第五十四話 与えられた火種
・主な登場人物
藍虎碧:現在生徒会執行部書記の女子生徒。クールに見られがち。
氷堂空間:一年生。委員会には所属していない。成績優秀でクラスメイトからの信頼も厚い。丁寧な口調は口癖。
梶鳴テトラ (かじなり てとら):商業科一年の生徒。かなり明るいオレンジの長髪が目立つ健康的な少女。マイペースな性格で、コミュニケーション能力は高いが友人は少ない。
廓田怜亜:二年二組の女子生徒。元天使ファンクラブ会員番号三番。
この学校には、天使がいる。だから大丈夫だと、誰かが笑った。
三年生は、すでに推薦入試を終えて、期待と不安に満ちた生徒もいる十一月。対立するようにピリピリとした緊張感を発していた生徒たちも、自分のことで精いっぱいになりつつある。
張りつめた空気は、受験生たちの心を引き締めたが、ある一つの話題の時にだけ弛緩した。
体育祭からもうすぐ二か月が経つ。期末テストの愚痴を言いながら肩を落とした生徒たちは、廊下や昇降口の連絡掲示板に貼られたポスターを見て、会話の空気を入れ替える。そこには、生徒会選挙の告示が貼られていた。
曜日のめぐりの都合上、前年度より一週早く行われることになった生徒会選挙は、すでに候補者の選出が締め切られ、各候補者の選挙ポスターが、選挙管理委員会によって認可されている新聞部の主導の元で作成されていた。もっとも、例年、選挙という言葉がもたらすような重苦しさや堅い雰囲気はない。
この選挙ポスターは、候補者に対する他の生徒たちのイメージを総合して作られ、彼ら彼女らのイメージを流布するものではあれど、そのマニフェストについて、深掘りするようなものではない。生徒たちも、候補者たちにそうした堅苦しさは求めていなかった。
候補者たちの演説活動は、ほとんどが形骸化し、投票の権利を持つ生徒たちは、当日に用紙に円形を書くことしか考えてはいない。それが信任投票における正しい記入法であるということだけでなく、生徒たちにとって、誰が当選するかは重要なことではなかったのだ。
珍しく対立する形で立候補が行なわれた二年前の選挙でも、生徒たちは面白半分で新任の生徒に投票した側面が大きい。生徒たちにとって、彼らがどんな役職になるのかも、本質的に重要なことではないのだ。彼らが執行部であること。それだけが唯一、生徒たちが同級生を、先輩を、後輩を違う世界の人間だと考える理由なのだ。
基本的にこれといった政治思想も、学校に対する熱い思いも持たない生徒たちは、生徒会選挙についても、ちょっとしたイベント程度にしか考えてはいない。
しかし、それも去年までの話だ。
ひとたび誰かが火を灯し、文明の明るさを知れば、それが間違った道だとしても、気が付くことなく進む者もいる。人は生まれ持った知恵を使わずにいられない。そうして自分の正しさを示さずにはいられない。
笑い合って囲っていた火種が、燃え盛り争いを生んだ。けれども誰一人、火を消そうとは考えない。火を掲げた人々は、止まることを知らない。
その火種を消すことができる者がいるとすれば、それは天使か、あるいは悪魔か————。
十二月にさしかかろうかというある日、一人の生徒が昇降口に辿り着いた。ほとんどの生徒が疲れ切った顔で通り過ぎるその門を、彼は清々しく感無量の表情でくぐる。
彼にとって、その学校に登校するのは実に二か月ぶりであった。あれほど長く感じられた夏休みよりも長い休学を経て、ようやく舞い戻ってきたのである。
全身の複数個所を骨折した彼は、さらに不幸なことに、まずもって失敗しない手術の稀有な失敗例となってしまい、長い入院期間を享受することになった。
入院中も、クラスから送られてきたプリント類によって、なんとか授業自体は復習の形で追いついていたが、校内の事情を教えてくれるような人間はいなかった。特に一月前に行われた体育祭の顛末について、彼は期待を高めていた。
