第三十五話 蛍光が走る
・主な登場人物
愛ヶ崎天使:この物語の主人公。天使ちゃん。現在生徒会執行部副会長。
藍虎碧:現在生徒会執行部書記の女子生徒。クールに見られがち。
三峰壱子:ワンコ先輩。三年の生徒会長。低い身長と元気で独特な口調が犬っぽい女子生徒。
氷堂空間:一年生。委員会には所属していない。成績優秀でクラスメイトからの信頼も厚い。丁寧な口調は口癖。
梶鳴テトラ (かじなり てとら):商業科一年の生徒。かなり明るいオレンジの長髪が目立つ健康的な少女。マイペースな性格で、コミュニケーション能力は高いが友人は少ない。
この学校には、天使がいる。
そんな噂は、一年生の間にも当然流れている。高校生活と言う、新たな旅路へと踏み出し始めた彼らが、そうした噂に目移りするのも無理はない。
そんな天使の噂と並行して、一年生の目を引き、耳を傾けさせる噂話があった。
それは学校と言う教育のルールから逸した不良生徒の噂話。権力に歯向かう英雄のようにも、規範を破る迷惑者のようにも語られる少女の話。
しかし、やはり彼女もまた、天使や悪魔と同じように、街談巷説の推し量るような大義は持たず、ただ自由気ままに、流れるように生きるだけなのである。
パタパタと互い違いにスリッパの音が廊下に響く。
鞄を背負った生徒は、器用に角を曲がり、颯爽と走り去る。かなり明るい橙色の長い髪が、ふわりと揺れて見えなくなる。
遅れてやってきた足音は、生徒たちを導く立場であるためか、あまりスピードを出してはいなかった。教室棟から職員室前の廊下にやってくると、同僚に気を使って、一段と静かに進む。
「あら、あなた。こんなところでどうしたの?」
女教師は職員室前の廊下を曲がったところで、一人の男子生徒を見つける。残念ながら、彼女の追っていた生徒とは違うようである。
「ああ、えっと……漆原先生、ですよね。僕はここで、人を待っているんです」
男子生徒は、廊下の角に近い方の職員室の扉を示しながら肩をすくめる。
「ああ、そうなの……えっと、あなた、一年生よね? ごめんなさい、何か授業を受け持っていたかしら」
漆原は、自分の名前を覚えられていたことを不審がるように、男子生徒に尋ねた。
「嫌だなぁ、先生ったら。僕は三組の氷堂、氷堂空間ですよ。先生の授業は火曜日と木曜日で、一度も欠席したことはありません」
「あ、ああ! 氷堂くん! そう、三組の子ね! 確か、入学式で挨拶をしていたわよね。覚えているわ」
「覚えていただけているだなんて光栄です。ところで、先生は随分とお急ぎのようでしたが、何か御用事でも?」
氷堂がそう尋ねると、漆原は思い出したように手を叩いた。
「そうだったわ。ねぇ、氷堂くん。こっちに、ウチのクラスの子が来なかったかしら? あなたと同じ一年生で、えっとそうね……そう、髪の毛がもうこ~んなに明るい子なんだけど」
漆原は髪の明るさを大きさで示そうとするように、手を大きく広げた。氷堂は表情を変えず、少しだけ目線を廊下の先へ向けた。
「いえ、見ていませんね。確かにこっちへ来たのですか?」
「ええ。といっても、私が見たのは職員室の、ほら、あそこの角をこっちに曲がってきたところまでなんだけどね。でも、ここからは一本道でしょう?だから氷堂くんが見ているかと思ったのだけれど……」
氷堂は記憶をたどるように、顎に手を当てた。
「……いえ、見ていません。そんなに派手な髪色の生徒が来たなら、よそ見をしていても気が付くでしょうし……」
氷堂はそう言いながら、職員室の前の廊下の方へと顔を出し、また元の場所へと戻ってきた。
「ああ、もしかしたら、そうやって先生に思わせておいて、その生徒は職員室に隠れたのかもしれませんね。この場所からだと、僕には前の扉が見えませんから」
「で、でも、そんなリスキーなことするかしら?」
