第四十七話 re:天使 前編
・主な登場人物
藍虎碧:現在生徒会執行部書記の女子生徒。クールに見られがち。
「藍虎さん、お疲れ様で——っ!大丈夫ですか!?」
「先輩、肩、お貸しします!」
「大丈夫だよ、神繰さん。少し転んでしまってね。それだけだからさ」
この学校には、天使が必要だ。そう思っているのは、私だけなのだろうか。
「でも、手がこんなに冷たいです……それに、体も震えて……」
「碧、何かあったのか?」
「……いえ、なにも、ありませんが……なにも、無いのですが、今日は少し体調が優れないようで、どうにも調子が出ないんですよ」
だけれど、もう私にも、天使がどんなものであったか。思い出せなくなってしまいそうなんだ。
「碧、今日は先に帰れ。今は麻貴奈もいるし、後任もいないことはない。なに、きっとただの風邪だぞ。気に病むことも無い」
「今は仕事もそう多くはありませんから、気になさらずに」
「先輩の分は、私がカバーしてみせますから、安心してください」
「……そう、か。すみません……今日は失礼します」
朦朧とする意識の中で、それでも確かに彼女の姿は、私の中で光であり続けた。その小さな灯を絶やさないためなら、私はどんな傷でも受けていられそうだった。だから、そんな自分にしかできないことを、するべきだと思った。
愛ヶ崎天使の家は、学校から駅へ降りて、駅周りの商店街をまっすぐ進んだところにある。
ほんの一時間ほど前に自分に泣きついてきた女子生徒は、この商店街の店でアルバイトをしており、そのために天使が下校の際のルーチンについて詳しく知っている。例えば、八百屋の親父はしょっちゅうサービスを付ける、とか。
私にとっても、この商店街はすでに歩きなれた道となりつつあった。自分の家に帰るだけなら、車窓にも映らない高架下だが、彼女と一緒に帰るようになってからは、彼女が無事に帰宅できているかを確認するために、その迷いばかりの動向を影ながら見守っていた。いや、それだけが原因ではなく、彼女の身辺警護も兼ねて、商店街の市場調査や関係性の構築を行なっていたのだ。
「碧ちゃん、今日も一人なの?」
「ええ、まだ少し、体調が優れないらしくて」
「そう、心配ねえ。そうだ、ちょっとこのネギ、天使ちゃんに渡してくれる? きっと、良くなるから」
「あはは、ありがとうございます。彼女もきっと喜びます」
学校で感じていた寒気は、坂道を下るうちに次第に消えていった。なにしろ、天使の家に向かっているのだから、弱い姿を見せるわけにはいかない。
そうだ。私は彼女の隻腕であり親友であり台典商高生徒会執行部書記の藍虎碧なのだから、心配などたちまちに解決できるのだ。
顔なじみのご老人にもらった長ネギを、配布物と一緒にビニール袋に入れる。荷物だが、むしろ彼女を訪問するいい理由になった。足の早い方ではないとはいえ、食品をこのままポストに入れておくわけにもいかないだろう。
作戦としては、愚かだと言われても仕方がないものだ。彼女の家に行く。そして、直接彼女と話す。たったそれだけのことだ。
試されるのは、私がどれだけ彼女に信頼されているかということであり、私がどれだけ彼女を信用していたかということでもある。
事件からは、一週間が経っている。今まで彼女に一言すらかけなかったのは、配布物やノートの写しを添えることで、この休学が彼女にとってほんの休息であると思ってもらうためだ。私は学校で待っていると、私は変わらずにいると彼女に伝えるためだった。
今日彼女に会うと決めたのは、半ば自棄のようなものだった。半ばという目算は、自分自身を正当化、いや、正常だと錯視するための言葉でしかない。
