第五十二話 われらの時代
・主な登場人物
藍虎碧:現在生徒会執行部書記の女子生徒。クールに見られがち。
藍虎茜:碧の妹。中学では同性からモテている。
橋屋目高:新聞部部長の商業科二年生。藍虎とはファンクラブメイトだった。
針瀬福良:一年二組のクラス副委員長だった。今は二年二組の委員長であり、名実ともに委員長。
丸背南子:ニャンコ先輩。生徒会三年の副会長。猫背で丸眼鏡の落ち着いた少女。誰に対しても敬語で話す。
三峰壱子:ワンコ先輩。三年の生徒会長。低い身長と元気で独特な口調が犬っぽい女子生徒。
神繰麻貴奈:一年生の女子生徒。機械のようなしゃべり方の上、表情がロボットのように変わらないが、血気盛んでギャンブラー気質。
留木花夢:二年次の同級生の女子生徒。身長が低く童顔。顔に肉が付きやすい体質のせいで、顔が真ん丸になってしまうことが悩み。
鳩場冠凛:二年一組のクラス委員長。静かな佇まいをしている。部活は運動部を転々とした後、現在は無所属。
田尾晴々(たび はるばる):二年次の同級生の青年。チャラい見た目で言動もチャラいため、誰からも信用されていない。性根は優しいが、見た目で損をしている。趣味は読書で、文芸部に所属している。
有飼葛真:二年次の同級生の男子生徒。いつも眠そうな顔をしている。実際眠いらしい。ぼんやりしているようで、意思は強い方。行動力はあるが、やる気はない。
「ちょっと、白身は持っていかないでよ。取っていいなんて言った?」
茜は、目を細めて私を睨む。彼女が指し箸で示した皿には、箸で切り取られた目玉焼きの白身の上に、しんなりとした根野菜の炒め物が乗っている。
「別にいいだろ、これくらい。唐揚げももらっていい?」
「いーわけないでしょ!」
「じゃあしりしりも茜が自分で食べな」
「やーだー。——ってちょっと! ほんとに唐揚げ盗ったな!」
妹は、信じられないと言う様に目を大きく見開くと、私の皿から残りの唐揚げを奪い取った。
「あっ、おい茜っ」
茜は二つ三つと一口大の唐揚げを口に運ぶ。私は呆れ切ってやれやれと首を振る。
「ゴホッゴホッ! う~~~、ぐえっ……」
「ほら、そんな詰め込むから……」
咀嚼もほどほどに飲み込まれた鶏肉があらぬところに入ったようで、茜は咳き込む。
「パン焼けたわよ~。ちょっと、碧も茜も朝くらいは静かにしなさい」
お母さんが持ってきた焼き立てのトーストを、片手で妹の茜の背を撫でながら受け取った。
「いや茜が人参食べたくないってうるさいからさ」
「ゴホッ……私のせい? お姉ちゃんが目玉焼き盗むのが悪いよ」
「あら唐揚げ先に食べちゃったのね。美味しかったならまた買おうかしら」
再び口喧嘩を始めた私たちを傍目に、お母さんは唐揚げをほおばる。妹のマイペースなところは母方の遺伝らしい。
騒がしい朝は、私たちが通学のために家を出るまで続く。昨日だってそうだったのだから、明日もきっとそうなのだろう。
けれども、私は妹と仲が悪いと思ったことは一度も無かった。それはお母さんとも同様だ。え? 父さんとはって? う~ん。まぁ……人並みじゃないかな。嫌いとは言わないでおくよ。
折り合いがつかないことは、生きていれば誰だってある。私が進んで、誰かも進んでいれば、折衝が必要なこともある。ちょっとした衝突は、お互いのことを知るためには必要なことなのだ。
もしも誰もが衝突を恐れるような、ほんの少しの不和や失敗にすらも怯えるような性格なら、きっと大昔の人間は理性のせいで洞窟の中に籠ることになり、進化することも無かっただろう。
人間は、失敗する生き物だ。そして、学んで成長していく生き物だ。
大昔に誰かが灯した火が、人間を世界へ連れ出した。火は危険だ。けれど、その熱の揺らめきは人の思考を映し出した。
なぜ人は火を灯したのか。それはきっと、誰かを導くためだ。
人はその火の暖かさに、洞窟を越えて開拓を進める決意を決めたのだ。決して一人ではないと、進化と成長のための勇気を互いに契った灯を目印にしたのだ。
どんな時、どんな場所でも人は導きを求めている。自分に灯りを掲げてくれる誰かの存在を探している。
天使ちゃんは、私の世界を照らしてくれた。でもその灯は、今は私の手にある。私が掲げて、導かなければならない。
天使だと思っていたのは、眩しい光で洞窟の天井に映し出された天使の影に過ぎなかった。去っていった天使を振り返った私だけが、彼女を照らしていた灯を掲げて、みんなを洞窟の外へと連れ出せる。
