第三十七話 巨大少女は入らない
・主な登場人物
三々百目ぽぽ:一年生の少女。身長が二メートル近くある。睡眠で身長が伸びると困るので、なるべく授業で居眠りしないように努めている。
愛ヶ崎天使:この物語の主人公。天使ちゃん。現在生徒会執行部副会長。
丸背南子:ニャンコ先輩。生徒会三年の副会長。猫背で丸眼鏡の落ち着いた少女。誰に対しても敬語で話す。
三峰壱子:ワンコ先輩。三年の生徒会長。低い身長と元気で独特な口調が犬っぽい女子生徒。
楠根寧:監査委員長の女子生徒。人を舐めたような態度を取る。後輩には基本的に当たりが強い。
影間蕾:監査委員会副会長の生徒。かわいらしい見た目をしている。
氷堂空間:一年生。委員会には所属していない。成績優秀でクラスメイトからの信頼も厚い。嫌いなものは運で左右されること全般。
梶鳴テトラ:明るい橙の髪をした一年生の少女。元陸上競技部の健脚を活かして、生活指導から逃げ回っている。
この学校には、怪物がいる。
それは、台典商高の一年生の間で噂され始め、実際にそれを見たという運動部によって広まった噂話である。
曰く、その身長は三メートルを超える巨人であり、黒い影が全身を覆っている。
曰く、その動きは俊敏で、一度見つかれば逃げられない。
その噂はすでに、グラウンドを見る怪物の噂として、学校の七不思議のひとつに加えられようとしており、その元となった生徒のことは、あえて誰も口にしようともせず、関わろうとするものも少なかった。
しかし、噂されず、相手にされないからと言って、目立たなくなるわけではない。巨大な少女は、大きな影を落としながら、視線を避けて生きるのだった。
校内が文化祭に向けて活気づく中、一人の少女が廊下を特別棟に向かって歩いていた。
少女――三々百目ぽぽは、合唱コンクールにおいて、ピアノ伴奏を担当することになっていた。それは純粋に、彼女の高い身長故に、仮に段差を用いたとしても頭二つほど突出してしまうことが原因であった。
引けないことは無いが、それほど自信があるわけでもなく、かといって断る手もない。三々百目はそうして、クラスから離れ、一人音楽室で練習をするために歩いていた。
「やぁやぁ、これは三々百目さん、ですよね? 奇遇ですねぇ。合唱コンクールの練習は良いんですか?」
職員室を抜けて、特別棟の方へ向かおうとした時、階段の脇にいた生徒が、ふと気が付いたように声をかけてきた。
「……すみません。確かに、私は三々百目ですが、あなたとは面識がないと思います。何か御用でもあるのですか?」
身長の高さ以外にも、自分には噂されたりからかわれたりするような経験は多い。それだけ知らない生徒にも、名前を知られている可能性が高いということであり、翻って言えば、そんな自分に話しかけるような人間は、どこかおかしい。
そんな疑惑の目を向けながら返答した三々百目に、その生徒は張り付けたような笑みを崩さず、大げさな身振りで肩をすくめた。
「いえいえ、用事だなんて大層なことではありませんよ。僕は氷堂、氷堂空間と言います。ほら、入学式で新入生代表の挨拶をした。我ながら、あれはよくできたと思っているのですが――」
「用事が無いのでしたら、私は先を急ぐので」
陽気な人間ほど、ロクな理由で絡んでは来ない。陰気な人間もロクな理由では絡んでこないが。
ともかく、関わらない方がいい手合いだと感じ、歩を早める。
「ああ、そんな。せっかく時の人とこうして出会えたんだ。もう少し、お話ししましょうよ。例えば、神繰麻貴奈さんのお話とか」
不意に氷堂の口から出された友人の名前に、一瞬足を止めてしまう。それが挑発だと分かっているのに、わざわざ振り向いてしまう。
「麻貴奈に、なにかしようというつもりですか」
「ああ、そんな怖い顔をしないでください。ただの世間話ですよ。彼女、最近は生徒会執行部で頑張ってらっしゃるみたいですね」
「……何が、言いたいんですか」
「いえ? ですから、世間話ですよ。ただ、数少ない友人が、魅力的で象徴的な先輩に奪われては、あなたも寂しいでしょうと思いましてね」
「奪われた、なんて思ったことは無いですが。あなたのように邪推する人が、噂話に尾ひれをつけるのでしょうね」
三々百目がすごむと、氷堂はおかしそうに笑った。
「おお、怖い怖い。それは経験談なんでしょうかねぇ。台典中の雷神さん?」
久しぶりに聞く、くだらないあだ名。
中学時代、陸上競技をしていたころ、英語の授業で教えられた高い(tall)という言葉を、私のことだと誰かが言いだした。それを誰かが、どこかの神話の同じ読みの雷神に例えて茶化した。それが格好いいと言い出した部活の誰かのせいで、コーチや監督も言い始めて、試合を見た他の学校の生徒にも広まってしまった。
未だに部活に入らずにいる理由の一つであり、なんとなく運動全般に嫌気がさした理由の一つでもある。
