第六十三話 ひとひらの波紋
・主な登場人物
愛ヶ崎天使:この物語の主人公。生徒会長の少女。
藍虎碧:生徒会執行部副会長の女子生徒。天使の”友人”の少女。クールに見られがち。
波泉優吾:台典西高校の生徒会長。ナルシストで調子に乗りがち。
合辻要芽:台典西高校の生徒会副会長。波泉を馬鹿にしがちな明るい少女。少し人見知り。
台典商業高校には、天使がいる。
それは、ある地方公立高校のホームページにひっそりと書かれた言葉だ。生徒会選挙が終わり、新執行部が発足してすぐ、新聞部とパソコン研究会の提案により、ブログページが開設された。
執行部の活動記録と称されたそのページは、表向きは受験生や卒業生に在校生の活動を報告するものであった。しかし、一方で、かつて天使ファンクラブとして様々な情報が交換されていた網が惜しみなく使われ、執行部との情報共有を介さずに、執行部——における天使の動向を記録する日記に近いものとなっていた。
初めはその存在を知らなかった生徒会長も、噂が広がればすぐにその情報を得る。新聞部と掛け合い、検閲を始めた彼女は、正式な広報として採用し、その触腕を学校外へと伸ばすための足掛かりとしたのだった。
井の中を飛び出た鳥は、必ずしもすべての人間に受け入れられるわけではない。それは何よりも、彼女自身が理解していることだ。
だからそれは、決して飛翔ではない。微笑みながら、その翼はゆっくりと放物線の終点へと向かっていく。
ゴールデンウィークが始まり、台典商高の生徒たちは、月末に控えた文化祭に期待と不安を寄せながら、それぞれの準備を進めていた。
生徒会執行部の生徒たちにおいても、それは例外ではなく、むしろ、関係各所への連絡や予算の相談であちこち校内を回っている。当然、彼女らのクラスにおいても、展示や舞台発表は計画されており、参加しないわけではなかったが、その折り合いをきちんとつけられることが、彼女たちが生徒会執行部として一目置かれる理由でもあった。
休日返上で働く生徒の一人、藍虎碧は、待ち合わせのカフェでコーヒーを嗜みながら、それなりに分厚い演劇台本に目を通していた。
台典商高の文化祭において、三年生は例年演劇発表を担当する。普通科文系理系、商業科が、それぞれ二クラスずつチームとなって一つの演目を公演することになる。
藍虎のチームである普通科文系クラスは、彼女の友人である愛ヶ崎天使を主役に据えることが早々に決定したが、その相手役に立候補する生徒が多く、相談は長引くかと思われた。しかし、ある生徒の提言によりその役は藍虎に決まったのだった。
「まったく……期末テストもそう遠くないのだけれど……」
当初から裏方として舞台に参加する心でいた藍虎だったが、生徒たちの期待に満ちた声をクラス委員長である鳩場が取りまとめたことで、いよいよ後に引けなくなってしまった。そもそも、猫を被ったりクールに見えるように振舞ったりするのならともかく、演技というものは未経験、というよりも苦手だった。それが多くの人の前で、ともなればなおさらだ。
コーヒーをすすりながら、いつから自分はこうも内向的になったのだろうと思い返す。
確かにこの学校に入学したときは、クラス委員長を務め、クラスメイトを引っ張り体育祭に精を出していたはずだ。その年の文化祭だって、合唱は楽しかった記憶しかない。
コトンとカップをコースターに置く。心当たりなら、明確だ。
私は、彼女の横に立つにふさわしい人間なのだろうか。ただそんな不安だけが、足を引っ張っているのだ。
彼女の隣に立てるのは、私だけだ。それは決して揺るがないことだと信じている。
けれどそれは、私が彼女の隻腕として適格だという証明にはなりえない。それだけ彼女は遥か高みにいるのだ。少なくとも、私にはそう思えてならない。
