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誰も救えない天使の話  作者: 錆井鈴江
台典商高編 羽化の章
52/81

第四十九話 re:天使 後編

・主な登場人物

藍虎碧あいとら みどり:現在生徒会執行部書記の女子生徒。クールに見られがち。


藍虎茜あいとら あかね:碧の中学生の妹。


「お~い、ねえ、ちょっと……はぁ……私、遅刻しても知らないよ?」


 意識の遠くで、誰かが自分を揺り起こそうとしている。ホルマリン漬けにされているかのような浮遊感。夢遊病のような虚ろな感覚の中で、私はもう少しだけ、幸せな夢を見ていたいと思った。


 幸せ……私は今、幸せな夢を見ているのだろうか。現実は幸せではないのだろうか。


 トタトタと離れていった足音が、再び部屋から出ていく寸前で止まる。足音が私の近くに近づいてきて、それから薄く大きな何かが私を覆い隠す。


 再び去っていく足音を聞きながら、眩しい太陽の光から身を守るために、私は皮膜の中に身を丸めた。

 

 床に響くあちこちの生活音が、意識の向こうへ融けていく。強張っていた体の力が抜けていき、半覚醒状態の意識は再び眠りの中へと戻っていった。





 リビングの方から聞こえてくる大きな笑い声で、私は目を覚ます。遅れて聴覚がテレビ番組のありふれた笑い声も拾う。


 横になったまま目を開くと、まだ少し視界は眠たげにぼやけている。


 昨日の記憶がない。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。


 何とか起き上がり、体に被さっていた薄いブランケットを、畳んでベッドの上に戻す。時刻はすでに十時を過ぎていた。


 床で眠っていたせいで、体のあちこちが痛む。全身の気だるさが風邪でないといいのだが。


(みどり)、あんた今日学校休みなの?」


「いや、違うけど」


「そうなの? まあ、朝ごはん食べちゃいなさいな。もうほとんど昼みたいな時間だけど」


 そうでもないけどな、とは言わずに食卓に着く。母はリビングのソファに寝転がって、テレビを見ている。朝食を口に運ぶ後ろで、大きな笑い声が聞こえてくる。


 焼きあがったトーストを食べながら、そういえば自分は皆勤だったと思い出す。どこかで休んだような気もするのだが、多分欠席したことは今まで一度も無かった。


 改めて見た居間の時計は、十時半を指している。遅刻だ。


 しかしながら、今から学校に行こうという気は起きなかった。制服を着たままだったが、寝ているうちに汗をかいたのか、冷たい湿気が体にまとわりついている。膝は冷え切り、残暑を感じる時期というのに毛布に潜り込みたい気分だ。