「そう呼べば、話を続けるとでも思いましたか? 別に、呼ばれなれた二つ名です」
「いえいえ、そんな。素晴らしい称号をお持ちなのに、どうして部活動に入られないのかと不思議でしてね」
「何だっていいと思いますが」
「例えば、他にしたいことがあるとか?もしそうでしたら、僭越ながら、僕がお手伝いして差し上げたい」
「結構です。あなたのようにへらへらとした人間と関わって、良いことは一つも無いでしょうから」
氷堂は、茶化すように、大げさな身振りで悲しい表情を作りながら笑う。
「ああ、これはまたずいぶんと嫌われてしまったようだ。せっかく、文化祭では素晴らしい集会を開く予定だったのに、これではあなたをお誘いできそうにない」
「集会、ですか?」
「ええ、ぜひあなたにも参加していただきたい。あなたの持つ魅力があれば、僕の計画はより理想的になるのです」
氷堂はゆっくりと三々百目の方に近づいて、彼女に手を差し出す。
「……いえ、お断りします」
三々百目は、張り付けた笑みを崩さない氷堂に背を向けて、再び歩き出す。
「おや、これは残念。ですが、いつでもお待ちしていますよ」
「いえ、あなたに手を貸すことも、懇意にすることも、無いと思います。それでは」
氷堂は、気にしていないように再び壁にもたれかかると、鼻歌を歌い始めた。
三々百目は、ようやく音楽室へと向かい始めた。
一人で練習をするのは、落ち着けていいなと、いつもより実感しながら、音楽室を後にする。すっかり夕焼け色に染まった空を横目に、三々百目は特別棟の廊下を戻っていく。
行きにすれ違った、なんとかという男子生徒がまだいたら嫌だなと思いながら歩を進める。
「あれっ。ぽぽじゃね? こんなとこでどしたの」
後ろから声をかけられ、ゆっくりと振り返る。聞き覚えのある声に目を凝らすと、橙色に照らされた校舎で、より明るい橙の髪をなびかせた少女が近づいてきていた。
「テトラ。あなたこそ、もうすぐ下校時刻でしょう?」
「あ~、ちょっと鬼ごっこしててさ」
校内で? という疑問は、突っ込む方が野暮なのだろう。麻貴奈が時々、先輩が下校時刻まで鬼ごっこをしていると嘆いていたのは、やはり彼女のことだったのか。
「……そう。でも、あなたの相手をするだなんて、鬼が気の毒だね」
「ん? なんだぁ、私なら捕まえられますけどって思ってないか? こんにゃろ~め」
「別に。もう運動もしてないし」
「現役なら余裕ってか」
鬼ごっこはもういいのか、すっかり同行する気でいるらしい。
彼女、梶鳴テトラは、中学時代の友人——友人と言って良いのだろうか。別の中学校の、同じ部活動のライバル、みたいなものだ。とはいっても、種目が違ったので、競技の合間に、会場で少し話す程度の、本当にその程度の仲だった。
「でもさー、ぽぽがここに来てるの、ちょっと意外だったかも」
「私は、テトラが台典商高に受かったことの方が驚きだけど」
「は~? 全然余裕だったから。てか、あんたは推薦とか受けなかったの? 来てたでしょ、さすがに」
「……私、陸上は三年の途中で辞めたから」
「受験とかじゃなく?」
「うん。引退っていうか、故障ではないんだけど、退部したから」
「どうりで秋季いないわけだよ……それで、今もやる気ないの?」
興味がある風ではなく、ほんのさりげない返答のように、テトラはそう聞いてきた。
「それは、テトラもそうじゃないの?」
私とテトラは、少しだけ……そう、少しだけ部活動に居心地の悪さを感じていた。それは、いじめとかスパルタとか、そういうことではなく、むしろその反対で。
テトラは、中学の頃から派手に髪を染めていた。だけど、成績の良かった彼女は、そのことを非行と言われることもなく、むしろ個性として見られていた。ちょっとした有名人みたいな感じで、地元の観客の人にも人気で、だからこそ、同じ部活の人からしたら、目の上のたんこぶのように見られてしまった。才能があって、好きなことをして、受け入れられる。そんなこと、きっと本人の前では出さなかっただろうけど、少しだけ気味が悪いとテトラは話していた。
二年の初めの頃、私は成長期でまた身長が伸びて、その分記録もぐんと伸びた。クラブチームに誘われたり、八種競技を見据えて、トレーニングをさせられたり、やることが増えて、その時は楽しかった。
だけど、だんだん同級生と同じメニューをすることが少なくなって、競技場でも、外部のコーチや選手と一緒にいることが増えた。クラブチームの陣地は、どこか大人びた雰囲気がして、居心地が悪かった。
そうして抜け出した観客席で、同じような目をしたテトラと出会ったのだった。
「アタシは、まだやる気あるけどね」
「でも、入ってないんでしょう?」
「それは、ほら。ちょっと他のことが忙しくて、さ」
――他にしたいことがあるとか?
