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誰も救えない天使の話  作者: 錆井鈴江
台典商高編 羽化の章
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第五十一話 井の外の鳥

・主な登場人物

愛ヶ崎天使まながさき てんし:この物語の主人公。天使ちゃん。現在生徒会執行部副会長。


色吞真由莉しきのみ まゆり:関西に住む女子大学生。二年休学しており、今年から一年生に復学した。


高山飛鷹たかやま ひだか:関西に住む女子大学生。色呑の同居人。関西弁と気が強い。


 空を飛ぶ鳥は、この世界のどこへだってその羽で飛んでいける。けれど、その実彼らもこの世界のことをまるで知らないのだ。鳥の目で俯瞰したところで、空の高さを知ることができても、空の青さを知ることはない。


 あらゆるものは有限だ。だから、有限の視界で切り取られた世界の中で、人は無限を語る。


 天使はどこへだって飛べる。どこまでも高く飛んでいける。


 そんな祈りは、天使のわずかな一歩を描写したに過ぎないのかもしれない。誰かが天使に夢見た無限は、永遠は、天使にとってほんの微睡みに過ぎない退屈な時間かもしれない。


 空を飛ぶことができるから、天使は空の限りを知っている。人が夢見るようなものはそこにはないのだと知っている。


 けれど、天使は羽をもがれても、空に焦がれることはできない。天使が天使でなくなっても、空を無限だと夢想することはできないのだ。


 空を飛べなくなった天使は、それでも前に進んでいく。まだ知らないどこかへと向かうために。ただ自分のためだけに、軽やかな足取りで進む。


 天使はどこへ行くのだろう。きっとその答えは、まだ知らない場所にあるはずだから。






 目を覚ますと、穏やかな花の香りが鼻腔をくすぐった。眠ってしまう前にはしなかった匂いに振り返ると、アロマディフューザーに数本のスティックが刺さっていた。


「おはよう、天使ちゃん」


「……おはよう、ございます?」


 薄く電気のついた部屋は、外光を取り込んでいなかったが、なんとなくまだ夜のような気がした。


 天使が部屋の時計を見ると、やはり針は二〇時を回ったところだった。


「ごめんね、あたし、情緒不安定な女で。迷惑かけっぱなしだ」


「謝るくらいなら、最初っからお酒なんて飲まないでくださいよ」


「たはは、言われちゃったな」


 色呑(しきのみ)はまだアルコールが抜けきっていないような不安定な言動だ。自分を見上げながら口を尖らせた天使に、色呑は照れるように頭をポリポリとかいて笑った。


「今日はもう遅いし、明日から先輩探し手伝うよ」


 色呑は、触っていたスマートフォンをブランケットの上に伏せ、真剣な、けれど優しい声色で天使に言った。


「はい、お願いします」


 天使が頷くと、色呑も満足そうに笑った。





 温かなシャワーが全身を流れていくと、気が付かないうちに蓄積していた疲労に気が付く。


 色呑に促され、先にシャワーを浴びることになった天使は、どこか他人の家の間取りに恐縮しながら浴室に入った。


 知らない土地、知らない家であろうとも、シャワーの温かさは変わらず体を洗い流してくれた。体温が芯から上がるだけで、どこか悩みが解決したような気持ちになることができる。


 これから、自分はどう生きていけばよいのだろうか。


 そんな覚悟を決められるほど、まだ心には余裕が無かった。明日のことすら、今は決まっていないのだ。


「はぁ……」


 知らず長いため息が出た。


 亜熊先輩を探しに来たはいいものの、手がかりも何もない。そもそも、会ったから何が解決するでもない。本当にこんなことに時間を使ってよいのだろうか。


 とはいえ、他にやりたいことも、やるべきことも思いつかず、再び長いため息が吐かれた。


 その刹那、予兆なく脱衣所兼洗面所の扉が開かれ、色呑が入ってきた。天使は驚いて、首元を拭いていたバスタオルを体に寄せ付け、体の前面をとっさに覆った。


「ちょっ————!」


「ああ、ごめんごめん」


 色呑は本当に天使が中にいたことを忘れていたように軽く謝ると、洗面台で軽く口をゆすぐと、日常動作のように去っていった。


 天使は体を隠したまま、しばらく呆然と闖入者の去っていった扉を見つめていた。





 交代で色呑がシャワーを浴びている間、天使は数分前の彼女の行動について考えていた。


 別に、着替えている途中に入ってこられたからと言って、非難するほどのことは無かった。彼女に悪意があったわけではなく、下心があったわけでもなかったはずだ。


 しかし、天使にとって気に食わなかったことは、必要以上に自分が羞恥心を感じてしまったことと、その一方で気にも留めない様子だった色呑の振る舞いである。


「なんかムカつく……」


 天使は今日会ったばかりの自由な彼女に、そんな憤りを覚えていた。何か反応してほしかったわけではない。進退のかかった真剣な悩みの中にあった自分に、不躾な行為で恥をかかせたことが気に入らなかったのだ。


