第四十六話 虚像崇拝
・主な登場人物
藍虎碧:現在生徒会執行部書記の女子生徒。クールに見られがちだが、愛ヶ崎を溺愛している。天使ファンクラブ会員番号1番。
橋屋目高:写真部部長の男子生徒。天使ファンクラブ会員番号0番。
この学校に、天使はいない。
ガソリンに火をつけたようにあっという間に、そんな噂は広がり、立ち上り、誰もその空席に気を割くことはなくなってしまった。ただぽっかりと心に空いた穴は、気泡がつながるみたいに大きくなって、私だけのものになってしまったように感じられる。
優しい人も、そうでない人も、誰もが私に慰めの言葉をかける。彼女本人には言えないことを、私に託して押し付ける。まるで忘れたがっているみたいだ。この学校に、天使なんていなかったんだ、と。
天使がいなくなっても、私たちは、生徒会執行部は動き続けなければならない。むしろ、彼女を一人にしておくべきだと決断した責任を取るために、当然のことだった。
副会長が居なくなっても、仕事が突然に多くなるということは無かった。彼女は仕事を持ち帰らないタイプだったし、あの日彼女が寄り道をしたのだって、仕事が無い退屈さからだったのだ。
天使がいなくなったところで、大きな時間の流れは変わらなかった。依然として体育祭は目前であり、元気なはずの生徒たちは、その準備に追われることになる。私だって、仕事に追われる身だ。彼女のことをどれだけ慕ったところで、血縁でもなければ、事件の立ち合いですら、大きく遅れてしまったのだ。感傷に浸れる身分でもないだろう。
頭に入ってこない授業を、彼女のためにと細かくノートに取る。ポストに投函していた配布物は、時折誰かが回収しているようだった。きっと回収しているのは彼女自身で、回復傾向にあるのだと信じたかった。
あれから一週間が経った。当然のことながら、私の隣には空席が一つ。視線を向けたところで、私に笑いかけてくれる光は無い。
「————いとら~。藍虎! 聞こえてるか?」
やまびこのようなぼやけた声が、不意に顔の近くで収束する。自分を呼ぶ声だと気づいて、ようやく私は我に返った。
「————っ! すまない、少し、考え事をしていてね」
「藍虎ぁ、お前ちゃんと寝てんのか? 仕事忙しいのは分かるけどよ……って、そうじゃなくて、呼ばれてるぞ、後ろのとこ」
お節介なクラス副委員長の言葉に、教室後方の入り口を見る。猫背気味の男子生徒が、眼鏡の奥の瞳を細くしてこちらを睨んでいる。
「橋屋くんか、ごめん。すぐ行くよ。ありがとう、田尾くん」
「田尾くんってお前……いや、まあ気を付けろよな」
妙に口ごもった様子の田尾を疑問に思いながら、藍虎は自分を呼ぶ橋屋目高の元へと向かった。
「ごめんね、気が付かなくて」
「いや、別にいいさ。それに今すぐ話したいってわけじゃない。放課後、時間作れるか?」
「……ここじゃできない話なのかい?」
「ああ、それにその方が、お前も少しは頭を働かせられるだろう?」
「お気遣いどうも。なんとかしてみるよ。場所は、いつものところでいいかい?」
「おう、気を付けてな」
そう言い残すと、橋屋は不愛想に去っていった。
彼が最後に言った言葉が引っかかる。「気を付けて」なぜだか最近になって良く言われる言葉だ。私はいつだって気を付けているさ。これまでも、これからだって。それで天使を救えなかったことは、もちろん気に病んでいるけれど、気を付けてと言われるほど、私は不用心ではないと思うのだけれどね。
むしろ、気を付けるべきなのはみんなの方だ。天使がいなくても気丈にふるまっているようでいて、目に見えて活気は下がっている。おかげで執行部が対処するようなもめ事は減っているけれど、このまま体育祭を行なえば、盛り上がりに欠けることは間違いないだろう。それに、このままでは天使が生徒会長になることすらも危ぶまれる状況だ。そうなれば、執行部の安定すらも怪しくなる。
どうにか、どうにかしなければ——————
「——どり、碧? 次、移動教室だぞ。早く行かないと」
制服の袖を引かれる感触に視線を落とす。何度か瞬きをすると、ようやく焦点があった。心配そうに眉根を寄せて、留木が袖をつまんでいる。