不愉快な男子生徒の声が、脳裏によぎる。
「ぽぽは、なんかやりたいこととかあるの?」
「……ううん。今は、何も」
「そっか、ま、いんじゃね。休みたいときは休んでさ。やりたいこと見つかったらやるって感じで……あ、ねね。この校内新聞さ、絶対ぽぽのことだよ」
奔放に思いのまましゃべるテトラの指した先を見ると、壁掛けの校内新聞が張られていた。発行は新聞部となっている。この道はよく通るが、あまり気にしたことは無かった。
「でも、さすがに三メートルはない、はずだけど」
「いや、三メートルは自信を持って否定しなよ……でも、グラウンドを見てる巨大な影とか、あんたぐらいじゃん」
「……そう、かな」
思い返せば、麻貴奈の様子が気になって、執行部の活動を見ていた時も、グラウンドの辺りだった気がする。
「ほんとに陸上する気ないの?」
「……ないよ」
私がいても、迷惑になるだけだから。私以外、誰も楽しくなくなってしまうから。
「じゃー体育祭でボコボコにしてやろーぜ! 帰宅部でチーム組んでさ」
「ふふっ、何それ」
「いい案でしょ? ——って、やば」
テトラは堂々と校内でスマホを取り出すと、ギョッとした顔で駆け出した。
「鬼が来そうだから、またね!」
「うん、また」
少しだけ、またねと言ってくれたことを嬉しく思いながら、ゆっくりと手を振り返した。
「——どわぁっ!」
突然、後ろから悲鳴が聞こえたかと思うと、靴底が滑るビニールの音が廊下に響く。振り向くと、いつか見た生徒会執行部の、愛ヶ崎天使先輩が、片足でバランスを立て直そうと跳びはねていた。
「今回は当たらなかったぞぉ。これで角のクリアリングを効率化できるな……って、ぽぽちゃんだ! 今、帰るところ?」
なんとなく、この人が鬼なんだろうということは分かっていたが、本当に鬼ごっこをしていると思うと、少しだけおかしかった。
「ええ。先輩は執行部のお仕事ですか?」
「うん、まぁね。この辺でテトラちゃ――オレンジ色の髪の毛の女の子見なかった?」
「ええっと……」
どう答えたものかと口ごもる。見たのは確かだが、教えても仕方がない気もしてしまう。
「あちゃ、逃げられちゃったか」
そうこうしているうちに、先輩は一人で納得してしまったようだった。
「あ、そういえばさ、ぽぽちゃんは執行部に入るつもりは無い? 麻貴奈ちゃんと、時々その話をするから、もしかしたら、心変わりとかしてくれてないかなって」
「いえ、前にもお伝えした通り、麻貴奈も、私と一緒にいるよりも、皆さんと成長した方が良いと思うので」
「そっか、今なら会長もオッケーしてくれるんだけどな~」
「生徒会長、ですか?」
「うん。ワンコ先輩もたまたまその場にいてさ、あ、ワンコ先輩っていうのは、生徒会長の三峰壱子先輩なんだけど、しっかりしてそうな子だったし、誘えるならいいんじゃないかって」
「それは、ありがたいお言葉ですが、やはり」
「あ、いや全然強制とかじゃないから、気にしないで! ぽぽちゃんがやりたいことを優先する方がいいよ」
――やりたいこと。
また、そんな言葉が現れた。今の私に、やりたいことなんてないのに。
私が何かをすれば、代わりに誰かが嫌な思いをしてしまうから。どうしたって目立つこの背丈が、誰かに影を差してしまうから。
「やりたいこと……先輩のやりたいことって、なんですか」
我ながら、下手な質問だった。考えなしに口に出すものではないと、反省する。
「ん、ボク? ボクのやりたいことは――——なんだろうね」
「?」
自信満々に言おうとしていたように見えたのに、先輩は考え込んでしまった。
「やりたいこと、なりたいものはあるんだけど、具体的に上手く換言できないというか……」
「その、漠然とでも構いませんから」
「うんと、なんとなくで伝えたら、その枠の中で収まってしまう気がするんだよ。もっとずっと大きなものを目指していたのに、言葉にすればその数文字で切り取られてしまうような」
「感覚的な物、ということでしょうか」