「……よし、決めた」


 同じことをしてやろう。子供のようないたずら心が満ちる。


 思い立ってからは早い。色呑が浴室から出たタイミングを図って天使は脱衣所の扉の前に立った。



 ————今だ!



「…………」


「————?」


 勢いよく扉を開けた天使は、開かれた扉にわずかに目を向けた色呑と一瞬だけ目が合う。彼女はすぐに視線を逸らすと、天使を気にも留めず体に付いた水滴に注意を戻した。贅肉の少ない体を隠すこともなく、無防備に体を拭いている。


「…………」


 天使は何か声をかけるでもなく、静かに扉を閉めた。


「なになに、なんかあった~?」


 扉の向こうから、半笑いの声が響く。天使はなぜだか悔しい気持ちになり、唇を丸めて寝室へと戻った。


「どうしたの?」


 寝間着のジャージに着替えた色呑は、今度は少し心配そうに天使に尋ねた。


「何でもないです」


「急に入ったのはごめんって。ちょっとほら、女二人で暮らしてたから、ちょっと感覚変になっててさ……ふふ」


 ベッドの上で色呑に背を向けて丸まった天使に、色呑は愛おしむように笑った。


「天使ちゃんって、可愛いとこあるんだ」


「可愛いところしかないです」


「おっ、生意気。でも実際そうだから困っちゃうねぇ」


 色呑は高らかに笑い声をあげた。天使はぎゅっとさらに小さく丸まる。


「とりあえず、今日の所は寝よ? 中途半端に寝落ちしたせいで、余計眠くなっちゃった」


 色呑がブランケットを体にかける。それほど大きくないブランケットは、二人を覆いきりはしなかった。


「あたしと一緒に寝るの嫌だったら、もう一個ベッドあるからそっち使っていいよ。んじゃ、あたしは寝るから」


 天使は彼女に背を向けたまま、しばらく横になっていたが、意地を張っているのも馬鹿らしくなり、柔らかなベッドの感触に受け止められるように眠りについた。





 翌日、いつも通りの時間に起きた天使は、色呑を叩き起こして外出することに成功した。


「ほら、ここが大阪城。まぁあたしはホールの方が行く機会は多いけど」


「すご……結構遠目でもきれいですね」


「まぁ、塗り直しとか改修とかしてるんでしょ。あの~なんだっけ白鷺城? とか塗り直しでめっちゃ白いらしいし……あ、あたし歴史の解説とかできないからね」


「いいですよ歴史の話は。知りたくなったらまた来ますから」


 二人は天守閣を一通り観光してから、展望台にやってきた。


「ここからなら、その辺歩いてる先輩見つけられるんじゃない?」


「適当なこと言わないでくださいよ」


「え~、いいアイデアでしょ」


 結局、夕方まで大阪城周辺を観光した二人だったが、天使の探し人は見つからなかった。



「やっぱさ、大阪の大学生なら、大阪にはいないと思うんだよね」


 夕食にと入ったお好み焼き屋で、色呑はタネの形をヘラで整えながらつぶやく。


「だってさ、別に平日でも行けるわけじゃん、県内なら。わざわざ観光するなら、ちょっと出て京都とか、大穴三重とか奈良とかじゃない? そんなに遠出はしない人なんだよね?」