しかし、まだ移動教室まで二時限はあったはずだ。そんなに焦る時間でもない。
——と、視野を教室全体に広げると、そこにはもう誰もいなかった。入り口で教室の鍵を持った生徒が、所在なさげに扉へ背中を預けている影が見える。
「よかった。ノートは取ってるんだな。とにかく、もう授業始まっちゃうし、早く行こ? これで今日の授業も終わり~!」
「あ、ああ。そうだね」
嬉しそうに出口へ駆けていった留木の後を、ぼんやりとしたまま追いかける。忘れ物をしたような感覚に視線を落とすと、授業の荷物はしっかりと胸に抱いていた。
「藍虎さん、気を付けてよね」
教室を出た私の背後で、そんな声が冷たく響く。立ち止まって振り返ると、鍵を閉めたところのクラス委員長が、涼しい顔で私の横を歩き去っていった。
放課後になり、生徒会室に向かっていると、すでに来ていた誰かの声が漏れ聞こえてきた。
「——らさんも休ませ——は? ずいぶん————ですし、執行部としても体調————が心配です」
「まあ、————天使————からな……でも、————て言って休むタイプじゃ——」
ガラガラと扉を開けると、二人の視線がそろって私の方へと向いた。
「お疲れ様です」
「ああ、お疲れ。碧ちゃん、今日な——」
「三峰先輩、少し急ぎの用事がありまして、校内巡回がてら終わらせてきます。愛ヶ崎さんもお休み中ですし、巡回場所が広くて困ってしまいますね。そろそろ神繰さんにも巡回を教えてみようかなと思います。それでは」
私は素早く荷物を置くと、連絡事項を先輩に伝える。最近は時間効率を考えて書類仕事よりも、体を使う仕事を先にするようにしているのだ。その方が仕事をする気持ちに切り替えやすい。
「あ……おお。碧ちゃん、気を付けて、な」
「私は、気を付けてますよ、いつだってね。行ってきます」
今は私が、天使の代わりなのだ。彼女の居ない穴は、私が埋めなければならない。彼女の信仰的な代替は到底不可能であるが、事務仕事や人間関係で言えば難しいことではない。天使がいなくなってからも、天使ファンクラブの情報網は絶えるわけではなかった。彼女がつないでいた紐帯は、いまや天使から独立したネットワークになりつつあるのだ。
大丈夫、私は気を付けているさ。彼女が帰ってきた時に、前と変わらない環境で迎えさせて見せる。いじめも校内暴力もカーストも、原因は削除したんだ。彼女を苦しめるようなものは、二度と彼女の前に現わさせたりはしない。
彼女の痛みも苦しみも、私がきっと癒してみせる。彼女がこの学校で、天使でいられるように、この身のすべてを捧げてみせる。だから、今は守る時だ。彼女がいない台典商高が崩れ落ちていかないように、天使の還るべき場所を、私が、守らなければならないんだ。
特別棟の廊下を進み、写真部の部室をノックする。三度のノックに、室内から四度のノックが返ってくる。橋屋との合言葉だ。
しかし、扉を開けると、そこには予想外の光景が広がっていた。
橋屋が対面に座るように促してくる。私は呆気にとられたまま、腰を下ろした。
部室内には、見知った顔が十名ほど、私から目をそらすように、思い思いの方向に視線を落としていた。その全員が、天使ファンクラブの会員であり、私が情報収集のために懇意にしている生徒であった。
「なんの、真似だ。橋屋? 二人で話すんじゃなかったのか」
「そんなことは言ってねえよ。ただ少し、教室では話せないって言っただけだ」
目的を探ろうと、うつむいた生徒たちの顔を見ても、その真意は見えない。むしろ、数名の心配そうな目が私を見るせいで、居心地は悪くなってしまった。
「藍虎、会員証を出せ」
「どういうことだ? なあ、橋屋。本人確認とでも言いたいのか? 私は、正真正銘、天使ファンクラブ会員番号一番、藍虎碧だよ。みんなも何か言ってくれよ、なあ。困っちゃうよな」
私は、得体の知れない冷たい空気に、会員証を出すことをためらう。その行為には、本人確認や、会員同士のなれ合いなどではない、もっと恐ろしい未来を引きずり込むような予感があった。
右を見る。生徒たちは、それぞれの場所から、自分の会員証を出した。
左を見る。生徒たちは、会員証を整えるように、両端を丁寧に持った。
