挿話 春の花の夢
・主な登場人物
留木花夢:二年一組の女子生徒。身長が低く童顔。顔に肉が付きやすい体質のせいで、顔が真ん丸になってしまうことが悩み。食べ物の好き嫌いは少ない。
有飼葛真:二年一組の男子生徒。いつも眠そうな顔をしている。実際眠いらしい。ぼんやりしているようで、意思は強い方。行動力はあるが、やる気はない。嫌いな食べ物も顔色を変えずに食べるタイプ。
暖かな気持ち。穏やかな気持ち。
それは例えば、家族と過ごす時に感じる気持ちだ。いつも私に優しい家族は、時々鬱陶しく思うことはあるけれど、やっぱり私の居場所なのだと思う。
家にいるとき、いつもそんな温かさや穏やかさを感じているけれど、この季節、春の良く晴れた日は、そんな嬉しい気持ちを外に持ち出しておけるような気がする。どこにいても、どこか幸せな高揚感に包まれて、私はいつもよりも自然な私でいられる気がする。
だから少しくらい太ってしまうのも、仕方の無いことなのだ。きっとそれは、幸せな夢の分。私の両手では、季節を越させてあげることもままならない、分不相応な幸せの重さなのだから。
春という季節を、俺は実感したことがない。それは、一年という尺度でも、この人生という尺度においても同様だ。寒い冬が終わると、いつのまにか鬱陶しいほどの暑さが襲ってくる。湿度の高さにうんざりしながら寝返りを打つ頃には、梅雨の終わりになっているのが常だった。
そんなことを毎年考えながら、新鮮な気持ちで桜を見上げている。思えば、これが春なのだろう。快も不快もない、穏やかで暖かな風が運んでくる眠気。大きくあくびをしてあっと言う間に去っていく夢のような季節。夢のように忘れてしまう、自由で忙しい朦朧としたこの時間が春なのだ。
「葛真~? 早く行かないと、ブルーシート引く場所が埋まっちゃうわよ」
弁当やらブルーシートやら、ともかく花見に必要なあれこれが詰められたリュックを背負わされた俺は、先を行く両親に呼びかけられる。今日は何かと二人の相手をしてくれる弟の樟也も、学校の友人と旅行だそうで不在だ。どうせなら、家族が全員いる日にすればいいのに、と思いつつも、あえて樟也は花見を避けたのかもしれないと邪推する。
上等なカメラを構えた母は、もう何度目の花見だというのに、父の写真を嬉しそうに撮っていた。うんざりする仲の良さに、進む足が重たくなってしまうが、進まなければ安寧も無かった。
毎年家族で陣取っている場所は、陽光が適度に影になり暖かさの中でうたた寝できる好ロケーションだ。花よりも団子よりも、一時の睡眠のほうがずっと心地いい。そのために休日の朝にわざわざ家を出ているのだ。
「それならさぁ、写真撮ってないで先に母さんが見てきたらいいと思うんだけど?」
「ダメよぉ。 パパと写真を撮る場所は決めてるんだからねぇ?」
「僕がひとっ走り見てこようか? もうすぐそこだろう」
「もう、いいわよ。 葛真も少しは外に出て運動しないとだもの。 どうせ帰りは荷物も持たないんだから」
「はぁ…………まぁいいけどさぁ」
幸いにも水筒の入っていないリュックを背負い直し、俺は少しだけ傾斜した道を歩き始める。花見とはいえ、山道というわけでもなく、駐車場から数十分歩く程度ではあった。春休みの出不精な体では、毎年のことながら疲労の溜まりが著しい。
ようやくたどり着いた会場は、すでに数組の家族か親戚か、ともかく仲のよさそうで幸せそうな人々が宴会の準備をしていた。空いた桜の木の根元にリュックを降ろす。
ブルーシートを軽く敷くと、母さんが手際よく弁当や水筒で端を押さえた。父さんは、毎年の顔ぶれである周囲の家族と世間話をしている。数年に一度の間柄では、積もる話もあるのだろうか。俺は名前の一文字も覚えてはいないが、人付き合いに熱心な人だと思う。
母がビールの栓を開けた音で、父さんが戻ってくる。隣で宴会をしていた中年も相伴にあずかる様だった。俺は軽く頭を下げて、ペットボトルのお茶に手を伸ばした。
おせちのようにお重に入れられた多様な料理は、こんな機会でなければ食べないものばかりだ。かといって、それだけに夢中になれるほど魅力的とも思ったことは無い。黙々と頭付きのエビの皮を剥いていると、紙の取り皿にひらりと桜の花びらが舞い落ちる。涼やかで穏やかな風が、わずかに枝を揺らしていた。
影から見上げる桜は、どこか懐かしい。やっぱり、いつもこうして春を感じていたのかもしれない。
そんな感傷は、すっかり俺の入りづらい盛り上がりを見せる話の輪から逃避するには十分だった。ブルーシートに足を乗せたまま、体だけ外に出して桜の木にもたれると、ざらざらとした木の肌が髪の毛越しの頭皮を支える。
硬く不快なようで、どこかそれが自分の居場所であるような不思議な感覚になる。楽しそうな喧騒を置き去りにして、意識はすっかりと心の奥へと離れていく。暖かな暗闇に視界を閉じれば、俺は眠りに包まれた。