「それが裏をかくということですよ。先生が角を曲がったとき、もうその生徒のことは見えなかったんですよね? いくら離れていたからって、そんなにすぐ職員室の前を抜けられるとも思えない」
「そ、そうね……確かに、見えなくなったからって前に進んだとは限らない……ちょっと見てくるわ!」
「ああ、いえ。きっと、もう職員室にはいないでしょう。その生徒は、先生が職員室を通り過ぎてすぐに、反対側の方向に向かったことでしょうから。ええ、僕だったらそうします」
「じゃあ、まんまと逃げられたってわけね……」
「残念ながら。時に先生、その生徒はそんなにも必死に追いかける必要があるのですか?」
氷堂は同情するようなそぶりは見せずに、興味深そうに尋ねた。
「いえ、ただ髪色が流石に派手なものだから、注意しろって学年の先生で問題になっていてね。それで、お話ししたいだけなのだけれど、もうこれで一か月は逃げられてしまっているわ」
「それは大変ですね……もしご迷惑でなければ、微力ながら僕もお手伝いしてもよろしいですか? こう見えて、一年生の中では顔が広い方なんですよ」
「あらそう? じゃあ、お願いしようかしら」
「ええ、ええ、是非とも。でしたら、一々直接報告するというのもなんですから――」
氷堂は、つややかな長い前髪を傾けて、制服のポケットから携帯端末を取り出した。それから、しまったという風に職員室の方を見て、大げさに肩をすくめる。
「こんなところで校則違反をするのはいけませんね」
「もう放課後だから、少しくらいは大丈夫よ。運動部でも、計時なんかで使ってるわ」
「それはそれは」
漆原が軽く画面をかざすと、コードが読み込まれ、メッセージサービスの連絡先が交換された。
「何か情報が得られたら、すぐに連絡しますね。それか、数学で分からないところがあれば」
「それは直接聞きなさいっ」
氷堂が道化たように言うと、漆原もつられて笑う。
そうして、結局のところ収穫を得られなかった漆原は、肩を落として自分の担当する教室の方へと戻っていった。その背を見送った氷堂は、踵を返すと元居た場所の奥、階段の方へと歩いていく。
「おっ、漆原ちゃん行った感じ? サンキュ~」
「まだこんなところにいたんですか? 人が折角、手を貸してあげたというのに」
「いいじゃんか~。どうせ見つかんないって。それに、あんたのこと信用できるか見極めたかったし」
氷堂が階段の踊り場に出ると、明るい髪色の少女が軽い足取りで上階から降りてきた。
「それで、信用していただけましたか?」
「ん~、まぁね。てか、なんで漆原ちゃんとメアド交換したの? 年上好き?」
「そういうわけではありませんよ。単に、使えるコネクションは多い方が良いというだけのことです。先生にしろ、あなたにしろ、ね」
「ふ~ん……あ、じゃあさ、アタシとも交換しよ~ぜ。SNS、なんかやってる?」
「ええ、もちろん」
二人はお互いのアカウントをフォローしながら、ゆっくりと特別棟の階段を降りる。放課後は特に、生徒も教師もこの付近にはやってこない。
「は? まじ? フォロワー多すぎでしょ……てか、なにこれ? 新興宗教?」
少女は氷堂のアカウントを見ながら露骨に嫌そうな顔をする。
「宗教、というほど崇高なものではありませんよ。慈善団体、ボランティアサークルみたいなものです。活動主は母の名義になっていますが、そのアカウントは僕が動かしているので、そこに連絡してもらえれば」
「大丈夫な奴? ツボとか買わされない?」
「ええ、大丈夫ですとも。皆さん、もっと有意味なものを買われます」
「へ~、うさんくせ~。じゃあ、クマっちはそこの教祖? みたいな感じなの?」
「ですから、宗教では……クマっち?」
氷堂は飄々とした顔で語っていたが、不意に頓狂な呼ばれ方をされ足を止める。
