第四十一話 可愛い子には旅をさせよ
・主な登場人物
田尾晴々(たび はるばる):二年一組のクラス副委員長の男子生徒。チャラい見た目で言動もチャラいため、誰からも信用されていない。性根は優しいが、見た目と言動で損をしている。趣味は読書で、文芸部に所属している。
愛ヶ崎天使:天使ちゃん。現在生徒会執行部副会長。
藍虎碧:現在生徒会執行部書記の女子生徒。クールに見られがち。
留木花夢:二年一組の女子生徒。身長が低く童顔。顔に肉が付きやすい体質のせいで、顔が真ん丸になってしまうことが悩み。食べることが好き。
鳩場冠凛:二年一組のクラス委員長の少女。静かな佇まいのツインテール。部活は運動部を転々とした後、現在は無所属。
有飼葛真:二年一組の男子生徒。いつも眠そうな顔をしている。実際眠いらしい。ぼんやりしているようで、意思は強い。行動力はあるが、やる気はない。見た目よりも口数が多い。
この学校には、天使がいる。
それはこの学校のどの生徒にとっても明白な事実であり、もはや語る必要すらないことである。しかしながら、文化祭が終わった後の学校でも、変わらず彼女の噂を誰もが話題にする。それは天使のような副会長の記事を作り続ける新聞部のせいでもあり、自由奔放に校内を舞う彼女自身のせいでもあるのかもしれない。
そんな学校で、変わらずにあることは難しい。誰もがその羽に見とれ、残り香に惑わされ、その羽ばたく先を見つめてしまう中で、ただ自分の行く先を見つめ続けることができる人間は少ないだろう。
それは天使に限った話ではない。誰もが誰かに波紋を伝えているのだ。何気ない一挙手一投足が、誰かの行く先を阻み、誰かの背を押す。談笑しながら踏みつぶした羽虫に気を留める者はおらず、心を痛めるものもいない。
そんな些末な擦過を気にするのは、優しさではなく病なのだと、一人の男子生徒は自嘲した。
生命というものに、明確な意味が存在しないように、この世界は多くの人のわがままで成り立っている。だから、そんなことを気にしてしまうのが、自分のわがままなのだと、辛い気持ちよりも大きな笑顔でいられるようにと、今日も彼は大きな声で笑うのだ。
「結構歩くのってしんどいよね。バスに揺られていると、余計にさ。いっそ、ここまでバスで送ってくれたんなら、境内もバスで観光とかできないのかな。舗装が痛むからダメか」
「いや、そこじゃねぇだろ!」
隣を歩く友人が、いつも通り見た目に反して口数多く愚痴をこぼす。バス車内では旅のしおりを眺めながら、高速道路の車窓を眺めていたが、ネガティブモードに入るとこうだ。
とはいえ、実際二時間ほどのバス移動は、それなりに心身ともに疲弊を感じる。その分外の光はありがたいともいえるのだが。
「あんまりうるさくしないでね。一般のお客さんもいるのだから……分かった、田尾?」
「俺だけかよっ⁉」
「今日は、トラブルを起こしがちな天使ちゃんがいないものね。問題児と言ったら、あなたでしょう?」
「俺はトラブルを起こしたことは無いっつーの」
「へぇ、意外ね」
「どーいう意味だぁ?」
俺が少し前を歩くクラス委員長——鳩場冠凛にそう返すと、列になって進んでいたクラスメイト達が失笑する。
俺たちは今日、転地学習と称された小旅行の行事で、県外の神社を訪れていた。神社にお参りした後は、街道を班ごとに散策し、時間になれば帰宅となる。かなり歴史のある通りでもあるため、時間内に街道のすべての寺社仏閣を巡ることは難しい。大半の生徒はそうした史跡には興味がなく、食べ歩きやお土産を目当てにしている。
うちのクラスの超有名人——といっても学内のことだが——である生徒、愛ヶ崎天使は流行り病で体調を崩してしまい、残念ながら今日は自宅で療養中だと今朝連絡が入っていた。同じタイミングで、彼女と同じ生徒会執行部のメンバーである藍虎碧もまた、同様の症状を訴え、休んでいる。文化祭から一週間がたち、今になって疲労が来たのだろうか。