目を開けば、騒々しい声がスピーカーのツマミを捻ったように聞こえてくる。まどろみの中でなければ、不愉快さに顔をしかめるところだ。
二時間くらい眠っていたのだろうか。空はまだ午前中のような涼しさと共に、太陽を高く掲げている。
「んん…………」
体をブルーシートの方に戻し、三角座りでお重に目を向ける。少し空腹感を覚えたが、改めて手を伸ばすほど、渇望しているわけでもなかった。家族のブルーシートは、いつの間にか顔見知りなのだろう、あるいは今日知り合ったのかもしれないが、様々な周囲の人たちと陣地を混ぜあって、混沌とした様相を呈していた。
「あら、葛真。 まだ帰るには早いわよ?」
「いや、ちょっと散歩。 少しは運動しろって言ってたでしょ」
靴を履いて立ち上がった俺に、母さんが声をかけた。宴のような雰囲気は肌に合わず、抜け出すために適当な理由を付ける。
行きに通った桜並木の方に出てくると、すっかり喧騒も遠ざかる。かと思えば、春爛漫の桜の奥では別の宴会も盛り上がっているようだった。どこの家も、考えることは同じかと思いながら、なんだか今は、それが春らしいと思える自分が意外だ。
「トイレでも行くか」
桜を眺めていても、またぞろ眠気が襲って来るばかりだ。こんな宴会でもはっちゃけて楽しめそうな友人の姿を思い出して、少し羨ましくなりながら、俺は案内標識に従って少し細い通路を進んだ。景観を崩さない程度に、しかし足場を悪くしない程度に整備された道は、散歩にはちょうどいい。
「あれ……?」
匂い対策のためだろうか、並木の方からはかなり外れた場所まで歩かされた先で、俺は見覚えのある小さな人影を見つける。
「うぅ……どっちに行ったらいいんだ……? お母さんに心配されちゃう……」
「……留木さん、だよね。 どうしたの、こんなところで。 って言っても、お花見に来た以外に無いだろうけど。 桜はあっちだよ」
俺に気づいた留木さんは、一瞬驚いたような表情をした後、慌てたように俯いた。思えば、学校の人と校外で会うことは、中学を含めてもほとんど記憶にはない。文化祭や体育祭の打ち上げも私服ではなかったし、むしろよく彼女だと分かったものだと自分を褒めてやりたい。
暗い色のトレーナーに、ゆったりとしたジーンズを履いた留木さんは、いつもとは違い、前髪を数本のピンで留めていた。まじまじと見るものでもないが、丸い彼女の顔の輪郭を見ると、昔飼っていたハムスターを思い出してしまう。栄養不足のつもりも無いが顔に肉がつかない自分とは、違う生物のように思えてしまう。
「あ、有飼……だよなっ。 その、私……迷子、じゃないんだけどさ! 迷子ではないんだけど、ちょっと道が分からないっていうか……」
彼女は恥ずかしそうにもじもじとしながら、手をパタパタと振りながら口早に呟いた。まぁ、きっと迷子なのだろう。なんだか前にも迷子になっていた気がするし。見えている桜の方に向かわないということは、きっと花見に行く途中、というわけではないのだろう。
「お花見じゃなくて、お花摘みに行く途中ってことか。 まあ、迷子じゃなくても、どっちでもいいんだけどさ。 お手洗いなら俺も行くところだったから、不安なら一緒に行く? 多分もうそこだと思うけど」
行き過ぎれば住宅街に出てしまいそうな景色を見るに、公園の出口は近いのだろう。そんなことを考えていると、不意に右手が小さく柔らかい何かに掴まれる。視線を降ろすと、一世一代の窮地のように、留木さんが俺の手に縋りついていた。
「お、お願いっ、します!」
彼女にとっては、それが物を頼む態度ということなのだろうか。だとすれば、生き急ぐような、随分と体力を使う生き方をしているものだと思う。普段もどこか自分とは違う、エネルギッシュというか、実直なイメージではあったが、やっぱりどこか小動物みたいだ。
幸いにも、それ以上彼女の顔色が悪くなるほど遠くに目的地は無かった。用を足して、手を洗う。冷たい水の温度に、そういえば人と手を握ったのなんて久しぶりだと思う。いや、体育祭の騎馬戦の時につないだっけ。
軽く水を払って、ポケットのハンカチで手を拭いた。記憶は曖昧で、やっぱりそれほど手をつなぐことは特別な事でもなかったと思い直す。昔は弟の手を引いたこともあったっけ。まぁ、無かったかもしれないが。
不確かな思い出を回想していると、女性用のお手洗いの方から留木さんが戻ってくる。先ほどよりも少し気の抜けたような、落ち着いた顔をしているところを見るに、焦ったような態度は、別に私服が問題だったわけではないらしい。それもきちんと話を聞いておけば解決できることだったのだろうが、そこまでコミュニケーションをずけずけと取れるほど、心を開けてはいなかった。
「お待たせ~」
「うん。 留木さん、ハンカチ持ってないの? 俺、持ってるけど、使いさしで嫌じゃなければ使う?」