橋屋を見据える。いつの間にか後ろにも生徒が回っていたようだ。
背後から、感触を確かめるように、指に紙の端を擦り付ける音が聞こえてくる。指が角を弾く音が、秒針のように止まってしまったような時間の鼓動を刻む。
銃器でも向けられているような冷たい空気に、私は制服のポケットへ、静かに手を伸ばした。震える手を差し込む。指先はスカートの谷間をすり抜けていく。ここはポケットじゃない。
一つ、二つ、谷間を指がなぞる。不意に当たる固い感触。会員証をしまっている名刺入れの固さだ。
静かに机上に置いたつもりが、震える手から抜け出して甲高い音を立てる。耳障りな振動を止める余裕もない。正面の橋屋は気にする様子もなく、自分の会員証を出していた。
「ほら、よく見るといい。間違いないだろう? 私の会員証だ」
震えがばれないように、指で挟んで表を見せつける。
「——藍虎。今日お前に話したかったことは、他でもない。この天使ファンクラブのことだ」
橋屋は、最適な声色を探すようにたっぷりと溜めてから、続けた。
「……お前を、今日この時をもって、天使ファンクラブから除名する」
「な、何を……?」
上手く言葉を理解できず、反射のような声だけが漏れ出る。
自分の中の大切なものが、壊れていくような、崩れていくような感覚が背筋を凍らせていく。
人は死ぬとき、走馬灯と呼ばれる追憶に触れるという。死の瞬間、覚醒した意識は何倍にも時間を引き延ばし、無限とも思える一瞬の中で、人は記憶をたどっていく。けれど、どれだけ長い時間に思えても、こぼれた水は二度と戻らない。どれだけ時間が遅くなっても、どれだけ惨めに足掻いたとしても、この指をすり抜けたものは、決して掌に返ってこないのだ。
「何の…… 君に! 何の権限があって、そんなことを言う! 私を除名? はっ、冗談もほどほどにしてくれよ。誰かを爪弾きにできるほど、君は、君たちは偉くなったとでもいうのか!
……天使ファンクラブは、そんな組織じゃないよ。組織になんて、なってはいけないんだよ。人が集まれば力になる。力は人を強気にさせる。力は天使を脅かす! だから、ファンクラブはただ、個人が天使を崇めるためだけにあればいいんだ! 形のない紐帯として、緩やかに、けれど決して切れない信仰としてあればいいんだ! それを、それを君たちは汚すとでも言うのか!」
睨みつけた視線は、暗い影の落ちたレンズに阻まれる。
「これに、そんな力は無いよ。誰も、何も、誰かに強制力を与えることはできないよ」
「なっ……なら、何が除名だ! 矛盾している!」
「誰だって、誰かに強制力を与えるような存在になってはいけないんだよ」
橋屋は、静かに会員証を私の方に掲げる。ペンだこのできた指が、力強く小さなその紙の真ん中を掴む。
「何を、言いたい……まさか、おい、目高! 嘘だろ、嘘だと言えよ! やめろ! 私は、どうなったっていい! だから————」
「これは、お前のためなんだ。藍虎、お前のためなんだよ」
「やめ……やめてくれ……頼む……天使は、まだ生きているから……だから……殺さないでくれ……私の、天使を……」
「天使ファンクラブは、今日で終わりだ」
世界が歪む音がした。案外、呆気ない音だ。トイレットペーパーをちぎるような、簡単でどこにでもあるような音だった。簡単に、呆気なく、私の世界はねじ曲がった。水たまりに映った自分の顔を踏みつけたように、像が不明瞭に振動している。数度聞こえただけの、紙が裂ける音が、何度も耳の奥でこだまする。
「他の会員は、すでに彼女を忘れ始めているようだったよ。ファンクラブなんてもの、もう存在も覚えていないだろうな。……自分勝手なことだ」
「それは、君も、君たちもそうじゃないのか。天使は死んだと決めつけて、彼女の居場所を奪って……いなくなれば用無しとでも言いたいのか? 天使を支えたいとは、思わないのか? 天使が、大切ではないのか? そうかそうだよな、天使のことを何とも思わなくなったから、君たちはこんなことをするんだ。あの頃のことだって、本当は嘘だったんだろう?」
「碧、私たちは————」
