第五十話 先輩と先輩と先輩
・主な登場人物
愛ヶ崎天使:この物語の主人公。天使ちゃん。現在生徒会執行部副会長。
色呑真由莉:関西出身の大学生。訛りはあまり強くない。寂しがりの自由人。
高山飛鷹:関西出身の大学生。訛りはかなり強い。
天使はどこへ行くのだろうか。天使の背を夢見る者は少なくないが、雑多な日々の喧騒に揉まれるうちに、自分の見上げていたものすらも忘れてしまう。
天使のようだと、子供を褒める人がいる。天使のようだと、美しさを讃える人がいる。
しかし、その誰もがいつのまにか、天使とは呼ばれなくなっていく。
残酷な時が針を進めれば、等しく誰もが聖性を失ってしまうのだろうか。あるいは、この俗世を生きる人々の目では、天使を認識することができないのだろうか。
台典市の天使の噂は、絶えることなく語り継がれている。けれどそれは、天使の永遠性を証明するものではない。むしろ、天使が誰でもないということは、天使がいずれいなくなるということを暗に示しているのかもしれない。
この町には、天使がいる。そう言っていれば、いつかどこかに、本当の天使が来るかもしれないという期待を込めて、いなくなった天使の影を、幻を夢見るのだ。
平日だというのに混雑した構内を抜けて、目的の発車口に辿り着く。インターネット上で面白おかしく語られるほど、案内板は複雑ではなかった。天井が低く感じ、行きかう人々のせわしなさにもどこか閉塞感を覚えてしまう。
上着のポケットにしまった切符がきちんと存在していることを確認して、エスカレーターに乗り込む。人混みが苦手なわけではないが、目的の分からない人間の行き来が多いとどうしても不安が込み上げてくる。
特に休日でもないおかげか、自由席でもぽつりぽつりと空席が見られた。スーツケースを棚に上げ、窓側に座る。バッグから構内の書店で買ったばかりの本を取り出し、膝の上に置いた。まだ読む気にはなれず、動かないままの車窓を眺める。
自分はこの鉄塊によって、知らない場所へ連れていかれるのだ。不意にそんな思いが去来した。寂しさとも、嬉しさともつかない感情で胸が満ちていく。
アナウンスの後に、わずかな重力が体にかかる。車窓が揺れ、風景が動き始めた。
魂が置き去りにされ、体だけが巨大な力に運ばれていくような感覚。行きたくないと思っても、この鉄の箱は私を連れて進んでいく。
天使はそんな寂しさから目を背けるように、本をぱらぱらとめくると、真ん中のあたりに挟まっていた小さなチラシを取り除き最後のページに挟みなおした。
翼が無ければ急流に流されるしかない。
天使は椅子に深く座りなおすと、整然と並んだ活字に目を落とし、思索の世界から離れた。
新幹線を降りた天使は、人込みに流されないよう窓の方に寄って立ち止まった。都会慣れしているつもりでいたが、そう思っているほど不用心になる気がした。知らない土地では用心しすぎるくらいが良いだろう。
日本人の方が数の少ないように思える人波をぼんやりと眺めていた天使は、退屈を感じて駅の外に視線を移した。
台典市と比べれば、道幅も広くビルが立ち並ぶ様は、異境と言うべき風景だ。しかし、ところどころに木々の温かさを感じる街並みは、どこか自分を受け入れてくれているように感じられた。
「よかった、こっちは空いてる」
ゆっくり降りたせいか、新幹線口のトイレは平日の日中にもかかわらず列をなしていた。仕方なく改札を抜け、少し迷いながらも在来線のトイレに向かう。
トイレから出てみると、全く見覚えのない風景が広がっていた。いや、どこかからはやってきたはずなのだが、どちらが往路だったか分からない。とりあえず、進んでみようと歩き出す。立ち止まっていては田舎者丸出しだ。
まっすぐ進んでいくと、駅のホームに戻ってきたようだったが、入ってきた場所とは違ったようだった。恐る恐る左右を確認すると、見覚えのないラーメン屋が混雑していた。お腹がキュルキュルと収縮するような感覚に足が動きかけたが、知らない場所のラーメン屋に一人で入る勇気は、今は無かった。
唇をかみしめながら、目当てのホームを探す。と言っても、行く当ては本来無かった。とりあえずは、大阪駅——梅田駅? に行ってみようと思い、案内板を確認する。
