第六十一話 新たな光と影
・主な登場人物
愛ヶ崎天使:この物語の主人公。生徒会長。
藍虎碧:生徒会執行部副会長の女子生徒。天使の”友人”の少女。クールに見られがち。
朱野女神:一年三組の女子生徒。記憶力が良く、一度見た物は忘れない。興味の無いことには無頓着。
天枝優栄:一年三組の男子生徒。自信家だが真面目な眼鏡くん。
神繰麻貴奈:二年一組の女子生徒。生徒会執行部副会長。機械のようなしゃべり方の上、表情がロボットのように変わらないが、血気盛んでギャンブラー気質。
遠野文美:二年一組の文学少女。生徒会執行部の書記を務める。マイペースな眼鏡っ子。
氷堂空間:二年三組の男子生徒。委員会には所属していない。成績優秀でクラスメイトからの信頼も厚い。丁寧な口調は口癖。
この学校には、天使がいる。
困りごとが起こったとき、新入生は、そう言って笑う先輩の姿に首をかしげる。そして、現れた天使の姿に目を焼かれ、また噂は伝播していくのだった。
世代が移りゆく中でも、天使はもてはやされ、その光に生徒たちの影は長く伸びていく。誰もが天使に背を向けて、本当の彼女を見ることは無く、ただその影でだけ自分の在り方を共有した。
もしも、今年度の新入生の天使に対する受容的な態度に理由があるとすれば、それは早くも高い志を示した勇者のごとき二人の生徒だろう。先を照らす者がいるとき、人は簡単に盲目になってしまう。
その男女の新入生は、水と油のように反発しあう一方で、お似合いだとからかわれてもいた。アイドルかのようなもてはやされ方にも二人が動じなかったのは、ひとえに目標に一心不乱であったからであり、夢に到達できるだけの賢さも経験も、互いに持ち合わせていたからである。
互いに高め合う恒星は、より強い光にあてられて、さらに広い空を目指す。その光が生む新たな影の重なりは、天使の光輪に魅せられた者には見えないまま、日毎にその濃さを増すのだった。
入学式から一か月程になる。春の風は冷たさを潜め、徐々に夏の気配を含みつつある。
生徒会執行部の門戸を叩いた入学初日。困惑した先輩方を、天使先輩は面白がるように笑って、やっぱり少し緊張してしまった私に紹介してくれた。それからは、天使先輩に付き添って学校の案内をしてもらった。きっとそれは、学校のあらゆる場所を私に見せるためだったのだろう。
次の日からは、校内の問題解決や部活動の様子を視察しに行く先輩とのいわゆるОJT研修だった。時には、一生徒にどうにかできるのかと動揺してしまうような問題も、相談するほどでもないだろうという問題も、天使先輩は巧みな手腕で解決してしまった。
正直、私は彼女の隣で立っていただけだ。ただ目の前で、中学時代とは全く違う執行部の在り方を見せつけられた。
一か月も先輩に付いているが、喧嘩の仲裁や備品の管理はいつも目新しいものばかりで、どんどんと事例だけが記憶に積み上がっていくばかりだ。私は、心の中で自分の判断を考えながら、先輩の判断と擦り合わせる日々を送っていた。
「……あの、ストーキングなら止めてもらえるかな?」
何の変哲もない、強いて言えば、ようやくこの学校の放課後というものに慣れ始めた夕方のこと。これまで通り生徒会室に向かった私の後ろを、ぴったりと天枝が追従してきた。
「これはずいぶんな言いようだね、君ィ。ただ目的地が同じで、出発点も同じだったということだろう」
「目的地って……」
「まったく、部活動にも入らず、一年の主席が何をしているのかと思えば、生徒会執行部でボランティアの奉仕活動とはね。君ィ、なかなかにずる賢いじゃあないか。今の内から媚びを売っているのかい?」
一々彼に返答するのもうざったらしい。私は、ため息を返して、生徒会室への道を急いだ。きっと天枝は、クラス委員の用事でもあるのだろう。
いらいらとした気持ちのまま先輩に向かい合わないよう、扉の前で軽く深呼吸してから、生徒会室に入る。
「失礼します」
「ああ、朱野さん。天使はまだ来てないから、もう少しゆっくりしていて構わないよ」
「きょ、恐縮です」
扉に近い席で何かのプリントを読んでいた藍虎先輩は、優しい愛想笑いを返した。
「おやおや、これは一年生の寵児が揃い踏みではありませんか。こんにちは、僕は氷堂空間と言います。今後ともどうぞよろしく」
「ええ、よろしくお願いします」
藍虎先輩の隣の席から立ち上がった、きれいに切りそろえられた黒髪の先輩が差し出した手を、天枝がにこやかに手に取る。遅れて私も彼と握手を交わした。