「え? くうまだから、クマっち。なんか変?」
「クマ……いえ、いえいえいえ! そうですか。幼少期は非道で悪魔と呼ばれた僕ですが、空間だからクマ! なんとも興味深い新解釈だ」
なにかツボに入った様子で、氷堂は身をよじらせて笑う。
「あ~、なに? 気に入ってくれた方?」
「ええ、もちろん。では、僕はあなたを何とお呼びしましょうか、梶鳴テトラさん?」
紳士的に手を差し出す氷堂を、梶鳴は怪訝な目で見た。
「別になんでもいいけど。てか、敬語やめてくれない? 同い年でしょ」
「それはどうにも難しい注文ですね。話し方は癖みたいなものですから……ですが、それなら、テトラ。テトラと呼んでも?」
「だから、それは好きにしていいって。まぁ、また困ったときは頼むね」
「ええ、いつでも」
梶鳴は下駄箱に着くと素早く登校用の靴に履き替える。
「探している人、見つかるといいね」
「聞き耳がお上手ですね。ですが、あれは先生をごまかすための方便ですよ」
「でも、別に目的が無ければ、最初からあんなところに居たりはしないでしょ?」
「……これはこれは。ずいぶんと頭も回るらしい。ですが、やはりあれは方便に過ぎない。私があそこにいた目的は、すでに達成された後だったのですから」
「あれ、そうなの?」
「ええ――あなたのことですよ、テトラ」
梶鳴は適当に会話を切り上げて帰ろうとしていた足を止めて振り返る。
「アタシ? あれ、なんかしたっけ? もしかして、アタシのこと好きとか?」
「いえ、違います。あなたはコネクションの一つに過ぎない」
「へぇ?」
「あなたは悪い意味で噂になっています。教師から一か月も逃げ回っているその健脚、周りに媚びない態度、なによりその派手な髪……学校の噂は引かれあう。あなたがそう意識しなくとも、あなたはいずれ、他の噂の主と出会うことになるでしょう」
「なにそれ? SF映画の見すぎじゃない?」
「僕は、この学校の天使を探しているのです。それが僕の探し人で、この学校に来た目的の一つでもある」
梶鳴は興味なさげに背を向けると、かばんを肩に背負った。
「じゃ、その人見つかるといいね」
「ええ、ありがとうございます。あなたもきっと、出会うことになりますよ」
「興味ないね。アタシはアタシで生きるだけだからさ」
そう言い残して、梶鳴は去っていった。残された氷堂は、気ままに校内を巡っていった。まるで、そこに残された天使の残り香を探るように。
「——っていう頼みを受けてな。頼んでも大丈夫そうか?」
生徒会室で、三峰はファイリングされた数枚の資料を天使に渡した。
六月に差し掛かり、文化祭を目前となった校内では、外部の来校者に備えてイメージを損なわないようにと注意が厳しくなっていた。教師たちの間でも、元々緩い風紀が問題提起されるようになり、そのしわ寄せは執行部へと回されている。
「不良生徒、ですか」
「新聞部でも記事にされていましたね。蛍光の一線、とかなんとか。中学では陸上競技でかなりいい成績を残していたそうで、力ずくで捕まえるのも難しいと担任の先生もおっしゃっていました」
藍虎は、ファイリングした記事を思い出すように言った。
「まぁ、力ずくって言ってもやりようだろうけどな」
生徒会長——三峰壱子は、しゃらくさいと言いたげに頬杖を突いた。
「執行部としては、頼みは断れないからその生徒を説得することになるわけだけど、私としては、髪色をどうとか言うのは別にいいと思うんだぞ。そもそも校則上は違反ではないわけだからな」
台典商高の校則はかなり緩い。髪型や服装の規定は、公序良俗に反しなければ何でもありと言って良い。実際に派手な髪色にする生徒はほとんどいなかったが、茶髪にしたり、パーカーやベストといった指定外の羽織りものを着たりする生徒はそれなりに多い。