「そうかも。概念、というか、心が求めている方に、向かっているというか」
「心が……?」
「ぽぽちゃんは、そういうもの、ない?」
心が求めているもの。すぐに思い浮かんだのは、中学の時に、レースをするたびに自分が強く、速くなっていると実感できた時のことだ。この試合に、その数秒に、私を押さえつける物はすべてが取り払われて、ただ自由でいられる気がした。
「今は、ないです」
「そっか……ね、こんな噂を知ってる?」
「噂、ですか」
「そう。天使に微笑まれた者は、求めているものを見つけられる」
「なんですか、それ?」
荒唐無稽な文章に、思わずくすりと笑ってしまう。先輩も、花が咲くように微笑んだ。
「だから、校内で言われてる噂だよ。七不思議みたいな」
「それが、どうしたんです?」
「つまり、今は見つかってなくても大丈夫。だって、この学校には、天使がいるんだからね」
先輩は、なにかの決め台詞のようにそう言い残すと、職員室の前の廊下を、反対の角へと走り去ってしまった。そうか、あっちが生徒会室だ。
教室棟への廊下を進みながら、先輩の笑顔を思い出す。
なぜだか、良いことが起こりそうな気が、久しぶりにした。
それから、教室に置いて行っていたかばんを取って、三々百目は帰ることにした。教室で練習しているはずのクラスメイト達は、どこかに行ってしまっていたようで、がらんどうの教室は、いつもよりも広く感じられた。
「やりたいこと……か」
夕暮れの廊下を一人歩きながら、先輩に言われたことを反芻する。とはいえ、そう簡単に見つかっては、今までの日々は何だったのかと思ってしまいそうだ。
なんとなく、今日は違う道で帰ってみようかと、特別棟の方を通って昇降口に向かってみようと思い立つ。さっきの押し付けがましい男子生徒とまた会ってしまったとしても、それもハプニングとして受け入れてみようか。
そんなことを考えながら、職員室に続く廊下の角を曲がろうとすると、同じように角を曲がってきた誰かとぶつかりそうになる。三々百目はすんでのところで立ち止まれたが、角からやってきた生徒は、前に抱えていた荷物のせいで司会がふさがれていたのか、気づかずに衝突してしまう。
「うわああああっ」
生徒が抱えていた紙束が散らばらないように、反射的に支える。幸いにも、量こそ多かったが、きちんとホチキスで止められた資料は上下を押さえると崩壊せずに済んだ。
「ご、ごめんなさいっ」
ハスキーな声に視線を落とすと、小動物のような可愛らしい生徒が、しりもちをついていた。女子生徒のように見えるが、制服は男子生徒の物のようだった。そういえば、麻貴奈が冬になったらズボンに履き替えたいと言っていたと思い出す。制服の性差は比較的緩いのだろうと、勝手に納得した。
「いえ、こちらこそすみません。不注意でした」
「あ……いえ、荷物まで支えてもらって」
「大丈夫ですよ。迷惑でなければ、お手伝いしますが」
普段ならそのまま返してしまうところだったが、彼女の愛らしい見た目に庇護心を覚えさせられたせいか、そんな申し出をした。
「そんな、悪いですよ」
「いえ、このくらいの資料でしたら、軽いものです。あなt……先輩一人では大変でしょうから」
体格から、同級生だと勝手に思っていたが、ワイシャツについた校章の色を見て、一つ上の先輩だと気が付く。なぜだか余計に気にかけてみたくなってしまった。
「そ、それはそうなんですが……」
先輩は、どこか後ろめたそうな顔で立ち上がった。
「えっと、突き当りの生徒会室まで持っていく資料なんです」
お願いしますっ、と先輩はまた来た方向へと戻っていった。おそらくまだ資料があるのだろう。
廊下を進みながら、執行部はこの資料すべてに目を通すのだろうかと、少しだけ同情する。なんの資料なのか分からないが、目を通すだけでも何時間もかかりそうだ。
生徒会室の前で立ち止まり、一応ノックする。
「はいはい、今開けます」
