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誰も救えない天使の話  作者: 錆井鈴江
台典商高編 二年生
41/81

第三十九話 誰も救わない悪魔の話 後編

・主な登場人物

愛ヶ崎天使まながさき てんし:この物語の主人公。天使ちゃん。現在生徒会執行部副会長。


藍虎碧あいとら みどり:現在生徒会執行部書記の女子生徒。クールに見られがち。


丸背南子まるせ なんこ:ニャンコ先輩。生徒会三年の副会長。猫背で丸眼鏡の落ち着いた少女。誰に対しても敬語で話す。


三峰壱子みつみね いちこ:ワンコ先輩。三年の生徒会長。低い身長と元気で独特な口調が犬っぽい女子生徒。


楠根寧くすね ねい:監査委員長の女子生徒。人を舐めたような態度を取る。後輩には基本的に当たりが強い。


影間蕾かげま つぼみ:監査委員会副会長の生徒。かわいらしい見た目をしている。


神繰麻貴奈かぐり まきな:一年生の女子生徒。機械のようなしゃべり方の上、表情がロボットのように変わらないが、血気盛んでギャンブラー気質。


氷堂空間ひどう くうま:一年生。委員会には所属していない。成績優秀でクラスメイトからの信頼も厚い。丁寧な口調は口癖。


梶鳴テトラ (かじなり てとら):商業科一年の生徒。かなり明るいオレンジの長髪が目立つ健康的な少女。マイペースな性格で、コミュニケーション能力は高いが友人は少ない。


留木花夢とどこ はなむ:二年次の同級生の女子生徒。身長が低く童顔。顔に肉が付きやすい体質のせいで、顔が真ん丸になってしまうことが悩み。天使に懐いている。


鳩場冠凛はとば かりん:二年一組のクラス委員長。静かな佇まいをしている。部活は運動部を転々とした後、現在は無所属。


田尾晴々(たび はるばる):二年一組のクラス副委員長。チャラい見た目で言動もチャラいため、誰からも信用されていない。性根は優しいが、見た目で損をしている。趣味は読書で、文芸部に所属している。


有飼葛真あるかい くすま:二年次の同級生の男子生徒。いつも眠そうな顔をしている。実際眠いらしい。ぼんやりしているようで、意思は強い方。行動力はあるが、やる気はない。


三々百目さざどめぽぽ:一年生の少女。身長が二メートル近くある。睡眠で身長が伸びると困るので、なるべく授業で居眠りしないように努めている。

 この学校には、悪魔がいた。


 それは、前生徒会長であった生徒についての噂話であり、現在の台典商業高校に、悪魔と呼ばれるような生徒はいない。むしろ、悪魔という名称の持つ、非道なイメージを考えれば、それは当たり前のことなのかもしれない。


 かつて、悪魔と呼ばれたその生徒は、自身の呼び名について無頓着であった。それは、彼自身が、誰かに対して関心の薄い方であったからで、そんな冷淡な対応に対して、生徒たちが構ってほしいと思ったことも、生徒会長としては蔑称に近いあだ名が定着した理由であろう。


 悪魔と呼ばれたその生徒は、淡白ながら配慮の行き届いた活動によって、彼の思う最低限の責務を果たした。そして、その地を離れた後も、彼の背は後進を導き、生徒会執行部の強い影響力を保つ要因の一つとなっている。


 そして、この学校には、天使がいる。


 それは、生徒たちの間で不安を忘れるために唱えられる噂話であり、実際にそう呼ばれている生徒自身は、単に自分が有名であるだけだと勘違いしてもいた。天使という崇高なイメージに対して、彼女がそれほどその呼称を喜ばないのは、彼女の理想が遥か高みにあるせいだろう。


 悪魔の背を追った彼女は、やがてその背を追い越すために、高く空を目指して我が道を行く決意を固めた。七つ転んで、一つ起きる。今はそうして進む時だと笑う彼女に、誰もが手を差し伸べ、そしていつのまにか、自分の方が助けられているのだった。


 そんな天使の背を追う、一人の生徒がいた。


 彼は、悪魔と呼ばれていた。


 それは間違いなく、憎悪や軽蔑や嘲りを込めた呼び名であった。


 彼の名前が、「あくま」と読めるからと言いだした誰かを、止める者は誰もおらず、彼自身もそう呼ばれることに深い諦念を覚えていた。


 非道で悪魔。そんな暴言を吐かれていた彼は、それでも誰かを信じたかった。それでも、何かを信じていたかった。


 彼にとって、その時最も尊敬していたのは、やがて彼の通う台典商業高校を卒業し、県内の有名大学に通っていた兄である。両親もまた、兄を溺愛し、そのように育ちなさいと強く息子に言い聞かせていた。


 彼は、その言葉を愚直に信じていた。なんて素晴らしい兄を持ったのだろうと。自分もそんな風に、誰かに信じられ、尊敬される人間になりたいと。


 しかし、彼の人生はある日を境に一変した。


 いつも通り、退屈な塾の帰り道だった。


 彼は、尊敬していた兄を、その光輝く偶像を、人生の先を足早に進む理想を、壊してしまった。子供らしいほんの少しの興味と、出来もしない偽善的な正義感と、奇しくも兄が葛藤していたほんの少しの衝動によって、彼は境界線を越えたのだ。


 偶然近くにあった、抱えるくらいの石での一振りだった。それだけで、錯乱した人間を昏倒させるには十分だった。


 兄がゆっくりと倒れる時間は、ひどく長く感じられた。ざらついた石の感触も、鈍い衝突の感覚も、肩越しに目が合った少女のことも、彼は今でも思い出せる。その一瞬が、彼の人生で唯一、この世界に色彩があることに感謝した時間だったから。


