第六十五話 天使に救われた誰かの話(前編)
・主な登場人物
朱野女神:台典商高一年三組の女子生徒。記憶力が良く、一度見た物は忘れられない。中間テストでは学年一位だった。
天枝優栄:台典商高一年三組の男子生徒。自信家で言動はムカつくが、真面目で誠実な眼鏡くん。
愛ヶ崎天使:台典商高の生徒会長。
朱野結日:台典商高一年四組の女子生徒。女神の双子の妹。学力はそこそこだが、姉よりも運動神経が良い。
波泉優吾:台典西高校の生徒会長。ナルシストで調子に乗りがち。
合辻要芽:台典西高校の生徒会副会長。波泉を馬鹿にしがちな明るい少女。少し人見知り。
九里匠:台典西高校の二年生副会長。真面目で実直で少しだけ頑固な少年。
茶薗梨穂:台典西高校の二年書記。小柄で真面目な優等生。
あの学校には、天使がいる。
それは、ある公立高校について囁かれた平凡な噂である。
六月の最終週。それは台典市の公立高校では例年期末テストの範囲が公開される時期であり、同時に、文化祭が開催される時期でもあった。
台典市のターミナルともいえる駅から、北側の坂を上った先にある台典商業高校。地元住民からの評価の高いその高校の生徒会執行部の企画により、駅を挟んだ反対側に立地する台典西高校では、文化祭を合同で開催することが決定した。
教師陣とも掛け合い、金曜日から日曜日の三日間をかけて行われるその文化祭は、今後の両校の関係性、そして合同行事の将来性を計る重要な機会だといえる。生徒たちは、振替休日となった月曜日を考えても、休日が少なくなったことに不満を垂れつつも、新たな出会いに浮足立っていた。
一日目は、台典商高の生徒たちが台典西高の文化祭に参加する形となる。その裏では、台典市に勤務する教師たちの慰労も兼ねた交流会も予定されていた。
ともあれ、急ピッチで進められた企画は開催日となっても完璧とは言えない状況だ。各生徒会執行部の生徒たちは、考え得る問題をリストアップしながらも、迫りくる臨機応変な対応を想像して気を引き締めるのであった。
いつもと違う登校路。私は一度目とは違う感慨を持って、その校門をくぐる。
台典西高校。何を隠そう、中学時代の私の志望校だった学校だ。台典二中は、他の市内の中学校と比べても学力の高い方ではない。多くの生徒は近場の台典西高か台典中央高校に進学し、台典商高に進学する生徒など、毎年数人の優等生だけだ。成績の芳しい方ではなかった妹の合格が分かったときも、先生方はとても喜んでいた記憶がある。
初めてこの学舎に訪れたのは、オープンスクールのときだ。その時にはすでに、私の第一志望校は台典商高に変わっていたが、先輩たちのよしみもあり、見学に来ざるを得なかった。
「お姉ちゃんは、今日忙しいの?」
一緒に家から登校してきた妹は、普段よりもそわそわとした様子で話しかけてくる。彼女にとってこの学舎は、何度も通う想像をしてきた場所だろう。目を輝かせて学園祭の雰囲気を楽しむ結日の様子に、私は少しだけ申し訳なくなる。学力や評判と言ったものが良いとはいえ、私のわがままで彼女に無理をさせてしまったのは事実だ。
「ううん、結構自由時間はあるってさ。あ、でも、天使先輩に呼ばれてるから、ちょっとだけ結日一人で……って、クラスの友達と回るんだっけ」
「まあね。お姉ちゃんも、執行部の人と回るんじゃないの?」
「まさかぁ。先輩たちはみんな忙しいから無理だよぉ」
「先輩じゃなくて。……ほら、天枝くん、だっけ?仲良いんじゃないの?」
「はぁ!? あんな奴と仲良いわけないでしょ。そもそも、生徒会長を目指してる敵なわけだし……」
「敵って……。お姉ちゃん。結局来年は執行部で一緒になるんだから、表向きだけでも仲良くしといたほうがいいと思うよ?」
「善処はしてるからっ」
すでにいくつかのテントに準備が完了しつつある敷地内を進みながら、結日と他愛ない話をする。少しだけ苦手意識を持っていた台典西高の空気に、ようやく落ち着いてきたところで、また少しだけ苦手な声がした。
「おや、女神君。朝から姉妹で仲が良くて結構なことだねェ。まさか、他校の文化祭に浮かれて執行部の仕事を忘れたとは言わせないよ?」