ジーンズに触れないようにそわそわと手を動かす彼女に、気になって質問する。別に、ズボンで拭きたいなら勝手にすればいいと思うが、こうもちょろちょろとされては気もそぞろだ。
「えっ! うん、ありがとう!」
軽い気持ちで差し出したハンカチを元気よく跳び取られてから、これはあまり良くなかったかと反省する。自分が手を拭いた後でハンカチを貸すというのは、冷静な考えではなかった。校内でやっていたら、鳩場さん辺りに詰められていたかもしれない。いや、そんな状況なら鳩場さんが貸してあげるのだろうか。
少しだけ不安になって目線を下げると、留木さんは俺が一度使ったことなど気にも留めない様子で、両手を丁寧に拭いてからハンカチを差し出してきた。
「あっ、いやごめん!」
「?」
俺が受け取ろうとすると、彼女はハンカチをひっこめると、そそくさとポケットにしまった。
「これ、洗って返すからっ」
「いや、別に大丈夫だよ。 そんなに汚れたわけでもないし、というか、びしょびしょでも持って帰れば済む話だし。 むしろ留木さんに負担がかかるよね」
そもそも、学校が休みなのだ。洗って返すと言われても、いつになるというのだ。少なくとも新学期の最初の教室では一緒だろうが、それもまだ数週間は先の話だ。ハンカチの一枚くらい、貸しておいても、あげてしまっても、そもそも洗って返されなくてもどうでもいいのだが、何か認識の違いが起こっているようだった。
「でも、借りたものだし……」
留木さんは申し訳なさそうにハンカチを手元でいじる。無理矢理取り上げてしまっても、それほど悪印象を与えるわけでも、校内での関係が崩壊するわけでもないだろうが、どうにも説明するのも面倒だ。簡単なことのはずなのに、それを口に出すと上手く説明できた記憶が無い。それが自分の理屈に囚われた相手ならなおさらだ。
「ああ……いや、それならお願いしようかな。 次会った時……まあ、いつになるか分からないけど。 春休み明けでも構わないから、それまで持っておいていいよ。 そんなに高価なものでもない、はずだし」
ハンカチの良し悪しは分からないが、家にある物の中でも使いやすい方というわけでもなかったし、貸し出したということにしておこう。その方が彼女も納得するだろう。
「うんっ! わかった!」
満足した様子で、留木さんはハンカチをポケットにしまうと、俺の右手を取った。彼女にとっては、誰かと歩く時の標準はこうなのだろうか。スキンシップに慣れていない俺の感覚では、教育を疑ってしまいたくなる。とはいえ、迷子になりやすく純粋な彼女のことだ。むしろ教育者に同情するところなのかもしれない。
「留木さんも、この辺でお花見してたの?」
「そうそう、有飼もそうなのか?」
「まあ、そうだね。 ウチは昔からこの辺でお花見するのが定番というか、親がそう言うの好きでさ、季節催事っていうのかな。 春はお花見でここに来てるんだよね」
「毎年なのかぁ。 ここの桜、すっごくきれいだからなんだか羨ましいな。 私の家は今年初めてなんだ。 親戚が一緒にお花見しようってお母さんに言ってきたらしくて、それで」
軽く話しながら桜並木の方に戻ってくる。留木さんと二人で話すというのもどこか新鮮だ。別に、学校で話さないわけではないのだが、委員会でも一言二言交わすくらいで、面と向かって話すこともそう多くない。
新鮮な気持ちというのは、やっぱり学校外で会ったからだろうか。そもそも春休みに入ってから、まともな会話というものが久しぶりだ。そう考えると、新鮮というのも仕方ないか。
「こっちこっち」
手をつないだままでいたせいで、別れるタイミングを逸してしまい、留木さんの家族がいる陣地に連れてこられてしまう。家族、しかも親戚もいるお花見に連れてこられても場違いな気がするのだが、水を差すのも疲れるから愛想笑いを浮かべてなすがままに手を引かれる。
「花夢ちゃん、ずいぶん遅かったけど、迷わなかった? やっぱりお母さん着いて行った方が……あら、この子は?」
「どうも。 有飼葛真と言います。 とど——花夢さんの、クラスメイトで、たまたまそこで出会って……」
留木さんの普段の様子から何となく予想していたけれど、予想通り押しと我の強そうな母親は、鼻の隙間からうんうんと相槌を漏らしながら力強く頷いている。苦手なタイプだ……悪い人ではないのだろうけれど。
「もう、花夢ちゃんったら、お友達連れてくるなら言ってくれないと~! お母さん、今日お化粧薄いのよ! アハハ! まあ、座って座って、お弁当もいっぱいあるからねぇ」
「え…………ああ、すいません。失礼します」
とっとと帰りたい気分だったが、楽しそうに笑う留木さんに手招きされ、帰りづらい雰囲気だ。人の家の食事に入っていっていいのかと気が引けたが、よく考えれば、ウチのブルーシートは今頃一つの多様な生態系が築かれていることだろう。どうせもうしばらく暇なのだから、少しくらい時間を潰してもいいだろう。
