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誰も救えない天使の話  作者: 錆井鈴江
台典商高編 羽化の章
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第五十三話 Angel annihilates...

・主な登場人物

愛ヶ崎天使まながさき てんし:現在生徒会執行部副会長。


藍虎碧あいとら みどり:現在生徒会執行部書記の女子生徒。クールに見られがち。


丸背南子まるせ なんこ:ニャンコ先輩。生徒会三年の副会長。猫背で丸眼鏡の落ち着いた少女。誰に対しても敬語で話す。


三峰壱子みつみね いちこ:ワンコ先輩。三年の生徒会長。低い身長と元気で独特な口調が犬っぽい女子生徒。


襟宮えりみや:二年生のバレー部エース。高身長でスポーツ万能、一部に熱狂的なファンを持つ少女。


楠根寧くすね ねい:監査委員長の女子生徒。人を舐めたような態度を取る。後輩には基本的に当たりが強い。


梶鳴テトラ (かじなり てとら):商業科一年の生徒。かなり明るいオレンジの長髪が目立つ健康的な少女。マイペースな性格で、コミュニケーション能力は高いが友人は少ない。


留木花夢とどこ はなむ:二年一組の女子生徒。身長が低く童顔。顔に肉が付きやすい体質のせいで、顔が真ん丸になってしまうことが悩み。


鳩場冠凛はとば かりん:二年一組のクラス委員長の女子生徒。静かな佇まいをしている。部活は運動部を転々とした後、現在は無所属。


田尾晴々(たび はるばる):二年一組のクラス副委員長の青年。チャラい見た目で言動もチャラいため、誰からも信用されていない。性根は優しいが、見た目で損をしている。趣味は読書で、文芸部に所属している。


有飼葛真あるかい くすま:二年一組の男子生徒。いつも眠そうな顔をしている。実際眠いらしい。ぼんやりしているようで、意思は強い方。行動力はあるが、やる気はない。


針瀬福良はりせ ふくら:一年二組のクラス副委員長だった。今は二年二組の委員長であり、名実ともに委員長いんちょー


三々百目さざどめぽぽ:一年生の少女。身長が二メートル近くある。睡眠で身長が伸びると困るので、なるべく授業で居眠りしないように努めている。


橋屋目高はしや めだか:新聞部部長の二年生男子生徒。


瑞本凛みずもと りん:P.Hというニックネームを持つ三年の化学研究会の女子生徒。いつも何か怪しい実験をしている。


廓田怜亜くるだ れあ:二年二組の女子生徒。元天使ファンクラブ会員番号三番。藍虎が活動の補佐にと考えていた生徒。



 十月第一週の金曜日。二学期の定期考査を間近に控えながらも、そのことを考えている生徒はごくわずかだ。


 台典市の公立校である台典商業高校では、この日体育祭が行なわれる。


 体育祭は文化祭と異なり、生徒たちとその保護者のための行事だ。他校の生徒を含め、それ以外の観覧者はほとんどいない。そのため、文化祭よりも実施主体である実行委員会と生徒会執行部の自由な進行と式次第が特徴的である。


 教師が監修しているのは、体育の範囲内の種目であるリレーや組体操のみで、それ以外の種目は怪我をしないようにと口頭で注意する程度で生徒主体だ。


 それは翻って言うならば、委員会の承認を通せば、教師も参加生徒たちも知らない進行の予定が組まれる可能性があるということだ。一般的な例で言えば、外部からの著名人の招致などがこれにあたるだろう。サプライズをするのに、これ以上に理想的な組織編成も無いと言える。


 藍虎碧(あいとらみどり)は、高校の最寄り駅に付設した商店街を進みながら、そんな思考を巡らせていた。


 向かっている先は学校ではない。一か月前まで生徒会執行部の知り合いだった少女、愛ヶ崎(まながさき)天使の家である。


 愛ヶ崎は現在、暴行被害による精神障害の疑いを受け休学処分を受けていた。当然ながら、事件の当日から昨日の放課後に至るまで、彼女は学校には来ていなかった。それどころか、藍虎は彼女の姿を、事件後に家へ搬送して以来見ていない。


「大丈夫……大丈夫だ……」


 藍虎は静かに拳を握って、体の震えを止めようと試みた。一歩踏み出すごとに不安は増していく。それは今自分がしようとしている行為が、全くの無意味である可能性への不安だった。


「碧は当日ゆっくりでいいからな。準備頑張ってくれたし、前日くらいゆっくり寝るんだぞ」


 藍虎は準備が終わった後で、生徒会長である三峰壱子(みつみねいちこ)から言われたことを思い返す。


 現在の時刻は七時一〇分。告げられていた集合時間は八時二〇

 愛ヶ崎天使の家から学校へは、早歩きなら二十分で到着できる。荷物の少ない今日なら。一五分でも可能だろう。


 藍虎が集合時間よりも相当に早い朝に家を出た理由は、愛ヶ崎天使の現状を確認するためだった。


 体育祭に連れていきたいわけではない。むしろその逆——彼女が台典市に帰って来ていて、その上で体育祭に行くつもりが無いことを確かめたかった。自分が心配していることなどつゆ知らず、学校も何のそので幸せに能天気に生きていると思いたかった。


 藍虎は不安症というわけではない。むしろ、自信家で調子に乗りやすいほうだ。しかしながら、連日の活動で生徒たちと交流をし、来る生徒会選挙に向けて信用を積み上げつつある現在においては、愛ヶ崎天使がどのような変革を自分に、そして台典商高全体に与えるかという一抹の不安は、あまりにも大きかった。


 これが杞憂ならばいい。彼女が空回って、自分が迷惑するのも許容の、予想の範囲内だ。彼女が変わらずいてくれるなら、それでも構わない。私が生徒会長である必要はないのだから。


 だが、目下の不安は彼女が壊れてしまうことだった。


 彼女の意思を継ごうと、自分の足で進もうと決めてから、体育祭の準備が忙しかったとはいえ、彼女に意識を割く時間を取れていなかった。


 もしも、その間に彼女がSOSを出していたら。彼女の怒りや悲しみが、台典商高に、生徒たちに向けられるようなことがあれば。


 藍虎が直前になって焦りを覚えたのは、自分が失望されたり関係を絶たれたりすることでも、愛ヶ崎自体への不安でもなく、ここまで作り上げた体育祭という結晶が破壊されることに対してだった。彼女には、愛ヶ崎天使には、それだけの力がある。すべてを土台からひっくり返せる力がある。多くの人間の期待を、予想を無邪気に破壊できるだけの可能性を秘めている。


「よし…………」


 少し息切れした呼吸を、彼女のアパートの前で整える。


 呼び鈴のない扉をノックする。


「おはよう、愛ヶ崎さん」


 周りの部屋に迷惑にならない程度に、けれど室内の相手には届くように声を張る。


 ————返答はない。


 時刻は七時二〇分。もしかすると、まだ寝ているのかもしれない。それならばいい。


「早くにごめん。今日は体育祭なんだ。良かったら、一緒に行かないか?」


 行くわけがない。そう思いながら声に出す。行かない、と彼女に言ってほしかった。


 ————返事はない。


 しばらくノックを繰り返し、一応ノブを捻る。鍵はかかっている。


 時計を見ると、七時三〇分にさしかかっていた。


「もう、行くから。来週、待ってるから」


 居るか分からない、聞いているか分からない彼女に声をかけて、階段を下りた。


 無意識に長い息を吐いた。震えはいつの間にか収まっていた。


「やっぱり、考えすぎだったかな」


 明るい空から降り注ぐ暖かな光を浴びながら、ゆっくりと登校する。自分の家でもないのに、すっかり見慣れた風景だ。


 登校路には、ぽつぽつと生徒たちの姿が見える。クラスの集合時間が八時なのだろう。


「もう、ゆっくりでいいのかな」


 無意識に速足になる歩調を緩める。


 二年一組はクラスでの集合は指定されていなかった。クラス単位での点呼は八時五〇分に行われることになっている。


 藍虎は時計を確認して、急いたような生徒たちをのんびりと目で追いながら歩く。快適な睡眠から起き上がったような穏やかさが満ちている。まるで自分が治める国を闊歩するような気分だ。人々の活気に、生き急ぐような瑞々しさに、自然と幸せな笑みがこぼれる。