さらに言えば、来る十二月には生徒会選挙が控えており、志の高い彼は不測の事件の後でも、生徒会執行部への出馬を決意していたのである。数少ない見舞い人でもあった先輩を師事するため、彼は期待と自信を持って、この台典商高へと舞い戻ってきたのだった。
そんな彼、氷堂空間が靴を履き替えていると、一人の女子生徒に声をかけられる。早朝の昇降口は密会を思わせた。
「やあ、氷堂くん。久しぶりだね」
「ああ、これは藍虎先輩。ご無沙汰しております。不肖、氷堂空間ようやく退院です」
「それは良かった。それで、少し話したい事があってね。時間はあるかな?」
「ええ、もちろんですとも。僕も先輩にお願いしたいことがありますから」
「……ああ、分かっているよ。そのことも合わせて、君と話したかったんだ」
現生徒会執行部書記、藍虎碧は一瞬苦虫を嚙み潰したような顔をして、すぐに背を向けると特別棟の方へ歩き去った。氷堂もその後を追う。
特別棟の階段を上り、二人は一つの教室に入る。現在は新聞部が使っているその空き教室には、今は二人しかいない。
「そうだな、まず何から話したものか……」
藍虎は手近な椅子に座ると、考え込むように疲労を溜めたこめかみに指を当てた。
「でしたら、僕から話しましょう。先輩、僕を生徒会執行部に推薦していただけませんか?」
藍虎は、氷堂がそういうと分かっていたように眉根を寄せて、氷堂の自信に満ちた笑みを受け止めた後、気まずそうに視線をそらした。
「……藍虎先輩?」
言いづらそうに間を空けて、藍虎は小さくため息を吐く。言葉を探り、機嫌をうかがう様に、歯切れの悪い調子で話し始めた。
「その、生徒会選挙のことだけどね。もう、締め切ってしまっているんだ。立候補は」
「…………はぁ。そうなのですか」
穴の空いた風船のように、氷堂はきょとんと間抜けな声を返した。ならダメじゃないかと納得して、その言葉の意味は理解をすり抜けていく。
「えっと、つまり僕は立候補できないということですか?」
「ああ、残念ながら」
気の抜けた質問に、藍虎は申し訳なさそうに答えた。氷堂の入院が長引いたせいであるとも、例年通りのスケジュールなら、十一月中なら立候補可能だったとも、伝えることは追い打ちのように感じられた。
「は、ははは……それならそうと、教えてくださればよかったのに」
「すまない。少しこのところ立て込んでいてね。時間を取れなかったんだ」
藍虎は、部屋の外に気を張るように落ち着きない様子だ。氷堂は、これから先の活動予定が白紙になってしまったことは仕方がないと諦め、現状の理解に努めようと考えた。生徒会選挙の立候補がもうできないと伝えるためだけに、彼女は自分を待っていたわけではないだろう。
「先輩は生徒会長候補ですから、お忙しいのも理解できます。そうだ、愛ヶ崎先輩はどうされているのですか? どうにもあれからの学校の事情には疎いものでしてね」
氷堂が明るく尋ねると、藍虎は答えかねるような表情で視線を落とす。
「……そのことについて、君に意見を聞きたかったんだ」
藍虎がようやく重たい口を開くと、廊下からドタバタと足音が聞こえてくる。氷堂が藍虎を見やると、少し寂しそうな、疲れ切ったような表情で彼女は扉の方を見ていた。
「……すまない。放課後、また君の所へ行くよ。天使のこと——学校のことは、ひとまず君の目で状況を把握してほしい」
藍虎がそう小さく言いながら立ち上がると、勢いよく教室の扉が開かれた。
「あっ! やっぱりここにいた!」
扉の向こうの少女を、氷堂は目を細めて観察した。自信気に背筋の伸びた、細身の少女。おそらく何かしらの運動部に所属しているのだろう。顔は薄く日焼けしているが、走って暑くなったのかまくられた制服の袖の向こうに見える肌は白い。華奢な腕と脚は肥大系の筋トレとは無縁に見える。テニス部、だろうか。