「言わないし、私たちはまだお手伝いでしょ? よくあなたは、そんなデカい顔ができるよね」
「これが上に立つ人間の仕草というものだよ、君ィ。少しはその猫背を直してから言うんだね」
売り言葉に買い言葉というか、いちいち言動がムカつくやつだ。とはいえ、生来の姿勢の悪さはどうにも直すことができず、反論しづらい。
「それはともかくとして。朱野さん、お姉さんを少し借りていくよ。話した通り、執行部のお手伝いがあるからね」
「はいはいっ、ぜひお願いします! それじゃ、お姉ちゃんもしっかりね」
妙に上機嫌に結日は歩き去っていく。私は天枝と二人きりにされてため息を吐く。彼は気にしない様子で、先輩たちの方へ私を案内した。
前はあれほど彼を不審がっていた結日が、嫌になるほど私を茶化すようになったのには理由がある。それは、天枝優栄という男が、単に高慢なだけの人間ではないということが周知され始めたことだ。
私と同じく、中学時代に生徒会長を務めていたという彼は、口こそ煽るようだが、気性は優しく品性も良い。おまけに父親は教育委員会に勤めているとか、幼いころから帝王学を学んでいたとか(この辺りは噂の尾ひれだろうが)、ともかく彼を讃えるようなことばかりが広まっていた。私のような辺鄙な中学出身の貧乏娘とは土台が違うのだと言わんばかりに、彼の噂話は華美に彩られた。
有名になれば、彼が注目され恋愛だの私生活だの、下らないことも話題になる。しかし、面倒なことに、彼はその誘いの全てを優しく躱して、執行部の手伝いを優先しているのだった。
一年生の羨望と期待の黄色い視線の先にいる彼に、鬱陶しく絡まれる羽目になった私は、本当ならばファンクラブみたいなよく分からない生徒の群れに轢き殺されているところだと、クラスメイトは笑っていた。幸いにも、その車輪の担い手ではないクラスの生徒たちによると、天枝は一応の所、私には配慮してくれているらしい。フェアでいたいから、と彼は言っていたが、そんなのは全然フェアじゃないと私は思う。
「おはよっ、ごめんねせっかくの文化祭なのに」
「いえいえ、むしろ、これでこそ生徒会執行部のお手伝いというものですよ」
「はい。先輩こそ、貴重なお時間をありがとうございますっ」
合流した天使先輩は、西高の校舎を慣れた足取りで進む。他校のはずなのに、もう自分の物のような落ち着きようだ。
今日先輩に呼び出されたのは、大した用事ではない。
そもそも、手伝いである私たちに、行事運営の根幹に関わるほどの責任は任せられないのだろう。とはいえ、何もないというのも、と先輩が提案してくれたのが、西高の方との関係作りだった。他校とはいえ、この合同文化祭を皮切りに、様々な交流を計画している両校の発展のためには、未来の執行部である私たちが顔を売っておくことも重要だ。
「別に怖い人ってことも無いから、安心して大丈夫だよ。それに、女神ちゃんはちょっとびっくりしちゃうかもね」
「ハハハ、だそうだが、腰を抜かさないでくれたまえよ、君ィ?」
「抜かすわけないでしょ。でも、びっくりってどういう……?」
天使先輩の含みのある言葉に、私は首をかしげる。
西高の教室配置は、台典商高とそう変わらなかった。二階の職員室で先生方に挨拶してから、廊下の奥の生徒会室へ進む。天使先輩以外の執行部の先輩方は、すでに準備に移っているらしく、先生方は慣れた様子で私たちに優しい視線を向けてくれた。
「すみませ~ん」
生徒会室の扉を、天使先輩は三度ノックする。生徒会室の中で微かな話し声が聞こえた後、不機嫌そうに椅子を引く音が響き、重たい足音が近づいてきた。
「ようこそ、台典西高校生徒会執行部へ。歓迎するよ」
とても歓迎とは思えない渋い顔をした男子生徒が、扉を開けて中へ招き入れる。その後ろには、ゆっくりと他の生徒も並び始めていた。すでに私たちの顔合わせの話が通っていたのだろう。
「別に顔合わせなら来年でも、体育祭でもいいだろうに。まったく……ウチからは紹介できないが、構わないね?」
「ええ、もちろん。それじゃあ、まずは二人から。軽い自己紹介で大丈夫だよ」