と、そんな説明を、バスに乗る前にクラスに聞きに来た元一年二組の生徒にも話したところ、大きく肩をなでおろしていた。そんなに心配だったのだろうか。
「それじゃあ、ここでいったん解散になるわ。集合場所はしおりに書いてあるから、よく読んでおくように。くれぐれも迷子になったり、周りの人に迷惑をかけたりしないようにしてくださいね。特に田尾。じゃあ、解散で」
鳩場がそう指示を出すと、生徒たちは事前に決めていた班のメンバーで集まり、最初の目的地を目指して歩き始める。
「おうっし、田尾! とりあえず行こうぜ!」
「おっしゃあ、ゴーゴー!」
俺の班は、クラスの野球部の奴らだった。俺は野球部ではないのだが、何かと絡まれることが多く、ノリは合うほうだと思っているし、それなりに仲良くしている。時折話に上がる野球部の内輪ノリみたいなのは、正直暑苦しいが、それほど気にするようなことでもない。クラスでなくとも、大抵のグループで上手くやっていける自信はあるほうだ。あつかましいなんて言われることもあるが、それは自分の良いところだと思っている。とにかく行動してみる。そして、よく笑ってみる。それだけで、気分は高められる。
「とりあえず、次ここのアイスクリーム行ってみようぜ」
「いいじゃん、行くか」
「あ~、待ってもうちょいここ見たいかも」
最寄りの寺社に寄って、荘厳な天井画を眺める。この建物は比較的開放されている場所が多く、入館料こそ少しばかりかかるが、充実感は高い。
「……って、あれ?」
木造建築ならではの落ち着いた空気を感じながら、しおりにメモを取っていると、入り口の近くにいたはずの、同行していたクラスメイトの姿がない。静かな社内の雰囲気に配慮し、声を出さないように敷地内を見回るも、すでに彼らの姿は見えなかった。
「はぐれた……のか?」
鑑賞可能な場所が多いとはいえ、狭い敷地内だ。見失うはずも、見失われるはずも無かったが、確かに自分は置いていかれてしまったようだった。
すぐにスマートフォンを取り出して連絡しようとして、気が付く。彼らへ直接つなげられる連絡手段がないのだ。SNSの個別アドレスは知らないし、今から追加しても反応されるとも思えない。とはいえ、観光を楽しんでいるほかの生徒に水を差すようで、クラス全体へのメッセージは憚られた。いや、いつもならば、そんなことは気にせずに送信していただろう。けれど、知らない土地での不安感がそうさせるのか、いつにもまして、うっそうとした感情は、日々自分に向けられる愛想笑いや、冷ややかな視線を思い出させた。
「うっし、まぁしょうがねえか!」
ここで立ち止まっていても、彼らがやってきてくれるわけもない。ざらざらとした石で作られた丸い椅子から立ち上がり、再び寺社の方に戻り、入館料を払ってさらに奥へと進むことにした。どうせなら見ない方が損だ。例えどれだけの不運や軽蔑が目の前にあったとしても、それは現在の好機を手放す理由にはならない。
澄み渡るような歴史情緒のあふれる木の匂いは、孤立することへの焦りや置いていかれたことへのやるせなさを、ゆっくりと解きほぐす。丁寧に手入れがなされた庭園は、性急に背を追い立てるような時間への意識から隔絶されたように、静かな流れを思わせた。
順路を一周して、時計を確認した。最初に予定していた時間通りだ。班はすでにどこかへ行ってしまったが、このまま回れば問題なく時間までに集合地点へ行くことができるだろう。
門を抜けると、観光者向けに整備されたお土産通りの店の一つから、同じ制服の生徒たちが出てくるのが見えた。表札を見れば、お茶屋の様だ。食べ歩きが禁止されているわけではないが、中で飲食していたのだろう。外で風に揺られる旗に書かれた、限定フレーバーの文字が目に入る。
「腹は、まだ減ってないな」
自分の財布事情も考えながら、店の前を通り過ぎる。甘味だけでなく揚げ餅やせんべいのような、街道でよく見かけるような出店が制服を見てセールスの声をかけてくる。
