第五十六話 虎穴に入れば
・主な登場人物
愛ヶ崎天使:この物語の主人公。
藍虎碧:愛ヶ崎のクラスメイトであり、執行部の『相棒』。クールに見られがち。
廓田怜亜:二年二組の女子生徒。元天使ファンクラブ会員番号三番。
この学校には、天使がいる。
その天使は、みんなを救ってくれる。みんなを助けてくれる。
だがもし仮に、その天使に救えないものがあるとすれば、きっと、とんちの上手な誰かがこう答えるだろう。「それは天使自身だ」と。
柔らかで暖かな平穏に、異を唱える者もいた。天使なんていう虚像は危険だと感じ、自らの意思こそが崇高だと決起したものがいた。新たな指導者を信じ、支えて持ち上げようとした。
それはとても危険なことかもしれない。誰もが平和を望んでいるなら、それが正しい選択だとどれだけ説いたとしても、人は変革を簡単には受け入れられないから。
しかし、虎穴に入らずんば虎子を得ずと言う様に、危険を冒さなければ、真の成果は得られることはない。
そんな勇気あるものと称えられる誰かが、利己的であっても正しさを求めた誰かが、正しさをもってしても認められないとすれば、それはきっと、本人の甘さ故なのだろう。小さな穴が、大きく広がっていく様を、無力な人間はただ眺めるしかない。
人は危険を簡単に忘れてしまう。危険を冒す時、人は失敗することを考えないものだ。そんな失敗に限って、自分の至らなさに気が付くことのできる人は少ない。
例えばそんな、夢を見た人を獅子の谷へと突き落とすことも、あるいは救いなのかもしれない。
ガラガラと無遠慮な音と共に、小柄な生徒は勢いよく教室に飛び込んで来た。担当の生徒以外、基本的に立ち入り禁止のはずの場所に、まして当事者でもある彼女が入ってくるのは本来何かしらの処罰が下るべき行為だろう。
「開票終わったっスか~?」
「ちょうどね。もう少し早ければ、新聞部を廃部にできたんだけど」
「颯先輩、冗談きついっスよ~。その辺はちゃんと考えてるっスから勘弁っス」
開票結果の集計を手早くメモに移し、横溝河はブラブラと室内を歩き回った。片づけを始めていた選挙管理委員会の生徒が、鬱陶しそうに目を細める。
「あれ、このノートは何のデータっスか?」
横溝河が指したノートには、開票結果と別に、無効票とやけに細分化された落書きのリストがまとめられている。
「それはうちの伝統……みたいなやつというか。無効票や用紙に落書きをした生徒の数と内容をメモしてるんだよ。それを分析したら、校内風紀が分かるとか、世界情勢が紐解けるとかなんとかって、前の会長が言ってたけど————」
歩み寄って鴉野が目を落としたリストには、楕円が並んでいる。
「今年はスカっスか」
「僕も驚いたけどね。今年はそれだけみんな真面目に投票したってことなんじゃないかな。僕には分析の才能は無いから分からないけどさ」
「ふ~む。まぁ、記事にはできなそうなんで、どうでもいいっスけどね」
「現金だね君は」
興味を失くすと横溝河は風のように教室から去っていった。立ち合いの選挙管理委員会の生徒は、また疲労を感じたようにため息をついた。
「それじゃあ、放送しに行ってくるから、鍵は開けといてくれ」
頷きを見て、鴉野は満足げに頷き返すと教室を出ていった。
生徒会選挙が終わり、ホームルームを終えた教室では、生徒たちは示し合わせたように選挙の話を避けた。特に、その渦中の二人が在籍する二年一組では顕著である。
まだ若い担任が気を遣う様にホームルームを切り上げると、生徒たちはまばらに下校していく。ほとんどの生徒は部活動へ赴き、それ以外の生徒は帰宅する。用事の無い生徒は、決まって下校して、選挙の放送を待つことも無い。
どちらかと言えば、用事の無い生徒に該当する藍虎と愛ヶ崎は、そそくさと帰っていくクラスメイトに取り残され、二人で教室に座ったままでいた。
「愛ヶ崎さんは、もう帰るのかい?」
