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誰も救えない天使の話  作者: 錆井鈴江
台典商高編 羽化の章
51/81

第四十八話 re:天使 中編

・主な登場人物

藍虎碧あいとら みどり:現在生徒会執行部書記の女子生徒。クールに見られがち。


留木花夢とどこ はなむ:二年次の同級生の女子生徒。身長が低く童顔。顔に肉が付きやすい体質のせいで、顔が真ん丸になってしまうことが悩み。


鳩場冠凛はとば かりん:二年一組のクラス委員長の女子生徒。鋭い目をしている。部活は運動部を転々とした後、現在は無所属。


田尾晴々(たび はるばる):二年一組のクラス副委員長の男子生徒。性根は優しいが、見た目と言動で損をしている。趣味は読書で、文芸部に所属している。


有飼葛真あるかい くすま:二年一組の男子生徒。いつも眠そうな顔をしている。実際眠いらしい。ぼんやりしているようで、意思は強い方。行動力はあるが、やる気はない。


影間蕾かげま つぼみ:監査委員会副会長の生徒。キュートに見られがち。


氷堂空間ひどう くうま:一年生。成績優秀でクラスメイトからの信頼も厚い。



「だからさぁ、絶対おかしいってあいつ!」


藍虎(あいとら)さんが? ……(はる)君、いくらなんでも優しさを疑いすぎだよ。単に疲れてて、相手にするのもしんどかったってだけだと思うなぁ。そもそも、藍虎さんって、人のこと呼ぶとき、名字に「くん」か「さん」を付けるのが普通だったと思うし。俺も有飼(あるかい)くんって呼ばれてるよ?」


「いやいやいや、それも怪しいって! あいつ一年の時は、あんな飄々とした感じでもなかった気もするしな」


「あら。田尾(たび)って、名字を君付けされただけでその人のことが気になってしまう、チョロい男だったのね。ふふ、田尾くん、田尾くん、田尾くん?」


「がぁ~っ! うるせぇ~こいつ!」


「でも、(みどり)は確かに最近変かも……前なんか、移動教室をギリギリまで忘れてぼんやりしてたし……」


「そりゃあ、ハムちゃん。藍虎さんだって、大事な大事なお友達がお休みしてたら、、気もそぞろになるわよ」


()()()……? てんちのこと?」


「つっても、もう一週間はあんな調子だろ。体育祭も近いし、大丈夫なのか?」


「大丈夫じゃなくても、やるしかないでしょ。多分、うちのクラスだけじゃなくて、みんなそう思ってるよ。ほら、オリンピックってさ、元は聖なる休戦って言って、戦争中でも参加したらしいんだよ。僕たちもそういう気持ちで、心を入れ替えていかないと」


「なんだか、面白い話をしているみたいだね」


「「「「————————!」」」」





 犯罪の計画でも立てているかのように、顔を寄せ合って話し合う四人に後ろから声をかけると、それぞれが一様に身を固め、口をつぐんだ。


 どうやら、私が急に入るには適さない話題だったらしい。執行部の不満でも言っていたのだろうか。それなら直接言ってくれて構わないのに、と思いながらも、続きを話し出さないものかと注意を向けたまま席に着く。


「すまない、水を差しちゃったかな」


「いえ、ちょうど田尾がつまらないダジャレを言いそうなところだったから、助かったわ。危うく氷期が始まるところだったもの」


「どんな力を持ってんだ俺は!」


「はは、お手柔らかに頼むよ、田尾?」


「お、おう……それより、お前、体調とか平気かよ」


「? 体調なら、ご覧の通り。今日健康診断があったって平気さ」


「そ、そっか……なら、いいんだけどよ」


 いつも以上に不審な田尾に、不安を覚えずにはいられないが、彼に限って何か企みがあるとも思えない。むしろ彼の方が、何か悪い物でも食べたのではないだろうか。


「田尾、そろそろ授業なのだから、黒板でも拭いてきなさいよ」


「嫌だよ、割ときれいじゃんか」


「いいから。怒られても知らないわよ?」


「あいあい、委員長様」


 鳩場(はとば)さんに急かされるようにして、田尾は教室の前方へと去っていく。その背を追った視線をさえぎるように、有飼くんが私に笑顔とも真顔ともつかない顔を揺らした。


「言われてみれば、藍虎さん、今日はなんだか調子がよさそうだね。何か良いことでもあった? 例えば、電車がたまたま空いていたとか」


「あはは、なかなか幸運には恵まれなくてね。いつも通りの朝だったよ」


「でも、昨日とは見違えるほど元気に見えるわ。もしかして、()使()()()()()でも賜ったのかしら?」


「か、冠凛ちゃん……」


 試すように薄笑いを浮かべる鳩場さんを、私は見つめ返す。進路をふさがれた小動物のように、慌てたような様子の留木さんを安心させる意味も込めて、軽い調子で答える。


「残念ながら。彼女は今、私にも会いたくないみたいでね。でも……いや、だからこそ、と言うべきなのかな。落ち込むよりも、私がしっかりと彼女の思いを絶やさないようにするべきだと気づいたのさ」


()()?」


「そう。ほら、愛ヶ崎さんって、いつも笑顔だろう? だから、私も暗い顔はやめようってね。それに、これからのことも考えないとだ。彼女がいなかったら、私が生徒会長になるわけだろう?」


「てんち、帰ってこないのか……?」


 留木(とどこ)さんが心配そうに眉根を寄せる。明るい口調で話していると、少し話し過ぎてしまったかもしれない。


「まさか。ほら、彼女のことだから、私たちが楽しく元気に体育祭を盛り上げたら、気になって学校に来るんじゃないかな。アメノウズメって知ってるかい? 日本の神様なんだけど、天岩戸に————」


 小話を始めようかと思ったところで、一時間目の教師が入ってきた。まだ少し始業には早いが、無駄口を嫌う彼の授業の前はいつも教室が静かになる。


 私が軽く肩をすくめると、意図を汲んでか、留木さんも軽くほほ笑んでから正面に座りなおした。有飼くんものっそりと立ち上がると、時計を見て、あくびをしながら自席へと戻っていく。