 病室で再会したとき、兄がうわごとのように、誰かの名前をつぶやいていたことが彼の頭には強く残っている。


 スーツを着た男たちが、時々やって来て、精神状態を確かめたり、質問したりしていた。聞いた話では、兄は情事のもつれによって精神不安定となり、恋人を殺した後で、見知らぬ誰かも傷つけながらさまよっていたのだという。


 理想としていた兄が壊れ、両親も次第におかしくなっていった。心的外傷後ストレス障害の互助会と名乗る団体に頻繁に出入りするようになり、家には余計なものが増えた。


 身内が犯罪を行ったことで、彼の蔑称に中身が入った。殺人鬼の弟だと敬遠され、次第に悪魔とすら呼ばれなくなった。


 しかし、不思議と彼の心は晴れやかだった。信じるものが、定まったからだ。


 理想だった兄は、壊してしまった。夢だった愛は、兄を狂わせた。誰かを信じることなんて、誰かを愛することなんて、なんと滑稽で、無意味で、無価値なことなのだろう。


 けれどそんな兄を、自分が壊してしまう前に、救おうとした誰かがいた。


(はな)……」


 兄は違う病院に移されても、ずっとその名を呼んでいた。それが、彼の愛した人の名であることは、疑いようも無かったが、それだけではないと、なぜだかそう思ったのだ。


 それはきっと、あの時兄に涙を流させた少女の名でもあるのだと。


「天使……ですか」


 それは、母を騙そうとしていた団体に取り入って、情報を集めていた時のことだ。台典市で自らの道に迷った人々の間で、天使のような少女の話が話題になっていた。一目見ればそうと分かる、台風のような元気ではつらつとした少女の話。誰も最近は見てないということだったが、よく話を聞けば、その体験談の示した時間の幅は、兄の事件とも重なっていた。


 かくして、彼はその噂を辿り、台典商高へとやってきた。きっとその天使に会えば、このつまらない人生が、あの日のように彩られるのだろうと、そう信じて。







 文化祭、二日目。


 生徒たちの登校よりも少し早く、生徒会執行部の四人は打ち合わせを終えていた。打ち合わせと言っても、ほとんどのことは事前に対策しているため、確認程度のものである。


「そういえば、愛ヶ崎(まながさき)さん」


「ん、どうしたの?」


 文化祭のしおりに注意事項を書き留めていた天使に、藍虎(あいとら)が声をかける。


()()()、親御さんにきちんと連絡しているのかい?」


「ああっとね……うちは、今年来るつもりはないって言ってたよ」


 昨年度、天使は実の母親に、文化祭があることを当日まで伝え忘れていたのだ。そういえばそんなこともあったなぁと思い返しながら、天使は一年分の成長に誇らしく思った。


「そう、なんだ。珍しいね。愛ヶ崎さんのお母様は、結構な子煩悩だと思っていたのだけれど」


「え~、どうだろ。放任主義ではあると思うけどね~。でもそういえば、連絡したときも残念そうにしてたっけ……」


 天使は手を止め、記憶をたどるように目線を宙に投げていたが、ふと思い出したように生徒会長たちの方を向く。


「あっ、そうだった! あ、あのワンコ先輩っ! 放課後、みんなで打ち上げしませんか?お母さんが、ぜひ皆さんでって言ってて……」


「あ~、ごめんだぞ。今年はクラスの打ち上げが決まってるんだな……というか、もっと早くに言ってくれれば、クラスの方を断れたのにな」


「すみません、愛ヶ崎さん。私も、部活動の方の打ち上げがありますので」


 三峰(みつみね)丸背(まるせ)がそろって申し訳なさそうに答える。


「えっと、(みどり)ちゃんは……?」


「ああ、私は大丈夫だけれど——」


 藍虎はそう返しながら、わずかに曇った天使の表情を捉えた。意図的なことではないにしろ、楽しみにしていたことが叶わなければ寂しくもなるだろう。とはいえ、当日に誘うのは君の悪い癖だと、藍虎は口には出さずに考える。


「まあ、みんなで打ち上げは、体育祭の後まで楽しみにとっておきますね。その時は麻貴奈(まきな)ちゃんも誘っちゃいましょう!」


 ——杞憂か。と藍虎は苦笑する。


「さすがに肩身が狭いんじゃないかな」


「え~、でも去年はワンコ先輩たちと打ち上げしたじゃないですか~」


「それは天使ちゃんが図太いからだぞ」


「ふふ」


 丸背がおかしそうに笑うと、天使が膨れ面で抗議する。


 藍虎はそんな小さな幸せを傍目で眺めながら、きっとこの文化祭を成功させようと、心に誓った。





 九時を知らせるサイレンが鳴り、体育館入り口の行列もゆっくりと収まっていく。昨年度の状況を鑑み、保護者を含めた一般席の数を増やしたことが功を奏して、初動は大きな混雑もなく、すべての来客者を着席させることに成功した。


 単純な動員数では、昨年度の比ではなく、かなり少ない。とはいえ、そのくらいが平常運転のはずであり、特に大きな目玉や集客要因があるわけでもない公立高校の文化祭としては、妥当な範囲の人数であった。


 サイレンが鳴り終わると、丸眼鏡の生徒が舞台前のマイクスタンドへと進んだ。いつもよりも背筋は伸びているが、癖なのかやや顔が前傾している。


「お待たせいたしました。これより、台典商業高校文化祭、二日目の開会宣言を行いたいと思います」


 来賓や外部の来客が多いからか、生徒たちの間に昨日ほどの活気はなく、緊張した空気が漂っている。開会宣言のためにやってきた、生徒会執行部の副会長は、反対に、緊張するでも気を抜くでもない、いつも通りの様子であった。