 一挙手一投足がさび付いたように愚鈍だ。けれど体は羽のように軽く感じる。


 咀嚼された林檎が、食道を通って胃の中に落ちる。胃酸と混じりペースト状になった朝食の中に落ち、空っぽの体に水音が反響していった。


「ごちそうさま」


 手を合わせて立ち上がった体は、驚くほどに軽かった。


 もう何も気にする必要は無いよ、と慰めるような声が脳内に響く。


 大丈夫、これで君は自由になったのだから、と同情するように声は言う。


 間欠泉のように湧き出していた気持ちは枯れ果てた。心のがらんどうは、いまや未練の水たまりすら干上がり切っている。


 食器を洗い、片付ける。歯磨きをして、部屋に戻る。学校に行く気が起きないせいで、退屈を持て余してしまう。


 思い出は涙と共に流してしまいなさい。優しい声のおかげで、ようやく私は怠惰なまどろみから覚める。ありがとう、やっぱり自分は頼りになる。


 壁のポスターを剥がす。アクリルスタンドを台から抜き取り、平行にして机の上に置く。写真立てから写真を抜いて、ポスターと同じところにまとめる。


 片付けてみると、中々広い部屋に感じる。ここが私の王国だ。


「ただいま~」


 片付けた紙類を燃えるゴミに捨てようと小さく裂いていると、玄関の方から()の声がした。そう言えば、今週はテストだと言っていたっけ。


「げぇ……」


 (あかね)は帰ってくるなり、かばんを背負ったまま、私の部屋の前で呆れるような声を出した。


「なに?」


「なに? じゃないでしょ……その破いてるやつ、大事なものじゃないの?」


「要らなくなったから処分しているんだけど。茜も、燃えるゴミあるなら、一緒に出す?」


「ああぁぁぁ……いやぁ……私は、いいかなぁ……」


 茜はそう言いながら、頭を抱えてゆっくりと後ずさり、やがて廊下からいなくなった。変な妹だ。誰に似たのだろうか。


 ともかく燃えるごみはまとめたので、次は不燃ごみだ。と思ったが、よく考えてみれば、アクリルスタンドも、写真立ても、材質的に燃えるゴミじゃないか。


 片づけは楽しい。なんだか強くそう感じる。心が晴れわたるような気持ちになれる。シミ一つない満天の青空を心に広げられる。見渡す限り何もない大きな空を仰ぐ。なんて心地よいことだろう。


「おかーさぁん! お姉ちゃん、また変になってる!」


「まぁたそんなこと言って。別に碧だって体調崩す時くらいあるわよ。茜にはまだ分からないかもしれないけどさぁ」


「いやいや、そういう話してるんじゃなくて。お姉ちゃん、あ~んなに好き好き言ってた部屋のポスターとか、ぜぇんぶ捨てちゃってるんだって!」


「なによもう。断捨離よ、きっと。ほら、最近流行ってるじゃない。ムニマリッシュ……みたいなやつ」


()()()()()()のこと? いや、流行ってないし。あれ絶対病んでるって! 先週よりひどくなってる!」


 リビングの方から耳鳴りのような甲高い声が響いてくる。なにを言っていようが興味も無い。とりあえず、まとめた袋は玄関にでも置いておこうか。


 細かく裁断したおかげで一袋にまとまったごみ袋を玄関に置いておく。


 部屋に戻るとなんだか開放感を覚えて、伸びをする。


 捨ててしまえば案外どうということは無い。整頓された部屋を見て気持ちも晴れやかになる。後はゆっくりと、心の空洞に楽しいことを詰めていこう。昔みたいに、みんなでお友達になって、笑って泣いて、支え合おう。


 清流のように回りだした思考へ、ノイズのように昨日の記憶がフラッシュバックする。



 何もない綺麗な部屋。彼女の空っぽの部屋。



 彼女の痕跡は何もない。私の痕跡は一つもない。思い出の染み一つない、清潔な部屋。



 きっと彼女のかばんには、私たちの思い出があるはずだ。少し抜けた彼女のずぼらな一面が顔を出すはずだ。机の横に置かれたかばんはやけに目につく。



 走り出そうとした時、部屋の木目が長く長く伸びていく。後数歩で届くはずだったかばんは、ずっと遠くに離れていく。



 追いかけても追いかけても、距離は縮まらない。むしろ走るほどに遠くなっていくようだ。



 ふらついた足が大きな横揺れでバランスを崩す。よろめいて顔を上げると、誰もいない電車の中だ。



 吸い寄せられるように手元のスマートフォンに目を落とす。


 絶望の舞台の始まりを告げる汽笛が鳴る。


 助けを求めるように送ったメッセージに既読が付く。



 嘲笑うような、見下すような、余裕のある言葉。



 取り消されたメッセージが、下卑た笑い声と頬を赤らめた少女の顔と共に再生される。



 彼女が送ったとは思えない文言。


 送信取り消し。


 冷たい態度。


 突然の失踪。



 点と点は線となり、線と線は星座を作る。天使は空の彼方へ、星の向こうへと見えなくなる。



 大丈夫、私の思いは誰かが背負ってくれているから。落ち着かせるような声が言う。


 小さな虫の群れが全身を這うように、網膜に焼き付いたメッセージが薄気味悪い声で囁かれる。


 天使じゃない! あれは天使じゃない!


 骨ばった雄々しい手が、天使の肩に回される。うすら笑いと共に彼女は連れ去られる。女々しく下を向いて、私の元から去っていく。


 ——もういいじゃないか。思い出は、涙と共に流された。


 重たく湿った私の思いは、ビニール袋にまとめて玄関に置いてきた。だからもう、大丈夫。


 空っぽの心を埋めていた彼女への思いは、今彼女と共にいる誰かに譲ろう。彼女が幸せなら、それでいい。それでいいじゃないか。


「ああああああああっ!!! うああああっ!!」


 意味もなく吠える。ベッドを叩く。この家は防音性が低い。そんなことは関係ない。この思いの行き先は、どこに向ければいい!