節足動物のように幾重にも道の伸びた広場をざっと見回すと、目的の場所は案外すぐに見つかった。都会と言えど、日中ならばそれほどの混雑でもないのが幸いした。
エスカレーターを降りると、さらに人が少なくなる。自分が向かっているのは大都会のはずだ。こんなに向かう人が少ないタイミングがあるのだろうか。
三分後にやってきた在来線は、台典市なら混雑といって良い程度の乗車率だった。どうやらこの駅から乗る人が少ないだけのようだ。
快速と書かれたこの電車が、よもや大阪駅を飛ばさないだろうかと、天使は知らない駅と路線の名前を繰り返し読み上げる車内放送に不安になる。見上げた路線図に目線を滑らせると、目的の二駅間にはカラフルな線が白い丸を繋いでいた。おそらくすべての電車が停車するということだろう。
天使が挙動不審に頭を働かせているうちに、規則的な揺れは止まり、大阪駅に停車した。数名が立ち上がり、扉の前に近寄っていく。天使は反対側のドア前に立っていたが、機を逸してしまい、列が分かれる真ん中に所在なく立ち止まる。
流れに任せて降りた先は、思い描いていた新天地であった。都会と言うだけならば、すでに東京駅を通っていたが、複数のホームからエスカレーターが天楼へと伸びていく開放的な様は、天使にとって新鮮な風景だった。
雑踏に惑わされないように、一度ベンチに避難する。今更になって、スマホの地図を見ようと思い立ち、現在地を確認する。目的としていた梅田駅は、どうやら違う路線の駅だったようだ。徒歩で行ける距離ならと思い立ち、改札を抜ける。
駅に複合した商業施設を通り抜けると、複雑に交差した遊歩道が道路の上に跨っていた。分かったつもりでかばんにしまったスマホの地図機能を慌てて開き直す。まだ日の高い都会の街並みに、立ち止まっているのは自分だけのように感じられた。
とっさに周りを見渡し、観葉植物の下に作られたベンチを見つけ、腰を落ち着ける。駅が長すぎるせいで、駅を中心に地図を見るのも困難だ。せわしない街の雑踏が集中力を削ぐ。
「ねえ、飛鷹! 置いてかないでよ! まだ話は終わってないじゃん!」
「だから、もうマユも一人で大丈夫やろ? 別に、今すぐにって話じゃないねんから」
「あたしより、その馬の骨が大事なんだ?」
「ちっ、お前な……私も別に、マユと一緒に居たくないとかやないけど……ほら、いずれはさ」
遠くの喧騒だと思っていた会話が、思っていたよりも近くから聞こえていたことに気が付き、天使は経路検索もおぼつかず、会話に聞き入ってしまう。男女のように聞こえていたが、どうやら女性二人の会話らしい。
ボーイッシュな短髪で力強い訛り口調の女性には、どこか三峰を重ねてしまう。バレないようにちらりと向けた目線に、細い脚が映った。
「——マユだって、別にもう、私がいなくてもええやろ?」
「そんなの、そんなわけないじゃん! 飛鷹は、あたしのこと遊びだったの!?! 別で男作ってさ、どんな気持ちで、あたしと——」
片方の女性の嗚咽交じりの声が響く。
天使は、他人事のように聞いていたが、ふと自分の探し相手が同様の状況になっている可能性に気が付く。先輩にも、彼女ができているかもしれないのだ。
うーん。想像もつかない、というのは失礼かもしれないが、だからこそ、そんな状況を目の当りにしたら、自分はどう感じるのだろうか。「もしかして、お姉さんですか?」なんてどうしようもない冗談では、ここまで来た不審さを増長させるばかりだろう。
もし、今の自分が「気に食わない」と思うような、どこの馬の骨とも知れない女を連れていたとしたらどうしよう。きっと私は、それが彼の選択だとしても、その女性を、そして彼自身すらも嫌いになってしまうかもしれない。
誰かを簡単に嫌いになってしまえるような、今の自分の感性に虫唾が走る。残暑の続く街の、ビル群に乱反射した光が風景を歪ませる。
いったい、何をしに来たのだ。私は。ため息は誰にも聞こえず喧騒に消えていく。
「————ああもう、行くからな! 一回頭冷やして考えろ!」
「ねえ、待ってよ! ちょっと……あたし……」