穏やかな声と共に、丸眼鏡の女子生徒が扉を開けてくれた。
「ああ、あなたは先日お見かけした……ええと、すみません。名前を覚えるのは苦手なんです」
「いえ、お構いなく。先輩に頼まれて資料を持ってきただけですから」
「おお、助かるぞ。そこの机の端に置いといてほしいぞ」
部屋の奥で資料に囲まれた別の先輩——ああ、確かあの先輩が生徒会長なんだったか――に示された場所に紙束を置く。
「この時間ってことは、監査の資料か?」
「えっと、すみません。何の資料かは……」
さっきの先輩に少しでも聞いておけばよかったと思いつつ、部外者が踏み入っていいものかとためらう。
「資料を持ってきましたっ! 寧先輩から伝言で「足音がうるさいから、鬼ごっこみたいなやつ、早く止めさせてくれる? あと、何があってもうちの教室にはいないから、確認しにくんな」とのことですっ!」
そうこうしているうちに、残りの資料を持って、さっきの可愛らしい先輩が入ってきた。
「ああ……善処すると伝えておいてほしいぞ」
「了解ですっ!」
「そちらの一年生は、監査委員の子ですか?」
丸眼鏡の先輩がそう尋ねる。
「えっと、いえ! さっき角で出会って、手伝っていただいて……」
「すみません。差し出がましく……ところで、監査委員というのは?」
「ああ、一年生なら知らなくてもおかしくないか。監査委員っていうのは、生徒会執行部みたいに選挙で選ばれる特別な活動で、生徒会の会計担当の委員会なんだぞ」
「はあ……」
いまいち飲み込み切れず、曖昧な返事を返す。
「どうせなら、影間さんに教えてもらう方が良いのではないでしょうか」
「確かに、蕾ちゃんが教えた方が早いぞ」
「ええっ、僕ですか? 僕もまだよくは分かってないのに……」
影間、蕾。それがこの先輩の名前だろうか。おどおどと視線を動かしながら、時間を確認すると、先輩は慌てたように駆け足をする。
「わわっ、もうこんな時間だ。それでは先輩方、失礼します……えっと、もし監査委員について知りたいのでしたら、道すがらでよければお話ししますが……」
「えっと……では、よろしくお願いします」
特に急ぎの用事もなく、聞くだけ聞いてみようかと、先輩の後に続いて生徒会室を後にした。
「それで、基本的には委員長が采配をするので、副委員長は小間使いみたいなものなんですよ」
話を聞く限りでは、本当に雑用ばかりだったが、先輩は子犬のように嬉しそうに語ってくれた。楽しそうにこちらを見上げる顔に、なんだか穏やかな気持ちになって、つい頭を撫でてしまう。
「わわっ、何ですか?」
「いえ、蕾先輩は頑張っていて偉いですね」
「そ、そうですか? ……えへへ」
頭を撫でても嫌がる素振りもなく、嬉しそうに体を振る先輩に、なぜか不思議な高揚を覚える。もう少しだけ様子を見ていたいような……
「ちょっと、お前、寧の後輩になに気安く触っちゃってるわけ?」
声に顔を前方に戻すと、不機嫌そうに腕を組む女子生徒がいた。校章の色から察するに三年生だ。
「わわっ、寧先輩! これはその、違くて……」
「現行犯に違うも何もないでしょ。あとでお仕置きだから……というか、あんた一年生? いい度胸してんじゃん」
寧と呼ばれた――というか自称もしていた――先輩は、高圧的に近づいてくると、私を睨みつける。身長は低い方ではなく、私の胸元くらいまではある。戦えば勝てるか……と物騒なことを考えながらも、自信に満ち溢れたような彼女の姿勢に、少しだけ怖気づく。
「その……不躾に触ってしまったのは謝りますが、あなたは蕾先輩のなんなのですか?」
自分こそ何者でもないが、あまりにも威圧的に詰め寄られると反骨心が芽生えてしまう。
「なに、嫉妬でもしてるわけ? 寧はこの子の先輩、だよね。蕾?」
「あ、あわわわ」
蕾先輩は手に負えないと言った様子で、私たちを交互に見ては口をパクパクとしている。