「寵児っていうのは……?」
「いえいえ、ただのウワサですよ。みんな大好きなゴシップというやつですよ。時間があれば、掲示板の校内新聞を見てみるといいでしょう。天使に愛された女神と、優れた人の子。生徒会長の座はすでに争われている、とね」
私が聞いたことのない煽り文を耳にして困惑する横で、天枝はどこか得意げに鼻を鳴らした。有名人気取りのようで気に食わないが、自分もその立場にあることが不安でならなかった。
「見たところ、お二人とも実に優秀そうで何よりです。執行部に入られるのであれば、私の後輩ということですから、早いうちにお目にかかれてよかったです」
「えっと……氷堂先輩も生徒会執行部なんですか?」
最初に天使先輩から紹介された中に、彼の名前は無く、また今日までも出会ったことは無かった。自信気な表情には、どこかうさん臭さを感じる。人をだますことに抵抗の無い人間の顔をしている気がしてならない。
「ええ、そうです」
大げさな身振りの氷堂先輩を制するように、後ろから小柄な先輩が現れて、私たちの間に割って入った。
「朱野さん。彼の言っていることは嘘ではありませんが、完全な真実でもありません。あまり彼を信用しない方がいいと忠告しておきます」
「おやおや、麻貴奈。僕はただ、未来ある後輩にご挨拶をしていただけですよ。そう邪険にしなくても、あなたに損は無いでしょう」
肩をすくめた氷堂先輩に、ロボットのように無表情な神繰先輩の顔がごく微細に曇った。
「未来ある後輩なら、あなたのように信用できない人と関わるべきではないと思いますが?」
「これはこれは、ひどい言いようだ。これでも、生徒のために粉骨砕身で活動させていただいているのですよ?むしろ怖くて信用できないと言われているのは、麻貴奈の方では」
「そんなこと、無いですよね、文美?」
「ええ……まあ……」
藍虎先輩の正面で、同じように資料を読んでいた遠野先輩は、ゆっくりと顔を上げると煮え切らない声を返す。
「まあまあ、二人とも後輩の前でそう熱くならずに。それで———」
藍虎先輩は、二人をなだめると、少し驚いたような顔で天枝を見た。彼の来訪は、先輩にとっては予想外のことだったのだろうか。
「天枝くん、だよね。一年のクラス委員長の。そう言えば、朱野さんと同じクラスなんだったか。今日は、何の御用で?」
「実は————」
窓口対応の表情にとっさに切り替わった藍虎先輩に、今日までの経験を感じる。
ようやく事情を話そうとした天枝の言葉を遮るように、廊下から足音が近づいてきた。
「ごめんね、ちょっと待たせちゃったかな」
「お疲れ様。朱野さんも今来たところだよ」
「うん、天枝くんも来たんだ。それに氷堂くんも。今日は勢揃いだね」
優しくほほ笑む天使先輩に、部屋の空気が弛緩する。
「それじゃあ、二人は私についてきて?碧ちゃん、資料の整理はお願い。終わったら目を通すから……そうだなぁ、西高の件は一旦ゴールデンウィークで日程を押さえておいてほしいな。資料は都度交換しつつ、本決定は対面でって感じにしよっか」
「ああ、了解。まとめておくよ」
天使先輩は満足そうに笑うと、軽い足取りで私と天枝を導いて生徒会室を去った。どこか信用ならない氷堂先輩のことは気にかかったが、それ以上に天枝がどうして一緒に来ているのかの方が、私には気がかりだった。
まだ若く元気な新芽を連れて、天使が廊下の向こうへ去っていったのを見て、私はそっと息をつく。また彼女は秘密を増やしたようだ。おそらく、天枝くんも新生徒会のスカウトで呼んだのだろう。新聞部に煽らせたのだから、当然と言えば当然だが、少しは私に話してくれてもいいのにと不安になる。
天使は元から秘密の多い人間だ。いや、むしろそれは普通のことで、私が天使のことを知ろうとしているから、秘密が多いと思ってしまうだけなのかもしれない。
新生徒会が発足し、表向きには大した変化も無く業務は引き継がれていった。先代の三峰先輩の後を継ぎ、天使らしい首の突っ込み方で、今も生徒間の関係を正常にするための取り組みは続いている。
なんとなくだが、それは天使自身が生徒の悪意に触れたあの日の経験に影響されたから、というわけではないように思う。むしろ、彼女はそんなことには興味が無く、そもそも、生徒会長という肩書にすら、興味を持っていないように思える。
