第五十五話 生徒会選挙
・主な登場人物
愛ヶ崎天使:この物語の主人公。天使ちゃん。
藍虎碧:クールに見られがち。
丸背南子:ニャンコ先輩。猫背で丸眼鏡の落ち着いた少女。誰に対しても敬語で話す。
三峰壱子:ワンコ先輩。低い身長と元気で独特な口調が犬っぽい女子生徒。
楠根寧:商業科三年の女子生徒。人を舐めたような態度を取る。後輩には基本的に当たりが強い。
影間蕾:商業科二年の男子生徒。かわいらしい見た目をしている。
神繰麻貴奈:一年生の女子生徒。機械のようなしゃべり方の上、表情がロボットのように変わらないが、血気盛んでギャンブラー気質。
三々百目ぽぽ:一年生の少女。身長が二メートル近くある。
橋屋目高:新聞部部長の二年生男子生徒。
廓田怜亜:二年二組の女子生徒。元天使ファンクラブ会員番号三番。
この学校には、天使がいる。
それは在不在の文脈だけでなく、必要性の意味でも語られるようになった。この学校には、天使が必要だ。天使の不在を納得しかけていた生徒たちも、どこかそんな胸のときめきを感じずにはいられなかった。
台典商業高校における生徒会選挙の争いは、その観点から見れば、ワンサイドゲームであったとも言える。しかしながら、自らの意思で、意地で、信頼を持って友人を擁立した生徒たちの努力を、無駄だと言える者はいないだろう。
対抗勢力の奔走を傍観していた天使もまた、ただ薄く笑みを浮かべるだけであった。
登校路の坂道が、いつもよりも長く感じられる。まだ自分たち以外に登校している生徒はいなかった。
「そんなに不安そうな顔しなくても、碧なら大丈夫だよ。今日までしっかり活動してきたんだもん」
「ああ、そうだね。応援演説も、よろしく頼むよ、怜亜」
はつらつと軽い足取りで前を行く彼女を、私はゆっくりと追った。
不安……確かに不安だ。自分がこの先、天使と活動していけるだろうか、と。今になってそんな不安に悩まされるのは、今までの自分が、天使の主導権を握っていると勘違いしていたからなのだと思わされる。たとえ嘘だったとしても、陶酔したままでいる方がずっと楽だった。
彼女は、天使は不安ではないのだろうか。
生徒会長として、生徒を導いていくことが。自分を嫌ったり、自分に失望したりするかもしれない相手の前に立つことが。
唐突に襲ってきた不安は、天使に対する疑念のせいだ。彼女の意図はいまだに見えない。なぜ体育祭のタイミングで帰ってきたのだろうか。傷つき閉じこもった先で、彼女はどんな決意を固めたのだろうか。
いつも通りのようにふるまう彼女は、どこかに暗い影を落としているように見えた。当たり障りない会話ですら、失望するように遠くを見ているように感じられる。
それはどうやら私だけが感じている不安のようで、疑われるべきはむしろ私の方なのかもしれないと思えてしまう。
「碧、どうしたのっ?」
怜亜が少し体を屈めて私に笑いかける。凪のような心に、静かな風が吹く。
「いや、なんでもないよ」
私は笑顔を取り繕って、怜亜の元に駆けた。
怜亜や、藍虎派なんて呼ばれてる子たちの期待を無下にはできない。それが今の私のやるべきことだ。そう思うことで選挙活動を続けてきた。
だが、本当にそうなのだろうか。私のやるべきこととは、いったいなんなのだろうか。
生徒会選挙当日でも、教室の様子は普段と変わらない。生徒会長候補が揃っている二年一組のクラスは特に、今まで通りを取り繕っていた。
「おはよう、碧ちゃん」