「多分……」


「多分か……その先輩ってさ、天使ちゃんにとってどんな人なの? 彼氏ってわけでもないんだっけ」


 色呑がひっくり返したお好み焼きが、わずかに飛沫を跳ねさせて鉄板に着地する。丁寧に整えられた生地に圧された豚バラが、カリカリの焼き目を見せている。


「生徒会の先輩で……生徒会長だった人なんですけど」


「へー、すごいじゃん」


「何考えてるのか、よく分からない人で。でも、人のことを良く見てるというか、よく分かってくれてるというか」


「好きだったの?その先輩のこと」


「へっ!?」


 色呑の質問に驚いた天使が、口に運びかけた麦茶を揺らし、飛沫が鉄板に散ってジュッと蒸発した。


「好き……でした。多分」


 天使は自信なく視線を落とす。曖昧なのは自分の気持ちではなく、言葉の定義だ。


「多分か~。告白とか、しなかったの?」


「告白……去年、一緒に動物園に行ったんです。遊園地も併設されてるところで」


「おお! 二人で?」


「あ……執行部の先輩たちと、六人——八人で」


「なぁんだ。それで?」


「それで、帰りの時に、先輩と二人で他の人を呼びに行くことになったんですけど、その人が観覧車に乗っちゃって……」


「二人で乗った?」


「いえ、傍のベンチで、二人で座って待つことにしたんです」


「焦らすねぇ」


 色呑はにやにやと笑いながら、お好み焼きを切って取り分けた。


「そのとき、気が付いたんです。きっと、先輩に告白したら、私はダメになるって。先輩の足も引っ張ってしまうかもしれないって」


「はぁぁぁぁぁ!?」


 色呑が驚いたのと同時に、残りの少なかったソースの容器が、小刻みに空気を吐き出した。突然の大声も、喧騒でにぎわった店内では目立たない。


「それで、その後の進展は?」


「先輩の後を継いで、最高の生徒会長になってみせますって伝えて、今に至ります」


「んなアホな……いや、馬鹿な話もないって。じゃあなんで先輩を探しに来たの? 今度こそ告白するつもり?」


「えっ!? いやいや、そんなことは……でも、今すごく迷っていることがあって、どうしたらいいか分からなくて。もしかしたら、先輩なら何か解決策とは行かなくても、会ったらいい考えが浮かぶかもと思って……」


 天使は色呑に説明する中で、この放浪が実際にはそれほどの理由や決意のないまま飛び出してきた弾丸旅行であることを恥じつつあった。なにか大義があるわけではない。亜熊先輩は万能ではないし、会えるあてもない。自分では分かっていたし、それでも構わなかったが、彼女からしたら馬鹿な話に聞こえるだろう。実際馬鹿な話、愚かな自傷行動に過ぎないのだから。


「そりゃあ、高二の夏に学校休んで一人で飛び出してるんだから、それなりに何かはあったんだろうけど……それならさ、本当に観光しない?」


 色呑は次のお好み焼きの具材をかき混ぜながらそう聞いた。


「要するに、先輩に会える必要は無くて、天使ちゃんが気持ちを整理したいってことでしょ? それなら、先輩はどこだろうって心配になるより、楽しいっ面白いって思いながらの方がいいと思うわけ」