天使は生徒会長として、申し分のない働きをしていると、この学校の教師は口をそろえて言うだろう。私だって、そう言いたいし、彼女は理想の生徒会長だと思う。
けれど、彼女の目にはいつもどこか諦観が滲んでいる。映画を見る前に、結末をすべて知ってしまったような、心から楽しんでいない顔。私が心を動かされた、ひたむきで純真な一年生の頃の彼女の姿は、今は見る影もない。
それはきっと、言うなれば、「やるべきことをやっている」だけということなのだろう。生徒会長だから、生徒のために仕事をする。三年生だから、受験勉強をする。それは彼女にとって、やるべきことでしかなく、やりたいことではない。
夢を忘れてしまったように、地に足をつけて彼女は進んでいる。それでも、私は隣を歩くこともできず、ただ彼女を追いかけることしかできないでいる。
彼女が何をしたいのかは分からないが、少なくとも、朱野さんの存在は、刺激になっているのだろう。生徒会選挙からずっと、どこか愁いを帯びた笑みを浮かべていた天使の表情が、朱野さんといるときは、少しだけあの頃に戻ったように見える。無邪気にやりたいことに向かって進もうとしていたあの頃に。
「そういえば、以前頼まれていたアポイントの件ですが、再来週の木曜日に押さえておきました。先輩が忙しければ、僕と麻貴奈で伺いますが?」
「ああ、ありがとう。その日なら空いてるから……そうだね、三人で行こうか。来年以降もお世話になるかもしれないから、顔合わせは早くてもいいだろうし」
「……氷堂くんも行くんですか?」
神繰さんは資料の詰まったファイルをぎゅっと胸に寄せて、不信感を示した。この一年で、彼女はずいぶんと感情を表に出せるようになってきたと思うが、それは一長一短だ。
「ええ、何と言っても、未来の生徒会長ですからね」
「その話、冗談じゃないんですか。来年は私と文美が立候補する予定なのに……」
「冗談でこのような恐れ多いことは言いませんとも。真面目も真面目、大真面目です。いいじゃないですか、きちんとした選挙が行われるというのも。信任投票ばかりでは、執行部の威信も鈍るというものです」
「私じゃ力不足だとでも?」
「ははは、天使先輩の前ではひよこの背比べですよ。雛鳥が空を飛ぶには、横ではなく空を見ないといけません」
「言っている意味が不明です。大体、天使先輩もどうしてあんなに一年生とばかり……」
頬をむくれさせて口論する神繰さんに、私は少しだけ意表を突かれる。彼女が愚痴を言うことはそう珍しいことでもなくなっていたが、天使の愚痴を言うことは無かったからだ。神繰さんの横顔は寂しそうにも見える。
氷堂くんは、神繰さんの表情に、煽るような笑みを止めて、肩を落とす。
「それは当然、有望だからでしょう。入学初日に執行部の門を叩き、成績は学年一位。まるで天使先輩の再来のような少女だ」
「私は、力不足なのでしょうか……」
神繰さんはいよいよ表情を暗くして、机の上に資料を置いてしまった。騒々しい天使のいない生徒会室に、気まずい静寂が満ちる。
「そんなことはないさ。私だって、初めはたくさん神城先輩に迷惑をかけてしまったし、三峰先輩にもいびられたりしたものだからね。大事なのは、何でもできるようになることじゃなくて、自分に何ができるかを分かっていることの方だと思うよ。神繰さんは、神繰さんの長所をしっかりと見た方がいい。そう落ち込むことないよ」
我ながら、とっさに口が回るようになったと思う。天使がいなくなってからの、体育祭の計画管理。怜亜の企てた、藍虎派の選挙活動。この一年の経験は、私を大いに成長させてくれた。
口先では何とでも励ますことができるが、実際、私も今年度の生徒会執行部に漠然とした不安を抱えていたのは事実だ。昨年度以上に革新的と言うべき活動計画書は、実質的には、天使がいるからこそ成り立つものだ。来年度以降、この計画が成功したとして、その期待を背負えるほど、今の二年生は強くないように思える。
そんな風に不安に思ってしまうのは、天使が一つ下の後輩を教えるということを不得手としているからという点もあるだろう。天使は、引継ぎというものが苦手だ。これまで好きにやれていたことを、いわば感覚的な部分を、人に伝えることができないでいる。そうした後進の指導は、どうしても私が担わなければならない部分だった。
いや、それ以上に—————と私は、少しだけ落ち着いたように微笑む神繰さんを見た。