「葛真くんは、おんなじクラスなのよねぇ。 そうだわ、有飼くんだから……委員会が一緒って言ってた子かしら? 旅行でも一緒に写真撮ってた子よね」
「あぁ……そうですね」
マシンガンのように放たれる言葉に、頭の処理が追い付かず曖昧な返事をする。自分も気を付けていないと長く話してしまう方だと自覚している分、人から長く話されるとなんだか自己嫌悪だ。
「もう、お母さんっ。 有飼くんが困ってるからっ! ほら、有飼。これ美味しいよっ」
「え、ああ、ありがとう」
留木さんが差し出した紙皿に乗った唐揚げやアジフライや春らしい天ぷら——揚げ物が多いな——を口に運ぶ。彼女が言うだけあり、揚げ加減が絶妙で歯当たりが良かった。改めてお重を見ると、カラフルのように見えて半分以上は揚げ物だった。お重の隅にはマヨネーズをディップするためのアルミホイルのスペースがあった。留木さんが幸せそうな理由がなんとなくわかる。
「花夢ちゃぁん、その子彼氏かい? 二枚目のイケメンじゃないの」
「違うよ、おじさん。 クラスメイト!」
少し酔っ払った様子の男性に絡まれ、留木さんは口をとがらせて抗議した。落ち着いて考えれば変な状況だ。クラスメイトの家族親戚の花見に同席して、唐揚げを食べている。毎年花見をしてきたものの、お重にこんな揚げ物が詰まっていることがあるなんて思いもしなかった。それがなぜか、ここでは自然なことのようにすら思える。きっとこの人たちは、鼻が無くても楽しく騒いでいられるのだろうと思った。
「そうだわ、花夢ちゃん。 さっき言ってたことだけど、葛真くんに頼めばいいじゃない」
「さっき言ってたこと、ですか?」
「ええっ、でも有飼にも予定があるでしょ……?」
申し訳なさそうに見上げてくる留木さんに、何の話かと聞こうとすると、母親の方が姦しく説明してくれた。
「花夢ちゃんも三年生でしょう? って、葛真くんも、そうよね。 だから、そろそろオープンキャンパスに行ったらどう? って話してたのよ。 ほら、夏休みになってからだと、遅いかもしれないでしょう。 でもこの子、一人だと行くの怖いって言うし、お母さんが付いていくのもダメって言うのよ」
「だ、だって、せっかく大学に行くのに、お母さんと一緒だと、意味、無いし……」
声を小さくしてうつむいた留木さんに、そう言えば彼女はよく自立したいと言っていたことを思い出す、彼女にとっての自立は、母親から離れて一人で生きることなのだろう。俺は自立するということに、それほどの価値も見出していないが、彼女がその言葉になみなみならない執着を持っていることは理解しているつもりだった。
「別に、いいですよ。 春休み予定があるわけでもないですから」
「ほ、ほんとに!? 有飼もN大なんだよねっ」
「まぁ、今のところはね。 確か、キャンパス見学があるんだっけ」
「そう! よかったぁ、有飼が行ってくれるなら安心だ」
「そうなの? 別に晴くんでも誘えば来てくれると思うけどな。 それこそ、鳩場さんとかも誘ってみたらいいじゃん」
俺の手を嬉しそうにぶんぶんと振っていた留木さんは、きょとんとした顔で俺を見つめる。
「何で田尾? 冠凛ちゃんは目指してる大学が違うし、どうせならおんなじ大学に行く人の方がいいと思ってさ」
「それなら、全然春休み前にでも誘ってくれて良かったのに。 遠慮とかしなくてもいいよ。 俺も無理して予定合わせたりとかはしないから、本当に気兼ねなくさ」
「う、うん。 ありがと……」
春休みに予定ができたのは、嬉しいような悲しいようなことだが、自分も後回しにしていたオープンキャンパスの予定が埋められたのは僥倖だった。きっと夏になったらもっと面倒に思っていただろう。
しばらく彼女の内輪の宴会に、少しばかり恐縮しながら食事を頂きつつ滞在して、俺は自分の家族の元に戻った。
「葛真、遅かったけどどこかで居眠りでもしてたの?」
「いや、そう言うわけではないけど。 ああ、そうだ。 今度の週末出かけることにしたから、お昼要らない」
「その日は私も仕事だし別にいいけど……え? 出かけるの!? パパ、葛真が出かけるって!」
「大丈夫か? 日傘なら貸そうか?」
「いや、いいって。 別に登校も歩きじゃん」
まったく、息子が出かけるというだけで大げさな驚きようの肉親だ。それ自体には、部屋で眠っている時間が長い俺にも、多少非はあるのかもしれないが。
「なんの用事?」
「オープンキャンパス」
「一人で行く……わけないわよね。 お友達と行くの?」
「まあ、そうだよ。 たまたまそこで会ってさ。 行こうってなって」
「そう。 遅くなりそうだったら連絡ちょうだいね」
「うん、分かってる」
そんなこんなで、うたた寝をするうちに過ぎ去っていくはずだった春は、まだもう少しだけ花を咲かせたままでいるみたいだった。