「なんにしろ、元気になったのなら良かったわ」


 鳩場さんは退屈そうに言うと、軽く留木さんの背を撫でて去っていった。


 授業のために、教科書とノート、加えて、ノートの写しを取るためのルーズリーフを取り出す。下敷きをノートに挟んで、それからやっぱりルーズリーフをしまった。


 もう彼女のための奉仕は必要がないのだ。結局、授業のメモも、テストの添削も、苦心した連絡メッセージも、何一つ天使には届いていなかったのだから。


 彼女の家で、そのことに気が付いたときのことを思い出しても、不思議と怒りは湧いてこなかった。悲しみも、絶望も、苦しさも、痛みも、あの瞬間駆け巡った悪感情は、もうどこにもなかった。


 ただ心には、彼女の思いを継ぐのだという暖かい向上心だけが満ちている。たとえ、みんなが天使のことを忘れてしまったとしても、構わない。私が生徒会長として、生徒たちを導けるなら、そこに集まった信頼や称賛や崇拝は、天使に向けられたと言っていいのだから。彼女の思いを、魅力を、才能を、私が証明するのだ。


 もし彼女がそんな私を見つけたら、「すごいね」と褒めてくれるだろうか。可愛らしい笑顔で、宝石のような瞳をいっぱいに輝かせて、人目もはばからずに撫でてくれるだろうか。


 そんな日が来たら、私が「天使」の灯を継ぐような時が来たら、彼女は「天使」を目指す呪縛から解放されるのだろうか。他の何者でもない彼女としての人生を、歩み始めることができるのだろうか。


 不安が垂らした冷たい気持ちが、確かに燃える心の輪郭を意識させる。不安に心が流されてしまわないように、なるべく早く、彼に話を聞くべきなのだろう。


 授業の号令と共に、煩雑に絡まっていこうとする思考は、静かな教室の空気へと溶けていった。






 放課後になって、執行部には早退の旨を伝えた。体調や天使のことなど詮索されるかと思ったが、先輩たちは私の連絡を二つ返事で了承してくれた。仕事は溜まっていないようで、連絡しに来た時点で、麻貴奈(まきな)への引継ぎが行われていた。もし行き先を教えていたら、二人は引き留めただろうか。


 台典商高から、バスに乗って十五分ほど。救急車は十分もせずに到着した。私は、台典市立病院前のバス停で下車し、眼前の広い駐車場に目を細めた。


 天使が休学処分となった事件で、彼女をかばったとみられる男子生徒が一名、病院に搬送された。全身の単純骨折に加え、顔の打撲痕と裂傷が酷く、現在も入院している。


 氷堂空間(ひどうくうま)。私が、先の文化祭において、要注意人物として監視していた生徒であり、天使について、何らかの情報を有しているとみられる生徒でもある。


 彼を見舞いに行くというのは、そう不自然なことでもないはずだった。彼の担任教師に話を通し、配布物を届ける役目を仲介することになった。説得のためには、再度事件の話を聞き、彼の予後をケアすることも執行部の仕事の一つだと方便を立てた。


 受付を通り、彼の病室へと向かう。受付の看護師によると、今面会している人はいないらしい。保護者も入院時以降しばらく来ておらず、現在も面会の予約は入っていないそうだ。もしかしたら、と思わなかったわけではないが、やはり天使も来ていないらしい。


 病室は数人の患者を収容できる大部屋だったが、台典市には重病人は少ないのか、あるいは偶然退院が重なったのか、部屋には彼しかいないようだった。


 足音に気が付いてこちらを向いた彼は、ミイラのように顔を包帯で巻かれ、あちこちに湿布のようなものが張られていた。足にも同様に包帯が巻かれており、ベッドの上で台に固定されている。


「やあ、氷堂くん。少しだけ、お邪魔させてもらうよ」


「————んっ……! いやぁ、すみません。こんな姿でお出迎えしてしまって」


 氷堂は少し、もごもごと口を動かした後、自由に動かせるらしい手で口周りの湿布や包帯を強引に剥がした。痛みをこらえるような表情を素早く飲み込んで、彼は肩をすくめる。


「それ、剥がしてよかったのかい?」


「ああ……いえ。後で看護師さんには怒られてしまうでしょうけど、しゃべりにくいので仕方がないでしょう。それより、あなたが来てくださったということは、何かあの件に進展でもあったのでしょうか」


「そうだね。とりあえずは、現状を君にも伝えておくべきだろう」


 私は執行部からの配布物である、事件の報告書を彼に渡した。随分と手慣れた様子で、彼は数枚の資料に目を通す。


「いやあ、どうにも入院というのは退屈で困りますね。学校の課題だとしても、目新しいものがあるだけで気分が楽になりますよ」


「それはよかった」


 氷堂は、資料を一通り読み終えると、関係者たちへの対応に関する部分だけを表にしてブランケットの上に並べた。


「僕は入院してますから、今はメンタルマネジメントもしにくいでしょうが、愛ヶ崎先輩が休学処分というのは、少し気になりますね。ひょっとして、僕の証言が良くない作用をしてしまいましたか?」


「それは……どうだろうね。君の証言がどうであれ、結局は彼女を休学処分にしていたと思うよ」


「そうですか。事実とは言え、彼女が男子生徒数名に大立ち回りをしただなんて、怪しまれても仕方ないと思いましたが……察するに、彼女のした行為以外に、休学を余儀なくさせた原因があるというわけですね」


 氷堂は薄笑いを浮かべて、資料をひとまとめにした。


「藍虎先輩。僕は、彼女を、天使を守りたいと思ったんですよ。あの日、彼女と再会して、その魔性とでもいうべきカリスマを感じ取って、心からそう思ったんです。だから、こうしてこの身を尽くしたつもりだった……僕は、何かを間違ってしまったのでしょうか。あの日、もっといい行動を取れたのでしょうか」


