第四十四話 ザ・インフェルノ
・主な登場人物
愛ヶ崎天使:この物語の主人公。天使ちゃん。現在生徒会執行部副会長。
藍虎碧:現在生徒会執行部書記の女子生徒。クールに見られがち。
三峰壱子:ワンコ先輩。三年の生徒会長。低い身長と元気で独特な口調が犬っぽい女子生徒。
氷堂空間:一年生の男子生徒。委員会には所属していない。成績優秀でクラスメイトからの信頼も厚い。丁寧な口調は口癖。
釜水角士:元ラグビー部三年生。いじめを先導していたとして停学処分になっていた男子生徒。
漆城:ラグビー部二年生の男子生徒。どっちつかずの人間。
この学校には、天使がいる。生徒たちは、誰もがそんな現実を、当たり前のように享受している。
教師よりも、友人よりも、明確に線引きされた特別な存在。仮にこの学校にインフルエンサーがいたとしても、彼女ほどに嫉妬心の絡まない純粋な羨望の眼差しを、その身に受けることは無いだろう。
そんな天使のいるこの学校は天国だろうか。
少なくとも、学業に追われている生徒たちには、学校は天国でも地獄でもない、克明な現実だ。だがあえて、天使の居る場所を再認識するとしたら、それはきっと、誰も救われないようなことばかり起こるような地獄だ。なぜなら、神も仏も、天使も悪魔も、天国にはいないのだから。誰かが手を差し伸べて救ってくれるのは、いつだって、地獄で苦しむ人なのだ。
救世主は決して、置いていかれる人の方を振り向かない。振り向いてしまえば、助けられる人も助けられなくなってしまうから。救われる人よりも救われなかった人の方が多かったとしても、誰も救われないよりはいいのだと、前を向くしかない。
「誰もを救う」なんて綺麗ごとだと、誰もが分かっている。だから皆、誰かに救われることに期待もせず、一人で歩いている。どこかに救世主がいるかもしれないなんて期待も忘れ、それが人生なのだと諦めている。
そんな諦念に沈んだ人の手を取り、福音を与えるのが天使だと、ある少女は自己定義した。必要が無いことだとしても、嫌がられてしまうかもしれないとしても、少女はそんな天使になろうと決めたのだ。あるいは、そんな生徒会長になろうと。
幸運なことにそんなわがままを多くの人が許してしまうような、整った容姿とカリスマを備えた彼女は、自分が『与える』人間であることをことさらに意識している。高校での生活を重ねるごとに、よりそのことは意識的になっていった。できるならより高みを目指したい、と思う気持ちと共に、自分の魅力を使う方法を覚えていったのだ。
高校生活も折り返しが近づき、後輩とのかかわりの中で、年上としての余裕を学びつつある少女は、しかし未だ青い果実だ。その羽は、どんな強い空の光を受けても、融けることは無いだろう。けれど、もしも、ひとたび地表に降り立ってしまえば、天使は、初めて自分が救えないものに気が付き、地獄の業火の冷たさを知るだろう。
夏休みが明け、台典商高は二学期に入った。生徒たちはみな一様に、初秋の重苦しさに暗い表情ながら、迫る体育祭に向けて何とか夏休みボケした頭を働かせていた。
夏休みの間も仕事に追われていた生徒会執行部だったが、それも八月頭までの話。毎日のように顔を合わせていた友人と、半月会わなければ、ずいぶんと久しぶりに感じるものだ。
「——シッシッ!」
「……何してるんだ、天使ちゃん?」
昼休み、昼食を兼ねた短い会議の後に、一人で虚空の仮想敵にジャブとパンチを浴びせた天使に、三峰は呆れるのも疲れると言った風に尋ねる。
「今、フィットネスにはまってて……ほら、見てくださいこれ」
天使が制服の袖をめくると、無骨な黒い外装の、クッションのようなものが手首に巻き付いている。現在、台典商高は制服の移行期間中であり、天使以外の三人はそろって半袖だった。天使が長袖を着ている理由が判明し、今度こそ呆れた笑みを三峰が見せる。
「それ、おもりか? まあ、校則違反ではないけど振り回して窓とか割らないように気を付けるんだぞ」
「分かってますよ~。 ———シッシッ!」
「教室でもこの調子で……愛ヶ崎さん、ちなみにそれ、何キロの重りなんだい?」
「えっとね、三キロずつだよ。結構重くてさ~、今日授業であてられた時も、チョーク持つのしんどかったんだよね~」
「あはは、それで古典の時あんなに時間かかってたのか」
藍虎が思い出したように微笑む。
「ほどほどにな……私はそろそろ戻るぞ」
「私もそろそろ」
「天使ちゃん、次、移動教室だし行こうか」
「は~い」
天使は制服の袖のボタンを留め直すと、手首が重たいせいかカクカクとした動きで片づけをした。それぞれの荷物をまとめると、四人は授業へと戻っていった。
放課後になり、天使が校内の巡回に向かった後で、三峰が藍虎を呼び止めた。