私より少し早く生徒会室を出た天使は、何の因縁も無いようにそう微笑む。
「おはよう。って言っても、さっき話したばかりだけどね」
「あっ……そうでした、えへへ……」
照れ笑う少女に、私も軽くほほ笑みながら席に着く。清々しいまでのぶりっ子は、今までなら天然だと流せたはずの仕草だ。
ついじっと眺めていた私を、天使は不思議そうな瞳で見つめ返してくる。気まずい気持ちで目をそらすと、彼女は椅子を引き寄せ、私の方へ少しだけ近づいた。
「ふ~っ」
こそばゆくも無い呼気が耳に当てられ、私は困り顔で天使を見る。彼女は褒美を待つ犬のように笑みを浮かべている。
「もう……三年生になるんだから、子供っぽい悪戯はよしてほしいな」
邪険に扱いすぎないように、天使を諭す。
「大丈夫だよ。碧ちゃんにしかやらないもん」
じっと丸い目を私に向けて、まっすぐにそう言う天使に、不覚にも胸が締め付けられるような嬉しさが溢れそうになる。
すぐに、天使はそんなことをしないと理性が頭に呼びかけてくる。けれど、もし天使が私だけを見てくれたらと思ったことは、あさましい欲望と分かっても、一度ならず考えずにはいられないことだった。
天使は、甘美な言葉も挨拶代わりかのように、素っ気なく椅子を戻すと、ホームルームの準備を始める。そんな彼女の横顔に、もっと私を見てほしいとドロドロとした感情が溢れそうになる。
諦めたはずの想いが、決別したはずの心が、こうも簡単に揺れ動かされる。手が届くならと思わされてしまう。
きっともう、私が完璧な人間でないことなんて、彼女には分かっているのだろう。でもそれは、私が彼女のための努力を止める理由にはならない。かりそめの姿だとしても、彼女の相棒から降りるわけにはいかないのだ。
いつも通りの授業が過ぎ、気がつけば選挙の時間がはじまろうとしていた。
疲れ目を擦って暗闇に目を慣らす。舞台袖で目を凝らすと、先に待機していた天使が軽く手を上げて微笑みかけてくる。微笑み返すだけの気力が出ず、ゆっくりと隣に並んで階段の手すりにもたれた。
「ねえ、碧ちゃん」
「どうかしたかい?」
小さな声で囁きかけてきた天使に、少し体を向ける。
「緊張して指先が冷たくなっちゃったんだけど、良かったら少しだけ握っていてほしいなって」
遠慮がちに私を見上げる天使に、私はつばを飲み込んだ。差し出された手が何倍にも大きく見えてくる。何でもないはずの手を握るという行為が、なぜだかとんでもない越境のように思えてしまう。
「あ、ああ……もちろん」
乱れそうな呼吸が伝わらないように、そっと彼女の手を包み込んだ。
「————————!」
彼女の体温が、じんわりと手のひらから伝わってくる。意識の追い付いていなかった体の震えがゆっくりと収まっていく。心拍は落ち着き、呼吸が整っていく。
「この学校には、天使がいるんだよ」
するりと私の手を抜けて、天使の手のひらが私の手を包み返した。胎内に還るような暖かさで、私の冷たく固まった指先はほぐされていく。
「でも、碧ちゃんには私がいるから。だから、大丈夫。心配しないで大丈夫だよ」
包んだ手を胸の前に上げて、彼女は一歩私に近づく。彼女の視線が私を貫く。体温が手を通して全身を暖める。鼻から抜けた甘い香りが脳を突き抜ける。蜘蛛の巣にかかったように、私は身動き一つとれない。
どうして君は、私の欲しい言葉が分かるんだい? 君のために抑え込んだ心を、どうしてこうも簡単に引きずり出してしまうんだい?