 目の前にいる少年は、作り笑いも忘れ、天使の涙を胸に抱きとめた体育倉庫前の私のように、絶望の沙汰が振り落とされるのを待つようだった。


「なぜ、君はそこまで彼女に固執するんだい? 彼女のために、身を張り、行動を起こし、自分の犠牲も厭わないだなんて」


「あなたと同じですよ、藍虎先輩。そのことにも、あの日気が付いたんです。どうにも、あなたのように上手くは行きませんでしたが」


 氷堂は、自嘲するように笑う。


「そんなことはない、と私は思うよ。きっと君がいなければ、想像もつかないような酷いことになっていたのかもしれないのだから。今は気に病むよりも、前に進むことを考えるべきじゃないかな」


「あはは、そうですね。とはいえ、こんな足ですから、しばらく進めそうにはありません……それにしても、少し意外ですね。先輩はきっと、愛ヶ崎先輩を学校に連れ戻す方法を考えているとばかり思っていたのですが。もう彼女のことは諦めてしまったのですか?」


「まさか。諦めてなんかいないよ。でも……そうだね、その話をする前に、君に聞きたいことがあるんだ」


 氷堂は、それが事件とは関係のないことだと、言うまでもなく察したようだった。資料を窓際のテーブルに追いやると、構わないと言うように肩をすくめて示した。


「君が、天使に会って、したかったこととは、結局何だったんだい? 一体何が、君を台典商高に導いたんだ?」


 氷堂は、質問を聞くと、少しだけ驚いたように目を見開く。それは彼にとって自然な表情変化であったが、完治していない切り傷が開いたようで、わずかに目を細めた。


「そんなことでしたか。てっきり、藍虎先輩はご存じなのかと」


「はは、買いかぶるのは止めてくれ」


「そうですね、お互い完璧とは言い難いらしい。まして、愛ヶ崎先輩が話すはずもないですから……これは、彼女ももう忘れてしまったようでしたから」


 忘れてしまったこと。天使はたくさんの物に出会い、その分たくさんの物を忘れていく。彼女が立ち上がるために、私のことを忘れてしまったように、彼の思い出もまた、天使は捨ててしまったのだ。


「僕に兄がいるということは、ご存じですか?」


「ああ、確か今は県立病院におられるんだったね」


「ご存じなら話が早い。これは、彼にまつわるお話です」


 氷堂空間の家族構成については、私も把握していた。両親と一人の兄で四人家族。兄は県立の精神病院に入院しており、両親は活動内容の不透明な一般社団法人とのつながりが見られた。


 彼の家庭が荒廃したものだったとしても、それは私にとってはどうでも良いことだといえる。そして、それは天使にとっても同様のはずだ。


 この世界には、この市に限っても、家庭環境や家計のひっ迫に苦しんでいる人は少なくない。日々をそれぞれの事情を抱えながら人々は暮らしていく。その一つ一つと天使との因果は薄く、彼女がその一つに過ぎない氷堂家に興味を示すとも思えない。


 しかし、なぜだか、氷堂の家庭における問題には、彼女が関わっているような気がしてならなかった。


「僕の兄は、素晴らしい人でした。両親は兄に期待し、僕も兄のようになれと教育されてきました。まあ、世間的にはそれほど大した人間というわけではないと、今なら思います。台典商高を出て、県立大学に通っていました。それだけで、両親と、あの頃の僕にとっては称賛の対象だったわけです。

 そんな兄は、一人の女性と出会ったそうです。その女性は素晴らしい人でした。兄は彼女を溺愛し、大学生活を歩む中で、愛を育んでいったことでしょう」


 その女性が、天使なのだろうか。いや、そんなはずはない。彼の兄が大学生のとき、天使は中学生のはずだ。二人がどこかで出会っていたとして、それが恋愛に発展することは、常識的に考えて、あり得ない話だ。


 天使の行動を常識的に推察する無意味さは捨て置けないが、それでも、中学時分で大学生と恋をするような少女が、天使に成長するとも思えない。


「彼女の名前は、華と言ったそうです。残念なことに、僕はその女性と会ったことがありませんから、どれほどの素晴らしい女性かは分かりません。両親とお会いしましたが、良い家庭だと感じました。きっと、とても満ち足りた、幸福な方なのだと思います」


————華。氷堂の探していた名前。それは彼の兄の恋人の名だったのだ。しかし、それはやはり、天使ではなかった。


 脳内に、天使の家で見たアルバムの文字列がよぎる。彼女が天使になる前に冠していた名前。その中に、華という名前も含まれていた。


 華と天使。ねじれた二人が、奇妙な因果で巡り合う。ドッペルゲンガーのように、天使の影に消えていく華の姿を想像し、背筋が凍る。


 もしかすると、天使は華と出会ったから、その名を捨てることを決めたのではないだろうか。あるいは、他の名前を持つ者たちにも。


 そんな仮説を立てながら、氷堂が確信に触れるまで私は黙ったままでいる。


「素晴らしい二人の関係は、しかし、簡単に崩れてしまいます。それは、兄の抱える精神障害によるものでした。歪んだ愛は殺意へと変わり、兄は彼女を愛したままで、傷つけたいという衝動を抑えられなくなってしまった。その末に、兄は華を殺し、愛する人を殺したことで、狂乱状態になりました。彼女の影を探し、町を彷徨っては、幻を重ねて無辜の人を傷つけたと言います」


 氷堂の兄が精神病院に入ることになった経緯についても、多少の調べはつけてある。連続的な通り魔及び、殺人罪の疑いを受けて勾留された彼は、重度の統合失調症と診断され措置入院となったのだった。


 しかし、その事件もまた、台典市においては重大な事件であったが、天使との関連性は見えてこない。まさか、彼女も被害に遭っていたというのだろうか。その凶刃に脅かされたのだろうか。


