第五十八話 卒業式。緑。
・主な登場人物
三峰壱子:壱子という名前からワンコというあだ名で呼ばれる少女。低い身長と元気で独特な口調が犬っぽい三年の女子生徒。弟の優二、妹の川里に加えて、三女となる幸葉が年末に産まれた。好きな野菜はアボカド、嫌いな野菜はセロリ。
丸背南子:南子という名前をもじったニャンコというあだ名で呼ばれる少女。猫背で丸眼鏡の落ち着いた少女。誰に対しても敬語で話す。母の勧めで休日は図書館でアルバイトをしており、預金口座は母が管理している。
その学校には、ドーベルマンのようだと恐れられた女子生徒がいた。
かつては、ワンコだポメラニアンだと好奇の目線を向けられていたが、彼女が生徒会長としての手腕を発揮し始めると、その可愛げは犬被りだったのだと言われるようになった。
そんな自分への評価を気にも留めず、彼女は前へと突き進んだ。頭を捻り、首をひねりながら、多くの物事を切り捨てて正しい校内風紀の在り方を求めたのだった。
明け透けのようで、本当の自分をしまい込んだ少女。大胆で不遜な、臆病で不安症の子犬は、学び舎を去ることに悔いも迷いもない。
その学校には、キュートでプリティな猫のようだと可愛がられた生徒がいた。
恋や愛に疎く、本の虫である少女は、自由に生きていた。思うままに不自由な生活を過ごし、からかうように褒めそやす声も、日常の雑音と流していた。
活字と共に思い出される静かな青春の日々に、自分をニャンコと呼んだ——思えばすべての元凶のような——唯一の友人の記憶は、どこか騒々しく思わず微笑んでしまう美しさと共に刻まれている。
家を出たときは、もうすっかり春だった。先週までは、まだ冬の寒さを感じていたはずなのに、気が付かないうちに桜が咲いている。
冬服のブレザーが少し暑すぎるくらいの陽気に、答辞を変える必要は無さそうで良かったと安堵する。
「————三峰壱子」
「はい」
担任が呼んだ自分の名前に、はっきりと返事をする。マンモス校というわけでもないが、一々全員が前に出て証書を受け取るというのは馬鹿らしいなと思う。その代わりなのか、校長の話がやけに短いのがこの学校のいいところだ。
証書を脇に挟んで、一礼。中学の頃は部活動で表彰をされたこともあったと、今更になって思い出す。随分と前のことに思えて、なんだか懐かしい。三年まですら続けなかったけれど、成功体験とでも言うのだろうか、自分は何かを成すことができるのだと、そんな自己肯定感をもたらしてくれた。
広く空いた席の間を通り、元生徒会長だというのに入出しづらい真ん中の席に戻る。どうせこの二三度きりなのだと、提議しなかったが、なぜ答辞の担当をこんな場所に座らせるのか。教師に聞けば、今までもそうだったから、などと不甲斐ない、歯切れの悪い、考えなしの回答が返ってくることだろう。
普通科の証書授与が終わり、ようやく折り返しかと気が遠くなる。世の中、効率だけで回ってはいないのだと分かってはいても、やはり効率が悪すぎると思う。後で父に、録画のこの時間は消しておいてくれと頼んでおこうか。きっと母は、いいじゃない見ごたえがあって、なんて笑うのだろうけど。
自分の最後の仕事である卒業生からの答辞が近づくにつれて、だんだんと嬉しい期待感が増していく。普通は悲しんだり、思い出に浸ったりするものなのだろうか。隣席で涙をこらえた様子の生徒を横目で見る。卒業式のどこに感動する要素があるのか、理解しがたい。清々するという意味では、感動なのだろうか。
二次試験の結果も出ていないのに、心が動くはずもない。ちらりと時計を見ると、合否が判明するまで四半日を切っていた。今日の日付と同じ合唱曲も、良い思い出となるかは結果次第だ。
思えば、対して思い出の無い高校生活だったように感じる。きっとそんなことは無いのだろうが、家族のことや生徒会の仕事で忙しかった日々を、思い出と言うには居た堪れない気がした。
友人という友人も、ニャンコぐらいのものだ。そのことを悔いるつもりはない。この学校の生徒とは、どうにも馬が合う気がしなかったのだ。ニャンコとも、気が合うかと言われれば、そんなことは無いのかもしれない。出かけても、彼女と行きたい場所は被らない方が多いし、服の好みも音楽の好みも違う。食の好みが似ていることだけが救いに思える。