「今は、買わない方がいいか」
もうすぐ次の神社に着く。そう言えば、こういう出店で買い物をしたことはないな、と妙な寂しさが去来した。だとしても、敷地内に食べ物を持ち込むのは好ましくなく、かといって、食べるために時間を割くほど余裕もない。
「お土産……は来年かな」
神社の本殿に御参りして、まばらな観光客の隙間から、お守りの売り場を眺める。合格祈願のお守りはまだ必要ないだろう。家内安全や健康祈願のものは、正月に買った覚えがあった。
代わりに神社全体の説明の書かれたパンフレットを手に取る。観光客が多いのだろう、五言語分の差分が用意されている。寺も神社も、外観だけではその違いはほとんど理解できない。内部の装飾を見たところで、その意味を推し量ることは相当な歴史の知識が必要だろう。その点、こうした案内を見ることは情報を得るためのステップをとても楽にしてくれる。
もちろん、事前に調べておく方が良いのだが、そうしたツールを持っていない頃は多少難しい文字があろうと、そんなパンフレットの存在が、今よりも広く大きく感じられた神聖な空間への想像力を支えてくれたのだ。
「ママ~、あれかっこいい~!」
「そうね~。手、離したらダメよ~」
お参りを終えたのだろう子連れの家族が、足早に神社を後にしていく。その姿に、思わず昔の自分の姿を重ねてしまう。
「お母さん、あれって何が描いてあるの?」
屏風に描かれた動物のような、植物のような絵に、まだ幼いころの俺は指をさす。母は、返事の代わりに細長いパンフレットを差し出した。
俺はまだ読めない漢字の多いパンフレットをひっくり返したりしながら、ようやくそれが孔雀という動物であることが分かる。パンフレットを片手に次のエリアに進む。実在する動物、空想上の動物。大昔の誰かが描いた、豪華な装飾。生き生きと見える繊細かつ豪快な線に、あの頃の俺は目を奪われたものだ。
ずっと、面白いものが好きだった。すごいものが好きだった。
誰かの手によって作られた、魂のこもった作品に触れることで、顔も見たことのない誰かが込めた意味が流れ込んでくる。それは言葉として表せるような有形の物というよりも、思わずこちらも、心からの感嘆しか漏らせないようなエネルギーだ。その力こそが、人を生かすものであり、その作者が生きている意味を表現したものなのだと思った。感動に反響するように、確かに自分の中にもそうした意味があるのだと思うことができた。
絵画、建築、小説、音楽。様々なものに触れるにつれて、次第に、その形を知りたくなった。あらゆるものには、意味がある。言葉にして形容すれば、それは形となる。本心からあふれる言葉で意味の輪郭を表すことが、この世界の確かさを感じる唯一の方法だった。
自分が生きている意味は、何なのだろう。しかしながら、そんな疑問は、人と関わることで、余計に分からなくなったのだったが。
「あっ——」
母親に手を引かれていた男児の手から、ひらりと薄い冊子が落ちる。つるつるとした紙で作られたそのパンフレットが白い砂利の上に落ちるのを、寂しそうに男児は見つめていたが、立ち止まることもできずに母親に連れられて歩を進めた。
「あの、これ、落としましたよ」
お節介と思いながらも、駆け足で親子に追いつき、男児にパンフレットを渡す。強く握られていたのだろう、両端が少し凹んだパンフレットを再び大切そうに男児は受け取る。
「ああ、ありがとうございます」
「お兄ちゃん、ありがと!」
男児と対照的に、母親は困惑したように感謝の言葉を伝える。
「ほら、行くよ」
母親は男児を抱えると、今度こそ神社を歩き去る。
「あんた、こんなのいつ取ったの⁉ ちょっと、貸して!」
後姿の母親が、今度こそパンフレットを入り口に捨て去って、見えなくなっていく。
————そんなの、どこで食べても一緒でしょ?