「碧、ちょっといいか?」
「構いませんが、何か御用事ですか」
「ああ、そろそろ生徒会も引継ぎの時期だしな。大体は天使ちゃんにそのまま引き継ぐつもりだけど、碧にやってもらいたいこともあるから、体育祭の仕事が増える前に教えときたいんだ」
「……分かりました」
藍虎には、三峰の言う引継ぎとは、大方いじめ問題のことだろうという見当がついた。台典商高の生徒は、往々にして進学校の学生がそうであるように、非行が少ない。恋愛や人間関係の問題は多々寄せられるが、基本的には生徒自身がすでに解決策を思いついていることばかりだ。『天使』——もとい執行部の仕事は、そうした正解を知りながら足踏みする生徒たちの背中を押すことなのだ。
しかし、誰も彼もがそんな平和ボケした生活を送っているわけではない。時には喧嘩もするし、誰にも言えない鬱屈した感情を抱えるものもいる。上下関係に厳しい者も、対話よりも暴力の方が肌に合う者もいる。平和に侮蔑され、平等に睥睨されるような性根の腐った生徒の監視もまた、執行部の仕事の一つだ。指導や懲罰は、教師たちの管轄であるが、生徒が生徒である以上、過度な干渉を教師が行なうことはできない。あくまで生徒間の相互監視の一貫という建前で、生徒会執行部というビッグ・ブラザ―は存在しているのだ。
監視業務は、生徒会執行部の仕事の一つではあれど、公にされない業務の一つだった。これまでは校内の監視カメラを用いた後手の確認作業が主であったが、三峰や藍虎を始めとした執行部役員の人脈により、情報網が整備されたことで、生徒の動向の新鮮さは以前よりも格段に向上した。
このような要注意生徒の監視業務は、執行部内でも一部の役員のみが従事することになっている。理由は単純で、この仕事が『不信』に基づく業務であるからだ。
生徒会執行部は、生徒たちに健全で闊達な学内生活を謳歌してもらえるように結成されており、その基本的な業務内容は、主に不良な校内設備の改善やトラブルの緩衝であり、それ以上のことは生徒の自主性に任せることになっている。現場での判断はあれど、判断のほとんどは、生徒たちの善性を信用して行われるのである。
それは、とても『天使』向きの業務だ、と藍虎は思う。人を信じて、より良い方向へと進ませる。誰もが幸せを願っているからこそ、誰もが幸せへと進んでいける。
対して、監視業務は決して『天使』には——いや、彼女には向かない仕事だ。治らない病を、治療するのではなく発症次第処分するために監視する、裏方の仕事。問題が起こったなら、すぐに取り除くために、照準を向け続ける。なんて私向けの仕事なのだろう。
「六月に一人停学にしたやつがいただろ? あいつがまた、コソコソ後輩から金をカツアゲしてるって噂でさ」
「あの釜水って三年生ですね。しかし、校外での非行だと、私たちでは対処の仕様がないのでは?」
三峰が執行部用のノートパソコンを開き、校内の監視カメラ映像を遠隔で表示した。
「それがどうにも、校内でのことらしいんだぞ。エアスポットっていうのか、どこかにカメラが映していない場所があるらしくて、そこを溜まり場にしているらしい」
「あっ、愛ヶ崎さんがカメラに手を振ってますね」
「こっちから振り返しても伝わらないぞ……というか、真面目に巡回してるのか?」
画面の中に映った愛ヶ崎は、悪戯っぽい笑みでカメラに手を振っている。現在は校内で問題が起こっていないか巡回中のはずだが、淀みない動きから普段も同じようにカメラを意識しているのだということが伝わってくる。
「それでだな……このカメラに映ってるのが釜水だぞ。今日はこいつの動向を追って、エアスポットをはっきりさせるように、生活指導の先生にも言われてるから、二人でかかるぞ」
「それこそ先生がやればいいのに、とは言いませんが……ところで、彼は停学処分になったのですよね。もう復学したのですか?」
「……まあ、なんか事情があるんだろ。スポーツ推薦の枠は外されてるし、学校としては、問題児でもどこかに行けば進学実績になるとでも考えてるんじゃないのか?」
「それはまた……おっと、動きがあったみたいですよ。この方向……特別棟の方ですかね」
「特別棟周りはグラウンドからの視線もあるし、違うんじゃないか? その付近で言えば、このカメラとこのカメラがあるし……」
「こっちのカメラに映ってる通路って、特別棟と別館の間の所ですよね。この上側の道って、どこかに映ってますか?」
藍虎が指したカメラは、グラウンドから細い通路でつながった体育館脇の通路を映している。体育祭や文化祭の前には、この通路で発表の練習をするクラスも少なくないが、それ以外ではあまり使われている印象は無い。映像の端には、処分に困った金属系の粗大ごみが投棄されている様子が見える。元はどこかの道路に通じていたのか門のような錆びた柵が見えるが、現在は廃棄物の山を押し留める役割しか果たしていない。