「なるほど……?」


「あと、飛鷹ばっかり旅行するのはズルいから、あたしも旅行したい! ってのもある。付き合ってくれる?」


 色呑は茶化すように頬を膨らませてウインクした。


「色呑先輩がよければ、私はそれで構いません。なんだか、先輩とは探そうとしない方が会える気がするんです。それに、いつかまた、どこかで会える気も」


「そうそう、思いつめても良いこと無いよ? 気楽にいこう。やりたいことからやっていこう!」


 色呑がソースのついた小さなヘラを掲げるのを見て、天使も小さく笑う。


 この人は本当に、亜熊先輩とは正反対の人間だ。明るく自由で、楽観主義で、迷惑で、それでもなぜだか嫌いにはなれなかった。


 それはもしかすると、彼女の明るさが、自分と同じように傷を隠すためのものだと、そう分かるからなのかもしれない。





 夜の街がネオンとともに牙をむく前に二人は家に戻った。


 翌日、無計画で家を出発した二人は、ひとまず京都市内を目指して電車に乗り込んだ。


「そういえば、天使ちゃんは勉強とか大丈夫なの?」


 まばらに人の乗った車内で、不意に色呑はそう切り出した。


「大丈夫……だと思います。歴史系は怪しいですけど、理系科目は予習してたので、ぎりぎり追いつけるかと」


「へ~、偉いねぇ。進学先はもう決めてる感じ? 多分、就職じゃないんだよね」


「それは……はい。でも、どこに行きたいとか、まだよく分からなくて……」


「分かるわ~。あたしなんて二年の頃はマンガ読んで遊びまわってただけだったな~。結果的に良かったこともあるけどさ」


 色呑は自嘲気味に笑った。天使も少しだけ微笑んで隣席の彼女を見上げる。


「それでD大なんですから、すごいですよ、先輩は」


「え? ああ……うーんと、そうね……まぁ、推薦だし……」


「それでもすごいですって」


「まぁまぁ、その話はいいとして。学部とかも決めてないの?」


「一応、心理学部に行きたいなって思っているんですけど……」


「出た。まぁ、東京のほうなら色々あるんじゃないの? てか、学部決まってるなら後は学力次第だと思うけどな~。って、推薦に言われても説得力ない?」


「なんでそんなに弱気なんですか……そもそも、本当に自分が行きたいのが心理学部なのか分からないんです。漠然と惹かれてるだけというか」


 天使は自分の迷いを適切に表現する言葉を探してうつむいた。


「まあ分かるけどさ。あたしは社会学系だけど、実質心理学みたいなとこもあるし、違いとか高校生なら余計に分からないよね~」


 色呑は相槌を打ちながら、アドバイスというアドバイスを出すわけでもなかった。それでも天使は、進路について誰かに話すことも久しぶりで、少しだけ気が楽になった気がした。


「あ、でもねぇ、教職はどこでも取ろうと思えば取れるけど、臨床心理士とかになりたいなら、心理学部じゃないとだめだから、そこは気を付けないとね。なりたい職業とか……まぁ、今は分かんないよね。あたしも分かんないし」


「先輩は、なんでD大に行くことにしたんですか?」


 天使の純粋な問いかけに、色呑はギョッとした顔で固まる。


「え~っと……理由、理由ねぇ……学部行きたいとこで、科目もまあ得意なやつだったから……くらいかな。親がさ、私立でもいいから浪人だけはするなってうるさくて。それで推薦受けろって話になったんだよ」


 天使は執行部に所属してはいたが、推薦入試の利用を考えたことは無かったために、彼女の家庭の事情を理解するのに少しだけ苦労した。同時に、やはり自分は学校推薦を使うことはないだろうとも思った。母に甘やかされ、自由に選択肢を迷える自分が、限られた道を閉ざすようなことになってはいけない。


「ま、それで留年してたら意味ないけどね~。仕送りはもらってるけど、親とはほとんど絶縁状態だし。申し訳ないとは思うけど、結局一人で何かできることなんてたかが知れてるっていうか、人生失敗しても救済があるわけじゃないし、自分が不幸になったからって誰かがもっと不幸になってくれるわけでもない。要は本当に大切なものだけ大切にして、後はできることやるしかないってこと。 今は天使ちゃんの人探し……兼旅行を楽しむ! ね?」


「本当に大切なもの……」


「そうそう。友達も家族も、夢も理想も大切だけど、それで自分が不幸になるのはナンセンスでしょ?————あっ、ここで乗り換えっ。行くよ」


「は、はいっ」


 先に立ち上がって乗車口へ歩き出した色呑に置いていかれないよう、天使も電車を降りる。


 自分にとって、本当に大切なもの。ぽっかりと空いた心はその不在を告げるようだった。





 天使たちは、三日かけて京都の思いつく限りの観光地を巡った。亜熊(あぐま)どころか男子大学生にすらすれ違わなかったが、二人は観光を楽しんだ。


 三日目の夕方、楽しみだからと最後にやってきた清水寺で、天使は舞台から外国人観光客でにぎわう階下を見下ろした。


「にしても、すごい人の数だよねぇ。シーズンとか関係ないのかな」


「そろそろ紅葉も始まりますから、京都はむしろ観光シーズンじゃないですか?」


「確かにそっか」


 天使は改めて足のすくむような高さの舞台上から地面を見やる。清水の舞台から飛び降りると言うが、羽もない自分にはそんな勇気は無かった。


「先輩」


「ん、どうしたの?」


「私の本当に大切なもののこと、ずっと考えてたんですけど」


「うん」


「私、最近、少しだけ嫌なことがあって、その大切なものが、大切だと思っていたものが無くなってしまった気がしていたんです」


 色呑は返事の代わりに天使の横に立ち、耳を傾けた。


「でももしかしたら、そんなものは初めから無かったのかもしれないと思うんです。

 井戸の中の蛙が、小さな空を自由に飛ぶ鳥に憧れるように、勝手に期待して自分の夢だと思っていただけ。実際は鳥だって飛び続けることはできないし、蛙は井戸を飛び越えたって、地面を這うことしかできなくて空を飛ぶことはないように、私もできることしかできないんです。