天使の言葉は、決して、選挙で戦う相手にかける言葉ではなかった。まるでそんな争いは視野に入っていないとでも言うように、彼女は無垢に見える笑顔を向けている。
「……ありがとう、でも、ごめん」
私は天使から一歩だけ距離を取って、視線を逸らす。天使は言葉を待つように私を見上げている。
静かな舞台袖は、会場準備の音が耳につく。決意が鈍らない内に、息を軽く吸って胸を張った。
「今日は勝つつもりで来たから、君には頼らないよ」
たとえ意味のない強がりだとしても、私は君と出会った時に決めたのだ。私は、君の隣で、君を支えるのだと。それは決して天使という偶像の信奉者としてではない。君の相棒として、私は君の隣に居たい。もう君は、私なんかが守る必要のないくらい強い人間になってしまったのかもしれないけれど、それでも、君が私を赦してくれるというのなら、もう少しだけ執行部の藍虎碧として、君のそばに居させてほしいんだ。
「そっか……うん。私も負けないよ」
天使は可憐に微笑み、私に背を向ける。きっと私は彼女に負ける。けれど、この一瞬だけでも、私は胸を張って彼女と向き合うことができそうだった。
生徒たちが集合し、体育館には厳かな静寂が満ちている。マイクの反響音が不快に耳を打つと、生徒たちは選挙の始まりに身構えた。
「ああその、生徒の皆さんは体をしっかりと舞台の方に向けてください。これより、台典市立台典商業高校の生徒会執行部ならびに監査委員会の選挙演説会を開会します。司会は選挙管理委員長である私、鴉野颯が務めます」
落ち着いた声のアナウンスに、舞台袖に待機している候補者と、応援演説の生徒たちの間に緊張感が走る。
「本日の選挙につきまして、生徒会長への立候補が二名となりましたので、愛ヶ崎天使さん、藍虎碧さんの二名については、信任投票と並行して決選投票の形で役職を決定いたします。なお、信任の票が集まらなかった際は、決選投票の結果にかかわらず、落選となりますので、皆さん記入漏れの無いよう、お願いいたします」
鴉野の言葉に、体育館に着座した生徒たちは身を引き締めた。
「それでは、候補者、ならびに応援演説者の皆さんにご登壇いただきます」
珍しく候補者と応援演説者の重複が無いために、それぞれ六つずつ向かい合ったパイプ椅子の前に十二人の生徒が並んだ。
「候補者、ならびに応援演説者は着席してください。それでは、監査委員会副委員長に立候補された、三々百目さんから順に、演説を開始してください」
アナウンスの声に、三々百目が立ち上がる。長い影は、直上からのスポットライトでスカートの下に隠れている。
「皆さん、こんにちは。監査委員会、副会長に立候補いたしました、一年二組の三々百目ぽぽと申します」
巨大な少女へ、生徒たちは訝しむように耳を傾ける。少女の体躯の前では、台本の紙もメモ帳のように見えてしまう。
「すでに告示やポスターでも表示されました通り、私は二組——普通科の生徒であり、例年商業科の先輩方が務められてきた監査委員の仕事を任せるということについて、不安に感じられる方もおられると思います。ですが、立候補を決め本日まで、そして当選した暁には、普通科の授業と並行し、商業科の皆様とも遜色ないと思っていただけるように、会計業務、行事運営に際する実務につきまして、研鑽を積んでいく所存です。どうか皆様の応援、そしてご助力のほどをお願いいたします」
三々百目が礼をすると、生徒たちから控えめな拍手が返ってくる。演説文の如何に関わらず、生徒たちはまだ迷っている様子であった。
監査委員の役職は、クラス単位のものを除けば、これまでは商業科の生徒が担ってきた。またそれは、普通科の生徒からすれば、差別や格差などではなく、単純に能力や学習範囲の違いによるものだと多くは認識されていた。そのため、普通科である彼女がその役目を務められるかどうかについて、そもそもの判断基準をほとんどの生徒は持たないのである。
「三々百目さんの応援演説を務めます。監査委員会前会長の楠根寧です。前年度は、皆様のご助力のおかげで無事に行事を運営することができました」
間髪入れずに続く応援演説に、生徒たちは背筋を伸ばす。昨年までの猫を被ったようなフレッシュな挨拶ではなく、三年生らしい凛とした口調だ。