 意識はさらに明瞭になり、この世のすべてを理解した気持ちになる。けれども、彼女の居場所は分からない。彼女の思いは分からない。


「ううっ!! ぐうっ————!」


 全身を駆け巡る熱。首を絞められたような圧迫感。胸をかきむしりたくなる閉塞感。


 跳ねるように立ち上がり、トイレに駆け込む。リビングから廊下に顔を出していた茜が、ギョッとしたように顔をひっこめた。


「うううええぇぇぇ————! はぁっ……はあ……」


 体の空洞で水音を反響させていた朝食が、今度は便器の中に潜水する。


 体の内と外が反転するような感覚に恐怖する。胃が体から出ていこうと口を開けさせる。


 湿度の高いトイレの空気を、大きく開けた口から、浅い呼吸で取り入れる。口の端から垂れた唾液を吐き捨て、水洗を作動させた。


 ガンガンと鳴り響く頭痛によろめきながら、洗面所で口をゆすぐ。根野菜だろうか、固形物が不快に残っている。


 顔を上げると、ひどい顔だ。焦燥と憎悪に塗れた醜い私だ。


「————!」


 物音に洗面所の入り口を見ると、怪訝な目で茜が私を見つめていた。


「なに?」


「いや、なに? じゃなくて。大丈夫?」


「……………………シャワー」


「?」


「シャワー、浴びるから、出てって」


「う、うん……」


 茜は曖昧に頷くと、気まずそうにリビングの方へと去っていった。


 妹を追い出した手前、シャワーを浴びることにする。とっさに出た言葉だったが、汗と不快な湿気を追い出したかったのは事実だ。


 頭痛を感じてこめかみを押さえたが、気のせいだったようだ。痛みはどこか遠くへ消えていた。


 服を脱ぐと、空気の冷たさを余計に感じる。体は芯から冷え切って、全身に鳥肌が立っている。


「はぁ…………」


 シャワーが温かくなるまで、足先で温度を感じながら小さな椅子に腰かける。膝の上に肘を置いて、冷水が体にかからないようにシャワーヘッドを持った。力なく握られたシャワーヘッドからは、しかし勢いよく水が噴き出している。


「あったかい……」


 温水に変わったシャワーを肩から背中に流す。立ち上る蒸気も、今はどこか心地よい。


 シャワーヘッドを壁にかけ、髪を濡らす。冷え切っていた頭も温まり、目元の凝りもほぐれたような気がする。


 体温が上がれば気持ちも多少は楽になったようだ。受け入れられなかった事件以降の様々なことが、現実のことだと理解できる。


 そうか……嫌われちゃったのか……。


 目元がじんわりと温かくなる。目を瞑って、温かな流水が顔を叩く感触に身を任せた。


 わずかな体の震えが収まって、ようやく私はシャワーに背を向けた。新鮮に温かく流水は背中を抱いた。


 この世のすべてが虚しく思えても、シャワーから出るお湯は温かい。思考を回しながら、体を洗う。


 彼女のことを忘れたくないと思ってしまうのは、未練がましいことなのだろうか。彼女の笑顔を思い出すと胸が暖かくなるのは、おかしいことだろうか。


 彼女はもう、あの頃の天使ちゃんじゃなくなってしまったのだろう。きっとみんなそう思っているから、天使のことを忘れようとしているのだ。そんな子がいたなぁ、なんて軽い言葉で流そうとしているのだ。