 氷堂の兄について調べる中で見た記事を思い出してみても、その頃の天使に相当するような関係者の情報は思い当たらなかった。


「愛ヶ崎先輩は、そんな兄と偶然にも出会ってしまった。忘れもしない、台典中央公園でのことです。

 僕は、ちょうど塾の帰りで、ふらふらと歩く兄の姿を見つけて、その後を追うことにしました。どうにも声をかけるには不審な様子でしたから、好奇心を止められない年頃だったのです。兄は公園に入ったところで、愛ヶ崎先輩と出会い、少し会話をした後、襲い掛かりました。きっと、華を重ねたのでしょう」


 天使は、氷堂兄と出会い、襲われた。非現実的で、与太話にしか聞こえない、けれど、この世界のどこかで起こっている邂逅の内のほんの平凡な一節。


 氷堂の語ったその過去は、以前の私であれば、到底信じられないことであり、天使をいくら慰めて甘やかしても足りないようなことであったが、不思議と今の私には、パズルのピースを埋めるように、自然と事実なのだと理解できた。


 台典中央公園は、台典商高からは離れた市のはずれにある公園だ。市の合併によって、中央公園という名ではあるが、地図上はかなり南部に位置している。秋には紅葉や銀杏の並木が美しく、台典市の観光名所の一つでもある。


 天使の生家とも少し離れており、自然と巡り合うということは普通に考えて難しい。とはいえ、散歩の好きな彼女が行かないと言い切れる距離でもなく、世間話のなかで察される彼女の行動範囲はかなり広く、景色も良いとなれば、中学時分の彼女が行っていた可能性は高いだろう。


 そして、もし二人が出会ったとしたら、天使がどうするかということは、もはや考えるまでもないだろう。彼女は、眼前の男を、救おうとしたのだ。その手が、その羽が届くかどうかは後回しで、救おうと試みたのだ。


「そのときの僕は、無我夢中で、兄が誰かを傷つけないようにと、近くに落ちていた大きな石の塊で、彼を殴打しました。そして、情けないことに、怖くなって逃げだした。彼女と兄を残して逃げ出したのです。

 あの時、ほんの一瞬だけ目が合った彼女の顔を、僕は忘れられなかった。自分を傷つけようとした兄を、憐れむように、慈しむように、手を差し伸べていた彼女の姿は、まさしく天使と呼ぶべきものでした。華に狂わされた兄は、あの一瞬、確かに救われたんです。兄が今も、うわごとのように叫ぶ声は、きっと先輩を呼んでいる。僕には、そう確信できます」


「それが、君の台典商高へ来た意味か。君の兄を救った彼女(天使)を、君の心に残った彼女(天使)を探して」


「それは、半分正解と言ったところですね」


 氷堂は自嘲するように、包帯でふやけた目じりを細めて笑った。


「兄のことは、もういいんです。先輩を探す時に華の名前を辿ったのも、それ以外に証拠となるものが無かったからというだけのことです。先輩を探していたのは、ただの僕の()()()()です。恋と呼ぶにも、あまりにも独りよがりなものだったと思いますよ」


「……そうだね」


 氷堂の自虐的な独白を、慰めるでもなく受け止める。


 天使は、氷堂空間の兄である氷堂優介(ゆうすけ)による通り魔被害に遭っていた。その際に、彼女は空間と接触した。


 氷堂空間の目的は、兄の乱心を止めようとした少女との再会であり、その手段はともかく、彼女を脅かそうという意図はなかった。


 天使と出会った氷堂は、果たしてその少女が目的の人物だと確信したが、すでに彼女は兄のことも、彼のことも覚えてはいなかった。それは彼に残酷な現実を突きつけると同時に、きっと泥濘に沈んでいた彼の心を救いもしたのだろう。


 天使は、兄に縛られてはいないのだと。再びその光は彼の心の呪縛を解いたのだ。私が、初めて天使を認識したときのように、この世界に生きることの意味を見つけたに違いない。


「だけど、それは私も同じだ。人は誰だって、自分の欲望を失くしてしまうことなどできないのだから、きっと仕方のないことなんだよ」


「あなたと同じだなんて、身に余る光栄ですね」


 氷堂はそう言うと、悲しげな表情を止め、いつも通りの笑顔に戻った。


「僕の話はそのくらいです。それで、藍虎先輩はあれからどうされていたのですか? 先輩のことですから、愛ヶ崎先輩のために奔走していたのでしょう?」


「ずいぶんな期待を受けたものだ、と言いたいところだけど、そうだね。資料にあった通り、事件後の彼女はまともな会話もできないほどに混乱しているようだった。だから、一度彼女を家に帰して、事情を聞くのは後回しになったんだ。結局、君や彼らの証言でほとんど状況は把握されて、処分も変わらなさそうだったから、愛ヶ崎さんから事情を聞くことはなかった。代わりに、彼女の精神的な療養を兼ねて、休学処分にすることを三峰先輩が提案したんだ」


「愛ヶ崎先輩が、苦しいまま学校に戻ってこないように、ということですか」


「彼女のことだから、そうでもしないと無理をしてしまいそうだったからね。それに、加害生徒の手続きにも、少し時間がかかりそうだったから、その方がいいという結論になったんだ」


「難しいところですね。まぁ、藍虎先輩がこうして連絡役として活動しておられるなら、休学中でもそうブランクにはならないでしょう」


 心底から天使を、そして私を信頼したような氷堂の言い方に、少し悔しさを覚え歯嚙みする。


「……そう上手くはいかなかったと?」


「……ああ。彼女の心の傷は、おそらくは私たちが思っていた以上の物だった。あるいは、私たちは彼女について、きちんと理解していなかったということかもしれない。

 数日前、彼女は誰にも行き先を知らせずに失踪したそうだ。私の届けていた配布物も、家には残されていなかった。皮肉なことに、部屋を片付けてどこかへ出かける気力は回復したらしい」


