挿話 銀の針の冠
・主な登場人物
針瀬福良:二年二組の真面目なクラス委員長の女子生徒。好きな本のジャンルはヒューマンドラマ物だが、「良い話だったなぁ」と思うだけで泣いたことはない。
鳩場冠凛:二年一組のクラス委員長の女子生徒。静かな佇まいをしている。うっすらと他人を見下しているような笑みを浮かべている。好きな本のジャンルはミステリーだが、推理パートは「ふぅん……」と辞書を引くように読んでいる。
年が変わる。年度はまだ変わらないにしても、大晦日や正月を迎えると、なんだかそれだけで世界の色が少しだけ変わったように思えてしまうから不思議だ。
年の大きな節目を前に、私の通う高校、台典商業高校でも大きな変革が起きた。それは予定調和のようで、変革というには、穏やかなものかもしれない。けれど確かに、この学校の色が少しだけ、変わってしまったように、私には思えた。
それは決して、悪いことではない。良いことであると断言できた。結局のところ、ただの高校生でしか私に、何が判断できるでもないだろうが、ただ漠然と、自分たちが良い方向に進んで行っていることは理解できる。
この感覚は初めてではない。あれはもう一年以上も前になる、そのときも同じ、あの子と出会ってぶつかって、私なりに立ち上がったときの感覚だ。
私は決して一位になれる人間ではないのだと、願う気の無かった夢を打ち砕かれたようなあの日。平凡さという大地を踏みしめる感覚を、ありありと感じさせた彼女の光を目にした日。
そんな、ふくれっ面で彼女を探した日々は、私の中で、学校生活の原風景のように、色あせても残り続けている。
生徒会選挙が終わり、生徒たちは期末テストという現実の前に放り出された。政治ぶってあれこれ騒いでいた生徒も、結局は革命も何もなく粛々と勉学に励んだり、サボって絶望に打ちひしがれたりしている。
「針瀬~、これ提出いつまでだっけ?」
「もう、朝も言ったでしょ。木曜日まで!」
このクラスでのクラス委員長としての仕事もあと一学期だと思うと、クラス替えが無いとしてもどこか感傷的な気持ちになる。といっても、この胸の不安のほとんどは、すでに始まっている受験という大きな壁に対するものがほとんどだが。
二組は基本的に私立大学への対策や、並行してAO入試や学内推薦等の面接、小論文の勉強に力を入れている。三年次の終わり、すなわち大学入試テストの終わりが近づけば、二次試験対策の一組の生徒が授業に参加することもある。
まあ、あの子は来ないんだろうな。
針瀬はふと、この学校の生徒会長に当選した元クラスメイトの少女を思い出した。一組は基本的に国公立大学を目標としたクラスだ。当然ながら全員が全員うまく行くわけでもないが、地方や近隣の私立大に行くことはあっても、就職に進む生徒は、二組とは違っていない。
彼女の成績ならば、きっとこのまま上手くテストもこなして、国立大学にでも行くのだろう。あるいは、推薦だとしても彼女の内申ならば、選択肢は多いだろう。いまいち、彼女が進学にあたって何を重視しているのか、私は把握していないが、望めばどこへでも飛び立てるのだ。私なんかが心配している場合でもないだろう。
「福良ちゃん、これ、今渡しちゃってもいい?」
「ああ、うん。もらっとくね。 ……体調はもう平気なの?」
「え、ああ、うん。大丈夫。失恋——みたいなものだからさ」
「それでも心配。何かあったら、相談してくれていいからね、廓田さん」
「うん、その時はよろしくね」
やや寝不足のように垂れた目を細めて、廓田さんは笑った。
選挙以来あまり元気がない様子だったが、空元気でもきちんと話ができてよかった。失恋の辛さというものは、寡聞にして知りえないが、彼女のようにきちんとした人の恋愛ならば、きっと壊れたときの悲しさもひとしおなのだろう。
恋愛……か。
教室を見回してみても、私をプリンセスにしてくれるようなスペクタクルを巻き起こしそうな生徒はいない。あるいは天使がそうだったのだろうか。そんな夢なんて、子供の頃でも見たことが無い。
それでもやはり、色恋沙汰の話はこの年の人間には興味を惹かれるものであり、私も例外ではないわけで。クラス委員長となった今は、以前にもまして、相談や助言を求められることも少なくないのだった。皮肉なことに、恋愛という暗闇に囚われていない理知的な観測者としての意見を。
