第四十二話 ある日の文芸部
・主な登場人物
田尾晴々(たび はるばる):二年一組のクラス副委員長の青年。チャラい見た目で言動もチャラいため、誰からも信用されていない。性根は優しいが、見た目で損をしている。趣味は読書で、文芸部に所属している。
夕原葵:商業科二年の女子生徒。詩が好きな文芸部員。
遠野文美:普通科一年のボーっとした女子生徒。
愛ヶ崎天使:天使ちゃん。現在生徒会執行部副会長。
藍虎碧:現在生徒会執行部書記の女子生徒。クールに見られがち。
丸背南子:ニャンコ先輩。生徒会三年の副会長。猫背で丸眼鏡の落ち着いた少女。誰に対しても敬語で話す。
環万太郎:パソコン研究会に所属する商業科の二年。塩抜に部長会議を任せた分、部室で作業に追われている。
この学校には、天使がいる。そんな噂を、話さない生徒たちがいる。
一つは、生徒会執行部である。彼女たちにとって、下界とでも呼べる生徒たちの噂話は、取り立てて騒ぐようなものではなく、一笑に付す時間すらももったいない。
そして、もう一つは文芸部だ。台典商高の生徒たちの多くは、その存在を特に認知することなく卒業していくことになる、影の部活動であり、一方で、毎年一定数の生徒が入部し活動するために、廃部の危険のない不思議な部活動だ。
文芸部は、特別棟四階にある図書室を活動の拠点としており、他に部室は与えられていない。多くの場合、クラスでは図書委員を務める部員たちは、活動の一つに図書室の管理が入れられている。図書室外での蔵書の管理、および返却を行うのが図書委員の仕事であるのに対し、文芸部は図書室内の書庫への返却、および貸し出し等の対応が職務だ。大学進学ならびに高卒での就職に向けての支援を手厚く行う、という学校の方針で、資格系の参考書が多い図書室ではあるが、それを目的に図書室に向かう生徒はほとんどいない。訪れる生徒も少ない図書室には、文芸部の生徒が静かに読書をしている姿が見られる。
文芸部の生徒たちは、放課後になると各々で集まり始め、活動誌の締め切り以外では言葉を交わすことも少なく、それぞれの時間を過ごしている。天使の噂すらどこ吹く風の世界に閉じこもる本の虫たちは、他の生徒たちからもやや奇異の目線で見られる変わり者たちだ。そんな、校内の喧騒とは隔絶された書庫にも、静かに新しい風が吹こうとしているのであった。
「田尾、お客さんが来たみたいだよ……多分、パソ研じゃないかな」
手にした薄い本が佳境なのか、意識半分で夕原が俺に向かってつぶやいた。小さな声でもはっきりと聞こえるほどしんとした空間に顔を上げると、文芸部の先輩と後輩は、揃って眼鏡を俯かせて四六判に集中していた。
「ああ……はぁ、あいあい。行きますよっと」
もうそんな時間かと、カウンターの背後に置かれた時計に目をやる。部活動が始まって間もない現在は、ようやく頂点を越えた長針が、短針を追いかけ始めていた。
仕方なく、読みかけの本に赤いひものしおりを挟み、長机に置く。背を預けていた椅子は、対面に座った夕原に足が当たらないように引いていたおかげで、音を立てずに立ち上がることができた。まあ、音を立てたところで、気にするような人たちではないが。
がらがらと扉が開かれ、背の低い小太りの男子生徒がバインダーを抱えて現れた。
「よっ、環! 今月の『ログ台典』のデータ、ここに入ってるから」
「ややっ、いつものことながら準備がいいですな。こちら、確かに受け取りましたぞ……ところで田尾氏ぃ、先日おすすめしたアレはもう見ましたカナ~?」
袖の下でもあるかのように声を潜める環に、俺も調子を合わせてささやく。
「見た見た。まさかあいつがあんなことになるとはな……環が言ってたあの子、確かに推せる。でも、個人的には六話のとこは許しきれないって言うか——」
図書室の入り口で、しばらくの間勧められたアニメの話で盛り上がる。静かな図書室の壁に話し声は吸われ、響くこともなく消えていく。
環は、パソコン研究会の副部長で、文芸部の月刊誌である『ログ台典』を電子保存するにあたって尽力している。というか、執行部に圧をかけられて、やらざるを得ないとかなんとか……ともかく、文芸部と提携関係にある故に、時々話すうちに打ち解けた友人の一人だ。とはいえ、科が違うこともあり、普段は会うことも無い。そのこともあって、この限られた時間に話題が尽きることは無い。
「いやはや、それにしても田尾氏がこれほど話の出来る方とは思いませんでしたなぁ。てっきり、イケイケ波乗りボーイかと思ってた故」
「んなことねえけど……まぁ、確かに話しかけづらいって言われることも多いしな」