置いていかれた女性の声が弱く消えていく。太陽がビルの影に入ったのか、ふっと彼女の体が影に覆われる。
「あっ————」
ガラガラと音を立ててキャスターが転がる音で、天使は自分が彼女に向かって一歩踏み出そうとしてしまったことに気が付く。慌ててスーツケースを支え、動きを止める。
中腰のまま姿勢を固めた天使は、不思議そうな目で自分の方を見つめる女性と視線を交わした。去っていった女性ほどではないが、ショートヘアが爽やかだ。
気まずい沈黙が流れる。知らない彼女に恥をかかせるくらいなら、さっさとこの場から逃げ出す方が良い気さえした。
「あは、ごめんねぇ。なんか、変なとこ見せちゃったかな」
「あ、いえ……その、こちらこそ、すみません」
これまでなら、「ボクならお話お聞きできますよ」などと嘯いていたところだが、私はもう天使ではなかった。知らない土地の知らない人。自分と相手の間に引かれた、絶対的な境界線に敏感に怯えるようになっていた。
「いや、別にいいよ。悪いのはこっち……というか、あいつだから。——隣、ちょっと座っていい?」
その女性——近くでよく見てみると、そんなに年上でもなさそうに見える。大学生だろうか——は、そう言うと、答えを待たずに天使の隣に腰掛けた。まだ少し目が腫れているが、口元は猫のようなきままな笑みだ。それは彼女の化粧がそう見せたというだけでなく、すでに悲しみや苦しみよりも、彼女の中で好奇心が勝っているのだと思わされた。
「キミ、名前は?」
「えっと……」
ためらいなく横に座った女性に、天使は唐突に名前を聞かれ言いよどんだ。名前に対する苦手意識は、執行部での活動を通して緩和されていたが、今の自分が「天使」を名乗ることにはためらいがあった。
「ふふ、キミ、関東人でしょ。用心深いのは良いことやと思うよ。じゃあ、先にあたしね。あたしは色呑真由莉。色に、丸呑みで「しきのみ」ね。色呑先輩って呼んでくれていいよ」
「先輩、なんですか?」
「いや、ちゃうけどさ。ほら、あたし今大学一年なんだけど、誰も先輩って言ってくれないからさ、ね?」
「せ、先輩?」
「そうそう、いい子ね」
不思議な距離感で話を始める色呑に、天使は圧倒されそうになる。
そう言えば、昔はこんな風に知らない人の話を聞いていたこともあった。新天地だからと怯えていたが、どこにいても人は人なのだ。寂しければ人肌を求めるし、その様子は傍から見れば奇妙にも映る。
しかし、やはりまだ天使は、自分を「天使」なのだと思い切る勇気も好奇心も無かった。どちらかといえば、早く話を切り上げて、どこかへ行ってしまいたかった。
だが、どうにも彼女はそれを許してくれそうにない。彼女に感じる得も言われぬ感情が、不快なのか安心なのか、曖昧なまま心の中で広がっていく。
「私は、天使……愛ヶ崎、天使って言います」
「てんし……てんしって、天の子ども?」
「えと、天の使いで、天使です」
なんだか自分で言っていて少しだけ恥ずかしくなる。いっそ、恥を捨てて胸を張った方が何倍も楽になれるだろう。しかし、そんな空元気は彼女の前では、なぜだかできそうになかった。
「へー、あれ、あたしの中学の友達にさ、久しいに間でクマってやつがいたんだけど、そいつが「あ、クマ!」っていじられてたの、何か思い出したわ。ほら、悪魔ってさ」
「あ、くま……あはは……」
自分の探していた悪魔先輩とは無関係のようだが、突然悪魔と言われて動揺してしまう。それ以外はむしろ反応のしようもないつまらなさだ。
「ああ、ごめん。あんま気持ちいい話でもないか」
「いえ、それよりその、さっきのって——」
「ああ、飛鷹? あたしの彼女……だったんだけどね……」
「か、彼女ですか」
親密そうな、それ故に深刻そうな喧嘩だったが、それほどに深い仲とは思っておらず、一瞬思考が止まる。
そも、同性の恋人と言うのは親友と何が違うのだろう。天使の頭の中に、数名の知り合いの顔が浮かんでは消える。そのどれも、恋愛と言う枠組みの中には入りそうにも無かった。そもそも男性の顔もあてはまりそうにないのではあったが。