 氷堂は考え込むように、痛々しい傷の残る口元に手を当てた。


「生きて、いるのですか?」


「分からない。しばらく帰っていないみたいだけど、もしかしたらふらっと戻ってくるかもしれない。最悪なのはどこかで事件に巻き込まれていたりしないかってことだね」


「無事だと信じたいですが、何日も経つとなると不安ですね……それこそ、先輩は探しに行かれないのですか?」


「私には、そんな権利は無いよ。私にできるのは、ただ待つことだけだ。彼女は私のことも気にせずにどこかに行ってしまった。彼女を信じることはできても、追うだなんてこと、私にはできないね」


「天使は死んだ、と?」


「愛ヶ崎さんが戻って来て、もし全く違う存在になってしまっていたとしても、それで天使のようだった彼女のすべてが死んでしまうとは、私は思わない。私の知る彼女の思いを、天使の姿を、思い出せるように繋ぐのが私の役目だと思うんだ」


 私は決意を締め直すために、氷堂と目を合わせた。彼の瞳は、本心が見えないほど深く澄んでいる。


「彼女が死んでも、天使は死せず。というところですか。お手伝いしたいところですが、ご覧の通り、しばらくは動けないのです。藍虎先輩が生徒会長になられるというのなら、その時は表でも裏でも、いくらでもお役に立って見せますよ」


「それは心強い。その時が来たら、よろしく頼むことにするよ」


 私は、随分と話し込んでしまったことに気が付き、ベッドわきの椅子から腰を浮かす。忘れそうになっていたが、彼は大けがを負っているのだ。


「それじゃあ、次は学校で」


「ええ、次は万全な姿でお会いしましょう」


 私が荷物をまとめると、彼は軽く笑いながら見送ってくれた。その笑顔は、どこか以前よりも気楽そうで、落ち着いた様子だった。





 病室を出て、病院内の休憩スペースで腰を落ち着けた。面会時間はもうすぐ終わり、患者たちも自由な行動は制限される。病棟に大けがの人が多いためか、すでに廊下はがらんとしており、人の気配も感じられなかった。


 すぐに帰路に着いても良かったが、忘れないうちに氷堂の語った話を整理しておきたかった。


 氷堂兄の異常行動と、その被害を受けたという天使。自分の見てきた天使の様子から考えるに、おそらく外傷の残るような被害は無かったのだろう。あるいは、その寸前に氷堂が兄を止めたのか、といったところか。


 しかし、必ずしも外傷のみが精神に損傷をもたらすわけではない。現に、事件で大きな外傷のなかった天使は、今も心を閉ざし、彼方へと消えてしまった。


 単純に考えるならば、今回の事件が、氷堂兄に襲われたときの記憶をフラッシュバックさせ、今になって大きな傷を生んだといったところだろうか。


 しかし、今回の事件においては、天使は被害者であると同時に、加害者でもあるのだ。それは正当防衛に近いとはいえ、一方的に襲われるようなものでなかったことは、現場の状況からも読み取られた。氷堂兄の凶行とは重ならないのではないだろうか。


 もしかすると、私は氷堂の語った話を、天使にとって大きな事件であったと思いすぎているのかもしれない。


 そうだ。思い返してみれば、氷堂も「彼女ももう忘れてしまった」と言っていた。つまり、狂人に襲われたことなど、天使にとっては遥か後景となっているということではないのか。


 それにしても、彼女はその当時からすでに天使だったのだ。自分が襲われている状況においても、相手のことを考え救おうと努力していた。


 それは無謀なことだ。向こう見ずで、わがままで、場当たりな偽善に過ぎない。


 けれど、その優しさは、確かに誰かを救ったのだと、私はその時の彼女に教えたかった。君のかける迷惑は、誰かを救うことができると。


 そして、その宿願ともいえる意思は、確かに私が受け取ったと。私はきっと、天使にはなれないけれど、君のように、たくさんの人を導いて救って見せる。そして、できることなら、君だって————。


「あ、藍虎さんっ!」


 手帳に情報をまとめていると、不意に後ろから声をかけられた。自分の名を呼ばれているのだと気が付かず、少しだけ遅れて振り返る。


「……影間さん?」


 どうしてこんなところに、と聞こうとしたところで、穏やかな音楽と共に館内放送が流れ始めた。どうやら面会時間が終わるようだ。彼の用事が何であれ、これ以上居座ることもできないらしい。


「外で話そうか。直に日も暮れる」


 彼は驚いたように目を見開いて、それから怯えるように小さく頷いた。


「氷堂くんのお見舞い?」


 病院を出て、大通りに出ると影間さんはそう先手を打つ。


「そうだね。影間さんも、そうかい?」


 違うと分かった上で、あえてそう聞いた。もし誰かの見舞いなら、こんな時間には病院に来ない。


 私が大通りの坂を下ると、彼は隣に並んで歩幅を合わせた。


「ううん、違うよ。藍虎さんを探しに来たんだ」


 沈黙が流れる。冷たく膨らんだ沈黙は、夕焼け泥む町を走る車の音や、住宅街の生活音にかき消されていく。


 私は隣を歩く小柄な少年の横顔に視線を落とした。うつむいて真一文字に結ばれた薄い唇は、白い肌も相まって少女のように見える。透き通るように白い肌は、出不精というわけではなく、彼の日焼けや日頃の手入れの賜物だろう。


 影間(かげま)(つぼみ)。監査委員会の副委員長である、商業科の生徒。背格好が小さく、小動物のような愛らしい顔をしているために、一見すると男性には見えない。髪は長髪と言うわけでもなく、制服も男性用のものを着用しているというのに、不思議なものだ。


 彼自身も女性らしい容姿を自覚しており、言動や挙動はかなり女性的——いや、小悪魔的とでも言った方が良いのだろうか。可愛らしいものが好きで、指定のかばんにも動物のストラップを付けている。


 性同一性障害——そう断じるのは簡単なことだが、取り沙汰するほどの問題ではないために、学内ではわざわざ彼を男性として扱う人の方が少ない。私もその一人で、性別についても、彼の特性についても理解しているつもりではあるが、いざ会話をするとなると、彼を少女としか思えないのだった。