誰かが一歩踏み出そうとするのを制止して、椅子から立ち上がる。パイプ椅子は不快な音を立てて転がったが、すぐに意識から消えていく。
「もう私は、君たちに何の益ももたらせないね。君たちの望む物は、私とは違うんだから、情報も写真も交流も、すべて意味がなくなるね。だって、もうファンクラブはないんだからさ。私の持っている情報も、写真も、君たちにとっては何の意味もない。ああ、むしろせいせいするのかな。私が疎ましかっただろうね。天使の隣にいる私が……まったく、こんな簡単なことに気が付かなかったのか! 私は、君たちに妬ましく思われていたんだ! そりゃあ、こんな分裂も引き起こしてしまうだろうね! 私のせいだ。私の————」
「————碧! もうやめて!! もう、やめてよ……お願いだから……」
振り上げようとした腕が、妙に重たかった。雫の落ちた先に、一人の女子生徒が私の腕を抱え縋りついている。想像だにしない行動に言葉を失っていると、立ち尽くしていたはずの生徒たちが、ためらうように少しずつ、目に涙を浮かべて近づいてきていた。
「ファンクラブなんて、もういいじゃない……私たち、友達じゃあ、ダメなの? 意味なんて……益とか得とか、そんなのどうだっていいよ。天使ちゃんじゃなくたっていい。碧が、好きな人のために必死だから、だからみんな、碧に力を貸したんだよ。碧が嬉しそうにしてるのが、私たちも嬉しかったから……それが友達でしょう? あの子のために、碧が苦しくなるのなら、ファンクラブなんて、いらないよ!」
「藍虎。彼女が休学を終えて戻ってきたとして、本当にお前が望んだような姿で、この学校を導くような、生徒会長にふさわしい姿で現れると思うか?」橋屋は静かに聞いた。
「天使は……彼女は、きっと……」
「俺たちは、お前の方がずっと生徒会長にふさわしいと思う。カリスマや魅力の話だけじゃない。お前ほど、コネクションの広い奴もいない。天使も目じゃないさ。今まではお前が立候補する気が無さそうだったから言わなかっただけで、みんな、お前が生徒会長になってくれると信じてる。俺たちを、導いてくれると信じてる。だから、目を覚ましてくれ、藍虎。お前を信じてくれている人たちの方を、きちんと向いてくれ」
体にはなんの気力も無かったけれど、不思議と二本の足で私は立ち尽くしていた。希望も絶望も、不幸も幸福も、喜びも怒りも悲しみも嬉しさも、痛みも苦しみも、寂しさも優しさも、寒さも温かさも、今は何も感じられなかった。深い闇の中に、私はこの二本の足で立ち呆けていた。
自信がない訳じゃない。ただ、きっと彼女なら自分より上手くやるだろうと思っていただけだ。彼女を支えることが何よりの幸福で、やりがいで、だから彼女が生徒会長になるべきだと思っていた。今回の休学だって、ほんの体調不良くらいのことで、体育祭さえ終われば元通りになるのだと思っていた。だけれど、どうやらそんな理想の世界はもう、笑ってしまうくらい小さな私の手から、こぼれてしまっていたようだった。
それから、私はしばらく呆然としたまま、私の友人たちのすすり泣く声を聞いていた。覚悟なんて、決まるはずもなかった。私が生徒会長になると決心するということは、天使は死んだのだと認めるのと同じなのだ。そんなこと、出来るはずもない。
気が付けば、新聞部の部室を後にしていた。廊下に靴の擦れる音が響いている。
ポケットを探って、名刺入れを置いてきてしまったことに気が付いた。だけれど、それももうどうでもいいことだった。私が覚悟を決めようが決めまいが、天使ファンクラブは事実上崩壊したのだ。会員の居ないクラブは成立しない。
何か、理由が必要だった。彼女たちの、私を信じてくれる生徒たちの思いとは違った理由が。でなければ、私が天使を諦めることはできそうになかったのだ。
天使とは、何なのだろうか。愛ヶ崎天使という少女が目指していた先は、あるいはその幻影は、いったい何だったのだろうか。
もしかしたら、それを知ることに何か手掛かりがあるのかもしれない。盲目の信仰は、もう私を導いてはくれないようだった。知らなければいけなかった。彼女を、天使のことを。
私が、私たちが前に進んでいくために。夢見てしまった、天使の虚像を忘れられるように。