「この先は……ああ、第二体育倉庫だな。白線引くやつとかは、野球部か陸上部が使ってるだろ。ちょうどこの影の所にあるんだぞ。でも倉庫の中には要らないだろって話になってな」
「……いえ、石灰なら部室棟の階段下に移動したはずですよね。去年、ラインカーも含めてぎりぎり入るっていう話を——」
思い出すように言いながら、藍虎は三峰と顔を見合わせると、三峰がノートパソコンの画面を閉じたのと同時に、生徒会室の入り口に駆けだした。
「急ぐことは無いぞ。違う可能性だってあるしな。それに、基本は尾行だから、慎重に行動するぞ」
「分かりました。巡回中の愛ヶ崎さんに連絡しますか?」
「いや、しなくていいだろ。ルートには入ってないはずだから、むしろ天使ちゃんにも見つかりたくはないな」
そうだ。彼女には決して知られてはいけない。誰もが救いを求めているわけではないということを。誰もが救われるような人間ではないということを。
「どのタイミングで突入しますか?」
「被害者がいるなら申し訳ないが、突入は後手になるしかない。映像で残す必要は無いが、行為を証言する必要があるからな。まあ、手を上げでもしたらすぐに取り押さえるぞ」
「承知しました」
二人は速足で生徒会室を出ると、普通棟からグラウンドの方へと抜けていった釜水の尾行を開始する。心のどこかにやすりをかけられたようなざわめきを覚えながら、まだ沈みそうにない太陽の影を縫って、二人は進んでいくのだった。
時は少しだけ遡り、放課後の校舎を一人陽気に歩く生徒がいた。愛ヶ崎天使である。
校内巡回はいつも通りのコースで退屈ではあるが、生徒会室にこもっているよりは幾分かましであった。視界の端に小さなカメラを捉え、かかとを軸に踊り子のように回転して、画面の向こうにいるかもしれない誰かに手を振ってみる。おもりを付けたままの手は気が滅入るほど重たく、こうでもしていないと座り込んでしまいたかった。
校内には目立たないようにいくつものカメラがあるが、それを普段誰が確認しているのか、天使は知らなかった。行事の際には、彼女も混雑の確認のためなどに映像を見ることはあった。しかし、こうして闊歩している自分ですら退屈してしまうほど静まり返った放課後の校舎内を、誰が監視しているわけも無いと思うのであった。
少しだけレンズの向こうを覗き込むように見上げて、それから児戯に飽きて巡回に戻る。教室棟を回ったものの、すでにどの教室にも残っている生徒はいなかった。普段は吹奏楽部が空き教室で練習をしているのだが、今日は休みなのだろうか。
教室棟から生徒会室の方へ戻る前に、すりガラスになっていない上部の窓で跳び上がり、時計を確認する。しんとした廊下に、天使の靴の音だけが響く。いつもは、誰ともつかない誰かと、とりとめのない会話をして時間を潰しているせいで、今日は随分と早く巡回が終わってしまった。別にこのまま戻ったところで、誰も文句は言わないだろう。けれど、どうせなら余った時間をどこかでつぶしたかった。
特別棟に渡り、生徒会室とは反対の方向——職員室側へと進む。普段は藍虎が巡回している区域だ。とはいっても知らない場所ではない。天使も一生徒である以上、授業の際には特別棟を通ることは少なくない。全校集会などの時には、生徒会室で準備をしてから特別棟を通って体育館へ行くのがルーチンだ。
決して見慣れない道ではないが、なぜだか教室棟よりもやや古めかしい廊下に、少しだけ胸が高鳴る。放課後に通ることだって今までもあった気がするが……と考えて、天使はあることに気が付く。
今まではこの廊下を通る時は、いつも藍虎と共にいたのだ。この廊下を放課後に通るのは、校内巡回が一時的に休みになるような、何か行事の前なのだ。必然執行部で動くことになり、自分の横には藍虎が付き添っていた。
今自分は一人だ。誰に守られることも、誰を守ることも無い。将棋なら王将が孤立しているようなものかもしれない。とはいえ、天使は自分のことを王将だと思ったことは無かった。もし、自分が将棋の駒なら何かと聞かれれば、迷いなく「龍」と答えるだろう。フットワークが軽く、影響力が強く、搦め手よりも剛直な行動に向く。
とはいえ、いかなる駒とて、何者かの射程に無防備な姿を晒せば、ひとたまりもないものだ。天使は心臓の高鳴りが不安によるものか、あるいは期待によるものかを判断しきれないまま、特別棟を進んだ。珍しく人気のない校舎は、退屈だったはずが途端に冒険の道のりへと変化する。