「それは謙遜にござろう! 田尾氏は小生とは違ってイケメソですし、小生が恐縮していただけでござる。むしろ、小生なんかにも分け隔てない田尾氏に感謝しているのでござるよ」
「別に、普通だっつーの。塩抜にもよろしく言っといてくれ」
「あい分かった」
まるで漫画かアニメの登場人物のように敬礼した環に、くすっと笑ってしまう。本当に、俺は特別なことなどしてはいない。分け隔てなく接してくれているのは、むしろお前の方だと思うよ。なんて言うのは少しだけ気恥しいだろうか。
長く立ち話をしたように思ったが、環が帰ってから見た時計の長針は、まだ短針を追い越してはいなかった。
「お疲れ」
「おう」
席に戻ると、夕原が小さく声をかけてきた。山場を越えたのか、机に肘をついて、かなり崩れた姿勢で文字を追っている。
「田尾、君は——」
しおりの挟まれたページを開いて、改めて文字を追い始めたところで、夕原が独り言のようにつぶやく。続く言葉を待ちながら、読書を続ける。まだ誰も死んでいないミステリーは、薄目でもページが進む。
登場人物たちが他愛のない、あるいはこれも伏線なのかもしれない、身の上話を語り始めたところで、夕原の言葉の続きがじれったくなる。何を言いかけで止めたのだろうかと、目線だけを本から外して、正面に座った夕原を見る。
「何だよ?」
夕原は、机の上に上体を投げ出しながら、真剣な表情でページをめくる。残りのページはわずかだった。
「……ああ、ごめん。君は優しいね、と言うつもりだったのだけれど、もっと似合いの言葉があるんじゃないかと思って考えていたんだよ」
「あっそ」
優しい、ね。
どこか含意のある言い方にざらりとした違和感を覚えつつも、それ以上は追及しないことにする。夕原の言うことを一つ一つ完璧に理解しようとしていたら、日が暮れるどころでは済まない。
「そう、例えば、ライトノベルの主人公みたいだ。優しさを他人にも振りまきながら、当人はそれが当たり前だと言ってのけるような、意気地なしのくせに勇気があるような」
「最後にちょっと貶してんじゃねえ」
「はは、でもほら、校舎の隅のマイナーな部活で、寡黙でかわいらしい先輩と、おとなしく人懐こい後輩、それに発想力豊かな同級生の女子生徒に囲まれているじゃないか」
「物は言いようっつーか。お前がそんなこと言うの、珍しいな」
夕原は、『ログ台典』でもポエム(と言うと夕原は怒る。詩と言うのとは違う意味を見出しているようだった)を寄稿しており、小説、特に現代的なものを読む印象は無い。今も薄い新書のカバーには、往年の名作喜劇の題が書かれている。
「そうかい? 昔から、ハレムは男性の夢だろう。それが現代になっても、普遍的な理想の具現状況として作られているというだけのことだと思うね」
「商業科様の視点は大層で、俺には難しいね」
「まあ、それは冗談としても、田尾は本当に優しいと思うのだけどね」
「そりゃどーも」
嫌味のようにも聞こえたのは、卑屈な自分の性格のせいだろうかと思いつつも、疑心は拭いきれない。とはいえ、その言葉の表皮をめくった先に、心当たりも無かった。
今は、気にすることでもないかと物語に気持ちを没入させようとする。
「——田尾は、いじめを見たら、どうする?」
静謐な部屋に彼女の声が沈み込み、ページをめくる静かな音が、時を刻むように聴覚に浸みこんだ。物語の中では、赤いカーペットが吐瀉物に汚れ、一人目の犠牲者が出た。
「どうするって……どうにかできそうなら、どうにかする、けど」
「どうにかできないことの方が多い、か。そうだね」
夕原は、俺が飲み込んだ言葉を、簡単に拾い上げる。それはきっと、俺の心を読んだというわけでもなく、単に彼女の言葉でもあったということだろう。
「普通科はどうか知らないけれど、商業科は階層意識が強くてね。カーストっていうのかな。上級生はけっこう横柄なもので、それを見た後進がまた模倣して、それで悪循環さ。幸いにも、女子は縦のつながりが薄いから、私は被害を受けたことはないのだけどね」
「仲間外れは、いじめじゃないのか?」
「失礼だな。私だって、友達の一人や二人いるんだぞ。まあ、この学校なら、成績が良ければある程度の素行は無視してくれるからね。私もそれで一目置いてもらっているというわけさ。テスト範囲を教えてあげるだけで、友達関係は築けるよ。参考にしたまえ?」
「あいあい。それで、いじめの話は何なんだ?」
一冊読み終えた夕原は、閉じた本を顔の横に当てて、こちらを見つめている。いつになく真剣な顔に、俺は視線を物語に落とす。
「つまり、男子の方はもっと酷いいじめが看過されてきたってことさ。パシリはもちろん、暴行も強請りもあるいはそれ以上のことも」
「……噂話じゃないのか?」