「ご来賓の皆様、保護者の皆様、本日はお忙しい中お越しいただき、誠にありがとうございます。また、本日はそれ以外にも、地域の皆様、卒業生の皆様、商業科の皆さんの広告活動を見てくださった方など、様々な方がお越しくださっています。生徒一同、生徒自身はもちろんのこと、皆さんを楽しませようと思い、努力し、それぞれ協調しあって本日を迎えました。なにとぞ、その成果のほどをご覧いただければと思います。

 それでは、ここに、台典商高文化祭、二日目の開催を宣言いたします。ええと、以上です」


 ぺこりとお辞儀をして、丸背は執行部の特設席へと戻った。大きな拍手が会場を満たし、演目は移っていく。



「——それでは、舞台発表に移ります。しおりは五ページをご覧ください。続きまして、一年生による、合唱コンクールです。この演目につきまして、生徒の皆さん、そしてご来場の皆様を対象に、発表後、投票を行います。ふるってご参加ください。合唱は、一組から行われます。では、一組のコメントを読み上げます———」


 藍虎が進行を進める横で、丸背が小さな声で三峰に耳打ちする。


「ほら、あのピアノの子です。前に話した」


「ああ、あの眼鏡の子だな。まぁ、ニャンコの推薦なら考えなくも無いぞ。確か、文芸部の後輩なんだったな」


「ええ。少しシンパシーを感じるというか、ワンコと会う前の私と似た雰囲気を感じるというか、そんな優しい気持ちになるのです」


「ニャンコはあんまり変わってないと思うけどな」





「あっ、二組だ。麻貴奈ちゃんのクラスですね」


「あのぽぽ? だったか、ピアノなんだな。やっぱりあのとき執行部に勧誘しとくんだったぞ」


「執行部ってピアノ弾けるのが条件なんです?」


「何となくピアノ弾ける人の方が頭良さそうだぞ」


「う~ん。碧ちゃんは弾ける?」


「私は、弾いたことないかな。ほら、運動部だったし」


「私も無いですね。ワンコは弾けるんですか?」


「まぁ、勘ってだけで、ピアノ弾けるからどうこうということは無いぞ」


「弾けないんですね……」





 そうこうしているうちに、八クラスの合唱が終わり、体育館内は一時的に休憩所となる。投票時間を兼ねた小休止の後、教室展示が開始となり、来場者のほとんどは展示の行われる教室棟へと移動していく。


 生徒会執行部の四人も、それぞれの準備へと散開する。閉会式が始まるまでのアナウンスは、パソコン研究会と放送部の協力の元、前もって録音された音声で行われる。



 ガラガラと扉を開けて、生徒会室に二人の生徒が来訪した。生徒会長は校内の監視を受け持っている生徒からの連絡を流し聞きしながら、来客者の方へと目線を向ける。


「ニャンコは劇の用意とか、もう済んでるのか?」


「ええ、行くのは直前で良いと言われているので、それまでは文芸部の展示にいるつもりですよ」


「そうか、じゃあ後で行くぞ」


 猫背の副会長は、連れてきた生徒を置いて生徒会室を後にしようとしたが、思い出したように振り返った。


「そうです。来るなら、遠野(とおの)さんも一緒に連れてきてください。一人だと、よく迷っているので」


「ん? ああ、分かったぞ」


 三峰が手を振ると、丸背も小さく振り返し、今度こそ生徒会室を後にした。


「あ……」


 遠野と呼ばれた丸眼鏡の生徒は、長く伸ばした髪をさらりと揺らしながら、数拍遅れてその声に振り返る。


「どうかしたのか?」


「あ、いえ……多分、後でも大丈夫な用事なので、はい。大丈夫かと……」


 三峰は、少し不思議そうな顔をしたが、すぐに切り替えて話し始めるのであった。





 その少し前、司会を終えた藍虎と共に、天使は二年一組の教室展示の場所へとやってきていた。先に来ていた生徒は、すでにメイド服やその意匠をわずかに残したスーツ、チャイナドレスなど、様々な服装に着替え終わっている。


「碧ちゃ~ん、後ろのジッパー上げてくれない?」


「はいはい、お嬢様。これで大丈夫かな」


「助かった~。って、碧ちゃんすごい似合ってる! かっこいいよ!」


 フリルの多いドレス仕立ての天使の衣装と対照的に、無駄の少ないバトラーのスーツに身を包んだ藍虎は、照れるように襟を直した。いつもは目元にかかっている前髪も、オールバックで固められ、その佇まいには一部の隙も無いように見える。


「お褒めにあずかり光栄の限りだよ。なんて、愛ヶ崎さんもかわ———似合ってるよ」


 藍虎はそう言うと、誰かを探すように廊下へと去っていった。天使が教室の時計を見ると、いつの間にか時間が過ぎ、もう教室展示が始まる時間となっていた。


「てんち~っ」


 天使が呼び声の方を向くと、パッチワークで作られた落ち着いた色のドレスを着た留木(とどこ)が走り寄ってきた。


「ぐげ」


 かと思うと、自らドレスの裾を踏んでしまい、転倒してしまう。ドレスとはいっても、華美な社交界というよりは、ハロウィンの子どものような印象だ。


「大丈夫、はむち?」


「うん、だいじょぶ。冠凛(かりん)ちゃんがね、てんちと一緒に留守番しててって」


鳩場(はとば)さんが?」


 天使がちょうどよく置かれていた椅子に、留木と座っていると、装飾が少なく、動きやすそうな形に作られたメイド服を着た鳩場がやってくる。ミニスカートというほどではないが、裾を踏む心配はなさそうだ。