記憶のどこかで、母の言葉が思い出される。
昔から、旅行が趣味の両親に連れられて、旅行先の寺社仏閣を参詣することが多かった。両親は特定の宗教に属していたわけではなく、絵画に深い造詣があるわけでもなかった。後で聞いた話では、そうした自分の生活から離れたものに触れることで、自分の換気をするのだ、と言っていた気がする。
両親は、旅行へ行くと、近くの歴史的な建造物を必ず見に行った。寺院や神社だけでなく、自然に近い洞窟や、都会の文化に近い塔など、非日常の空間を好んでいた。
その一方で、俗的な——というのは母の言い方だ——お土産屋や売店と言ったものを毛嫌いし、形に残るようなものを買って帰ることは無かった。鑑賞しているときは、俺が話しかけることすら疎んで、自分の世界に没頭していた。きっと、母にとっては、俺のことも、社会によって作らされたものなのだろう。母は、俺が俗的な物に触れようとすると、気が触れたように怒り出し、俺の知らない社会の仕組みの話を滔々と語った。
「ははっ…………」
思わず漏れた失笑は、道を行く人たちの足が砂利をかき分ける音に紛れていった。誰かが踏んでしまう前に、彼のパンフレットを拾う。
「ま、そんな日もあるよな」
不運な日というのは、きっと誰にだって平等に訪れる。台典商高の天使だって、体調不良で旅行に行けなくなるのだから、仕方がないのだろう。
だからまあ、前を向くほかにできることはないのだ。
しばらく歩くと、三つ目の歴史的建造物が近づく。ここは比較的街道の大通りからも近く、有名な場所でもあるので、多くの生徒がこの場所の感想をしおりに書くだろう。
予想通り、見慣れた制服の集団が何組か門から出ていくところだった。
門の向こう、集合場所に近い通りの方で、数名の男子生徒のグループが手持ちの揚げ物を食べながら、大きな声で笑い合っているのが見えた。無意識にお腹を押さえてから、頭がすっと冷えるような暗い感情が胃に流れ込むのを感じる。
「……後でいい、後で」
唇を軽くかんで、空腹をごまかしながら、目を背ける。ひとまずは目先の寺院を見て回ることにしよう。
門をくぐると、それなりの人混みだった。先ほどの神社と違い、人の流れができており、気を抜けば順路から逸れてしまいそうだ。その分、どこに見るべき場所があるのかは分かりやすい。
階段を上っていき、五重塔の辺りまで来ると、さすがに人の数も少なくなってきた。大抵は本堂を見て帰ってしまうのだろう。もうこの辺りには、生徒たちもいないようだった。
せっかくなのでと思い、一番上まで登ってみる。正直なところ、あまり信心深い方ではないと思うし、神頼みをする方でもない。だからまあ、これは達成感のためにやってきたといって良い。とはいえ、本堂と比べれば小さい堂ではあるが、それぞれの荘厳さには目を奪われてしまうものだ。改修の直後だったのだろうか、朱が鮮やかで歴史的な物を見るというよりも、当時の様子を想起するといった気持ちの方が強い。
「ん……?」
最上部までやってきたので、階段の方に広がる街の景色を眺めていると、奥まった堂にある休憩スペースで、見覚えのある生徒が座り込んでいるのを見つける。見える範囲には他の生徒どころか、観光客もおらず、自分を棚に上げているようだが、どうやら班の人とはぐれてしまったようだった。
「……しゃあねえ、どうせ通り道だしな」
少しの葛藤。それは彼女を助けるかどうかということよりも、自分の行為が彼女にとって迷惑でないかというものだった。俺ははぐれたわけではないが、問題は起こさないと言った手前、クラスメイトにはぐれている姿を見られたくは無かった。
「おい、留木! こんなとこで何して——」