 台典商高の天使は、傷つき地に堕ちた。二度と羽ばたくことは無いと誰もが思っている。誰も空を見ることはなく、道に迷っている。空を駆けない天使に、誰も見向きはしない。


 私は、誰も見なくなった天使に、それでも手を差し伸べられる人間でありたかった。彼女のそばで、彼女を支えられる人間になりたかった。


 けれど、それはどうやら、私の役目ではなかったらしい。


 シャワーを止めても、世界は暖かい。体を拭いても、世界はまだ暖かかった。


 どれだけ心を尽くしても、努力を重ねても、抗えないものがある。越えられないものがある。けれど、仕方がないと諦めて、折り合いをつけていかないといけないのが現実だ。


 誰もが夢をかなえられるわけではない。天使も空を飛べるわけではない。



 だから、どれだけ胸が熱く燃えていても、この恋は諦めなければならない。



 その炎を消してしまっても、私はきちんと立ち上がり、背筋を伸ばして正しく生きていかなければならない。


 想いを殺して、思い出を忘れても、私らしく生きなければならない。




 バスタオルを洗濯かごに放って、着替えを持ってきていなかったのでそのまま脱衣所を後にする。服を着ていなくても、体を壊すような室温ではなかった。体は温かいが、鼻が詰まるような感覚に、無意識に鼻をすする。


 廊下を裸足で歩くと、なんだか自由を感じた。昼間だからか、茜の部屋は扉を開け放しにされていた。ちらりと中を覗くと、茜は驚いたように私を見て硬直した。


 大丈夫、私は前に進んでいける。この恋を乗り越えて、未来へ進んでいける。


 だから、少しだけ今は、涙を流すことを許してほしい————。


 私は膝から崩れ落ち、茜の目も憚らず、声を上げて涙を流した。椅子に座って困惑した様子の茜の膝に縋りついて慟哭する。


「うわああああああん!」


「え……? いや、あの、お姉ちゃ…………まずは服を着ろ~~!!!」




 茜に無理やり服を着せられた私は、彼女を抱いてひとしきり泣いた。妹は困ったようにしながらも、私の背を撫でて傍にいてくれた。


 茜とこんなに穏やかにいっしょにいるのも、なんだか久しぶりな気がした。高校に入ってからは、天使のことで忙しくしていたし、茜も中学校の生活を謳歌しているらしい。顔を合わせても、それほど話すこともなく、物の貸し借りや音漏れがうるさいとかそんな口喧嘩ばかりだった。