 学校に到着した藍虎は、グラウンドに向かう生徒たちとすれ違いながら、昇降口に入る。時刻は八時を過ぎている。多くの生徒は教室で練習を始めているか、荷物を置いてグラウンドで歓談している。


 すれ違う生徒たちからの挨拶を笑顔で返しながら、藍虎は特別棟への渡り廊下を進む。少し時間よりは早いが、構わないだろう。


 生徒会室から役員の話す声がする。先輩たちは改めて最後の打ち合わせをしているようだ。


 気持ちを切り替えないといけない。みんなを導く、次期生徒会長として。


 いつも通り、何気ない動作で、藍虎は生徒会室の扉を開いた。部屋の視線が集まった。


「おはようございま………す」


 仕事が始まる。生徒会執行部の一員として挨拶をする。


「おはようございます、碧ちゃん」


 笑顔で挨拶が返ってくる。自然でかわいらしい笑顔。記憶に残る、記憶に刻み込んだ笑顔と寸分違わない笑顔。


「な……んで……」


 ()()()()()()()()()()使()()()()





 この学校には、天使がいる。


 そんな噂を最初に話したのは誰だっただろう。


 台典商業高校の生徒ならば、誰もが知っている噂。七不思議や怪談のような与太話ではなく、確かに一人の少女を指した噂話。噂の当人が思う以上に影響力を持ち、誰もが好む話の種。


 噂話の好きな台典商高の生徒たちは、彼女が現れてからこの話題で持ちきりだった。悪魔と呼ばれた生徒会長。神以上と自称した副会長。様々な内緒話が天使の話に塗り替えられた。


 それは必然と言ってもいいのかもしれない。彼女の話はいつも、楽しく痛快で、少し悲しい気持ちになってしまった生徒も、すぐに良い思い出だったと笑い飛ばしてしまえるような幸福感と充足感を与えてくれるのだった。


 彼女は厄介で奔放で迷惑で才能に満ち溢れていた。誰もが少しだけ彼女を苦手に思い、けれど彼女と関わる時にはそんな悪感情など欠片も思い出せないのだ。


 天使は誰もに親身で、誰とも仲が良くはない。会話をしているその瞬間は旧知の親友のようで、すれ違えば別次元の存在だ。出会いという運命の差し金によってのみ、ねじれた関係が交錯する。


 だから天使がいなくなっても、誰も何もしなかった。手を伸ばしても、彼女には届かないから。きっと自分よりも手を伸ばすのに適切な人間がいると思ったから。


 幸いにも、天使を愛し、天使に愛されたいと願った一人の少女が、その役目を一身に担うことができた。彼女は残光を目指して歩み出し、その光を生徒たちにも示そうと奮い立った。


 天使がいなくなった学校では、誰も天使の話をしなくなった。かつてそうだったように、色んな生徒の話が交わされた。生徒たちは自由に過ごし、活気を盛り上げていった。それはひとえに、彼らを導く存在がいたからである。


 天使がいなくとも、生徒たちは悲しいと思わないだろう。しかしそれは、天使を否定することと同義ではない。


 人は皆、導きを待っている。一人で立って歩けても、誰かに手を引いてもらうことを渇望している。そして、それ以上に、そんな誰かと目指していける光を求めているのだ。


 たとえその光が、誰も救わない、洞窟に照らされた影のような虚像だとしても。






 三峰先輩が遅れて顔を上げ、ちらりと私を見てから、視線を時計に移す。きっと、私にゆっくり来るように言ったのは、天使との打ち合わせを済ませるためだったのだろう。


 呆気にとられたままの私のほうへ、天使はぱたぱたと駆けよってきた。その目は私を捉えて離さない。


 問いただしたいことは濁流のように脳を駆け巡る。しかし、怯えた心は足を半歩後ろに下がらせるばかりだ。


 狩人は小鹿のように震える体を捉える。背中に回された手、温かな彼女の体温、ふわりと香る懐かしく狂おしい匂い。


「久しぶり……ごめんね、連絡も全然できなくって」


 反射で彼女の背の方へ投げ出された手で、そっと抱き返した。天使は大きな瞳で私を見上げる。


「い、いや……構わないさ……」


 純な瞳に恐怖心が灼かれる。彼女に抱かれて分泌された幸せ物質が私を蝕む。心臓の高鳴りが、死の宣告のように体中に響く。


「天使ちゃん、もうちょっとで終わりだから、先に打ち合わせしてほしいぞ」


「は~い」


 からかうように、いとも簡単に天使は抱擁を解き、逃げるように三峰先輩の方に戻っていく。彼女の残り香が、この奇妙な現実を夢ではないと痛感させるようだ。


 停止しかけていた思考が、急速に再起動される。


 天使が来た。体育祭の日程は、動きはどう変わる? 私はどう対応すればいい?


 順にリハーサルの記憶をたどる。生徒たちの顔が浮かぶ。誰も彼も楽しそうだ。体育祭が何事もなく盛況になると信じている。私だってそうだ。この幸せな夢はきっと覚めない現実になると確信していた。


 脳内で二度目のリハーサルを終えて、私は気づく。私は、天使とねじれの位置に置かれていたのだと。


 生徒たちの様子を見て、入退場を誘導する。点呼を行う。必要があれば喝を入れる。楽しそうなクラスはより楽しくなるように、活気のないクラスには元気を注入するように舵を取る。


 そんな遊撃部隊のような役目は、本陣である執行部席や司会進行とは関わることが無い。そこに天使が入って来ても、私は生徒たちと同じように驚き熱狂するほかにない。


 改めて資料に目を通してみても、天使の存在によって私の動きが変わることもなさそうだった。


丸背(まるせ)先輩は、知っていましたか?」


 どうしても聞きたくなる衝動を抑えられず、小声で尋ねる。


「愛ヶ崎さんのことですか? ええ、昨日聞いて驚きましたよ。でも、全員で体育祭を行うことができそうで、良かったです」


「え、ええ……そうですね……」


 不安に思っているのは自分だけなのかと訝しむ。むしろ、先輩の意見は正しいのだろう。天使が帰ってきた。それはとても喜ばしいことで、柏手を打って迎え入れるべきことのはずだ。そう理解することは簡単だ。けれど、そう思いきることは私にはどうしてもできなかった。