「まあ、考えても仕方ないことかな」
軽く台本を振って、弛んでいた紙を張った。実行委員の生徒たちが制作した台本は、文系らしいというか、叙情的な脚本だ。男役に当たる自分のキャラクターは、男装の麗人というわけでもないから、身振りにも気を付けなければいけないだろう。
「何考えてたの?」
台本に意識を集中しようとした時、頭上からかけられた声に思わず身震いする。顔を上げると、待ち合わせの相手である天使が微笑んでいた。半袖の制服から、健康的な細腕が伸びている。日焼け止めを塗ってきたのか、いつもよりも眩しく見えた。
「すみません、この朝食Aセット一つお願いします。あと、このぜんざいも二つ」
さりげなく注文を済ませて、彼女は私の前に座った。チェーン店というわけでもないのにスムーズに商品を決めるあたり、決めていたのだろうか。この店を指定したのも天使なのだから、あり得ないことではない。
「いや、他愛ないことだよ。というか、今から朝食かい?」
「うん、まあね。碧は家で食べてきたんでしょ?」
「そう思うなら、どうして私の分のデザートも頼むかな……」
天使は悪戯っぽく笑うと、かばんから数枚の資料の入ったクリアファイルを取り出した。これから向かう場所で先方に渡すものだ。
「まあまあ、もう少し時間はあるんだしいいでしょ?」
私は軽いため息をついて、彼女に微笑み返す。まったく困ったわがままを言うものだが、どこかそれが信頼なのだと思えてしまって、また許してしまうのだ。
一通り打ち合わせを済ませると、天使もちょうどモーニングを食べ終えたところだった。それなりに量があったように見えたが、デザートも食べられるのだろうか。
「はい、こちら喫茶クロクロこだわりのぜんざいだよ。お二つね」
「ありがとうございますっ」
タイミングを見計らってか、人の良さそうな店主がデザートを運んでくる。打ち合わせをしながら、他の客の注文を横目で見ていたが、ほとんどの人が頼んでいたメニューだ。休日だからというのもあるだろうが、看板商品なのだろう。
「おや、君のコーヒー、すっかり無くなっているじゃないか。ウチのぜんざいは、コーヒーと合うように作ってるんだ。一杯サービスしとくよ」
「これはどうも、お気遣いありがとうございます」
「いいのいいの。それ、台典商高の制服でしょ。ウチも見ての通り個人経営の寂れた店だからさ、若い子が来てくれるだけでありがたいってものよ」
「じゃあ、マスター。私の分もサービスしてくれないの?」
「はいはい、豆なら安くしときますよ、天使ちゃん」
カップに流麗な動作でコーヒーが注がれる。少し涼しい店内に、軽く暖かな湯気が立ち上らせながら、店主は天使と気さくに語らう。
「む~、今日はこれから用事があるからまた今度かなぁ」
「いつでも大丈夫だよ。まったく、ウチのカナも、それくらいコーヒー好きなら良かったのにねぇ。昔はお手伝いもしてくれたのに、最近じゃあ口もきいてくれないんだよ。帰りも遅いし、少し不安でね」
私は旧知の仲のように語らう二人に困惑する。台典市内、それも台典商高から見てもそう遠くはない場所とは言え、知り合いということがあるだろうか。私自身、家が数駅先ということもあって、この近辺にそれほど詳しいわけでもないが、だとしてもだ。
「……あの、天使?マスターとお知り合いなのかい?」
「ん、ああ失礼。天使ちゃんは常連さんでね。お友達ならとサービスしてしまったけれど、お節介だったかな」
「いえ、そんな。ただ少し驚いてしまって」
「ここは散歩コースの一つだからさ。家のコーヒーもここのなんだけど、碧は家だとコーヒー飲まないもんね」
「それは、まあ。そうだけど……」