「あら、ハムちゃん。ちゃんと愛ヶ崎さんのところに行けたのね」


「ねえ、鳩場さん。私たちは留守番なの?」


 天使がそう聞くと、鳩場は目を細めて面倒そうに答える。


「ええ。あなたがその服で動いたら、すぐに裾が破けたり染みを作ったりするでしょう? それはハムちゃんも一緒だけど。それに、あなたはここにいるのが一番いいって、結論だったから」


「むぅ……まあいいけどさ。昼休憩までなんでしょ?」


 天使はまだ教室にクラスメイトしかいないのをいいことに、だらしなく椅子から足を投げ出す。


「それまで大人しく出来ていたら、だけどね。まぁ、そんなに人は来ないでしょう。とにかく、ここはよろしくね」


 そう言って鳩場は颯爽と教室を去っていった。


 それからの三時間ほど、基本的に天使は退屈を持て余していた。教室内の展示はそれほど時間を取るものではないとはいえ、誰かが教室にやって来ても、ずっと自分が対応しなければならないわけでもなく、むしろ写真を撮ればそれで帰ってしまうからだ。


 やっぱり喫茶とは言わなくても、占いぐらいやってよかったのかな、と思いながら、留木と他愛のない会話をして天使は廊下を流れていく人波を眺めた。



「うわぁ! すごいですね、(ねい)先輩」


「なんで寧に聞くわけ? まぁ、すごいけどさ。これアンタは動けなくない?」


 しばらくして、監査委員の生徒たちが展示に訪れた。


「あはは、ちょっと頑張りすぎちゃって、着た時のこと考えてなかったんですよね~」


「気持ちは分かるけどさ……こっちのチビも可愛いの着てんじゃん」


「あっ、えっと……ありがとう! ございます……」


 楠根(くすね)に視線を向けられた留木は、縮こまって天使の腕に縋りついた。その理由は、彼女の視線の鋭さだけではなく、教室の電灯に照らされ彼女を追いつくすばかりの影を落とす生徒の存在もあった。


「おい、ぽぽ。写真撮れよ」


 楠根はスマホを三々百目に渡すと、メイド服を着た二人の間に入って肩を組んだ。


「はぁ、まあ構いませんが」


 三々百目(さざどめ)は不満そうにそう言うと、周りを軽く見てから後ろに下がり、片膝立ちでカメラを構える。


 シャッター音の後、楠根が写真を確認している間に、天使が尋ねる。


「ぽぽちゃんって、二人と仲良かったっけ? もしかして、監査委員に?」


「いえ、そんなつもりは……私は、(つぼみ)先輩をお守りしているだけなので」


「誰がこんなやつを監査委員にするんだって話だよ。蕾はどう思う?」


「ええっ!? 僕は三々百目さんなら信頼できると思いますが……」


「うんうん、ぽぽちゃんならできるよ!」


「ええと、ですから……」


 三々百目が困惑したように影間(かげま)と天使を見比べる。


「もういいから、次行くぞ。まだまだ見てない教室が多いからな」


 楠根は写真に満足したようで足早に教室を出ていった。


「それ、昨日寧先輩がゲームに熱中したせいですよね……」


 三々百目の小脇に抱えられた影間がため息をついた。


「それでは、失礼しました」


 三々百目は軽く礼をして、去っていった。


「二組のゲームってそんなに面白いのかな……」


 天使は隣のクラスから聞こえてくる楽しそうな笑い声に、飛び入りたい気分だったが、留守番という役目に悶々とするばかりだった。





 天使が、留守番は結構退屈だと思い始めたころ、また顔なじみの生徒がやってきた。天使にとっては生徒ならば大抵顔なじみではあるのだが、中でも特に苦い思い出と共に現れる人物だ。


「おいおい、天下の天使くんともあろうに、ガラガラじゃないか。まったく、期待外れもいいところだね。生徒たちにもみくちゃにされて、それでも全員を満足させようと奮闘してより美しく輝く君の、その無駄のない体から流れた汗のにおいを知りに来たというのに、こんな空調のきいた部屋で怠けているようじゃあ形無しというものだよまったく」


瑞本(みずもと)先輩、あ、もう先輩じゃないんですっけ。暇なんですか?」


 部から格下げとなった化学研究会の会長となった生徒、瑞本(りん)は、冷たくあしらってきた天使に対して肩をすくめる。


「おいおい、困るなあ。塩対応をするとき、人は汗をかいたりしないから、塩と言う割にナトリウムの匂いはしないわけだ。それと、部が会になっただけで、私は進級しているから、君の先輩であることに変わりは無いんだよ。もう少し先輩を敬いたまえ」


「てんち、この人、何?」


「んと、変な人」


 留木が不安そうに天使に尋ねると、天使は表情を変えずにそう返した。


「まったく、困ったものだね。君の友人——藍虎くんと言ったかね。彼女は私の一挙手一投足を見てくれているというのに。君ときたらこうだ。まぁ、そんなところが君らしいとも言えるけれどね」


「碧ちゃんと会ったんですか?」


「会ったも何も、執行部とは懇意にしているさ。良い意味でも悪い意味でもね。いや、会ったというなら、ここに来る途中ですれ違いはしたが、まあそれは良いだろう」


 天使は、瑞本の話を半分聞き流しながら、自分に留守番を任せて帰ってこない藍虎のことを思った。いったい、自分が見ていないところで彼女は、何をしているのだろうか。






 時は少し遡り、合唱コンクールの投票が終わり、教室展示が始まったころ、執行部や教師以外の立ち入りが禁止された特別棟の三階から、二人の生徒が昇降口を見下ろしていた。


「げ~、あれって全部あんたの知り合いなの、クマっち?」


「知り合い、というほどの方々ではありませんよ。彼らにとって、私の存在など替えが利くものであり、きっと数年すれば忘れてしまう程度の存在でしかない」


 二人が見下ろす階下では、一人二人と来訪者が増え、外部の来客向けのスリッパが徐々にその数を減らしていく。疲れたように一様に顔を落としたその来客たちは、ふらふらと教室棟の方へと歩みを進める。