せっかくだから、監査委員会にでも挨拶しに行こうか。歓迎はしてくれないかもしれないが、退屈は紛れるだろう。
特別棟の端が、目的地のように視界で意識されると同時に、自分からまっすぐに伸びる道のりが暗闇に飲まれるように不安の渦中に埋もれる。いつもならどんなハプニングも楽しんでしまう天使だったが、いるはずの誰かに安心を求めたせいか、自分の感じている不安を意識せざるを得ない。
天使は、自分の幸運や才能を疑ったことが無いのと同じように、直感を鵜呑みにするきらいがあった。それがテストの時ならば、勉強量を増やせばよかった。それが行事の時ならば、練習量を増やせばよかった。だが、この眼前に広がっている漠然とした不安は、動く床に運ばれているように、混沌とした不幸が迫っているように感じられてならない絶望は、どうしたって回避できそうになかった。
それでも天使の足が前に進んだのは、無謀な好奇心と大人びた自尊心からであった。天使には、自信があった。これまでの人生において、様々な不幸があった。小さい物から、トラウマになってもおかしくないようなものまで、幾つもの体験をしてきた。それは誰かにとって大事件でも、天使にとっては誰に話すようなことでもなかった。どんな失敗だとしても、どんな恥をかいたとしても、それで揺らぐほど自分は弱くないという自信が、天使にはあった。
だから、天使は期待に鼻を鳴らし、さらに一歩進む。きっと、何も起こらず藍虎に寄り道したことを咎められるくらいのことだろうと、自分に言い聞かせながら進む。
「「————!」」
潜入工作中のスパイのように、廊下の角から頭だけを出して先を覗いた天使は、ゆっくりと歩いてきていた生徒と視線が交錯し、思わず言葉を失ってしまった。いつもならなんてことはない邂逅だが、今日この瞬間においては、怪物と出会ったような気持ちになってしまった。
心の中の時計がきっかり一回りしたように感じるほどの時間、天使は顔を出したまま言い訳を考えようと瞬きを続けた。驚いて立ち止まった生徒もまた、目を丸くしたままで言葉を探しているようだった。
「——華先輩……?」
天使が陽気に言い訳を繰り出すより先に、惚けたように立ち止まっていた男子生徒が、つぶやくようにそう漏らす。
「…………?」
天使は渋々姿を現したものの、何と答えたものかと逡巡する。どうやら、この生徒は誰かと自分を勘違いしているようだ。眼前の彼を校内で見たことは、記憶の限りは無かったし、自分のことを華先輩と、ニックネームとしても呼ぶような後輩に心当たりは無かった。
「えっと……ごめんね。人違い、かも。ボクは天使。生徒会執行部副会長、愛ヶ崎天使って言うの。君は?」
「————そう、ですか。すみません、知り合いに、その、面影が似ていたもので。僕は氷堂、氷堂空間と言います。以後お見知りおきを」
氷堂は、苦笑いを浮かべた天使の言葉を吟味するように、たっぷりと間をおいてから自己紹介を返した。意志とは離れて半自動的に差し出された手を、天使は何の疑いもなく握る。氷堂はやけに力強い握手に少し面食らう。
「うん、よろしくね」
ひどく冷たい彼の手の、温かな芯が握った手に伝わってくる。先ほどまでの不安のせいか、知らず手先が冷え切ってしまっていた。
「てん——愛ヶ崎先輩は、何をしておられたのですか? 生徒会執行部と言えば、ご多忙とお聞きしますが」
「えっとね、今は校内巡回中なんだ。そういう空間くんは、部活かな?」
「いえ、散歩……というと不審ですかね。今日は図書室に本を返しに行く用事があったので、少しこの辺りを探検してみようかと思いまして。まさかあの有名な愛ヶ崎先輩に出会えるだなんて、思ってはいませんでしたが」
氷堂は、お世辞のような、それでいて自分でも信じられないという調子で大げさに言葉を並べる。
「散歩が趣味なんだ。へへ、ボクと一緒だね。でもそれなら、どこかですれ違ってもおかしくないのにね」
天使は不思議そうに首を傾げた。氷堂には、その理由に心当たりがあったが、あえて本人に言うほどのことでもなかった。こうして今出会えたことで、これまでのすべては無意味に変わるのだ。
「そうだ、良かったらちょっとだけ一緒にお散歩しない? 実はボク、特別棟はそんなに回ったことないんだよね」
天使は氷堂の気持ちなどつゆ知らず、当たり前のようにそう提案した。氷堂の目が一瞬大きく見開かれ、戸惑うように遊泳する。
「——ええ、ぜひお願いします」
氷堂は平静を装ってそう返答したものの、自分がかつてないほどに緊張していることに気が付いた。意識すればするほどに、自分の鼓動の、飲み込んだ唾液が鳴らす喉の、彼女と自分の間に存在する空気を吸う鼻の、思わず噛みしめた歯の、自分が奏でるすべての音が不整合に思えてくる。自分の視界に映る、彼女の睫毛が蝶のように羽ばたく、薄く茶色がかった黒髪が緩やかに流れる、細く引き締まった体が自由に自己表現に使われる、彼女の一挙手一投足が完璧に調和した音律のように心の芯を揺さぶる。