それから、数日が経って、ついにオープンキャンパスの前日になった。
「そろそろ寝ないと、明日お寝坊しちゃうよ~?」
「し、しないよっ! もう寝るから大丈夫!」
記憶の中には、相変わらず眠たげな顔のクラスメイト姿が思い浮かぶ。カーゴパンツに白い長袖のシャツをゆったりと着こなした彼は、いつも通りの何気ない表情がどこか眩しく見えた。まだ寒いからという祖母の勧めでお古のくすんだ色のトレーナー来ていた自分が猛烈に恥ずかしく感じる。
頭をぶんぶんと振って、雑念を追い払う。あの時のことはもう忘れよう。今は明日のことの方が大事なのだ。
改めてベッドに広げた数セットの私服に目を戻す。
「これはちょっと派手すぎるよな……明日って寒いんだっけ?……こっちは薄すぎるかな……ううぅ……ってもうこんな時間っ————」
目覚まし時計の短針は、長針に追いつかれまいと頂点を目指していた。いつもと比べると二時間は遅い就寝だ。明日クマができていないことを祈るばかりだ。
不安と緊張に苛まれながら、私は広げていた服をハンガーにかけてひとまず眠ることにした。
「————ちゃん。 花夢ちゃん! もう出る時間になるわよぉ!」
「ふぇっ!?」
掛け布団を揺らされ、薄目を開くと、目前にお母さんがあきれ顔で笑っていた。のっそりと目覚まし時計を見ると、駅に向かう時間の一時間前だった。
「お、お母さん、ありがとうっ」
慌ててベッドから出て顔を洗う。リビングに向かうと、すでに朝食が用意されていた。お父さんはもう仕事に出たようだ。
「いただきますっ」
のどに詰まらないように気を付けながら、急いでご飯をかきこむ。お米の甘さが消えないうちに、おかずの塩辛さが口の中で混ざる。冷たい麦茶で口を潤して、ヨーグルトのかかった林檎を食べると、少し苦く感じた。
「ごちそうさまっ」
「洗い物は置いといていいわよぉ。デートに遅れないようにねえ」
「デートじゃないって!」
一階の母に聞こえるように声を張って返答する。やっぱり、誘うのも二人の時に勇気を出せばよかったのだ。家族の所に連れてきてしまったせいで、変な誤解をされてしまい、あれからずっとからかわれている。
部屋に戻ると、服を決めていなかったことを思い出し、絶望感で棒立ちになる。見慣れた天井はいつもよりも高く感じた。
「うぅ……こ、これにしようっ」
キョロキョロと見回す時間も惜しく、最初に目についた服を手に取る。家族と出かける時も良く来ていた服だ。部屋着っぽさもないし、派手すぎることも無いだろう。ゆったりしたジーンズ——履いてみると予想よりもジャストサイズになっている。また太もも回りがきつくなってしまったようだ——と合わせると、水色のバルカンブラウスは上手くウエストを隠してくれた。むしろ脚も細く見えるかもしれない。
姿見で前後を確認して、時計を見るともう出発時刻だ。他の服を試している場合ではない。
家を出ようと玄関まで来たところで、服をすり抜ける涼やかな風に鳥肌が立つ。その瞬間、何か大きな忘れ物をしたような気がして、振り返る。
「大丈夫、だよね……?」
思考をゆっくりと回しながら靴を履く。大丈夫だと念じながら靴ひもを結んで、家を出た。
「さっ————」
吹き込んで来た春風は、三寒四温の外れだった。薄手のブラウスは風を防げず体温を下げていく。待ち合わせの駅まで走れば少しは体温も上がるだろうかと思いながら、ブラウスに汗が染みないかと心配になる。
ようやく駅に着いたときは、集合時間のギリギリだった。昨日のうちに話していた集合地点に有飼がいないかと見回す。
「おはよう、留木さん」
無地のシャツにジャンパーを羽織った有飼は、気の抜けた、それでいてどこか垢ぬけて見えた。今来たところなのかゆっくりと私の方へ歩いてくる。遅刻はしないで良かったと私は胸をなでおろした。
「うんっ、おはよう」
寒さはどこかへ飛んでいったように体の熱さを感じる。肌に触れるブラウスの感触は涼しい。駅の中は風も少なく、落ち着いていられた。彼の手を取って、電車へと乗り込む。
電車の中で改めて有飼からキャンパス見学のスケジュールを説明される。午前中は講義の体験ができるらしく、学部によって分かれることになるらしい。ひとまず教室で別れて食堂で合流することになった。午後は図書館やグラウンドなどの付帯施設の見学を予約してくれているらしい。誘ったのは私の方なのに、すっかり予約は任せきりになってしまったが、彼は気にする風でもなく淡々と説明を続けた。
ふと視線を感じて座席をの方を見ると、部活にでも行くのだろうか、台典商高の制服を着た生徒たちがこちらを見ていた。視線が交錯すると、気まずそうに目をそらす。
目線の先を辿ると、暖かい彼の体温に行き着く。つないだ手は突然に場違いに感じられ、なんだか私は恥ずかしくなる。いつから手を握っていたのだろう。人の手を握ることが、生活の中で自然になりすぎて、有飼の手を握っていることに疑問を持っていなかった。