そうだ。私は狂っているのだ。頭がおかしくなってしまっているのだと思う。
天使が好きだ。彼女を信じている。それと同時に、どうしようもなく壊れていく信仰から、目を離すことができないのだ。彼女を再び見る日に訪れる沙汰を、絞首刑を待つ囚人のように受け入れてしまっているのだ。それがどんな結果であれ、自分にとって救いなのだと信じて。
彼女はもう、戻ってこないのかもしれない。私は、彼女の代わりにならなければならないのかもしれない。それはとても不安なことだった。生徒会長という立場にではない。この手で支え育て愛し共に進むはずだった、愛ヶ崎天使という存在の代わりになるということが、ひどく恐ろしい。
だから、知りたかった。彼女が今、どうしているかを。
あの事件から、私は彼女のことが分からなくなってしまった。なぜ彼女はあれほどに憔悴してしまったのだろうか。それは単純な暴力行為に対する恐怖では説明ができそうになかった。
あの日、愛ヶ崎天使という少女は、巡回中に出会った生徒——氷堂空間と共に、運動部の生徒から相談を受け、第二体育倉庫へと向かう。そこでは、釜水角士によって扇動され、また漆城という生徒から指示された生徒たちが待ち伏せていた。当該生徒たちは、同様の恐喝や暴行等の行為を常習的に行っていたと見られる。
当初は、倉庫内にいた生徒三名に対して氷堂が抵抗し、その隙に天使が脱出に成功したものと思われていた。また、天使の心的障害は、その際に受けた暴力行為によるものであると。
しかし、意識を取り戻した氷堂の証言により、認識は一変する。氷堂は、決して天使は暴力を受けなかったと証言したのだ。全くと言うわけにはいかなかったが、自分が囲まれていただけであったと、なぜだか誇らしげに語った。
氷堂の証言を受けて、関係者内で、天使の精神摩耗の原因は、氷堂を救えなかったことにあるとして結論が出された。また、無勢の中立ち向かった天使の勇敢な行動を評価し、また彼女の行ったことは正当防衛として扱われたために、三峰の提案した休学処分が受諾されたのだった。
とはいえ、この休学は処分という扱いではあるものの、天使が進級できる範囲で設けられたものだ。彼女の意思とは別に、一か月の期間が経てば、復学として対応することを三峰は提案したのだった。
学校側も事件の対応として複雑な事情を飲み込んだものの、公的に発表もできず、執行部や一部の生徒のみの知ることとなっている。
そうした流れ自体に問題提起したいわけではない。むしろ、検証に立ち会った身としては、いつものトラブルメーカー的性格が少し過剰に現れたのかと思っていたぐらいだった。今では自制できているようだが、気を抜いた彼女が備品を壊してしまったことは少なくない。サッカー部に誘われてPKの練習をしたときは、キーパーの顔に当てて少しトラブルになったこともあった。その時は彼女の人気のおかげで、むしろ好意的に受け取られたが、いつ大きなトラブルになってもおかしくはない。
自分の中でくすぶっていた種火が、今になってようやく姿を現し始める。彼女の家に近づくにつれて、思考が明瞭になる様だった。やはり、彼女と距離を取るべきではなかったのかもしれない。私は、彼女と共にあってこそ、彼女のためにこそ努力できるのだ。
夕暮れ泥む空の陽が、通過した電車に一瞬だけ隠れた。彼女の変化に感じた疑問が、影を差すように浮かび上がった気がした。
不審な点はきっと、彼女の変化の原因にあるのだ。愛ヶ崎天使は、目の前で氷堂空間が殴られる様を見たために、トラウマを刻まれた。あるいは、倉庫で生徒数名に殴られたために、精神的ダメージを負った。そのどちらも、納得がいかない。