ああ、これは欲望なんてちゃちなものではない。ここで改めて彼女の姿を見て、ようやくこの世界に神というものを信じている人の気持ちが分かった。これが崇拝という感情なのだ。どんな快楽も後景化する至福を今、自分は噛みしめている。
氷堂は、見えないように強く握りしめた手のひらの痛みで、ようやく意識を正常に戻す。藍虎と名乗った女子生徒が執心するのも分かる。眼前の少女が今この瞬間、美しい均衡状態にあるのだとしたら、それは何人にも侵されてはいけないだろう。どんな小さな危険分子も、近づけたくは無いと、今になっては思う。
氷堂はすでに、天使に対して、何かを聞き出そうという気持ちも、何かを思い出させようという気持ちも無かった。もし彼女が、自分や兄のことを、自分にとっては運命の分岐点となった事件のことを、忘れてしまっているのだとしても、思い出させる必要はもはやなかった。それが彼女にとっての黄金律なのであれば、乱したくはなかった。それに、彼女自身がどう思っていたとしても、氷堂は眼前の少女が、自分の運命を変えたあの日の少女であると確信していた。
台典商高に来た目的、この数年の自分を支えていた動機。たった一瞬の、偶然の出会いがすべてを解決してしまった。その後に心に残っていたのは、溢れんばかりの感情。作り笑いも上手くできないほどの、歓喜と興奮。晴れやかで温かな想い。叫びださないでいられたのは、ただ彼女に迷惑をかけてはならないと、幸せであってほしいと願うためであった。
「——それで、今日はお一人なんですね」
「そうそう。だから、碧ちゃん——藍虎先輩には内緒だよ?」
子供にするように人差し指を口に当て、悪戯っぽい笑みを浮かべる天使に、氷堂も困り顔でほほ笑む。きっと自分は言ってしまうだろうという思いを秘めた笑みだった。
「分かりました。約束します」
小さな嘘を吐くと、心も落ち着いてくる。愛想と嘘の作る冷静な感情に、心音が同期し始める。目の前の彼女は憧れの人で、崇拝と言うべき抱えきれない感情の向かう先だが、その調子に惑わされてはいけない。自分が参考にするべきはむしろ、あの藍虎という先輩の方だ。心の奔流を制御し、天使が傷つかないように気を張らなければならないのだ。
偶然出会った氷堂という生徒に、半ば一方的に話をしている内に、天使は自分の感じていた不安が和らいでいくのを感じていた。やはり、人との交流というのは良いものだ。
氷堂と出会ったことで、天使は先ほどまで考えていた、監査委員会への訪問をすっかり忘れてしまった。元々は不安を忘れたくて立てた計画だ。今や天使の興味は、隣で強張った笑みを浮かべる男子生徒へと移っていた。つややかな黒髪の隙間から覗く彼の瞳に、天使は遠い既視感を覚えたが、その正体を思い出すには至らなかった。
「空間くんは、何か悩み事とかある? ボクで良ければ聞いてあげようっ」
「悩み事、ですか……そうですね。実は、人間関係で少し面倒ごとがありまして」
天使は穏やかな表情で語り始めた氷堂に、大きく相槌を打つ。
「喧嘩というのとは、少し違うのですが。ある先輩に、僕は嫌われてしまっているようでして……価値観の違い、というものなのでしょうか。今となっては、彼女の気持ちはよく分かります。彼女のしていたことが、どれだけ大変だったか身に染みる思いです。ですから、僕は彼女に協力して差し上げたいのですが、今時分もなお、すれ違ったままの身。どうすれば、仲直り、と言いますか、素直に関わり合うことができるのでしょうか」
「なるほど……つまり空間くんは、その先輩が自分に向けている誤解を解きたいってことだね」
「ええ、そうなります」
特別棟一階に降りてきた二人は、少し遠回りで昇降口へと戻ろうと両開きの扉を開いて、別館側の道路に出る。二人とも室内履きのままだったが、放課後のしんとした静寂は、二人に注意の声を届かせない。
「そういう時は、行動あるのみ、だと思うなぁ。キミが思っていることを、きちんと伝えないといけないよ。相手からしたら、苦手な相手から声をかけられたと感じるかもしれない。それで嫌な気持ちになるかもしれない。でもさ、それでキミがその先輩にとって、信頼できる相手になることができるなら、その瞬間の嫌な気持ちの何倍だって、良いことにつながっていくと思うんだ」
「良いことに、つながっていく……ですか」
「うん! 心配だったら、私が間に入ろうか? これでも交渉には自信があるんだよ」
「いえいえ、ご配慮には感謝しますが、構いませんよ。お手を煩わせるほどのことではありませんから。それに、きっと、もう————」