 夢を見たって、叶うわけじゃない。そんなことは分かっていたのに、でももしかしたら手が届くかもしれないって期待して、勝手に裏切られた気持ちになって、最初から無いものをまた失った気になっていたんです」


 天使なんて存在しない。羽が無くても、光輪が無くても、そんな完璧な人間は存在しない。


 だけれど、誰も空を飛べないから、人に期待を押し付ける。現実が見えていない、空に憧れた少女に、過剰な夢を見せる。期待が、羨望が、信頼が、彼女を歪めることになっても、それは良いことだと手を叩く。天使は誰にとっても期待の的で、けれど誰にとっても最も大切なものではないから。


「今までずっとその夢を追ってきて、でも今はその意味も無くなってしまった。

 どうしたらいいのか分からないんです。どう生きたらいいのか分からない。それでこんなところにまで飛び出してきて、精いっぱい生きることも死ぬこともできずに、ただ迷うことしかできないままで、私はどうしたらいいんでしょうね」


 天使は問いかけずにうつむいた。色呑も、答えるでもなくただ肩を寄せた。


 天使の孤独と心に差した影を際立たせるように、空はどこまでも青く晴れわたっていた。




 しばらくの間、言葉もなく境内を歩き回り、夕暮れが忍び寄り始めたころ帰路に着いた。気楽な手ぶら旅だったはずが、折角だしと普段買わないようなお土産を買い始めた色呑のせいで、二人は両手に紙バッグを提げる羽目になった。


「重いんですけど……」


 電車から降り、市街地を行く途中で天使がボヤく。


「奢ってあげてるんだからそれくらい持ってよ~。あたしだって重いんだからさぁ」


「買いすぎなんですよ、そもそも……」


 一週間は持ちそうなお土産の食べ物を部屋に放り出し、二人もまた床に倒れこむ。都度家に戻ってきていたはずなのに、三日分の疲れがまとめてやってきたようだった。


「げっ、飛鷹からメッセージだ……別れたぁ? ざまあみろだなマジで」


 天使は、寝転がったままスマートフォンをいじる色呑の姿に、こちらに来てからメッセージを確認してはいないなと思い出す。そもそも、自分にメッセージを送ってくるような人はおらず、引きこもっていた時に自動で通知を送ってくるアカウントをすべてブロックしたために通知も溜まってはいないはずだった。


 もしかしたら、さすがの母親も心配しているだろうかとメッセージアプリを開いたが、やはり新規着信は一つも無かった。我ながら人望の無いことだ。天使でもない自分は、それも仕方のないことではあるが。


「————?」


 ロクな会話のない履歴に、落胆というよりも自嘲するようにアプリを閉じようとした時、一件のメッセージが届く。天使は既読を付けないようにそのメッセージを読んだ。


「愛ヶ崎さん、体調は良くなったかな。もし、元気があれば、連絡してほしい。待ってるから」


 それは、執行部の同級生、藍虎碧(あいとらみどり)からのメッセージだった。


 天使はロック画面を呼び出し、時刻を確認する。わざわざ彼女が連絡してくるような事情に心当たりは無かった。なぜ今? という思いが回り始め、良い返信の文章も思いつかない。


 元気と言えばまぁ元気ではあるが……そもそも連絡というのは返信でいいのか? 意図が読めず、また状況も言葉にしようとすると難しい。今は大阪で大学生と旅行してる……なんていうわけにもいかない。


「あっ————!」


 天使がぼんやりと画面を見ていると、いつの間にか起き上がっていた色呑にスマートフォンを奪われる。部屋の隅で隠れるように彼女は画面を見て、ふむふむとわざとらしい声を上げた。