ただ、そんなすれ違いも仕方がないと彼女なら思えた。それはこの学校で初めて話しかけたクラスメイトだったからというだけの、擦り込みみたいなものだったのかもしれないが。
執行部のことを思い出だと言えるなら、その始まりはお茶目でからかい甲斐のある先輩だ。完璧で尊敬される神以上、なんて自称する先輩は、努力家で自信とやる気に満ちていて、だけどどこか少し常識が抜けていて。きれいな球面の反対側は紙をくしゃくしゃにしたハリボテみたいな人だ。
一年の頃は、執行部なんてやるつもりは、まして生徒会長なんて面倒なことはやりたくなかった。ただでさえ、下の兄弟たちは手がかかる時期で、お花畑みたいな頭の両親は、四人目の話をしていた。
やりたがらないであろうニャンコと一緒ならと、冗談めいて言ってみたら、いつの間にかこんな場所にいる。思い返せば、楽しかったのだろうか。弟の世話をしてるみたいで、面倒で仕方がなかった記憶ばかりだ。
送辞が始まり、すっかり大人びたように思える後輩が、凛とした表情で定型のような文章を読み上げる。
手のかかる後輩だった彼女も、今では手の付けられない後輩になってしまった。任せられるだろうと思ってはいたが、私以上に好き勝手するような気がして期待のような不安を覚える。
まあ、それも卒業していく私には関係の無いことだ。優二も学童を卒業したし、川里はまだ幼稚園だ。彼女と関わることももう無いだろう。この学校がどんな波瀾に巻き込まれたとしても、私はもう何の興味もない。そんな意味では、天使ちゃんは立派に後輩として成長してくれたのだろう。きっと私と同じように、家で寝転びながら書いた言葉を、心を込めて読み上げている。
本当に面倒だが、最後の仕事が始まる。けれど、この仕事が終われば自由なのだという期待感で、私も最後の猫を被れそうだ。
舞台に上がった友人は、相変わらず自信気な表情で、朝は気だるげに親の愚痴を言っていた少女と同じとは思えないほどだった。むしろそんな二面性のようで、素直で責任感のあるだけの彼女の姿が、いつも通りで安心する。
適当に書いた、なんて言っていた文章も、きっと卒業していく同級生たちや、保護者に教師の心には感涙の言葉として届いているだろう。
思い出を振り返るような言葉に、この三年間の記憶がよみがえる。
図書室で本を読んで、教室で静かな時間を過ごす。それはとても色褪せていて、静かで退屈だ。でも、その静けさが私は好みだった。そんな日々を思い描いて、私は高校にやってきた。
だけれど、記憶に残った日々は、いつもどこか騒々しい。笑い声、困ったようなため息、理不尽に怒る声、癇癪を起したかと思うと泣きついてくる声。
散々人のことを猫だなんだと言っておきながら、一番野良猫のような気ままさの友人の声ばかりが思い出される。その声はいつも元気で、ぶっきらぼうだけど、事あるごとに私を褒めてくれた気がしている。それは彼女の口癖みたいなものだったのかもしれないし、機嫌取りだったのかもしれない。そんな彼女の騒々しさが、私を今まで導いてくれたのだ。
あの日、彼女が話しかけてくれた日、私のこの学校での物語は開かれたのだ。そのことに愚痴を言いたいこともあるけれど、今日ばかりは感謝したい気持ちだった。
けれど、一方で自分は彼女に何かをしてあげられたのだろうかとも思う。執行部では書類の整理や、あまり目立たないことを担当していた。それはワンコなりの配慮だったのだろうけれど、彼女が問題に取り組んでいる時、私は良い助言ができるわけでも、何か手伝えるわけでもなかった。三年生になってからは、話す機会も減った。それはワンコが忙しくなったからでもあり、私以上に彼女と話すべき人が多くなったからだ。
私などとは比べるまでもなく、彼女は友人が多い。いろんな人と話しているし、いつも誰かと一緒にいる。お昼は一緒に食べていたけれど、それもどこか無理をしているのではないかと不安だった。