班員と一緒にいないことを気づかれないよう、なるべく明るい調子で声をかけようとして、顔を上げた彼女を見て言葉に詰まる。
「んぇ……田尾……?」
彼女の目は赤く泣き腫れ、制服の袖が涙を拭ったのだろう染みで濡れている。泣いている、というか、しばらく泣いて、今は泣き疲れてしまったのだろう。
——子供か! という言葉は、今は言うべきではないだろうと胸にしまう。とにかく、留木は確か、鳩場や有飼たちと同じ班だったはずだ。しかし、見渡す限りに彼女たちの姿は無い。
「お前、まさかはぐれたのか?」
「ん……うん。そこのお店の看板が見えて、走ってきたんだけど、気づいたらみんないなくて、それで、帰り道もよくわかんなくて、それで、えっと、はぐれちゃった……」
「子供かっ」
「——あいでっ」
今度は耐えられず、留木の頭に軽くチョップする。今頃鳩場は必死で探し回っているんだろうな……いや、そんなことはしなさそうだという気持ちもわずかにあるが。
「田尾も、班の人とはぐれたの?」
「ああっと、俺はだな、まぁ何つーか。まあ、そう。はぐれたんだよ」
「私と一緒だ! あいでっ」
きらきらとした顔で笑う留木に、なんとなくもう一発チョップをかます。まったく、泣いたり笑ったり忙しい奴だ。
「連絡とかはしてないのか? スマホ、持ってきてるだろ」
「それが、失くしちゃったみたいで……」
「探すものが増えたな……まあ、とりあえず行こうぜ。ここで座ってても何も見つからないだろ?」
行くぞと手を差し出すと、彼女はその手を取ったが、動こうとはしなかった。うつむいたままの彼女の方から、ぐーと間抜けな音が鳴る。
「あ~、その前に飯、食うか」
「——うん!」
やれやれと、思わず頭を掻きながら、すぐそばの茶屋に入った。思えば、この店に来るためにこいつは迷ったのだ。それならまあ、行っておいても構わない、のか?
「いただきますっ!」
名物だという山菜のそばを頼み、料理が運ばれてくると、留木は自分が迷子だということを忘れたように、目を輝かせた。その様子を見ていると、なんだか不安になっている自分が馬鹿らしく思えてくる。
「いただきます」
そばを食べるのは、正月以来か……と思いながら、むしろそれ以外に食べることの方が稀かもしれないと思い直す。思っていたよりも塩辛いそのそばつゆは、どちらかと言えば精進料理を意識したものなのだろうか。山菜の苦みがアクセントになりながら、なんとなく疲弊していた心身に染みわたる思いだった。
「そういえば、留木は山菜食べれるんだな」
勝手な偏見だが、山菜やそばみたいな和の食材を好まない印象だった。
「え? 食べれるけど。おばあちゃんがねぇ、よく晩御飯に出してくれるから。それに、ここの山菜、全然えぐみもないし、すっごい美味しい!」
他に客がいるわけではなかったが、周りの目を憚らない声量でそう笑いながら食べ進める留木に、こちらまで微笑ましい気持ちになる。奥のカウンターで優しく笑っている店員と目が合い、なんだか気恥しい気持ちになった。
「「ごちそうさまでしたっ!」」
適度に腹も満たせたところで、店員に軽く礼を言ってから、茶屋を後にする。
「それで、どっちから来たとか覚えてるか?」
「ううん、分かんない」
「そっか……それならとりあえず鳩場たちを探そうぜ。降りてたらそのうち見つかるだろ。最悪集合場所に行けば大丈夫だし」
「え~、田尾と回らないとダメってこと?」
「あいあい、んなこと言ってると置いてくぞ~」
「うわああ~、うそうそ、ごめ~ん!」
本当に子供みたいなやつだな、となんだか奇妙な温かさを覚えながら、敷地を降りていく。周りにはすっかり学生の姿はなく、後から上ってくる観光客ばかりだった。