「それじゃあ、みんなにも挨拶してきますね」


「九時前には静かになるようにな~」


 打ち合わせが終わったらしい天使が、生徒会室を飛び出していく。その活発さに呆気に取られた。


「あの、三峰先輩」


「ああ、碧。ごめんな、本当なら碧には一番に伝えたかったんだけど、天使ちゃんがサプライズにしたいって言うから、黙ってたんだぞ」


「サプライズって……愛ヶ崎さんは、どうやって体育祭に参加するつもりなんですか。種目も、クラスだってエントリーはもう……」


「その点は大丈夫だぞ。天使ちゃんは、今日司会進行をするだけだからな。競技に出るわけじゃない。まあ、体もなまってるだろうし、怪我しても良くないだろ?」


「でも、リハーサルの時は……!」


「そこは臨機応変に、だろ? 天使ちゃん周りの変更は、私も見てるし天使ちゃん自身でも対応できるぞ。碧は生徒たちの方を頼むな。きっとみんなも驚くだろうから」


 そんな他人事のように……。という言葉を飲み込み、私はわかりましたと頷いた。


 動き出した針は止まらない。踏み入れた運命からは逃れられない。もし私の選択が間違っていたとしても、過去を選択し直すことはできないのだ。


 今は、やれることをやるしかない。それがどんな結果になるとしても、選択した責任を負わなければならないのだから。






 八時四十分。会場の準備を確認するために、私たちは校舎からグラウンドへと向かった。


 昇降口を出てすぐに、グラウンドの騒がしさが分かるほどだ。騒ぎに気付いた教室の生徒たちも、またグラウンドに向かっていく。目を見合わせながら昇降口を出ていく生徒たちを横目に、私は息を整えて先輩たちの後を追った。


「碧っ!」


 少し朦朧としていた意識を、声が呼び覚ます。グラウンドへ向かう生徒たちの流れから浮いて、数人の女子生徒が私の方へ向かってきていた。


「あれ……どういうこと?」


「……私にも、わからないんだ」


 不安げに私を見つめたのは、一年四組のときの同級生で元天使ファンクラブ会員番号三番——今ではただの友人だが——である廓田怜亜(くるだれあ)だ。今はクラスも違うが、ファンクラブのつながりが無くなっても話す機会は多く、校内の情報にも詳しい。天使が帰ってこなかったときには副会長として推薦しようと考えていた。


「あの子、執行部を続けるつもり、ってことよね」


「それも、まだわからない。でも、多分そうなんだと思う」


「碧は……碧は、それでいいの? みんな、あの子に夢中になってる。今日の体育祭は、良いものにしようって碧が頑張ってきたのに、それを横から出て来て奪い取ってるんだよ! それで……碧はそれでいいの!?」


 怜亜はそう私の肩を強く掴んだ。


「生徒会長になるって、碧言ってたよね。今日までみんなのために動いてきたんでしょ!? それを、あんな簡単そうに……!」


「怜亜……今はそんなことを言っている場合じゃないよ。だからこそ、体育祭は楽しまないといけない。違うかい?」


 怜亜は私を揺するのを止めてうつむいた。その目にはうっすらと涙がにじんでいる。


「大丈夫。大丈夫だから、私を信じて」


 自分に言い聞かせるように呟いて、怜亜の背中を撫でた。


 授業開始のチャイムが鳴る。今日に限っては体育祭の予鈴だ。生徒たちはグラウンドで点呼を受ける。

 そうして、私にとって二度目の体育祭は始まりを告げる。





 九時のサイレンが鳴る。それでも消えないほどのざわめきに、グラウンドは包まれていた。


 入場門に集まった生徒たちは、司会席を気にするようにちらちらと落ち着きのない様子だ。


「入場始まるから、みんな静かに」


 生徒たちに注意をしながら、自分も気にしてしまいそうになる気持ちを抑えて、グラウンドの中央に視線を向ける。執行部の先輩たちが、号砲用のピストルを手に、ちょうどグラウンドに引かれたレーンの真ん中で合流したところだった。


「全体、進め!」


 良く晴れた空に、二発の号砲が響く。それを合図に、壇上から声が響く。凛とした声に、生徒たちも身を引き締め、行進を始めた。すべてのクラスを出発させてから、私は執行部席に戻った。全体で体操を行うまでは、生徒たちの前で待機になる。


 テントの背面を回りながら、朝礼台の壇上をちらりと見る。指定のジャージを着こんだ少女が毅然とした表情で、しかしどこか親しみやすい柔らかさを湛えて立っていた。


 私が気にしていては示しがつかないと何度も心に言い聞かせて、執行部のテントに戻ってくる。すでに他の入場を担当していた生徒は戻ってきていた。


「それでは、開会の言葉を、本校生徒会執行部副会長である愛ヶ崎天使が務めます」


 司会の言葉に、生徒たちは改めて目の前の生徒を理解する。壇上の生徒は、あの天使なのだと。


「気を付け、礼」


 開始前とは打って変わり、静寂の満ちた会場に、生徒たちの足が揃う音が響く。誰もが待っている、彼女の言葉を。


「みなさん、おはようございます」


 誰も返答しない。息をのむ音が聞こえるようだった。たっぷりと間をおいて天使は続ける。


「本日はお日柄も良く、絶好の体育祭日和ですね。保護者の皆様におかれましても、生徒たちの雄姿を見るのに、最適な環境であることと思います」


 当たり障りない挨拶ですら、なぜだか冷や汗が垂れてくる。何を言い出すのか予測ができない。生徒たちは皆真剣な目で壇上を見ている。


「私もみなさんがチームのため、仲間たちのために、汗を流し競い合う姿を存分に拝見いたします。一年生、二年生、三年生、どの学年もそれぞれに奮起し、この体育祭を良いものにしようと高め合ってきたと聞きました。今この場で皆さんのお顔を見て、それが本当のことだと確信しています。皆さんが今日一日の中で、それぞれの目標を心に思い、努力し、協調し、悔いのない結果を残せることを願っています。皆さんの活躍を、期待しています。生徒会執行部副会長、愛ヶ崎天使」


「気を付け、礼」


 静かな会場に天使が背を向ける。その瞬間、思わず目を瞑りたくなるほどの拍手が浴びせられた。それは歓待の拍手だ。天使が帰ってきたことを喜ぶ轟音だった。けれど彼女は、振り返ることなく、落ち着いた笑みのまま執行部席へと帰ってきた。


「続いて、選手宣誓。代表の方は、前に出てきてください」




 どうやら、開会式以降の司会進行はまるごと天使に交代になるらしい。綱引きの準備をしながら、私は執行部席を眺めていた。司会ならば、台本を読んでいれば流れは分かるし、出場しなくても参加している形に見えるだろう。


 縄を弛みすぎないように整え、審判の位置に立って足で押さえる。判定用の旗を拾おうとしたとき、入場してきた生徒の声が陽気な音楽の隙間から聞こえてきた。


「なあ、司会って、あの天使ちゃん先輩じゃね?」


「え、まじか……てことはさ、頑張って勝ったら俺たちの方に注目してくれたりして」


「いや~さすがに……でも圧勝したらアピールできるかもな」


「うわ~、やってみるか。正直やる気なかったけど、それなら負けられないよな~」


 盗み聞きがばれないよう、うつむいて体勢を戻す。旗をそっと前に出し、開始準備の姿勢を取った。


 やる気が出た。楽しみになってきた。それは執行部として喜ぶべき声だ。けれど、それは天使によって起こったことなのか? 私の準備では、行動では足りなかったとでも言うのか?