彼女は愚痴を良く言うが、私の悪口を言ったことは一度もない。それは私の前でというだけの話で、むしろ我慢しているような印象すら覚える。
彼女にきっと、私はたくさん迷惑をかけてきた。彼女だけでなく、きっと私は、両親にも、他の多くの人にもそうなのだろう。そのことを自覚しても、誰かに頼りきりでいることが、私の心には、暗雲のように立ち込めているのだった。
クラスに戻ると、同級生たちは皆別れを惜しんでいた。前までは接点の無さそうだった人たちも、どこか仲良さげに話し合っている。二次試験対策で意気投合でもしたのだろうか。
担任のためになる話が終わり、最後のホームルームも締められる。配られた卒業アルバムを手に、生徒たちは互いに落書きや数年後には思い出になる適当な言葉を書き残す。
「ねえ、ニャンコちゃん。 私たちも書いていい?」
「え……ああ、はい」
いつの間にか立ち上がれないほどに囲まれていた生徒たちの間で、私の卒業アルバムは回されていった。空白のページが地下道の壁のように雑多な文字で埋められていく。笑顔で去っていく生徒たちの、半分も名前は分からない。これが学校における友人というものなのだろうかと腑に落ちない気持ちになる。
フィクションなんかでは、第二ボタンがどうのと言ったこともお決まりだが、ワイシャツのボタンなんかが何になるのだと、当事者になってみて感じる。
教室の騒々しさに居た堪れない気持ちになり、私は荷物をまとめた。昨日までに、置いていた教科書も問題集も持って帰っていたために、支度はあっという間に終わり、軽いかばんを肩に背負う。
楽し気に思い出話に華を咲かせるクラスメイト達に、挨拶をするでもなく教室を後にした。教室棟の一番端の教室は、やっぱり随分と階段まで長い。
思えば、この学校に存在している同級生たちとは、直接の関わりこそなかったとしても、三年同じ時間を過ごしたのだ。それが、こうして簡単な別れで終わろうとしている。
ああ、それはなんだかとても寂しくて、穏やかで味気なくて、私好みの静けさだ。
教室から漏れ聞こえてくる楽しそうな声が、どこか耳の遠くの方に離れていく。学生生活にピリオドを打つ一歩一歩が、水面に波紋を起こすように神秘的に思える。
鴉の群れの階段をふわりと下りるように一階にやってくると、すっかり教室の喧騒は聞こえなくなった。卒業式という特別感は冷めていき、いつも通りの静けさが世界に満ちる。
家に帰ったら何の本を読もう。頭の書庫を思い出しながら昇降口に踏み出すと、予想外に声をかけられる。
「おっ、ビンゴ! 丸背先輩、今から帰りっすか?」
「まったく、君にはモラルというものが無いのか? ——先輩が来るのをみんなで心待ちにしていましたよ」
昇降口のベンチから立ち上がって近づいてきたのは、同じ文芸部だった後輩たちだった。普段は遅刻も多く予定も合いづらい後輩たちが珍しく勢ぞろいだ。
「皆さんお揃いで珍しいですね」
「そりゃあそっすよ。 先輩の卒業式なんすから」
「しかし、お別れ会もこの前開きましたし……」
「それとこれとは別ですよ。最初は図書室で集まろうと思ったんですが、田尾がここにしようって」
「今回ばかりは、田尾先輩が正しかったようです。 ちなみに、これから図書室に向かう予定は?」
生徒会執行部にも推薦した遠野さんの質問に、私は首を振る。どうやら彼女の予想は外れたらしく、しょんぼりと肩を落とした。
「改めてにはなりますが、先輩。 ご卒業おめでとうございます。 文芸部らしいことは散々お別れ会でしましたし、今はただ率直にそうお伝えすることにします」
後輩たちは口々に祝いの言葉を述べる。それほど多くない後輩たちは、まるで祝うことを楽しみにしていたかのように嬉しそうな表情だ。図書室では静かに書の世界に入る姿ばかり目にしていたせいで、人間らしい表情を少し意外に思う。同時に、自分が先輩として彼らから慕われていたことも意外だった。
「ありがとうございます、夕原さん。 その、頼りない先輩だったとは思いますが……」
「そんなこと、ないです。 私は、この一年しか、先輩のことを知りませんが、それでも、先輩は私の憧れ、です」
