第三十四話 機巧少女は分からない
・主な登場人物
愛ヶ崎天使 (まながさき てんし):この物語の主人公。天使ちゃん。現在生徒会執行部副会長。
藍虎碧:現在生徒会執行部書記の女子生徒。クールに見られがち。
丸背南子:ニャンコ先輩。生徒会三年の副会長。猫背で丸眼鏡の落ち着いた少女。誰に対しても敬語で話す。
三峰壱子:ワンコ先輩。三年の生徒会長。低い身長と元気で独特な口調が犬っぽい女子生徒。
神繰麻貴奈:一年生。前選挙管理委員長、神繰理央の妹。声と顔には機械のように感情が表出しないが、彼女自身は感情の起伏が激しく、時折ショートしてしまう。
三々百目ぽぽ(さざどめ ぽぽ):一年生。身長二メートル近くある少女。長い黒髪も相まって怖がられることが多い。落ち着いた声だが、口調ははっきりとしている。
この学校には、天使がいる。
その噂は、変わらず学校内で話され続けている。しかしながら、ほとんどの生徒がその噂を自分で確かめたからか、あるいは、天使に頼むような用事が無くなったのか、ここ最近の天使は、比較的平穏で退屈な日々を送っていた。
教室では限られた友人関係を楽しみ、放課後は執行部で仕事をする。意識しなければいつまでも続きそうに思えた平和な日常であったが、彼女の影響力が、求心力が、校内に吹く新しい風を呼び込まないはずもないのであった。
「それで、新聞部の件は碧に任せているから大丈夫としてだな……」
三峰は、生徒会室に寄せられた投書を対処済みのものと未対応のものに選別する。
「そういえば、今年は運動部へ入部した一年生が例年より少ないそうで、体育会の生徒が嘆いていましたよ」と丸背。
「それは別に、体育会系の生徒が少なかったとか、そう言うことじゃないのか?」
「その話、新聞部でも聞きました」
藍虎が、かばんから切り抜かれた雑紙のようなものを取りだしながら言った。
「ええっと……これですね。この妖怪の記事と関連しているそうです。何でも、運動部に体験入部した生徒たちが、グラウンドを睨む巨大な怪物を見たとかで怖がってしまったそうです」
「……どうせ柳の葉が揺れたとか、そういうのじゃないのか?」
「でも、うちの校内にそんな見間違えるようなものありますかね」
三人はそろって天使の方を見た。校内を散歩する癖のある天使ならば、何か知っているかもしれない。
「え? う~ん。無いと思いますけど……」
天使は、生徒会のノートパソコンを操作する手を止めて、不安げに答えた。少しだけ考え込むように天井を眺めた後、無いよねと言いながら打ち込み作業に戻る。完了した作業は、報告書にする必要があり、その作業は必然、問題を引き寄せる天使の仕事となっていた。
カタカタと天使のタイピング音が小気味よく部屋に響く中、廊下の方から足音が近づいてくるのに四人は気が付く。
「あ、私出ます」
入り口に近い位置に座っている天使が、手を止めずにつぶやいた。三人は、特に返事をしないことで了承の意を示した。
廊下の足音はだんだんと近づき、廊下側の窓が来訪者の影で埋まる。まるで陽に影が差したように窓は黒く埋まったが、作業に気を取られた執行部は気にも留めなかった。
来訪者は、ためらうように入り口の前で止まり、ひそひそと何かを話しているようだった。天使もわざわざ出ていくことはせず、ノックされるのを待つ。焦らされながらも、ギリギリまで作業をしていようと、天使は徐々に椅子を下げながらタイピングを続ける。
コンコンとノックの音が響いた。
「すみません。今、お時間大丈夫でしょうか」
まるで機械音声のような、平坦で冷たい声が扉越しに聞こえてくる。
「は~い」
天使は誤字がないか確かめながら体を机から離し、入り口扉の方へと向かった。扉と向かい合った天使は、一瞬、こんなに廊下は暗かっただろうかと疑問に思う。
しかしまぁ、急に曇ることもあるか、と天使は扉を開き、元気よく来訪者を迎え入れるために飛び出していった。