私が一歩踏み出す前に、天枝が前に出る。こういう思い切りはどうしても勝てない。
「では、まず僕が。台典西高校生徒会執行部の皆さん、お初にお目にかかります。
台典商高一年の天枝優栄と申します。以後お見知りおきを。御羽中学でも生徒会を経験していましたから、その経験を生かして邁進していきたいと思います」
よろしくお願いしますと言いながら一歩下がった天枝に替わり、私が前に出る。
「続けて失礼します。同じく台典商高一年の朱野女神です。
天枝くんと同じく、私も台典二中————————————で、生徒会長を、務めていましたので、天使先輩に学び、西高の皆さんとも良好な関係を築いていきたいと思います。よろしくお願いします」
自己紹介をしながら西高の執行部の生徒たちに向いた瞬間、見知った顔を見かけて一瞬息が詰まる。思い出したくはない記憶、面白くも無い記憶。私にとって、帰りたくない場所がその故郷、台典二中なのだった。
「……女神ちゃん?」
私の少しだけ崩れた調子を心配するように、天使先輩が小さく声をかけてくれる。本当に気遣いの目が広い人だ。
「二人とも元生徒会長とは、台典商高は人材の金脈なようで何よりだ。それに、台典二中と言ったら————」
さっきからやけに自信気で偉そうな、けれど少し具合の悪そうな生徒————おそらくこの人が生徒会長なのだろう————が、一人の男子生徒に目線を投げかける。
「ええ、ちょうど僕の後輩で後任です。商高に行ってたんだな……朱野、さん。妹さんは、元気か?」
私の先輩、台典二中の前の代の生徒会長。九里匠先輩は、昔と変わらない真面目そうな表情で、そう優しくほほ笑んだ。
「はい、結日も商高で。今日も友達と回ると言っていました」
「それは————何よりだね。君も元気そうでよかったよ」
ぎこちなく笑う匠先輩の前に、小柄な女子生徒が割り込んで、むすっとした表情で会話をさえぎった。
「旧交を温めるのは結構ですが、時間は限られているのですからねっ」
「これは申し訳ない。愛ヶ崎会長も、天枝さんも失礼しました。
僕は、二年の九里匠と言います。彼女、朱野さんと同じ台典二中の出身で、今は生徒会執行部の副会長をやらせてもらってます」
「同じく二年の、茶薗梨穂です。役職は書記です。お見知りおきを」
「よろしくお願いします」
私が軽くお辞儀をすると、茶薗さんは満足げに数歩下がった。
「じゃあ、私かな。合辻要芽、三年で副会長だよ。
まぁ、もう卒業だし絡みは無いかもだけど、不安な事とかあったら遠慮なく言ってね。学校は違うけど、これでも先輩だからさ」
「まったく、こんな先輩になるなの典型だな、合辻は。
僕は波泉優吾という。僕のことを覚えるくらいなら、匠や梨穂と仲良くしてやってくれたまえ。ウチもじきに後任は探すつもりだから、その時は次の世代もよろしくしてくれよ」
「それはこちらこそ、ね」
天使先輩が微笑むと、波泉さんは煩わしそうに顔をゆがめる。怖がっているような表情に、二人は仲が良いのだろうかと見える。関わりも短いだろうに、そんなに距離を詰められる先輩のコミュニケーション能力が羨ましい。
「それじゃあ、顔合わせはこんなところで。また、一年生が決まったら挨拶しに来るから。とにかく、今日から三日間、気張っていこうねっ」
合辻さんが能天気に元気な返事を返し、調子に合わせきれない二年生たちがぎこちなく手を挙げた。波泉さんは肩を落としているが、やはり体調が悪いのだろうか。
ゆっくりと閉まる扉の向こうで、少しだけ悲しそうな笑みの匠先輩の表情が目に残ってしまいそうだった。
「それじゃあ、ここからは自由行動。ただし、一つだけ条件を付けるなら、それは楽しむこと。どこが良くて、どこを不満に感じたか。きちんと胸に残して存分に堪能してきてね」
それだけ言い残して、鮮やかなウインクと共に天使先輩は走り去ってしまった。
「とのことだが、一緒に回るかね?」
「まさか。どうしてあなたと回らないといけないの?」
「そうか? 存外効率的だと思うがね。それに、生徒会執行部という運営の立場で言うならばだね、文化祭を一人で回っている人を見たことがあるのか?」
まるでそんな人間がいないと言いたげな言い方にカチンとくる。