なぜ——と考えて、ふと視界が陰る。はたと立ち止まると、夕焼けで伸びた建物の影に入ったようだった。隣に誰かいるような気がして、視線を流す。誰もいない暗闇に、影送りされたように思い出が蘇る。天使は、寂し気に私を見上げた。憂いを湛えた目じりを下げ、美しく、作り物のような笑みを浮かべる。それは彼女の気持ちに迷いを覚えた私の心を汲み取ったからで、しかし決して、私のために憂いたわけではなかったのだろう。
彼女は、愛ヶ崎天使という人間は、誰かのために傷ついたりしないのだ。誰が傷つこうと、誰が苦しもうと、それで彼女が傷つくことはないのだ。きっと私が死んだって、彼女はトラウマを抱えるほどに傷つくことは無いだろう。だから、氷堂空間がどんな存在であれ、彼がトラウマの原因になるはずがないのだ。
それは一種の直感でしかなかったし、私自身の期待でもあったが、不思議と間違っている気はしなかった。
では、彼女が直接的に被害を受けたということだろうか。それは氷堂が強く否定したことだ。あるいはほんの小さな衝撃ですら、彼女にとって暴力と言う爪痕となったのかもしれないが、それで彼女の芯が揺らぐとも——。
私はふと、一つの仮説に思い至る。そう、彼女の芯だ。彼女があれほどに精神を病んでしまったのなら、考えられる原因は一つだったのだ。天使が揺らいだ。あの騒動によって、愛ヶ崎天使の中の天使は、何らかのブレイクスルーを迎えた。混乱した状況のある一因が、彼女に、天使としての判断を迷わせるような影響を与えたのだ。その要因について、確かなことは分からないが、確かに彼女の中の天使は危機的状況に陥ったのだ。
それはまさに自分が避けたいと思っていたことだった。決して起こらないようにと懸念していたことのはずだった。そして、おそらく私のこの行動は、あまりに遅いものでもあり、あまりにも愚かなものであると、今なら確信できる。
天使の家は間近に迫り、思考はいよいよ明瞭だ。それでも過ぎたことはもう戻らないのだと、簡単に水たまりを踏み越えていける。
彼女が迷っているのならば、私が道を示せばいい話だ。私は、彼女と共に進むと決めたのだ。彼女の片腕として、頼れる存在として——。
「——友達じゃあ、ダメなの?」
澄み渡った思考に、鋭い痛みと共に声がフラッシュバックする。ようやくたどり着いた天使の家には、明かりがついている。所在を知らす燈に、決意は心に色を教える。
「——ふふっ。友達っていうのも、いいのかもしれないね」
そうだよ。私は君の友達だよ。ずっと、君と話していたいんだ。本当は、仕事なんてよくて、学校なんてよくて、君のことを、もっと知りたかったんだ。だから、少しだけ、こんな私の愚かさを許してくれないか。
彼女の部屋の前に立つ。扉越しに、部屋の明かりが漏れていた。コンロを使っているのだろう、換気扇の音と何かを炒めるような音が聞こえてくる。それは日常が帰ってきたような音で、私はそんな温かな世界に戻るために、扉をノックする。
コンロの音が静かになる。パタパタと急ぐような足音がする。
彼女の家の間取りはよく分かっているから、キッチンから慌ててやってくる彼女の姿が目に浮かぶ。料理を作り始めたけど、自分でピザの注文をしたのを忘れたんじゃないかと、かわいらしく頭を捻ったりしているんじゃないだろうか。もしかしたら、私が来ると思ってサプライズを用意してたりして。困っちゃうなあ。やっぱり君にはかなわないや。
外開きのドアにぶつからないよう、少しだけ下がって、それから彼女にかける第一声の準備を整える。息をしっかりと吸って、心を落ち着ける。きっと彼女はスリッパのまま、勢いよく扉を開けるだろう。
足音がすぐそこまで来ている。さあ、今だ!