「行ってきます」
大昔、この世界には、神がいた。この世界には、悪魔がいた。この世界には、天使がいた。だけど、今はどこかに行ってしまって、見つけることは困難だ。
それでも、人間は前に進むことを止めない。神がいなくても、悪魔がいなくても、天使がいなくても、人間は前に進む。成長を続ける。
九月も最終週に入り、校内は慌ただしい喧騒に包まれている。
台典商高は、十月に予定されている体育祭の準備であちこちが様変わりしている。廊下には応援旗の準備に使われるペンキや絵の具の出し放しが目立つ。形式上、バックネットに飾られるのは一年生の応援旗だが、今年は二年の商業科がクラス応援旗を作るという噂が流れ、つられた他のクラスも勝手に作り始めたのだった。
もともとクラスTシャツや打ち上げに使われたりしている予算がさらに圧迫されてこちらとしては頭が痛くなるが、楽しみたいという気持ちはよく分かる。
高校生活は三年間あるが、三年目の今頃は受験勉強に追われて多くの生徒が行事に身を入れきれないのだ。必然そうでもない生徒だけではクラスの活気を作り出せず、受動的な行事参加となってしまう。
つまり、二年目である今年が、一番行事を楽しめるタイミングなのだ。体育祭だけでなく多くの行事が二年生主体と言っても過言ではないだろう。
「おー藍虎ちょうどよかった。これ、うちのクラスの予算表。締め切りギリギリですまんな」
「いやいや、間に合ってくれてるだけありがたいよ。受け取っておくね」
連絡なく学校を休んだ次の日、私の元に集まってきた生徒たちの顔に浮かんでいた表情は、不安ではなく心配だった。執行部を早退して病院に行っていたことが、どこからか噂になり曲解されたようだった。
元気だと伝えると、みんな一様に安心して笑顔になった。それからは、天使がいた頃よりも活気にあふれる様子で私が困惑するほどだ。
「あ、あの! 藍虎先輩っ、私たちのクラスの応援合戦の動き、先輩に見てほしいんです!」
「ああ、私で良ければ……昼休みを空けておくよ。中庭で大丈夫かな?」
「はいっ! お願いします!」
一年生から声をかけられることが増えた気がする。行事の準備中で、管理側にいるからというだけかもしれないが、あまり面識のない後輩たちにも手を振られたり少し会話をしたりすることもままある。おかげで予定に遅れそうになることもしばしばあったが、後輩や先輩方とのコミュニケーションも含めた時間の使い方にも、じきに慣れるだろう。
「ああ、藍虎さん。言われていた記入漏れのところ、直しておいたわ」
「ありがとうございます……三峰先輩、今年は騎馬戦だけ出場なんですね」
「あ~、リレーはめんどくさいって聞かなくてね……でも、騎馬戦で寧ちゃんボコボコにするって意気込んでたわよ。今年は団体だけじゃないから、二回分恥をかかせてやる~って」
「あはは、先輩らしいですね」
体育祭は目前に迫っている。覚悟を決めてからの日々は、あっという間に過ぎていった。
仕事は当然多いままだが、以前より生徒間の関係性が向上しているような感触があった。物品の破損や備品の故障も減っている。対応させられる問題は、最近では意欲の高い問題——魅力的な二つの意見のどちらを取るかに対する執行部からの知見を請うもの——ばかりだ。
時折寄せられる恋愛相談の投書には困ってしまうが、生徒たちと関わり合い、良く知っている分親身に相談に乗ってしまう。すべてが成就するわけではもちろんないが、そんな失恋もまた、相談者と分かち合う日々が、不思議と楽しいと思える。
そう、楽しい日々だ。ほとんどの生徒と一週間が巡る間に一度は話している。その誰もと友人であり、頼り頼られ導いていく。
天使はいないが、充実した日々だ。何不自由のない、むしろ楽しく充実しすぎて不安になるほどの学校生活だ。きっと私立高校の面接入試ですら、こんな日々を夢想する人はいないだろう。
「どうだ、今週の一面は」
「目高、あんまり私のことばかり載せるのは止めてくれるかい?応援してくれているのは分かったからさ」
「そう言われてもな。募集もしてないのにお前の話ばかり舞い込むから、俺だって困ってるところだ。何なら、特別号でも作ろうか。大見出しはこうだ——屏風から出た氷の虎、次期生徒会長の実態に迫るッ!————ってな」彼は大げさに両手を広げた。
「……勘弁してくれ。ようやく愛ヶ崎さんの苦労が分かってきた。人気者は辛いんだね」
