第五十九話 未だ覚めず池塘春水の夢
・主な登場人物
愛ヶ崎天使:この物語の主人公。天使ちゃん。現在生徒会執行部会長。
藍虎碧:現在生徒会執行部副会長の女子生徒。クールに見られがち。
この学校には、天使がいる。
三年生の卒業した学校では、そんな噂の新たな語り手を待つように、あるいは新たな奇想天外な噂を待つように、静謐な空気が満ちていた。
天使と呼ばれる少女は、他の二年生と同様に三年0学期とも言われる期間を過ごしていた。勉学において他の追随を許さない彼女もまた、勉強をしていないわけではない。焦りというものこそないものの、不安を完全に無くせるほど、彼女は井の中の蛙ではなかった。
1年次であれば、勉強のできる彼女に、効率的な勉強法や勉強のコツを聞きに来る生徒も少なくはなかったが、今では誰も彼も自分のことで手いっぱいであった。何しろ、受験というものはよほど親しい友人でもない限り、同じ道を志せば敵ともいえるのだ。勉強のできる、できすぎる彼女は、天使というパブリックアイドルであると同時に、勉強への苛立ちや不満をぶつけてもいいパブリックエネミーのような存在でもあったのだ。
「あの子はいいよね」などと嫉妬しても成績が伸びるわけでもなく、天使の成績は落ちる気配もない。そう思う反面で、誰も口に出さなくとも、天使に勉強を教わるというのはそれぞれの沽券にかかわる行為なのだった。
そんな誇りのような下らない想いにこだわってしまうのも、彼ら彼女らがまだ、天使という幻想を抱き続けている故なのかもしれない。
卒業式を終え、台典商高は春休みを迎える。
開かれた扉に招かれた少女は、未だ生活感の無い空っぽの部屋に顔をしかめた。
「引きこもるとミニマリズムに目覚めるって言うのは、珍しい症例な気がするね」
「そうかなぁ。 大学に行ったらそれで卒論でも書いてみる?」
皮肉もするりとかわした愛ヶ崎に、藍虎は苦笑した。詫びるように肩をすくめて、覗き込むように笑う彼女に目を合わせる。
「とにかく入ってよ。 前よりは足を伸ばせる部屋だからさ」
「そう言われると、むしろ背筋が伸びるよ、生徒会長さん?」
「あはは、じゃあお菓子持ってくるから。 それでいいでしょ?」
春休みに入って数日経ち、生徒会執行部の仕事も一段落し、つかの間の休息となった。受験を前に気を引き締めろと、威厳の無い優しい声で担任は言っていたものの、藍虎はまだそれほど気分を高められてはいなかった。
それは先輩の卒業による虚無感や寂しさによるものでもあり、大学受験というイベントに対する当事者意識の無さからでもあった。ただでさえ、台典商高は就職に進む人も少なくない。普通科の多くは進学とはいえ、塾にも通っていない藍虎にとって、受験はまだ先とすら思えることなのだった。
勉強をしていないわけではないが、それは基本的に学校の復習と春休みの課題であり、具体的に受験対策というものが何なのかということは分からずにいた。志望校は高望みでもなく、今くらいの集中でも大丈夫だろうという驕りは、果たして三者面談などでの担任や家族の危機感の無さによるものでもある。
さて課題でもするかと生徒会室で帰りの荷物をまとめていたところ、生徒会長であり、互いに数少ない友人である愛ヶ崎天使その人が、いじらしい表情で、ある誘いをしてきたのである。
「碧、春休みは暇だよね? 明日までに課題は全部終わらせてさ、私の家に来てくれない? 手伝ってほしいことがあるんだ」
その誘いは、課題をコツコツと進めるタイプの藍虎にとってはかなり厳しいものだったが、そもそも課題の話は冗談だと理解した藍虎は、一応それなりに進行度を進めたうえで、心地の良い目覚めの後、彼女の家にやってきた。
もう半年近い前から様相の変わっていない整然としすぎた部屋には面食らったが、思えば彼女はそうと決めれば直進するようなタイプでもあったのだった。今更何を驚くことがあるだろう。もっと重要なこと、そうつまりは彼女の手伝ってほしいことを聞いて驚くべきだろう。
それは生徒会室では話せないようなことなのだ。わざわざ家に招いてまで相談したいこと————昨年の今頃で考えれば、恋愛、なんて聞かされて驚いたものだ。とはいえ、今の彼女が好きになる人がいるだなんて想像がつかない。だからこそ面白い。どんな馬の骨、どこの唐変木だろう。
