第三十八話 誰も救わない悪魔の話 前編
・主な登場人物
愛ヶ崎天使:この物語の主人公。天使ちゃん。現在生徒会執行部副会長。
藍虎碧:現在生徒会執行部書記の女子生徒。クールに見られがち。
針瀬福良:一年二組のクラス副委員長だった。今は二年二組の委員長であり、名実ともに委員長。
丸背南子:ニャンコ先輩。生徒会三年の副会長。猫背で丸眼鏡の落ち着いた少女。誰に対しても敬語で話す。
光峰壱子:ワンコ先輩。三年の生徒会長。低い身長と元気で独特な口調が犬っぽい女子生徒。
鳩場冠凛:二年一組のクラス委員長になった少女。静かな佇まいをしている。
この学校には、天使がいる。
その噂はすでに、生徒会執行部副会長である、愛ヶ崎天使の噂として誰もが認識している一方で、その誰もが、実際の彼女と噂の内実を結びつけようとはしていなかった。
それは天使のペルソナを、その存在証明をするために、誰もが踏み越えようとはしない境界線であり、常識や良識なんていう気遣いよりも潜在的に、無意識的に彼女が人々に呼び起こさせる庇護欲のようなものだ。
そんな均衡は、しかし、簡単に崩れてしまうものでもある。
例えば、悪意やそれに気が付かない善良な迷い人たちの正義によって。
そして、その混沌は、往々にして、悪魔の手招きによって導かれるのである。
「あ、あ~。聞こえてますか~?」
その少女は、期待に満ちた生徒たちの目に迎えられ登壇した。自信気に開かれた彼女の瞳が、フロアを一瞥すると、その視線を受け取ろうと、生徒たちも彼女を見つめた。
少女の問いかけに、どこかのクラスで元気な男子生徒が「聞こえてるよ~!」と返事をし、そのクラスの委員長があきれ顔で苦笑いを浮かべる。
「あはは、良かった~。それじゃあ、開会宣言を行いたいと思います。って、そうだ……コホン、ご紹介にあずかりました。生徒会執行部副会長を務めております、二年一組の愛ヶ崎天使です。よろしくお願いしますっ!」
天使が軽くお辞儀をすると、体育館内が勢いの良い拍手に包まれる。とても生徒だけとは思えない拍手の熱量に、壁にもたれかかってうたた寝をしていた教師も、目を覚ます。
「皆さん、ありがとうございます。これまでの期間、それぞれのクラスが一所懸命に準備を進めてきたと思います。えと、この二日間、皆さんがそれぞれの最大限を尽くせるようにお祈りを……」
天使が長い口上を述べていると、生徒たちの席から「お堅いぞ~」と笑い声が飛んでくる。
「愛ヶ崎さん、そろそろ」と書記が進行の合図を出す。
「おっとと、ごめんごめん。それじゃあ、ボクもみんなの……じゃなくて、えー、私も皆さんの成功をお祈りして、開会宣言とさせていただきたいと思います。それじゃあ、二日間、頑張っていきましょう!」
そう言い残して、天使は舞台から去っていった。
「——ふぅ、疲れちゃった。えっと、次は何だっけ?」
「次は、ステージ発表だから、愛ヶ崎さんは座っているだけで大丈夫だよ」
「そっか、良かった」
天使は、ほっと一息をつくと、執行部の特別席の下に置いていた飲み物を口にした。
「見るだけとは言っても、毎年何かしら問題が起きてはいるから、あんまり気を抜かない方がいいぞ」
と生徒会長が軽く笑いながら椅子に背をもたれさせた。
「野球部の漫才、今年は面白いぞ。大会負けたのか?」
「去年と同じ生徒みたいですから、歴があるということではないでしょうか」と藍虎。
「今年は部員もあまり入らなかったみたいだしな。人がいなかったのかもだぞ」
「どちらにしても、面白い方がいいですよ」
と天使は声を立てずに軽く笑った。
「ワンコ、ダンス部の音源、聞いたことあります?」
「それ、リハの時も聞かなかったか? ほら、なんとかって言うどっかの国の曲だぞ」
「ああ、そうでした。リハのときも、そう言われて結局分からなかったんですよ」
「そうだったぞ。で、結局何の曲なんだ?」
「たまに商店街でも流れてますよね。流行りの曲だと思いますよ。多分、KPOP?の」
「いや、邦楽だよ。それもだいぶ古いやつ」