亜熊先輩の率いた一昨年の執行部、三峰先輩が奮い立たせた昨年の執行部。そのどちらと比べても、圧倒的に今年の執行部は、紐帯が甘い。
信頼関係が無いということは無いのだが、どうにも活発性に欠ける印象がある。それは、生徒たちから見てもそうなのだろう。後輩たちが、執行部として生徒たちに頼られているところをあまり見かけない。
それは単純に、私と天使が生徒会長争いという大太刀回りを行なったせいで、彼女たちの印象が薄くなってしまったということなのかもしれない。そう考えると、少し恥ずかしかった、一年次の選挙ポスターも意味があったのかもしれないと思えてくる。
このままでは、後輩たちが年度末に会長と副会長の役職を継いでも、まさに羽の欠けた天使のような状態になってしまうだろう。それは人としては普通の、常識的な事であっても、夢を託された、希望を向けられた、執行部という大きくなりすぎた偶像においては、果てしない失望や諦念を持たれるかもしれない事態なのだ。執行部だけの問題ではなく、その衰退は、学校全体の士気に関わる。
卒業した後の学校のことなんてどうだっていいじゃないか、なんて三峰先輩は笑うだろう。天使も、きっとそう言うだろう。
私は、ため息がこぼれないように少しだけ口角を引き上げ、肩を落とした。
だからこそ、副会長として、私がきちんとしなければならないのだ。この双肩は、天使を夢見た生徒たちの土台である。たとえ誰が、私の責任感を無意味だと言うとしても、私は火を掲げ続ける。誰もが天使を見上げられるように、誰もが前を向いて、空を見上げられるように。
「完璧な人間なんていないし、なる必要も無いんだよ。だけど、執行部にはみんながいる。それに、協力してくれる人たちも、生徒たちももちろん。足りない部分があるなら、協力して成長すればいいだけの話さ」
そっと、天使がそうするように神繰さんの頭を撫でると、彼女は落ち着いた様子で優しい顔になった。
「麻貴奈は難しく考えすぎなのですよ。この世界には予定調和も無ければ、悩みを解決してくれるご都合主義も無い。だからこそ、僕たちは自分の意思で生きているんです。人生の展開は、自分で決められるのですから」
「……あなたは、またうさんくさいことを」
不敵な笑みを浮かべる氷堂くんを、神繰さんは少しだけ微笑んで見上げた。その微笑は、天使のいなくなった後の世界をも照らしてくれるように思えた。
それから、なかなか帰ってこない天使たちを待ちながら片づけをしていると、不意に遠野さんが切り出した。
「そういえば、麻貴奈……私、来年の執行部の選挙には立候補しないつもりです」
「…………はい?」
夕暮れの光が、少し薄暗い生徒会室に差し込む中、神繰さんの動きがロボットのように停止する。中空で止めた腕の間からすり抜けた資料を、無造作にかき集めながら、神繰さんは聞き返す。
「えっと、どうして、ですか?」
「……来年は、図書委員長に推薦されていまして、前々から、司書さんにも指導いただいていたのです」
「そ、れは……丸背先輩もそうだったはずでは?」
「私は、それほど器用でも、賢くもないです。受験勉強のことも、真剣に考えろと、両親にも言われていますから、執行部との両立は厳しく……」
「で、でも…………なんで今更っ……」
神繰さんは、知っていたのか確認するように氷堂くんの方を振り向く。つややかな髪の彼は、困ったように肩をすくめた。
「なかなか、言い出すタイミングがつかめず、先程も、二人で立候補と言っていましたから、誤解を解かなければと」
神繰さんは、茫然自失とした様子でかばんに荷物を詰めている。状況を飲み込むようにゆっくりとジッパーを閉め、カチンと金具が端まで行ったとき、静かに呟いた。
「文美は、そう決断したのですね…………私…………私は————」
神繰さんは、お先に失礼しますと言い残すと、足早に生徒会室を去ってしまった。遠野さんはそんな級友の背を、どこか寂しそうに目で追うばかりだ。
「ねえ、麻貴奈ちゃんが走っていっちゃったけど、何かあったの?」
入れ違いで帰ってきた天使が、何気ない様子でそう聞く。雨が降ったように冷たく沈んだ教室で、それでも天使は眩しくほほ笑む。
「いや、少し用事があったみたいでね」
「なあんだ。それならよかった」
すべて見透かすように、天使は笑う。思わず目をそらしたくなるほどの、純真を、天真爛漫を装ったその太陽のような笑顔に、薄暗い夕闇は一層暗くなるようだった。