「その子は?」
「ああ、新聞部の生徒だよ。私の特集を組んでくれるよう少し話をね」
「……ふぅん? それより、もう挨拶運動始める時間だよ! 早くっ!」
入り口の少女は急かすように腕を腰のあたりで構え、足踏みを始めた。
「そんなに焦らなくても、まだ生徒たちが来る時間じゃないよ。それじゃあ、良い記事を頼む」
藍虎は困ったように笑いながら少女の方へと向かい、去り際に氷堂へそっと視線を送った。
「ええ、もちろん」
氷堂も顔色一つ変えずにそう嘘を吐く。少女は特に疑うことなく、藍虎と共に去っていった。足音が二人分遠ざかって、昇降口の方へと消えていった。
「いったい何が起こっているのやら……まあ、なんにせよ退屈しないで済みそうですね」
氷堂は薄く笑いながら、教室を後にする。新聞部の部室の鍵を職員室に返すと、昇降口の方が少し騒がしく思える。生徒たちが登校し始めたらしい。
教室棟と特別棟をつなぐ吹き抜けの連絡通路から、氷堂は昇降口にやってくる生徒たちの波を見下ろした。取り立てて変な所のない、日常的な登校風景である。
ふと、正門にあたる階段の方に藍虎がいるのを見つける。挨拶運動とやらだろう。その横には、遠目でも愛ヶ崎天使の姿を見つけられた。二人は愛想よく生徒たちに挨拶をしながら、波が途切れれば何かを話し合っているようだった。
「愛ヶ崎先輩、元気そうで何よりですね……」
欄干にもたれ、氷堂は一人口角を上げる。その背に不意に声が投げかけられた。
「あれ、クマっちじゃん。今日から登校なの?」
氷堂が視線を向けた先には、退屈そうにあくびをする梶鳴の姿があった。
「ええ、まあ。テトラこそ珍しいですね。こんな時間に登校とは」
「ああ~、まあねぇ。挨拶運動のせいで、ギリギリ遅刻の取り締まりが厳しいんだよ」
「そういうわけですか。てっきり、あなたが更生して執行部に立候補でもしたのかと」
「え~? しないしない。っていうか、クマっちこそしないの?」
氷堂が無言で階下の生徒たちに視線を逸らすと、梶鳴はからかうように隣に並び、無邪気な笑みを浮かべた。
「……用紙の提出忘れちゃったとか?」
「忘れたのではありません。入院の都合上、機を逃してしまったようで」
「ありゃりゃ。それは残念だねぇ」
「まったく、他人事だからと……」
氷堂は呆れた様子でため息をついた。梶鳴は何かを思いついたように目を見開くと、目を細めて一本立てた指を氷堂に向けた。
「てことは、クマっちは今の選挙のこと、何にも知らないんじゃない?」
「ええ、そうですね。いったい誰が僕を差し置いて立候補しているのやら。目立った生徒と言えば、二組の神繰さんと……ああ、三々百目さんでは?」
「ぶぶー! ぽ——三々百目さんは、監査委員。執行部の方は……遠野さん、だっけ確か」
「遠野……ああ、あの遠野さんですか……本当に?」
「知ってる子? でも確かに、こういうの立候補しなさそうな大人しい感じだよねぇ。まあ、三年のニャンコ先輩もそんな感じだし、無い話じゃないでしょ?」
「丸背先輩ですか……文芸部つながりで誘われたのか、まあそんなところでしょう。二年生はあのお二人が?」
氷堂は視線で挨拶運動にいそしむ藍虎と愛ヶ崎を示した。
「そうそう……なんだけど……」
「何かあったのですか? きわめて順当な立候補でしょう。信任も間違いなく通る」
「あー、それがさぁ……今年は信任投票だけじゃないんだよねぇ」
氷堂はその言葉に梶鳴へ視線を向け、彼女が続きを説明するのを待った。
「二人とも、生徒会長に立候補したんだよ。それで今は選挙活動中ってわけ。ポスターも色んな所に貼ってあるけど、まだ見てない?」
「そうですね。後で見ておきますよ。それにしても、両方が生徒会長に立候補ですか。何を考えているのやら……それで、テトラはどちらに投票するつもりなのですか?」