 太鼓の音に足を離すと、両クラスが綱を引く。リハーサルよりも真剣な、力強い戦いが見える。


「綱引きの第一試合が始まりました。各クラス、どこも良い勝負ですね。正面二列目、三年二組はかなり優勢か——三列目、一年四組と六組。こちらは互いに譲りません」


 去年はもっと軽く勝負がついていたような気がするが、白熱した勝負に実況が加わり、さらに生徒たちはやる気を出しているようだった。次第に運動部の多いクラスが持久力で差を見せていく。戦いは無限に続かず、決着がつく。私はその結果を無慈悲に示すだけだ。


 綱引きが終わり、玉入れの準備をしてテントに戻ると、グラウンドの方から大きな雄叫びが聞こえてきた。水分補給をしながら目を向けると、どこかのクラスが円陣を組んでいるようだった。どこか覚えのある光景に少し暖かい気持ちになる。


「それでは、各クラスカウントをお願いします。会場の皆様もご一緒に」


 天使が数字を言うと、集計担当の生徒が籠から球を高く上げる。追従するように生徒たちが、よく聞くとテントの保護者や見ている生徒たちさえも、数を復唱していた。


 会場の熱気に着いて行けず、執行部の割り当てられた席で休憩しながら体育祭のしおりを読む。少なくとも、玉入れが終わるまでは急ぐ仕事はない。


 しおりから顔を上げ、ふと司会をこなす天使の横顔を見た。彼女は笑顔で、例年以上に多い玉入れの結果をカウントしている。けれどその横顔は、底の知れない冷たさに張り付けられているような、そんな風に私には見えた。


 午前最後の部である部活対抗リレーでは、天使の実況の影響か、バトンを渡し損ねた陸上部が大きく遅れてしまい、野球部が単独トップに躍り出た。しかし、ゴール前で側転し観客席に手を振っていたところ、後ろから迫っていたサッカー部に抜かされ、追いついてきた陸上部にもハナ先で抜かされてしまっていた。


 バトンを回収し、生徒たちが退場した後に備品テントへ搬送する。生徒たちは皆、昼休憩のアナウンスが流れるのを今か今かと待っている。


「それでは、ただいまから昼休憩に入りたいと思います。競技再開は——」


 天使のアナウンスで、律儀にテントに着席していた生徒たちは各々の方向へと散開していった。家族の元へ行く生徒、友人と教室に向かう生徒、テントの中で昼食を食べ始める生徒。様々な生徒がいるが、やはり一部の生徒は天使の元へとやってこようとしているようだった。


「よし、私たちも休憩入るぞ!」


 三峰先輩の声に顔を上げる。次の種目の準備も大方終わり、執行部も休憩に入れる。


「あ、藍虎さん。仕事終わった? 迷惑じゃなければ、少し時間もらえないかな」


 執行部のテントで水分補給していると、クラス席からやってきていた有飼(あるかい)くんに声をかけられた。疲れたような様子の田尾(たび)と、娘のように彼の腰元で肩を支えられた留木(とどこ)さんも一緒だ。


「ああ、大丈夫だけど……」


 有飼くんの視線が、空いた司会者席に向けられる。


「愛ヶ崎さんのこと、なんだけどさ」


()()()、クラスの方には来てくれないのか?」


 有飼くんの言葉を割って、留木さんが背伸びをして聞いた。


「……どうかな。競技には出ないつもりみたいだし、行く理由が無いのかもしれないね」


「つってもよ。昼休憩なんだし、顔出してくれてもいいんじゃねえか?」


「それもそうだけど……」


 歯切れの悪い言葉を返していると、クラスのテントの方から鳩場(はとば)さんが歩いてくるのが見えた。テントが近いからか、針瀬(はりせ)さんと話しているようだった。


「三人とも、あんまり藍虎さんに迷惑かけたらだめよ。忙しいんだから」


「いや、聞いて来いっつったのはお前だろ」


「そうだったかしら。それより、藍虎さんは何か知っていたの? 愛ヶ崎さんのこと」


 田尾の言葉を軽く流して、鳩場さんは私に視線を向けた。その瞳はどちらかと言えば心配するような愁いを帯びていた。


「いや、ごめん。私も今日初めて知ったんだ」


「そうなのか!?」


「まあ、昨日あんな話してたわけだし、そうなんじゃないかとは思ったけど。実際に聞いたらやっぱり驚きだね。制度上は問題ないんだろうけど、まさか彼女が来るだなんて、どんな芸能人よりもびっくりだよ」


「……もうどこかに行ってしまったのね。まるで逃げるみたい」


「藍虎、あいつがどこ行ったか分かるか?」田尾が聞く。


「……ごめん。分からない。何も分からないんだ」


 私は自分に向けられる視線が痛くて、手で顔を隠してうつむいた。


「大丈夫よ。多分だけど、彼女は大丈夫。きっとあの子なりの考えがあるんだと思う……けど、それでも教えてほしいとは思っちゃうわよね」


 針瀬さんは苦笑して肩をすくめる。


「探しに行こうぜ! なぁんか今日の愛ヶ崎は、スカしてる感じがするんだよ」


「はいはい、それで当てでもあるの?」


「ねえけどよ……」


「……私も手伝おうか? 私も二年一組だしさ」


「藍虎ぁ!」


 田尾が馴れ馴れしくサムズアップした拳を近づけてくる。それは無視して水筒を持ってテントを出た。


「乗りかけた船だし、私も一緒に探すよ。これでも、あの子を探すのは散々経験してるからさ」


「まあ、暇つぶし程度にね。それで、見つけたらどうするつもり?」


 鳩場さんの言葉に、早歩きの田尾も振り返って唸った。


「うーん、まあちょっと話して、お昼一緒に食べるくらいでいいんじゃねえか? 別に、怒りたいとかじゃないしな」


「私もてんちと話したい!」


「うふふ、そうね。私も今日くらいはお話したい気分かもね」


 談笑しながら私たちは校舎の方へと向かった。そうして、私たちの天使捜索が始まったのだった。






 四階の窓から、アリのように小さく見える生徒たちを眺めていた天使は、大きく伸びをした。ガラガラと扉の音に振り返ると、ジャージの裾で手を拭きながら、瑞本(みずもと)が入ってくるところだった。