「えーっと、ダイジョブダイジョブ~、チュッチュッチュ~っと……」


「な、なに送ってるんですか!」


 天使は色呑からスマートフォンを取り返そうとしたが、巧みな体捌きにいなされる。


「————はい」


 不意に振り返った色呑が突き出した画面から、震えるような電子音が響く。


「な、なにを……」


「連絡してって言ってたから、ほら。電話」


「ほら、じゃなくて! なんで電話なんか!」


 天使は端末をひったくると、通話取り消しのボタンを連打する。幸いにも、相手はまだ応答していないようだった。色呑が勝手に送った文章を消し、とりあえず弁明の文を送る。


「清水寺で言ってたことだけど」


「はい?」


 天使はくたりと床に座り込んだまま、色呑を見上げた。


「——壊しちゃいなよ、そんな夢も現実も」


 とっさのことで冷たく見える文章を送り返していた手が止まる。


「あたしはさ、そんな大層な人間じゃないから、もし鳥が飛べる場所が限られていたってどうでもいいし、ずっと井戸の中にいたいと思うよ。でも、天使ちゃんがそれを窮屈だって思うなら、鳥に失望したのなら、井戸を飛び出して鳥なんて食べちゃえばいいんだよ。そうしないといつまでも、あなたは自分のことを井戸の中に閉じ込められた囚人だと思い続けるよ」


「それは、人を傷つけろって言いたいんですか?」


「そうだよ? 人間、傷つくのは嫌だし、辛いしムカつくし。でもね、傷つかない人なんていない。傷つけないでいられる人もいない。だから、傷つけちゃったらごめんごめん、傷つけられたらぶち切れればいいんだよ。大切なのは、傷つけるかもしれないってことじゃなくて、それが誰かのためになるのか、だとあたしは思うんだ。」


「誰かの、ために……」


「どうやって生きたらいいか分かんないなら、思うままに生きてみようよ。自分が自由かどうかを決めるのは、自分だけなんだからさ」


 天使はそんな無責任ともいえる彼女の言葉に、いつの間にか邪気を抜かれてしまっていた。自分が『天使』になれないだろうこと。きっと学校の人たちは自分を軽蔑しているだろうこと。考え込んでいたあれこれが、どうしようもなく些末事に思えてくる。


 悩んでいたのが馬鹿らしくなる。そもそも、出会った初日に泥酔して寝るような人に聞いたのが間違いだったのかもしれない。


 けれど、それでもいいのだと天使は笑ってしまう。


 期待されていたとしても、羨望の眼差しを受けていたとしても、軽蔑されるとしても、偽りだとしても、私がどう生きるのかは、私が決めていいのだ。天使にならなくたっていい。やっぱり天使を目指してもいい。天使だと嘯いてもいい。どう生きたって、私は私なのだから。それが愛ヶ崎天使で、それが(天使)の人生になるのだ。