 なんだか懐かしい気持ちになって、茜の背を抱き寄せる。いつのまにか大きくなった妹の背に、優しい感慨に耽る。


 小学校に上がりたての時、サッカークラブの帰りに胸で抱いた彼女は、子供だった自分にとって不思議な存在だった。


 小さな自分よりも小さな命。脆く儚く、けれど一生懸命に生きている姿に、一丁前に私は姉を気取った。


 茜が幼稚園の頃、友達と喧嘩して泣いているのを、私があやしたこともあったっけ。ふふ……それも随分と懐かしい記憶だ。


 そっと耳を茜の首筋にあてると、彼女の鼓動が伝わってくるような気がした。


「……落ち着いた?」


「うん。ありがとう」


 茜は優しく私の背を撫でた。あの茜が、もう中学生なのかと思うと、まるで母親のような穏やかな涙を流してしまいそうな気分だ。なんて母に言ったら笑われるだろうが。


「って言いながら離す気はないんだから、この姉は……」


「茜は良い妹だね……」


「あなたの背中を見て育ってるからね……」


 茜は褒めているはずなのになぜか呆れるようなため息をついた。


「誇らしいよ……」


「はいはい」


 熱いシャワーよりもずっと、穏やかな彼女の鼓動と体温は、私の心を暖めた。それだけで、もう少しだけ頑張ろうと思えた。


「茜はさ……」


「うん?」


「茜は、私がいなくなったら、悲しい?」


「どうだろ。家が静かになるのは良いことかもね」


 茜は静かに私の背に両腕を回して、優しく抱き返した。


「でもさ、誰だって、そばにいた人がいなくなっちゃうのは、悲しいんじゃないかな。それを悲しくないって言えるほど、私、自分のこと強いとは思わないから」


 温かな体温が、抱き寄せられた全身を伝って感じられる。涙を流すように、温かな体から悪感情が出ていくような気がした。


 不意に茜は抱擁を解くと、彼女の背に回していた私の腕も剥がしてしまった。少し顔を赤らめた様子の彼女は、勉強机の椅子に座り直し、私に背を向けてしまう。


「勝手にどっか行ったりしないでよ? お母さんの介護とか、私はやんないからね」


 繕うように茜は教科書をぱらぱらとめくり始めた。放り出されてしまった私は、その背をぼんやりと見上げる。本当に、大きくなった。


 私は立ち上がると、うつむいた彼女にそっと近づき、その頬に軽く口づけする。赤ちゃんだったころの彼女に、そうして親愛を示したように。


 暖かな生命の輪廻の輪に巻き込まれていく感覚を夢想しながら、彼女からお返しが来るのを待って、そっと右頬を差し出す……。


「は? 気持ち悪いんだけど……ちょっと、明日のテスト勉強してるんだから出てってよ」


 神経を集中していた聴覚に飛び込んだのはそんな心無い言葉だった。ショック!


 なんてひどい妹なんだ! いったい誰に似たのか……幼稚園の時はあんなに可愛かったのに……。


 ともかく、ずいぶんと気分は楽になった。その点は感謝してもしきれない。


 前日に詰め込んでもしょうがないよ、なんてお節介は言わずに彼女の部屋を後にした。




 自分の部屋に戻った私は、何もやることがなくて寝転がる。


 無機質な部屋になった。整頓しているのに、こだわりがない。何の好きもない、情熱の枯れた部屋。


 そのうちまた飾りなおそうと思いながら、何もない壁に背を向けてベッドの上で丸まる。


 ずる休みなんて初めてだから、どうしていればいいのか、身の振り方も分からない。明日はどんな顔をすればいいのだろう。きっと、そんな心配も、誰だって自分自身ほど深刻には捉えていないのだろう。


 だからきっと、そんなに考え込む必要もないんだ。私は私のままで、そのままでいればいい。


 ————やるべきことを、やるだけ。


 前から思ってはいたが、亜熊(あぐま)先輩が当たり前のように言っていたことは、どれほど難しいことだったのだろうか。もしかしたら、彼にとっては、本当にそれだけのことだったのかもしれないが。


 現実は、いつだって上手く行くとは限らない。失敗して、間違って、それでもきっと、やるべきことをやるだけなのだ。すべては、そこから始まるのだから。


 天使が必ずしもこの世界に、台典商高に必要というわけではないだろう。だけれど、天使が去った場所には空洞が広がっている。誰かが、その穴を埋めなければならない。


 それが私のやるべきこと。そして、やりたい事でもある。


 天使のことが好きだ。それは今も変わらないけれど、それはもう理由じゃない。彼女に認められたいからでも、彼女が戻ってこれるようにでもない。私は私のために、この心の向いている方向に進んでいくだけだ。


「……よしっ!」


 退屈と怠惰を吹き飛ばすように、ベッドから跳ね起きる。うんと伸びをして、眠りかけていた筋肉を呼び覚ます。


 家で横になるのもいいが、あまり体を鈍らせるのは性分に合わない。少し外に出て気分を入れ替えよう。


「散歩してくる」


 茜にそう声をかける。勉強熱心なのか勉強の習慣がないのか分からない妹は、曖昧な返事を飛ばしてきた。一緒には行ってくれないらしい。悲しい。




 アパートの階段を降りると、町の少し冷たくなった空気が肌に触れる。


 夏は過ぎていくが、学生に熱を与える行事はまだ始まってすらいない。体育祭に向けて、明日からは本腰を入れて取り組むことになるだろう。


 まだ夕暮れにも早い、少し涼しい空気の中で散歩していると、淀んでいた思考も回り始めるようだ。


 思えば、一年前の体育祭の時は、クラス委員長として奮起していたのだった。楽しかった思い出でもあるが、同時に少し恥ずかしい思い出でもある。


 今でも、あの時のように思うままに楽しむ方が良いとは思うが、執行部という運営側に回る立場柄、どうにも今年は上手く出来そうにも無かった。委員長(鳩場さん)もきっとそういうタイプではないだろう。


