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誰も救えない天使の話  作者: 錆井鈴江
台典商高編 二年生
43/81

挿話 そんな春の話

・主な登場人物

愛ヶ崎天使まながさき てんし:天使ちゃん。現在生徒会執行部副会長。


藍虎碧あいとら みどり:現在生徒会執行部書記の女子生徒。クールに見られがち。


「しまったな……」


 人は、生きていれば誰しも、何かしらの過ちを犯すものだ。その大小は人によってさまざまで、だからこそ、誰もが人生における過ちを最小限にしようと努力する。そんな考えに即して言うならば、今日の過ちはひどく軽微なものだったと言えるだろう。


「どうしたの、(みどり)ちゃん?」


「ああいや、どうやら体操服を忘れてしまったみたいでね」


 三限が終わり、続く授業は体育だ。しかしながら、今日の暖かな春の陽気にあてられたのか、私の体操服はどこかでお昼寝でもしているらしい。


 さらに不運なことに、いつもならば制服のスカートの下には体操服のズボンを履いているところを、今日に限ってスパッツで代用していたのだった。こればかりは春の温かさを恨む他にない。


「珍しいね、碧ちゃんが忘れ物なんて」


「そうかな。最近は執行部の活動で忙しかったから、少し気が抜けてしまったのかもしれないね」


 まったく、この過ちが活動におけるものでなくて良かった。


 私は、生徒会執行部で書記として、眼前の少女、愛ヶ崎(まながさき)天使(てんし)の補佐として活動しながら、同時に、彼女を信仰する天使ファンクラブの会員番号一番として、日夜彼女に害する可能性のある生徒たちを監視しているのであった。もし、その活動の中で少しでも粗があったなら、たちまちにも彼女は悪いナニカを取り込んで目も当てられないことになってしまうかもしれない。そんなことになれば、私はこの先の人生の一切に希望を持つことができず、ただ一心にこの世からの解脱を望むことになるだろう。


「仕事、大変だったら手伝うよ? 文化祭も近いからって、無理したらだめだよ」


 ああ、何て君は優しいのだろう。天使ちゃんの慈愛に満ちた笑みに、思わず私は真夏の氷菓のように融解してしまいそうだ。


「大丈夫だよ。それに、愛ヶ崎さんの方が、あちこち大変なんだろう?」


 二年になってもう一か月ほどが経つ。新しい一年生の情報も大方集まってきてはいるが、執行部としての実動はほとんど彼女の役目だ。その方が来年の役に立つだろう、と三峰先輩はおっしゃっていたけれど、おそらく二年生以上の厄介な案件(具体的には、天使ちゃんには任せられない、公的権力や武力みたいな強制力の必要なもの)を先輩自身が対処するためなのだろう。新聞部での活動告知をほとんど天使ちゃんの話に変えているのも、その一環だと考えれば納得がいく。


「ん~、まぁでも、楽しいから、平気、だよ」


 天使ちゃんは活動を思い出すように間延びした声でそう言いながら、ロッカーから何かを引き出した。


「はい、碧ちゃん」


「これは、なんだい?」


 かと思うと、学校指定のサブバックを差し出してきた。


「え? 体操服、だけど。碧ちゃん、忘れたんでしょ?私、すぐ制服汚しちゃうから、予備も持ってるんだよね~」


 それは、知っている。知識としては、知っていた。


 愛ヶ崎天使という人間は、可愛らしく、美しく、自由奔放であらゆる運に恵まれている。それは悪い運もまた然りのようで、ブレザーをクリーニングに出したとはしゃいでいれば、泥をかぶったり、新しくゲームを始めたと笑えば、次の日から初心者向けの補填が改良されたりする。これまでもずっとそうだったのだろう、彼女はそんな幸せと不幸せに挟まれた生活に適応している。その歪みによって生まれたのが、きっと彼女というファムファタルであり、それゆえに、彼女は自分の選択を迷うことが少ないのだ。


 天使ちゃんが、体操服の予備を学校に置いているということは知っていた。一年生の頃かららしい。多くの会員がその調査に乗り出し、それをことごとく私は阻んで来た。もちろん、穏やかな方法で。


 彼女は体育の授業があると、家から新しい体操服を持ってきて、予備と交換する。つまりは、今天使ちゃんが差し出してきている方が、今日持ってきた新しい体操服というわけだ。ということは、一昨日の体育の授業の時に来ていたものと同一と考えるのが自然であり、昨日の五月晴れの中で乾かされたと推察されるのである。う~ん、最高(天使)。……ではなく。そんなものを私のようなものが着ていいはずはない。ファンクラブ内で最高価値と言われている『居眠り天使ちゃん(特別棟空き教室にて)』『対抗リレー1着の瞬間』の二枚と比べても、数倍が底値と言える逸品——いやいや、何を考えている藍虎碧! 誰に渡すはずもなく、これは天使ちゃんの私物であり、まして着るだなんてっ!