天使に放課後を共に過ごすような友人がいないことを知っている藍虎はそう尋ねた。あるいは、彼女のことだから、用事などなくとも校内を散歩でもするつもりかもしれないと思いながら。
「ううん。もう少しだけ、やっておかないといけないことがあるから」
「やっておかないといけないこと? 執行部の仕事かい?」
愛ヶ崎は薄く口角を上げたまま首を振った。時間つぶしにとロッカーの整理を始めた藍虎と対照的に、彼女は椅子にちょこんと座ったままだ。
「ねえ、碧ちゃん」
「どうしたんだい、愛ヶ崎さん」
愛ヶ崎はロッカーの奥を整理しながら応えた藍虎の背に、甘えるような声で投げかける。
「天使って呼んで?」
荷物を入れ直していた藍虎の手が、ピクリと反応して、動きを止める。
「そう言われるとなんだか恥ずかしいね、天使ちゃん?」
少し動揺した様子を隠すように、藍虎は肩をすくめた。
「それじゃダメだよ。ちゃんと天使って呼んで?」
視線から逃げるように、床に出した荷物をしまいきってから、ようやく藍虎は振り向いた。
誰もいない教室の、天使の後ろには果てしなく世界が広がっているように思えた。恥ずかしさや照れる気持ちを飲み込んで、当たり前のように言葉を紡ぐ。
「何か用かな、私の天使」
愛ヶ崎は椅子の背に肘を置くと、頬杖をついて満足げに微笑んだ。
「碧のしたいこと、全部教えて? 二人で全部やってみようよ」
新しい街へ越してきたような、そんな夢の広がっていくような明るい声で、愛ヶ崎は笑う。
「私の、したいこと……?」
藍虎の頭に、崇高な野心から下劣な欲望まであらゆるアイデアが駆け巡っていく。
「全部って言ったって、限りがあるんじゃないか? 私たちは一応、来年から受験生なんだしさ」
茶化すように言って、隣に座った藍虎の手を愛ヶ崎が優しく包んだ。急なスキンシップに、藍虎は少し驚いたように目を丸くし、困ったように笑い返す。
「私ね、碧が生徒会長でも良かったのにって思うんだ。碧はかっこいいし、頭も切れるし、気も利いてリーダーシップもあるよね。それで、だからこそ————」
藍虎が、初めて彼女の口から聞いたようにすら思える賞賛の言葉に、吸い込まれそうに意識を奪われかけていたその瞬間、校内放送を知らせるチャイムが鳴った。二人は反射的に教室上方のスピーカーに目を向け、耳を澄ました。
「こちら、選挙管理委員会です。先ほど行われた生徒会執行部および監査委員会の次期代表選挙の投票結果をお知らせいたします。
信任投票の結果につきまして、立候補された六名の内、六名全員の信任が決定しました。
続いて、決選投票の結果につきまして、開票の結果、二年一組、愛ヶ崎天使さんの当選が決定しました。なお、藍虎碧さんについては、信任が決定されているため、生徒会執行部副会長の当選となります。
以上の結果につきまして、異議や再投票を要求される場合は————」
放送が事務的な温度に変わり、再び結果が繰り返される。
まるで、自分が生徒会長になることを微塵も疑わなかったように、愛ヶ崎は変わらない表情で藍虎に向き直った。
「だからこそ、碧が生徒会長になってやりたいと思っていたことは、やるべきだと思うんだ。役職なんて関係なく、碧に隣にいてほしいから」
藍虎は、目の前の少女の言葉を現実だと思えないまま、しかし視線をそらせない。体は嬉しい幸福で満ちているのに、なにか巨大なものに飲み込まれてしまうような不安がすぐそこにあるような気がしてならない。
「わた、し…………」
「約束したでしょ? 私が望んだら、ずっとそばにいてくれるって」
——そんなのはズルい。
藍虎は心の中でつぶやいた。
君はいつか一人で飛び立っていってしまうのに、こんなにも簡単に私を捕らえてしまうなんて。どれだけ火を灯しても、人は肌の温もりを誰かに求めてしまうというのに、君は灯だけを私に残そうというのかい?
