第六十話 雲の先の光輪
・主な登場人物
朱野女神:一年三組の女子生徒。記憶力が良く、一度見た物は忘れない。興味の無いことには無頓着。
朱野結日:一年四組の女子生徒。女神の双子の妹。学力はそこそこだが、姉よりも運動神経が良い。
天枝優栄:一年三組の男子生徒。自信家だが真面目な眼鏡くん。
愛ヶ崎天使:三年一組に進級した生徒会長。台典商高の天使。
遠野文美:二年一組の女子生徒。生徒会執行部の書記を務めるマイペースな丸眼鏡の文学少女。
この学校には、天使がいる。
春の桜が咲いて、新芽は空を見上げる。薄く雲がかかってもなお、空の陽光は人々を照らしている。三寒四温の気温差に辟易しながら、坂道に慣れない生徒たちは汗を流しながらバス通学を検討し始めることだろう。
定員こそ割れないものの、それほど高い倍率でもない志望者が例年集う台典商業高校の入学試験は、今年度においては波乱の様相を呈した。昨年度の倍以上の志望者が、普通科、商業科ともに殺到し、その倍率は県内の有名私立校よりも高いほどだ。
その志望者の急激な増大が、学校側のコマーシャリングによるものなのか、新聞部及びパソコン研究会と生徒会執行部の作成した新たな学校ホームページによるものなのかは判然としない。しかしながら、立地上の関係で選択したのではない、すなわち、学力や進路選択を高校選びの主軸とした生徒たちの多くは、台典商高に夢を見てやってきたことは確かである。
この学校には、天使がいる、と。吹き抜ける爽やかな風に、その羽ばたきを感じて、彼らは空を見上げる。
入学式を目前に控え、他の新入生よりも一足早く会場にやってきた少女は、緊張から深く息をついた。生徒会執行部の担当だという女教師は、人当たりの良い人物だったが、簡単に体育館までの場所を教えてくれた後は、忘れ物でもしたのか、焦った様子で職員室へと戻ってしまった。
少女は一度入り口の方を振り返る。うつむいていた視界を上げ、二つの扉を頭に残す。
少女は記憶力が良いことが自分の唯一の取り柄だと思っていた。記憶力が良いおかげで、例年よりも三倍近くに跳ね上がったという受験も苦も無く乗り越えることができた。答えの決まっている問題ならば、迷う必要も無いのだから。
一方で、少女自身は方向音痴でもあった。一度見た場所で迷うことは無いと断言できるが、それは有記憶の話である。初めて来た場所の行きは困惑し、帰りはさらに困惑する。そのため、少女は余裕のある時必ず、来た道を振り返るようにしていた。
もう高校生なのだから、きちんとしないと。そう思って少女は、胸の前で両手をきゅっと軽く握った。まずは挨拶、それからコミュニケーション。中学校でも再三繰り返してきたことだったが、中学校の先輩と高校の先輩とでは、なんだか距離感が違う気がした。それはあまりにも尊大だ。もっと簡単に、大人だと言ってしまってもいいのかもしれない。
聞き分けのある、分別のついた、落ち着いた、聡明で知的な。そんな人に、私は三年後、なっているのだろうか。そんな普通の高校三年生になれているだろうか。
扉の先にいるという、この学校の生徒会長の姿を思い出す。
それは三か月ほど前、運命というべき偶然の邂逅だった。彼女は控えめな笑みで、どこか一歩引いたような視点で私を見ていた。達観したようなその超越的な態度は、まさに私の目指していた姿であり、同時に、私の至らなさを、至れなさを痛感させるような、太陽を彷彿とさせるものだった。その振る舞いは、まるで月のように静かで、けれど手を伸ばしても届かない。その影に触れて初めて、自分の見ていた光がその偶像に反射していただけのものだと気が付くような、強すぎる光。
私は、そんな人間になれるのだろうか。普通にすらなれない私が、雲の上の天女のような人になれるのだろうか。
まだそのビジョンは想像もできないけれど、少なくとも、踏み出すための階段は、この扉の先に続いている。私は、天へと続く階段の一段目にいる。進むための権利は、この手で確かに掴んでいるのだ。