「生徒会執行部ですっ! 何かごよ――」
扉を開けた瞬間、視界一面が真っ黒に染まる。芯のある柔らかい感触が天使の顔面を跳ね返し、それが人の腹部だと気づくときには、バランスを崩した天使はしりもちをついて倒れた。
「……すみません。大丈夫ですか?」
少しだけ驚いたように、先ほどの声より幾分低い女子生徒の声が響く。
天使は、入り口に立ったその少女を見上げる形になる。それはしりもちをついてしまったからと言うだけでなく、彼女の身長は天使よりもはるかに高く、どちらにしろ見上げざるを得なかっただろう。
少女は長い黒髪をだらりと垂らしながら、体に似合う長い腕を天使の方に伸ばした。一瞬、捕食者に襲われるような恐怖がぞくりと背筋を走る。しかし、すぐに天使はその手を取り、勢いよく跳ね起きた。
「うん、大丈夫。ごめんね、ぶつかっちゃって」
「いえ、慣れてますから」
天使は、自分が転んでしまったことで背後の三人の注目を浴びていることに気が付いて、少しばかり恥ずかしくなる。
「それで、何か用事があるんだよね」
「はい。と言っても、私は付き添いで……あの、麻貴奈? ほら、自分の用事は、自分で言ってもらわないと、困る……」
天使はそこでようやく、少女の腰元に隠れるもう一人の女子生徒の存在に気がつく。麻貴奈と呼ばれた少女は、おずおずと天使の前に出てくると、冷たい瞳で天使を見据えた。
「ボクは愛ヶ崎天使。生徒会執行部の副会長をしているんだ。よろしく」
天使は、少女の仏頂面に対して、精いっぱいの笑顔で右手を差し出す。少女はしばらく天使の顔をじっと眺めていたが、ゆっくりと差し出された手に視線を落とすと、またゆっくりとその手を両手で包み込んだ。手を抱くように体を丸めるのに合わせて、彼女の三つ編みがさらりと肩から前に落ちる。
「え、えっと……?」
天使は、握手ではなく両手でホールドされたことに困惑してしまう。
「て、天使先輩……ほ、本物ですか……?」
少女は、平坦な声で、しかしどこか上気したような声色で、天使の顔をじっと見つめながら掴んだ腕をぶんぶんと振り始める。どうやら顔からは読み取れないが、興奮しているらしい。
「え、う、うん……天使だよ~。なんちて」
「はぅぅぅぅん……ぷすぅー」
少女は戸惑いながらほほ笑んだ天使を見て、壊れたロボットのように首をかしげて動かなくなってしまった。感情の動きが激しいわりに、声は変わらず単調な合成音声の様だった。
「すみません。彼女、あなたのファンなのだそうです。それで、ぜひ一目会いたいと。お時間をお取りして申し訳ないです」
「そんな、全っ然問題ないよ。えっと、麻貴奈ちゃん、だっけ? 会いに来てくれてありがと。とっても嬉しいな」
ぷすぅーと穴の開いた風船のような音を出していた少女は、天使の微笑みに息を吹き返す。
「天使先輩っ、マジ尊敬っす……」
「え……ああ、ありがとう?」
真面目そうな見た目と、抑揚のない声からは想像できない砕けた口調で、麻貴奈はじっと天使の顔を見ている。
「その、用事なのですが、用事と言うか、お願いと言いますか……」
「うん、何でも言って」
「……私、生徒会執行部に入りたいのです。ぜひお傍で、天使先輩を支えたいと思っている次第です」
天使は、てっきりお悩み相談やもめ事の仲裁のようなだと思っていたので、少女の高邁な立候補に意表を突かれる。
「執行部に……?」
天使は、意見を求めるために振り返る。藍虎は難しそうな顔で顎に手を当てていたが、三峰はお好きにどうぞと言った様子で肩をすくめた。
「……ええっと、立候補してくれるのはありがたいんだけど、執行部は基本的にスカウトと言うか、引き抜きで選ばれているの。だから……」
「つまり、実力を見せれば良いということですね。その指令、受諾いたしました。不肖、神繰麻貴奈。有用性を証明して見せます」
「え、ええっと……」
