだと思うから、だから。もっと、みんなが私のことどう思っているのか、私も知りたい。教えてほしい。そうしたら、一つずつ直していけるから」
汗ばんだ手を強く握りしめて、正しくない言葉をひねり出す。でも、それが私の言葉だった。上っ面だけの言葉で取り繕うなんて、私は、あの人とは違うのだから。
「ふふ…………あははっ!」
利希はおかしそうに笑うと、椅子に鷹揚と座った。朝の明るい窓外の景色に視線を投げて、発作のようにひとしきり笑って、顔だけを私の方に向ける。
「朱野さんって、真面目なのね。結日ちゃんとは正反対って感じ」
「あの子、もうそんなに悪い印象が付いているの?」
「ううん、もちろん良い意味で。でも、私は朱野さんのほうが好きになっちゃったかも」
真剣な目で私を見つめる利希から、どこか気まずくて目をそらす。いったい、私の発言のどこに惹かれる要素があったのだろう。また怒られてしまうと思っていた分、好意的な態度への対処は経験が無く困ってしまう。
「えっと、ありがとう?」
「うん、なんだかごめんね。合唱コンクールの当日なのに」
申し訳なさそうに彼女が微笑んだ時、なだれ込むようにクラスメイト達が教室に入ってくる。慌てた様子の男子生徒の顔を見るに、途中から盗み聞かれていたらしい。呆れた気持ちで苦笑いを浮かべる同級生たちを見ていると、扉の向こうの結日と目が合った。
心配そうに胸の前で手を組んだ結日に、大丈夫だよと表情で伝える。
そんな少しの騒ぎと共に、台典商高での初めての文化祭は幕を開ける。
会場の話し声が、九時のサイレンと共に厳粛な空気に変わる。サイレンの鳴り終わりを測るように、ゆっくりと生徒たちの前に現れたのは、副会長の藍虎先輩だ。その後ろを、秘書のように西高校の合辻さんもついてきている。
「みなさん、おはようございます」
おはようございますと丁寧に返答する生徒、おはよう藍虎~と気軽なヤジを飛ばす生徒。そんな反応を予期していたようにたっぷりと間を開けて藍虎先輩は続ける。
「今日は西高の皆さんもおられるからか、例年以上の活気が感じられますね。さて、昨日は台典西高校の生徒会副会長である合辻さんから開会宣言がありましたが、本日は私、藍虎碧より開会宣言を行わせていただきます」
厳粛な空気が少しだけ和らいだように思えたのは、きっと気のせいではないだろう。一年生である自分たちの前にいる在校生たちから、ゲートに入った競走馬のような妙な熱気を感じる。真面目に式辞を述べる藍虎先輩に耐えられないような顔で、にやけ笑いをこらえている生徒もいるようだ。
生徒会室で見る真面目な藍虎先輩も、生徒たちにはからかわれたりしているのだろうか、と私は少しだけ不安になる。天使先輩ほど深いつながりは無いものの、生徒会室では良く話しかけて気にかけてくれる良い先輩だ。行事として司会を務める姿は初めて見ることになるが、冷静で清廉なイメージの藍虎先輩が嘲られているようで、心臓の鼓動が早くなる。
「台典商高の皆さんは、昨日西高校へ通学した際、このように思われたことでしょう。ああ、なんて歩きやすい登校路なんだろう、と。西高校の生徒さんにおかれましては、本日は長く険しい坂道をお越しくださり大変恐縮です。しかしながら————」
焦らすような口上と丁寧で柔らかな口調に、生徒たちの期待感は高まっていく。風船が膨らんでいくようなボルテージの上昇に、その破裂よりも委縮を恐れてしまう。肩透かしを食らわないかと固唾をのんで続きの言葉を待つ。
「————この山に囲まれた台典商高にも、西高校とは違う良さがあると、生徒の皆さんはご理解のことと思います。昨日はまだ慣れない校舎で楽しみ切れていないようにも見られましたが、本日はホームグラウンドとなるここで、西高校の生徒さんたちを楽しませ、私たちも存分に楽しむ。そんな思いの、努力の、協調の成果を見せる準備はできているでしょうか————」