氷堂が微笑を浮かべながら、自信気な天使の顔を見返したとき、不意に二人の後方から、声がした。
「あ、あの先輩!」
二人が振り向くと、そこには怯えたような表情の男子生徒が立っていた。氷堂は、見慣れない顔に、相手が商業科の一年生であると分かった。
「どうしたの?」
「そ、その……先輩たちが、倉庫の備品を壊しちゃって……」
申し訳なさそうに、震えた声で言う生徒に天使は優しくほほ笑む。
「も~、しょうがないなぁ。どこの部活?」
天使は生徒に導かれ、通路を進む。氷堂は備品を壊すことがままある部活動の管理体制を訝しんだが、ひとまずは、噂に聞く生徒会執行部の『天使』の活動を観察してみようと、その後ろを着いて行くことにした。
「こ、ここです」
生徒が指したのは、すっかり錆び切った倉庫の扉だった。改装が必要だと思えるほどに扉はあちこちが剥げ、固い跡を残している。中からは数人の話声が聞こえてくる。
天使はレールにゴミが詰まっているのか、重たい扉をゆっくりと開けた。
「それで、壊しちゃったっていうのは————!」
一見するとただの倉庫のように見える室内に、天使が状況を聞こうと振り返った瞬間、突然手が強い力で引き込まれる。予想だにしない力に天使は抵抗できず、薄暗い倉庫の奥へと引っぱりこまれた。体勢を崩した天使は、掴まれて不自由になった手のせいで、受け身も取れずに尻もちをついた。
「なっ————!」
天使が倉庫に引き込まれる様子を見て、一瞬動揺した氷堂を、入り口に立ったままでいた生徒が、後ろから強く押した。倒れこみかけた氷堂の体を、中で待ち構えていた生徒が受け止め、さらに強い勢いで床に投げつける。とっさに体を丸めた氷堂は、床に転がった。つややかな黒髪に、冷たく湿り気を帯びた砂埃がまとわりつく。
「せ、先輩……い、言われた通りに——!」
バチンと鋭い音が鳴り、天使たちを連れてきた生徒が頬を押さえてうずくまる。
「誰が男を連れてこいっつったんだよ、一年坊主が!」
「でもよ、漆城。こっちの女は、あの副会長様だぜ? そうカッカすることないんじゃねえの?」
天使の手を後ろ手に組ませながら、倉庫の中にいた男子生徒がそう聞いた。どこで用意したのか、ビニールひもで手首を縛り付ける。
天使は状況をとっさに理解しきれず、うずくまった生徒と床に転がった氷堂、そして下卑た目で自分を見下ろす、漆城と呼ばれた生徒を順番に見る。
「あの『天使』か……へへ、一度くらいはこうしてやりたいと思ってたんだよなぁ」
漆城は、口の端を軽く舌でなめると、硬直した天使の顎を乱暴につかんだ。
「釜水さんが来るまで、まだあるだろ。それまで少しくらい好きに使っても構いやしねえよなあ?」
「お前、ほどほどにしとけよ?」
漆城の喉が、音を立てて上下する。汚らしく唾をのむ音が天使の耳を通り過ぎた。天使の後ろにいた生徒は、天使の手首を縛り終えると、漆城を呆れたように見ながら立ち上がった。
天使は、身の毛のよだつような嫌悪感と背筋を凍らせるような絶望感に震えながらも、だんだんと状況を理解しつつあった。
——自分は騙されたのだ。世界の色彩全てが反転するような虚無感と、全身の血液が動きを止めたような冷たい絶望に打ちひしがれる。
「先輩に、触るな……!」
「あ?」
ぼやけ始めた視界の真ん中で、氷堂が冷たい床を握りしめながら立ち上がった。天使を舐めるように見ていた漆城が、不愉快そうに振り返る。
「ごちゃごちゃ言ってたらぶん殴るぞガキ!」
「殴りたいなら、そうすればいいだけの話。僕のような非力な人間ですら、その釜水とか言う人に頼らないと安心できないから、このような卑劣な方法を取るのでしょうに」
「んだとコラァ!!」
氷堂が張り付いたような微笑を浮かべて煽ると、漆城は激昂し殴りかかった。漆城の拳が氷堂の頬にめり込み、細い体は薄汚れた倉庫の床に投げ出される。
「一年ごときが、生意気な口ききやがって! 黙ってろ!! おい、お前も来い! 一年っ!お前もだよ!」
「がっ——ふふっ————ぐうっ————!」
床に丸まった氷堂を、三人が取り囲み、好き放題に蹴りつける。怯えたように足先をつつかせていた一年生の生徒も、氷堂が痛みをこらえながらも、煽る様に笑っていることに気が付くと、苛立ったように体重を込めて蹴りつけ始めた。
「や、めて……」
天使は、自分の口からこぼれた言葉が音にならずに消えていったことに気が付いた。届かない声が、頭蓋骨に浸透し心の底に落ちていく間、絶望感に滲んでいた視界が明瞭に変わった。
自分が一緒に行こうと誘ったばかりに、理由のない暴力に襲われている眼前の少年、氷堂を救わなければならない。
————どうやって?