「あり? ほんとに?」
藍虎が小声で進行表をめくりながら教えると、天使は表情で驚きを伝える。
「商店街の放送は、だいぶ前のCDを使ってるし、うん、申請された曲もディスコの曲だから」
「そうなんだ……」
「軽音楽部は、去年の件で出場停止になっていたりしないんですか?」
一日目午前の発表は、軽音楽部の演奏で最後になるが、昨年度、客席へダイブしようとした生徒がいた関係で、出場が危ぶまれていた。
「まぁ、さすがに停止処置はやりすぎだろうしなぁ……でも、変な事したらもっと部費減らすとは言ってあるぞ」
「なんだかんだ、生徒人気はありますからね。ところで、愛ヶ崎さんは、どちらに?」
猫背の副会長が聞くと、司会の区切りを迎えて飲み物を口にしていた藍虎も心当たりがなさそうに首を振る。
「お手洗い、ではないんですかね」
ゆっくりと幕が開き、軽音楽部のステージが始まる。
「天使ちゃんに捧ぐぅぅぅぅ! 聞いてくれ、俺たちからの讃美歌ァ……」
ロックを意識しているのかポエトリーにしたいのか分からない躁鬱じみた緩急に、どこか不安を煽られる。
「リハーサル通りのようで、安心しました」
「それは、最後まで分からないけどな」三峰が不敵な笑みを浮かべる。
ギターをぶら下げた男子生徒が、頭を振り回しながらソロパートに入る。観客もボルテージが上がり、生徒たちの声援があちこちから聞こえる。
「……そういえば、リハの時は四人ではなかったですか?」
丸背がつぶやくと、三峰も目を凝らす。
「ああ……そういえば、キーボードなんていたっけか」
「止めますか?」
「いや、そこまでではないけどもな……」
真面目に振り向いた藍虎に、三峰は苦笑する。
「みんなぁぁぁ、聞いてくれてセンキューだぜ! 俺のリビドーはもう、爆発寸前だぁ!」
ボーカルの男が、ギターを抱えたまま反り返る。
「あれ、大丈夫ですか」
「危なくなったら止めるぞ」
ボーカルがギターをかき鳴らしながら上体を起こし、何かを叫ぼうとした時、キーボードの女子生徒がマイクを奪い取った。
「え~、実は、今日はうちのバンドにゲストが来てまーす!」
「な、なんだそれは……聞いてないぞ! 大体、俺のギターに合うのはお前らだけ、で……」
ボーカルの男子生徒が困惑したように舞台袖を見て、言葉を失った。
「え~っと、オンキーボード! 天使~!!」
「いえ~いっ!」
天使は舞台袖から楽しそうに現れると、キーボードの上に置かれたイヤホンを片方だけ付けた。
「……あの」
「……皆まで言うな、だぞ」
藍虎が呆れたように生徒会長に尋ねると、三峰は声を殺して笑いながら、そう返した。
「うおおおおおおっ!!」
ギターボーカルの男子生徒が興奮したように、丁寧に練習されたリフを弾き鳴らす。
「それじゃあ、最後の曲っ———」
天使が音頭を取ると、軽音楽部の最後の演奏が始まった。
「……えと、すみませんでした」
「そう思うなら、最初から私にだけでも伝えておいてほしかったかな」
午前の演目が終わると、生徒たちはそれぞれの準備のために体育館を後にする。
一年生の合唱のリハーサルを控えた昼休憩の時間、天使はモスグリーンのシートの上で正座し、執行部の仲間たちに頭を下げていた。
「生徒たちは楽しんでたみたいだし、良かったとは思うぞ、演奏は」
「私は別に、悪いことだとは思いませんが、申請はきちんとするべきだとは思いますよ」
「うう……ごめんなさい。人を驚かすなら味方からかなと……」
「はぁ……執行部なのだから、その辺りのルールはきっちり守って規律を示さないと……まぁ、そういう破天荒なところが愛ヶ崎さんらしくはあるけれど……いや、でもせめて……」
藍虎は怒るのも馬鹿馬鹿しいと頭を抱えながら、天使を諭した。
昼休憩が終わると、一年生の各クラスが合唱コンクールのリハーサルのために入ってくる。執行部はそれと並行して行われる三年生の舞台発表の資材搬入を手伝いながら、各クラスに問題がないか確認を行うことになる。