「そうだ、ここのお堂でお参りしとかないか?」
「ここ? なんで?」
「ほら、このお堂は良縁祈願のご利益があるからさ。もしかしたら、見つかりやすくなるかもって」
そんな即効性のあるご利益かはともかく、プラシーボ効果というものもあるくらいだし、いいのではないかと提案してみる。
「うんと、別にいいかな」
「そっか。来た時もお参りしたのか?」
「いや、そうじゃないけどさ。ほら、田尾には会えたじゃん」
そう言って留木は、子供の引率の気分でつないだままだった手を掲げて見せた。
「……お、おう。そうか。それなら、いいんだけどな」
予想外の純真な回答に動揺してしまう。本当に、子供のようなきれいな心をしている奴だ……だからこそ、まだなんとなく調子を合わせきれないでいる。
——昔は、誰もが様々な困難に出会って、それを乗り越えることで自分というものを形成しているのだと思っていた。俺を形成したのは、様々な作品とその魅力を形作る心臓ともいえる『意味』だ。不完全で、発展途上の俺には、それは目標と言い換えることができた。人生のある到達点に辿り着くために、自分を高めるための自分だけの規則。価値観という境界線を引き、何かにこだわることで、人は高く自分を伸ばしていくのだ。そういう風に、俺は母親の行動を解釈し、作品を理解し、成長しようとしてきた。
だが、どうやら世界というものは、そんな一元的な視点で見るにはあまりにも不完全であるらしい。
面白いものは面白い。すごいものはすごい。多くの人は、それ以上の何かを求めてはいなかった。少なくとも、あの頃の俺は、そう思った。誰も、自分の生きる意味なんて知ろうとはしていなくて、俺だけがわがままに、社会という檻の先の景色に手を伸ばそうとしているみたいだった。
そのことに気が付いてからは、誰かに意味を求めることは止めた。人と人との関係性は流動的で、意味は与えられるものではなく、見出すものでしかないと考えるようになった。俺に見いだされた意味があるのなら、俺はそれを演じるだけのことで、そこにそれ以上の意味を考える必要もない。そうして人に合わせていることが、集団に属する個人の意味なのだから。
「出てくるだけでも疲れた~!」
留木がそうボヤく声で、はっと我に返る。左手に感じる、小さく柔らかな手の温度で、彼女がそこにいることを確かに感じた。子供の面倒を見ているときに、気を遠くしてはいけない。注意しないといけないな……
「なあ田尾! あそこのお団子食べようよっ」
「あぁ? さっきそば食べたばっかだろ」
「別腹! ほらっ、いこーぜ」
「お、おいっ」
旅先だからか、やけに上機嫌な留木に引っ張られ、団子を売っているお店で串団子と五平餅を買うことになった。すっと冷たくなる指先を、握った手が温めた。
「……五平餅って、結構甘いんだな」
「食べたことないの?」
「いや……ああ。食べ歩きとかあんまりしないからさ。醤油塗ってあるから、もっとしょっぱいのかと思ってた」
「え~! じゃあじゃあ、あそこのベビーカステラは?」
留木の指した先には、地元感のない屋台にベビーカステラが売られていた。移動式のようだから、この周辺の観光客を狙った売店なのだろう。母が一番嫌いそうな屋台だ。
「いや、あんなん、どこで食べても——」
言いかけて、自分で嫌な気持ちになる。気持ちを清算するつもりで、団子の串を包み紙で挟んでポケットに入れる。
「お前が食べたいだけじゃないのか?」
そんな軽口を飛ばして気を紛らせながら、一番小さい袋を購入する。目の前で袋の中にベビーカステラが詰められていく。
「——出来立てって、おいしいんだな」