「さて、この度は監査委員会の後任を選出するにあたり、皆様に多大なる不安を抱かせてしまったことと存じております。商業科の皆様におかれましては、監査委員会の持つ責任や重要性について、一層の知識をお持ちでしょうから、そのように思われても仕方がありません」
楠根は顔色を変えずに、訝し気な目線を向ける商業科の生徒たちに嫌味たらしく続ける。
「三々百目さんを推薦いたしました理由として、今年度は我々も執行部同様、監査委員長であった私自らがその才能を見出しました。彼女は普通科の生徒ではありますが、商業科の皆さんと同等、いえ、それ以上の活躍が期待できると私は考えております。また、彼女の活躍を持って、今後の監査委員会の運営について、普通科の皆様にも周知いただけると思います」
三々百目は、ちらりと視線を動かし、彼女の隣で次の演説を待つ、二回りは小さい次期監査委員長の姿を見た。その小さな背は、毅然と伸び、敬愛すべき先輩を讃えるようであった。
楠根が応援演説を終え、マイクから離れると、その背に喝采が送られる。それは彼女の商業科に対するささやかな宣戦布告に対する応戦の狼煙でもあり、青く伸びた若竹が空洞でないか見定めるような譲歩の拍手だった。しかし同時に、この場における承認の反応でもあったことは、誰の目にも明らかであった。
続いての演説者となる影間が、演説台の前で頭を下げると、生徒たちはまたまばらな拍手を返した。
「監査委員会委員長に立候補させていただきました、商業科二年、影間蕾です。前年度は楠根先輩の指導の下、監査委員会で副委員長として、影ながら尽力させていただきました。先代会長にお教えいただいた知識を生かし、公正で円滑な校内活動が行なえるよう、努力していく所存です。皆様の清き一票をお願いいたします」
毅然とした口調で、簡潔に控えめな演説を終えた影間は、台本を制服にしまうと席に戻る。まちまちな拍手の音は彼に対する校内評を端的に示している。いわれのない理由から、影間を嫌う生徒は少なくない。それが結果に影響しないとしても、嫌がらせるような冷ややかな視線はまっすぐな背筋に注がれていた。
ぱらぱらと残る拍手の中、応援演説の生徒が前に出ると、困惑するような小さなざわめきが起こる。
「影間の応援演説を務めることになった、新聞部で部長をしている橋屋目高だ。よろしく頼む」
橋屋は制服から小さなメモ帳を取り出し、緊張を感じさせない様子でしおりの場所を開いた。
「堅苦しいのは苦手だから、簡潔に話そう。商業科の諸氏については、彼の成績や素行なんかはご存じのとおりだろう。監査委員長を務めるに不足のない人材だ。そして、実務能力に関してだが、これは普通科の諸氏、特に部活動に入っている生徒は詳しいのではなかろうか。
かく言う私も、新聞部の部長として、部費の監査を食らったものでね。彼は可愛い顔をしている割に、判断はそつがない。その上、経験についても、昨年度は特にイレギュラーな事態も多く、副委員長とはいえ多くの事案を潜り抜けたことだろう。私見としては、これ以上ない生徒だと思うが、後は君たちの判断に委ねよう。応援演説は以上だ」
橋屋の背に、整頓された拍手が浴びせられる。影間が監査委委員長という立場に対して、力不足だと思っている生徒はいないらしい。渋々ながら商業科の生徒たちも、体面のために拍手を送っている。
続く演説者は猫背のままゆっくりとマイクを整えた。
「こんにちは、遠野文美と申します。この度は、生徒会執行部、書記に立候補しました。入学してから、執行部で活躍なされていた、丸背先輩の姿に感銘を受け、ぜひ私も学校のために協力したいと思いました。なにかと至らぬ点もあると思いますが、応援いただけると、幸いです。あの、よろしくおねがいします」
一歩下がると、遠野は深々とお辞儀をした。その気の抜けた話し方に、毒を抜かれて生徒たちは穏やかな拍手を送った。
「遠野さんの応援演説を務めます、丸背南子です。よろしくお願いします」
ぺこりと可愛らしいお辞儀に、生徒たちはそろって歓待の拍手を送る。執行部の愛猫の人気は褪せることが無い。
「遠野さんは、少しおっとりしているところはありますが、書類仕事や問題処理については、落ち着いて解決することができる子です。また、どんな場面でも冷静な彼女は、皆さんの焦りや困惑を和らげてくれるでしょう。