問いかけるような言葉にも、誰も答えない。陸上のスタートのような、張りつめた静寂が満ちている。鳥肌が立つような緊張感。一杯まで息を吸っていないと堪えられない期待感が、藍虎先輩に向いている。
「————それではこれより、台典商高、台典西高校合同文化祭、二日目の開会を、宣言しますッ! みんなッ、楽しんでいこうっ!!!」
「————————っ!?」
藍虎先輩がこぶしを突き上げると、呼応するように先輩たちの歓声、嬌声、雄叫びが上がる。体育館が揺れていると錯覚するスタンディングオベーション。
立ち上がった生徒たちの隙間から見える合辻さんは、心から驚いたような表情で笑っている。後ろを振り返るまでも無く、西高校の生徒は熱気に圧倒されていることだろう。
これが、藍虎先輩の魅力、あるいは人望というものなのだろうか。生徒たちを惹きつけ、盛り上げ結束させる。それは言霊というだけではなく、先輩のこれまでの築き上げた信頼や信用が成せるものなのだろう。
否が応でも高められた胸のときめきに、私は膝の上の拳をぎゅっと握りしめた。流石は天使先輩と並んで執行部で活動している氷の虎、藍虎先輩だ。
藍虎先輩は満足げな笑みを浮かべたまま、興奮したように小躍りを始めた生徒を放って司会席に戻っていく。多少の問題行動も近隣に迷惑をかけづらいのが、この学校の良いところだ。
開会宣言が終われば、さっそく舞台発表に移っていく。長い来賓紹介の時間はまた明日だ。いくつかのクラスは、教室展示や合唱練習のため、体育館を去っていく。西高校の生徒たちも、ここからは自由行動だ。私たち一年三組は、合唱練習の指揮を執っている天枝の判断で、昼休憩の時間まで自由行動となっている。
「それで、女神君は練習などもう不要と言ったところかな」
「まあ、声出しなら昼休憩で足りるし、詰込みはあまり好きじゃないから」
合唱練習に行ったのだろうか、空席になった隣の席に、厚かましく天枝が移動してくる。一人でゆっくりと舞台発表を見ていたかったのに、迷惑な奴だ。
「そうかい。舞台発表をするのは上級生の先輩方だが、空気感を知っておくのは、生徒会長候補としては当然のことだねェ。来年は僕たちが品評する側になるのだからさ」
「別に、品評会ってわけじゃあないでしょうに。それとも、あなたは先輩みたいに舞台発表でもしたいわけ?」
軽音楽部の発表に混ざって、楽しそうにキーボードを弾く天使先輩を見てそう呟く。楽しそうな姿は羨ましいが、晒しものにされるようにボーカルを押し付けられている西高校の波泉さんの可哀想さと相まって、楽しみ切れない。昨日から彼の調子が悪そうだったのは、このステージを思ってのことだったのだろうか。そう考えると、愉快ではあるが。
「まさか。僕がステージに立つときはソロに決まってるからねェ。もちろん、今日は特別さ」
「そりゃすごい」
案外波泉さんは西高校でもいじられているようで、恥ずかしがりながらもやや上手い歌を披露する姿に、拍手と野次が飛んでいる。西高校の生徒も商高の空気に馴染み始めているらしい。すっかり座席はごちゃまぜだ。
「そういえば————」
ふと気が向いて、私は今朝の利希との出来事を天枝に相談してみることにした。頼りにするというのは癪ではあるが、振舞い方やコミュニケーションという点で、彼の受けがいいのは確かなことだ。
「私って、人望無いのかな」
「さてねェ。僕の知る範囲では、それほどないわけではないと思うがね。平良くんの真意を察するならば、単純に君と友達になりたかったのではないかな?」
「でも、友達と友達になるなんて、どうしたらいいわけ?」
返答のない天枝の方を向くと、彼は物言いたげに私をじっと見つめていた。
「なに?」
「いや、無自覚かと思ってね……。思うに、君は友人づきあいで自分を隠しすぎている節があるねェ」
「それの何がダメなの? 隠し事の一つや二つくらい、あなただってしているでしょうに」