「だから、まずは対話だ。基本はそれしかない。今はその段階にすら達していないらしい……って、職務怠慢じゃないか?」
「その生徒には、友人とか、部活動に所属していたりみたいな、そういう関係性は無いんですか?」と天使。
「うんとな、性格はかなり明るい方でクラスでも浮いているわけではないらしいぞ。ただ、一線を画しているというか、我が道を行っているというか。髪色のこともあって、学外で非行に走っているんじゃないかってことの方が懸念されているらしい」
「つまり、その生徒の髪色や態度を変えさせることではなく、そうした不安を払拭することが目的、ということですね」
藍虎がかみ砕いて聞くと、三峰は軽く頷いた。
「そうそう。ただ、さっきも言った通り、あの手この手で逃げられるらしいから、気を付けた方がいいぞ」
「忍者みたいなことです?」
「実際、パルクールじみたこともしているとか……それでも授業時間に話を聞いたりしないのは、大人の意地みたいなものなんだろうな」
ともかく、気を付けるんだぞ、という三峰の言葉に、天使と藍虎は気を引き締めるのであった。
数日の情報収集の後、二人はようやく接触を図る。天使はすぐに行こうと急かしていたが、念のため慎重に行こうと提案したのは藍虎だった。
一年五組の教室前で、藍虎は静かにホームルームが終わるのを待つ。
一斉に椅子から立ち上がる音と、けだるげな挨拶の後、教室後方の扉が開かれ、派手な明るい橙色の髪をなびかせた少女が飛び出してくる。藍虎はその肩を軽くつかみ、声をかける。
「ねえ、君。梶鳴テトラさんだよね」
「そうですけど」
「私は、生徒会執行部の藍虎というんだ。少しだけお話——」
と、藍虎が言い終わる前に、梶鳴は素早く手を振りほどき走り出した。その俊敏さからは、彼女の運動神経の高さが感じられる。
「ちょっと、待って!」
藍虎もすかさず追いかけるが、一瞬の反応の遅れが距離を大きく開かせる。藍虎も運動神経には自信があったが、さすがに何度も同じ道を逃げたであろう梶鳴には、動きに無駄がない。あるいはそれはもっと感覚的な、天賦の才能のようにも思える。
教室棟から特別棟への廊下を走り、職員室の方へと曲がる。事前に仕入れた情報通りだ。
しかし、藍虎が職員室の前の廊下に着いたときには、すでに少女は次の角を曲がってしまったようだった。
とはいえ、この先から昇降口への道は一本しかない。結局のところ靴を履き替えなければいけないのだ……いや、履き替える必要性は無いのだろうが、なぜだか彼女はいつもそうして、この廊下で追っ手を撒いているようだった。
藍虎はスピードを緩めずに、続く角を曲がる――――
「——おっと、すみません、先輩」
と、角を曲がった先に立っていた男子生徒の姿を見つけ、角を曲がる寸前で藍虎は止まった。
「いや、急いでいたとはいえ、走っていたのは私が悪いよ。すまない……ところで、探している人がいるのだけれど、心当たりはないかな?」
藍虎はすでに梶鳴の姿を見失ってしまったので、先を急ぐ風でもなくそう尋ねる。
「……いえ、見ていませんね」
その男子生徒は、不思議そうに首を傾げた。
「ああ、もしかして」
と職員室の前の廊下を見やると、また戻ってくる。
「先輩が通り過ぎるのを、職員室でやり過ごしたのではないでしょうか」
男子生徒は、そう張り付けたような笑みのまま藍虎を見た。
「——その可能性はないね」
藍虎は、軽く笑ってその男子生徒の考えを切り捨てた。
「そうでしょうか。もしかしたら、今この瞬間にでも、反対の方に逃げ出しているかも」
「なるほど……それなら安心だ。ちょうど私の相棒が、昇降口で見回っているから」
「それなら、確認しにいった方がいいのではないですか?」
「その必要はないさ。私の探している人は、相棒とは違っていてね――君だよ。氷堂空間くん」
氷堂は、そう言われてもなお、張り付けたような笑みを崩さない。