夏凛ちゃんも、てんちも手を握っても優しい笑顔を向けてくれていたが、もう私は高校三年生なのだ。それも、しっかり自立した人間を目指しているのに、いつまでも人の手を握っているだなんて、まるで子供みたいだ。
それに————と顔を上げると、有飼は無表情に私の顔を見返す。何気ない素振りにドキッとして、私は思わず手を離した。彼は少し意外そうな表情をして、でも握りなおしては来なかった。
彼との間の紐帯が、物理的な側面だけでなく離れてしまった気がして、不安に襲われる。さっきまでは近くにいた有飼の温度がずっと遠くに感じる。
「着いたよ」
扉の方を彼が指すと、ちょうど開くところだった。軽く背中を押されて私は車両を降りた。
そのまま、どこか距離を感じながら、彼と二人で大学へ向かう。登校路は家から毎日通うことになってもそれほどしんどくは無さそうだった。手続きを終えて、講義の開かれる教室までやってきた。
「それじゃあ、次は食堂で。 何かあったら、連絡してきても大丈夫だから」
有飼が去ると、いよいよ一人になってしまう。大学という空間の雰囲気に飲まれそうになる。広い講義室には、自分と同様に高校生だと思われる真面目そうな人たちがすでに着席していた。同じ学部を目指しているとはいえ、話しかける勇気はなかった。
冷たく固い木の椅子に座って、私はルーズリーフを取り出した。高校の授業もままならない私が、本当に大学になんて行けるのだろうか。
90分の講義は、高校と比べれば時間こそ長いものの体感では短く感じられた。オープンキャンパス用に平易で楽しみやすいものを選んでいるのだろう。きっと通学し始めれば眠たく感じられてしまうと感じる。
同じクラスでも、もっと上の大学を目指している人はたくさんいる。この大学だって、悪いところではないが、彼らからしたら中堅にも届かない場所なのだろう。それでもまぁ、俺にとっては気にするほどでもないくらいだ。
別にモラトリアムが欲しいわけでもない。けれど、単純に進学して就職という方が、自分には合っている気がしたというだけのことだ。やりたい仕事があるわけでも、学びたい学問があるわけでもなく、ただその方がいい気がするというだけの選択だ。家族も学歴に執着は無く、俺にも当然ない。
眠たくなったら眠る。流されるままに生きる。それが一番楽で、立ち上がって進もうとすると戻れなくなってしまう。いつだって、自分で何かしようと考えるとそうだ。上手く立ち止まれなくて、言い過ぎたり、やりすぎたり、とにかく成功した試しは無い。あるいは、成功だったかもしれないそれに、俺は満足することができない。
人生が後悔の連続だったとしても、その一つ一つに立ち止まって気を悪くせずにはいられないのだ。それならば、初めから行動しない方がずっといい。無難に失敗しない方へと進む方がいい。
だから、何かに挑戦しようとする人は、純粋に羨ましくて、少し眩しすぎるくらいだ。甘やかされて、生かされていられるなら、ずっとその方がいいはずなのに、自立したいと思うことだけでも拍手喝采されていいだろう。仮にそれが、失敗するとしても、そんなことは他人には関係の無いことなのだから。
講義室を出て、食道に行こうかと思ったが、思い直して留木さんの講義室の方へと向かった。こちらの講義は少し巻いたようだったし、彼女が構内で迷わないという確証も無い。
予定と違う行動を取りながら、自分は彼女が嫌いなのだろうかと思う。少なくとも、信用はしていないのだろう。
信用と信頼は違うと誰かが——まあ、大体は晴くんが——言っていたが、いまいち理解していなかった。
留木さんが約束を破る人間ではないことは、俺でなくても誰もが認めることだろう。半面、約束を守れるかという点については、様々な障壁がある。あえて誰も口に出さないが、彼女は注意力にかけるし、判断力も高くない。どこか子供っぽさが抜けないのは、家族の教育や環境のせいなのだろうということは、ほとんど確信に近づいている。鳩場さんは、学力も含めて留木さんの面倒を見てくれているみたいだが、それはそれで彼女にとっては悪影響もあるような気がしている。
そんなことを気にしてしまうのは、彼女の不完全さをどこかで嫌っているからだろう。人見知りで子供っぽいという印象は、この一年で、ただ幼い精神性というだけだと修正することになった。晴くんも概ね同じように思っているのだろうが、どこかその成長を見守ろうとするような、保護者みたいな感情も持っているように思う。
人見知りの裏返しで、心を開いた相手との境界線は曖昧になりがちだ。それは友人としては、あるいは同僚なんかとしてなら、印象の良い明るさとして映るのかもしれない。けれど、きっと大学というまっすぐな関係性だけでない場所では、多くのトラブルを招くことになるに違いない。それは彼女の幼さも相まって、予想だにしない不幸や苦しさを味わうことになるかもしれない。