「廊下にはまだ誰もいなかったよ。それにしても、君がまたここに来てくれるとは感激だね」


「ここは誰も来ないですからね。とはいえ、もう一〇分もすれば、碧ちゃんか委員長か……まぁ誰かが来ると思いますよ」


「そうしたら、君はどこかへ飛び立つのかい? まったく、敬語が使えるようになったと思えば、大人びてしまって嫌なものだね」


「先輩がそうしてほしいなら、タメ口で話しましょうか?」


「結構だ。やる気も無いのにからかうのは止めてくれたまえ」


 瑞本はうんざりしたように、机の上に広げられた実験器具を置き換えた。静かな理科室にガラスの底面が机に当たる音が響く。


「それにしても、どんな風の吹きまわしだい? 確か、君は休学中なんだろう。それが体育祭当日になって登校再開だなんて」


「本当はもう少し早くから来るつもりだったんですよ。でもワンコ先輩が、当日の方が面白いからって。ほんと、人の休学を何だと思ってるのか……」


「君に言われるようなら、アイツも大概だね。まあ、直属の先輩なんだから大切にしたまえよ。もちろん、私のこともね」


「後進育成をちゃんとしてから言ってほしいですね。もう受験も終わったんですよね?」


「……誰に聞いたんだい? 情報が早いね。それはそれでやることが多いのさ。君だってそうだろう?」


 天使は返事の代わりに薄く笑うと、理科室の入り口に向かって歩き出した。


「多くたって、やるべきことをやるだけですよ」


「……そうかい」


 理科室からそっと出ていこうとした天使の背を、瑞本が呼び止める。


「さっきは嫌なものだと思ったが、私は案外、今の君も嫌いではないみたいだ」


 天使は振り返って、当たり障りのない笑みを浮かべる。


()()()()()()()()、それ」


 瑞本は鼻で笑って実験の準備に意識を戻した。足音は廊下を遠ざかっていった。


 ちょうど瑞本が攪拌した液を移し替えようとしていたとき、焦るような足音が廊下を近づいてくる。走ってはいないが、歩いているというほど遅くも無かった。


「失礼、しますっ!」


 やはり急いでいたのだろう。少し息を切らして、生徒会の少女は理科室の扉を開く。


「探し人ならいないよ。入れ違い……と言ってもかなり前だがね」


「……そうですか」


 少女の視線の先の針は間もなく頂点にさしかかる。


「失礼しました」


 逸るようにまた早歩きで少女は去っていった。


「午後の部くらいなら、見に行ってみるのもいいか……なんて、私が思うことがあるとはね」


 一人の理科室で、瑞本が静かに笑った。






「……()()()()()()?」


 飄々とした顔で司会の打ち合わせをしながら、ちらりと視線を向けた天使に、藍虎は言葉を失った。かけるべき言葉はどれも適切ではないように思えた。


「はぁ……はぁ……いや、何でもない」


 時間ギリギリにグラウンドに戻ってきた私は、結局天使を見つけられず、息を切らしたまま母に呼び止められ、無理やりに昼食をとったのだった。少し胃が重たい。


「ならいいんだけどね」


 天使は興味を失くしたように打ち合わせに戻った。記憶の中の彼女より控えめな愛想笑いの声が聞こえる。


 次の種目の招集のために入退場門に向かっていると、息の上がった生徒たちが校舎の方からやってくるのが見えた。


「おい、あれ司会席にいんじゃねーか!」


「はぁ……しんどい……」


「まあ、途中でご飯食べて正解だったかもね」


「ほら、田尾の意見は間違ってたわけね」


 二年一組のクラスメイト達は、司会席の天使を確認すると歩調を緩めた。


「あっ、碧だ! 碧が見つけたのか?」


「いや、私もダメだったよ。今帰ってきたらあの通りさ」


 近づいてきた留木さんに問われ、私は肩を落としてみせる。


「ごめん、全然力になれなくて……」


「針瀬さんのせいじゃないわよ。田尾のせいだから。それに、元から見つけられる気もしてなかったもの」


「にしても、どこにもいなかったよなぁ」


「今日だけで校内の地図が作れそうな勢いだったよ」


 苦労を語り合っていると、放送が流れ出す。


「それでは、これより競技を再開します。午後の部、最初の種目は、一年生による————」


 その放送を合図に、私たちはそれぞれの場所へと別れていった。





 応援合戦がつつがなく進行し、種目は学年対抗リレーへと移る。応援合戦の直後であるために、今年は昨年とは異なり二年生が最初となっている。


「それじゃあ、お互い頑張ろうね」


「ええ、一位で回してほしいものだけれどね」


 藍虎と軽く笑みを交わした鳩場は、列の最後尾に戻った。隣には商業科のアンカーがむすっとした表情で出発を待っていた。


 鳩場は、自分よりも背の高く足も長い彼女を一瞥し、薄くほほ笑む。天使がいないからって、勝てると思わないでほしいわね、と。


 例年、学年対抗リレーは普通科の勝率が高い。単純な走力の問題が大きいが、その理由は商業科の運動部比率によるものだ。商業科のほとんどの生徒は文化部であり、運動とは無縁の生徒ばかりである。そのためリレーを編成するとなると、必ず一人は走力に自信のない生徒を入れることになるのだ。


 しかし、二年生の学年リレーに関しては、他の学年と比べて商業科の勝率が高い。これは、普通科と異なり、二年次への進級でクラスが変わらない商業科の紐帯が原因と考えられるだろう。


 そして、そんな結束を深めた商業科には、昨年度二着の成績を収めた商業科五組が存在している。文武両道を体現した五組は、文化祭と体育祭の両方で高い能力を発揮してきた。彼らの成長の影には、かつて合唱コンクールにおいて、愛ヶ崎天使を擁する一年二組に惜敗した経験があった。


「あの子、出ないんだね」


 ぼそりと隣の少女がつぶやいた。


「ええ、楽勝すぎるもの。少しはひりひりしたいじゃない?」


 鳩場は目を合わせず、ただ不敵に微笑んだ。


 入場が始まり、並んだ生徒たちは駆け足を始めた。笛の音と共に列が進み始める。


 グラウンドを半周回って、円周内に侵入する。真ん中を突っ切って、テントを正面に見据えて列は停止した。


 鳩場は静かに正面の司会者席を見つめる。平然とした顔で登校し、司会を務める少女に一泡くらいは吹かし返してやりたい。あなたがいなくても、別に大丈夫よと高笑いしてやろう。


「改めまして、司会進行、そして実況をさせていただきます。生徒会執行部二年、愛ヶ崎天使です。ただいまからのリレー種目に際しまして、解説をお呼びしております。橋屋(はしや)くん、どうぞ」


「ご紹介にあずかった、橋屋目高(めだか)だ。よろしく」


 第一走者の生徒たちがレーンを決めている間、実況席では解説が行われている。


「橋屋くんは、新聞部の部長ということで、二年生の注目クラスは何組なのでしょうか」


「当然、昨年度二着だった五組だな。エースであるバレー部の襟宮(えりみや)を筆頭に、運動部の生徒が多い。直近の件で足の早い生徒が何人か欠席しているが、それでも一位候補と言っても差し支えないだろう」


「なるほど。普通科ではどうでしょう」


「そうだな、まあ二組が少し抜けているくらいか。()()()()()()()()——藍虎碧と、クラス委員長も務める鳩場冠凛(かりん)。両名は昨年度入賞こそ無かったが、走力はかなり高い。対して差の出ない男子生徒と比べて、女子の走力差は大きいからな」


 レーンについていた生徒たちから、うるせー!とヤジが飛ぶ。橋屋は軽く笑って諫めた。


「そうですね。冷たい虎の跳梁に期待が高まります」


 少し恥ずかしい二つ名を繰り返した天使に、会場が苦笑して手を叩く。当の藍虎は、集中が乱れないように放送を聞き流していた。


「それでは、二年生の学年対抗リレーが始まります」


 天使の言葉に、会場がしんと静まる。実行委員の生徒の合図とともに、第一走者は指定の位置につき、ピストルの音と共に走り出した。



 藍虎はピストルの音に、静かに緊張をほぐした。


 藍虎の走順は二番目。まだ差が大きく着く段階ではないが、その後の展開を大きく左右する役目である。連日の準備による疲労や、不規則な生活を考えたうえでの配置だった。


 冷静にレース展開を俯瞰する。現在は先頭集団、その三位くらいの位置につけている。バトンの受け渡しの差異が大きく影響する展開だ。


 深く息を吐いて、指示に従いレーンに入る。三位のレーンは、むしろ抜かすには好都合だ。


 わずかに腰を落とし、藍虎は地面を蹴った。



「現在トップは二組! しかし、すぐ後ろを五組が迫っています! 他のクラスもまだまだ一位を目指せる範囲にいると言えるでしょう!」


 自分のクラスの優勢も他人事のように司会が囃し立てる。観客の生徒と保護者達も、白熱したレースに熱中していた。


 見る側は呑気で良いものね、と鳩場は心の中でため息をついた。毒づいてみても自分が背負う重圧は変わらない。


 二組は一位を走っている。とはいえ、その距離も徐々に詰められている状況だ。私が悪役なら、主人公に抜かされてしまうだろう。


 アンカーの待機列から誰よりも早く案内される。間髪入れずに先ほどの少女が後ろに並んだ。交わす言葉は、今はない。


 最終コーナーを曲がってきた走者と目が合う。柄にもなく熱い意志を感じて笑みがこぼれる。勝ってやるわよ。何としてでもね。


 不安など一切なく踏み出す。運命がつながっていくように、必然バトンが手に吸い寄せられていく。しっかりと握る。思いのこもったバトンは、しかし等身大に軽い。


 会場は熱気に包まれている。応援の声は混ざり合って聞こえてこない。自分が応援されているのか、後ろを走る挑戦者が応援されているのか、はっきりとは分からない。そのことが妙に不安を煽りたてる。