「ん? そうだけど、もしかして天使ちゃん、結構ウブな感じ? こんなにかわいい顔してるのに、恋愛したことないとかもったいないな~」
「あ、それは……」
一瞬脳裏に亜熊の柔らかな笑顔がよぎり、砂像のように掻き消える。
恋愛をしてみたいと思ったことが無いわけではない。ただ、「天使」であった自分には、恋愛が必要ないと本心から思っていたというだけなのだ。そして今、「天使」でなくなった自分には、欲望が現れるでもなく、ただそのがらんどうが、ぽっかりと空いているだけであった。
「……もしかして、傷心旅行だった?」
「いえ……それも、違うというか、なんというか……ただ、人を探しに来たんです」
色呑は、うつむいた天使の顔を覗き込むと、優しく笑った。
「ふふ……それ、先輩でしょ」
「えっ?」
「天使ちゃん、高校生っぽいし、進学で大阪に来た先輩を探しに来たとか、そんな感じじゃない?」
「そ、そうですけど……」
「まじ? あたりはつけてるの?」
「それが、大阪の方、ってぐらいしか」
天使の言葉に色呑は呆れたように腕を投げ出す。
「それじゃあ、四年かけても見つからないって。電話とかはしてみた?」
「多分、つながらないと……」
さらにうつむいた天使を見て、色呑は立ち上がると、正面から天使の手を取った。
「じゃあさ、ちょっと観光してみない?」
「観光、ですか?」
天使はぽかんと色呑を見上げる。
「そう。大学って、多分どこも今は夏休みだから、大阪の大学生ならこの辺で遊んでるかもでしょ?」
「それは……そう、ですね」
「それに、天使ちゃん。その人と会いたくて来たってだけじゃないでしょ?」
「えっ?」
不意に見透かすように薄く笑った色呑の姿が、やけに艶やかに映る。
「なんか忘れたいことがあるって顔。可愛い顔が台無しになってる」
知らず下がった口角を、色吞の指が軽く押し上げた。
それはいつか自分が誰かにしてあげたような福音だったが、不思議と目の前の女性の姿は「天使」とは重ならなかった。
色呑に連れられるまま、天使は歩道橋を抜け、交差点を進んだ。途中、天使が目的としていた駅が横目に流れていったが、天使はむしろ、運命から外れるような心地よさを感じた。少なくとも、今自分の手を引く人には、自分よりも確かな目的があると思えた。
十分ほど歩き、先ほどとは違う沿線の駅に辿り着く。
電車に乗ると、色呑は笑みを浮かべたままで静かになり、話しかけてくる様子は無かった。時折目が合うと、悪戯っぽく笑いかけてくる。天使はそれに、困ったような顔を返すことしかできなかった。
いったいどこへ行くつもりなのだろうか。疑問は少しずつ不安に変わる。
路線図を見上げた天使は、知らない地名が多く、思考を止めかける。よく頭を働かせてみると、路線図の端に書かれた地名は、数字違いの似た地名のようだった。何条という地名は、確か、京都のものだった気がする。
頭の中の日本地図に、大阪から京都への鉄道が開通する。京都には、確かに旅行や観光といったイメージが強くある。とはいえ、わざわざ大阪から出る意味も汲み取りきれてはいない。
今はどの駅なのだろうと路線図を端から辿った天使の目に、地名と言うよりも観光地の名称のような駅名が留まる。詳しく知っているわけではないが、有名な神社だった気がする。
落ち着いて車内を見てみると、吊り下げ広告の一部には、京都観光を促すようなものも多かった。華やかに添えられた写真の一つに、同じ名前の場所を見つける。きっと色呑は、ここに行くのだろう。
安心して電車の揺れを感じ始めた天使の腕を、色呑が軽く引く。まだもう数駅あると思っていたが、もう着いたらしい。路線図と構内の案内板の文字を比べて見てみると、どうやらこの駅で乗り換える必要があるらしい。アナウンスの読み上げと目に入ってくる漢字が上手く照合できず、合っているのか不安になる。
「こっから歩いてすぐだから、もう少し気張ってね」
そう言うと、色呑はさっさと改札を出ていってしまう。天使は困惑しながらも、慌てて後を追う。とっさに見た地図では、まだ大阪府内のようだった。かなり電車に揺られた気でいたが、街並みはまだずいぶんと都会に見える。