「——僕を、ですか。執行部の藍虎先輩に探していただけるとは光栄だ。しかし、呼んでいただければ、すぐにでも、どこへでも駆けつけたところを、ご足労をおかけしましたね」
「そうかしこまる必要は無いよ。私が君を探していたのは、執行部としての用事ではないからね」
「それはそれは。僕に個人的な興味がある、ということでしょうか。なおさら光栄ですね」
氷堂は自分をじっと見据える藍虎と目を合わせずに、大げさな身振りで階段の方へとゆっくり後ずさる。
「ですが、すみません。今日は少し用事がありまして、先輩とお話ししている時間は無いのです。僕にも、探している人がいましてね。それでは」
「——天使なら、もう帰ったよ」
氷堂は階段の方へと向かう足をピタリと止める。その背が振り向く前に、藍虎は言葉を繋ぐ。
「君は時間稼ぎに成功し、私もまた時間稼ぎに成功したというわけさ。これでゆっくり話ができるだろう?」
氷堂はゆっくりと振り返り、藍虎の視線を正面から受け止める。その口角は、糸で吊られたように上がったままだったが、長い前髪をかき分けた瞳の奥は黒く冷めきっていた。
パタパタと特別棟から昇降口へと続く階段を駆け下りる足音に、天使は意識を集中させる。
古くなった床の上で、スリッパの擦過音が響く。視界に飛び込んで来たビビッドなオレンジ髪の少女に、天使は届くように呼びかける。
「待って、テトラちゃん!」
すれ違いざま、天使の顔を覗き見た梶鳴は、その相貌に目を一瞬奪われる。何かを言おうと口を開きかけたその間隙に、天使は彼女の手を掴む。
「っ――あんたが……」
「執行部の、愛ヶ崎天使です。ちょっとだけ、お話ししてくれない?」
梶鳴は、掴まれた左手が簡単に振りほどけないとみると、大人しく力を抜いた。
天使は梶鳴の手を掴んだまま、昇降口の扉の前にあるベンチへ誘った。横並びで腰掛けると、天使は彼女の手を離す。
「いいの? 掴んでなくて。アタシ、逃げれちゃうけど」
「そっか……じゃあ、はい」
天使は、そんな考えはなかったというようにぼんやりとした様子で、左手を開いて示した。梶鳴はその手のひらを不思議そうに見つめた後、苦笑しながらその手を握った。つながれた手が、二人の間にゆっくりと下りる。
「それで、天使先輩? はアタシになんか用なの?」
「そう、ちょっとお話したいなってね」
「……変な人。漆原ちゃんに頼まれたんでしょ? さっきの藍虎? って人と一緒に、アタシを捕まえろってさ」
「それも半分、お話ししたいっていうのでもう半分」
「お説教なら聞かないですよ~」
「あはは、ボク、お説教とかできないから大丈夫だよ。だから、少しだけ、あなたの話を聞かせてほしいんだ」
照れるように微笑む天使の顔を、梶鳴は一瞥して目をそらした。
「聞かせるような話、ないよ。これでもアタシ、授業は真面目に受けてるし、問題だって起こしてないでしょ?」
「じゃあ、なんで逃げ回ってるのさ」
「それは……」
梶鳴は、逡巡するように視線を落とし、大きくため息をついた。
「……怒られるのとか嫌だし」
「先生だって、怒りたくて追いかけてるんじゃないよ、きっと」
「それがムカつくっていうか、思い通りになるつもりないんで。アタシは、アタシの好きに生きていたいだけだから」
「じゃあ、ボクと話してくれてるのは、テトラちゃんの意思ってことなんだ。ふふ、ありがとう」
「……ノーコメントで」
梶鳴は手をつないだまま、天使に背を向けた。
「先輩は」
むすっとした声で、梶鳴はつぶやく。
「先輩は、なんで執行部なんてやってるの? 先輩の噂、知り合いに聞いてさ、それからクラスでも聞き分けられるようになった。人のために頑張って、変な噂流されて、嫌な気持ちにならないの?」