 一方で、おそらくだが、天使は彼のことをいまだに女性だと勘違いしたままだったような気がする。科が違うため、授業で一緒になることはほとんどないが、行事の際は影間さんも男性に振り分けられている。気が付く機会はいくらでもあるはずだが、きっと天使はそんなことに興味を払っていないのだろう。


 同級生の中で人気のある生徒のランキングがあれば、彼はかなりの上位だろう(一位は当然天使だ)。天使と違う点は、彼を嫌う人も少なくないというところだ。


 理由の一つは、彼の女性的な振る舞いだ。一部の生徒は、影間さんを忌み嫌っており、直接的な行為に及ぶことは無いが、陰惨な悪口を言っていると聞いたことがある。


 理由のもう一つは、監査委員会のつながりだ。影間さんは、現委員長の楠根先輩のお気に入りであり、副委員長に抜擢されたのも、彼女の独断と噂されている。もっとも、監査委員会の世襲は毎年そうして勝手に選ばれるものであり、執行部も私見に偏っていないとは言い切れないため、そう思われるのも仕方がないだろう。


 じっと見つめても、その横顔は男性とは思えない。脳裏に小麦色に日焼けした上崎昴(かみさきすばる)の顔が思い浮かび、口の中に苦い思いが広がる。影間さんにも、この愛らしい体躯の中に、淀んだ欲望を抱えているのだろうか。


「あの、藍虎さっ————わわっ!」


 不意に私を見上げた影間さんは、じっとりと見つめていた視線に気が付き、驚いて姿勢を崩した。道路へ飛び出してしまいそうになる彼の、細い手首を握って引き寄せる。


「大丈夫かい?」


「う、うん。ありがとう、藍虎さん」


 影間さんは、優しく笑うと、自信をつけるように胸に手を当てて、ようやく話し始めた。


「単刀直入に聞きたいんだけど、天使ちゃんのこと、不安?」


「……休学が決まってドタバタしていた頃は、とても不安だったね。今は落ち着いたよ。こうして、情報収集に繰り出せるくらいにはね」


「それなら、いいんだけど……もし心配なことがあったら、いつでも相談してね。僕にできることなら何でも力になるから」


 定型的で非現実的な慰めのセリフは、なぜだか彼の本心から出ていると思えてしまう。何かを期待しているわけでもないが、天使に微笑まれたときのような温かな気持ちが胸に芽生える。


 それと同時に、少しばかりのいたずら心も。


「それなら一つ、聞きたいことがあるんだ」


「なぁに?」


「影間さんは、楠根(くすね)先輩とはどういう関係なんだい?」


 彼は、跳び上がって驚くかと思ったが、案外落ち着いた様子で、目をぱちくりとさせて私を見返した。


「どうって言われても、ただの先輩と後輩……かな。友達って言うのも、少し違う気がするし……地元の悪い先輩って感じかな……?」


「放課後にメイド服を着て、部屋の掃除をしたり肩もみをしたりするのが、普通の関係とは思えないけどね。影間さんこそ、楠根先輩に脅されていないか心配だよ」


「それは————。 ……藍虎さんに隠し事はできないね。でも、本当に、脅されてるとかじゃないし、その……恋人とかでもないからさ」


 影間さんは、言われて初めて不思議な関係に気が付いたように首を傾げた。自分の中でも区切りをつけるように、考えを反芻して、それからようやく言葉を紡ぎだす。


(ねい)先輩のことは、僕にもよく分からないんだ。でも、僕やきっと三々百目さんのことも、きちんと考えてはくれてる、と思う。先輩が僕にメイド服を着せるようになったのも、元はと言えば————」


 大通りの坂を下っていると、住宅地の小さな公園が脇道に見える。影間さんは、ちょっとだけ休まない? と言うと、ベンチに腰を下ろした。


 空は少しだけ薄暗くなっていたが、まだ日没と言うには明るい。町はむしろ活発な騒々しさを遠景から伝わせる。


「寧先輩は、可愛いものが大好きなんだよ。それで、裁縫とか料理とか、女の子っぽいって言うのかな、そういう趣味にハマってたらしいんだ。でも、可愛らしい服を縫っても、おいしい料理を作っても、満足できなかった。()()()()()()()()()って」


「彼女だって、別に可愛い——というのとは少し違うとしても、容姿に自信を持っている方だと思っていたけれどね」


「うんと……多分、寧先輩の理想とは正反対なんだと思うよ。何というか、ちっちゃくて可愛いいのが先輩の好みだから」


 小さくてかわいい、という言葉に、丸背(まるせ)先輩の姿が浮かんでくる。そう言えば、どこかで彼女が楠根先輩を苦手だと言っていた覚えがある。あれも楠根先輩が何かしたからということだったのだろうか。


「身長が高いのも、足が長いのも、先輩にとってはコンプレックスというか……重圧みたいに感じてるんだと思う」


「重圧?」


 妙な言い回しに、思わず聞き返す。何度か交流した時に、彼女に抱いた印象としては、自信家で傲慢、集団の利益よりも自分の利益を優先するようなタイプだと感じていた。高慢ちきのように思えた舐めるような態度は、自分の意思ではなかったとでも言うのだろうか。


「商業科にカーストみたいなのがあるって言うのは、藍虎さんなら知ってるよね。

 普通のクラスよりも、多分ずっと明確に、直接的に、上下関係が強制されるんだ。上級生に好かれている生徒が一番上、体格や運動神経に恵まれていて自信のある子たちが威張っていて、自分に自信の持てない生徒たちは、その視界に入らないように縮こまってる。目立とうとすると、縮こまるまで嫌がらせを受けたりすることだって少なくない」


「ひどい話だね」


「……悪いことだけでもないんだけどね。カーストがある分、みんな振り落とされないように必死に勉強するし、行事の時もできることを精いっぱいする。理不尽を嘆くのは努力不足だ、っていうのが先生の口癖で……って、寧先輩の話だよね。寧先輩は、そんなカーストの上位だったらしい。らしいっていうのは、時々噂で聞くだけで、先輩からは聞いたことないからなんだけど」