遠野さんに手を取られ、中身の無いかばんが肘に落ちる。彼女の手は、思っていたよりも温かくて、想像よりも力強かった。
「だよな! 先輩はいつまでも俺たちの先輩なんすから、卒業しても忘れないでくださいね」
「ええ、善処します」
「忘れるときは田尾からだと思うけどね」
「素直に悲しい」
なんだかもっと春は涼しいものだと思っていたのに、心の奥が暖かい。私がクスリと笑うと、珍しく遠野さんも微笑んでいるような様子だった。
「文芸部のことはお願いします。 皆さんなら、きっと大丈夫ですから」
「ええ、もちろん。 優秀な後輩もいますからね」
夕原さんが遠野さんの肩を寄せる。なんだかそんなスキンシップも珍しくて微笑ましい。
「じゃあ、俺たちはこの辺で」
「はい、それでは」
軽く手を振り合いながら後輩たちと別れる。涙の一つなくても心は温かく世界は少しだけ色づくことができる。
下足に履き替え、上履きを袋に入れる。春の日差しに目を細めると、私を日常に返す声がする。
「南っちゃん~、こっちよ!」
フォーマルな黒い礼装を着た母が、落ち着いた服装とは正反対に大きく手を振った。
「証書、しっかり受け取ってたわね! ママ、写真いっぱい撮っちゃったの。 ほら見て? これとかもう凛々しい顔になっちゃって! 南っちゃん、生徒会に入ってすっかり大人になったっていうか、成長したわよねぇ。 ほんと、あの南っちゃんがもう卒業だなんて信じられないわぁ…… まあ大学もお家からだし、まだまだ一緒にいられるわよね」
母は、カメラに映った違いが無いように見える私の写真をスクロールしながら、滝のように言葉を垂れ流した。校門前からグラウンドまで響いて行きそうな甲高い声に、私は少し恥ずかしく思うが、今更注意しても仕方の無いことだ。曖昧に頷いて機嫌を取る。
「さっきの子たち、後輩ちゃん?」
「そう、だけど」
「もう~、言ってくれたらいつでもおもてなしできたのに 。お家で遊んでくれてもいいのよ? お菓子だっていっぱい買ってあるものね」
「うん、そうだね」
母と引き合わせたくないからだ、なんて言っても、それこそ仕方がないことだ。母は悪い人ではない。ただ少し、私とは似ていない性格というだけだ。そしてそれが、私にはどこか後ろめたく感じられてしまうというだけのことなのだ。
「今日のお昼、どこにしましょうか。 今日は南っちゃんの好きなおそばのお店にしましょうか。 お父さんも車で待ってるからね」
「うん」
母が私の左手を取り、駐車場に向かって歩き出す。
「おや、丸背さん」
「あら~、三峰さんのところの」
そのとき、大きな声で気が付いたのか、ワンコのお父さんが声をかけてきた。家族同士で直接関係があるわけではないが、ワンコの家には遊びに行くことも多かったから、知らない仲ではない。電車で帰れる時間でも母はいつも車で迎えに来るから、顔も合わせる機会が多かったのだ。
「いや~、早いものですねお互い」
「も~、ほんとにそうですよねぇ。 そういえば、三峰さんのところは娘さん、産まれたんでしょう。 今、大変じゃなくって?」
「もう家内も僕も大忙しですよ。 壱子も進学で遠くの大学に行くもので、引っ越しの準備もありましてね」
「あら~、やっぱり進学は近いところがいいわよねぇ」
「まあ、本人の希望もありますからね。 下の子もしっかりしてきましたから、今度は懐の方が厳しいですかね」
冗談めかして笑うワンコのお父さんは、やっぱりワンコが言うほど嫌な人には見えない。それでもわざわざ遠くの大学を受験する決心をしたくらいだから、家庭では豹変したりするのだろうか。
どちらにしても、私にはそんな決心はできないなとワンコを羨ましく思う。高校も大学も、親が勧めた場所だ。不満があるわけではない。今はこの高校で良かったと思えるし、きっと大学でもそう思うのだろう。
でも、野を駆けるように自由な友人の姿を見ると、心地よく感じられた日々すらも、どこか仄暗く寂しいものだったと思えてくるのだった。
「おーいたいた、ニャンコ帰ったって聞いたから焦ったぞ。 おばさんもお久しぶりです」