「隠し事がダメなんじゃあないよ。女神君が隠しているのが、本心だということがいけないのさ。君は友達の前で悪口を言わないし、悪口に同調したりもしない。友達に媚びないし、嘘を言うことも無い。それは真面目で真っ当な生き方かもしれないけれども、つまらないパーソナリティでしかない。端的に言って、人としての魅力が無い」
「アドバイスにかこつけて、言いすぎじゃない?」
「ハハ、そうして素直でいる方が、君はずっと魅力的だと思うがね。人は君が思っているよりも寛容だよ」
余裕そうに笑う天枝の顔に腹が立つ。軽く足でけると、天枝はふざけた笑顔を止めた。
「そうだ。君ィ、僕の恋人になってみないかい?」
「それが告白だとしたら0点だと思うけど。一応、どういう意図か聞いてもいい?」
「いやなに、昨日も君の妹さんのご友人にごちゃごちゃと聞かれただろう。正直、恋愛という奴には興味が無くてね。だというのに、何度断っても僕を呼び出す手紙は止まないんだ。君と違ってね」
「いちいちウザいな」
「どうせ君とは執行部でともに活動することも多いだろうし、昨日みたいに聞かれた時も、そうだと一蹴すれば対応も楽だと思わないか?」
「もっと根掘り葉掘り聞かれるに決まってるでしょうが。それに、恋人って、そんな打算的になる関係じゃないよ」
天枝は考え込むように顎に手を当てた。眼鏡の奥の瞳は意外そうに彼方を向いている。
「恋人とは、どのようにしてなるものだと、君は思うんだい?」
「どうって…………そりゃあ、時間をかけて心を通わせていって……少なくとも、得だからなんて理由でなるものではないよ」
「ふっ……そうだね。すまない、今の話は忘れてくれ」
「……結日に声でもかけたら許さないからね」
「まさか。僕は君だから声をかけたんだよ。妹さんに迷惑をかけたりはしないとも」
軽音楽部の演奏が終わり、指笛と拍手の混ざる歓声と共に、天使先輩もステージを去った。そうこうしているうちに、舞台発表も終わったらしく、昼休憩に入るアナウンスが流れた。
「よし、練習の時間だ」
天枝が立ち上がって手を差し出す。私は手を取らずに立ち上がった。
「言われなくても」
くじ引きで公平に選ばれた発表順は最後だった。他のクラスの捌けた舞台裏に、緊張で噴き出した汗を拭いながら戻ると、遅れて会場の拍手が耳に入った。緊張しすぎて音が聞こえていなかったようだ。
「良い合唱だったと思うよ、みんな。ただ、一位を目指すにはもう少し研鑽が必要だというのは、わざわざ僕の口から言うまでもないだろう。放課後、もう少し練習しようか。もちろん、用事があるなら無理をしないように」
総合指揮の天枝の言葉に、クラスは解散する。自由時間になり、体育館の出口に向かうに従って足並みはバラバラになっていく。
「それじゃあ、女神君。今日も視察に行くとしようか」
「はぁ…………」
恋人どうこうという話を断ってもやはりこうなるのかとため息が出る。もう何か天枝について考えるのも面倒で、仕方なく彼の手を取った。
手を引かれるままに文化祭を回っていくと、趣向を凝らされた展示に目を奪われる。天枝と二人で回っていること以外は最高の文化祭に思えてくる。
「お二人ですか?」
「いや、僕一人で構いません。君ィ、ここは入らないだろう?」
天枝の言葉に顔を上げると、そこは美術室だったが、おどろおどろしい色のパレットには、お化け屋敷と描かれていた。
「ああ……うん、そうだね」
すっとつないでいた手を離し、天枝が入室名簿に名前を書いた。本当はビビり症のくせに天枝が堂々と教室に入っていくと、受付の先輩が優しく話しかけてきた。
「彼氏さん?」
「いえ、ただの友人です」
「そっか。怖いの、苦手なの?」
「怖いのは大丈夫、ですけど……暗い場所と狭い場所が苦手で……」
少し嫌な記憶を思い出しそうになって目をそらした私を落ち着かせるように、先輩は優しく笑う。足音に視線を向けると、先輩と同じ三年生の男子生徒が歩いてきていた。