「「天使ちゃ————!」」
手に提げた配布物を軽く掲げたところで、予想外の人物と目が合う。彼女にとってもそれは同様のことで、驚いた眼はまんまると鏡のようだった。
「……碧ちゃん、よね」
「愛ヶ崎さんの、お母様……」
扉を開いて現れたのは、以前までは遠くの存在だった人。天使の家に初めて入った日に、尊敬の認識を改めざるを得なかった人。愛ヶ崎天使の、母親その人だ。
お互いに、話そうと思っていた言葉を入れ替えるのに時間がかかってしまう。何を言うべきか分からずに、うつむいて唾をのむ。
「とりあえず、入って。それ、届けに来てくれたのよね」
配布物と長ネギの入った手提げ袋は、誰かがボタンを押したように、ぶらりと中空に浮かんだままだった。
静かに、テーブルにコップが置かれる。こまごまとした生活音の中で、沈黙は保たれたままだった。
「ご飯、食べていかない? ちょっと……作りすぎちゃったみたいでね」
「……いただきます」
お腹が空いていたわけではなかった。胃は空腹を訴えていたものの、家で母が夕食を作っているはずだったし、天使の居ない食卓を囲むのは気が引けた。それでも、目の前の女性の嘆息に、自分と同じ孤独さを感じてしまったのだ。この人もきっと、天使に魅せられ、そして見失ったのだろう、と。
「その……天使は、出かけているのですか?」
「ええ、出かけているの。私も、どこにいるのか分からないわ」
淡々と、まるで何度も同じことを口にしたように、彼女は告げた。背を向けたまま、料理を仕上げ終えた彼女は、私の目の前の皿に料理を盛り付ける。むしろ成長盛りの高校生にとっては少ないくらいの量だ。しかし、ちょうど保存容器一つで収まりそうな量でもある。
「ごめんなさいね、冷やご飯で」
「いえ、ご馳走になっている身ですから」
天使の母は、冷蔵庫からいくつかの保存容器を取り出すと、真っ白の一つを——白米の入ったものをレンジに入れた。開き放した冷蔵庫に、積みあがった保存容器が見える。きっと彼女が、天使のために作り置いたものだろう。
「あの子、いなくなっちゃったの。行き先も言わないで、一人でいなくなったの。もしかしたら、あなたか悠怜ちゃんだったかしら。あの子と一緒なのかとも思ったのだけれど、その顔を見るに、きっと違うのよね」
「……行き先に、心当たりはありませんか」
「そうねえ……近場ではないことは確かだと思うわ。勘だけどね。それに……少し見てくれる?」
彼女の言葉に、箸を止めて食卓を離れる。扉を挟んだ先は、彼女の居室だ。
「これって……」
とても、きれいな部屋だった。モデルルームだと言われれば、信じてしまうくらいに整頓され、余分なものが無い。お人形遊びをしているような、完璧であるがゆえに生気のない部屋だ。
脳裏に、天使の恥ずかしそうな笑みが浮かぶ。片付いていない部屋を見せないようにと、大きく手を振る彼女の姿がフラッシュバックする。彼女の息遣いを感じた散らかったものたちが、今は一つも無かった。
「教科書と、本だけ残して、後は捨てちゃったみたい。私が来た時には、洗い物だけが放置してあってね、夏だから、すっかり悪くなっていて、すぐに洗ったのだけれど——」
「——何日。何日経ったんでしょうか。彼女はいつ、ここを出たんですか」
「……正確な日にちは分からないけれど、昨日私が来た時にそんな状況だったから、それより二日か三日は前だと思うの。でないと、紙ごみを捨てられないもの」
とっさにカレンダーを思い浮かべるが、古紙の回収がいつなのかを思い出せない。実家の冷蔵庫の側面は、夢で見るように靄がかかっている。
あの事件から、彼女の休学から短くて三日。たったそれだけの時間で、彼女は答えを、これからの行き先を見つけたというのだろうか。私は一週間経ってようやく、この小さく愚かな一歩を踏み出したというのに。
あるいは——うっそうと茂る樹海の入り口で快活に笑う天使のイメージを、必死に振り払う。もし、彼女がそんな選択をしたとしても、私に一言くらい————。
ゲートが開かれた競走馬のように、私は倒れるように天使のかばんに駆け寄り、中身を検める。机上にも、棚の中にもファイルは無かった。鞄には、生徒会用のファイルと、通常の授業用のファイルが入っていた。
彼女は、配布物を溜め込むタイプだ。家に帰って見せる相手がいないからだろう。一学期終わるまでファイルの中身は増え続け、学期末には辞書のような厚さになる。
しかし、残されたかばんの中には、空のファイルしか存在しなかった。私の届けた配布物も、解説を付したテストの答案用紙も、毎日寄せ書きのようになってしまう連絡用紙も、一枚として残されてはいなかった。
「君は————君は、私をっ————!」
————忘れてしまったとでも言うのか。そう言いかけて、ずっと残酷な真実に思い当たる。
彼女にとって、私は、元より気に掛ける程の存在ではなかったのだ。頼るなどという思考に行き着きもしない、気を置いた関係性。天使という光に集まった、哀れでちっぽけな蛾の一羽。蜘蛛の糸に縋る衆愚の一人。友人という関係すら思い上がり甚だしい凡夫に過ぎなかったのだ私のような醜穢な人間は!