思ったよりもぐいぐいと来る少女に、天使は断り切れずに困り顔で身長の高い少女を見上げる。
「き、君も……?」
「いえ、私は付き添いなので、これで失礼します」
やる気満々に拳を握る神繰を置いて、背の高い少女は頭が当たらないように梁に手をついて扉をくぐった。
「あ、ねぇ……良かったら、君の名前も教えてほしいな」
「私の、ですか?」
長い黒髪の少女は、意図が分からないと言った風に首を傾げた。
「三々百目——三々百目ぽぽと言います。できるだけ執行部の方のご迷惑にならないようにしますので、関わることは無いとは思いますが……」
「ぽぽちゃんか! うん、でも困ったことがあったらいつでも頼ってくれていいからね」
「ええ、ぜひそうします。では、麻貴奈。頑張ってくださいね」
そう言って、三々百目は去っていった。廊下側の窓に、彼女の影の漆黒が移動するのが目立つ。
「う~んと、それじゃあどうしようかな……」
天使は、うずうずとした様子なのだろうか、じっと自分を見つめる神繰の視線にやや気圧されながら、いい仕事はあるだろうかと考える。
「校内巡回したいところだけど、ボクもまだ報告書の作成が残ってるし……」
「資料作成ですね。お任せください」
神繰は相変わらず淡々とした声で答えると、素早く着席すると資料を見ながら打ち込み始める。
「えっ⁉ いいって、それはボクが……って、タイピング早いね」
「父に教え込まれましたから。パソコン周りのことはどんと来いっす」
変なしゃべり方を学習したAIのように、作業の手を止めずに神繰は答えた。ブラインドタッチのできない天使は、その手際の良さに感嘆の息を漏らす。
「……できました。有用性は示せたでしょうか」
「う、うん。すごい……けど……」
天使は事務作業のすごさよりも、彼女の内面的な機微の読め無いところに少し不安を覚えた。執行部の仕事は事務作業も多いが、それ以上に校内においては頼れる存在としてあることが重要なのだ。そして、事務作業以外の、生徒と直接関わる場面では相手に寄り添うことはもちろん、相手から好かれ、頼られることで情報を得ることが求められる。彼女はそうした関係構築は負担に思わないだろうか。
「ちょうどいいし、ほらこれ」
そんな天使の葛藤を見計らってか、三峰が数枚の投書をまとめた資料を投げよこした。
「これ……さっき話していた怪物がどうのって話ですか?」
「そうそう。二人で何か情報がないか聞いてきてくれよ」
天使は椅子に座ったままの神繰を見る。彼女は指示を待つようにじっと天使の方を見上げている。
「よしっ。じゃあ、麻貴奈ちゃん。一緒に聞き込みに行こうか」
「了解です。光栄の至りです」
大仰な返答とともに立ち上がった神繰と共に、天使は怪物の目撃情報があったグラウンド付近へと向かった。
放課後のグラウンドでは、運動部が精力的に活動していた。言われてみれば、去年のこの時期は、もう少し一年生らしい生徒の姿が多かったようにも思う。
「でも、聞いていたよりちゃんと一年生も練習してるみたいだね」
「そうですね。私のクラスでも、男子グループがどこかの部活へ仮入部しようと話していた記憶があります。怪物、というのは初耳ですが」
「じゃあ、とりあえず色々聞いて回ろうか」
天使は神繰を連れて、練習中の運動部への聞き込みを開始した。
「こんにちは! 執行部の天使で~す! 今、時間大丈夫かな?」
「うお、だ、大丈夫ですっ。み、みんなやばいって! 天使来た天使!」
天使がバックネットのそばで休んでいた野球部員に声をかけると、あっという間にわらわらと他の部員も集まってきた。
「あはは……えっと、この辺で、でっかい怪物を見たって噂があるって聞いたんだけど、何か知らない?」
天使の質問に、部員たちは顔を見合わせる。
「あぁ~、なんか陸上部かハンド部かが話していたような……ウチでは誰も見てないよな?」