「おいおい、これでも手加減してるんだぜ? それにあの子は多分——いや、もうその話はしないって言ってなかったか?」
「おっと、そうだったね。弱音も吐かない。君といると、つい気が緩む」
「そりゃどうも。気はもっと緩めとけよ。今はいじめも上下関係もないって話だ。少しぐらい隙がある方が、みんなお前を好きになる」
「意見は参考にさせてもらうよ。これでも楽しくやらせてもらってる」
「だといいがね」
「それじゃあ、また」
「ああ、もう一つだけいいか?」
新聞部の部室から出ようとした私を、彼は呼び止めた。
「もう、後任は決めたのか? それとも、彼女に副会長をやらせる気なのか?」
「……それは、彼女次第のつもりだよ。どちらに転んでも大丈夫なようにはしているつもりさ」
「つもり、ね。お前が言うなら俺も詮索はしないでおく。他の奴らと同じで、期待して待っておくよ。ただ、決まったら教えてくれよ? 選挙ポスターは変わらずウチが受けるんだからな」
「お手柔らかに頼むよ」
台典商高は今、活気にあふれている。これまでにないほどに、むしろこれが普通の高校なのだろうか。誰もが向上心に満ち、手を取り合い支え合う。そんな生徒たちを、私は導いている。進むべき道を示している。
盤石な体制であるだろう。完璧な土台と言えるだろう。
なのになぜだか、心の隅に不安がある。どれだけ体育祭の準備を進め、生徒たちの要望に応え仲を深め、信用を得て自信を付けても、ほんの一つの黒点が消えてくれない。
起こりもしない災害に怯えるような、自分が被害を受けたわけでもない通り魔を恐れるような。そう、杞憂というのだろう。それ以上の言葉では表せない不安がどうしても消えてくれないのだ。
何か大事なことを取り違えているような気がする。
もうすぐ愛ヶ崎さんの休学が終わる。体育祭の数日後、定期考査が始まる前に彼女は復学することになる。
彼女に意欲が残っているのなら、執行部に籍を戻すことは容易だ。生徒会長の立場に私がなることを、彼女の自尊心や嫉妬心を刺激することなく認めさせられるだけの環境は整っている。この状況で役職にこだわるほど、彼女も子供ではないだろう。そもそも彼女が生徒会長になりたがるかも分からない。
彼女に執行部を続ける意欲が無いのなら——普通の生徒として暮らしたいと望むなら——代わりの生徒には声をかけている。こちらの方が、可能性としては高いだろう。
亜熊会長が三年で初めて執行部に入った前例もある。副会長ならなおさら反発は呼ばないだろう。まして、私の推薦ならば。
策は尽くしているはずだ。これ以上何ができるだろう。私にできるだけ、この学校を、生徒たちを活気づけ導いている。
何が不安なのだ……この胸のざわめきは何なのだ……。
生徒たちは人間賛歌を歌い、高校生活という人生の春を満喫している。台典商高は他校と比べても生徒たちの活動の自由度が高い。執行部だってできることが多い。私たちは自分の意思で前進することができる。できている。私たちの青春時代を、最高に謳歌しているというのに、なんの不安があるのだ。
憂いを払うように軽く頭を振り、私は生徒会室に入った。大丈夫、今日も天使はいない。
「お~、碧。原稿置いてるから、一応チェックしといてくれ」
「はい、分かりました」
三峰先輩の声に頷いて、机に置かれた体育祭での司会進行の原稿を確認する。司会の担当は例年書記が務めているが、今年度からは放送部に任せる形に変わった。天使が抜けた分、私の仕事が増えたことが理由だが、この形で問題なければ来年以降も部活と連携して分業制に移行していく予定だ。
「いろいろあったけど、私もそろそろ引退か~。早いものだぞ」
「ワンコ、少し気が早くないですか? 体育祭から選挙の間にも、一応交流会やらボランティアやら仕事は詰まっているはずですよ」
「も~、忘れてたのに思い出させるなよ~。その辺の仕事は次の代に任せたらいいだろ? 天使ちゃんも碧も、顔は通ってるんだから」
「……はい、任せてください」
言葉を続けようとして、先輩の言葉にどこか違和感を覚える。自然に出た彼女の言葉に、少しすれ違ったような感覚————天使ちゃんも碧も……。
資料に落としていた視線を軽く会長の方に向ける。彼女は気にもしていない様子で作業を続けている。丸背先輩も、神繰さんも気にしている様子はない。
無意識の発言。感覚のすれ違い。
先輩は、天使が戻ってきて執行部を続けることに何の憂いも無いのか……?