「碧ちゃん。私はね、あの子のお母さんとして、あの子が幸せだったら、どんなことをしても許してあげようって、そう思っていたの。あの子の好きなように、生きさせてあげたいって。
私が今まであの子にしてあげたことが、してあげられなかったことが、良かったとは言えないでしょうね。でも、あなたや悠怜ちゃん、生徒会の子たちと楽しく過ごしているって聞いたときは、なんだか救われたような気持ちになったの。これまで間違ったことも、後ろめたく思ったことも、全部が許されたような気持ちになった。
……自分勝手ね、私。でも、あの子も、あなたたちとの学校生活は、とっても楽しんでいたと思うわ。あの子、家だとほとんど笑わないのよ。でも、高校の話をするときは、少しだけ楽しそうな顔をするの。だから、あなたが気に病む必要はないわ。あなたはなにも悪くないの。少しだけ、巡り合わせが悪かったと思うしかないの。誰だって、降りかかってしまった不幸を避けることはできないわ。それはあの子だって例外じゃない。ただ不運だったというだけで————」
「——それでも、彼女は誰かを救おうとしていたんです。天使は、誰かに降りかかった不幸を、一緒に背負おうとしていたんですよ。それなのにどうして、彼女が苦しんで、迷っているときに、その荷物を一つでも背負ってあげられない自分を、恨まずにいられるんですか! 友達だなんて言って、彼女のそばにいてあげなかった自分を、どうして後悔せずにいられるんですか!」
漏れ出した言葉は、いつの間にか慟哭に変わっていた。嘆くことに意味は無い。後悔にだって意味は無い。けれど、そうせざるを得ないのが、人間なのだ。私は天使ではないから、傷ついた足を引きずりながら、地を踏みしめなければならないのだ。戻れない足跡を振り返りながら、前進するしかないのだ。
「すみません。今日は失礼します」
私は、荒い息を落ち着けるように言って、部屋を後にした。悲しみも怒りも後悔も、潮が引くように穏やかになっていく。
「また、来てくれる?」
「いえ。もし、天使が——愛ヶ崎さんが帰って来ても、今日のことは、言わないでいただきたい。きっとその方が、彼女にとってもいいことだと思います」
かばんを手に取って、あいさつもそこそこに天使の家を出た。すっかりと日は暮れていた。
心には、ぽっかりと大きな空洞が空いている。天使の光が空白を満たせば、それはとても美しいものだと思えただろう。暗闇の満ちた心の中で、私は自由に生きてみようと思った。私の背に羽は無く、頭に光輪は無く、天使のように生きることはできない。それでも、私は私らしく、私の好きなように生きるのだ。彼女が、天使として生きようとしたように。私は、天使がいなくとも、彼女に尽くしていた時のような藍虎碧として生きていく。それが、私の好きだった彼女に近づくための、唯一の方法だ。
もし彼女が、私を信じているとしたら、きっと今のような『天使』に囚われた自分ではなく、自分の求めるもののためにまっすぐだった姿に対してだろう。
彼女がもう、私を忘れてしまっていたとしても、構わない。誰かがその羽を私に重ねるのなら、それも構わない。私はただ、私の好きなように彼女の意思を背負った気でいるだけだ。誰にも救えない彼女を、傲慢なことに、愚かなことに、哀れなことに、救ってみせると思い続けるのだ。
ぼうっと心に灯がともる。天真爛漫で、可愛らしく、美しく、無垢で純粋で透明で清廉で、大切だと心から思える、天使の笑顔が浮かぶ。大好きな天使の笑顔が、万華鏡のように、走馬灯のように、心に満ちる。
「……ありがとう。君のことを、好きになれてよかった。君を、愛せてよかった」
暖めるような静かな吐息で、灯は消える。心を燃やすような熱は消え、頭は冷たく醒める。