 これが、天使がいないということ。どれだけ応援の声があっても、実力への自信があっても、そこに確証が持てなくなる。必ず自分たちが勝つのだという無限大の追い風は吹いてこない。


 だけど、勝ってみせる。あなたがいなくても構わないのだと、強がりでも示してみせる。クラスのためなんて、自分が思うとは驚きだけれど、今この瞬間だけは泥臭い絆なんてものを感じていた。


 半周回って直線に入る。まだ一位だ。しかし足音はすぐそこに迫っている。応援の声も、接戦を望むように甲高く叫ばれている。


 学校の狭いトラックでは、抜かす側が圧倒的に不利だ。まして運動靴では、実力者であっても本調子は出しづらいだろう。それが今の動悸を抑えられる理由にはならないが。


 足音はもう聞こえない。自分の鼓動すら遠くに聞こえる。


 視界の隅に影が差す。後ろから大きな体が迫ってくる。その存在に意識を割けば、たちまちに飲み込まれそうで、気を紛らわせるために唇を噛んだ。


 呼吸は限界が近い。足はまだ動きそうだ。腕の振りもまだ気にする余裕がある。


 だが、もうそこに彼女がいる————。


 最終カーブを曲がり、直線に入る。


 顔を横に向けなくても、すぐ隣に彼女がいることが分かってしまう。自分が一位なのか二位なのかの自信が無い。きっとそれは観客も同じだろう。私の一歩が先か、彼女の一歩が先か。少なくとも、後二十メートルもあれば、確実に私の負けだ。


 けれど、この目の前の白線は、この一位の景色だけは、あの子以外には譲れない!


 精一杯にトルソーを突き出し、そのままレーンに倒れこむ。地面に倒れ伏せる前に誰かに抱き支えられた。


「——大丈夫かい?」


 自分も息が絶え絶えのくせに、そのクラスメイトは私を支えてトラックの中へ歩き出す。


「……ええ、ありがとう」


 私も少しだけ強がって笑う。そうだ、あの子が見ているはずだ。


「ただいまのレース、一着は――二組! 僅差で二着が五組となりました!続いて三着は——」


 高らかな司会の声、自分のクラスが勝ったにしては淡白にも聞こえる声。しかし、彼女のやけに冷めた目は、確かにこちらを見つめていた。




「お疲れ様、碧ちゃん」


 入退場門から戻ってきた私に、天使はそう笑う。


「うん、勝ってきたよ」


 私の言葉には軽い笑みを浮かべて彼女は背を向けた。あの頃の天使のようで、少しだけ違う。愛想笑いが上手になった気がする。もしかすると、今まで気が付かなかっただけで、ずっと彼女は心から笑っていたわけではなかったのかもしれないが。


 続く一年生、三年生のリレーも、白熱した戦いが繰り広げられた。いつ声をかけたのか、リレーに出場しない神繰(かぐり)さんと三峰先輩に、それぞれの学年の優勝候補を尋ね、解説までこなしていた。


 一年生のリレーは、三々百目(さざどめ)さんがアンカーを務めた二組。三年生のリレーは、ほとんどエキシビションのような展開となり、各クラスが失格にならない範囲でふざけあった後、五組が一着を譲り受けていた。


 私はテントでしばらく休んでいるつもりだったが、三年生の楽しげな様子に、より具体的に言えば、丸背先輩が必死に走る様子に、感化されて思わず声を出して応援していた。


 リレーが終わると、半数近くの生徒が靴を脱ぎ始める。続く騎馬戦と、二年生は組体操も控えている。私は騎馬戦に出場する予定は無かったため、組体操のためにテントの中で待機することにした。


 太鼓の音に司会席を見ると、天使はすでにいなかった。椅子から少し立ち上がってグラウンドの方を見ると、どれだけ仕事を引き受けたのか、天使がピンと背筋を張って太鼓をたたいていた。


 天使が太鼓の調子を速めると、トラック内の両端に裸足の生徒たちが入場してくる。


 今年度の騎馬戦は、各クラスの得点とは独立したチーム戦だ。普通科と商業科に分かれた対抗戦となり、団体戦と個人戦の二部制となっている。勝ち負けがこの種目内で完結する分、生徒たちは負けられないと闘志に燃えている。


 太鼓の音が響き渡る。腹の底を震わせる振動は、進行の言葉を言語以上に雄弁に語る。


 それぞれの陣営が騎馬を組み、太鼓に合わせてにらみ合ったままエリア内をぐるぐると回る。半周回り、ひときわ強い太鼓の音で戦いは始まる。


 例年ならば、手と声と汗の入り混じる争いが始まるところだったが、今年は様相が異なっていた。それぞれの陣営は隊列を広く取り正面からぶつかり合う。個人戦のようで、脱落させた騎馬から無勢に変わっていく。


 両陣営の最後尾に位置していた騎馬はゆっくりと進み、目の前に集中していた敵騎馬を難なく撃破しながら敵将と相まみえる。


「怖い顔しちゃって、おチビのワンコちゃんが騎馬戦で勝てるとでも?」


「一年で泣きべそかいて、リレーから逃げた()()()に負けるとは思えないけどな」


 お互いに牽制し合いながら、大将騎はじりじりと近づく。そもそも大将騎というものはエントリー用紙には存在していないが、楠根(くすね)先輩と三峰先輩の確執と強さをチームメイトたちが盛り上げ、タイマンの場を用意したのだった。二人のにらみ合いを、他の騎馬は静かに見守っている。


 静かに近づいた二騎は、正面から手を組みあった。遠くから見れば、騎馬の高さの大きい楠根先輩の方が優勢に見える。男子騎馬故か、十センチは高い。しかし、腕力と俊敏性で見れば、三峰先輩に分がある様だった。いつも通りのようにも見えるが、どこか三峰先輩は自信気に見える。


 高所からの体重で押し切ろうとする楠根先輩を、巧みに受け流しじわじわと手が帽子に伸びていく。体が触れ合いそうなほど近くまで寄っては、手が届く範囲で後退し、また近づいて攻勢に出る。戦いは均衡状態にあった。


「上げますよ! いち、にの、さん————!」


 その時、緊張した空気を裂くようにかけ声が響く。誰よりも高い楠根先輩の騎馬の真横に現れた騎馬が、騎手を持ち上げ何とか帽子を掠めとる。


「なんっ————」


「これは団体戦だぞ、()()()?」


 高い騎馬から見下す楠根先輩よりも邪悪な顔で三峰先輩は笑う。力の抜けた楠根先輩が倒れないよう、手を持ったまま三峰先輩は勝ち鬨を上げた。気が付けば他の騎馬は残っていなかった。


 帽子の残った騎馬がゆっくりと凱旋していく。最後に残ったのは、三峰先輩の騎馬と、一見弱そうな丸背先輩の騎馬だ。騎馬の先頭には田尾が構え、その後ろは体格の細い生徒——記憶では片方は文芸部の遠野(とおの)さんだ——で構成されていた。おそらく、相手を油断させることで最後まで生き残っていたのだろう。何というか、三峰先輩らしい憎い戦法だ。