「おう。すぐ監督が『練習サボる言い訳考えてる暇あったら素振りでもしてろっ!』って怒りだして、ちょっとタブーになってるって言うか」
「なるほど……うん、ありがとう! それじゃあ、練習頑張ってね」
天使はそれ以上頓着せずに、部員たちがさらに集まり始めたベンチから去った。
「天使先輩、流石っす……私、人と話すのは苦手で……」
「そうなの? 全然そんな風に見えなかったけど」
「それは、天使先輩だからです。私は、感情が顔に出ないらしく、よく怖がられてしまいます……面白いと思っても、私にはそれを伝える手段が言葉しかないのです。私には気持ちを口に出す義務があります。そうしなければ、何も伝えられないのですから」
悲しげな表情すら、眉の根一つ動かないままで、そう神繰は語った。そんな彼女の頬を天使はつつく。
「全部を伝えられる人なんていないよ。それに、十分に麻貴奈ちゃんの気持ちは伝わって来てるよ。キミの心はしっかり動いているんだからさ」
「……そうですか。ありがとうございます。嬉しいです」
なんだか社交辞令のような返答だったが、本当に彼女は嬉しく思っているということが、なんとなく天使には感じられた。
「じゃあ、次は麻貴奈ちゃんに聞いてきてもらおうかな」
「わ、私がですか?」
「うん。大丈夫、基本はただの世間話だからさ」
「分かりました。緊張しますが、やってみます」
グラウンドの端を歩き、天使たちは、トラロープが地面に張られた長い直線で練習をしていた陸上競技部の元へやってきた。
「す、すみません。今お時間大丈夫でしょうか」
「うおっ、びっくりした……って、執行部か。ああ、大丈夫っちゃ大丈夫だよ」
「ええと、私たちはこの辺りで目撃されたという、巨大な怪物の噂を調べているのです。何かご存じではないですか?」
神繰の問いに、陸上部員の二年生は首をひねる。
「ああ……俺は見たことないけど、なんか出るって噂だよな。何でもグラウンドの影からこっちをじっと見つめていたとか。身長は三メートル近くあったって一年生が騒いでたよ」
「三メートル……確かに大きいですね。しかし、巨大と言うには小さいような気もしますが、どうしてそんなに具体的な数字がささやかれているのでしょう」
「それなら、確か校舎の二階の窓と同じくらいだったからって話だな。ほら、そこのネット裏の、ネット裏の……」
天使は、話を片耳で聞き流しながら、意欲的に活動している部活動の様子を眺めていたが、言葉に詰まった様子の部員の声に視線を向けた。彼は、天使と神繰の背後を見たまま、腰を抜かして後ずさり始めた。
「あ、あれだ……い、いる! ほら、あそこ!」
天使は好奇心半分油断半分で、その指さされた先を振り向く。しかし、そこには誰もおらず、ネット裏にも広葉樹が数本並び立っているだけだった。
「? いないみたい」
「いや、今隠れて! ほら、出てきた!」
再び振り向いた天使だったが、やはり風景は変わらない。風に揺れる柳も、熱で揺らめく蜃気楼もそこにはなかった。
「いませんね」
「いないねぇ」
「いや、いたんだって! まじか……ともかく、情報はそれぐらいだよ。気になるなら、一度ネット裏を見に行ってきてくれよ。怖くて練習にならねえ」
天使たちは、続いて話を聞きに行こうと思っていたハンドボール部が、校舎内周を走っていると聞き、ついでにネット裏を見に行くことにした。
「う~ん、誰もいないね」
「そうですね。それとも、元から誰もいなかったとか」
「ひぇっ……でも、それならそれでいいんだけどね。もめ事になったりはしないわけだしさ」
天使は、広葉樹とネットの隙間をくまなく観察したが、乾いた土には足跡も残っていない。同じように周囲を探していた神繰も、何も見つからなかったように肩を落とした。
「こういう探索、地味ですが楽しいですね。なんだか、ゲームみたいです」
「麻貴奈ちゃん、ゲームとかするんだ」