これまで、執行部では、てきぱきと仕事をこなし、皆さんを導くような生徒を推薦してきました。しかし、昨年度の愛ヶ崎さんの活躍を拝見し、皆さんに寄り添うこともまた、執行部の役割であると考え、皆さんと共に歩んでいくことができる生徒として、遠野さんを見出しました。不安に思われることや、意外に思われることも、もしかするとあるかもしれません。しかし、生徒会執行部副会長として、私は遠野さんを推薦したいと思います」
丸背が頭を下げると、再び暖かい拍手が会場を包んだ。
丸背と替わり演説台についた神繰は、無駄のない動きで制服から台本の紙を取り出した。
「生徒会執行部、副会長に立候補しました、一年二組神繰麻貴奈です。私は、五月から先輩方の活躍を近くで拝見し、今日に至るまでご指導をいただいてきました。一年生の皆さん、そして諸先輩方とも行事の際だけでなく、関わらせていただきました。まだ未熟な身ではありますが、皆様からの信任をいただき、副会長として執行部に参画させていただけるならば、さらに先輩方の背に学び、また皆様に頼もしい姿を見せられるよう、尽力していきたいと思います。
私は、ご覧の通り、表情が乏しく不器用で、何を考えているか分からないと言われることも多いです。ですが、前任の副会長である愛ヶ崎先輩のように、笑顔で、そして皆さんを笑顔にしていける学校を作っていきたいと考えています」
藍虎は、ちらりと横目に三々百目の様子をうかがった。座高も高い少女は、その背をすらりと伸ばして、友人の演説を真剣なまなざしで傾聴していた。
静かな声色の中に隠された情熱は、彼女を良く知る執行部や友人たちだけでなく、聴衆にも届いたようだった。演説台よりもわずかに高い彼女の頭に、弾けるような喝采が送られ、その着席と共にわずかな緊張に変わる。
それは、愛ヶ崎と藍虎の生徒会長演説が目前であるというだけではない。応援されるべき小さな未来の会長候補の応援演説者が、ほとんどの生徒にとって、それほど良い記憶の想起される生徒でなかったからである。
演説台が空き、ほんの少しの静寂が流れる。大きく二回まばたきをして、ティンパニーを破くように勢いよく一人の生徒が飛び出した。
「あ、あ~。こんにちは! 麻貴奈ちゃんの応援演説をします、横溝河史歩っス——です! まあ、ウチのことを知らない人はいないと思うっスけど、一応。新聞部でジャーナリストをしてるっス。なんで、良いところも悪いところもみんな話せるってことっスね。まったく、藍虎先輩もウチを指名してくれてよかったんスけど」
早々に堅い口調をを諦めた横溝河が、藍虎の方に肩をすくめると、聴衆から苦笑する声が漏れる。困ったように視線をそらした藍虎は、険しい視線を向ける廓田に、困り顔で口角を上げた。
「ウチは商業科スから、授業態度とかは風の噂でしか知らないスけど、麻貴奈ちゃんは真面目ちゃんスね。執行部の仕事も、スクープとか作れっこない真っ白白っス。その代わり、ポカは多い印象っスね。それに、話してみると、感情豊かなのが分かってくるっていうか、熱い女だって思うんスよ、意外と。 ……いや、意外じゃないんスよね。勝手にウチがそう思ってただけで。副会長として不安だと思ってる人はいないと思うスけど、それだけじゃなくて、もっと魅力を知ってほしいンで、応援演説させてもらったっス——もらいました。あ、でも投票用紙に二重丸したらダメっスよ?」
以上っスと元気よく頭を下げると、温かな拍手が溢れた。厳粛な空気が満ち始めていた体育館に、牧歌的な風が流れ込む。
「以上が、信任投票によって選出される四人の候補者でした。決選投票が行われる二名の演説については、先にそれぞれの応援演説から行なっていただきます。まずは、藍虎さんの応援演説を行う廓田さん、ご登壇ください」
穏やかな空気が、司会の言葉に引き締められる。たかが学校の選挙だ。眠ったって構わない。事実として、生徒たちにも関係のある決算報告の場である生徒総会ですら、眠ってしまっている生徒は多い。
しかし、今日この場においては、全ての生徒が背を伸ばし、これから始まる演説に耳を澄ましていた。
少し緊張した様子の廓田が立ち上がる。視線を藍虎と交わすと、毅然とした姿勢で演説台へと向かった。
「藍虎碧の応援演説を務めます。二年二組の廓田怜亜です。よろしくお願いします」
廓田は、クラス委員長というわけでも、部活動の要職というわけでもなかった。しかし、こと選挙において、彼女以上に藍虎派を代表する生徒はおらず、また熱量も人一倍強かった。彼女の藍虎への信頼や、信奉とでも言うべき情熱は、選挙活動を目にした生徒なら知らない者はおらず、それ故に、彼女が応援演説をすることに疑義を呈する者はいなかった。