 普通科の勝利に、テントに残っている生徒たちも歓声を上げる。商業科の生徒たちも、落胆するわけでもなく次の個人戦に向けて喝を飛ばしていた。


 個人戦はそれぞれの陣営が指定した順番の勝ち抜き戦だ。負けた騎馬が次の騎馬と変わるため、勝利した騎馬は徐々に疲弊していく形となる。


 太鼓の音で厳かに個人戦が始まる。両陣営互いに勝っては負けてを繰り返し、騎馬が変わっていく。先ほどは最後まで残っていた丸背先輩は、タイマンではあえなく負けてしまった。


 先に大将が出たのは普通科だ。中堅に当たる商業科二年生の騎馬が三連勝を挙げていた。


 三峰先輩の騎馬は連勝中の騎馬と続く副将騎を難なく撃破する。目にも止まらない速さで疲労すら溜める様子が無い。


「まさか、ワンコちゃんが卑怯な手を使うとは思ってませんでしたぁ。個人戦は正々堂々戦いましょうね?」


 不敵に笑いながら、楠根先輩は騎馬に乗る。その高さは三峰先輩の腕でぎりぎり届くかどうかというほどだ。圧倒的な高低差と安定した楠根先輩の騎馬にも、三峰先輩は表情を崩さない。何か秘策でもあるのだろうか。


 天使の太鼓で両騎はにらみ合う。行司となる実行委員が下がり、もう一度響いた太鼓で、二人は取り組みあった。


 決着は一瞬のことだった。赤子の手を捻るように、組み合った手を支えに三峰先輩の体は跳ね上がり、獣のような俊敏さで楠根先輩の帽子を奪い取った。腕の隙間に入り込んだ体に、楠根先輩はなすすべもなかった。


「……は?」


 楠根先輩の騎馬がゆっくりと下りていく。騎馬はまだ戦いが終わったことに気づいていないようだった。終わりを告げる太鼓の音で騎手を見上げ、それから確認するように判定の旗を振り向く。


「油断しただろ? さっきは勝てそうだったからさ」


 にやりと笑って帽子を投げ渡した三峰先輩を、楠根先輩は悔しがるように歯を噛みしめて睨みつける。恨み言を吐こうとした彼女を、騎馬の生徒たちが宥めながら陣営に戻っていった。


 会場が歓声に包まれる。白熱した戦いでなかった分、その勝利は歓喜を呼んだ。熱狂の中、天使の太鼓の音で生徒たちは退場していった。





 騎馬戦の最中、気が気でなかったが、嫌な予感ほど——この場合は、信じられない期待ともいえる——よく当たるものだ。私が組体操の位置に着き、一人組の技を始めたとき、天使は朝礼台の前で、号令の太鼓を叩いていた。その間隔は、練習よりも丁寧に正確に、心の準備がちょうどできたタイミングを図るように鳴らされる気がした。


 ピラミッドを終え、ゆっくりと二年生が退場すると、入れ違いで三年生が入場してくる。フォークダンスが始まると、天使は太鼓を搬出してから司会席に戻った。



 それから、体育祭はようやく閉会式を迎えることになる。司会は変わらず天使が務めた。心なしか表彰されたクラスは、去年よりも嬉しそうに歓声を上げていたように思える。二組はそれなりに頑張っていたはずだが、それでも表彰には至らなかった。


 各学年の表彰を終えると、三峰先輩が閉会の言葉を述べるために登壇する。昨年は生徒側で、亜熊先輩が話す姿を見ていたことを思い出した。あの頃は、ただ天使を傍で支えたいと思い、自分ならばそれが可能だという傲慢な期待で満ちていた。


 驕らないと決めた時点で、もうどうしようもないほど私は傲慢だったのだ。


 司会席の天使にこっそり手を振る生徒へ、天使は柔らかに微笑み軽く首を傾げた。


 彼女を侮っていた。自分だけのものであると思いたくて、小さな期待に閉じ込めようとしていた。私はなんて愚かで醜い人間なのだろう。


 校長先生が挨拶をしたマイクを、三峰先輩が調整した。軽く音量の確認をして、閉会の辞を述べる。校長先生が冷ました会場は、先輩の言葉に集中するにはむしろいい環境だ。


「え~、まずはみんなお疲れ様だぞ。今年の体育祭は、例年とは違った形で進行した箇所も多かったから、二年生と三年生はちょっと変な感じだったか? 今日の体育祭がこうして無事に閉会式を迎えられたのも、みんなの協力のおかげだ。それになにより、みんなが楽しんで競技に参加できていたことが私は嬉しいぞ。みんな、今日は楽しかったか?」


 三峰先輩が生徒たちを見渡すと、堰を切ったように拍手が返される。三年生の方からは、軽いヤジの声も聞こえてきた。


「それは良かったぞ。この一年、執行部としてもたくさんの仕事があって、今日はその集大成みたいな行事だ。みんなの笑顔以上の報酬はないな。私が生徒会長になってから、まあ我ながら良い生徒会長だったと思うけどな、心配をかけるようなこともあったと思う」


 商業科の生徒たちから、そうだそうだとヤジが飛ぶ。三峰先輩はすまんすまんと苦笑した。


「それでも今日、みんなはここで笑って体育祭を作り上げたんだぞ。それは本当にすごいことだと思うし、執行部や実行委員だけの力じゃない。私たちは次の代に移っていくが、私には何の心配も無いぞ。こんなにも素晴らしい体育祭を作り上げた生徒たちなんだからな! 名残惜しいが、みんなに、そして応援に来ていただいた保護者の皆さん、来賓の方々、今日の体育祭のために尽力したすべてに感謝を伝えて、閉会の辞とするぞ。ありがとうございました」


 会長が深く礼をすると、私は拍手を送った。共鳴するように会場全体から拍手が轟く。鳴り止まない拍手を背に、三峰先輩は降壇した。


「これを持ちまして台典商業高校体育祭を閉会します。生徒の皆さんは解散してください」


 天使も最後のアナウンスを終える。後は会場の撤収を残すのみだ。執行部はクラスの集合よりも先に、会場の片づけを行う。基本的にホームルーム代わりの担任の挨拶には間に合わないことは、去年実行委員を手伝ったことで知っていた。とはいえ、基本的にどのクラスも片付けが終わるまでは、打ち上げの話をしたり、単純に休憩したりと教室でたむろしているため、置いていかれるということもない。


「片付け、手伝うわよ」


 椅子に置いていた資料をまとめていると、声をかけられる。振り向くと、鳩場さんが腕を組んで立っていた。


初地(ういち)先生が、生徒に気を遣ってホームルームはやらないって言ってたわ。私たち、打ち上げはバラバラなのにね」


 嘲るような、しかしどこか寂しそうな声で彼女は続けた。


「打ち上げ、田尾あたりが仕切っていないのかい?」


「あら、田尾はそういうところ、変に気を遣うのよ?それに多分————」


「——碧っ! ちょっと来て!」


 鳩場さんの言葉をさえぎって、撤収中の机の向こうから怜亜が私を呼んだ。


「どうかしたのかい?」


 尋ねながら彼女の向こうを覗き見ると、グラウンドで生徒たちがなにやら集まっている。片付けの作業ではなさそうだ。よく見ると、少し困り顔で天使が生徒たちに手を引かれている。


「二年の商業科の子たちが、騎馬戦のエキシビションをしたいって言ってるの。それで碧と天使ちゃんを戦わせたいって」


「私は別に構わないけど、愛ヶ崎さんは————」


 彼女はきっと、争いというものを避けたいはずだ。遊びではあるが、騎馬戦は身体接触もあり怪我をしかねない競技でもある。天使の中に眠っている事件のトラウマを呼び起こしかねないだろう。