待ち合わせ場所が行きつけのカフェだったと知り、驚くような呆れるような気持ちになる。確かに、言われてみれば店内に飾られたコーヒーの銘柄は、天使の家の戸棚にあるものと同じだった。この立地も天使の散歩Cコースのあたりだ。
「このぜんざいね、お団子とバニラアイスで十字になってるでしょ?それと、粒あんとこしあんをブレンドしてるんだよ。だから、クロスぜんざいなんだって」
「な、なるほど……?」
人差し指を交差させて十字を作る天使に、店主も嬉しそうに笑っている。クロス、が売りだから店名もクロクロ、なのだろうか。いまいち釈然としないところもあるが、納得しておくことにする。
ぜんざいの温かさでアイスが解けてしまわない内に、甘露を口に運んだ。
台典商高とは違い、平坦な通学路の先にその校舎はそびえている。住宅街のただなかにあり、近くから通う生徒も多い。
「こんにちは、西高の生徒会長さん」
「これはどうも、お初にお目にかかるよ。台商の生徒会長、いや、天使くん」
県立台典西高校。駅を挟んで台典商高とは反対にある公立高校だ。西高校という名前ではあるが、市町村合併の影響で立地上は南の方角に位置している。偏差値は市内では平均程度で、台典商高の商業科よりもやや低い。良くも悪くも平凡と目され、台典商高を受験する生徒の第二志望となることが多い。
距離関係的にも、台典商高から最も近い学校であり、学力も問題を懸念するほどではない。私の提案した台典商高の外部交流。その戦端を開くとするなら、うってつけの場所である。
「まあ、中に入りたまえよ。校舎を案内しよう。ウチの部活動は熱心だ。今日も活動しているところが多いからね」
「それはありがたい。ぜひ、西高の生徒さんのことを知っておきたいと思っていたところです」
天使がにっこりと笑い、彼の方へと向かう。私は天使のかばんを預かって、静かにたたずむ副会長と共に、一足先に西高の生徒会室へと向かった。
生徒会室は、台典商高と大きくは変わらなかった。ともに公立高校故にか、それほど校舎は綺麗ではない。むしろ、そんな落ち着きがありがたいくらいではあったが。
「合辻さん、だよね。今日はよろしく」
「えっと、よろしく、お願い、します?」
ぎこちなく手を差し出した彼女と握手を交わした。どうやらずいぶんと彼女は緊張しているらしかった。
「そう硬くならなくても。同級生ですし、これから交流していくわけですから」
「そ、そうだよね。ぷは~~、なんだか会長たちって堅苦しいからさ。それに、台典商高って言ったら、賢い人ってイメージだったから」
「そりゃあ光栄だけれどね。そういう合辻さんも生徒会執行部副会長なのだろう?」
「要芽でいいよ~。私なんか全ッ然だから、もう誘ってもらった時もびっくりしたんだよ?あの台典商高が~ってさ」
はつらつと話し出した合辻さん———要芽副会長に、私はほっと安心する。打ち合わせをしたとき、天使からは彼女の緊張を解くようにと念を押されていた。どういう意図かは分からないが、ひとまず目標は達成だろう。
「こちらこそ、突飛なお願いだったろうに受けていただけて良かった。正直な話、断られるだろうって思ってたからさ」
「も~、あんなに企画書をちゃんと作っておいてよく言うよ~。あれなら私たちでもって思ったんだぁ。ま、波泉はまだ反対ってごねてるけどさ」
「そうなのかい?てっきり、もう納得してくれているものだとばかり」
「その辺は、あの生徒会長さん、天使ちゃんだっけ?の腕次第ってところかな。波泉って気難しいっていうか、意地悪っていうか、性格が悪いっていうか、性根が腐ってるっていうか。頭はいいんだろうけど、わがままなとこあるから、説得は難しいと思うんだよね」
「それが反対しているって状況か……」