「私は、一年次に藍虎さんと同じクラスで、共にクラスの団結のため、行事や日々の授業に真摯に取り組んできました。彼女は当時クラス委員長で、私たちをまとめ導く、太陽のような存在でした。
一年生の皆さんも、今年の体育祭の準備で、彼女がいかに優れたリーダーシップとやさしさ、柔軟性、臨機応変さを兼ね備えているか、ご存じだと思います。
藍虎さんのような大局をみることのできる視野を持ち、全体をまとめ上げるリーダーシップのある生徒が、私は生徒会長にふさわしいと思います。彼女が二学期にどれだけの努力と苦労をして、そして成長を遂げたかは、私が語るまでも無いでしょう。今、この学校には、生徒たちを導く強いリーダーが必要なのです。ぜひ、皆様の清き一票を藍虎碧によろしくお願いします」
廓田が頭を下げると、熱烈な拍手が会場を埋め尽くす。選挙活動をした甲斐があったようだ。演説をやり切っても、廓田は緊張を緩めず、凛とした顔を上げ、席に戻った。
「それでは、続いて愛ヶ崎さんの応援演説を行う三峰さん、ご登壇ください」
慣れた様子の三峰は、マイクの高さを変えず、向きだけを低くして話し始めた。
「愛ヶ崎天使の応援演説を務める、三年三組の三峰壱子だ。とりあえず今日は、前生徒会長としてじゃなく、一人の友人として、この役目を果たしたいと思う。
というのも、二三年生は分かるかもしれないが、私の前の生徒会長である亜熊会長と私では、生徒会長としての振る舞いも役割も、まったく違っていると言っていい。確かに私は、前生徒会長だけどな、だからといって、生徒会長になるための資質だとか可能性だとか、そう言ったことはてんで分からない。それはむしろ、一票を持つ、君たち自身が考えるべきことだと思うぞ。
とまあ、前置きが長くなったが、そういうわけで、天使ちゃんの一人の友人として、話してみようと思う」
生徒たちは、背筋を伸ばして続きの言葉を待つ。
「彼女は、不思議な人だな。見ていると少し不安になるし、危なっかしいところもある。でも、なぜだか仕事を任せようという気持ちになるし、きっと成功させてくれるとも思える。信頼というのとも違う、直感という方がいいな。そんな感じだ。私はあんまり愛想とか得意じゃないから、余計に天使ちゃんの笑顔は、純粋に羨ましく思うこともある。
多分だけど、天使ちゃんと話したことが無い人は、ここにはいないんじゃないか?少しだけでもいい、思い出してみてほしい。そうしたら、まず思い浮かぶのは笑顔だと思うんだ。備品を壊したときでも、笑顔の方が頭に残ってるんだから、良いんだか悪いんだか分からないけど、それだけ彼女は笑っていたってことだな。友人として私から言えるのは、そのくらいだぞ。
あっ、一つだけ前生徒会長として、みんなが不安にならないように伝えておくと、きちんと二人とも生徒会長になっても大丈夫なように、鍛えてはいるからな。ある意味で公平性としてはっきりさせておいて、私からは以上だぞ」
三峰が軽くお辞儀をして演説台を去ると、パラパラと拍手がその背を送った。
「それでは、生徒会長候補のお二人に演説を行なっていただきます。まずは、藍虎さんからお願いいたします」
鴉野の言葉に、藍虎は立ち上がる。前年度は書記であったが、演説や挨拶の機会にはすっかり慣れている。よどみない動作で台本を取り出し、その上でしっかりと聴衆の方を向いた。
「みなさん、こんにちは。二年一組の藍虎碧です。前年度は書記を担当していました」
藍虎は広げた台本に軽く視線を落とし、先程の三峰の演説を思い出していた。
応援と言うには確かに心を揺さぶり、訴えかけるような内容だった。しかし、とても決選投票として、対抗馬を蹴落とすためには物足りない内容だったと言えるだろう。あるいは、それが彼女らの目的——対決の意志を示さないということなのだろうか。
だが、それはむしろ好機であると藍虎は考える。藍虎碧が、そして藍虎派が、いかに生徒会長というものに執着しているのか。どれだけ愛ヶ崎天使を目の敵にしているのかを明確にし、そして、藍虎碧の有用性を押し出すキャンペーンを行う。
そんな藍虎派の目論見が、何の武器も持たずにほほ笑むだけの聖女の前に砕け散るための好機だ。