思ったよりも早く、鷹揚と昇降口から出てきた友人は、仰々しく母にお辞儀した。
「あら~、壱子ちゃん。 確かに久しぶりね~!」
ワンコは私の母をおばさんと呼ぶ。その度に私は少し肝の冷える思いをするのだが、最初はギョッとした顔をしていた母も、今では気にしていない様子だ。むしろワンコの方がエネルギッシュな母に、うんざりした表情だ。目を見開いて軽蔑するような顔を、私にだけみせてくる。
「あれ、父さん。 まだ帰ってなかったのか? 母さんがビデオ見たがってるだろ」
「まあ少しくらいいいじゃないか。 壱子も車で帰るだろ?」
ワンコは少し考えるように目をそらすと、私の右手を掴んだ。
「いや、今日はニャンコと打ち上げ行くから」
「えっ、あの————」
勢いよく引っ張られた私は、母との間に宙ぶらりんになる。
「あら、南っちゃんってば、壱子ちゃんとご飯の約束してたの?」
「え……ああ、うん」
私は首を横に振ることもできず、頷いた。
「だからさぁ、お父さん。ほれ」
ワンコが物言いたげな目で父親に片手を差し出す。フラットな関係というか、あんまり尊敬してる感じがしない。父親も渋い顔はしながらもかばんから財布を取り出している。
「それはいいけど、合否が分かったらすぐ連絡するんだぞ?」
「あらちょっと、今日は私からお小遣い、ね?」
母が二人の間に割り込んで、ワンコの手に一万円札を握らせる。ワンコは素早くポケットにお金をしまうと、ありがとうございます、おばさんと頭を下げた。
「ああいえ、悪いですよ」
「いえいえ、普段はお宅でお世話になってましたから、今日くらいは持たせてください。 壱子ちゃんも、南っちゃんと仲良くしてくれてありがとうね」
「親友、ですから」
ワンコは改めて手を握りなおすと、領有を示すように私を引き寄せ、母から遠ざけた。何でもないことのように、平然と言いのける彼女は、やっぱり心強いと思った。
それから、お互いの家族で、卒業式の看板で写真を取り合った後、二人でいつもの下校路に別れた。話し込んでしまったように感じたが、他の生徒たちはもっと思い出が多いようで、あるいは家族と仲が良いようで、下校路は閑散としていた。
「あの、ワンコ……」
「なんだ?」
春風が運ぶ鳥の声を聞きながら歩いていると、ニャンコの方から無言を破った。
「ありがとう、ございます」
その感謝が何に対しての物か分からず、彼女の方に向けた顔をそらす。
「別に、私がニャンコとご飯行きたかっただけだぞ。 感謝されるようなことは何もしてないな」
「そう、ですね。ごめんなさい」
傾斜した土地を斜めに走る坂道で、ニャンコはふと学校の方を見て立ち止まった。春色の木の葉が、風に舞ってひらひらと舞う。何かに呆けるような彼女に、私は入学式の日を思い出す。
あの日も良く晴れた春の日だった。まだ川里が生まれたての頃で、入学式も母は来れなかったのだ。
なぜあの日、私は彼女に話しかけたのだろう。
それはきっと理由なんてなくて、ただ少し退屈を紛らせたかったというくらいのことだった。クラスの輪から、自然と浮き出た紅一点。中学校までの私だったら、きっと話しかけていなかっただろう。
たくさん迷惑をかけたような気がする。ニャンコはいつも、私にしか分からないくらいほんの少しだけ口角を上げて笑うから、それがなんだか嬉しくて、私も彼女の前ではありのままでいられた。
「ニャンコ、今日ファミレスでもいいか?」
高校生活の最後には合わないような気がしながら、そんな提案をする。
「ええ、構いませんよ」
きっと両親にはもっと良い場所に連れてもらうはずだっただろうに、彼女は気にもしないようにそう返答した。
「ニャンコのママにもらったこの一万円使い切るまで帰さないからな~」
「なら、今日はパフェも食べちゃいましょう」
一万円くらいすぐ使えると言わんばかりの余裕ぶりに、なんだか毒気を抜かれてしまう。いつだったか怜子さんとファミレスに行った時のことを思い出す。まるで食べ盛りの弟みたいな注文をする彼女にも、笑いながら驚いたものだ。