踏み出した足は、新鮮に重たかった。他人事のように、疲労と気の重さを感じる。けれど、今はそんな現実味を帯びた不安こそが、一歩の確かさを感じさせてくれる気がした。
今こそ、天使のことを知るべき時だ。天使の話を、彼から聞く時だ。
——氷堂空間。彼の知る天使を明かして初めて、私の中の、誰も救えない天使の話は秘められる。愛ヶ崎天使という少女の目指した天使を、ようやく理解してあげられる気がするのだ。そうしなければ、どれだけ確かな一歩を進めたとしても、彼女への気持ちに区切りをつけることはできそうになかった。
この町に、この学校に、天使はいた。そういつまでも語れるように。
それから、シャッターの降りた商店街を戻った。夏の夜は、いつにもまして暗く感じられたが、終電を気にするほど遅い時間ではなかった。
ふと、商店街の向こうから、慌てるような足音が近づいてくる音に気が付く。不思議に思って立ち止まると、ほどなくして見覚えのある制服が目に入る。
「あっ! 藍虎……やっぱりこんなところに……」
「昴……?」
台典商高の制服を着た彼は、息も絶え絶えといった様子だ。天使ファンクラブの一員であり、私が情報を得るために関わっていた生徒の一人だ。思い返せば遠い過去のような、天使ファンクラブの解散を宣言されたときも、部室の中に立っていた。
これまでであれば、天使ファンクラブの生徒が私の所に急いでくるときは、天使に急な危機が訪れた場合であった。しかし、それも校内の話であり、校外ならメッセージ連絡が基本だ。その上、現在は天使が休学中であるために、実質的に活動は休止状態でもある。
いや、そうか。この慌てようから察するに、休学中、それも心身の疲弊した状態の天使が危機に瀕していると知らせに来たのだ。失踪中の彼女は、まだこの付近にいたのかもしれない。
「何か、あったのかい?」
「いや、何かっていうか、さっきのお前の様子、やっぱり変だったから、それで……」
冷静な頭で、彼の言葉を反芻する。さっきと言うのは、おそらく新聞部の部室を飛び出したときのことだろう。現実の時間で言えば、ほんの数時間前のことだ。さっきと言ってもおかしくはない。
残念なことに、そのときの自分のことは鮮明な記憶に無いため、変であったかは分からない。しかし、自分でも事件以来の自分の精神状態は、あるいは行動や思考も、おかしかったと言っていいものだった。
とはいえ、それは過ぎたことだ。今の自分が、これまで以上に調子が良く、やる気にも満ちていることを自覚している。彼を含め、天使ファンクラブだった生徒たちを振り回すようで申し訳なく思うが、どうにも自分が正常な思考を取り戻したと理解してもらうには、きちんと確かな姿を示さなければならないようだった。過去の自分が招いたこととはいえ、明日からの学校生活で自分を指す懐疑の目が、一時的な物としても面倒に思えてしまう。
「心配をかけたね。もう大丈夫だよ。少し体はだるいから、軽い風邪みたいなものにかかっていたみたいだ」
「風邪ってお前……俺は本当にお前が心配で——」
「少し休めば、調子も戻るさ。その時はまた——っと、天使ファンクラブはもう無いんだったね」
私はもう揺らいだりしないのだと、会員だった彼に少しばかりの信頼を込めて、肩をすくめて示す。天使がいなくなったら、その紐帯にも意味はなくなるが、そう、「友達」として新たな関係を築くことになるのだろう。それは、天使を夢見た同好の士として、気の置けない仲になれるかもしれない。
「藍虎……お前、やっぱり変だよ……無理してるっていうか……」
予想外の返答に、一瞬思考が止まる。しかし、簡単に自分の今の状態を説明できるとも思ってはいなかった。これは人狼ゲームで自分が人狼でないと証明するようなものだ。自分のことは自分だけが良く知っている。他人から見れば、それは不確定な情報の一つに過ぎないのだ。まして、彼は私を疑っているようだから、さらに言葉は響きづらいだろう。