彼女に真面目な印象を持っていた天使は、素朴な驚きを漏らす。天使は最近になって流行りのゲームに手を出し始めたが、その要因がパソコン研究会という、偏った変人との人間関係であるために、ゲームをする人全般にうっすらとその影を重ねてしまっていた。
「ええ、父がゲームクリエイターをしているので、デバッグを兼ねてプレイさせられたり、おすすめの物をやらされたりと、結構幅広く遊んでいます。ただ……」
そこまで言って、神繰はネット越しにグラウンドを見つめた。
「部活や研究会といったものを、こんなに近くで見たのは初めてで、少し羨ましく思います。みんな、とても楽しそうに笑って、とても自然に楽しんでいる。中学校の時は、父の仕事に付き合って、家に籠っていたので気づきませんでした」
神繰のネットにかけた指に力が入る。
「……麻貴奈ちゃんは、どうして執行部に入ってみたいと思ったの?」
そっと彼女の横に立って、天使は聞いた。グラウンドの喧騒はどこか遠い。
「去年のことです。私には、三つ年上の姉がいて、制服のおさがりを使えるからと、この高校に進学するように勧められました。それは、別に嫌なことではなく、私にとって姉は、尊敬する存在でしたから、むしろ誇らしいくらいです。
それで、たまたま父の仕事が無かった日、家族全員で姉の体育祭を見に行ったのです。そこで、会場を颯爽と駆ける天使先輩をお見かけしたのです。応援合戦も、拝見しました。きっと先輩のことを讃えているのだと、そう感じたのです。それで、私も是非にと」
「そ、そうなんだ……ちなみに、お姉さんってもしかして……」
天使は、自分の黒歴史が淡々と語られていきそうになったので、恥ずかしさに慌てて話題をそらす。
「神繰理央と言います……そうです。その姉から、先輩が執行部というところに入ったのだと聞いたのです」
神繰は、そう言うと、少し寂し気に声の調子を落とした、ような気がした。
「執行部に入りたいと思った理由は……それだけです。先輩をお手伝いしたいと思ったからで、それ以上の理想だとか、目標があるわけではないのです。
思えば、私はずっとそうでした。父の言うことに従って、姉の跡をなぞって、自分で選んだことなんて、何もない」
「……そんなことないと、私は思うけどな」
天使は、うつむいた神繰に優しくほほ笑んだ。
「私のことをすごいって思ってくれたのは、あなたの気持ちだよね。それに、執行部に入ろうと思ってくれたことも」
天使は、グラウンドを走るどこかの部活の生徒と目が合い、軽くほほ笑んで手を振った。生徒はぼんやりとした様子で手を振り返すと、ペースを上げて走り去っていった。
「執行部の仕事ってね、結局はそう言うことなんだ。誰かにすごいって思ってもらって、それで、自分も頑張ろうって思ってもらうこと……なんて、私はまだまだ新米ですが……
それにね、私にも目標っていうのはあんまり無くて、ただなりたい自分を目指しているだけなんだ」
「なりたい自分、ですか?」
「うん。麻貴奈ちゃんは、どんな人になりたい?」
「それは……姉のように、しっかりとした……ではなくて、先輩みたいに、明るくて元気な……でも、なくて……私は、どんな人に、なりたいのでしょうか。父も、姉も、先輩も、すごくて、尊敬していて、理想で、目標で、でも、それは私ではない」
相変わらず平坦な調子だが、彼女は困惑しているようだった。
「ねえ、麻貴奈ちゃん。執行部はね、すごいんだよ。私なんかより、ずっとすごい人ばっかり……だから、一緒に探してみない? 色んな人と話して、色んなことを解決して、そしたらきっと見つかるよ。私も、あなたと一緒に進みたいから」
「それって……」
「うん。ボクからのスカウトだよ。キミを生徒会執行部にスカウトしたい」
「私で、本当に、いいのですか」
「なんだよもう、麻貴奈ちゃんが入りたいってやって来たんじゃないか」
「で、でも……」