ファミレスは案外混んでいなかった。てっきり卒業式後の他校生であふれかえっているかと思ったが、それも杞憂だったらしい。
「ファミレスのサラダ、単品で注文したの初めてです」
「私もないぞ。 サラダバーかセットでしか頼まないもんな」
せっかくの無駄遣いだからとフルコース形式で注文した私たちは、セットではない大皿のサラダをそれぞれで食べ始めた。普段は値段を気にして頼まないものも、ためらいなく注文できる。
「ニャンコって、ファミレスとか普段来るのか?」
「小学校の時とかはよく習い事の後に来ていましたが、最近はめっきり行く機会が減りましたね。 打ち上げなんかもほら、ワンコの家でしてましたから」
「ああ、そっか。 何か私の家ばっかで申し訳ないぞ。 ニャンコの家でもやりたかったんだけど、あんまりあいつらをよその家に行かせたく無くてなぁ」
「ワンコの家だから良かったんですよ。 みんなで遊べるゲームとかも無いですし」
ニャンコはそう視線を落としながら、先に届いた大盛のポテトをつまんだ。
「ワンコはよく来るんですか、ここ?」
「まぁ、土日はたまにな。 優二が行きたいって駄々こねるからさ。 アイツ、天使ちゃんとかニャンコの前では大人ぶってるけど、まだまだガキなんだぞ」
グランドメニューをキラキラとした目で眺める弟の姿を思い出していると、ニャンコがクスリと笑う。執行部に入って、人との関わりも増えて彼女はよく笑うようになった気がする。
「なんだか、少し羨ましいです。 仲のいい兄弟がいるって」
「仲が良いって言ってもなぁ。 面倒なだけだぞ。 赤ちゃんがいるせいで、今は川里も私に泣きついてくるしさ」
「幸葉ちゃんでしたっけ。 また今度会いに行きたいです」
「止めといたほうがいいぞ? ガキどもの世話押し付けられるだけだから。 大学で友達作った方が絶対いいぞ」
そう軽く口にして、それはニャンコに言うようなことではなかったと少し後悔する。執行部に入って、内向的な性格は緩和されたように思えるが、それでも彼女がそれ以外で主体的に友人作りに励んでいるところを見たことは無い。執行部の好印象が幸いして、クラスではそれほど疎外されていないだろうが、大学でどうなるかは少し不安だ。
もし高校生活に悔いがあるとすれば、それはニャンコのことだろう。
彼女にはたくさん迷惑をかけたかもしれない。でもそのことに後悔したことは無い。それは彼女の殻を開くために必要なことだったと思うし、私はそんな日々が楽しかった。
だが、私は彼女の友人であっても、これから先もずっとその傍にいられるわけではない。彼女は私を支えにすることはできないし、彼女を誰かにつなげてくれる人がいる確証も無い。高校生活での当たり前は、大学では確約されていないことを、彼女は自覚していないかもしれない。
それならば、彼女はずっと静かな世界で生きていた方が幸せだったのかもしれないとすら思う。私が持ち込んだ喧騒のせいで、渇きを覚えるようになるくらいなら、平坦で味気ない日々で朽ちる方が良かったのかもしれない。
「ワンコは————」
大皿に乗って届いたスパゲティをフォークに巻きつけながら、ニャンコはつぶやいた。
「————ワンコは、大学に行っても私のことを忘れないでいてくれますか?」
唐突なそんな質問に、私はとっさに応えられない。きっと、進学すれば私は帰ってくることも少なくなるだろう。それだけここに居着く彼女らと会うことは少なくなるし、そのために戻ってくるつもりもなかった。それは必然、高校までの関係性を忘れるということでもある。地元だとしても、あまりこの土地に思い入れも無く、それでいいかと思っていたが、面と向かって問われると困ってしまう。
「その、文芸部の後輩たちに言われたんです。 卒業してもずっと先輩だ、と。 自分が誰かの先輩だなんて思ったこと、あまりなかったのですが。 それで、ワンコは私のことを、どう思っているのだろうかと、疑問に思いました」
「どうって、友達だぞ。 じゃなきゃ、高校最後の日に二人でいないぞ」
「でも、ワンコには他にも友達がいるじゃないですか。 本当に私で良かったのかな、と」