厄介な状況ではある。文化祭が両校共に生徒主体であるがゆえに、大きな決断にも基本的には生徒のまとめ役である生徒会長の判断が絶対的な権力を持つ。そのせいで、予算やスケジュールに問題の無い企画だとしても、その一存で消えてしまうことだってあり得るのだ。
「そうそう。私的には?あいつをぎゃふんと言わせてやりたいっていうか、一泡吹かせてやりたいからさ。上手く行きそうなら、私が代表ってことで進めたいくらいなんだけどね」
「それは良いけれど、会長は納得するのかい?」
要芽はにやりと笑うと、悪だくみをするように肘をついて、顔の前で手を組んだ。
「そこは私の腕の見せ所よね。選挙では負けちゃったけど?副会長として、一応牙は磨いてますからね」
活発な様子と裏腹に、結構腹黒いというか、野心家の一面もあるようだ。確かに、天使の目測通り、彼女の存在を上手く使えれば、この企画も上手く進められるかもしれない。
「でも、なんだか不安になってきたかも……やっぱり私たちも同行すればよかったかな……」
「校舎を見て回ると言っていたけれど、何か懸念があるのかい?」
「ま、ちょっとね。波泉の奴、ちょっと調子に乗りがちっていうかさ。褒められたらつけ上がるタイプなんだよね。それで、結構軽いところもあるっていうか」
「なんだか、男女関係に問題のありそうな感じだね」
「あれでモテるみたいなんだけどね。そのせいで私は負けてるわけだし……だからこそ、商高の子も舐めてかかってる節があるっていうかさ」
要芽の言葉に、今更になって、波泉が男子生徒であることを意識する。台典商高では、むしろ亜熊先輩が特異であったと思われるほどに、女子生徒が上役に付く傾向がある。だがそれは、台典商高での話であり、西高も含む他校から見れば、奇妙な状態なのだろう。まして女子生徒を手玉に取って会長となったような者ならなおさらだ。
「天使なら、大丈夫……いや、むしろ大丈夫じゃないのか……?」
「あは、確かにお淑やかな感じで、一番波泉が手を出したくなる雰囲気だったもん。なんか、迷惑かけたらごめんね?」
「それなら大丈夫だよ。天使は————」
天使はそんなにお淑やかではないから、と言おうとした時、ちょうど生徒会室の扉が開かれ、波泉と天使が戻ってきた。
「やあ、待たせてすまないね。藍虎副会長、合辻のやつが何か粗相でもしなかったかな?」
「いいや、実のある時間だったよ、波泉会長。お気遣いどうも」
「それは結構。合辻は失礼な奴だからね、僕も天使くんを案内しながらハラハラしていたところだったんだ」
天使を連れて戻ってきた波泉会長は、挑発するような目で要芽を見ながら、低く笑いながら席に着いた。天使が戻ってきたからか、要芽はまた少し緊張したような、真面目な顔に戻っている。
「それでは、本題に入ろうか」
波泉は私たちの持ってきた資料を広げると、要芽にも共有した。
今日交渉するのは、学校同士の交流についての企画案だ。立地の近さもあり、部活動単位では交流も少なくないと聞いているが、学校単位では深い交流は無い。企画の建付けとしては、主に行事において互いを意識するようにすることで更なる意欲向上を図る、というものだ。
「まず、率直に言おう。僕はこの企画書には反対だ」
「言うと思った。まだ納得してなかったんだ」
呆れるようにため息を吐く要芽に、天使はこっそりと私に微笑んだ。彼女がすっかり打ち解けた様子で会話に参加したことを確認したようだ。
「当然だろう。第一、主催が台典商高生徒会執行部というのが気に食わないね。まずもって、この部分は連名にして然るべきだろう。これでは君たちの道楽に踏みにじられているようで気分が悪いよ」
「それは失礼。少し配慮が足りなかったようだね。もちろん、波泉会長が頷いてくれるならの話にはなるけれど、合同行事を催行する時には主催は合同の表記にさせてもらう予定だよ」