「お疲れ、受付代わろうか?」
「あ~……。ありがと、お願いしようかな。ねえ、あなた。ちょっと歩きながらお話ししない?」
先輩は私に視線を向けて、男子生徒の方を示すように軽くウインクした。私が頷くと、二人は親密そうに微笑みあうと、軽く小突き合ってから別れた。
「……彼氏さんですか?」
美術室から少し離れてから尋ねると、先輩は特別棟の染みのついた天井を見上げながら頷く。
「うん。同じ美術部なんだ」
「あの、先輩————」
「私、細小路って言うの。あなたは?」
天枝を置き去りにしてよかったのか不安になって口を開くと、細小路先輩はそう聞いてきた。
「私は、朱野女神といいます」
「女神ちゃん、か。良い名前だね。まるであの子みたい」
「そんな……私自身が良い人間にならないと、何の意味も無いですよ」
どこか懐かしむように微笑んだ先輩は、私の言葉に目線を向けて微笑んだ。
「そんなことないと思うなぁ。名前って、一番身近で自分を表してくれるものだもん。それが魅力的ってすごいことだよ。それも女神だなんて、きっとたくさん愛されることを願って付けられてると私は思うなぁ」
「それは…………」
脳裏に幼い日の母親の笑顔が浮かぶ。結日と三人でどこかに遊びに行って、色んなものを買ってもらって記憶がある。楽しかった日々の記憶、確かに私たちを愛してくれていた母の記憶が蘇る。
「女神って一口に言っても、色んな女神がいると思うけれど、あなたはきっと太陽みたいな女神だと思うわ。なんて、今知り合ったばかりで何を言っているのって感じかもしれないけれど。でもやっぱり、なんだかあの子と似ている気がするから」
「あの子、というのは……?」
細小路先輩は静かに立ち止まり、寂しそうな表情で胸に手を当てると、その手を静かに窓外の太陽へ伸ばした。
「私の、好きだった人。親友だった人。……私を救ってくれた人なんだ。誰よりも眩しい、太陽みたいな女の子。あの子のおかげで、私の人生は色づいたの」
「親友だった、って……その……」
最悪の可能性が思い浮かび、これ以上話させてしまうことに罪悪感を覚える。しかし、意外なほどに晴れやかな顔で先輩は微笑む。
「ああ、ごめんなさい。ちょっと話さなくなったってだけだから。あの子はあの子の道を進んで、私は私の道を進む覚悟を決めたというだけだから、大丈夫だよ」
安心させるように手を振ってごまかしながらも、やっぱり先輩は少しだけ寂しそうな表情に見えた。
「恋って、そんなに素晴らしい物なんですか」
それが正鵠を射ているかは分からなかったが、どうしても先輩の話を聞いていると、さっきの男子生徒との関係が『あの子』との関係をほつれさせた原因に思えた。親友と別れたことが細小路先輩にとって良いことだったのかを判断することは、私にはできない。だけれど、それだけの力が恋という物にあるとするならば、それはあまりにも残酷で暴力的だと私は思う。
「恋は、素晴らしい物なんかじゃ無いよ。辛くって、苦しくって、だけど少し甘酸っぱくて。そんな『普通』のこと。
……私はね、『普通』の人になりたかったの。そう、『普通』に人と笑い合って、自分のやりたいことができて。苦しくてもね、誰かと笑い合えたら大丈夫だって思えるような、そんな『普通』が私の夢だった。だから、私は恋を選んだ。あの子といると、また私は『普通』ではなくなってしまいそうだったから」
「『普通』の人に……」
細小路先輩は、どこか寂しそうに、けれど未練の無いさっぱりとした顔で、私にそう語った。
恋なんて、私には分からない。その正しさなんて、もっと分からない。けれど、細小路先輩の選択が先輩にとって良いことだったとは、私にはどうしても思えなかった。それはひとりよがりで、地獄に落ちても気づかない盲目な思いでしかないだろう。