それは、今は友人だとしても、同じ大学に進学したとしても、きっと他人に近づいていく俺には関係の無いことのはずだ。彼女が苦しむかもしれなくても、進学が彼女にとって良いことであるのは確かで、それを支えるくらいは友人として自然なことだ。その先の暗闇に忠告するのはお節介で、純粋な彼女にはまだ理解も及ばないだろう。不必要な情報は教えるべきではなくて、それこそが俺のやるべきでないことなのだ。
やっぱり、俺は留木さんが嫌いなのだろうか。
一々人のことをとやかく考えることは、生きている中でそう機会のあることではない。ゲームで負けて煽られても、悪感情が次の日まで持ち越されることは無いし、電車が満員で苦しくても、家に着けば忘れている。
だけど、彼女の間の抜けた声や、理解しがたい行動は、どこか頭の隅に焼き付いて離れずにいる。それをどうにか忘れるためには、きっと彼女が自立して安心できるようになるしかないのだろう。
分の悪い賭けだ。いっそ彼女と関わらない方がいいのに、彼女といるとその波の強さに流されてしまう。誰でもいいはずの手を、俺が伸ばさなければならないように思えてしまう。
その手を彼女が握り返してくれると思ってしまうのは、俺の傲慢なのだろうか。それとも、彼女への信用なのだろうか。
そう思いながら、ようやく彼女の講義室へと到着する。まだ予定の終了時刻にはなっていない。しかし、やはりこちらも多少早く終わったようで、中から挨拶の声が聞こえてきた。
教室から制服と私服の混ざった同年代の男女が出てくる。教育系の学部と聞いていたが、別に優しげな顔の人だけではないようだ。そんなものか。
人波が一段落して、留木さんの姿は見えない。彼女の身長が低いとはいえ、さすがに見落としてしまったということは無いはずだが……と思っていると、どこか落ち込むように俯いた留木さんがゆっくりと講義室から出てきた。
「留木さん、講義どうだった? こっちは少し早く終わったから、一緒に食堂まで行こうか」
疲れた様子の彼女は、一人ではやはり迷子になりそうな様子だ。いつも通りの、という気持ちで彼女に手を差し出す。案外俺でも教育系の学部に進めるかもしれない。
「あ……有飼……その…………ごめんっ」
留木さんは、俺を見ると一瞬目を潤ませて、顔を背けると人混みとは反対の方へと走り去ってしまった。追いつけないほどではなかったが、予想外の反応に呆気に取られてしまい、脚がとっさに動かない。
自分たちと同じオープンキャンパスの生徒だろう、食道に向かう列から、彼女の足音に嘲笑うような声が漏れ聞こえてくる。
春の風はまだ寒さの方が強い。けれど、どこか熱いほどに逸る気持ちに、やっぱり俺は教育系には向いていないなと思うのだった。
暗い個室の中でうずくまる。このトイレは感知式の電灯ではなかったらしい。体を起こしても明るくはならない。
頭の中のカレンダーをめくる。震えるような寒さに、ただの体調不良だと思いながらも、結局外に出ていけないのは変わらなかった。腹痛はひどくなるばかりで、次第に頭痛もひどくなる。
どうしてうまく行かないのだろう。緊張して講義で当てられたことにも上手く答えられなかった。自分よりも賢そうな人たちに笑われて、挽回もできなくなってしまった。何かを学べたというわけでもなく、ただ恥ずかしい。自分の足りないところなんて、嫌でも知っている。それでも、それでもと思って夢を見たはずなのに、こんなにも簡単にあきらめたくなるなんて、自分の弱さにも腹が立つ。
涙があふれて、ブラウスに染みができた。冷え切ってしまったお腹に、温かい水の温度が伝わった。早く有飼の所に行かないといけないのに、彼に弁明しないといけないのに、涙が止まらなかった。
何分経っただろう。腹痛がようやく収まり、涙も枯れ切った。間の抜けた腹の音に、食堂に行く約束をしていたことを思い出す。ああ、でも、その手はもう振り払ってしまったんだっけ。
手洗い場の鏡で乱れた髪と服を軽く直す。手を念入りに洗って、エアドライヤーで乾かした。高校よりも施設が充実している感じが何だか大人っぽい。
空は晴れているのに、風はまだ冷たかった。早いところ食堂に行って風を避けたいところだ。
幸いにも、一心不乱に駆け込んだ手洗い場は、食堂に向かう通路への看板の前だった。距離こそ離れてはいるが、ほとんど一本道に迷うことも無くたどり着けた。
食堂はぽつぽつと埋まっていたが、教員のような大人とラフな格好の大学生がほとんどで、オープンキャンパスの生徒たちはもうどこかへ行ってしまったみたいだった。
お盆を取ってカウンターに進むと、注文口は自分だけだった。鬱憤晴らしも兼ねて、しっかりと白米を食べようと思う。お母さんからもらっていた食費には余裕があったが、デザートは控えることにした。代わりに、体が冷えないようにとお味噌汁を付けてみる。