「お望みでしたら、西高生徒会の名前を先に表記しても構いませんが、どうされますか?」
落ち着いた声で天使はそう尋ねる。穏やかな笑みの裏に、その場合商高側は手を抜くつもりだという含みを感じて、私は波泉の返答を待つ。
「いや、結構。ただ台典商高の生徒たちが、偏差値や学力なんかで僕たちを見下してるんじゃあないかって思っただけだよ。西高の生徒たちは、皆そうしたことには敏感でね。どうにも斜に構えてしまう部分があるから、不安の目は摘んでおきたかったんだ」
不敵に微笑む波泉の顔に、少しだけプライドの城壁を突き崩されたような焦りを感じる。要芽の言っていた通り、性格はあまり良くなさそうだ。
台典西高校は台典市内ではそれほど評価の高い学校ではない。とはいえ、校内風紀が荒れているわけでもなく、近隣住民からの評判が特別に悪いわけでもない。だからこそ、評価の高い台典商高、とりわけ荒れていると言われる台典高校と比較されることが多いのだろう。一位にもなれず、気を抜けば下位と比較される。そんな環境がひねくれた価値観を形成しているとしても不思議ではない。
台典商高にいて、西高の話を聞くことはまるでない。聞くとすれば、基本的には良い話ばかりだ。部活動で良い練習試合ができた、実のある合同練習ができた、上手く合奏できた等々。悪い話を引きずる生徒はいないし、そもそも気にする生徒がいない。台典商高の生徒たちは、自校の噂話に気を引かれているからだ。
あるいは、そんな無関心こそが、無意識的な見下しということなのかもしれないが。
「しかしまあ、もう少し内容を詰めておきたいのも事実だよ。今日のこの場はそのためにあるのだからね」
むしろ私たちをどこか見下すように、波泉は目を細め、肩をすくめた。どうにも一筋縄ではいかなそうだと思う心の一方で、きっと天使ならうまく運んでくれるという安心もあるのだった。
数時間に渡って、私たちは企画について案を出し合った。数時間と言っても、大半は波泉のいちゃもんと言いがかりを解消するようなものだった。天使は、穏やかな笑みを浮かべたまま、お淑やかにその一つ一つを丁寧に返答していった。毒牙でもない柔らかな抱擁のような対応に、私はどこか違和感を覚える。
波泉をぎゃふんと言わせる方策の一つでも期待していたところだったが、現実的にはそうならないほうが事はスムーズに運ぶのだろう。
少し涼しくなり始め、夕暮れが姿を現す前に私たちは帰り支度を始める。結局、西高との協力はまだ留保という形となってしまった。何かもう一押しあれば承諾してもらえそうなところだったが、その妥協点を探るには時間が無い。
「そうだ、天使くん。君の言っていた予定だが、明日ならすぐに都合がつけられるが、どうするね?」
「ええ、ぜひ」
聞き覚えの無い予定の話に、私と要芽はほぼ同時に互いの会長に尋ねた。
「予定って何のことだい、天使?」
天使は軽く私に微笑むばかりで答えない。代わりに波泉が声を張った。
「いやなに、藍虎副会長が気にすることではないよ。これは会長同士の交流だからね。生徒会単位で動くと動きが鈍重になるだろう?天使くんがどうしても、会長同士でもう少し話したいと言うから、その予定をすり合わせていたのさ」
下卑た高笑いを浮かべる波泉に、思わずこぶしを握る。天使のことだ、何か考えがあるのだろうと思っても悪感情が溜まってしまうのを抑えられない。
「ま、好きにしたらいいけどさ……ちゃんと共有はしてよ?」
要芽が波泉に言いながら、不安そうな目で私を見る。私は確かな答えを返せず視線を落とす。
「もちろん、きっちりきっかりと始終委細に至るまで報告させてもらおう」
クックックと引き笑いを浮かべる波泉に、要芽はため息をついた。