「ああ、碧ちゃん。騎馬戦だってさ、どうする?」


「どうすると言っても……愛ヶ崎さんは、()()なの?」


 私が聞くと、天使は不思議そうな顔で首を傾げた。


「高いところは大丈夫だけど……もしかして、碧ちゃんは苦手だった?」


「いや、それは別に————」


 見当違いの質問に、私は言葉に詰まる。囃し立てるように周りには生徒たちが集まってきていた。


「次の執行部争いか~? 俺は藍虎にかけるぞ!」


「私は天使ちゃん!」


 生徒たちは私たちを取り囲み、どちらが勝つかを予想し始めていた。今更、やらないと逃げることはできなさそうだ。


「分かった、やるよ。でも、騎馬も決めないとだ。五分後にまたここでいいかい?」


「うん、分かった。負けないからねっ?」


 天使は笑って背を向けた。どこか寂しさが胸に打ち寄せて、夕焼け始めた涼しい空気に溶けていく。


 天使に背を向けて、どうやら自分にベットした生徒たちの方に歩み寄る。見たところ、普通科の生徒たちが応援してくれているらしい。


「分かってるか、藍虎? これは普通科対商業科の代理戦争だからな。しっかり防衛してくれよ!」


「碧、私、騎馬やろうか?」


「いや、ここは俺たちがやるぜ」


 怜亜が気合たっぷりに私を見たが、周りの男子生徒がそれを制す。台典商高の騎馬戦は、男女混合で組まれることも多い。男子騎馬で戦っても、文句を言われることはないだろう。


「こちらが普通科だけということなら、私が騎馬をしましょうか?」


 ゆったりとした声に視線を向けると、盛り上がりにつられてきたのか、三々百目さんがやって来ていた。


「三々百目さん……ああ、お願いするよ。でも、いいのかい?」


 彼女のクラスメイト達は近くにはいないようだった。いきなり初対面の先輩と騎馬を組ませていいものかと逡巡する。


「先輩方がよろしいのでしたら、私は構いません。それに、あちらは(ねい)先輩が騎馬をやるようなので、負けていられません」


 珍しく意地を張ったような口調の三々百目さんに、人間味を感じて少しホッとする。


「そういうことならお願いするよ」


 約束の時間となり、私たちは天使の騎馬と向かい合う。向かいの三人はそれぞれ思い思いの方向に気を散らしていた。


「アンタ、絶対勝ちなさいよ? 寧が騎馬をしてあげてるんだからね」


 天使の騎馬は、楠根先輩と二年五組の襟宮さん。それに一年の梶鳴(かじなり)さんのようだ。三人とも女子生徒の中では身長が高い方だが、三々百目さんや男子生徒と比べればそれほどではない。騎馬の強靭さで言えばこちらに分があるだろう。


「ええと、善処はしますよ」


 天使は苦笑しながら騎乗した。記憶では彼女が騎馬戦に参加したことはなかったはずだが、その動きはどこか手馴れている。中学校の時に経験したのだろうか。


 私は騎馬の手をなんとか跨いで騎乗した。先ほどは高いところは大丈夫だと言ったが、実際に乗ってみると思ったよりも高く、怖いというよりも昂る気持ちが強く感じられる。相手よりも高い分、下を見ることになり嫌でも高さは意識してしまう。


「よーし、それじゃあ開始っ!」


 いつのまにか現れた三峰先輩が行司を務め、互いの騎馬は近づいていく。


 天使は笑うでもなく静かに手をこちらに伸ばした。冷たい表情に、私は死が迫ってくるような感覚だった。動かなければ取られることは分かっているが、体が動かない。


 意識よりも先に体は動いてくれた。彼女の手を掴み、攻撃を阻止する。執行部に入ったころの私なら、これだけで感激して何もできなかっただろうが、今の私はこのくらいのことで取り乱したりはしない。


 高さを生かし、体重をかけながら帽子を狙う。伸ばした手は巧みに方向をそらされ、彼女の顔の横をすり抜けていく。


 両手のバランスを取りながら、安定したタイミングで帽子を狙う。攻戦一方とでもいう状況だが、一向に決め手は来ない。


 不意に天使が手を引き、私はバランスを崩して彼女の方に倒れそうになる。つながれたままの手でバランスを取り、何とか彼女の方に崩れ落ちずに済む。抱き合うような形で彼女の顔が見える。


 彼女は薄く笑っていた。その表情に私は背筋が凍る。腕を戻して再び攻撃を仕掛けるが、その悪寒は消えない。


 ——掌握されている。私の動きは彼女に読まれ、遊ばれているのだ。


 人形遊びをするように、彼女は楽しそうに私の攻撃を受け流す。それは接戦に見えているようで、周りの生徒たちから期待と興奮の声が聞こえてくる。


 攻撃をする一瞬、天使がようやく私の目を見た。彼女と目が合う。冷たく寂しそうな瞳に射抜かれ、私の腕はゆっくりと彼女の帽子に吸い寄せられる。違う、私の意思じゃない————。


 天使の帽子が地面に落ち、私たちはゆっくりと体勢を戻して手を離した。


「ちょっと、もう一戦よ! もう一戦! 寧に勝たせなさいよ!」


「次勝っても負け越してるぞ」


 にやにやと笑う三峰先輩を、楠根先輩が苛立ちながら睨みつけた。


「あ~、負けちゃったか~」


 天使はわざとらしく額に手を当て悔しがった。


「でも惜しかったよ、天使先輩。アタシも来年やろっかな~、騎馬戦」


「終わったら帰っていい? クラスの打ち上げあるから」


「うんっ、協力してくれてありがとう!」


 襟宮さんは軽くお辞儀すると、淡白に校舎の方へと帰っていった。


 私も騎馬から降りて、天使と向かい合う。


「碧ちゃん、力強いんだね」


「それほどでも、ないよ」


 私が代理の勝利をもたらした普通科の生徒たちは、喜びを分かち合って盛り上がっている。商業科の生徒たちは残念そうに肩をすくめていた。


 すっかり暗くなったグラウンド。夕闇の中で一層濃い影が天使の顔に落ちた。


 天使は私を見つめて、笑わない。ただ憐れむような、飲み込まれそうな暗い目で私を捉えた。


 鼓動が止まりそうだ。天敵に見つかった小動物のような気持ちだった。


 再会して私に抱き着いて来た時の違和感。彼女なら何をしてもおかしくはないと思っているはずなのに、それでも自分を疑いたくなる漠然とした恐怖。


 天使は変わってしまった。私はどうすればいいのだろう。何をするべきなのだろう。


 ぶらんと放っていた腕を、怜亜が胸に抱いて勝気に微笑む。


「碧っ、やっぱり碧のほうが強いんだ! 次は、()()()()()()()()()、だよね?」


「……ああ、そうだね」


 不安は夕闇に紛れて広がっていく。私が目指した光は、どこを照らしても見えない。掲げた火は、私の手を離れて広がっていく。


 天使がいなくても、人は進んでいく。自分の信じた方に進んでいく。


 私がその先の暗闇に気が付いて立ち止まってしまっても、人は進んでいく。私が与えた火は、私を置いて進んでいく。選択を誤っても、世界は簡単には終わらない。だから、これはきっと罰だ。傲慢な私への罰だ。


 去っていく天使の背を、ただ見呆ける。怜亜の温かい腕は、むしろ私を凍らせるように感じられた。


 暗闇の向こうに何が待っているとしても、私は進まなければならない。それが、火をつけた者の責任なのだから。



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