「まだ迷い中かな~。結構そういう人ばっかりみたいだよ? 二人はそんなに勧誘してるわけじゃないけど、ほら、ファンというかなんというか……今、学校は藍虎派と天使派に分かれてて、浮動票を勧誘し合ってるって感じ」
「把握しました。藍虎先輩は苦労しているでしょうね。なぜわざわざ生徒会長に立候補したのでしょうか。愛ヶ崎先輩が立候補したなら、藍虎先輩の勝利は望み薄のように思えますが」
「う~ん? そうでもないと思うけど……ああ、そっか。クマっちはあれから学校来てないから知らないのか」
馬鹿にするわけではなく、一人納得がいったように頷く梶鳴を、氷堂は不思議そうに見上げた。
「天使先輩ね、ずっと休んでたんだよ……って、それはクマっちも当事者だから知ってるよね。んで、その間、藍虎先輩が仕事を一人で頑張っててさ」
「それもまあ、知ってはいますよ。九月の末頃、先輩がお見舞いに来てくださったので」
「そうなんだ、あの人もマメだね~。でも、大事なのはそれより後でさ、体育祭があったでしょ? 天使先輩がお休みしてたから、実行委員もみんなも、藍虎先輩の指示とか意見でやる気出してたんだよね。それで、みんなでがんばるぞー! って本番になって、そしたらびっくり。天使先輩がサプライズで復活! なんか、藍虎先輩にも知らされてなかったらしくて、お祭り状態というかみんな張り切っちゃってさ。体育祭はちょー楽しかったけど、天使先輩が藍虎先輩の努力を横取りしたっていう人も出て来て……」
「それで、藍虎先輩のほうが生徒会長にふさわしい、と」氷堂は目を細める。
「そうそう。確かに、体育祭までは、みんななんとなく、藍虎先輩がこのまま生徒会も引き継ぐのかな~って思ってただろうし、別にどっちになっても、ダメってことはないんだろうけどさ、天使先輩が戻ってきたなら、じゃあどうするんだろうってなるじゃん?」
「単純に考えれば……いえ、どうなのでしょう。しかし、勝算がどうであれ、藍虎先輩が天使先輩に戦いを挑むとは思えませんがね」
「アタシに言われてもね~。それより、クマっちはどうするの? 執行部、入りたかったんでしょ」
氷堂は欄干にもたれていた体を起こすと、軽く手を示して微笑む。
「もう天使先輩とも話せましたから、あとは好きなことをしますよ。学生らしく、ね」
梶鳴も薄く笑って氷堂から視線をそらした。別れの言葉もなく、自然な動作で二人は離れていった。
氷堂がクラスの教室に入ると、クラスメイトが彼を認識して迎え入れた。随分と久しぶりのことに感じられたが、彼らにはそれ以上に関心を引くことがある様だった。
「おお~、氷堂久しぶりだな」
「とんだ藪医者にかかってしまったもので」
「まじか~、いろいろ大変だったんだろ?」
氷堂が肩をすくめると、男子生徒も笑みを浮かべた。彼は前の席に座ると、氷堂の方に身を乗り出して、真剣な顔で尋ねた。
「それでさ、氷堂はどっち派?」
「生徒会選挙、ですか? まだなんとも。今日復学したところですから」
「話が早いじゃねえか。だったらさ、氷堂も藍虎先輩に投票してくれよ。お前が先輩を応援してくれたら、もっと話を聞いてくれる人も増えると思うんだよ。ほら、氷堂って顔が広いだろ?」
氷堂はとっさに笑顔を繕って肩をすくめる。彼はいわゆる藍虎派なのだろう。両方の意見を聞いてみなければ、安易なイメージを持つことになるが、それでも彼の勧誘は怪しげに聞こえる。友人としての頼みというよりもずっと打算的だ。
「そうでもないですよ。お見舞いに来てくれた人も、片手で数えられるくらいでしたから」
「そんな卑下することないって。考えといてくれよな」
彼は自分がクラスメイトの見舞いに行かなかったことを気にするでもなく、そう言い残すと自分の席へ戻っていった。