「ふ~ん。ってか、もしかして、教室展示に行くなら早めの方が良いってこと?あれ、めちゃ混みになるくない?」


「ああ、それなら、昼休憩を越えれば彼らは次第にいなくなりますから、大丈夫ですよ」


「何それ? ゾンビ的な?」


 梶鳴(かじなり)はよろよろと目的地を目指す彼らを揶揄するようにそう笑う。氷堂(ひどう)はうっすらと張り付いた笑いを変えることなく、淡々と返答する。


「彼らには、牛時の音色が福音の終わりと伝えています。ですから、大抵の方は昼休憩の終わりのチャイムで帰られるかと。まぁ、単純に彼らが満足すればそこまでですが」


「あーね、おけおけ」


 梶鳴は興味なさげに階段を軽く降り、手すりに顔を乗せて氷堂に尋ねた。


「そこまでして、クマっちは何が欲しいの?」


 氷堂はうすら笑いを変えないまま、静かに瞳を細める。


「天使。そう呼ばれる先輩が、この学校にはいるそうです。ぜひともその方にお会いしたい。できれば、二人きりで……しかしながら、未だにその方が誰なのか、どんな方なのかすらも掴めないのです」


 寂しそうに、劇的な素振りでそう語る氷堂に、梶鳴は不思議そうに尋ねる。


「それって、執行部の愛ヶ崎って先輩のことでしょ? 会いに行ったらいいじゃん、普通に」


「ええ、それは私も考えましたとも。しかし、それを突き止めたとたん、彼女は生徒会室にも現れなくなりました。噂話は幾万と聞くことはできても、その姿すら、見ることが叶わない」


 なおも滑らかに言葉を紡ぐ氷堂に、梶鳴はゆっくりと近づき直し、伝えるべきか逡巡した後、首をかしげながらつぶやく。


「その先輩さ、昨日、開会宣言してたと思うんだけど……?」


「……本当ですか?」


 氷堂は唖然とした様子で顎に手を当てて考え込み始める。集中するように視線を落とし、歩き回ると、やがて大きな深呼吸を一つした。


「……なるほど、そういうことですか。結論から言いますと、私はその時、欠席していたのです。ちょうど、彼らへの連絡のために午前は休んでいたのですが、どうにも、運が悪いらしい……そうだ。合唱のリハーサルの時はどうでしたか。その先輩はおられたのでしょうか」


「あー、確かいなかったっけ。もしかして、避けられてる?」


「避けられている、というレベルの物ではありませんね。意図的に、私が彼女と接触しないようにされているとしか思えない」


「クマっち、なんかしたの? って、今してるのか」


「心当たりならば数えきれないほど。とはいえ、それだけでどうにかできるはずもないとは思うのですが……」


「でも、そんなに会いたいなら体育館で待ってたら絶対来るでしょ。執行部ってのは分かってるんだし、閉会式までには来るっしょ」


「それも、確かではありません。一度、昇降口で同じことを試したのですが、そうした生徒は来なかった」


「見落としとかじゃなく?」


「もちろんですとも。確かに下駄箱を、見張っていたのですが、その愛ヶ崎氏はその日に限って、私よりも早く来ていた」


「ちゃんと靴箱の中まで見ないからじゃん」


「見ましたとも。その日は台風のような人だかりで、真ん中の何某は確認できず、見張るたびにそうなのです」


 梶鳴は耐えきれないといった風に噴き出して笑った。


「なにそれ、面白すぎるでしょ。っていうか、それで今回はどうやって会おうとしてるわけ? こんなに人を集めてさ」


 氷堂は一瞬だけ、階下の人だかりを冷たく見下ろし、すぐに口角を高く上げる。


「彼らには二年一組の教室展示を埋め尽くしてもらうのです。そうすれば、必然彼女は逃げられず、彼らの行く先に天使はいるのだから、見つけるのも容易というわけです」


「最初からいないって可能性は?」


「二年一組の展示では、彼女は目玉、いえ、心臓というべき存在。彼女がいないということはあり得ませんとも」


「ふーん、あやし~」


 氷堂は、梶鳴のあざ笑うような態度が気に入らなかったように、顔をしかめると、すたすたと特別棟の廊下を進む。


「そこまで言うのなら、テトラもこの目で確かめるといいでしょう。私の作戦が、いかに完璧に遂行されるのかを、ね」


 やや呆れるように、梶鳴は教室棟の方へと進む氷堂の後を追った。





 教室展示が本格的に開始したころ、天使を教室に置いてきた藍虎は、単身教室棟の階段を上っていた。踊り場の階段からは、正門の段差を上る来客の姿が見える。その数は、決して多くないが、絶え間なくその歩を進めている。一時間もすればそれなりの数になるだろう。それがもし、一つの展示に集まったとしたら。


 藍虎は窓の外に向けていた視線を切って、教室棟の三階へと進んだ。


「藍虎~、この看板はどこに置くんだっけ?」


「それなら、一階の踊り場に立てかけておいてくれたらいいよ。できれば、昇降口から見やすいところに」


「おっけ~」


 すれ違ったクラスメイトは、事前に教室に準備していた看板を抱えて階段を下りていった。


「そろそろ始まる、のかな」


 スーツの襟を正した藍虎が廊下に出ると、教室棟三階の各教室から準備を終えたクラスメイト達が集まってくる。


「準備はできているけれど、本当に人は来るんでしょうね?」


「多分ね。それに、鳩場さんは人がたくさん来た方が、やりがいがあって好みだろう? 目指すは一番ってね」


「……馬鹿にしてるのかしら。別に、集客にも完成度にも興味はないわよ。あなたが面白いというものに、少しだけ興味があっただけ」


 藍虎が返事の代わりに軽くほほ笑むと、階下から足音が近づいてくる。ゆっくりとした足取りだが、確かに他のクラスの展示が行われている二階ではなく、三階を目指している足音の様だった。