「ふふ~ん、だろ~?」
「なんでお前が得意げなんだ」
留木の方に袋を傾けながら思わず笑ってしまう。
「おいしいものはどこで食べてもおいしいじゃん。田尾も元気出ただろ?」
「あぁ? ……まあ、出たけど」
「何か今日の田尾、元気ないっぽかったからさ。ほら、あそこの名物ってやつも食べよ!」
「……そりゃ、どーも。って、それはお前が食べたいだけだろっ!」
「田尾ぃ~、お金なくなっちゃったから買って~?」
「予算配分してなかったのかよ⁉ ダメだ、俺の分だけな」
「半分っ! いや、四分の一で良いからっ!」
まったく、本当に子供みたいで、なんだか調子が狂ってしまう。
名物だという、粒あんが詰まった最中のようなものを、仕方なく分けてやる。こういう名物って、どこにでも——いやいや、今は考えないようにしよう。
温かい餡の感覚に新鮮さを感じていると、店の角に見知った友人が眠たげに立っているのを見つける。眠たげなようで、お土産をかなりの量買い込んで、その上で屋台の名物を食べていた。
「お、田尾だ。何、迷子になったの? って、留木さんだ。なんだ、デートしてるんなら、先に言ってほしかったな。結構探したんだよ?」
「デートじゃねえよ。ちゃんと子守しとけ」
「アタシは子供じゃねえよ」
「じゃあガキだよ。ガキ」
「ムキ~!」
「何、なんか仲良くなった? ——お、出た出た。鳩場さん? 有飼だけど。留木さん、見つかったよ。なんか田尾と駆け落ちしてた。そう、ランデブーにランデブーしちゃった。え、何? ごめん。ああ、二個目のとこ。うん、お願いします——」
有飼は、鳩場に通話を繋げるとしばらく何かを話しているようだった。俺に悪い影響がないといいのだが。
「そうだ、留木さん。これ、スマホ。落としたでしょ?」
「わっ! ありがと、有飼!」
「観光地って、日本でも危ないところあるから、迷子もだけど、これも気を付けなよ? こういう悪い奴に捕まっちゃうかもだしさ」
「なんで俺の方を見るんだ?」
ほどなくして、寺院を挟んだ反対側の街道から鳩場がやってきた。
「まったく、ハムちゃんったら、手のかかる子ね……それで、田尾はまだ少年法に守られているのだったかしら?」
「だー! 何もしてないっつの!」
「怪しいわねぇ……って、あなたそれ、名物のお菓子、どこで買ったの? これ以上買ったらお土産買えなくなるって言ったわよね?」
「あ……これは田尾に分けてもらって……でも、お金は使っちゃった……」
どうやら、留木はここまでの道ですでにかなりの買い食いをしていたらしい。 ……なんでそれでお腹が鳴るんだ? ともかく、鳩場はため息をついて、困ったように笑いながら留木の頬を優しくつねっている。
「まあまあ、また連れてきてもらえばいいじゃん、田尾に」
「だから、デートじゃないって!」
「有飼くんも何でそんなにお土産買ってるのよ。ちゃんと捜索してくれてた?」
「してたって。鳩場さんが、近くの飲食店で張ってれば来るって言ったんでしょ?」
「そうだけど……まぁいいわ。田尾も、今回だけは連れて来てくれたことに感謝してるわ」
「あいあい、合流できてよかった。それじゃあ、俺はもう行くからな」
俺が留木を鳩場に預けて、街道を先に進もうとすると、有飼が不思議そうに見つめてくる。
「あれ、田尾も一緒に回るんじゃないの? 田尾の班の人、なんかその辺で見かけたし」
「いや、でも……ここの班とも違うだろ」
そう言葉を返すと、有飼はさらに不思議そうに首を傾げた。
「友達でしょ? あ、違ったらごめん。でも俺は回ってほしいかな。解説してよ、お寺とかの。鳩場さんに愛想尽かされちゃってさ」