「はぁ……」
プリントをまとめて職員室に持って行く途中、知らずため息がこぼれた。羨ましいと思う気持ちは、無いわけではない。
真面目に丁寧にしっかりと。堅物と言われることには慣れたが、それは自分を守る堅固な殻であり、適当な人間を寄せ付けない棘でもあった。真っ当に生きようとすればするほど、私の確からしさは保証されても、恋や愛なんて浮ついたものとはかけ離れていくばかりだった。
そんな真面目な女の子が、クール系狼男子に——なんて本は、寒気がして読む気になれない。現実にいたらと思うと、余計におぞましさを覚えた。
娯楽本はともかく、本は変わらず好きだった。友人がいないわけではなく、むしろ一年次よりも人とのかかわりは増えたものの、一人の時間を清廉に浄化してくれるのは本の世界だった。
ああ、また真面目だと言われる要素が増えていく。けれども、そんな生活が私の生き方でしかなく、そうでない因子を認めることはどうしても耐え難いものでもあった。
結局のところ、そんな言い訳がましいことを言っているからボーイフレンドの一人もできないのだが、それはそれでいいと思っている。委員長として、ならばともかく、一人の女性として私を好きになる男性なんて、きっといないのだから。変に何かを期待したりして、痛い目を見ないで済むならそれでよかった。
「あら、針瀬さんじゃない。ため息なんてついて、進学の悩み?」
顔を上げると、同じように職員室にプリントを運んだ帰りなのだろう、一組のクラス委員長である鳩場さんがにやけ顔で立っていた。
「鳩場さんには無さそうで良かったよ」
「そんなことないわよ。まあ、悩んでそうな子はいるけどね」
皮肉を得意げに笑い飛ばした彼女に、私よりも背の低い女子生徒のことを思い出す。幸せそうに真ん丸な顔をしたその女子生徒は、性悪な鳩場さんに目を付けられ(鳩場さん曰く目を掛けている、そうだが)、近くの国公立大学の受験を目指して勉強中らしい。一組にしては珍しいことに、成績は未だに不振で、わずかに伸びては来ているものの、この一年でどうなるかは怪しいと鳩場さんは笑っていた。
「悩みがあるなら、聞いてあげてもいいけど。二組の針瀬さんも、一応国公立志望なんでしょう?」
「そうだけど……別に、話を聞いてもらうほど困っては無いよ」
そう言って立ち去ろうとして、ふと奇妙な好奇心が湧く。
「いや、待って。やっぱり話、聞いてほしいかも。というか、少し話したい。ほら、同じ委員長として」
鳩場さんは意外そうな顔で、私を見下ろしていたが、すぐに鼻で笑うと肩をすくめる。
「ええ、いいでしょう。じゃあ、また連絡するわね」
自信気な背中は羨ましい限りだが、なぜだか今は彼女と対等でいられるような気がした。そもそも、どちらが上ということも無いはずなのだが、どこか気の引けるような思いを感じていたことは確かだった。
冬休みを目前とした休日。私は鳩場さんと待ち合わせをしたカフェに向かっていた。
別に放課後で良いのにと言ったものの、なにやら都合が悪いと言うので仕方なく休日で予定を合わせたのだった。
休日に尻込みした理由は、何も時間の無駄だとか、折角の休日が、という理由ではない。休日に待ち合わせるとなると、それは当然私服ということになる。しかし私は、高校二年の終わりに色恋の一つも経験せず、場外で疎んでいるような人間である。(比較的)キラキラした人間である鳩場さんと釣り合うような服の持ち合わせは無いのだった。
普段着のパーカーと緩めのジーンズを着て、カフェの前で少しうろうろする。早く着きすぎただろうか。
「あら、針瀬さん。早いのね」
「今来たところだよ」
同じように少しラフなパーカーとジーンズ姿の彼女は、しかし私よりはるかにオシャレに見えた。着こなし、という奴なのだろうか、野暮ったい印象もなく、金曜日に切り取られる芸能人のようだった。
「……なぁに?」
「いや、なんでもないけどさ」
ため息は気持ちよりも早く出る。なんだか悲しい気持ちも感じられないけれど、とにかく私はカフェに入ることにした。
待ち合わせたカフェは、なんてことの無い良くあるお店だ。気後れすることも無い、というか私も良く利用する場所だった。ちらほらと学生らしき客が勉強用具を広げたりしている。
「それで、何の話をするのかしら。針瀬さんは、勉強にもそれほど困っていないでしょう? クラスで何か揉め事でもあったのかしら」