「そう言う人だっているでしょう。現に————」
私がそうだと言おうとして思い留まる。孤独なことは事実ではあっても、口に出すのは沽券にかかわるのだ。
「思うに、それが悪いことだとは言わないがね、僕たちの仕事は、君のような人にも、大勢で楽しむことを教えるということではないのかな。何しろ、台典商高は————」
「『思い、努力、協調』が理念だから。……はいはい、分かりました。でも、あなたは私と回ることに、抵抗とかないの?」
「抵抗、とは?」
「ほら、変な……噂、とか」
「そんなもの、後ろめたいことが無いならば気にすることも無いだろうに。もちろん、君が気にするというのなら、僕も自重するがね」
気を遣うように私を見た天枝に、私は自分が気にしていたことが馬鹿らしく思えてため息を吐く。嫌味でうざったらしいと思っても、こいつが私のライバルとなることに、そして、執行部の仲間になるであろうことは変わらないのだ。
「それじゃあ、案内はお願い。下調べしてきてるんでしょう?」
「ああ、もちろんだよ、女神君。その目で僕の優秀さを焼き付けておいてくれたまえ」
窓から差し込む明るい朝の陽光を受けて肩をすくめる彼は、相変わらず面倒な人間だったが、少しだけ頼りになるように思えた。
それから、私は天枝と二人で文化祭を堪能することになってしまった。
他校の校内だからか、私が高校デビューに成功したのか、みんな天枝に視線を奪われてでもいるのか、想定していたよりも、他の生徒に声をかけられることも、男女が二人で回っていることに何かを囁かれることも無かった。
一日目の内容は、台典商高で明日行われる内容とほとんど同じだ。違うのは担い手である生徒たち。それ故に校風や特色が色濃く出ている印象だった。
西高の一年生の合唱コンクール練習を観覧し、この一時間足らずで全ての一年生の顔を見たことになるのかと小さな驚きを感じる。結局のところ、名前が分からないのでは仕方がないのだが、自分と同じ代の生徒会長はこの中から出てくるのだ。
「歌声としては平凡だねェ」
「先輩に聞こえたら大目玉だよ、それ」
「まァ、事実を言ったまでさ。彼らも本番までには仕上げてくるだろうさ。僕たちも、明日同じように思われないようにしないとねェ」
「そう言えば、例年リハーサルの時は、執行部の人しか聞いてなかったんだよね」
「そのようだね。他校生の観客がいれば、僕らは楽しめるし、彼らは身が引き締まる。互いにその緊張感を感じることで、良い練習になるということだろうね。本番が一度きりでは、慣れる物も慣れられないだろうからね」
「確かにそうかもね。聞いてる分には楽しいだけだけど」
暗い体育館の非現実味に、少しだけ文化祭を楽しく感じ始めながら、体育館を後にする。天枝が言うには、この後の部活動発表は、他校生がやっているのを見ても面白くもなんともないそうだ。それ自体には、自校でも変わらないのではと思いつつも黙っておく。
体育館から出て、校舎の外から昇降口の方へと戻る。敷地内では出店のテントがちらほら見える。台典商高とは違い、商業科のように意欲的に出店をするクラスが無い西高だが、天使先輩の計らいと商業科の飽くなき商魂によって、特別に西高での出店が行われている。台典商高で開催される二日目はともかく、両校で別れることになる三日目は分担して出店するというのだから、すごい執念だ。
校舎に入ると、あちこちに教室展示の勧誘ポスターや掲示物が並んでいる。台典商高よりも教室展示が多い分、その熱意も高いようだ。
「なんだい、君ィ。お化け屋敷は苦手かい?」
「苦手というか、暗いところはちょっと……」
天枝は困ったような表情で肩をすくめると、無言で私の方に手を差し出してきた。金でも無心するように、手のひらを上に向けてなにか言いたげに首をかしげる。その思わし気な目に、うっすらと恐怖が背を駆けのぼってくる予感が冷たく走る。
「……なに?」
「なにとは心外だね。手を握っていてあげようと言っているのだが」
自分を疑うことのないその頓狂な言い草に、思わず私は噴き出してしまう。彼の純粋な気遣いから出た、似合わない態度がどうにもおかしい。