「ふふっ……」


 でも、彼女が大声でかけ声を出したりしたら、楽しいだろうなぁ。有飼(あるかい)くんなんかと共謀したら、上手く乗り気にさせられるかもしれない。


 みんな不安を抱えているかもしれない。でもそれは、体育祭を楽しみたいからでもあるはずだ。なんとかうまく行くように調整したいところだ。


 明日からの学校生活に期待を膨らませながら、適当な道を曲がり知らない道へ進んでみる。家の方角は大体わかるから、迷うことは無いだろう。


 知らない住宅地の、知らない喧騒。車通りの無い道を、ぼんやりと進む。


 家から離れていくように路地を進むと、開けた交差点に出る。国道だろうか、車線も広く信号機の点滅が早い。


 ふと、交差点に面した歩道の端に、小さな花束が置かれていることに気が付いた。落とし物というにはきれいで、誰かがわざと置いたのだろう。


「事故でもあったのかな」


 被害者哀悼のために置かれた献花。


 人の死というものは、いつもどこかで起こっている。それは台典市においても例外は無い。平和に見える町でも、強盗や交通事故が起こっていたりするものだ。


 不意に、天使の笑顔が遺影のように脳裏に浮かぶ。


 彼女が生きていると考えているのだって、結局は都合の良い期待に過ぎないのだ。昨日までは生きていたはず。それすらも確かなことではない。彼女の声さえも、私は聞くことができなかったのだから。


 信号を待ちながら、供えられた黄色い献花を見ていると、電話でもかけてみようかという気持ちになってくる。


 迷惑かもしれない。いや、迷惑だろう。


 しかし、迷惑だからと足踏みをするほど、今は彼女に嫌われることを恐れてはいなかった。


 信号が青に変わり、可愛らしい鳥の声を模した電子音が鳴る。私は横断歩道に一歩踏み出し、天使に電話をかけた。


 長い横断歩道だ。コール音も競うように鳴り続ける。


 ようやく横断歩道を渡り終えても、彼女は電話に出なかった。


 メッセージを送ろうとして、端末をポケットにしまう。


 もう私は、彼女とは関係が無い人間なのだ。彼女を気にかける必要も、今はもう、無いのだ。彼女もきっと、そう思っている。


 迷いを忘れるために、速足で歩道を進む。それでもやっぱり送りたい。彼女のことを忘れて、真面目な藍虎(あいとら)碧として生きるべきだと分かっていても、今ならまだやり直せるのではないかという誘惑から目を背けられない。


 来た道を反対側の歩道から戻っていく。行き交う車の喧騒が、鼓動を早めるようだった。


 天使は今、どこにいるのだ。彼女の交友関係——無いに等しいが——は把握しているつもりだが、出かける先などどこがあるのだ。


 まず思いついた可能性は、亜熊遥斗(はると)。悪魔先輩と呼ばれた前生徒会長。天使が思いを寄せていた、かもしれない男。


 しかし、彼が今どこにいるのかは、見当もつかなかった。少なくとも、県内の大学ではないだろう。


 卒業の際も、彼は行き先を教えてはくれなかったし、それまでも聞いたことが無かった。そもそも、あの頃彼と関わる機会が、私には少なすぎたのだ。


 ならば、と結局スマートフォンを取り出し電話をかける。彼に連絡をして、返信が来る可能性は、天使よりも低い。頼るなら、彼に私よりは近しい人だ。


「もしもし、神城(かみじょう)よ」


「お疲れ様です、藍虎です。すみません、突然」


 半年ぶりに聞いた先輩の声は、変わらず気品と自信に満ちていた。


「いえ、大丈夫よ。あなたこそ、最近大変なんだってね。ワンコから聞いたわ」


「ええ、実はそのことでお聞きしたいことがあって……」


 天使の失踪、そしてその行き先と考えられる亜熊遥斗の現在。先輩は考え込むように唸ると、小さくため息をついた。


「遥斗の進路、残念だけど、私も知らないのよね……でも確か、大阪に引っ越すとは聞いたから、その辺りだと思うわ」


「大阪……ですか」


 大都市ではあるが、台典市から近い東京ではなく、わざわざ大阪に彼は行ったのか。受験にはまま様々な事情があるだろうが、仮に彼が大阪にいるとして、何らかの経緯で天使がそれを知ったとして、果たして大阪に向かうのだろか。