慣れた足取りで進む色呑を少し不安に思いながら、天使はスーツケースを引く。曇り空の街並みは、不思議と人が少なく、異空間に迷い込んだようだった。実際、土地勘も無い天使にとっては、別の世界と言っても良かった。
しばらく歩くと、不意に色呑が立ち止まる。
「よし、ここだよ」
彼女の指す先には、一軒のアパートが建っている。
「家、ですか?」
「そうそう、とりあえず荷物置かない?どうせ長くなるんだしさ」
「えっと……そんなに長居するつもりはなくて……」
「え~? 飛鷹なんか、あたしを置いて二週間も旅行行くんだよ? その間、寂しいじゃんか」
「私は、その飛鷹さんとは関係ないじゃないですか」
天使がむすっとした表情で反論すると、色呑は口をとがらせた。
「まあ、そうだけどさ。……そもそも、天使ちゃんは学生だもんね。引き留めても悪いか」
一瞬だけ、寂しそうに目を落として、色呑は階段を上っていった。
「とりあえず荷物は置きなよ。どうせホテルとか取ってないんでしょ?」
何かを隠すようにそそくさと、色呑は鍵を開けて室内へと消えていった。
天使は中に入ると、思ったよりも広いダイニングに驚く。
考えてみれば、彼女は飛鷹という女性と二人暮らしだったのだろう。一人にしては広い部屋は、よく整頓されていた。見方を変えれば、今さっきにでも誰かが出ていく支度をしたようにも見える。
自分も家を出る前にすっかり家を片付けてきたので、話したことも無い飛鷹という先ほどの女性に親近感がわく。しかしそれは一方で、色呑と飛鷹の関係が良好でない証明でもあった。
「適当でいいよ~。その辺とかしばらく使わないだろうし」
どこかの部屋からやってきた色呑は、部屋のがらんとした部分を指さした。きっと飛鷹の荷物があったのだろう。
それにしても、なんとなくついてきてしまったが、大丈夫なのだろうか。
天使は自分の悪運の強さや運命力の強さには自信があった。きっと色呑は悪い人間ではないと思っていたが、よく考えてみれば、見ず知らずの高校生を家に泊めようとしているのだ。怪しくないわけが無かった。
もし母や誰かが捜索願でも出していたら、色呑は誘拐犯として捕まってしまうかもしれない。
……別にいいか。知らない人なわけだし。
天使は、不思議そうに見つめ返してくる色呑を見て、そう考えることにした。最悪の場合、襲われたりしたら抗えないような体格でもない。この世界には、誘拐犯だけがいるわけではないのだ。人の善意につけこみ、優しさを無下にする人もいる。むしろ自分がそうならないように心掛ける方が大事だろう。
それに、きっと母は、捜索願なんて出さない。仮に、遺書でも残して出ていっていたら、勝手に後追いするような人だ。
ひとまず、今日の宿は取らなくて済んだと思うことにしよう。もともと、あてのない旅だ。出会いは大切にしてみてもいいだろう。
天使はスーツケースを床に置くと、退屈そうに椅子に座っている色呑に声をかける。
「あの、長居する気は無いんですけど、少しだけ泊まらせてもらってもいいですか」
「うん、いいよ。もし急にあいつが帰ってきたら……まあ、そんときはそんときか!」
天使は軽く荷物をまとめると、歩き回れるようにリュックの中身を軽くした。泊めてもらえるとはいえ、あまり散らかしても心象を悪くするだろう。なるべく広がらないように整頓して荷物を並べて置いた。
「も~、ほんとに適当でいいよ。今は片付いてるけど、元々はゴミ屋敷みたいな感じだったし」
色呑はおかしそうに笑いながら近づいてきた。
「それより、早く行こ? もう暗くなっちゃうよ」
天使が腕時計を確認すると、時刻は一四時を過ぎたところだった。思い出すようにお腹がキュルキュルと鳴り始める。そういえば昼食を取り忘れていた。
「もしかして、お昼食べてない? って、それは私もそうなんだけど」
色呑は、ちょっと待っててというと、扉の向こうへと消えていった。おそらくキッチンがその方向にあるのだろう。
かと思うと、ひょっこりと彼女は扉から顔を出した。
「天使ちゃんって、アレルギーとかないよね? てか、カップ麺でいい?」
「あ……大丈夫です。アレルギー、ないです」