「……そりゃあ、いろいろ思うところはあるよ? でもね、ボクは天使だから。どう思われていたって、それで誰かを救うことができているなら、誰かが笑っていられるなら、それでいいと思うんだよ」
それは勝者の論理だ、と梶鳴は思った。
誰よりも高く、誰よりも優越的でいて、そのくせ誰もに寄り添う優しさを持ち合わせている。だから当然のように、人より傷つくことを受け入れているんだ。
「アタシは、嫌だよ。知ったような口をきかれるのは。アタシのことを、アタシよりも知っているみたいに言われるのも、誰かの見栄を満たすために仲良しごっこをするのも」
「——だから、走っているんだね」
天使の言葉に、梶鳴は反射的に反論しようとした口を閉ざした。
「……逃げてるって、言わないんだ」
「テトラちゃんは、前に進んでいるんでしょ? それは逃げなんかじゃないよ」
「全然、進んでなんかない。どれだけ走って、逃げ出したって、アタシは――」
「これは先輩からのアドバイスだよ! 走る方向が間違ってたって、進んでいなくたって、その行為に意味がないことにはならないんだ。少なくとも、ボクはそう思いたい」
天使は右手の人差し指を立てて、そう自信気に言った。梶鳴は、そんな天使の姿を見て、小さく笑う。天使は首を傾げた。
「先輩って、アドバイス下手だね」
「なんだと~!」
「でも、気持ちは楽になった。ありがと」
天使は返事の代わりに優しくほほ笑む。
「そうだ。これは本当にアドバイスだけど、嫌な噂は直接言って改めてもらわないと、思い通りにはならないよ」
「もう噂とか気にしないことにするし、それも使わな~い」
「そっか」
天使がホッとしたように言うと、梶鳴は不意に立ち上がった。わずかに身を屈めると、天使に顔を寄せてにやりと笑う。
「先輩、アタシのこと、報告しないとなんですよね」
「そうだけど」
「じゃあ、もうちょっと追いかけてきてください。そうしないと、アタシが悪い子かどうか、まだわからないっしょ?」
「えっと、でもボク手ぶらだからさ――」
天使は今にも下校しようとしている梶鳴を見て引き留めようとした。
「今日はゲーセンでも行こうかな~。ね、先輩も行きましょ?」
強引につないだ手を引き寄せた梶鳴に、天使は困ったように笑った。
それから、天使は手ぶらのままで、梶鳴に連れられて駅近くのゲームセンターがある通りを遊びまわった。
「この辺、よく来るの?」
「たまに? でも、二人プレイのゲームやるのは初めてかなっ」
エアホッケーのラケットを勢いよく滑らせて、梶鳴は答えた。
「でも、クラスの人とも仲いいって聞いたけど」
「え~? 別に、友達ってほどじゃない、からっ! よしっ、一点~」
「げ~……本当に非行とかしてないだろうな~?」
「あはは、今日はしちゃおうかな~……ね、先輩?」
「なに?」
「また、遊んでくれますか?」
「もちろん。あ、でも、ちゃんとクラスの人とも仲良くするんだぞ」
「は~い……って」
天使は、梶鳴の顔が引きつった笑みでこわばったのを見て、何かあったのかとゆっくり後ろを振り返った。
「——ようやく見つけた。それで、仕事は順調かな?愛ヶ崎さん」
「えっと……うん……」
そこには、天使と自分の分の二つのかばんを抱えた藍虎が、うっすらと笑いながら腕を組んで立っていた。
「じゃあ、先輩、アタシ用事を思い出したからさ~」
「あっ、ちょっと!」
梶鳴は荷物をまとめると、風のように去っていった。
「えっとですね……」
「大丈夫。事情は大体分かっているから。後は、生徒会室で、ね」
天使は、有無を言わさない藍虎に連れられ、夕暮れ泥む駅前を戻っていった。
その後、みっちりと絞られた天使は、梶鳴の悪い噂をどうにか払しょくしようと報告書を作成したが、どこからか流れてくる頓狂な噂に流され、あまり効果は無かった。そうして、梶鳴の悪い噂が流れるたびに、天使は彼女と追いかけっこをする羽目になったのであった。