「からかうのは止めてくれる?」
「……ふむ。それなら僕だけで楽しませてもらうよ。君は、この辺りで待っていてくれたまえ」
一人で臆せず恥じらいもせずお化け屋敷に入っていく天枝を見送って、廊下の壁に背をもたれさせる。痛快な悲鳴が聞こえてくる教室に、思わずクスリと笑ってしまった時、ちょうど、結日が友人たちと通りがかった。
「あ、お姉ちゃん。どうしたの、お化け屋敷の前なんかで」
「ううん、人待ちなの」
私が、天枝の悲鳴に肩をすくめると、結日も察してくれたのか薄くほほ笑む。
「そうそう、二小の友達にも偶然会ったんだよ。ほら、ゆっちゃん、お姉ちゃんだよ! なんと、今彼氏と回ってるの」
「ちょ、ちょっと、結日!?」
「そうなんですか、高————朱野さん?」
「勘違いされたら困るから、冗談も大概にしてよ、結日っ」
妹の昔馴染みに呼ばれかけた懐かしい名前からも気をそらすように、結日を軽く小突いてごまかした。ちょうどお化け屋敷から出てきた天枝にも、どうにか弁明してもらおうと目線を向ける。
「ふう、まあそれなりの怖さだったね……なんだい、女神君。それに妹さんも、楽しく回れているようで何よりだが」
「あの、た————朱野さんの彼氏さん何ですか?」
天枝のことを先輩だとでも思ったのか、ゆっちゃんは興味津々にそう聞いた。怖いものなしなのかこの子は。
天枝は、面倒そうに私を一瞥すると、ため息交じりに答える。
「いや、違うが……ただのクラスメイトだよ」
「でもでも、文化祭を一緒に回るってことは、それなりに好意があったりっていうことも……?」
「いや、別にないが……ただの友人だよ」
友人でもないつもりだが? という思いを込めて結日を睨むと、結日はごめんごめんという表情でゆっちゃんを引きはがしてくれた。キラキラと目を輝かせて連行されていく彼女に、恋愛のような人間関係に踊らされると人間はこうもおかしくなれるのかと感嘆すら覚える。
「なんだい、あれは」
「私にも、さっぱり」
「そうかい、それよりも君ィ……………………いや、何でもない。まだ回っていないところも多い。時間一杯楽しもうじゃないか」
「そうしましょう」
恋愛だのなんだのと言う話を引きずらないでいてくれることには、少しだけ感謝しながら、私は天枝と遺憾ながら西高の文化祭を堪能したのであった。
終業時間のチャイムが鳴り、帰宅時間に縛りの無いためまばらに校舎を後にする生徒たちとともに、私たちも校舎を後にする。馴染みのない校舎を後にするというのも、なんだか不思議な気分だ。
「それじゃあ、ここで。また明日」
校門を出たところで私がそう言うと、天枝は一瞬不思議そうな顔で立ち止まってから、得心がいったように私の隣に戻ってきた。
「ああ、妹さんと待ち合わせをしているのか。僕も待つとするよ。一人では退屈じゃないかね」
「あなたみたいに寂しがりではないけど」
「そうかい? それなら、君は随分と強い心を持っていることになってしまうがね」
くだらない言葉遊びを鼻で笑って、結局彼が隣に居座ることを赦してしまう。信頼しているわけでも、信用しているわけでもない。好きではないが、嫌いと言っていしまえるほど、彼は悪い人間ではないと思い始めていた。
「一つ、聞きたいことがあるのだが、君の楽しい気分を害したくはない。構わないかね」
「お好きにどうぞ。一日あなたと文化祭を回るより不快にはならないと思うから」
回りくどい、腫れ物に触るというよりは、手術をする医者のような自信に満ちた態度に、彼の知りたいことは、恋愛や情事の話ではないのだという確信があって————それはある意味信頼ともいえるのかもしれないが————だからこそ頷く。きっと、その質問は、愛の告白なんかよりもずっとおぞましく、私の心を素手で触るようなものだと分かっていても、この一瞬だけなら、この心で閉ざされた扉に触れてみてほしいと思ったのだ。
「それは結構。…………なぜ、君は台典西高に行かなかったんだい? もちろん、君が愛ヶ崎先輩に憧れていることは知っているよ。君の学力なら、台典商高がふさわしいことも頷けよう。だが、直属の先輩はおらず、妹とともに問題なく通える上に、二中の生徒も多いこの学校をなぜ避けたんだい?」