珍しく寂しそうな、嫉妬するような言い方に、思考が止まる。友達、と言われても誰のことを指しているのか分からない。
「私、友達なんてニャンコくらいしかいないぞ? クラスの奴らも、私が生徒会長だからってサイン書かせようとしてきただけだったし」
今度はニャンコがポカンとした表情になる。フォークに巻かれたボンゴレビアンコをスプーンの上に乗せて硬直している。
「でも、クラスではいつも楽しそうにおしゃべりしていますよね」
「そりゃあ、クラスメイトなんだから多少は話すだろ。 それで友達って言うんならそれでもいいけどさ、それならニャンコは親友だからな」
「からかってるのではなく、ですか?」
「ニャンコは、私のこと友達じゃないと思ってたのか?」
「いえ、ワンコは私の大切な友人です。でも————」
「他の人がどうとか関係なく、私がニャンコを好きで、一緒にいたいと思うから親友だって言ってるんだぞ。だから、ニャンコが何といおうが私にとっては、ニャンコは親友で、私の唯一の友達だ」
「私も…………私だって、そうですよ…………」
「にゃ、ニャンコ————?」
体を震わせながらフォークを口に運び、口を結びながら顔の端から一滴の涙がこぼれる。皿に添えていたスプーンが震えて、金属がぶつかる甲高い音を小刻みに立てる。
私は、ニャンコがそんな風に感情を乱すところを見たのは初めてで、何と言葉をかけていいか分からない。子供をなだめるのは簡単だ。けんかの仲裁だって何度もしてきた。けれど、この涙は。一直線に私の方に向けられる重たい矢印は、彼女に手を伸ばす前にすでに体を貫いていた。
「大学に行っても……会いに行きますからぁ……私のこと、忘れないでください……」
まるで別れ話のように泣き出すニャンコに、周囲の視線を感じ、慌てて宥める。
隣に座ると、彼女はカトラリーを置いて私に抱き着いてきた。大きな子猫の体温は、とても可愛らしくて、子供っぽいのに、なぜだかこちらが抱擁されて包まれるような暖かさを感じた。
春の野のような暖かさに、私はぽっかりと空いた心のどこかが埋まるように思う。
ずっと私は寂しかったのだろうか。
弟と妹たちが産まれて、成長していく中で、姉である私は手のかからない強い子でないといけないと思った。母は赤子の世話をして、私には構ってくれなくなった。父は、しっかりとした私を褒めてくれた。それが私の良いところだと笑ってくれた。
ずっと誰かに頼りたくて、誰かにもたれかかりたくて。だけど、成長すればするほどに、そんな相手はいなくなった。あまりにもまっすぐに立ってしまった私は、転ぶためには進むしかなかった。だけど、どれだけ進んでも、頼れるのは自分だけだった。
「うん……絶対、忘れないぞ————」
ニャンコの背中を撫でながら、彼女を強く抱きとめる。
お日様のような彼女の香りに、私は穏やかな安心感を覚えた。それはとても懐かしい香りで、ずっと昔、もっと世界が広くて期待に満ちていた頃に、背中を預けた野原の鮮やかな緑を思い出す希望の香りだった。
「えっと、じゃあまずパフェを全部と……」
「そんなに一気に食べれるかい? あっ、このステーキグリル食べたかったんだよね……」
「それ半分ちょうだい? ブロッコリーも」
「天使も自分で頼めばいいだろう? いっつもそうやって七割くらい持っていくじゃないか。 このステーキはダメだ」
「ケチ~」
結局二人では一万円も使いきれず、後輩たちにヘルプを求めたところ、三十分もしないうちに目を輝かせたハイエナがやってきた。しんみりとしていたテーブルの空気があっという間に喧騒に変わる。
「超えた分は払ってもらうからな~」
「げ、そうなんですか」
「誰が主役だと思ってるんだぞ。 あと、このパフェは割と微妙だったぞ」
「微妙でしたね……」
なんだかんだ執行部も楽しかったのだと、そんな今更な気付きを心にしまう。
卒業式で見せた姿とは違い、やっぱりどこか手のかかる可愛い後輩たちの姿に思わず笑みがこぼれてしまう。台典商高の生徒としての、高校最後の日は、そうしていつも通りの騒がしさと共に幕を下ろしていったのだった。