「なあ、藍虎……不安があるなら、俺を頼ってくれよ。力不足かもしれないけどさ……俺、お前の力になりたいんだ」
力になりたいという割には、しり込みするような様子の昴に、妙な胸騒ぎを覚える。ざわめきの正体は見えないが、漠然と、もう逃げられないほどにその運命は迫ってきている気がした。
「力不足だなんて、そんな。君は何度も私を助けてくれただろう。ほら、五月だって、君の連絡が無ければどうなっていたか」
「それは……そうじゃなくて、もっと直接、俺は藍虎を支えたいんだよ。天使ちゃんのことが無くたって、もっと話したいっていうか……」
「別に、ファンクラブが無くなったからって、話す機会が無くなるってわけじゃないだろう? 同じ学校にいるんだ。いつでも話せるさ」
「でも、ほら、クラスも違うし、俺、部活も忙しくなるし……お前も、執行部、忙しいんだろ?」
「そりゃあ、生徒会長になるのなら忙しくもなるさ。でも、むしろ会長は生徒との交流が大切だからね。サッカー部と関わることもあるだろうさ」
「そうじゃなくて……俺は……俺…………」
私は、言葉の続きを待つように小首をかしげた。それが最後の機会だというように、軽くほほ笑んで見せる。何を言いたいのか分からないという体を装った。願わくは、この均衡を破らないでほしいと思いながら、言いよどむ彼の隣を通り過ぎるために、一歩近づこうとする。
「俺は——————!」
しかし、ギロチンの刃が落ちるように呆気なく、彼が先に一歩を踏み出した。
「俺は、お前が好きだ! だから……だから、お前が不安なら支えてやりたいし、迷ってるなら頼ってほしい。お前の力になりたいんだ!」
————自分が今、どんな顔をしているのか分からなかった。きちんと笑えているだろうか。
昔から、外遊びが好きで、休み時間には男子に混じってサッカーをしていた。感じるままに笑い、泣き、悲しみ、怒り、楽しむのが当たり前だと思っていた。
台典商高に来て、天使と出会って、それが私の初恋だったのだと思う。天使に恥じない自分になるために、はしたない行動を慎むようにした。どうやら私は、意識していなければ表情が顔に出にくいらしく、感情を出さないようにするのは難しいことではなかった。むしろ、過剰にクールだと思われるほどだった。
「執行部に入ってから、藍虎、全然笑わなくなって、無理してる感じだった。天使ちゃんと関わるようになって、おかしくなったんだって、みんな言ってるよ。だから、話し合ってファンクラブを解散することにしたんだよ。全部、お前のためなんだ」
滔々と語る昴の声が、聞き流したいのに不快なノイズとなってこびりつく。
執行部に入って、愛想笑いを覚えた。人付き合いは嫌いじゃなかったから、ファンクラブの会員と懇意にして情報網を構築するのは苦にならなかった。執行部に入らなくても、天使がいなくても、どこかで同じように関係性を構築していたと思う。
違う点があるとすれば、その関係性は『友達』ではないということだ。四組のクラスメイトは、仲間だった。そう集まるのが、もっとも都合が良かった。ファンクラブは同士だった。天使という教祖を共に崇める仲間だった。
思えば、私は男というものが、その視線が嫌いだったのかもしれない。現に、必死の思いを振り絞った眼前の彼に対して、ひどく冷めきった気持ちしか感じられない。天使と出会って、恋というものを知ったことで、愛に対して過大な聖性を見てしまったのかもしれない。だからこそ、異性間の性的な視線を嫌悪し、対等な関係を求めたのかもしれない。
しかし、現実は違った。同士だと思っていた会員にすら、特別な好意を持たれていた。もしかすると、彼だけではないのかもしれない。あるいは、私に「友達」を説いた彼女でさえも。
全身を寒気が走った。全身の毛穴が開き、ハリネズミのように棘が飛び出しそうだった。