「えっ…………と?」
そうワクワクドキドキとした青春の一ページのような気持ちを湧き上がらせながら部屋に入った藍虎は、目の前に広がる真っ赤な光景を見て絶句する。
「ちょっと碧、ドアのところで立ち止まらないでよ」
「あ、ああ、すまない……ところで天使、手伝ってほしいことがあるって言っていたけれど、それってまさか……」
「あ~、そうそう。課題は終わらせたよね? 一緒に勉強会しよっ」
藍虎は、自分の花畑のような淡い夢がブルドーザーでひっくり返されるような思いになった。眼前の部屋に詰まれた赤い本、他に形容することのできない、読んで字のごとく赤本の山を前に、藍虎はどこか冷たい秋の風を感じたのだった。
ご丁寧に二人分開かれた袋菓子を前に、藍虎は黙々と問題に向き合う少女の頭部を眺めていた。それは見とれていたというよりも、テスト中に雲を数えてしまうような浮ついた心だった。
「あれ、解けたの?」
「いや、解き方は分かる気がするんだけど、公式が思い出せなくてね」
「あ~、あるあるだねぇ。 でもここはほら、公式なくてもゴリ押しで行けるよ」
「ああ、なるほど」
これまでの自由奔放な様子とも、執行部での八方美人な様子とも違う、自然な、それでいて分かりやすい簡潔な説明に感心する。妹に勉強を教えることもある身としては参考になるどころか、自分とは比較したくないほどだ。
「碧ってさ、どうやってノート取ってるの? 連絡ノートの時に思ったんだけど、授業中にあんなにきれいにまとめてるとは思えないんだけど」
不意にそんなことを聞かれ、藍虎は問題を解く手を止める。
「あれは後でまとめ直してるよ。 そうしたら復習にもなるし、キレイなノートを作れると、後で見返すモチベーションにもなるからね」
「そうなんだ、なんかサイン色紙みたいだね」
「? 天使はどうやって取ってるんだい? 確か、授業中はルーズリーフだよね」
そう聞いてから、家の今に誰だったかのサイン色紙が飾ってあったことを思い出す。あれは誰のものだったか……太いペンの曲線形は思い浮かぶが、文字の全体はうっすらとしている。確か笑顔のマークが入っていたような気はするのだが。
「ノートはねぇ、あんまり取ってないね。 二年になってから提出用以外はまとめてもないかも」
「それで覚えられるんだからすごいよ天使は」
「予習はしてるし、その分演習を増やしてるから。使わないと覚えられないんだよねぇ」
演習、という言葉に藍虎は部屋に詰まれた赤本を見る。この時期に個別試験対策をするというのは、演習にしても早すぎる気がしてしまう。
「碧も赤本使う? 進路指導室の人がさ、この時期は誰も使ってないからいっぱい持って行っていいよってくれたんだよね」
「……これ全部やってるのかい?」
「ナイナイ。 これでも厳選はしてるんだよ? 二次試験のやつでもさ、別に現代文なら今でも変わりなくできるでしょ? 英語だってそう、数学ももうほとんど範囲は終わってるよね。 だから、今は覚えるために良い問題を発展でしてるだけ」
「東大にでも行くつもりなのかい? ああいや、別に行くつもりなのかもしれないけど」
「行かないって。 塾も行かずに対策できないよ。 あ~、いや~……うん。 できない。 というかしたくないな~、自信ないや」
どこか可能性を考えるように唸って、愛ヶ崎はどこか懐かしい顔を思い浮かべるように薄くほほ笑んだ。
「それより、行きたい場所があるから」
藍虎はその清々しい顔に、どこか安心すると同時に、何が彼女を引き寄せているのかと不安に思った。亜熊先輩だろうか、あるいは三峰先輩。そのどちらも違う気がする。さらに言えば、碧と同じ大学!なんて言葉はもっと望めそうにない。
「天使なら問題ないよ」
「そうだね。 碧も一緒に行く?」
「いや、私は通えるところが良いからさ」
なぜだか彼女と離れてしまうことだけははっきりと分かる。多種多様な赤本の大学名は、彼女のとの間にそびえる分厚い壁のように思えた。離れ離れになる未来を、憂うでも悲しむでもなく当然のように見ている天使に、私は少しだけ悲しくなった。そもそも、彼女が私に執着していると思っていたわけでもないのだが。