「えっと……そういうわけじゃあないんだけど……」
ラテを静かに飲む彼女の余裕そうな表情に、やはり少しだけ気後れしてしまう。
「なぁに、歯切れが悪いわね。これでも私、あなたにはそれほど隠し事をしていないつもりなのだけれど、信用が無いのかしら?」
「信用は別にしてないけど……鳩場さんがそんなこと言うなんてちょっと意外」
「そう? 少しは信用できたかしら」
「信用は……まあ、することにしようかな」
鳩場さんは、カフェのテーブルに両肘をついて悪い笑みを浮かべる。
「大丈夫よ。別に、あなたのことを騙したいだなんて思っているわけじゃないもの。今は新しいお友達もできて、私、結構充実してるのよ」
「それって————いや、まあいいか。それより、その、相談なんだけど」
私は、猫のように気ままな表情の彼女に、ため息のような深呼吸を挟んでから続けた。
「恋愛の、ことなんだけど……」
「恋愛?」
鳩場さんは、顎の下で組んでいた手を崩すと、頬杖を突いて、やはり猫のようなにやけ顔を隠すように口に手を当てた。
「恋愛の相談って言っても、そうね。色々あるわよねぇ。好きな子ができた、知らない子に告白された、可愛いメイク、似合う服、デートの場所、プレゼントの選び方。 ……ああ、まあ分かってるわよ。そういうのじゃないのよね」
羅列された恋愛の悩みを前にうろたえてしまった私に、鳩場さんは優しくほほ笑んだ。
「なんにせよ、私のことを信用してくれているみたいで嬉しいわ。あの針瀬さんが、恋愛のことで悩んでいるだなんて、誰も思わないでしょうから」
「あのって、そこまで私、無骨なイメージかな」
「真面目な委員長さん、でしょう? あの天使ちゃんがそう言うんだから、あなたと直接かかわりが無い人でもそう思ってしまうのよ。あの子の何気ない発言が一番怖いのよね」
「また意外。鳩場さんって、あの子のこと、あんまり気にしてないのかと思ってた」
私がそう言うと、鳩場さんは豆鉄砲を食らったようにポカンと口を開けた。そして、自嘲するように目を細めて笑う。
「あの子と同じ学校に通っていて、あの子を意識しない人なんていないでしょう。誰だって感化されて、夢を見て、現実を見る。あなただってそうじゃない?」
彼女の静かな冷たい視線に、いつの間にか熱いコーヒーも温くなってしまっていたようだった。
「……そうね。面と向かって言われるとムカつくけれど。やっぱり鳩場さん、性格悪いのね」
「良い性格って言ってくれる? それに、私が何か悪いことをしたかしら。まあ、したことはあったけれどね、今は心を入れ替えてみんなにお勉強を教えてあげているのだけれど?」
「留木さんのこと? なんだか気味が悪いけど。でも実際、成績は伸びているって聞いたわ」
「ええ、あの子N大に行きたいみたいでね。まあそれくらいならなんとか、かしらね」
そう愚痴るように言う彼女の表情は、なぜだか少し嬉しそうだった。冷血な方だと思っていた鳩場さんのそんな顔に、少し驚いてしまいそうになる。
「それで、なんで恋愛の相談なのかしら。本当に誰かに告白されたとか?」
「ああいや、そんなことはないんだけど。単にちょっと……不安になったというか」
「不安?」
「そう、何というか、このままでいいのかなってさ」
鳩場さんは、私の方に視線を向けたまま、静かにラテを口に運んだ。蛇拳のような隙の無い動きに、ピリッとした緊張感が背を走る。
「……天使ちゃんって、すごいわよね」
「?」
「勉強は学年一で、運動神経も良い。人当たりも良くて、嫌味っぽくもない。アイドルだって、そんな完璧じゃないでしょうね」
「何の話?」
「それに比べて、あなたはどうかしら。勉強は得意でも、運動はあまり得意じゃない。社会性はあっても、融通はあまり利かない。良い人間ではあっても、良い女とは言えない」
「鳩場さんも十分嫌味っぽいよ」
彼女はクスリと笑う。
「そうね。勉強もあの子ほどじゃないし、運動神経もそう。近寄りがたくて嫌味っぽい。それが私よね」
何が言いたいのかと、私は彼女の言葉の続きを待つ。底が見え始めた黒い液体は、いつにもまして薄く感じる。
「校内の誰だって、あの子には勝てないと思ってしまう。諦めて、恋や愛や信仰や、そんな簡単な欲望に縋りたくなってしまう。誰にだって好かれるあの子を見ていると、自分がいかに愛されていないのかと思ってしまうかもしれない。でもね、別にそんなこと、どうだっていいのよ」