「あなたたちがバラバラの方に進もうとするからでしょうに……どうせもうすぐ集合場所なんだから、一緒に回ればいいでしょ? いちいち気を遣わないで良いのよ」
「別に、気を遣っては……ないけど」
予想外の誘いに、言葉に詰まってしまう。
「俺と一緒に回るの、嫌じゃないのか?」
「田尾っ! 早く行こうよ!」
留木が俺の手を取ってそう急かした。
「田尾、今日はおセンチなんだ。腫物のように扱った方がいい?」
「はいはい。さっさと行くわよ。結構時間厳しいんだから」
嗚咽が聞こえないように息を止めた俺を置いて、有飼と鳩場が歩き始める。
「田尾、いこーぜ」
留木が曇りのない目で俺を見て、そう言った。
「ああ、行こう——」
何とかそれだけ言って、二人の後を追った。初夏の空は、美しく晴れわたっていた。
「田尾、泣いてる? って、これあれじゃないかな。晴れてるのに、雨だって言ってごまかそうとするやつじゃない? ねえ、泣いてるの田尾?」
「だぁー! 有飼お前、少しは情緒を汲み取りやがれ!」
「あら、田尾の恥は掻き捨てっていうし、いいじゃないの」
「上手いこと言った感じで締めるな!」
留木と手をつないで歩くと、濡れた袖が擦れ合った。それでもやっぱり、空はどこまでも続くみたいに晴れ渡っているのだった。
それから、数日が経って愛ヶ崎と藍虎が登校してきた。
「うわあああん、ボクも行きたかったな~」
「まあまあ、落ち着いて、愛ヶ崎さん。夏休みにでも行ったらいいじゃないか」
「それとこれとは違うじゃんか! クラスの人と行くからいいんだよ~! 夏休みに行くんだったらさ、碧ちゃんもついてきてくれる?」
「もちろん、同行させてもらうよ。私だって、行けなかったんだからね」
休み時間に、そんな会話をする二人に、気になっていたことを聞いてみる。
「つーか、二人とも一緒に休みって珍しくない? そんなに流行ってたっけ」
「なにか感染の心当たりとかあるんじゃない? 例えば、同衾したとかさ」
「何でそんな具体的なの?まー、それじゃなくても執行部の先輩も心配じゃね?」
有飼の唐突なワードセンスに困惑しつつも、パスを回す。
「あ~、同衾って言ったら思い出した。文化祭の後で、碧ちゃんとお泊り会したんだよね」
愛ヶ崎がそう言うと、ゴホゴホッと藍虎が勢いよくむせる。まだ症状が残っているのかもしれない。
「あ、ああ。そうだね。そうか、あれが原因だったなら納得がいく。うつしてしまったならごめんよ、愛ヶ崎さん」
「ううん、私がうつしちゃったかもしれないし」
お互いに気にしていない風に笑い合う二人を見て、旅行に行けなかったことを気に病んでいるのではないかと思っていた自分を反省する。彼女には、不運なんて尺度は存在していないのだ。あるがままを受け入れて、そんな幸運だと考えている。そうして、前を向いている。
「よっしゃあ、じゃあ夏休みにみんなでもっかい行くか!」
誰かに与えられた意味だとしても、進むことを自分で選んだなら、それは自分で見出したと言ってもいいのかもしれない。そうして、前を向くことを、俺は選ぶことにするよ。前を向くしかないのではなく、一つしかない選択肢だとしても、自分で選んだものにする。そんな小さな決意と共に、俺は声を上げた。
「俺はもういいかな。田尾は留木さんと行きたいんでしょ? 愛ヶ崎さんを巻き込むのはズルいと思うな」
「え、なになに。何でハムちと行きたいの?」
「それがさ、あっちでいろいろあってね」
「ぜひとも聞きたい話だね」
「だー! その話はもういいっつーの!」
そんな決意なんて忘れてしまえるほど、きっとこのクラスでの生活には意味があるのだと、今は思えるのだった。