「それじゃあ、接客開始、ってところかな」





 教室展示が始まってしばらくして、特別棟から教室棟へやってきた氷堂と梶鳴は、教室棟の人混みを観察していた。


「うわぁ、マジで入れなくない?」


「それが目的ですからね」


「でもさぁ、クマっちが入れないんじゃあ、どうすんのさ」


 氷堂は教室棟の階段を傍観できる場所で、壁に体を預けた。


「肝要なのは、焦らないこと、ですよ。ふふ」


 それから一時間ほどが経ち、氷堂はようやく混雑が収まってきた階段の方へと進む。


「もういいでしょう。行きますよ、テトラ」


「ようやくかぁ。てか、アタシも行って良いわけ?」


「ええ、ぜひあなたには私の計画が完遂されるところを見ていただきたい」


「あいあい」


 二人は軽口を叩きながら、教室棟の二階と三階を繋ぐ階段を上る。踊り場に立てかけられた看板を見て、梶鳴がつぶやく。


「三階で展示って珍しいよね。普通の教室展示なんでしょ?」


「そうなのですか? あまり文化祭というものには詳しくないもので、存じ上げませんでした。確かに、他のクラスは二階のようでしたね」


「だってさ、普通自分のクラスでやるっしょ。しかも、撮影スポットってさ、廊下でもいいくらいじゃない?」


「それは、まぁそう言われればそんな気もしてきますが、それはきっと天使の力なのですよ」


「う~ん、まあ、行けば分かるか……?」


 梶鳴と氷堂が三階に辿りつくと、廊下は未ださまよい歩く人で混雑していた。


「ねえ、それで先輩はどこにいるわけ?」


 梶鳴が廊下を見回した後、氷堂に尋ねようとすると、氷堂は顔を俯かせてしまっていた。


「……なるほど」


「どしたん?」


「先ほどのあなたの提言、どうやら正鵠を射ていたようです」


「えっと、つまり?」


「先ほど話したように、やはり、何者かに私の計画は先読みされているようです。こうして、教室が複数あれば、彼らの動向を追っても仕方ないどころか、私がどこにいるのかが鮮明になってしまうのです」


「あ~、よく分かんないけど失敗したってこと?まぁ、とりあえず行ってみようぜ~」


 氷堂は、注意深く周りを見ながら、手近な教室に入った。


「なるほど」


 氷堂は教室内の様子を見て、そう言いながら肩を落とした。


 教室の黒板には、顔の抜かれた大きな看板が設置されている。その周りに、先ほどまで虚ろな目をしていた人々が、のんびりと椅子に座って歓談しているようだった。


「何ここ、休憩室? って、顔出し看板じゃん」


「あの看板がおそらく、天使の噂を逆手にとったパワースポットのようなものとして作られたのでしょう」


「でも、顔無いけど」


「信仰の対象としてあるものは、必ずしも鮮明で、完璧である必要はないのですよ。完璧でない方が、想像や忠誠を試す器になることができますからね。ようするに、一杯食わされたようです」


「諦めちゃうわけ?」


 梶鳴が煽るようにそう言うと、氷堂は一瞬、冷たい目を教室で談笑する人々に向けた後、すぐにいつも通りの笑顔に戻って教室を出た。


「まぁ、時間はありますとも。次善策もありますからね」


「ふぅん、それってもう始まるやつ?」


「いえ、連絡が来次第ですかね」


 梶鳴は数歩氷堂の前を駆けてから振り向いて笑う。


「じゃあさ、ちょっと外の展示見てかない?屋台、結構盛況みたいだし」


 氷堂は、虚を突かれたように一瞬立ち止まる。


「……構いませんよ。少しだけ、ですがね」


「よっしゃ~、じゃあ決まりね」


 ほんの少しだけ口角を上げて、困ったように笑いながら、氷堂は梶鳴と共に予定にない一歩を踏み出していったのであった。






 チャイムが鳴って、昼休みが始まると、一組の教室に藍虎が戻ってきた。屋台で販売されていた、焼きそばやクレープなどの食べ物を袋に提げている。


「碧ちゃん、買ってきてくれたの?」


「ああ、教室の当番、昼休みで交代の約束だっただろう? 劇の方に行く前に、腹ごしらえしておきたいんじゃないかと思ってさ」


「全然、今から爆速で行くつもりだったけど、うん、ありがと!」


 横で目をキラキラと輝かせる留木と分け合いながら、天使は空腹というほどではない食欲を満たした。よくスイーツは別腹という言葉を聞くが、学園祭の食べ物はほとんど別腹だ。


「じゃあ、行ってくるね。碧ちゃんもすぐ来るんだよね?」


「ああ、当番を変わってもらったらすぐにね」


「分かった、また後でね」


 天使は素早くメイド服を脱ぎ、ジャージを羽織ると教室を後にした。


 天使が体育館に着いたとき、限界まで用意された来客用の席はまばらに埋まっていた。自分の席に戻っても良かったが、せっかくならと最前の三年生の席へと進む。ちょうど準備の途中だった丸背と出会い、席を教えてもらった。