どこかで聞いた名前だと思ったが、さっき生徒会室に伝言を残した先輩なのだろう。ということは、監査委員会の委員長ということになるのだろうか。そのヒエラルキーは分からないが、少なくとも、あまり蕾先輩にとって公平な関係性ではないように思えた。
「先輩だからと、好き勝手していいわけではないと思いますが」
反骨心のままに、蕾先輩を抱き寄せる。内臓が詰まっているのか疑わしいほどの軽い体が、足元に寄ってくる。それだけだと少し不安な気持ちになり、腋から手を通して抱きかかえた。
「ひゃあっ」
「おい、触んなって――」
寧先輩は、何か罵倒の言葉を続けようとして、抱き上げられた蕾先輩を見上げた。それから、何か物言いたげな目で、私の周りをぐるっと回りながら、舐めるように視線を巡らせる。
「ひゃいっ」
緊張のせいで腕に力が入り、蕾先輩が情けない声を上げた。
「いいや、お前ちょっとついて来いよ」
そう言って、こちらを気にもせずに先輩は廊下の奥へと消える。ぐったりとしてしまった蕾先輩を降ろして、その後を追う。
「名前とクラスは?」
「三々百目ぽぽ、二組ですけど……」
「ちっ、普通科か……まぁどうとでもなるか」
寧先輩は舌打ちをして速足で歩く。
特別棟の端にあるその部屋には、監査委員室と表札が出ていた。
寧先輩は、部屋に入ると、奥にある大きな椅子にドカッと座る。
「そこにある服、着てみろよ」
指さされた方を見ると、なぜかメイド服のようなものがソファに置かれている。小柄な人向けなのか、小さく見える。
「……入らないと思いますが」
「んなこと寧でも分かるっての。蕾のなんだからサイズが合うわけないだろ。とりあえず合わせてみろって言ってんだよ」
なぜこんなところにメイド服が……という疑問以上に、彼女の発言に引っかかる。
「蕾先輩の物なんですか? どうして……?」
「大掃除をするときは体操服に着替えるじゃんか。監査委員室の掃除をするときは、その服に着替えるんだよ。何かおかしいところがあるか、蕾?」
「な、ないですっ」
蕾先輩は恥ずかしそうにうつむいてそう答える。
いろいろと気になることはあるが、とりあえず先輩の物だというメイド服を体の前に合わせてみる。可愛らしい服は、大抵サイズが合わないため、これまでは着てこなかった。子供服のようなサイズ感ではあるが、フリルの多いその生地を体に当てると、なんだか不思議な気持ちになる。
「ふーん、悪くないじゃん……まぁ、今日はいいや。とっとと帰れ、下校時刻だぞ」
「???」
私は、寧先輩の奇妙な言動に困惑してしまう。結局メイド服は何だったのか。あてさせられたことに、何の意味があったのか。というか、蕾先輩はここで何をさせられているのだ。
「あ、あの……」
蕾先輩が、少し恥ずかしそうにメイド服を引っ張る。先輩の私物というのは本当なのかと思いながら渡すと、おずおずと話し始めた。
「た、多分、寧先輩は、また来てほしいって言ってるんだと思います」
「はぁ」
「その、良かったらまた来てくれませんか。な、なんて言ったらいいのか分からないですけど……」
蕾先輩は恥ずかしそうにうつむいている。寧先輩の方はとみてみると、こちらに気も留めず支度をしているようだった。
「……分かりました。また、来ます。先輩も、辛いことがあれば相談してください」
もし、いじめや何かしらの加害があるのなら、私が蕾先輩を守りたい。そんな風に思いながら返答する。
「わっ! やったぁ……その、よろしくお願いしますっ!」
何に対してのよろしくなのだろうと思ったが、蕾先輩の笑顔に今は気にしないことにした。
私が部屋を後にしようとすると、蕾先輩は寧先輩の片づけを手伝いに行くところだった。加害、というのは考えすぎだったのかもしれない。
――――いや、まだそう考えるのは早計か。
とりあえず、また来てみようと、下校時刻を知らせるチャイムが鳴る校舎を歩く。
ふと、無意識に口元が緩んでしまっていることに気が付く。
「……ふふっ」
やりたいこと、ではないけれど。なりたいもの、でもないけれど。久しぶりに、こんな温かい気持ちになったなと思った。