「だと良いけれどね。まあ、そう怖い顔をするなよ。今は改善されつつある。どんな手を使ったのか、生徒会執行部とやらは有能なようでね。私たちの南子先輩を連れていっただけはあるよ」
「別に、俺たちのではないけどな……」
「はは……今でも幅をきかせているのは、野球部とラグビー部くらいか。おっと、あれはいじめじゃないんだったか。けじめ、教育なんだっけ」
記憶の隅で、クラスメイトの馴染みづらい内輪ノリが思い出される。
「まあ、改善されてるならいいんじゃないか? なんでそんな話をしたんだよ」
「ああ、さっきの彼を見てね。昔、彼が上級生に絡まれているところを見かけたことを思い出したんだ。彼は、強いよ。カーストの話ではなく、信念という意味でね。普通なら怖がって言いなりになったり、怯えるところを、大きな叫び声をあげて逃げ出したんだもの」
「なんか、想像つくわ」
「私は、あの時、彼を救うべきだったと思うかい?」
夕原は頬杖を突いて、斜めに切りそろえられた前髪を揺らした。
「それは、心の話か? それとも、いじめの話か?」
「どっちも、だよ。もし君みたいに、彼に声をかけることができていたら、どうなっていただろうと思っただけさ」
「案外、仲良くなれたんじゃないか?」
「はは、それは面白い世界線だね」
パタン、と重たい本を閉じる音に振り向くと、少し離れた席に座った後輩——遠野が俺の方をじっと見ていた。
「えっと、ごめん。うるさかったか?」
「…………いけいけなみのりぼーい」
遠野は静かにこちらを見ながら立ち上がり、俺の方まで歩いてきてから、ぼそりとそう呟いた。それから読書を続ける我らが南子先輩の肩を優しくたたく。
「……どうしました、遠野さん」
読み進める手は止めずに、先輩はそう聞いた。
「田尾先輩は、イケメン?なのですか?」
「ちょちょちょっ⁉」
ぼんやりとしているようで、本を読みながらも周りの会話はきっちりと聞いているらしい後輩は、環が言った言葉をまだ気にしていたのか、今更そんなことを聞き始めた。
「田尾くんですか? さぁ……顔の美醜という話は、あまり詳しくないので……私ではなく、ワンコか愛ヶ崎さんに聞いてみてはどうでしょう」
「…………なるほど、参考になります」
遠野はそう言うと、静かに図書室を去っていってしまった。
「え、もしかして、聞きに行った??」
「そうだろうね、おそらく」
「いやいや、恥ずいって! ちょ、ちょっと行ってくるわっ」
「ああ、うん。遠野さんが悪いいじめっ子に遭遇しないよう、守って来てくれたまえ」
言い終わる前に席を立っていた田尾に、夕原は、聞いてないか、と困り顔で笑った。
それから、何とか田尾は遠野に追いついたが、その時にはすでに、校内を巡回していた天使たちと出会った後だった。話し方は古い機械のように遅い遠野だが、行動力はあるらしい。
「う~ん、田尾ってあの田尾だよね~」
「…………そうですね」
「ちょちょっ、愛ヶ崎、タンマっ!」
慌てて制止した田尾を、二人は不思議そうに見つめる。それから、品定めをするようにじろじろと顔を目線でなめる。
「かーっ! 遠野っ、そういうことは、あんまり人に聞くもんじゃねーの!」
「……そうなのですね。分かりました、少し、無礼だったかもしれません」
「うーん、私もよく分かんないな~」
天使は俺の言葉を気にせず、そう困ったように言いながら、そっと出したスマホをスワイプする。
「あ、ねえ文美ちゃん。このアプリとか試してみたらどうかな。イケメンチェックカメラだってさ」
「おお……文明の利器、ですね。ではさっそく、パシャリ」
「おわっ」
突然シャッターを向けられ、驚きながらもそれなりの写真映りの田尾の姿が、何かしらのフィルターに精査されていく。
「さぁて、どうなるかな~」
「……! これは……」
「おい、なんだよ、どうした?——って」
「あはははは! 田尾、0点だよ、0点! すごぉっ!」
三人が画面をのぞき込むと、そこには大きくドーナツのようなフォントで0点というイケメン得点が表示されていた。
「なるほど、つまり、イケメンではない、ということですね。解決です」
「なんか釈然としねぇ……」
田尾が露骨に気を落としていると、天使の笑い声を聞いたのか、たまたま近くを通った藍虎が近寄ってきた。
「どうしたんだい? ——イケメンチェックアプリ?で田尾が0点……ぷふ、ああごめん。田尾、くんはイケメンだから、こんな結果気にすることないと思う、よ?」
「お前のそういう気遣いが一番傷つくわっ!」
その後、田尾は0点のイケメンとして、しばらくクラスメイトにからかわれることになったが、だからといって田尾の容姿を擁護する者はいなかったし、むしろその方が楽でいいかと、田尾は思ったのだった。