オッケーと軽い返事で再び消えていった色呑に、天使は、ありがとうと言い損ねたことに気が付く。
「あれ、まだ準備してていいよ? どうせ三分待たないとだしさ」
「あ、えっと……ご飯、ありがとうございます」
天使がおずおずとそう言いだすと、色呑はきょとんとした顔で目の前の少女を見た。そして、噴き出すように破顔すると、申し訳なさそうな顔の天使の頬を両手でこねくり回した。
「なになに、可愛すぎるって~! いいのいいの。むしろ、こんなのしか無くてごめんね! 夜は美味しいお店行こっ!」
「あわわ…………」
天使は突然の過度なスキンシップに頭が真っ白になる。
彼女のコミュニケーションは予想がつかなくて困ってしまう。かといって、露骨に嫌がるのも悪いかと思ってされるがままに立ち尽くすしかない。
満足げに色吞が離れていった後で、天使は手持無沙汰になり家の中を散策する。
広いと思った室内は、どうやら実際に広いようで、リビングとキッチン、ダイニングの他に寝室と思われる部屋が一部屋あった。二人で住んでいるとはいえ、それなりの家賃がかかるのではないかと思いながら、天使は一人分の空白がある部屋を見回った。
「天使ちゃ~ん、お湯湧いたよ~!」
「は、は~い」
遠慮なく大声で呼ぶ彼女に、少し驚いて天使は返事をする。
キッチンに戻り、麺が茹で上がる時間を待つ。せわしなく動く色呑が、天使のカップ麺の横にコップを置き、麦茶を注いだ。
「ありがとうございます」
「ん」
色呑は自分の分も注いだ後、割り箸を一膳天使に渡すと、席に座った。
「今から行くならどこがいいかな~」
「やっぱり、有名な所のほうがいいですか」
先輩を探す、という名目上、大学生が行きそうなところが良いのだろうが、皆目見当がつかない。そもそも、外出している印象のない人なのだ、私の探している先輩は。
「え~、でも大阪でしょ? どこだろうね」
「大阪って、観光地なんですよね」
「そりゃあまあ、そうだけどさ。じゃあどこ行くのってなると中々ね……いや、色々あるんだけど、特にって言うと……大阪城とかがベタなのかな。それか、新世界——は今行かないか……とりあえず、大阪城でも行ってみよっか」
話しているうちに出来上がったカップ麺を、静かに二人は食べ始めた。
天使は、麺をゆっくりと食みながら、この奇妙な状況を見つめ直す。
知らない土地の、知らない人の家で、知らない人とカップ麺を食べている。考えれば考えるほど、奇怪で異常なことだ。誰に話しても、呆れたような顔をされるだろう。
「? こっちも食べる?」
視線に気が付いたのか、色呑が麺を掬い取って示す。天使が首を横に振ると、そ、と言ってまたすすり始めた。
彼女も変な人だ。一年生と言っていたから、多分二つ上、亜熊先輩と同い年。だからといって接点も無いだろうが、どこか大人びた雰囲気を感じる。
知的な、というと良く言い過ぎかもしれないが、落ち着いた印象もありながら、接しやすい明るい表情も見せる。楽しませようと振舞う一方で、どこか寂しさを抱えているように思える姿に、親近感を覚える。
きっと、彼女にとって、飛鷹というあの女性は大切な人だったのだろう。
「色呑、先輩は、どこの大学に通われているんですか?」
「あたし? あたしはねぇ、D大だよ。飛鷹も一緒」
天使は、まだ受験に対する危機感も、進学のための下調べもしておらず、大学の名前や偏差値にそれほど詳しくはない。しかし、そんな天使でも、模試の際に適当に埋めていた志望校の欄や、教室の後方に貼られていた偏差値の一覧などで、彼女の口にした大学の名前を目にしたことがあった。
「聞いたことあります。色呑先輩って、賢いんですね」
「え? ああ、いや……まぁね~」
妙に歯切れの悪い色呑に首をかしげながら、天使はもう一人の先輩——亜熊遥斗のことを考える。彼が同じ大学に行っている可能性は————無いだろう。D大があるのは京都だ。学力はともかく、所在地ではなく専攻内容に重きを置いていたはずの彼が、大阪の大学に落ちたからといって京都の私立大学に行く理由は考えられない。
「飛鷹さんも、同じ大学なんですか?」
「ああ、うん。あいつは今三年でさ、就職もこの辺にするって言ってたのに、男ができたから出ていくって言いだして、ほんと最悪だよね」