少し重たい両開きの扉を開くと、視界が開け、大きな体育館内の様子が飛び込んでくる。入学式の準備が済み、人のいないがらんどうでも静謐な空気は厳かだ。中学校の体育館と、広さはそれほど変わらないはずなのに、ずっと大きく見えるのは、私が高校という場に恐縮しているせいだろう。緊張をほぐすために、改めて深呼吸をした。
「失礼しますっ!」
「待ってたよ、女神ちゃん」
体育館の舞台の上で、マイクをセットしていたその先輩は、ゆっくりと私の方まで歩いてくると、相変わらず張り付けたような笑みを浮かべた。それが先輩としての愛想なのだと分かっていても心を奪われてしまいそうなほどに、先輩は魅力的だ。
「新入生代表の、朱野女神さん、ですね。初地先生から、連絡をいただいてます。今日は、私たちだけですから、そう緊張なさらずに」
分厚いファイルを片手に抱えた丸眼鏡の少女は、どこかゆったりとした時間を感じさせる穏やかさだ。こちらを見上げて首をかしげる動作は、ぎこちなさも相まって人形のようにも思える。
「は、はいっ」
「それじゃあ、軽く通し練習からやってみようか。女神ちゃんは、中学校のときは生徒会長をしていたんだよね?」
「はいっ、精いっぱい務めましたっ」
「そっか、それなら式辞も深く説明しなくてよさそうだね」
先輩は、私の座る新入生の三列目の端の席から壇上への道を辿ると、演説台の向こうに回って、机上のマイクを私の方に向けた。かしこまるように気を付けの姿勢になると、調子を崩すように破顔する。
「代表の挨拶って言っても、簡単でしょ?」
先輩は予行練習なんて退屈だと言わんばかりに、演説台に肘をついて私を下から覗き込んだ。
「そう言えば、きちんと自己紹介はしてなかったかもね。私は、愛ヶ崎天使。この学校で生徒会長をしています。あの子は、書記をしている二年生の遠野文美ちゃん。少しのんびり屋だけど、仕事はきちんとする子だから頼ってあげてね」
示された眼鏡の先輩は、音響機器の近くで軽く頭を下げた。
「生徒会執行部はあと二人いるんだけど、それはまた会った時に紹介しようか。女神ちゃんが、自分の足で生徒会室に来てくれた時に、さ」
先輩はそういたずらっぽく笑う。その表情は、不安に襲われそうな私の心を守ってくれるみたいに思えて、そっと記憶の中にしまい込んだ。
入学式当日、私は自信満々に妹を道案内しながら台典商高にやってきた。少し冷え込んだ空気は、ブレザーを羽織った新しい制服にはちょうどいい気温だ。
「ちょっと、お姉ちゃん。またネクタイよれてる……はい、できた。新入生代表なんだから、身だしなみにも気を付けてよ?」
「うん、ありがとう結日。ねえ、私たち、同じクラスかな?」
「どうだろうね。でも、双子ってクラス分けられそうじゃない? 中学でも、同じクラスだったことないし」
「……そっか。勉強分からなくなったら、いつでも聞きに来て良いからね」
「そんなに心配しなくても大丈夫……だと思いたいなぁ……お姉ちゃんこそ、友達ができなくて私の所に泣きつきに来ないでよ?」
「それは……善処します……」
二人で昇降口の掲示板に張られたクラス分けのプリントを見ると、やはり結日とは違うクラスだった。廊下で別れてそれぞれのクラスへ向かう。
新しい教室、新しいクラスメイト達は、すでに数人が輪になってグループを作っていた。名前順の席次は私をクラスの端に追いやる。名前を見ても知った人間はいなかった。このクラス——三組には自分と同じ台典二中の生徒はいないようだ。
通学かばんから読みかけの本を取り出して、自分の世界に入る。まだクラスメイトが全員来ているわけでもない。友達作りと言っても、そう焦る必要は無いだろう。
しばらく読み進めていると、教室が騒がしくなってくる。入学式の始まりまではもうすぐのようだ。
「君ィ、朱野女神さんだね」
少し高圧的な声に顔を上げると、一人の男子生徒が腕を組んで私を見つめていた。自信気な様子から、彼の自己肯定感の高さがうかがえる。
「そうですけど……?」
「そうかい。まったく。この僕が新入生代表に選ばれないとは、どんな天才がこの学校に来るものかと期待していたが、教室の隅で縮こまっているとは夢にも思わなかったよ。女神君、コミュニケーションは苦手なのかい?」
「え、えっと…………」