「ああ、そうだ。愛ヶ崎さんは、クラス展示の方に行って。こっちは三人で大丈夫だから」
「え、いいの?」
「うん。先輩にはもう許可をもらってるし、ほら、天使ちゃんが行かないと、ウチのクラスだけじゃなくて、執行部にもブーイングが来るかもしれないから」
天使はそう言われ、文化祭の前にメイド服で校内を歩き回ってしまったことを後悔した。そのせいで、天使がメイド服を着て展示をするという噂がだんだんと尾ひれを大きくしながら広がってしまったのだ。
「……重ね重ね申し訳ない」
「いやいや、こっちは本当に大丈夫だから。愛ヶ崎さんが気に病むことは無いよ」
「そうだぞ。私たちが行く時まで、笑顔で接客するんだぞ」
「喫茶ではないはずでは? ともかく、ええ、私も見に行きたいと思っていますから、先に行ってもらえればと」
優しい言葉に後押しされ、天使は一年生が来る前に体育館を後にした。
「似合ってるじゃない。さすがは天使ちゃん、ね」
「もうやめてよ委員長~」
まだあまり人の入りのない一組の教室で、針瀬にそう褒められた天使は、照れたようにはにかむ。
「委員長って……まぁ、今は一応二組の委員長だから、間違っては無いけどさ」
「二組は、ゲームの出し物なんだっけ?」
「そうだよ。今はまだ捌けてるほうだけど、明日はどうなるだろうね……ちょっと人の流れが良くないから、もしかしたら混んじゃうかも」
「そうなったら、私たちのクラスに来てもらえばいいから大丈夫よ。廊下を埋め尽くすなんてことにはならないわ」
二人の会話に、嫌々という顔のわりにメイド服をそつなく着こなした鳩場が口を挟む。
「ああ、鳩場さん……やっぱり、スタイルがいいと似合うのな……」
針瀬が、鳩場の腰元を見て、悩むように頭をひねる。
「あまり卑屈になることないと思うわ。別に、一組だって全員がモデルみたいなスタイルをしているというわけではないもの」
針瀬は、そこは太っていないとフォローしてほしかったと思いつつ、彼女の示した方を向いた。
「ああ、なるほどね。それぞれに合わせて、装飾が違うんだ」
よく見てみると、身長の高低や、ウエストの細さなどに合わせて古今東西様々なスタイルの混じった衣装となっているようだった。
「別に、示し合わせたわけじゃないのだけどね。自分が着ないといけないってなったら、ある程度はマシなものにしたくなるでしょう?」
鳩場はうっすらと口角を上げた。
「でも、これだけクオリティが高いなら、明日はたくさん人が来てくれそうだね」
「ええ、そうね。そうなったら、あなたも着てくれていいのよ。誰だか知らないけれど、匿名でメイド服を貸してくれた人がいたから、予備は結構あるの」
「えっ!? 委員長、手伝ってくれるの?」
「あはは……そうなったら、うちはうちのクラスの対応で手いっぱいだよ」
針瀬はそう苦笑すると、いよいよ契約でも交わされる前にそそくさと教室を後にした。
その後も基本的には長居のない一組の教室にはそれほど多くの生徒は訪れず、緩やかな人波であった。
やがて終業のベルが鳴り、生徒たちは安堵の息をつきながら、それぞれの制服に着替えた。簡単な終礼を済ませると、特に準備物も無い一組はすぐに解散となったのであった。
それから、学校内では来る二日目の準備のために、あちこちで追い込み作業が行われていた。
そんな校舎の一角で、二人の生徒がひっそりと話している。
「そんなわけで、遠野さん。伝言をお願いしますね」
丸眼鏡の少女は、そう言われて曖昧に返事をする。
「ええ、はい。それを、南子先輩に伝えればいいのでしたよね……」
ゆっくりと、カタツムリが這うように遠野はそう言った。
「そうですね。それでは、明日、お願いしますね。僕はこれで失礼します」
つやつやとした髪をなびかせた男子生徒は、軽い足取りで特別棟の階段を下りていく。
「これで、計画の準備は万端です……ようやく、天使に出会える!」
男子生徒はこらえ切れないといったように、愉快に笑い声をあげた。
昇降口は夕焼けの橙に染められている。彼の背に伸びた長い影をさえぎるものは、何もなかった。