温かな手の温度と反対に、見通すような天使の目は切り出された宝石のように美しく完璧に、冷たい光を宿していた。
「でも、悪いよ……それでも生徒会長は君だ。私が好き勝手するのはいけないよ」
「そんなこと、誰にも言わせないよ」
愛ヶ崎は、行こっ? と言って、藍虎の手を引いた。なすすべなく藍虎はその後に続く。
教室棟の廊下を踊るように進み、階段を下りて開けた場所へ。すでに生徒の帰った、静かな昇降口に、彼女はいた。
「碧……」
「怜亜……!」
天使に手を引かれたリーダーを、弔礼人は呆然と眺めた。
「なんで……? 負けちゃった……碧、私たち、頑張ったよね? 勝てるって、私、信じてたの……信じてたのに————」
不意に手を引く力が消え、藍虎は前に倒れそうになる。よろめいて顔を上げると、愛ヶ崎は廓田に詰め寄り、笑顔の消えた冷たい表情で見下ろしていた。散歩中に見つけた野良猫に駆け寄るような気楽な足取りで、軽蔑するような瞳を落としている。
「なん……なによ……!」
「ううん、ただ少しだけ気に食わなかっただけだよ。口ばっかりでごまかして、本当は碧のことを信じてないくせに、応援してる自分が好きだから、勝てるって嘘ばっかり。支えるなんて言ってさ、あなたは何をしてあげたの?」
「天使——何を……?」藍虎が呆然とつぶやく。
「本当に勝てると思っていたなら、あなたは副会長に立候補するべきだった。私を碧が負かせて、あなたと二人で執行部になれるようにするべきだった。あなたは口先ばかりで、やるべきことをやらなかった。
だから誰も、あなたに期待しなかった。あなたを信頼しなかった。あなたの周りの紐帯が、あなたを中心にしていないこと、気が付いてないの? どれだけ碧が成長したって、あなたは成長してないんだよ」
廓田は耳朶の奥に鋭く入り込んでくる声に、思わず膝から崩れ落ちた。助けを求めた藍虎の表情が、憐れむようないたたまれないものであることが、余計に彼女の心を深く砕いた。
「碧の邪魔、しないでよ」
最後に小さく、しかし鋭く凍るような声で、天使は囁いた。
「行こっ、碧」
今まで聞いた中で一番親し気な声で自分を呼ぶ愛ヶ崎に、藍虎は力なく頷いて階段を上っていった。
友人と呼ぶにはあまりに一方通行な関係だったが、確かにそこに友情のようなものがあったと、藍虎は今になって思った。あるいは、彼女から向けられていたのはもっと重い感情だったのだろうか。それも、今となってはどうにもならないことだ。
生徒会長という形ばかりの役職のために、天使という敵を相手に私は戦わなければならなかった。勝つことが目的ではなく、私は戦わなければならなかったのだ。怜亜のように、私を信じてくれた人が、私のせいで絶望の淵に落ちてしまわないように。
天使が生徒会長になるのだと、ゆっくりと誰もが思い始めていた時、藍虎派なんて派閥を作るのは危険なことだった。自分が異端者だと言うようなもので、応援してくれるのはありがたかったけれど、彼女たちがクラスで浮いてしまわないかと心配になった。でも、そのくらいの危険を背負うことが、決断のためには必要だったのだろう。虎穴に入らずんば虎子を得ず。そんな言葉のように、危険を冒すことでしか、正しさを再評価する土俵にも立てなかったのだ。
おかしいのは、天使を信用する人たちなのか。それとも、それを疑う人たちなのか。きっとどちらも正しくは無いのだ。天使は私よりも生徒会長にふさわしくて、けれど天使の言う通り、私が生徒会長でも良かったのだろう。
だから、今回はそうなのだ、と納得すればよかったのだ。別に、藍虎碧が生徒会長である必要はないのだから。この先も、それを後悔することはないだろうし、天使を憎むことなど、もっとないだろう。だから、彼女たちが危険を冒す必要はなかったのだ。
虎穴に入らなければ、虎児を見ることすら能わないかもしれない。けれど、虎穴に入れば虎がいる。そんな当たり前のことも分からないで進めば、簡単に食い殺されてしまうのは道理なのだ。
台典商高の天使は、羽も無い、光輪も無いただの一人の少女に過ぎない。けれど確かに、ただ無邪気で愛らしいだけの、あの頃の天使とは違っているようだった。
それから、教室に戻った二人は、ゆっくりと荷物を片付け、教室の鍵を閉めた。今日ばかりは、校内で練習する吹奏楽部の音も無かった。
「そういえば、ずっと聞きたかったんだけど」
重たい沈黙を何とか破るように、藍虎が廊下の先を行く愛ヶ崎の背に投げかけた。
「九月の末あたり、家にもいなかったときがあってよね。天使はあのとき、どこに行っていたんだい?」
愛ヶ崎は振り向いて、考え込むように頭上を見上げて、たっぷり溜めてから答えた。
「————内緒、だよ。でも、碧が書いてくれてた連絡ノートはちゃんと読んでたからね。捨てちゃったけど」
「それも知ってるよ」
まだそこまで信用はされていないのかと肩をすくめて、藍虎は愛ヶ崎の隣に追いつく。その瞳はまだどこか暗く見えたが、それでも構わないと藍虎は前を向いた。
やるべきことは未だに分からないままだ。けれど確かに、天使の横に、この場所に立てるのは私だけなのだから、と。