 影間さんは、心配そうな顔で視線を落とした。きっとその噂は、彼にとって、楠根先輩にとって、好ましくない内容の物なのだろう。


「寧先輩は運動もできるし、頭も良いんだ。だから、みんながクラス委員長になるんだろうなって思ってた。あっ、商業科のクラス委員長はね、普通科よりも仕事というか、責任が重いんだよ。一年次以外はクラス推薦だし、カーストの殿堂入りみたいな感じで、就職にも受験にもすごく有利になるから、みんなが目指してる」


「情報としては、私も聞いたことがあるよ。そして、その対極が監査委員なんだってね。どこにも使えないのに、仕事だけがあるって言われている」


「……監査委員長の進路が悪いというわけでもないんだけどなぁ。でも、確かに執行部と違って、監査委員は委員長でも大したことは無いって言われちゃう。職分は公正と秩序。個性の必要ない仕事だから、誰でもできるって商業科の生徒は思ってる。だから、誰もやりたがらない。部室も旧校舎の端だし」


 影間さんは、取り繕うように笑った。彼も思うところがあるのだろう。


「寧先輩は、カーストとか、上下関係とか、そういうのに嫌気がさして、誰の目も当たらない監査委員になったって言ってた。(はかり)先輩は、良い仕事だってずっと胸を張ってたけど」


 懐かしむように笑う影間さんに、どこか天使の姿が重なる。楽し気に生きているようで、彼も心の中では様々な葛藤を抱えているのだ。


 それは自分も同じか、と自嘲する。


 自分がどう思っていようが、他人が自分を見るとき、容姿はイメージを大きく支える。楠根先輩が可愛いものに憧れながらも誰かを虐げる強者になることを望まれたように。私が天使に狂いその背を追いたくても、導いてほしいと縋られるように。


 だから、亜熊先輩も生徒会長になろうと思ったのだろうか。俗世の目を避けるように。自分のイメージが、全て嘘で守られるように。誰も自分を見つけないようにと、生徒会長のペルソナを演じたのだろうか。


「影間さんは、どうして監査委員に?」


「僕も、寧先輩と同じ理由かな。と言っても、自分からなりたいと思ったわけじゃなくて、最初は無理やり寧先輩に連れ出されて、断れなかったからという感じだけど……。

 でも、だんだん好きになってきたんだ。今はとても落ち着く、大好きな場所」


「それは、監査委員が、ということなのかい? それとも、先輩が?」


 そう口にした問いは、同時に自分にも跳ね返ってくる。


 自分が執行部を大切だと思うには、天使がいなければならないのだろうか。


 それは自明のようでいて、明るく灯る陽光が陰ってもなお、暖かく心を包み込んでくれるような気がした。


 天使がいるから、執行部に立候補した。それは始まりに過ぎない。


 もしも天使が帰ってこなかったとしても、私は執行部を大切に思うだろう。


 それは、三峰(みつみね)先輩や丸背先輩が理由でもない。亜熊(あぐま)先輩も、神城(かみじょう)先輩も理由ではない。


 先輩たちや天使と歩んできたこれまでのすべてが、私の土壌となり世界を形作っている。芽生えた双葉は幹となり、私はその成長を止めることはできない。止めてはならないのだ。


 大切な天使と、先輩たちと、紡いできた場所を絶やさないようにする責任が、私にはある。


「監査委員が、だよ。僕が、僕のままでいられる場所だと思えたように、誰かがありのままでいられる——期待とか、羨望とか、妬み嫉みから離れられる場所であってほしいと、そう思うんだ」


「私も、執行部がそうであったらいいと思うよ。天使でなくても、暖かな陽だまりのような場所であってほしいとね」


「なんだか、おじいちゃんみたいな感想だね」


「ふふっ、そうだね」


 影間さんの破顔に、思わずつられて笑ってしまう。


 すっかり暗くなった公園に、車のライトが時折差し込む。夜闇の中では、影間さんの壊れそうなほど儚い顔が、いっそう消え入るように見える。


 なぜだか、彼といると少しだけ心が軽く思えた。初めは、愛玩動物のように小さい彼の姿に癒され心を許してしまうのだと思っていたが、その複雑な胸中を聞かされ、一人の人間として、一人の男子生徒としての彼が分かっても、穏やかな気持ちは変わらなかった。


 しかし、彼だって、男なのだ。こうして話しているのだって、私を探しに来たのだって、気持ち悪い欲望の一滴によるものかもしれないのだ。


 そんな邪な感情を疑うのは、むしろ彼と言う鏡に映し出された自分の思いのせいだとすら思える。


 彼に天使を重ねてしまうのはなぜなのだろう。彼が女の子のようにふるまう姿が、天使とよく似ているからだろうか。その『期限付きの嘘』がどこか寂しく映るのが、彼女を思い出させてしまうのだろうか。


「影間さんは……女の子になりたいの?」


 それは褒められた質問ではなかった。聞き方も悪かった。これでは責めているような口調だ。心から漏れ出た言葉は、いつも不完全なまま誰かに届いてしまう。


「————! ……ううん。なりたくない」


 影間さんは、一瞬だけ驚いたように私を見た。それから寂しげな表情で顔をそらして、そう言った。


「僕は、女の子になんてなれない。なりたくないよ」


「なれないだなんてことは————」


「ううん、()()()()()。才能とか努力の話じゃなくて……怖いんだ。性別の境界線があったとして、自分の立っている場所が完全に男性でなくなってしまうことが、怖くて仕方がないんだ」


 彼は、情けないかな、と悲しそうに笑った。


「女の子みたいって、よく言われる。僕もそう思うよ。それで、女の子みたいに振舞って、女の子みたいに扱われるのも、仕方のないことだと思ってる。でも……それは僕が、()()()()()()ということとは違うはずなんだ。小さくて、可愛くて、あざとくて、ぶりっ子で、目障りで……それでも、それが僕と言う男なんだよ。そんな……男なんだよ、僕は」