一生徒である彼が、ここまで露骨な選挙運動を行うのは、公職なら違反行為だろう。校則にそこまで選挙について厳しく書かれているわけもないだろうが、次にはプロパガンダを吹聴しそうな雰囲気には冷めた目を向けざるを得ない。あるいは、藍虎派というのは比喩でも揶揄でもなく、本当にそんな政党じみた争いが行われているのだろうか。
氷堂は、なおさら迂闊な発言をしないようにと気を引き締めて、授業の用意を始めた。
昼休みになり、氷堂は校内を散策してみることにした。梶鳴の言っていたポスターというのも気になるところである。
「ふふっ……」
昇降口でポスターを見つけた氷堂は、口元に軽く手を添えて、爆笑しないように堪えた。
執行部の冷たい虎————藍虎のポスターに大きく書かれたアイキャッチフレーズは、何度見ても少し滑稽だ。これを真剣に受け取る人間が……まあ、いるのだろう。
他の候補者のポスターを見ても、過激な思想が押し出されているということもない。取り立てて不審な所の無い、内輪の選挙ポスターだ。
「写真映りには難ありですね……」
半目の写真が採用された藍虎のポスターに、もう一度笑って、氷堂はポスターから離れた。こんなところを藍虎派の人間に見られたら、どうなるか分からないだろう。
「あっ、氷堂くん、だよね? 三組の! 私、二組の————」
氷堂は話しかけてきた女子生徒の笑顔の裏に、また選挙運動の空気を感じ、とっさに笑顔を張り付けて適当に相槌を打つことにした。今は、情報が欲しいところだ。なぜ藍虎先輩は、生徒会長に立候補をしたのだろうか。それが天使先輩に対する不信行為であると、彼女が一番思っているはずなのに。
「それでね、先輩ってすごいんだよ! 冷静で落ち着いてるし————」
予想通り生徒会選挙の話に変わっていく世間話を、氷堂は曖昧に聞き流した。
それから、放課後になって、氷堂は職員室前の廊下を曲がり、今となっては少し懐かしい踊り場にやってきた。まだ半年の学生生活だが、ずいぶんとこの場所にたむろしていた気がする。
しばらく、校舎の窓からグラウンドの生徒を眺めていると、規則正しい足音が近づいてくる。
「おや、奇遇ですね、先輩」
「そうだね、こんなところで会うだなんて」
お互いにわざとらしく笑って、ゆっくりと歩調を合わせて特別棟の廊下を進む。
「校内巡回は、愛ヶ崎先輩の仕事だったのでは?」
「前まではね。彼女が休んでいる間に私が引き継いで、今は私の仕事さ。彼女は引継ぎに忙しいからね」
藍虎は自嘲気味に肩をすくめる。
「戦う前から負ける算段とは、あなたらしくもない。今日聞いた限りでは、かなり人気は競っているようでしたよ」
「ああ、そうらしいね。だが、私は勝てないよ。たとえ友人に説得されて、私に投票しようとなびいた人がいたとしても、きっと演説を聞いて心変わりするだろう。それに、もういいんだよ。この選挙も、形ばかりの物だから」
特別棟には、他に人の気配はない。生徒たちの様子を観察しに行く業務のはずだが、歩いていく方向には誰の声も聞こえてこなかった。
「負けるために、わざわざ立候補をしたと。理由をうかがっても?」
「ああ、構わない。君には話しておきたくてね」
二人は特別棟一階の廊下から、扉を開けて体育館との間の道に出る。氷堂にとっては、事件以来の場所だ。あれからさらに来客は減り、今もしんと静まり返っている。
「愛ヶ崎さんが休学になって、私もすこし荒れた時期もあった。でも、支えてくれる人もいてね。どうにか生徒会長を目指していこうと私も思えたんだ」
「その話は耳にさせていただきました。最後にお会いしてからも、一悶着あったようで」
「お恥ずかしいことにね。まあ、それはいいとして。体育祭の準備という分かりやすい目標もあったから、みんなとも交流できたし、正直天狗になってた部分もあった」
「そう卑下する必要はありませんよ。今日見ただけでも、先輩は頼りにされ、期待されているようでしたから」