大学生になったら、食事も変わるのだろうかと、一応とばかりに添えられたキャベツの千切りを見て思う。この大学に通えるなら、朝晩は家で食べられるだろう。でももし、落ちてしまったら?今の段階では、そのことを考える方が現実的な気がした。
レジを通って、お茶を入れていると、横から声をかけられる。
「あっ、ご、ごめんなさっ————」
「体調、大丈夫そう? ご飯食べられそうなら、平気になったと思いたいけど」
「あ、るかい…………」
「席、窓際に居るから」
「あ…………」
それだけ言って、彼は窓際の席に戻っていった。声をかけられた手前、違うところに行くわけにもいかず、大人しく彼の正面に座る。
「あの……有飼……ごめん……」
「とりあえず、食べたら? 温かいうちにさ」
彼は何を聞くわけでもなく、静かにうどんを口に運んだ。まるで今注文してきたように、丼の中には麵が残っている。
忠告に従って手を合わせる。学食は家のものと比べるべくもないが、温かい白米を口にしただけでどこか落ち着いた。
付け合わせのキャベツがハンバーグの汁で萎びているのに顔をしかめると、ふと有飼が自分を見つめていることに気が付いた。目線を上げると、薄くほほ笑む。なんだか、それは冠凛ちゃんやてんちがするみたいな優しい笑顔とも違う、取り繕ったような表情に思えた。
「食欲はあるみたいで、よかった。 急に飛び出して行っちゃうから、びっくりしたけど大丈夫そうだ」
「うん…………心配かけてごめん」
いろいろと予約してもらって、ここまで連れてきてもらったのに申し訳が無かった。今ここにいるということは、私を待っていたということは、彼も予約していたプログラムに参加できなかったということなのだ。それは、ひとえに私のせいでしかない。私が不甲斐なくて、どうしようもないダメな人間なせいで、迷惑をかけてしまった。
「あ、あのさ————」
私が謝ろうと顔を上げると、有飼は大きなあくびを一つ吐いた。視線に気が付いて口元に軽く手を当てると、首をかしげた。
「この後だけど、もう帰らない?」
「えっ?」
「なんだか眠くなってきたしさ、講義は受けれたから、別に設備くらいなら帰りに外から見えるでしょ。 ホームページにも載ってるし」
「でも、予約とか、色々……」
「いいよ、別に。 今日は運が悪かったってことでさ。 あんまり良い講義じゃなかったんでしょ?」
なんでそんなことを、と聞くのは意味もない気がして、私は静かにご飯を口に運ぶ。彼はもううどんを食べ終えてしまい、静かにお茶を飲んでいた。私が食べ終わっても、急かそうとはせず、静かに目を瞑っていた。
食器を返却口に置いて、私たちは食堂を出た。ベルトコンベアに戸惑っている間に、有飼は自動ドアの向こうへと行ってしまっていた。
「どうする? どこか見ておきたいところとかあるなら、軽く寄っていこうか」
「ん……いや、いい」
「そう。じゃあ、まっすぐ正門の方で良いね」
私より少しだけ先を歩く彼は、手を伸ばせば届く距離にいるはずなのに、どこか遠く感じられた。それがなぜだかとても寂しく感じられて、私は考えるよりも先に彼の手を取った。
彼の体温が伝わって、それから彼が振り向く。私は、自分でつかんだのに少し驚いてしまって、おろおろと視線を落とす。
「その……帰るのは、帰る、で、いいんだけど……もう少しだけ、一緒にいたら、ダメかな……?」
有飼は、驚いたように目を見開いて、それから考え込むように背を向けた。手をつないだまま、立ち止まった彼の隣に立つ。
「いいよ。俺も、そう思ってたところだから。 電車降りたら、もう少し、カフェにでも行こうか」
ゆっくりと、有飼は歩き出した。私も歩調を合わせて歩き出す。どこかぎこちない彼の足取りと、私の歩幅は合わなかったけれど、それでも隣を歩いていた。
「やっぱり」
不意に彼はそう言って私の方に視線を向けた。
「手、ちょっと冷たい。 寒いなら、ジャケット着なよ。 俺は少し暑いくらいだから、その方がちょうどいいし」
「えっと、あ、うん……ありがと」
彼の脱いだジャケットは、体温が伝わって温かい。冷えた関節も包まれるようにほぐされていくようだった。ずっと昔、もしかすると最近だったかもしれないが、お母さんにコートをかけられた時のことを思い出して、つい微笑んでしまう。
「どうかした?」
「……ううん。なんだか、あったかいなって」
「そりゃあ、春だからね」
自分の手よりも一回りは大きい彼の手に、どこか安心感を覚える。伝わってくる体温に、感じた穏やかな気持ち。その暖かさといつまでもつないでいたくて、ほんの少しだけ、私はゆっくり歩いた。彼も、私に合わせてくれたような気がする。
まるで夢のようなその想いは、けれど確かに現実で。私は少しだけ、大人になれた気がするのでした。また来年も満開の桜を二人で見たいと、そう思いながら。