「そ、そうですね……」
人の事情にあまり言い過ぎることもできず、曖昧に賛同する。
「ああ、なんか思い出したら腹立ってきた! あたしが卒業するまで一緒にいてくれるって言ってたのにぃ! ムカつく!」
色呑はそう言って立ち上がると、冷蔵庫から琥珀色の液体が入った瓶を取り出した。麦茶の無くなったコップに躊躇いなくその液体を注いでいく。
「くぁ~!」
色呑はコップの中の飲み物を一気に飲み干そうとして、一口飲み込むと渋い顔でそう叫んだ。思い出したように再び立ち上がると、冷蔵庫から炭酸水の入ったペットボトルを取り出し、コップに注ぐ。
「はぁ……」
炭酸水で割られたその液体を呑むと、色呑は落ち着いたようにため息をついた。
「あの、先輩……?」
「なぁに、天使ちゃん」
テーブルを挟んだ向かいの彼女の息は、少しアルコール臭い。天使が瓶のラベルに目をやると、琥珀色に照り返す文字はアルコール分16%と書かれていた。
「観光、行くんですよね?」
「うん、行くけど?」
「お酒、飲みました?」
「飲んだけど?」
「…………」
————ダメだ、この人。
天使は口に出さないように、心の中で頭を抱えて落胆した。まだ一五時にもならないくらいだというのに、酒を呷るようなダメ人間だった。少し変な人だとは思っていたが、想像以上に変な人かもしれない……そもそも————。
「先輩、お酒飲んで大丈夫なんですか?」
「なによ、天使ちゃんまでそんなこと言うわけ? お医者さんでもないんだからさ~。そもそも医者も止めろとは言ってなかったし~。あ、あなたは飲んだらダメだよ? 未成年なんだし」
あんたが言うのか、という言葉を飲み込んで、代わりにがっくりと肩を落とす。
大丈夫と言いながら、その呂律はすでに怪しくなりつつある。言い訳をしている割に、しゃべりながら飲む手を止めようとはしていなかった。医者に止められるほどの中毒、ということなのだろうか。とんだ奇人を引いてしまったものだ。
「あ~、ごめん。天使ちゃん、やっぱ観光無理かも……気持ちよくなってきた……」
「えっと、あの……先輩、大丈夫ですか?」
大人びた雰囲気と整った顔立ちの印象が、飲酒でがらりと変わってしまう。目じりに薄く涙を浮かべ、真っ赤な顔を緩ませる目の前の先輩は、典型的なダメ大学生だ。それもかなりダメな方の。
「ごめん、天使ちゃん。ちょい助けて……眠い……」
「えぇ……しっかりしてください。お水も飲んで……」
天使はのん兵衛の介護をしたことは無かったが、とりあえず水を飲ませればいいと何かで読んだ気がした。彼女がアルコールの分解に自信があったとしても、すでにかなりの量を飲んでしまった。
虚ろな目で楽しそうに笑う色呑をベッドに寝かせ、天使は大きなため息を吐く。
私、本当に何してるんだろう。
キッチンに戻った天使は、テーブルに残されたカップ麺の器と色呑の箸を洗い、無造作に置かれていたクロスで机の上を拭いた。時刻を見ると、一六時になろうとしている。
観光はもう難しそうだ。とはいえ、本当にここにいていいのだろうか。
彼女が自分を騙したり襲ったりするような悪い人間でないことは、すでに疑いようの無いことであった。しかし、優しい人間だと思ったところで、彼女が自分にとって良い影響をもたらすとは思えない。アルコール中毒のダメ大学生の介護を、私がしないといけない理由は無い。
とはいえ、彼女を一人にしてしまうのは、どこか気が引けた。乗り掛かった舟だから、というのもあるし、どこか放っておけない魅力を、彼女に感じている。
「どうせ、やることも無いか」
そうだ、帰ったって、出ていったって、行くべき場所も、やるべきことも、今は無いのだ。それなら少しくらい彼女に寄り添ってみてもいいだろう。
見ず知らずのはずの私に、不思議な態度ではあったが優しくしてくれた彼女と、おままごとのような傷のなめ合いをしたって構わないだろう。
「ふふっ……」
なんだか、今までとは反対の立場になってしまったことに気が付いて、天使は思わず笑ってしまう。生徒会執行部として活動していた時、他の生徒たちから見たら、私はあんな風に映っていたのだろうか。