 ……行きそうだな。


 休学なんて退屈な時間が与えられて、平時の彼女なら行ってもおかしくはない。平時でないから問題なのだが。


「親御さんも、行き先は知らないって?」


「はい。お母様にも知らせてはいないようでした」


「天使ちゃんのことだから、大丈夫だとは思うけど、確かに心配ね」


 私は小さく首肯し、彼女の安否に思いをはせる。うつむきながら歩いていると、車通りの少ない路地に戻ってきた。


「ねえ、碧。あなたは、()()って信じる?」


 不意に、神城先輩はそう呟いた。


「ええ、信じています。愛ヶ崎さんと出会えたことも、神城先輩と出会えたことも、全て運命だと思っています」


「ふふ、嬉しい言葉ね。それも確かに運命。でも、私は運命って言うのは、もっと残酷でどうしようもないものだと思うの」


 悲しそうに、けれど淡々と先輩は続ける。


「誰かと出会って、楽しいと感じる。でも、もしかしたら、その人と出会わなければ、もっと楽しい何かと出会っていたかもしれない。それを知らずに生きていくというのを運命だというなら、それはとても残酷な事よね」


「でも、そんなこと、考えるだけ仕方がないですよ」


「そうね。でも、そんな運命のことを考えたくなるような、苦しい現実に直面することもある。自分の選択が正しいか疑いたくなるような苦難を、越えなければならないこともある。

 だから、ね。天使ちゃんがぶつかったのも、そんな運命なのかもしれない。過去になった運命は、もう帰ることはできないわ。それを碧が気に病むことは無いし、天使ちゃんが何かを誤ったわけでもないと思う」


「……愛ヶ崎さんは、間違えましたよ。あの子は、間違えてばっかりです。でも、それが彼女の運命なんだとしたら、そんな悲しいことってないですよ。希望に満ち溢れて、みんなに期待されて、誰よりも空を見上げていた彼女が、そんな運命だなんて……」


「誰だって苦労はするし、壁にもぶつかるわ。特別あの子が大きな壁にぶつかったというだけのことよ。そんなことくらい、もうあなたは分かっているんでしょう?」


 空はゆっくりと夕焼け色に染まり始めている。黄昏時。落陽の光は私の行く道を示すように、明るく町を照らしている。


「大事なことは、あの子が、そしてあなたがどんな運命かということではないわ。碧はどうしたいのかしら? その思いが何よりも自分を支え導いてくれる。碧ならできる。大丈夫よ」


 詳細な話をしていないというのに、なぜだか彼女は、私が生徒会長になれるかどうか悩んでいることまで、見透かしているようだった。


「……ありがとう、ございます」


「うん。私も忙しくて、あんまり話を聞いてあげられないけど、困ったときはいつでも相談してくれていいからね。これでも『神以上の神城』だから」


 和ませるようにそう軽く笑って、先輩は通話を切った。


 もう、天使の行き先を考える気は無くなっていた。彼女のことを諦めたわけではない。だけれど、そう。天使の目を奪っていた彼の言葉を借りるなら、私はやるべきことをやるだけだ。


 今はそんな運命に導かれた儚い過去の記憶に、前を向いて進もうという空さえ飛べるような、背中を押される気持ちになるのだった。




 それから、頭を悩ませることを止めて、夕食をとった。


 茜も機嫌を直してくれたようで、じっと食事する様子を眺めていても、何も言ってこなかった。むしろ、少し笑いかけて来てくれたくらいだ。


 天使みたいだ。なんて感じるものは、案外、この世界にはたくさんあるのかもしれない。


 彼女(愛ヶ崎天使)が私にとって特別だということは、いつまでも変わらないけれど、彼女への想いを再定義して、私は前に進んでいくしかない。


 盲目の信仰は、成長していくためには不自由だ。暗い洞窟を出た私は、つないだ手の温もりに気づかされる。


 私に空は飛べないけれど、地に足を付けて進む人たちと、手を取り進むことはできる。


 ありがとう、天使。私の大好きな天使ちゃん。


 誰もを救おうとし、誰からも救われなかった天使ちゃん。



 なぜだか今は、もう彼女に会えないかもしれないという確信じみた直感も、寂しくは思えなかった。




 私、頑張るよ。君の代わりになんて、なれやしないけど。




 天使、君に出会えて、本当によかった。君を好きになれてよかった。



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