むしろ不安に思っている自分がおかしいようにすら思えてくる。疎外感を感じた心では、その真意も問うことはできなかった。
それから、憂いは晴れないまま十月になった。
空が落ちてくることも、地面が割れることもなく、生徒たちは順調に各クラスの準備を進め、昨年度以上に活気のあふれる体育祭になることは目に見えていた。
「碧、ボーっとして、また疲れてるんじゃないのか?」
教室から椅子をグラウンドに設置されたテントに運んでいると、隣から声をかけられた。
「……あ、ああ、留木さん。ううん……いや、確かに疲れてるのかもね。ようやく本番が明日なんだ。みんなを楽しませて、私も楽しむさ」
「それならいいんだけどな……」
留木さんは椅子を降ろすと深く息を吐いた。
例年までは、当日の開会式前に行なっていた椅子の搬入は、式次の変更に伴って前日に変更された。放課後の予定ではあったが、どのクラスも前日まで調整をしていたために、承諾が得られた。
「これで全員……あれ、一つ足りないかな」
「もう、藍虎さん。今更そんなこと言われると、心配になるじゃない」
「……どういうこと?」
呆れるような、からかうような表情の鳩場さんは、聞き返すと心配するように眉根を寄せた。
「その一つって、愛ヶ崎さんの席でしょう?」
「……あぁ……そうか」
改めて数え直し、自分が三峰先輩の発言を引きずっていることに気が付いた。いつの間にか、戻ってきているものとすら思っていた。
「てんち、来週から来るんだよな?」
「ええ、確かそうだったわね。でも、再来週になるかもね」
「え~、なんで? 私、早くてんちに会いたいのに……」
「そうね。でも、よく考えてみて。ハムちゃんは、嫌なことがあって、一か月休んでいいって言われたら、一か月後にすぐ立ち直れるかしら」
「う~ん、そう言われたら確かに……?」
「要するに、愛ヶ崎さん次第ってことでしょ? 僕は来週には帰ってくる気がするなあ。だってあの人、そんなに弱い人じゃないでしょ」
ゆっくりとクラスの波をかき分けてきた有飼くんが、話に割って入る。
「そりゃあ、彼女は強いと思うけど……」
有飼くんの言葉に少し面食らってしまった私の肩を、誰かがそっと叩いた。
「生徒会長が呼んでるみたいだけど……取り込み中だった?」
「……針瀬さん。いや、少し雑談していたくらいさ」
「あ、福良ちゃん! 今ね、てんちがいつ帰ってくるかなって話してたんだ!」
針瀬さんは、留木さんの言葉に困ったような笑みを浮かべた。
「なんだかちょっと悪趣味な話な気がするけど……」
「そんなこと言って、あなただって気にはしているんでしょう?」鳩場さんが目を細める。
「まあ、そりゃあね。でもなんだか、あの子は私が予想する通りになんて生きてないと思うし……もしかしたら、このままどこかに行っちゃっても、私はなんだか納得してしまうかもしれない。とにかく、きっとあの子のことだから予想もしないタイミングで戻ってくるのよ」
「ふぅん。愛が重たいのね。それが1-2の絆ってことかしら?」
「そんなんじゃないけど」
「でも確かに、予想があたったことってないかも。あの人に関しては。もしかしたら、土曜日に登校し始めたりしてね」
「あはは……やりかねないね、彼女なら」
「なんだなんだ! 何の話? ああ、愛ヶ崎ねぇ……知らねえけど、明日とかどうよ。やっぱり体育祭はみんなでやりたいじゃん?」
突然に割入ってきた田尾に、一同は冷ややかな視線を向ける。田尾は悪びれもせずにこやかだ。
「晴くん、それはさすがに無いよ。だって、それって知らないスポーツの大会に出るようなものだよ。何をやるかも分からないのに来るわけないよ。観戦だけなら分からなくもないけど、わざわざ体育祭からってのも、ほら……」
おしゃべりな有飼くんが、珍しく言葉を濁した。
「私たちの方が気を遣う、でしょう? 別に明日来たって勝手だけど、それってすごく迷惑。そこまであの子も馬鹿じゃないわよ」
「私も何も連絡は受けてないし、きっと来週だろうね。結構復学にも手続きはあるみたいだし、ふらっと明日からとはいかないよ」
私は田尾にそう言いつつ、背に冷や汗が垂れるのを感じた。
明日? 体育祭の本番に? ……まさか。来るはずがない。今の彼女が行事に参加しようと思うはずがない。そんな可能性に賭けるなら、二度と帰ってこないという方が常識的だ。
「それもそうか……でも残念だよな。せっかくの体育祭なのに」
「確かに……てんちがいたら、もっと楽しいのにな」
「どうだろうね。留木さんはそうでも、むしろ愛ヶ崎さんの方が楽しくないんじゃない?」
「それもそうかもだけど……」
「考えてもしょうがないさ。今は明日のことを考えよう! たくさん準備してきたんだからね」
私はそう強引に話をまとめると、執行部の集まっているテントへと向かった。
夕暮れの空には雲一つない。明日はこれ以上ない晴天になりそうだ。
しかし、私の心に立ち上り始めた入道雲は、大きな嵐を予感させるのだった。