「期待……か。そうだね。愛ヶ崎さんの代わりに私が生徒会長になる。頼りになる姿を見せて、そうみんなを焚きつけた部分はあるし、あの時は私も、そうなれると思っていたんだ。でも、現実はそうじゃなかった」
「それほどに、愛ヶ崎さんの影響力は強かったと?」
「ああ、当然だろう? 体育祭をリハーサルも無しで司会をやってのけ、そのくせ誇るでもなくいつの間にか帰ってしまった。痺れたよ。私が何日もかけて作った信頼も関係も、簡単に彼女は手玉に取るんだからさ」
氷堂は、憧れるような寂しそうなその横顔に、訝し気に尋ねた。
「手玉に取る、ですか。ずいぶんと悪い言い方ですね。まるで彼女に悪意があるかのようだ」
「悪意はないよ。ただ、遊ばれているような、そんな絶対的な壁を感じたというだけのことでね。前哨戦をした話は、誰かから聞いたかい?」
「ええ、藍虎派、でしたか? の方から、嬉しそうに教えていただけましたよ。体育祭後の騎馬戦で、見事勝利したそうで」
「ああ、勝った。勝たされたんだ。私の方を見て、楽しそうに彼女は笑ってたよ。あの場で私が勝たなければ、きっとみんな彼女に不信感を抱いていた。あの戦い無しで帰っていても、きっとね」
藍虎はまた思い出すように、なぜか嬉しそうに階段の手すりにもたれて微笑んでいる。
「私はね、彼女が生徒会長になることに異論はないよ。だけど、それじゃあ納得しない人がたくさんいる。その人たちは悪い人じゃあなくてさ、ただ私が焚きつけて、それで応援してくれている人たちなんだ。だから、その始末は私がつけなくちゃいけない。たとえ、ボロボロに負けて、恥ずかしい思いをしても。彼女に負けて、敗北者として恥をかくことになっても、それは私が受けるべき罰なんだ。そうしないと、彼女を支えることすら、私には許されないよ」
氷堂は気丈に笑う藍虎の言葉に、昔聞いた神話を思い出した。
人間に火を与えたその神は、人間たちがその火で戦争を始めたことで罰され、鳥たちに永久に内臓をついばまれる刑に処されたという。
この生徒会選挙の争いは、正しいものではないのだろう。勝敗の決まったゲームであり、応援者たちの努力は、結果に対して無意味なことかもしれない。
しかし、それを無意味だと断じることは、彼ら彼女らの人生から、無理やり光を奪い去るようなことだ。藍虎先輩は、自分でつけた火の始末を、自分が燃えてしまうとしても行おうとしている。
「僕は、藍虎先輩に投票しますよ」
「それでも、負けるよ」
「それでも、投票します」
もし、僕が全力で生徒たちに投票を呼び掛けたとして、それで結果は変わるだろうか。
きっと、この学校に来る前の僕なら、迷わず変えられると考えるだろう。
けれど、この学校には天使がいる。彼女はすべてを破壊する。簡単に、無作為に、無邪気に、完璧に。
ああ、だからきっと、僕が先輩にしてあげられるのは、支えるくらいのことなのだろう。
「先輩、執行部のことなのですが、来年は僕の応援演説を頼まれていただけないですか?」
「来年かい? またずいぶん気が早いね」
「ええ、生徒会長になるのです。そのくらい用意周到でないと」
藍虎は、階段にもたれるのを止めると、人の声のするグラウンドの方へと歩き出した。
「考えておく。それと、今年の活動は君にも手伝ってほしいな」
「ええ、もちろんです、以前にも申し上げたでしょう。いくらでもお役に立ちます、と」
「私は生徒会長になれないだろうけどね」
氷堂は、藍虎がまだその約束を覚えていたことに驚いて、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。藍虎は、悪戯っぽく笑うと、彼を置いて少し先に歩き出した。
くすぶった火種は、時に森を焼き大地を焦がす。けれどその火は同時に、誰かの心を穏やかに暖めることもできるのだ。
それは、秋の少し冷たい空気に歩き出した二人には、少し暖かく感じられたかもしれない。