 席で少しぼんやりとしていると、幕の上がるサイレンのような音で我に返される。


 そうして、天使はゆったりとした気持ちで劇を鑑賞した。


 昨年ほどの気分の高揚は無い。むしろ、来年は自分がするものだという気持ちで、真剣だった。とはいえ、役者の生徒たちは素人ではあるものの、かなり楽しめる内容の発表をしていると天使は感じた。


 一組目の内容は、平たく言えばよくある、多様な設定をごちゃまぜにしたドタバタ活劇だった。見覚えのある丸眼鏡の先輩が、舞台袖から現れたのを見て、天使は固唾を飲み込む。


 町娘の役で現れた丸背は、淡々と一本調子のセリフ回しだった。天使は、真剣な表情で棒読みの演技をする丸背を笑っていいものかと、口をすぼめて我慢していたが、待機していた他のクラスの生徒が噴き出したのを聞いて、我慢できずにクスリと笑ってしまった。


 丸背は真剣なシーンであったために、少しだけ驚いた表情でちらりと客席の方を見たが、すぐに元の演技に戻った。


 町娘は狂暴な怪物の侵略を受け、合成音声のような断末魔で舞台袖に引きずられていった。天使は、だんだんとその演技がツボに入ってしまい、声に出さないように笑った。


 これは後でニャンコ先輩をいっぱい褒めないとな、と思いながら、間延びしているような端折りすぎているような物語を眺めていると、ようやく終盤かというところで、巨大兵器に改造された町娘がリバイバルする。


 これは笑っていいんだよなと天使が口元を押さえると、おそらくマイクが入っていないのだろう、大きな衣装の中から、くぐもった声が聞こえてきた。横で控えていた悪者役の演者が、段ボールで作られた兵器の側面を叩くと、その音ががらんどうに反響する音が響き、また笑いを誘う。その音で、中にいる丸背も気が付いたのか、今度こそきちんとセリフが聞こえてきた。


 なんやかんやあり兵器は倒され、物語はエンドロールに入っていく。よちよちと進む兵器の外装の中で、同じように丸背が歩いているのかと思うと、天使は思わず微笑ましく感じた。


 最初の舞台発表が終わり、舞台脇から発表を終えた生徒たちが戻ってきた。


「おや、愛ヶ崎さん。どうでしたか、私たちの演劇は」


 そんな風に、おそらく衣装の中の狭い空間が暑かったのだろう、汗だくの丸背が尋ねてくるので、天使は思わず笑いながら答える。


「最高でしたよ」


 丸背を膝の上に乗せて、続く演劇も鑑賞する。三峰の所属している三四組合同の劇は、まっすぐな青春ラブストーリーの様だった。いったいどんな役で先輩が出てくるんだ、とドキドキしながら主役の生徒たちの甘酸っぱい演技を眺める。


 しかし、二人の恋が見事に実り、地球に落下してきていた隕石をはじき返しても、三峰はついに登場しなかった。


「そういえば、ワンコは劇には出ないそうですよ。ほら、あそこ」


 淡々と言う丸背の指す先を見ると、体育館二階のスポットライトがある通路から、三峰が帰っていくところだった。


「えっと……裏方だったんですか?」


 戻ってきた三峰にそう尋ねる。


「そりゃそうだろ。忙しいんだから、セリフなんて覚えてる暇無いぞ」


「私も、あの装甲の中では台本を読んでよかったですからね」


 当然のように言い放った先輩二人に、天使はがっくりと肩を落とした。


 そんなこんなで、舞台発表は幕を下ろしていくのであった。





「え~、みんな、文化祭楽しんだか~!」


 ジャージ姿の生徒会長が聞くと、開会宣言の時とは打って変わり、劇や展示の関係で様々な扮装をした生徒たちが楽しそうに声を上げた。


「それは良かったぞ。これといって大きな問題もなく、こうして閉会宣言ができるのも、ひとえにみんなが誰かを楽しませ、喜ばせようとひたむきだったからだと思う。みんなのそうした思い、そしてこれまでの努力に敬意を表しつつ、一年生の協調の結晶だな、合唱コンクールの投票結果を発表していくぞ——」


 そうして、水面下で様々な問題が流れていった文化祭は、終幕を迎えたのであった。





 それから、天使は商業科の一年生と、有志の運動部の生徒やその場に残っていた生徒たちと共に、体育館の片づけに移った。祭りの後という雰囲気がどこかしみじみと心にしみ込んでいき、天使は悲しさや寂しさ以上に、来年への期待を押さえることが大変だった。