「それじゃあ、天使くん。明日の十時に、君の行きつけだという喫茶店で会おう。合辻、鍵は頼んだよ」
波泉は上機嫌で合辻に生徒会室の鍵を投げ渡すと去っていった。
「天使。その、二人で会う気なのかい?私も明日は空いているから、何も無理をする必要は……」
「うん、碧も明日は来てね。今日の喫茶店、覚えてるでしょ?」
「そ、それは覚えてるけど……?」
天使は勢いよく立ち上がると、生徒会室の入り口から要芽の方に向かって元気よく微笑んだ。
「それじゃあ、合辻さんも。明日の九時に喫茶クロクロでねっ」
言い終わると颯爽と帰っていく天使に、私と要芽はポカンとした表情で目を合わせた。要芽がおかしそうに笑うのにつられて、私も思わず笑ってしまう。
「要芽も、明日の予定は大丈夫なのかい?」
「ええ、まあ。家でごろごろするつもりだったけど、一緒みたいなもんだし。あ~、ちょっと面倒だけどね」
ほら、鍵閉めるよ、と急かされ、私も生徒会室を後にする。夕暮れ泥む空に、なんだか上手く行きそうな期待感が満ち始めていた。
それから、私は約束通り九時にまた喫茶クロクロにやってきた。店内は客も少なく、落ち着いた雰囲気だ。
店主は私の顔を覚えてくれていたようで、柔らかな笑みで迎えてくれた後、店の端のテーブル席に案内してくれた。
「こちら、ホットコーヒーです」
「ああ、ありが————」
若い女性店員に給仕されたコースターを軽く引き寄せようとした時、私は絶句する。アルバイトの店員だと思った少女は、昨日別れたばかりの西高生徒会副会長、合辻要芽だった。
「————要芽、どうして……というか、そのエプロンは……?」
「も~、びっくりだよね。喫茶店って言うから、まさかと思ったけど、本当に私のパパの店だとは思わないじゃんね。おかげで久しぶりにパパと話すことになったたし、手伝いまでさせられるしで……しかも、天使ちゃんは常連さんなんだって?もう何が何だか……」
「それは……私も何が何やらだけれど……」
「本当に、とんでもない会長さんだね」
「私も、いつもそう思わされるよ」
要芽は楽しそうに微笑むと、カウンターの方へと戻っていった。どうやらお手伝いは本当にしているらしい。
一時間ほど、時折要芽と言葉を交わしながら、また文化祭の演劇台本を読んでいると、入り口のベルが鳴り、二人組の高校生が入ってくる。私服の二人は間違いなく天使と波泉だった。
「いらっしゃい。カナ、もう上がっていいよ」
店主の一声で、要芽はキッチンの方へと下がっていく。
「それじゃあ、波泉会長。打ち合わせ、始めましょうか」
「え、ああ、天使くん……あれは、藍虎副会長か……な、合辻まで!?す、少し待ちたまえ、天使くん……!」
天使は悪戯っぽく笑いながら私の隣に座る。子供のように肩を寄せて私を席の端に押しやると、かばんから資料を取り出した。
「今日は夜まで空いてるんでしたよね、波泉会長?」
「は、ははは…………」
テーブル席の端に座った波泉を閉じ込めるように、着替えてきた合辻が隣に腰掛けた。
「こいつのことは一旦忘れていいから……ありがとね、天使会長」
天使はなんてことないことのように、軽くほほ笑んだ。
「マスター共々、末永くよろしくね、要芽ちゃん」
そうして、西高との合同行事プロジェクトは、円滑に話し合いが進んで行ったのであった。
私は、また天使にしてやられたという感覚とともに、やっぱり天使を信じてよかったという安堵を感じる。けれど、その一方で、こんな手腕を来年も再来年も、そしてその先も台典商高は維持していけるのだろうかという不安もまた、感じざるを得なかった。
未来に抱く不安の行き先は、飲み干したコーヒーカップを見ても分かりはしない。ただ私は、私のやるべきことをやらなければいけないのだと、殊更に思わされるのだった。