私にそう思わせるのは、きっとただのプライドだ。誰かに媚びたくない。正しくありたい。恋なんて、愛なんて、そんなものに穢されたくない。そんな意地が、子供みたいに私にまとわりついている。私が幸せになることを、誰よりも私自身が拒んでいる。
普通でありたいだなんて、もう私には願えない。私は、細小路先輩のように純粋に幸せを願うことはできない。
「ふふ、私の卒業制作の題材でもあるから。良かったら見に来てね」
細小路先輩は優しくほほ笑むと、私の手を取った。窓から差し込む陽光が影となり、先輩の輪郭がくっきりと見える。
「さっきは、今知り合ったなんて言ったけど、この学校であなたを知らない人はいないわよ、女神ちゃん。話してみて分かったけれど、やっぱりあなたはあの子に似てる。だからなんだか、いつもよりおしゃべりになっちゃったみたい」
照れ臭そうにはにかんで、先輩はまた歩き出した。もう結構歩いたことだから、天枝も涙目でお化け屋敷を出ている頃だろう。
美術室まで戻ってくると、やはり疲れた様子の天枝が細小路先輩の彼氏と話していた。
「おや、お戻りかい女神君。まったく、僕が待たされる羽目になるとはね」
「ごめんごめん、怖すぎて失禁したら、あなたもさすがに見られたくないかと思ってさ」
「君ィ、馬鹿にするのも大概にしたまえよ……」
冗談のつもりだったが、いつもよりも気に障ったところを見ると、昨日のお化け屋敷よりも怖かったらしい。天枝にも気にする一線があるのかと少しだけ意外に思う。
「続き、まだ巡りたいところはあるんでしょう?」
「ああ、そうだがね……」
不服そうに頭をかいて、天枝は私の方に手を差し出す。ここまで手をつないできたせいで、すっかりそれを当然だと思っているのかもしれない。私は天枝の手の甲を無視して、軽くスキップして先を行ってから振り向いた。
「ほら、早く案内してよ。副会長候補さん?」
「ハッ、僕も君が嫌いになりそうだよ、まったく……!」
言葉とは反対に口角を上げながら、天枝も歩き出す。
ああ、やっぱりあなたのことは嫌いだけれど、少なくとも、隣を歩いているのが、クラスの友人ではなくあなたで良かったと、私はそう思うのだ。恋でも愛でもないこの変な感情の名前を私はまだ知らないが、それはまだ不確かな私の高校生活で、数少ない安心感を覚える物だから。
それから、私はまた天枝と二人で学園祭を回った。美術館の解説でも聞いているような、トキメキも幸せも無い静かな時間だったが、どこか満ち足りた経験が溜まったような気がした。
もし、私に恋人ができたとしたら、もっと満ち足りた気分になるのだろうか。不意に浮かんだのは、媚びた笑顔を浮かべる母の姿だった。頭を振って余計な想像を追い出す。
夕焼け落ちていく太陽に、細小路先輩の言葉を思いだす。
普通の人生とは何なのだろうか。それはきっと、私の仰ぐ空の先には無くて、けれどきっと、とても幸せなものなのだろう。
恋に憧れて、愛に憧れて。恋をして、愛を知って。
それが普通の生き方なのだとしても、私は、そんな普通などいらない。
私が私らしく生きるというのは、私が私の正しさに殉ずるなら、そんな歪んだ生き方なのだろう。きっと天枝がそうであるように、他人から見ればちっとも正しくないのかもしれないけれど、私は、私らしくあるしかないのだ。
それは、大人になれば忘れてしまうような青春の一ページに過ぎないのかもしれないし、人生というスケッチブックに染み付いた巨大な黒点なのかもしれない。
将来なんて考えるのはすごく久しぶりだ。進む先に光があると分かったのは、天使先輩の存在を知ったその時だ。だから私は、前に進むしかない。振り向いてしまえば、きっと暗闇に飲み込まれてしまうから。
今はただ、私を救ってくれた、きっとたくさんの人を救ってきた光を目指して、私は歩き続けて良いのだと、そんな決意を胸に秘めて、台典商高での二日目の文化祭は閉幕を迎えたのだった。