「答えが分かっているなら、わざわざ聞く必要はあるの?」
「…………そうだね、質問を変えるよ。なぜ君は、あの先輩には憧れなかったんだい?」
誠実な困り顔で笑う、匠先輩の顔が浮かぶ。それはすぐに苦い記憶と共に砂のように消えていく。思い出したくなかった静寂が、フラッシュバックする。
「…………あの人は、救えなかったから」
帰っていく生徒たちの雑踏に紛れるような声で、アスファルトの地面に呟いた。
「天使先輩と出会って、私は救われた。何もされていないかもしれない。何も変わって何かいないのかもしれない。それはただの気まぐれで、今は何とも思われていないのかもしれない。でも、それでも、私は天使に救われたと、そう思うことで前に進むことができた。
世界に絶望していた私に、外の光を見せてくれた先輩だから、私は天使先輩を尊敬しているの。直属だとか、同じ学校だとか、そんなことに意味は無いよ」
私の言葉を噛みしめるように黙って、天枝はゆっくりと口を開く。
「前から思ってはいたが、君は存外意志が強いらしいね。それでも口を閉ざして成果で示すのが君なりの処世術なのかもしれないが、それだけでは人を導く人間にはなれないと思うよ」
どこか確信を避けるような天枝の言葉に、煮え切らなさを感じる。夕焼け始めた空に、生徒の姿はほとんどない。結日はひょっとしたら片づけでも手伝っているのかもしれない。
「私からも、一つ質問をしてもいい?」
「構わないとも」
「あなたにとっての、フェアってなんなの?」
天枝は意外そうに目を丸くしてから、軽くほほ笑んだ。
「フェアと言えばフェアだよ。君との生徒会長争いにおいて、君と僕の持てる能力以外で、僕たちが評価されないという公平さのことさ」
「能力って言ったって————」
「家族の七光りは人望と言えるかい? 容姿の端麗さは、性格の良さは、学外の友達の多さは評価に含まれるかい? 含まれるとも! それはすべて、努力という能力の下で実ったものだ。
ただし、それによって君が不当に霞むことは看過できない。まして、どんな悪評も受け入れて然るべきだと諦めてしまうような思っているようならね」
私は、彼に意見するべきことがまとまらずに黙り込む。どこか同情するような目で、それでも目を背けずに彼は続ける。
「僕は、天使なんて信じない。僕は、僕の時代が欲しい。そのためには愛ヶ崎先輩にも取り入るし、生徒諸君にも人脈を広げるよ。だが、それ以上に欲しいものは僕に比肩するようなライバルさ。
正直、驚いたよ。僕が新入生代表に選ばれなかったことにねェ。悔しくもあり、同時に嬉しくもあった。ようやく僕を越えるような人間と出会えたとね」
「あなたは、人に期待しない人間なんだね」
「ハハハ、君に言われると反応に困るよ」
石ころを蹴飛ばして、その動きが止まるまで地面を転がる音に意識を奪われる。私の神経は指先まで確かに通っていて、けれど、決してその石ころの気持ちは分からない。
「あなたは、フェアじゃないよ」
「ああ、そうかもしれないね。でも、消えない過去があったとして、代わりに未来が消えていいわけではないだろう?」
その言葉は決して私の心を救ってはくれなかったが、少しだけ心を温めてくれる気がした。心臓に血液が流れていることをようやく思い出したように、脈が鼓動を打ち、世界は薄く色づいた。
「やっぱり、天使先輩の言う通りだ。認めたくはないけど、あなたって…………変な人だね」
「君に言われたくはないがね」
お互いにクスリと笑って、夕焼ける光に照らされてぼんやりと橙に染まる顔を見つめる。
「私が、台典商高の女神になるって言ったら……笑う?」
天枝は静かに眼鏡の奥の目を細めて、ほんの少しだけ口角を上げる。鼻を鳴らして、馬鹿馬鹿しそうに校門の柱に背を預けた。
「笑ってやるとも。僕が生徒会長になった、その時にね」
薄赤い光に照らされた横顔から、私も目をそらして、校門に背をもたれさせる。
夕焼け空は永遠に続きそうに遠く染めている。少し早いヒグラシの声も、今日の記憶をかき消すことは無いだろう。