「あ、え~っと。生徒会室に予備があるはずだから、それを取ってくるよ。ほら、確か愛ヶ崎さんの一声で始まった案件の」


 生徒会室——というより保管場所は保健室なのだが——には、生徒共用の体操服がある。体操服を忘れてしまった生徒用、という建前で、ある不登校だった生徒を支援するために始動した制度だ。


「でも、早くしないと授業始まっちゃうよ? ほら、私の貸したげるからさ、ね」


——困った。絶体絶命、窮地に陥ってしまった。


 ここで彼女の優しい頼みを断るのは、()()()()()()()()()()()()の藍虎碧としては、あまりにも不自然。そもそも、彼女が忘れたときに私が貸したことも一度ではない。何かと理由をつけて彼女が自宅に持ち帰らないように回収し、名残惜しくも洗濯したものだ。しかし、今日ばかりは事情が違う。そもそも、彼女の着た体操服を家で洗濯するときだって、()()()()()()()()()の藍虎碧は、血の涙を滝のように垂れ流して洗濯機に縋りついていたのだ。これも彼女を支えるための仕方ないことだと割り切っていた。


 だが、やはり、彼女の体操服を着るという行為は別格と言わざるを得ない。ファンクラブ規則を逸脱した明確な越境である。法が法なら違法である。世界が違えば極刑に違いない。貸してくれたからなんだ、盗むのと何が違うのだ。本質的に着るという行為が同じであれば、その凶悪性に変わりはないっ! 藍虎碧、貴様は執行部の立場を利用して、彼女を罠にハメたのだっ!


 ……でも、天使ちゃんが貸してくれるって言っているのだから、一回くらい、いいんじゃな~い?


「ねえ、碧ちゃん。もしかして、本当に体調が悪かったりしない?なんだか、ボーっとしてるみたいだけど」


 天使の言葉で、心の中の悪魔の甘言から目を覚ます。危ないところだった。ここはひとつ毅然とした態度で言ってやろう。私の覚悟ってやつを。生徒会執行部の藍虎碧はこうあるのだという姿を見せてやるのだ。君のために、私はどこまでも強くなれるというところを見せてやるのだ。


「う、ううん!? 大丈夫。体操服、お借りしようカナ! 助かったよ、愛ヶ崎さん。ありがとう!」


「よ、良かった……? とにかく、体調が悪いんだったら言ってよ?碧ちゃん、一人で抱え込んじゃうこと多いからさ」


 私は彼女の言葉も聞き流し、半ば放心状態でバッグを受け取った。


——何をしているんだ、藍虎碧よ。


 しかし、受け取ったからには着なければならない。幸いにも今日は三寒四温の温かい方だ。ジャージは借りずに済んだ。


 バッグを開けると、彼女の家の柔軟剤の匂いがふわりと香った。制服と同じ香り、けれど登校の際に外気に触れない分、わずかに香りが強く感じられる。袖を通せばその香りに全身が包まれ、花園を遊覧しているかのような気持ちになる。ああ、ここが天国という場所か。私の葬式の際には、この匂いの香を焚いておいてほしい……


「碧ちゃん、行こっ」


 背丈はわずかに私の方が高かったが、体操服のサイズは同じだったようで、動きづらさを感じることは無かった。


 彼女の呼ぶ声に誘われて、私は天国の道を進むのであった。





「碧ちゃ~ん! ボール行ったよ~!」


「あだっ!」


——違うっ! 天国ではない! 体育の授業なのだ!