 その頃、二年一組の教室ではすでに片付けが終わり、打ち上げの相談がされていた。


「いや~、まじで大変だったなぁ」


「あれ、男子って今日何かしていたの? てっきり廊下でおしゃべりしているだけかと思っていたのだけれど」


田尾(たび)はなんもしてないけど、俺たちはけっこう誘導頑張ったよ。なんか思ったより生徒の相手する機会無くて残念だったけどさ」


「いや、俺もしてたっつーの! そりゃあ、メイド服着て中で応対してたお前らに比べたら楽ではあったかもしれないけどさ~」


 クラスメイト達の苦労話に目を瞬かせながら困惑した留木が、有飼(あるかい)の制服の袖をつまんで尋ねる。


「えと、みんな何の話してるんだ?」


「……ああ、そっか。留木さんは、ここの担当だったんだよね。俺たちは上の階でいくつか教室を借りて展示してたんだよ」


「そ、そんなに展示してたのか?」


「まぁね。上の階の教室の先輩たちにお願いして、物を置かせてもらったりしてさ。よく分からないけど、結構盛況? というかなんというかって感じで——」


「まあ、その話は後でもいいでしょう。とりあえず、駅前の辺りで良いのよね」


 留木に説明をする有飼の言葉を遮るように鳩場が言うと、一定数のクラスメイトが頷いた。


「うん、大丈夫だと思うよ。田尾も来るの?」


「俺が幹事だっつーの! なぁ、藍虎も来るよな。よっ、功労者っ!」


 田尾は軽口を飛ばしながら、静かに荷物をまとめていた藍虎の背に声をかけた。


「ああ、いやすまない。実は執行部で反省会というか、慰労会というか、()()()()()()()()()。行けそうにないよ」


「お、マジか。じゃー愛ヶ崎もか~。ま、とりあえず行こーぜ! 楽しくやってたら、みんな集まってくるかもだし」


「あはは、そうだね。楽しんで」


「天岩戸には田尾が入ってね。俺たちは宴をするから」


「秒速で開けるっつーの」


 ワイワイと話しながら、クラスメイト達が教室を去っていく様子を見送って、藍虎は残りの荷物を整理してかばんに詰めた。


 深呼吸を一つ。


 ついでに、教室に置きっぱなしにされた天使のかばんも整理しておく。朝の段階で生徒会室の荷物は持ってきていたから、荷物はこれで全部だろう。一目で分かるように整理してチャックを閉める。


「よし、いい時間かな」


 二人分のかばんを持って、教室を出る。電気を消して鍵を閉めていると、ちょうど天使が帰ってきた。


「あれ、もしかして、もう閉めちゃった?」


「いや、かばんは持ってるよ」


 藍虎はそう言って天使に鞄を渡す。チャックを開けるだけで、全ての荷物が入っていることが分かるはずだと目線だけ追わせると、天使は両手いっぱいに屋台の余りだろうか、焼きそばやカステラのような小包を抱えていた。


 ああ、そうか。その可能性があったか。


「やっぱりかばん入らないか~。碧ちゃん、半分持ってくれない?」


「もちろん」


 教室の鍵を小指にかけて、藍虎は包みをいくつか受け取る。


「これ、どうしたんだい?」


「えっとね、片付けが終わった後、商業科の人がくれたんだよ。偶然すれ違ってさ」


 そんな偶然は無いだろう、と言い切れないのが彼女の恐ろしいところだ。


「それは……すごいね」


 何かうまい言葉をかけたかったが、それ以上頭も回らない。偶然に何か頭を使っても仕方がない。


「ところでさ、みんなはもう帰っちゃったのかな」


 職員室に鍵を返し、昇降口に向かっていると、天使が不意にそう聞いてきた。みんな、というのはクラスの人たちのことだろう。


「ああ、一組は片付けるものも少なかったからね。()()()()()()()()()


「そっか、残念。みんなで分けようかと思ってたのにな~」


 天使はそう言いながら、包みからベビーカステラを口に放り込んだ。


「って、これは家に帰ってからだった。今日は碧ちゃんと打ち上げするんだもんね」


「そうだったね、場所は決めているのかい?そういえば、詳しくは聞かなかったけれど」


 そもそもが、今朝に伝えられたことなのだ。先に予約しているのだろうと勝手に思っていたが、よく考えれば断られる可能性もあるのに店を予約するわけもないだろう。まぁ、彼女ならするかもしれないが、何かもう一つ見落としがあるような気がしている。彼女はなぜ、打ち上げなんて言い出したのだったか。


 下駄箱から運動靴を取り出しながら、天使は何気ない様子で答える。


「ああ、場所はね、私の家だよ。お母さんが、準備してくれてるらしいんだ~。先輩に断られたときはドキッとしたよ~。お母さん楽しみにしてたし、がっかりさせたら私もなんか嫌だし」


 藍虎は思わず靴を履く手を止める。思考がうまく回らず、とりあえず靴を履ききって軽く首を回してみる。急な話だったせいで、うまく話の最後は入ってこなかった。


 ええと、何だったか。私の家? それは、天使ちゃんの家ってことかな。そんな訳はないか。だって、打ち上げだよ? 大抵は大人数が入れて好きな物、特に大皿で分けられるものを頼めるファミレスなんかが候補に挙がって……いや、別に二人なのだから、大皿の必要はないのか。そうだよ……二人なのか……二人⁉ 二人っきりで打ち上げってことか⁉ なんだか流れで乗ってしまったけれど、これはとんでもない事態ではないか!


 藍虎が高速で思考を回していると、気が付けば生徒玄関を抜けていた。良かった、まだ思考は冷静だ。時間の進みはまだ遅い。


 二人っきりだと思ったが、そんなことはないのだから。そう、ほかならぬ愛ヶ崎さんのお母さんが用意してくださっているのだから……そう、お母さんが…………天使ちゃんのお母様がっ⁉ 早い早い! 展開が早い! まだそんなタイミングではないって!


 いつも通りのマイペースで天使は正門前の階段を下りていく。藍虎は荒くなっていく呼吸が彼女に気づかれないようにと、意識して鼻から空気を吸いながら、慎重に段を降りる。


 夜更け泥む空は、これから始まる試練を予感させるように、夕焼け色を飲み込まんばかりに広がっている。夕日に照らされていた天使の体が、すっと影に入り、薄暗い正門の前で彼女はこちらを振り向いて笑った。


「どうしたの、碧ちゃん。早く行こ? 私、話したい事たっくさんあるんだよね~」


 蟲毒すら中和してしまいそうな純朴で尊い輝きを放つ彼女の笑みは、簡単に理性など吹き飛ばしてしまいそうな魅力をたたえている。


「そうだね……私も、だよ」


 かろうじて、そう絞り出して夕闇に一歩踏み出す。六月にしてはやけに涼しく感じる風が頬を撫でて、私は目を細める。


 大丈夫、上手くやれるさ。今日だってそうだったように。


 藍虎は天使に追いついて歩調を合わせた。交差点を行き交う車の残光すらも、今は眩しいほどであった。



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