教室中に響くような声にクラスの視線が集まってくるのを感じ、私は猛烈に恥ずかしく思う。どうせ入学式が終わる頃には自分が新入生代表として、奇異の目線を受ける可能性を考慮していたが、こんな形で、より一層の変人と共に注目されるとは思わなかった。
「ああ、すまない。本当にコミュニケーションが苦手だと言うなら、そう無理に話さなくても構わないさ。この際、親愛なるクラスメイト諸君にも自己紹介しておこうか。僕は、天枝優栄。この学校で生徒会長になる男さ」
教室のあちこちから、賞賛と失笑の混ざったヒソヒソ声と拍手が聞こえてくる。私は、彼の面の皮の厚さよりも、その目標——生徒会長になるという言葉が耳に残った。
「生徒会長に、なりたいんですか?」
「ああ、そうさ。この学校の偉大なる先輩方に憧れて僕はやってきた。ハッハッハ、君が望むなら、副会長でも目指すとどうだい。新入生代表ともなれば、僕の右腕にふさわしいからね」
自分の才能を信じて疑わないような自信に満ちた態度を、私は少し羨ましく思った。それは彼の境遇によるものか、単純に性格なのだろうか。堅苦しさを感じさせる四角い眼鏡に反して、彼からはかなり人間味を感じられた。
「まあ、それはいいさ。君が何を目指そうと構わないが、そうして消極的なのが気に食わなかったというだけだ。勝手ながら、僕は君をもう友人だと思っているからね。一人で不安なら、存分に頼ってくれたまえ」
ハッハッハと高笑いを残して歩き去っていく彼に、私は沸々と鬱憤が溜まっていくのを感じる。羨ましいと感じていたのが馬鹿らしいほどに、なんだか腹が立つやつだ。誰が頼ってやるものか。生徒会長にも、ならせてやるものか。
私は、心配そうに声をかけてくれたクラスメイトの女子生徒たちの輪に入りながら、そんな子供みたいな決意を固めるのであった。
それから、入学式が終わり、初めてのホームルームもつつがなく進行していった。
天枝は堂々とクラス委員長に立候補し、彼の入学式前の宣誓を聞いていたクラスメイト達に、それを妨げる人はいなかった。同じように意識の高い誰かが手を挙げたおかげで、私は彼が副委員長に私を誘う目から逃れることができた。
「女神君、君ィ、委員会に入るつもりは無いようだったけど、部活動のあてでもあるのかい? いや、この学校は文武両道の生徒も多い。君ほど頭が良ければ、委員会なんてお茶の子さいさいだろうに、なぜクラス委員にならなかったんだい?」
「別に、私の勝手……だよね」
「ああ、そうだとも。だが、残念だと思っただけだよ。君のような才能のある人間が腐っていくのがね。答辞も堂々としていて素晴らしかったじゃないか。まあ、僕ならもっと素晴らしいものにできたと思うがね」
「…………そんなの、言うだけなら誰にだってできるよ」
心に秘めようとした言葉は、悪感情のままにこぼれてしまった。ああ、これだからコミュニケーションは難しいのだ。
他人のすべてを記憶することはできない。だから、他人のすべてを理解することはできない。だけれど、他人というものは、自分自身や想像から推測して補完できるほど、完璧な形をしてはいない。他人を信用してはいけない。不完全で穴の空いたソレに、信頼できる部分があるとすれば、それは自分自身の記憶した部分だけだ。
コミュニケーションのコツは、俯瞰することだ。自分自身の感情を殺して、冷静に相手を知ること。焦って事態が良くなったことなんてない。そう自分をなだめようとしても、いつも落ち着いていられるわけじゃない。怖がりで落ち着きのない自分が暴れ出してしまうのはいつだって唐突だ。私はまだ、その抑え方を知らない。
天枝は、嫌悪感をむき出しにした私の声に、少し驚いたように口の端を上げた。肩をすくめて、軽く手を上げるとジョークを言うように眉を上げる。
「ああ、そうだね。すまなかった。いくら言ったところで、君にはまだ僕の才能というものがまだ分かっていないようだからね。まずは君に信頼されるように努力してみることにするよ。何てったって、僕は、生徒会長になる男だからね」
天枝は私の苛立ちをひらりとかわすと、そう言ってのける。
「……言っておくけど、あなたは生徒会長になれないよ」