「どうだっていいことはないでしょ。私だって人並みに、嫌われたくないと思うし、好かれたいとも思うよ」
「そうね。でも、だからってあなたが嫌われないわけじゃあないし、好かれるわけでもない。そうでしょう?」
反論の言葉が思いつかず、私はコーヒーを飲み干した。簡単に握りつぶせてしまう紙コップを机に置いて、気持ちばかりの反意を示す。
「じゃあ、どうしろって言うわけ?」
「あなたらしくいればいい。それだけのことよ。人は自分らしくいることが何よりも簡単で、そうある以外にはできない。私はね、あなたのあなたらしさを気に入っているのよ、針瀬さん。真面目で頑固で不愛想。だけれど、努力家で我慢強くて視野が広い」
「……そりゃどうも」
急に貶すような褒めるようなことを言われると、少し調子が狂ってしまう。いつにもまして優しい顔の彼女は、嘘をついていないような表情が逆に嘘くさい。
「私たちは天使ちゃんには届かないし、足元にも及ばないかもしれない。でも、それが成長や努力を諦めたり、身の程で満足しようなんて考えをしたりするのとは違う。あの子が月桂樹の冠を戴いて、金色にまぶしく輝いていたとしても、私たちはその下で、ずっと下だとしても、銀の冠を被っていい。一人だけじゃなくて、堅実に着実に前に進み続けた人みんなに、その権利があるはずよ」
「銀の冠……か」
「ええ、あなたにはきっと似合うわ。もちろん、私の方が似合うけれどね」
「興味ないわね。鳩場さんの言う通り、私は私らしく生きる方が良いってことみたい。というか、恋愛の話はどこに行ったの? そうやって、留木さんもあいまいな話で煙に巻いて篭絡したんだ?」
鳩場さんは、心外だという風に肩をすくめた。
「あら、あなたには恋愛なんて似合わないって忠告のつもりだったのだけれどね。それに、ハムちゃんは騙してなんていないわ。あの子に成長してほしいというのも本心よ」
「そう言うことにしておいてあげる。やっぱり、私あなたのこと少し嫌い」
「あら、いいじゃない。そうやってはっきり言う方が魅力的だわ。なんでモテないのかしらね」
「……本当に良い性格してるわね」
鳩場さんは皮肉を鼻で笑うと、ラテを飲み干した。軽い身のこなしで椅子から立ち上がると、コップを捨てた。まるで自分の嫌な所すらも美点として楽しんでいるようだった。
私もこんな凝り固まった自分を好きになれるのだろうか。
その答えは見えないまま、私も彼女に続いてコップを捨てに立ち上がった。
「今、よっこいしょって言った?おばあちゃんみたいね」
「本当にムカつく……!」
それから、彼女とは駅で別れることになった。私と違い、街の中心部近くに住んでいる彼女は、歩いて帰れる距離らしいが、なぜか着いてきたのだった。
「せっかくだし、写真でも撮りましょうよ」
「別に写真を撮るようなことないけど……撮るならカフェで撮ればよかったのに」
「まあまあ、そう言わずにね」
半ば強引に顔を寄せられ、私は彼女のスマートフォンの画面を見る。
少しは瘦せたと思っていたがまだ丸みを帯びた私の顔には、ふざけた縞模様の猫耳と茶色いひげが飛び出している。
「ちょっと、何のフィルター? ハロウィンでもあるまいし……」
「いいじゃない、似合ってるわよ」
そう不満を言う間もなく鳩場さんはシャッターを切る。自分だけあざといペルシャ猫のようなフィルターが付いているのが恨めしい。
「良い写りだわ。トプ画にしてもいいわよ?」
「しないよ。こんな耳が付いた写真」
「あら残念。っと、私、次の予定があるのよね。それじゃあ、この辺で」
「ええ、また学校でね」
私が手を振ると、鳩場さんは自然なウインクで返した。嫌味な奴だとは思うが、こういうところは素直に敵わないとも思う。
電車を待ちながら、スマートフォンのアルバムの最後に保存された馬鹿らしい写真を眺める。照れ怒りながら膨らせた頬から飛び出した棘は、可愛らしいひげとして飾られている。
どうしてだかは分からないが、胸の奥が少しだけ暖かくなった気がした。今更コーヒーの温度を感じたのだろうか。
どれだけ顔を上げて前を向いても、自分の頭の上は見えない。けれどもなぜか、今少しだけ広く見えた世界で、私は確かに、私らしい冠を被っているのだと思えた。