 天使ちゃんの柔軟剤の匂いでぼんやりとしていると、彼女の投げたソフトボールの硬球が体に突っ込んで来た。幸いにもバウンドした球は急所を避けて腕をかすめる程度だった。


 何とかボールに追いついて、彼女の方に投げ返す。天使ちゃんはうまく放物線の先に入ると、しっかりとグローブでボールを捕まえた。試合だったらアウトになっていることだろう。


 遠投を終えると、数人で組になって送球の練習をすることになった。女子のグループから外れてしまった私たちは、同じように男子のグループから余った生徒と組まされる。


「あれ、愛ヶ崎さんが二人いる? って、ああ、藍虎(あいとら)さんか。俺さ、球技の才能無いからハブられたのに、女子で一番運動神経良い組に入れられるのって変だと思わない?」


「よろしく、有飼(あるかい)くん! 今日ね、碧ちゃんに体操服貸してるんだよ。だから、おそろいなんだよね」


「ええっ!? そうだね。おそろいだね」


 おそろいっ⁉ そんな視点は無かったが、言われてみれば、今の私は胸元に愛ヶ崎と刺繍された体操服を着ていて、傍から見れば双子かのように見えていることだろう。まるで、家族のように……!


 蕩けて崩れ落ちそうな本心を、冷たく固い社会性の殻に押し込めてなんとか真面目な顔を作る。


「そういえば、有飼くんは田尾(たび)とは組まなかったのかい?」


「ああ、あいつはほら、見た目だけは運動部っぽいし、実際運動神経いいし、野球部と組んでるよ。まぁ、別にいいけどさ。女子と組んだからって、成績には関係ないと思うし」


 有飼くんは、自分で言うほど運動音痴には見えない動きで捕球もこなす。帰宅部だということは知っているが、昔クラブにでも入っていたのだろうか。


「それより、藍虎さん。体調悪いっぽい感じするけど、大丈夫? 休むなら、俺先生に行ってこようか。俺も休みたい」


 送球の手を止め、そういう彼に思わず聞き返す。


「いや、大丈夫だけど……そんなに体調悪そうに見えるかい?」


 自分としては絶好調も絶好調。まさに天国にいる心地なのだ。天使ちゃんだけでなく、他の生徒にまで体調が悪そうに見られているというのは、いささか不思議な気分だった。


「なんていうか、うん。体調悪いとは、確かに違うのかな。いつもより緊張感がないって言うか、ほら、いっつも吠えてくる番犬がいたとしてさ、吠えてこない日があったら体調悪いのかなって心配しちゃうみたいな。……あれ、これって悪い例えかな。ごめん、藍虎さんを怖い犬扱いしちゃったけど、ニュアンスの話だと思って」


「ああ、気にしてないけど……」


 怖い? 私が…?


 新聞部に流れてくる様々な街談巷説を、とっさに思い出して、自分がどう言われていたかを考える。クール、ミステリアス、イケメン。良いことしか覚えてないな、この頭は。


 しかし、怖い、か。有飼くんはフォローしてくれたが、とっさに出た言葉というものは、むしろ本心に近いことが多い。それに、クールというのは寡黙で近寄りがたいというのを婉曲的に表現したものとも聞く。もしかして、私は生徒から怖いと思われているのか。


 いや、私が、ではないのだ。()()()()()()()()()()が、ということだ。天使ちゃんを支えるために被ったペルソナは、そうして生徒たちに受け入れられているということなのだろう。ある意味では、本当の私とは正反対の、執行部の前門の虎としてのイメージが染みついているのだ。


 翻って言えば、今は違っている。たった今は、そう見られていないがために、体調不良を疑われているのだ。つまり、天使ファンクラブとしての私が漏れ出してしまっている……ということか。


「碧ちゃん、休みたくなったら、遠慮しないで良いからね。私が連れていくから」


 天使ちゃんも、心配するように私の方へ近づいてきた。


——ああ、藍虎碧よ。何を葛藤しているのだ。


「——いや、もう大丈夫。目が覚めたよ」


 深く息を吸うと、春の暖かな空気が、それでも涼やかに体を冷やしてくれる。聴覚が明瞭になり、クラスメイト達がにぎやかに話している声が、一字一句余すところなく聞こえてくる。


 そうだ。私は天使ちゃんを支える藍虎碧。前門の藍虎、後門の藍虎として、天使を守る存在であろうと決めたのだ。ならば、彼女を愛し狂う私、彼女を導き守る私、その両方であり続けなければならないだろう。