まだ少ない彼の記憶の中で、最大限に彼に刺さるように言葉を選ぶ。案の定、彼は眉を顰め、挑戦的な私の言葉の続きを待った。
「生徒会長になるのは、私だからっ!」
教室の隅で始まった小さな口喧嘩に、すでにクラスの注目は集まっていた。私が机を叩いて宣言すると、誰かが煽るように口笛を吹いた。それに感化されて合の手のような茶々を入れる生徒もいる。
「君ィ、そのセリフは看過できないなァ。まあ、言うだけなら誰にだってできる、だったかい? 見せてもらうよ。君がクラス委員にもならずに、どうやって生徒会長を目指そうって言うのかをね」
彼が高笑いを残して去っていくと、教室は元の喧騒に戻っていった。私は、少し昂ってしまった気持ちを落ち着けながら、先輩の所へ行こうと考え始めていた。
「ごめん、お姉ちゃん。何かクラス委員任されちゃって、説明で遅くなりそうなの。だから————」
「十七時にいつもの場所で、だよね。私も、先輩に会いに行きたいから遅くなるかも」
隣のクラスの妹に、生徒会室に寄ることを伝えに来ると、彼女も予定がある様だった。別れ際に、思い出したように結日は尋ねる。
「……そう言えば、入学式の前に変な人が来たんだけど、お姉ちゃん、変な事とかされてない?」
「変な人?」
「なんだっけ、あめの……何とかっていう眼鏡の変な人。新入生代表を探してたみたいで、私とお姉ちゃんを間違えたみたいだったし、もしかしてって」
結日の言葉に、天枝がいきなり自分のことを下の名前で呼んできた理由が分かったような気がした。私が双子だと知っていたから、名字で呼ぶことを避けたのだろう。彼の心の距離感の詰め方がおかしいだけではなかったのだと分かっても、それはそれでムカつくやつだと思い直す。
「ううん、大丈夫。結日も変な人には気を付けなよ」
あははと笑う結日に、クラス委員の集合があるなら天枝とも会うことになるかもしれないと、自分の短絡的な嘘を少し後悔する。
頑張ってねと互いに背を抱き合って、いつも通り元気そうな妹の姿に安堵する。新しい学校生活を謳歌するような妹の姿に、少しだけ背を押されて、私は生徒会室に向かった。入学式の予行練習の時に、すでに職員室から見えていたその部屋へは、私でも難なくたどり着けた。
頭に一瞬、天枝の高笑いがよぎり、頭を振って追い出す。
私には、前に進む権利がある。成長していく権利がある。その権利は、自分でつかみ取ったからこそ不安ばかりだ。未来を確実なものにすることは、誰にだってできはしない。いつだって、与えられているものは権利だけだ。
一歩を踏み出す自分を俯瞰する。嫌悪感と拒絶感に満ちていた彼への気持ちが、すっと晴れていく。私は生徒会室の扉をノックする。台典商高の天使へ、雲の上で光るその光輪に手を伸ばす。
成長はいつだって相対的なものだ。ずっとその比較対象は上にしかなくて、眩しいほどの理想ばかりだった。だけど、彼は。
「失礼しますっ」
生徒会室の扉を開くと、執行部の先輩たちは驚いたように私を見つめた。唯一、天使先輩だけは楽しそうな笑顔で私に手を振る。
「ようこそ、台典商高生徒会執行部へ」
今日は入学式で、高校生活のほんの一ページすらめくられてはいないのかもしれない。だけれど、この学校に来て良かったと私は心から思う。先輩の言った通りだ。この学校には、すごい人がいる。そいつはムカつくけれど、私がどこかで欲していた好敵手でもある。
この学校には、天使がいる。天使は、みんなの願いを叶えてくれる。
願ったのは、もう昔の自分だ。祈ったのは空を夢見ただけの自分だ。
もう願うことも、祈ることもしない。この手につかみ取ったパスポートを、空への階段を私はこの足で進むんだ。そうして、誰も迷わないように、願われる人間に、叶えられる人間にならなければならない。
きっと、天使先輩となら。そんな期待感が胸に満ちている。淀んだ空は晴れ、暖かでさわやかな風が吹き抜けている。
天枝の悔しがる顔を想像しながら、私は天使先輩の下で生徒会執行部のお手伝いをすることを決めたのだった。
夢の広がった空も、どこまでも自由に感じられる世界も、初めて見る景色だったけれど、私を照らしてくれる光が導いてくれているように感じた。