「天使は、勉強が好きなのかい?」
「うん、今は楽しいかな。 やるべきことがあって、それに必死になれるって、結構難しいから」
「そうなんだ。 私は、どれからやればいいのかも見当がつかなくて身が入らないよ」
「だから勉強会するんでしょ。 今日は数学。 範囲はここからここまで。 碧ならできると思うから、呼んだんだけどな」
「ちなみに、他に呼ぼうと思った人はいたのかい?」
「ご想像にお任せします」
私の無駄話に付き合いながらも問題を進めていた天使は、肩をすくめて笑った。
「碧、執行部に入ってからだんだん成績落ちてるでしょ」
「平均点は切っていないと思うのだけど、君から見たら低いかい?」
「平均点なんてあてにしてたら、後で困るよ? まずは学年二位を目指そっか。 文理分かれたんだし余裕だよね?」
「は、ははは……」
わざわざ手を止めて微笑みかける天使に、私は首を横に振れなくなる。学年一位をキープし続けている彼女が言うと、さも簡単なことのようだが、私は調子が良いと思った時でもようやく一桁に入る程度だ。苦手に思っている科目も一つではない。典型的な文系の好き嫌い故に、平均点の差に合う形で得点が上下していたが、それをすべて高い位置で合わせなければならないということだ。
「ま、まぁ、三年になったら目指してみるよ……」
「だから、そのために今からお勉強。でしょ?少年老い易く、って言うんだからさ」
「ああ、光陰矢の如し、みたいなことだよね」
「まぁ大体一緒だけど……少年老い易く学成り難しって、時間が無いよって意味だけじゃなくてさ?碧が今から死ぬ気で勉強したって、世界の真理が分かるわけでも学問の真髄が啓けるわけでもないんだよ。入試までに、どんな問題が出ても絶対に満点を取れる状況なんて作れない。なのに碧は、自分はこのくらいって低く見積もってだんだん下がっている状況なわけだよ。
当然、努力したって完璧な人間になんてなれないけど、人間の満点は目指せなくても、自分の百点は目指さないといけないと思うんだ。学が成る、なんて目指さなくて良くて、だから朱子———この漢詩を詠んだ人は、理想が高かったんだろうけど。少なくとも、碧は今の程度で満足するような人間だとは思ってなかったな」
彼女の言葉は、暗に天使を目指すことを諦めてしまったことを感じさせた。それもなんてことない過去だと言う様に、彼女は問題を解き続けている。天使というナニカを目指していた彼女。その夢や理想を捨てても、彼女はまだ気高く強い気持ちを持ったままなのだ。
そう感化されて、ようやく問題に取り組み始めると、天使は不意に手を止めて私の方を見つめ始めた。頭頂部に視線を感じ、集中が途切れる。
「どうかしたかい?」
「碧ってさ、なんか甘くなったよね」
「そ、そうかな。 別に前が厳しかったということも無いと思うけれど」
「ううん、変わったよ。 選挙が終わったくらいから、いっつもニコニコしてるし、なんかクネクネしてる」
「く、くねくね……」
そんな自覚は一切ないが、もししているならば猛烈に恥ずかしい。顔には出していないものの、天使が学校に戻って来てから、私の部屋は彼女との写真や思い出になったもので散らかり始めたという心当たりもあった。
「ほら、ニヤニヤしてる」
「ええっ!?」
「う・そ。 心当たりでもあるの?」
指摘に思わず口元を抑えると、彼女の方がニヤニヤと笑いだす。最近の天使は、どちらかというと小悪魔のようだった。
「そうだ。 ねえ、碧。 一緒の大学目指してみる?」
「ああ、ぜひ……って、えええっ!?」
思わぬ言葉に私はバランスを崩して後ろ向きに倒れた。天使が苦笑いする声が聞こえてくる。
「なんか調子狂うなぁ。 ○○大学でしょ? 前期、一緒に受けようよ」
「い、いいのかい?」
「国公立でここからまぁまぁ近いんだから、別に悪い場所じゃないじゃん。なんでそんな聞き方なの?」
「いや、でも……」
「そうしたら、碧もやる気出るんじゃない? 私と同じ大学に行くためならさ」
見透かされている。彼女が生徒会長になって、頼もしい存在になったことで、私は自分が必要ないと思う様になりつつあった。副会長としての仕事は多いが、去年と比べれば負担とも思えない量だ。天使の采配に従っていれば、微細な問題も大事になりそうなことも、簡単に解決してしまい、私は気を張らなくても良くなっていた。必然、校内の情報に気を配る必要も薄くなり、橋屋とも情報なんて関係ないただの友人になっていた。