天使は————。すぐに思い至ったのは、天使のことだった。彼女は、どう思っていたのだろうか。自分が愛されるということについて、誰ともつかない有象無象に下卑た視線を送られているかもしれないことについて、考えを巡らせたことがあったのだろうか。そんな人々にも、分け隔てなくいることを、嫌悪を感じないでいようとしたのだろうか。
「——一番近くで、藍虎を支えたい。返事を、聞かせてくれないか」
絶望と嫌悪に怯える心に、一滴のしずくが落ちる。冷たい波が広がっていく。ゆっくりと、状況を俯瞰していく思考は、藍虎碧としての、正しい答えを考え始める。
彼の名は、上崎昴。サッカー部の男子生徒だ。一年次には、私と同じ四組で、初めは女子サッカー部にでも入ろうかと思っていた私は、それなりに話す相手だった。
合宿の際は、部内で流れた天使の噂に否定的で、数名に課された処罰にも関与していない。その後、天使ファンクラブに遅まきながら入会。部内での成績が好調なこともあり、情報源として活用。
次期副部長として期待されており、学業成績も上から数える方が早い。
実家暮らしであり、両親は健在、兄弟は兄が一人。家族仲は良く、練習試合を見に来ることもある。
進学先は関東圏の国公立大学を期待されているが、実家から通える範囲であれば例外もある。
恋愛経験はないが、部内での評判は高い。マネージャー内では女性が苦手なのではないかと噂されており、硬派な態度が好感につながっている。
考えてみれば、良い人間ではないか。彼と付き合えば、より自然に男子生徒からの接触を避けることができるうえ、サッカー部とのコネクションを得ることができる。断れば、藍虎碧の異常性は広まり、天使に汚染された哀れな生徒として憐憫の眼差しを受け続けることになるだろう。
彼の提案は、私にとって益しかもたらさない。勝ちの決まったチケットのようなものだ。断る理由があるとすれば、ただ一つだけ。この心の嫌悪感だ。純粋な彼を汚濁と決めつける自分勝手な気持ちだ。天使が狂わせた歪みの産物、碧だけが固執している生物的本能への反発心。
藍虎碧として、天使の後を継ぐならば、苦しくとも、辛くとも、飲み込むべき感情だ。簡単な愛想笑い。軽くうなずくだけでいい。天使は誰かを傷つけてはならない。誰かに絶望を与えてはいけないのだ。
「上崎君————」
ああ、違うな。そうじゃないんだ。
冷静に考えようとする頭が導いた答えに、つい鼻で笑ってしまう。そもそも、冷静な思考だなんてもの自体が、毛頭おかしな話だった。
愛ヶ崎天使は、私に希望を与えてくれた。まさしく私に救いを与えてくれた。けれど、天使は希望でも、まして救いでもない。希望は、彼女だ。救いは、彼女だ。それは天使という彼女の目指したものに帰属するわけではないのだ。
そして何より、藍虎碧は私なのだ。感じるままに動くのが私なのだ。誰かが定義づけた、生徒会執行部の藍虎碧である必要などない。そうでなければ、天使の後を継げるはずもない。
私の本質が見えていないなら、どんな人間だろうと、興味すらない。嫌悪ですら、気にするに値しないほどに、好意ですら他人事のように、私は目指すもののために、自分自身を貫くだけだ。
「——君のことは嫌いじゃないよ。でもね、私を支えるよりも、君の支えを待っている人の方を向いた方がいい。目高も言っていただろう? 私を支えてくれるのは、君でなくていい」
あるがままに、思うがままに、藍虎碧を演じる。天使がいつも笑っている理由が分かった気がする。笑顔が一番、不安が紛れる。
「遠くまでごめんね。また明日、学校で」
高架を通る夜の電車は、彼の声をかき消してしまったようだった。歩き始めた私を、彼はもう止めることもしなかった。列車の光が、私たちの影を長く伸ばしたが、交わることは無いまま闇夜に溶けた。