「こうしてこの場所で、皆さんに演説をさせていただくことも、思い出してみれば、何度もありましたね。皆さんもご存じの通り、我が校の生徒会執行部は、役職によって仕事が大きく変わるということはありません。行事においても、担当が変わることがしばしばあります。私が書記という立場でありながらも、皆さんと共に成長することができたのも、そうした特長のおかげと言えます。
ですが、それは校内の話です。当然、対外的な話をすれば、生徒会長と副会長では発言力も信頼も違ってみられます。私が、皆さんの頭を悩ませることになるとしても、生徒会長に立候補したのはこの点についてです。私は、生徒会長として、この台典商高をさらに外部に向けて開かれたものにしていきたいと考えています。文化祭はもちろん、他校との交流、皆さんの不満や要望を汲んだ学校設備の改新。そうして、台典商高に通う皆さんが、この学校をもっと素晴らしいと思える、そんな未来を作っていきたい。
この学校は、転機にあると私は考えます。私は開かれたその先に皆さんを導きたい。願わくは、その船頭として、私を信じていただきたいのです。
私からの演説は以上です」
藍虎が力強い演説をすると、応えるように熱い拍手が体育館に響き渡った。長く深い礼をして、藍虎は席に戻っていく。
「それでは続いて、愛ヶ崎さん、お願いします」
天使は立ち上がり、悠然と演説台に向かう。その姿に緊張は一欠片も見られなかった。まるで公園で散歩をするように、マイクを軽く調整し、あ、あ~と軽い発声をする。
「こんにちは、二年一組、愛ヶ崎天使です。よろしくお願いします」
廊下ですれ違った相手に話しかけるような気さくさで、彼女は話し始める。台本を取り出す素振りなど一切見せず、淀みなく言葉を紡ぐ。
「先ほど、藍虎さんもおっしゃったように、執行部では役職で大きな違いがあるというわけでもなく、皆さんもこれまで、もし二人のどちらかを選べと言われたら、難しいことだと感じていたことでしょう。三年生の皆さんは、二年前の選挙の際に経験がおありだと思います。
私から、まず簡潔に生徒会長に立候補した理由を述べさせていただくならば、それは皆さんの光になりたいと思ったから、ということになります。
昨年度、私は執行部を等身大のものにすると宣言し、実際に皆さんと関わる中で、近い存在として頼っていただけたのではないかと感じております。活動の中で、私は皆さんを不安にさせてしまうこともあったと思います。ですが、だからこそ、私はこうして皆さんの前で元気な姿を見せたいと思ったのです。
もしも、皆さんが辛いことや苦しいことに出会った時、それでも立ち上がりたいと、この学校で前に進んでいきたいとそう思っていただける学校作りが、私の目標です。皆さんが安心して毎日を過ごし、生徒同士、そして執行部、先生方とも手を取り合っていく日々を、照らすような生徒会長でありたいと思います。
私からは以上です」
天使が軽く頭を下げると、再び窓を飛び出すような喝采が弾ける。油が跳ねるようなその音は、天使が席に座るまで続いた。そのことに気を割く様子も見せず、静かに天使は背筋を伸ばした。
「これで、候補者演説は以上となります。後方の生徒から順次投票に移りますので、スムーズな投票にご協力お願いします。なお、投票結果は放課後に放送にて発表されるほか、同時刻に掲示板に掲載される予定となっております。それでは、選挙管理委員会の指示に従って、投票を開始してください」
それから、生徒全員が投票を終えた後に、候補者たちは壇を降りる。それぞれの立場、それぞれの関係がわずかにすれ違った十二人の間に言葉は少ない。
静かに歩く藍虎のそばに、廓田がそっと駆け寄る。
「ね、碧。私たち、勝てたよね」
興奮冷めやらない様子で、そう嬉しそうに尋ねた彼女に、藍虎は生返事を返す。
「ああ、多分ね」
「先に教室戻ってるね。結果出たら、すぐ行くからっ」
「うん、昇降口に行くよ」
廓田は何度か頷くと、一足先に体育館を後にした。マイペースな速足の横溝河を抜かし、明るい足音は去っていく。
「あ、そうだ。天使ちゃんも碧も、今日は執行部の活動は無いからな。生徒会室開けたかったら、自分で鍵とって来てくれ」
「はーい」
「分かりました」
それならいっそ、しばらく教室にいようかと考えながら、藍虎も体育館を出た。教室まで隣で歩いた天使とは、一言も交わさないままであった。