気が抜けた、というのが正しいのだろうか。もちろん、執行部の仕事はきちんとこなしていたし、副会長としての威厳を落とすようなことも無かったが、ただそこに立っているだけで、天使の隣にいることができていると思ってしまっていたのだ。
天使が私と同じ大学に行くことになるとしたら、それは彼女が受験に失敗した時だろう。そう思ってはいても、天使と過ごすキャンパスライフに夢を膨らませずにはいられないのが私の弱いところだった。
「ああ、そうだね。ありがとう」
「感謝は学年二位になってからね」
どうして彼女は、私に必要な言葉をかけてくれるのだろうと、そんなことを疑問に思ったりする。体育祭の朝、明らかにあの時の天使らしくないハグをして、私に疑問を持たせたことも、藍虎派を焚きつけて、私が生徒会長に立候補することになったのも、私が成長した天使に、あるいは本当の天使の姿に満足して、前に進むことを止めないようにするためだったのだろうか。
「ねえ、碧?」
「なんだい?」
「碧は、私のどこがそんなに好きなの?」
飲み物に伸ばしていた手が、動揺して大きく震えた。何とかコップを寄せて一口飲んで、一息ついてから冷静に答える。
「全部……かな。 一挙手一投足、話し方、歩き方、表情、上から下まで全部好きだ」
ぽつりぽつりと言う気の無かった想いがこぼれた。天使は照れるでもなく、じっと目を細めて私を見つめている。
「でも、一番は君の持つ輝きだよ。 カリスマ、なんて言うと嘘くさく聞こえてしまうけど、君が自信を持っているからこそ感じられる、内側の輝きが何より尊く思えるんだ」
「…………そっか」
天使は優しく微笑んだ。それは暖かな太陽の光のように感じられた。
「私は、今も輝いてる?」
「ああ、もちろん」
私の目の奥には、あの日天使に見た光が今も焼き付いている。守りたいと思った恒星は、今も空で輝いていた。
それから、お菓子を食べ終えた天使は修羅に変貌した。談笑しながらのんびりとした時間を過ごすのだと思っていた私は、手厳しく彼女に指導されながら、指定された範囲の問題をこなすことになった。
推奨の時間を過ぎながら、あともう少しが遠い回答を走り書いている後ろで、天使は鼻歌を歌いながら昼食を作ってくれていた。勉強の面だけでなく、生活の面でも私は彼女に敵わないだろうと、余計な雑念がよぎる。それが当然、彼女が背負ってきた苦労や苦悩の先に実ったものだと分かっていても、私は意味もなく劣等感を覚えてしまうのだった。
「丸付け終わったら、ご飯にしよっか。 解説は後でしてあげるからさ」
大きく三角を記すことしかできない不完全な解答用紙にため息をついて、私は彼女の待つリビングに向かった。待ちわびたように箸を両手でつまんだ天使に、軽く頭を下げて食事の礼をする。
「……やっぱり、天使はすごいね。 あの問題、まだまだ私には解けそうにないよ」
少し涼しい春の空気に染みこむような、温かいうどんをすすりながら、私はそう彼女に微笑んだ。天使は卵の溶けた出汁を少し飲むと、不思議そうな上目遣いで私を一瞥する。
「そんなの、当たり前でしょ。 解けたら受験対策なんて必要ないってことだし」
冷たい麦茶をコップの半分ほど飲んで、天使は温度を確かめるように丼の側面に手を軽く当てた。
「誰だって最初はできないもので、最後までできない人も、途中で投げ出しちゃう人もいる。 でも碧は、目標のために頑張れる人だもんね。 天使ファンクラブも、最初は二人だったんでしょ?」
「…………は、ははは。 そうだね、まだ始まったばかり、か」
試すように微笑む天使は、小悪魔のように私を弄ぶ。きっともう、彼女には私のすべてが見透かされてしまっているのだろう。私の過去のどんな恥ずかしいことが、彼女の口から飛び出しても、驚きよりも諦念が勝ってしまう。
まだ長いように思える春休みが、一筋の矢のように過ぎ去ってしまわないように、私は目の前の光を目に焼き付ける。
たった今この瞬間の幸せが、いつか秋風が運んでくる寂しさを紛らわせてくれることを願って。