静かに、しかし天使にとっては鮮明に、後ろ手に組まされた手首を縛っていた何かが、拘束を緩めた感覚があった。どうやら手首に着けていたリストバンドの上から縛り付けたせいで、締め付けが緩くなっていたようだ。
天使は、極めて冷静に状況を俯瞰する。氷堂を囲んだ生徒たちは、暴力の快感に、優位の絶頂に溺れ、周りも見えない様である。誰一人として、静かに天使が立ち上がったことに気が付いた様子はない。
静かに、息を吸う。目算で三歩の距離。入り口はその少し奥、右手に開け放たれている。彼らに気が付かれないように自分だけが逃げることは不可能だろう。そもそも、氷堂を置いて逃げるという考えは無かった。
「うああああああっ!」
「————⁉」
天使は恐怖や緊張、足をすくませる絶望と虚脱感を忘れるために声を上げながら、無防備に空いた漆城の脇腹に、握り合わせた拳を叩きこむ。ハンマー投げのように、体を精いっぱい使って、短い助走と共に、遠心力のまま拳を振り切る。肋骨と腰骨の間、緩んだ外腹斜筋に天使の握り合わせた拳がめり込む。
「がはぁぁぁっ⁉」
天使は自分で思っていた以上の遠心力に吹き飛ばされそうになるが、的確に力が漆城の方へと流れ、踏みとどまることができた。対して、脇腹に強い不意打ちの衝撃を受けた漆城は、とっさに上げたままの足を戻すこともできず、堪えが利かずに吹き飛ばされる。狭い室内の壁は近く、勢いの残ったままたたきつけられた漆城はしたたかに頭をぶつけ、失神した。
「お前っ、何で——!」
同じ二年の男子生徒が驚いて数歩氷堂から離れ、壁を背に天使を睨む。その手が探った先には、壊れてしまった箒が差された傘立てが置かれていた。激情のまま生徒は柄を掴み、天使に向かって振り下ろす。
「くぅっ————!」
天使は、漆城のぐったりとした様子に、一抹の不安を覚えたが、迫りくる脅威に気が付き、とっさに両手を高く前に出し、強撃を受け止めた。男子生徒が両手で振り下ろした木製の柄は、天使の手首に巻かれたリストバンドのクッションを打ち付け、衝撃はわずかに乾いた音を鳴らすだけであった。天使は押さえつけられる力を、体を捻って左に逃がし、反射的に重心を移動させると、生徒のみぞおちを蹴りつけた。がら空きの胴体に天使のつま先が刺さり、生徒は吹き飛ばされ、傘立ての箒を揺らした。
「はぁ……はぁ……」
一瞬の逆転劇に、天使は荒い息を吐く。怯えたように、ここまで自分を騙して連れてきた一年生の生徒が天使を見ていた。
「大丈夫、もう、大丈夫だから————」
きっと彼は、本当は悪い人ではないのだ。命令されて、脅されて過ちを犯してしまっただけで、きっと、本当は————。
「うあああああっ!!!」
男子生徒が、奇声を上げながら拳を振り上げて向かってくるのを見ながら、天使はひどく冷静な気分になっていた。一歩一歩が酷く遅く見える。重心の動きが、視線の動きが、意識の先が、手に取るように分かってしまった。暴力で威圧しようとしているようでいて、あまりにも無防備な姿に、心を寂寥感が埋め尽くす。
「……………………」
天使は静かに体を横にずらして回避すると、相手を見失って身を投げ出された男子生徒の足を払った。着く足のなくなった生徒は、突進の勢いのまま地面に滑り込む。
「う……ぅああ…………」
その時、気を失っていた漆城が、うめき声をあげる。天使は驚いて、おもりのついたままの拳を掲げる。動けないわけではないのだ! ここで、確実に動きを止めておかないと————
「——天使せんぱ、い……」
絞り出すような氷堂の声に、天使は我に返った。振り下ろしかけた自分の拳を見つめ、自分でも驚いたように、ゆっくりと降ろす。
「空間君っ、大丈夫!?」
「……僕は、大丈夫、ですから、先輩は早く、先生方を……執行部の方でも、構いません、から、早く……きっと、彼らの先輩とやらが、すぐに……」
氷堂はそう言うと、苦しそうにせき込んだ。その表情は、歩いていた時よりもずっと柔らかく、安心させるような顔だった。
「だ、ダメだよ! キミを置いていくなんて!だって————」
————ボクは、天使だから。
その言葉は、口にする前に意味もなく消えてしまった。そんなことが、今この状況で何の意味を成すというのだろう。善意が、良心が、見栄が、虚勢が、誰を救うというのだろう。
「行って、ください。僕は、一人で大丈夫、です。あなたは、天使、なのですから——」
氷堂は、痛みに震える体をこらえながら、そう天使に伝えた。氷堂の腕を肩に回し、運び出そうとしていた天使の手が止まる。使命感から氷堂の腕を抱える手は、それでも恐怖に震えていた。到底、彼を抱えたまま誰かの目につくところまで運び出すことはできないだろう。彼を見捨てることが、今の自分にとっての最善策だ。
しかし、それは『天使』にとっての禁忌にも等しい選択だ。救おうとした誰かを置き去りにすること。救うことができないと諦めてしまうこと。なによりも、自分の身を優先すること。
「————ごめん。絶対、戻ってくるから」
天使は、薄く目を瞑った氷堂にそう呟くと、静かに彼を寝かせた。