「愛ヶ崎さん、後ろ」


 誰かが捕球し損ねた球を屈んで拾い、投げ返す。 ——調子がいい。真っすぐに飛んだ球は、クラスメイトのグローブに小気味いい音を立てて収まった。


「心配をかけたね」


「ううん、大丈夫だよ。いつもの碧ちゃんだ」


「あれ、よく分かんないけど、解決した感じなのかな。でも、球速はさっきのままの方が嬉しいんだけど。俺、取れるか分からないからさ」


「はは、加減はするよ」


 天使の匂いがする春の空気を胸いっぱいに楽しみながら、私はそう笑った。






 それから、その日は何か変なことが起きたりはしなかった。しなかったのだが、私は今、自宅の床で、1着の体操服を前に土下座している。


「ぐうううう、ううううううう」


 膝の上に置いた手が、畳の上に勢いよく突き出され、今にも空腹な肉食獣のように飛び出してしまいそうな体を押さえた。芳醇な香りを放っているのは、天使ちゃんから借りた体操服である。汗のにおいと混じり、爽やかながらわずかに甘い香りが鼻腔をくすぐる。いや、それはお前の汗の匂いだろうと言いたいかもしれないが、それはそれ。というか、匂いが混ざってる方がヤバいっつの。彼シャツかって話。


 私がそんな現代に存在してはいけないオーパーツを前に、何を葛藤しているかというと、簡単な話、洗濯である。結局はここなのである。


 本当ならば、天使ちゃんに返して持って帰ってもらうはずだった。しかし、あの藍虎碧とか言う体裁ばかりのカッコつけ野郎は、「洗濯して返してね」という天使ちゃんの言葉に、軽い返事を返して持って帰ってきてしまったのである。


 できるかぁい! 洗濯をしてしまえば、彼女の物を私の家の洗剤で汚してしまうことになるっ! とはいえ、洗濯をしないで返すのは不潔だし、そもそも約束を違えることになる。つまりは、洗濯はしなければならない。そして、その前に体操服を嗅ごうとしている猛獣を抑え込んでいる最中というわけだ。洗濯するためには、体操服を持つ必要があるが、そんなことをすれば顔面への直行便だ。


「もう、むりぃ……」


 私は理性の要請に耳を傾けることを諦め、畳の上に畳まれた体操服の上に飛び込んだ。


「ふあぁぁぁぁ」


 頭に電極を差し込まれたかのように追いきれないスピードで快楽が脳を駆け巡る。吸うタイプのヤバいものかな……幸せに包まれて、もう、ここで終わってもいい……


「お姉ちゃん、何やってんの……?」


「んぎゃああああっ⁉ (あかね)っ、すーはー……帰ってたのか」


「いや、ごまかせないから。てか吸いながら言うな。今帰ってきたとこだけど、なんで体操服吸ってんの」


 ガラガラとふすまを開ける音に目を開けると、妹の茜がじっとりと疑うような目で私を見ていた。弁明、弁明だっ! お姉ちゃんは犯罪者じゃない!


「いや、違くて。借りたんだよ。盗んだとかじゃないから」


「借りたやつを吸ってんの? ちょっと、おかーさん! お姉ちゃんがまた変になった!」


「わああああ! こら茜、何言ってんだ!」


 パートの帰りに茜を迎えに行ったのだろう、外出着とも室内着とも言えない格好の母が、どたどたと足音を立ててやってくる。


「なによ碧、洗濯物があるんなら持ってくわよ。水道代もタダじゃないんだからね」


「あ、いや、これはまだ、その……ああ……」


 悪魔のような母が、有無も言わさずに体操服を持ち去ってしまった。私は悲嘆にくれ、天使の残り香を少しでも吸おうと鼻を広げる。


「お父さんが帰ってくる前で良かったじゃん。臭くならなくてさ」


 茜は憐れむようにそう言い残すと、自室へと去っていった。畳の敷かれたリビングに取り残された私は、どこかに消えた天使の香りを想って、静かに目を閉じた。


 洗濯を終えて干されたその聖遺物(体操服)を、改めて嗅いでみたが、どこかがらんどうの、大切なものが欠けてしまったような感覚だった。


 後日、体操服を天使ちゃんに返した。


「ん~、碧ちゃん家の匂いがする!」


 彼女は惜しげもなく体操服に顔をうずめると、そう笑顔で言った。きっと君がそう言ってくれたなら、その体操服も再び天国へと進むことができるだろう。


 とんでもない幸福と、それだけの喪失を経て少しだけ強くなれたような、あるいは傷ついただけのような気もする。これはきっとすぐに忘れてしまうような、そんな春の話。


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