「デモもストもないよ。きっと、意味も目標も正しさも、まっすぐ歩けばついてくる。あとはまぁ、先輩を説得しないとかなぁ……」
「……ありがとうございます。天使先輩」
今日初めて会ったときと同じように、神繰は天使をじっと見た。けれど、それが信頼と尊敬のまなざしであることを、天使はもう知っている。
「私、もう少し陸上部の方に話を聞いてみます。もしかしたら、他の方と情報をすり合わせれば、より確かな情報になるかもしれません。現実でもゲームでも、調査の基本は足、ですよね」
「うん、頑張って! 私はハンド部に話を聞いてくるよ」
天使は、再びグラウンドへ駆けた神繰を見送った。運動神経が悪いわけではなさそうだったが、どこか不格好な走り方はマリオネットの様だった。
「——あの、すみません」
「ぴゃいっ⁉」
天使は、先輩面をして多少悦に浸っていたため、突然死角から声をかけられて情けない声を上げてしまう。太陽に雲がかかったように暗くなった足元を不思議に思いながら振り向くと、そこには一人の少女がいた。
「あ、ぽぽちゃんか」
「どうも」
三々百目はそれだけ言うと、何かを言いあぐねるようにグラウンドの方を向いて黙ってしまった。
「えっと、もしかして、麻貴奈ちゃんに用事だった?」
「あ、いえ。そうではなく……彼女のことではあるのですが、その、大丈夫、だったでしょうか」
「大丈夫って?」
「その、つまり、彼女は執行部に入れていただけるでしょうか」
「それはもちr……おっと、これはまだ秘密だからね。いくら友達といっても教えられないかなっ!」
「……ふふふ。そうですか。では、また麻貴奈から直接聞くことにします。
その、お節介なことですが、麻貴奈のこと、よろしくお願いします。先輩のこと、本当に慕っているようでしたから。私も彼女との付き合いは浅いですが、それでも彼女の善性を強く感じています。あの子は、もっと自由になれると思うのです」
「キミは、執行部に入ってみる気はない?そうしたら――」
「いえ、私は遠慮させていただきます。彼女は、きっとあなたと共にいる方が良い。そう、思うのです」
天使は、かなり猫背に屈んでも自分より頭一つ分は高い少女を見上げる。その声は悲しげではなく、ただ純粋にそんな現実を受け入れているような、諦念が滲みだしていた。
「そっか。じゃあ、もし考えが変わったり、他に問題が起きたりしたら執行部を頼ってね。それに、キミのことも、もっと教えてほしい。キミはたくさんのことを我慢しているみたいだから」
「……ええ。機会があれば、ぜひ」
天使の言葉に、否定も断りもせず、三々百目はそう静かにほほ笑んだ。
「では、失礼します……その、先輩」
「どうしたの?」
「もし、本当に、機会があれば、ですが」
「うん」
「よければ、先輩の話も、聞かせてください」
「もちろん」
三々百目はその返答を聞くと、どこか安心したように去っていった。なんだか守護霊みたいだな、と天使は思った。
それから、天使はランニング中のハンドボール部に話を聞いたが、特に有益な情報は得られず、今日のところは解散になった。
その後、数日をかけて調査をしたものの、結局、怪物の正体は明らかにならなかった。しかし、現場周辺を天使が歩き回っていた影響か、いつのまにか怪物の噂は消え、『バックネットを見て天使に微笑まれると体調が良くなる』という噂に変わっていった。
「天使先輩、さすがっす」
「う~ん、なんだかなぁ」
結局、神繰はお手伝いさんと言う形で執行部に関わることになった。
「まぁ、去年の天使ちゃんみたく問題を起こすわけじゃないから、気は楽だぞ」
「私だって、起こしたくて起こしてるわけではないですからね?」
「私も問題を起こせるように頑張りますっ!」
平坦な調子でガッツポーズをする神繰に、執行部は苦笑いする。
少し空回りしがちな少女を、しかし彼女たちは優しく迎え入れるのだった。