「てことで~、このラーメンを食べちゃいまーす! 夜なのに、夜だけど~」


「はぁ……半分ください。というか、こっちと半分こしましょうよ」


 悩まなくなったわけではない。ただ、悩んでもいいのだと思った。


 天使はどこへ行くのか。その道は無限大に広がっているのだから。




 それから、二人はお土産の即席麺を作り、ポテトチップスも広げて笑い合った。色呑が酒を呑まないよう、天使が何とか引き留めていた時、突然玄関のドアが開かれる。


「……何やってんねん、ほんまに」


「げ……飛鷹(ひだか)……」


 取っ組み合いになっていた二人は、玄関からやってきた影を見て硬直する。


「帰るってメッセージ送ったやろ? ていうか、誰、その子」


「えーっと、天使ちゃん。可愛いやろ?」


「芸名?」


「あ、えっと、愛ヶ崎天使です! 飛鷹さん、ですよね」


 緊張しながら名乗った天使に、飛鷹はめんどうそうに頭をかいた。


「そやけど……おい、まゆ。人に散々浮気がなんやて言うといて、自分もこんな可愛え子連れ込んどるんやないか」


「いやぁ、男と浮気してるのは話別やろ」


「別なわけあるか。ほんま懲りひんなお前」


 天使は徐々に険悪になりつつある二人に、ひとまず浮気ではないということだけ色呑に言ってほしいと切に願ったが、なぜか彼女は言いそうになかった。


「あ、あの……私、そもそも付き合ってないというか、少しだけ事情があって一緒に居させてもらっているだけというか……」


「え~、付き合ってないのか~」


「それはそれでだるいな……それで、事情ってなんやねん」


 ようやく落ち着いた二人と天使は、お土産が散らかったリビングに場所を移し、会話を再開した。


「だから、天使ちゃんは学校で嫌なことがあったから、頼りになる先輩を探しに来たんやんな?」


「それがなんで京都観光しとんねん。朝とか私乗っとったんちゃう?」


「だからそれもさぁ、先輩見つけるの無理そうだし、まずは観光を楽しもうというあたしの粋な計らいがだね~」


「そもそも、嫌な事ってなに? そんな濁すようなことなんやったら置いとくの怖いんやけど」


「それは知らんけどさ」


 絶え間なく繰り返されていた会話が突然に天使の方に向く。話し始めるのを待つように、優しい目が見つめる。


「えっと……今、私休学中で……なんていうか、人を、殴っちゃって、それで……」


 色呑が驚いたように口をすぼませ、目を見開いて飛鷹と顔を見合わせる。耐えきれないように飛鷹が噴き出した。


「あっははは! え、休学なんや。暴力して? 最っ高やんお前」


「え……?」


「いや私もちょうど今日ぶん殴ってきたったわ。ちょ聞いてや。あいつさぁ、アトラクション全部回る言うてたくせに、エクスプレスパス買ってへんねんで————」


 天使はすでに自分の告白には興味なさそうに、今日別れた彼氏の悪口を言い始めた飛鷹を呆然と見た。てっきり、人を傷つけるようなやつは許さへんでーと言われるのだと思っていたせいで、肩透かしを食らった気分だ。


「天使ちゃんやっけ? 悪いことした奴やったらな、一発ぐらい殴ったったらええねん。まあ、アカンこともあるけどな。どっちにしろ、殴らんと後悔するよりは絶対殴った方がええと私は思うで」


「それは言い過ぎやけどな……でもそうやね。殴るのはまあアカンとしても、別に殴ったからって天使ちゃんが悪い奴になるとかは無いと思うよ? アカンことが必要な時もある。お酒とかな」


「まゆお前、私がおらんときに酒飲んでへんよな……?」


「この人、初日に泥酔してました……」


「それ言うたらアカンやつやで天使ちゃん——!」


「そうか、禁酒しよ言うたのにな……もう絶交やな……」


「ご無体なぁ……!」


「……ふふ」


 天使にとっては一世一代の事件を相談したとは思えない気楽な二人に、天使は思わず笑ってしまう。


「あ、笑った?」


「ええねんで、もうちょい気楽にしても。別に居たいんやったら好きなだけ居ったらええし、帰りたくなったら帰ったらいい。なぁんかまゆが気にかけたんが分かるわ。私が浮気したろかな」


「ダメやって! 天使ちゃんは私の彼女やもんね?」


「いや、違いますけど」


「言われとるで、まゆ!」


 天使はその後、さらに三日間ほど二人と生活を共にした。旅行に出かけたわけでもなく、ほんの当たり前の日常でしかなかったが、天使にとって友人でもなく教師でもない二人との生活は、まるで姉妹と過ごすような不思議な時間だった。


「一週間ほど、お世話になりました」


「ほんまにもう帰っちゃうん? 休学はまだもうちょいあるんやろ?」


「……進みたくなったので、前に」


「……そう。じゃあこれでお別れかぁ……そや、電話番号は交換しとこな。飲み会の途中でかけたりするかもやからごめんな」


 荷物をまとめた天使が、玄関で色呑と話していると、二階から管理人の湯原が降りてきた。


「あら、帰っちゃうのね」


「はい、居候……みたいなものだったので」


「ていうか、天使ちゃん二年なんやったらさ、大学生なったらまた来ぃや。その頃は飛鷹もおらんからあたし一人で寂しくしてるやろから」


「あら、あなた高校生やったん。大人っぽいからもう……まゆちゃん、堪忍やで」


「あはは、すんません」


「またシェアハウスするんやったら、まゆちゃんに言うてな。そんときはちゃんと大学生になってからね」


「分かりました」


 天使は、出身が関東だと湯原にバレないようにとりあえず頷いておいた。


「それじゃあ、さようなら」


「うん、またね」


 緩んだ笑顔で手を振る色呑に、天使も笑顔で手を振り返した。付き合いは今までの誰よりも短いが、これほど満足のいく別れも無いと思った。


 キャリーケースの車輪を転がしながら、天使は一週間を過ごした家に背を向ける。


 その背に羽はなく、笑顔の消えた顔の上には光輪もない。


 この一週間が楽しかったと思うほど、冷たく文章を返したままの相手にも、突然休学すると伝えられたであろう生徒たちにも、申し訳ない思いと責められるような辛さが苛烈に襲い来る。


 けれど、そんな思いを気にも留めないほどに、天使は自由と自信を実感していた。


 きっと、もう元の日々には戻れないのだろう。道化を演じることも、外道に落ちることもできない私にできること。


「——やるべきことを、やらなくちゃ」


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