それが、最善策だと思ったから、自分自身を、『天使』を裏切った。正しさだけでは、誠実さだけでは、優しさだけでは、何もできないのだと、ひどく痛感した。
「っ————⁉」
天使が倉庫の外へ駆けだそうとすると、大きな影が現れその進路をふさいだ。天使が見上げた瞬間、その影から伸びた手が襟首をつかみ天使を投げ飛ばした。倉庫の棚に強かに体を打ち付けた天使は、崩れ落ちる。埃と砂の混じった粉塵に、天使は目を瞑る。
「おい、ぶつかっといて挨拶の一つも無しかよ。漆城! 何してやがる!」
悪態をつきながら倉庫に踏み入った釜水は、ぐったりと倒れた後輩たちの姿を見て、眉をひそめた。見覚えのない男子生徒と女子生徒の姿を交互に見て、倒れこんだ男子生徒の胸ぐらをつかんで持ち上げる。
「おい、お前か。漆城たちをやったのはよ」
「……ふ、ふふ……ゴホッ……そうだ、と言ったら、どうするんです?」
氷堂は、背中の汚れが見えないように胸を張って、張り付けた笑顔のまま返答した。
「それなりの覚悟はしてるってことだよなぁ!」
釜水は氷堂を床に投げ捨てると、腹の上に馬乗りになった。二の腕に拳がめり込むと、鈍い音と共に骨の軋む音が伝わる。
「ハハッ! こんな、ひょろっちい奴にやられやがって! あいつらももっと鍛え直さねえとダメみてぇだなぁ!」
天使が背中の痛みを感じながら、ゆっくりと目を開けると、そこには大きな背中があった。背中の下に、不釣り合いな細い脚が見えている。否、それは別の誰かの物だ。一瞬遅れて、水たまりを踏むような飛沫の音が聞こえてくる。収縮する背中の筋肉の動きに合わせて聞こえてくるその音に、天使の脳は急速に状況を理解し始める。
左足を立て、力を込める。背に感じる冷たい金属製の棚で体を支えながら、立ち上がる。振り上げられた眼前の拳から、のしかかられた氷堂の血液が飛散し、天使の頬を掠める。
今なら、逃げ出すことができるだろう。そうだ。逃げ出して、大声で人を呼べば、彼は殴るのを止めざるを得ないだろう。もしかしたら、校内巡回が長引いていることを不審に思った藍虎や三峰が自分を探していて、ここに来てくれるかもしれない。そうだ。逃げればいいじゃないか。その方がずっとリスクが少ない。
天使は両手を合わせ、祈るように高く掲げる。おもりのついた両手は、いつもよりもずっと重たく、支える腕がとても軽く思える。
目一杯体を伸ばす。よく眠れた朝のように、一仕事終わったときのように、いっぱいに伸ばして振りかぶる。その間にも、一発、また一発と飛沫が弾けている。
だけどもう、私には関係のないことだ。『天使』にはもう、何もできないのだから。もうだれ一人だって、救うことができないのだから。
目には目を、歯には歯を。なんて言うけれど、これには何の意味もない。最善どころか、最悪の。人としても、天使としても、道理のない、ただの憂さ晴らし。
天使は振りかぶった拳を、精いっぱい振り下ろす。やっぱり思ったより重たい拳は支え切れずに、遠慮のない流星となるのでした。
釜水は、突然の衝撃に悲鳴も罵詈雑言も上げることなく意識を失った。首筋に振り下ろされた拳が走らせた電気信号が、釜水の眼球をぐるりと回す。そのままゆっくりと釜水は倒れ、鼻から口から血を垂らした氷堂の目に、胡乱な目をした天使の姿が映る。
「ふっ————」
咳き込むように、天使の口から息が漏れる。
「ふふっ、あはははは!」
天使は、高らかに笑う。天使は、さめざめと泣く。
静かに天使は、倉庫を歩き去る。チェーンソーでも持つように、重たい両手を下で組んだまま、ふらふらとどこかへと歩いていく。
「————愛ヶ崎さんっ!?」
ちょうど通路を曲がり、体育倉庫の前に侵入してきたところだった藍虎が、白い制服を砂埃で汚した天使の姿を見つけて叫ぶ。天使は、自分が呼ばれているのだと気が付き、ゆっくりと顔を上げた。
ふらふらと歩く天使を藍虎が抱き留め、その横を生活指導の教師を連れた三峰が通り過ぎていく。
「これは……いったい……」
第二体育倉庫の惨状を目の当たりにした三峰は言葉を失った。
それから、すぐに氷堂と釜水は藍虎の呼んだ救急車に運ばれ、のびていた生徒三人に事情聴取が行われた。三人の密告によって、数名のラグビー部員が呼び出されることになった。意識を取り戻した氷堂と釜水の証言とすり合わせた結果、十人ほどの生徒が停学処分に、主犯格とされた釜水は退学の処分を受けることになった。
そして天使は、三峰の意見により一か月の休学処分となる。一件の査問委員会では、証言をすり合わせた検証の結果、天使の行為は正当防衛の範囲であると判断が下された。その上で休学処分となったのは、危機的状況に陥った天使の精神的負荷、および心的外傷後ストレス障害の緩和を目的とした、学校での人間関係との隔離のためであった。
数日としない内に、校内では天使がいなくなったという噂が流れ始める。藍虎の鎮静化工作も功を奏さず、愛ヶ崎天使という少女を襲った悲劇は、尾ひれを大きくしながら広まっていった。
生徒たちは体育祭を目前としながら、心に排煙の雲がかかったような暗い予感を覚えるのであった。