 どうやって声をかけるべきか、私にはとっさに思いつかなかった。


 悩み、惑い、苦しみながら生きてきた彼は、それでも少女のように映る。それはあの日、ブランケットの中で見た天使の強がりのようだった。


「……なんて、そんなこと言われても困っちゃうよね。ごめん。なんだか、藍虎さんには話し過ぎちゃうね」


 影間さんは、勢いよく立ち上がると、寂しそうな表情を吹き飛ばすように、ほほ笑んだ。可愛らしい作り笑いは、気丈にふるまう弟のように見えた。


「……正しさなんて、だれにも分からないよ。きっと、正しい人なんて、どこにもいない。それでも、自分が正しいと思うために、進むしかないんじゃないかな」


 私が立ち上がると、静かに彼は公園の出口に歩き始めた。


「自分が、正しいと思うために……か」


 少しだけ先を行った彼は、不意に振り返る。



「それはきっと、今の愛ヶ崎さんに必要な言葉だよ。それと、藍虎さん。キミにも」



 ただ悲しそうな表情で、後ろで手を組んで彼はそう言い放った。


「……分かっているよ。そう気づいたのは残念ながら、彼女より遅かったみたいだったけれどね」


 肩をすくめると、安心したように彼も微笑んだ。


 少し肌寒くなりつつある夜の町を、二人で並んで歩いた。その時ばかりは、彼は男でも女でもなく、私も女でも男でもなかった。ありのままの心の私たちは、穏やかに話しながら、自然な笑みを浮かべていた。







 それから、駅で影間さんと別れた私は、家までの数駅の間に、天使の行き先について考えてみることにした。


 辿れる範囲の人間には、あらかた訪ねてみたが、やはり誰も彼女の行き先を知る人はいなかった。藁にも縋るような思いで病院に来ても手掛かりはなく、いよいよ手詰まりだ。


「自分が正しいと思うために……ね」


 天使が失踪した。それは、自分が正しくなかったからだろうか。彼女に忘れられてしまったのは、私が正しくなかったからだろうか。


 あの時の自分を正しいと思うために————。


 私は、直接天使にメッセージを送ってみることにした。返信が来るとは思えないが、取り敢えず送ってみようと思った。


 もし、彼女が、今も元気でいてくれるなら、それはあの時の私の判断が間違っていなかったということになるだろう。メッセージを送るのは気が引ける思いだったが、このくらいの迷惑をかけてみようと思えた。



「愛ヶ崎さん、体調は良くなったかな。もし、元気があれば、連絡してほしい。待ってるから」



 メッセージを送って、書き直したくなる衝動に襲われる。もし彼女が苦しみや絶望の波に飲まれていて、この文章が生んだひび割れが均衡を崩してしまったら。


 流れていく風景よりも早く走馬灯が流れていく。返信を期待しているわけではないのに、送信した画面から遷移できない。今まさに、そこで世界が変わる瞬間が目撃できるような予感に、心を射止められてしまっている。


「————っ!」


 メッセージに既読を示すマークが付けられた。


 もう戻れない。送信を取り消そうが意味がない。彼女はこの拙い文章を読んだ。忘れてしまった女の未練がましい催促を御目に入れた。落ち着いた文章で慌てる心をごまかしていると悟ったに違いない。今まで放っておいたくせに恩着せがましい奴だと思ったに違いない。何様のつもりだと憤っているに違いない————!



「元気元気~!電話かけるね!愛してるよ~!」



 立て続けに送られてきた文章に、頭を殴られたような衝撃が走る。目が数秒のうちに何度も文面を滑っていく。しかし、どうしても意味を理解できない。天使の声で再生されない。


 追い打ちをかけるように、画面の表示が切り替わり、天使の端末から着信が来たことが知らされる。着信音に驚いて、顔に引っ付くほどに近づけていた画面を離した。


 すぐに応答しようとして、自分が電車に乗っていることに気が付く。幸いにも、他の乗客はいないようだった。電話以上に、今の痴態を見られなくて良かったと安堵する。


 視線を戻すと、まだ呼び出しは続いている。早く、応答せねば————。


「ぅあ……」


 緑色の応答ボタンを押そうと人差し指を立てた刹那、着信を知らせる画面は消え、会話画面に切り替わった。震える指先越しに、彼女の送ったメッセージが取り消されていくのが見える。


 無限にも思える時間が流れる。自分の送った拙い要求だけが、画面端で私を見つめている。


 メッセージが静かにスライドし、新たな文章が送られてくる。



「ごめん。今は連絡できない。体調は平気だから」



————明確な拒絶。電車が止まる。メッセージは、それ以上更新されなかった。



 足が勝手に動いて、電車を降りた。腕が勝手に動いて、改札を降りた。



 気が付けば、家まで帰ってきていた。



 靴を脱いだ。誰かの声が聞こえた気がした。



 見慣れた廊下を歩いて、自室へ向かう。



 あ、痛てて。何かにぶつかった。滲んだ視界では、振り返っても何も見えない。



 扉を開いて、見慣れた部屋に入る。



 頬に温かい筋が流れて、視界が明瞭に開ける。



 大好きな顔が、私を迎え入れる。


 

 壁に、棚の上に、机の上に、写真立てに、額縁に、部屋中に飾られた天使が、私に微笑む。



 柔らかな笑顔が、頭上に消えていく。視界が真っ暗になって、何の光も見えなくなる。



 買い換えたばかりのブランケットが、暖かく濡れていく。薄い布では、声の一つも隠せない。



「うぅぅぅあ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙!!!」



 だけど、抑えることもできなくて、私は大声で泣いた。体中の水分が、とめどなく両の目から流れていった。



 母にも妹にも迷惑をかけていると思った。でも、他にどうすればいいか分からなかった。



 涙が鼻に流れて、しゃくりあげると喉が熱くえずいた。それでも、頭の中に流れようとする冷静な思考をぐちゃぐちゃに追いやろうと、泣き疲れて倒れるまで声をあげ続けた。



 それが、私の失恋だった。天使は、私に背を向けて飛び去った。



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