恥ずかしいという気持ちよりも、穏やかな追憶が心を流れた。穏やかで、楽しい記憶。
今を楽しいと思えるから、成長を肯定できるから、明るく前に進もうと思えるのだ。きっと色呑も、飛鷹という女性との日々が楽しかったから、そうして明るくいられたのだろう。
明るく見えた色呑の態度は、実際は空元気だったのだろう。酔っ払って見せた不安と酔いの混じった顔が、彼女の本心なのかもしれない。
助けを、救いを彼女に求めるわけではない。ただもう少しだけ、彼女が自分の人生に起こす波紋を知りたくなった。
それは天使が空を飛んでいるだけでは分からない、地上の景色。不文律に従った、人間の息遣い。突発的な絡まり合い。
ここには私の知らないことが、まだまだあると思えた。そんな好奇心がなにより天使を引き留めたのだった。
それから、天使は、リビングのソファで、新幹線では読み切れなかった本の続きを読んでいたが、外から聞こえてくる焦るような足音に気が付いた。
「————?」
部屋に入る時、建物の外側に錆びた階段があったことを思い出す。おそらく、二階に住んでいる誰かが出かけたのだろう。
「————!」
そう考えて活字に目を戻した刹那、玄関の呼び鈴が鳴り響く。台典市の下宿にはベルが付いていなかったため、久しぶりに聞いたその音は、嫌でも来訪者の存在を知らせる。
出ても大丈夫なのか? そもそも、自分が行くべきなのだろうか。居留守を使う?
様々な考えが頭の中をよぎる。
「は、は~い」
結局、天使は呼び鈴の音を無視することができず、ゆっくりと扉を開いた。
「ああ良かった。真由莉ちゃん————って、また違う子ね」
「?」
「あら、ごめんなさい。あなた真由莉ちゃんのお友達よね。私は湯原みつきって言うの。みつきって呼んで?」
「み、みつきさん?」
「そうそう。ここの管理人……というか、下の部屋だけ真由莉ちゃんたちに貸してるのよね」
天使は、管理人という響きに少しだけ怯える。彼女は自分が正規の住人でないことを知っているはずだ。しかし、その表情は穏やかで、追い出そうという雰囲気ではない。むしろ、安心したような顔だった。
「あ、あの、今色呑先輩は……」
「お酒飲んで寝ちゃった、でしょ?」
「え……」
ずばりと言い当てられて、天使は言葉を失う。色呑は大学一年生だ。未成年飲酒だとばれたら……いや、私刑でどうこうできるものでもないだろうが、どこか居心地が悪い。
しかし、湯原は責めるわけでもなく、優しい口調で語り始めた。
「真由莉ちゃんね、一年生の時に色々あったらしくて、ずっと引きこもってたのよ。ほら、心の病っていうやつ? 飛鷹ちゃんもずっと一緒にいてくれてね、ようやく今年から復学できたみたいだけど、時々嫌なことがあると、やっぱり辛くなるみたいでお酒に逃げちゃうのよ」
「心の、病……」
天使は、色呑の過去を自分に重ね合わせるように、胸に手を当ててつぶやいた。
「だから、ちょっと心配になってきちゃったんだけど……うん、あなたがいてくれるなら大丈夫かしら」
「わ、私ですか?」
「うん、そう。あなた、きっちりしてそうだし。何か困ったことがあったら、すぐ上に呼びに来てくれて構わないから」
「は、はい……」
きっちりしていると言われても、ほとんど他人のようなものだが、天使は余計にこの家を離れづらくなってしまった。形式的な応答とはいえ、はいと言ってしまうと期待を裏切れない気持ちになってしまう。
湯原は満足げに頷くと、お願いねと言い残して階上へと去っていった。
天使は扉の鍵をかけ、色呑を寝かせたベッドの部屋に入る。彼女は気持ちよさそうに眠ったままだ。
天使は、静かにほほ笑むと、穏やかな表情の彼女を静かに撫でた。アルコールで上気した彼女の肌は、少し熱い。
幸せそうに寝息を立てる色呑の姿に、天使も電車での疲れがやってきたのか、なんだか眠気に襲われる。ベッドサイドに膝立ちで、清潔なシーツに顔を伏せるとじんわりと疲れが体に浸みていく。
気が付けば、部屋には二つの静かな寝息が並んでいた。
天使はどこへ行くのだろうか。その答えは知らないまま、人は幸せな夢を見る。