第三十三話 勉強会
・主な登場人物
鳩場冠凛:二年一組のクラス委員長の女子生徒。静かな佇まいをしている。部活は運動部を転々とした後、現在は無所属。天使にはあまり良い印象を持っていないようだが……?
留木花夢:二年一組の女子生徒。身長が低く童顔。顔に肉が付きやすい体質のせいで、顔が真ん丸になってしまうことが悩み。天使に懐いている。母親と祖母のご飯によってすくすくと育っている。
田尾晴々(たび はるばる):二年一組の男子生徒。チャラい見た目で言動もチャラいため、誰からも信用されていない。鳩場以外から呼び捨てにされているため、鳩場は自分のことを気に入っているのだと思っている。
有飼葛真:二年次の同級生の男子生徒。いつも眠そうな顔をしている。実際眠いらしい。ぼんやりしているようで、意思は強い方。行動力はあるが、やる気はない。
この学校には、天使がいる。
羽のない、光輪の無い天使は、けれど高く空を舞う。天真爛漫に、無邪気に、あどけなく、自由奔放に、彼女は残酷なまでの才能というものを見せつける。
多くの生徒は、その絶対的な差を気にもしない。物語の主人公が栄光の道を駆け上がる様子を見るように、賛美と熱狂の対象ですらなく、いつものこととして慣れてしまっていた。殿堂入りとでもいうほかにない、当たり前の頂上を示す存在として彼女は見られ、そのくせに、そんな優越を微塵も感じさせない学校生活を送っているのであった。
――まるで、彼女もそれが当たり前だと思っているように。
完璧な人間などはいない。なぜならば、私がそうではないからだ。
ある少女はそんな言葉を静かに飲み込んだ。
そんな形ばかりの慰めの言葉は、もう意味をなさないほど、目の前には高く高く、才能という言葉がそびえたっていたのだから。
新しく入学した生徒も、進級した生徒も、二か月もすれば何となく新しい空気を吸い飽きてくる頃だ。交友関係を広げようと躍起になっていた生徒も、羽でも生えていなければ固定的な友人関係の輪の中に閉じこもり始める。
教室の中には様々な輪が広がり、複雑なベン図を描く。しかし、その輪の一つにも属さずに、静かに昼食を食べる生徒がいた。
「鳩場ちゃ~ん、飯、一緒に食わねぇ?」
おどけた調子で明るい髪色の男子生徒が声をかけてくる。私は、一応その言葉に、弁当箱の包みを開く手を止める。
「はぁ……いい加減しつこいから止めてほしいのだけど」
一々視線を向けるのも面倒で、固結びの隙間に指を入れて包みを開く。気持ちの悪いことに、お調子者の生徒はわざわざ私の机の前に回って、視線を合わせようとしてくる。
「で、今日は食べてくれるってこと?」
「あなた、頭がおかしいのかしら。食べるわけないでしょう」
「ねぇ、いっつも断られるけどさ。実際なんでなん? 俺のこと嫌い?」
「ええ。嫌いだけど」
「じゃあしょうがねえか……って、ちょいちょいっ! クラス委員なんだし、仲よくしようやっ!」
「それに、ご飯を食べたら授業の復習をするつもりだから、あなたみたいに無駄な話をしている時間は無いの」
私が二段の弁当箱を展開すると、ようやく彼——田尾晴々は諦めたのか、渋々と言った顔で自分の席の方へと帰っていった。
正直なところ、お昼ご飯を誘ってくるのが彼で助かっている。彼は、理由は分からないが、うっすらと誰もから嫌われているようで、彼の誘いを断ったところで、私の評価が悪くなることはない。むしろ迷惑な奴に絡まれていることが、同情の対象になっているような気がしている……非常に心外ではあるが。
例えば、それがあの少女——愛ヶ崎天使であったなら。
私——鳩場冠凛は、そんな無意味な想定を白米と共に咀嚼する。
彼女が動くだけで、誰もの注目を浴びてしまう。彼女は話題の中心と言うわけではない。彼女が話題なのだ。その一挙手一投足のすべてが、常に更新されるホットラインなのだ。
そんな少女の誘いを断った日には、私は性格の悪い人間だと非難されることになり、ただでさえ怯えられ距離を取られているというのに、より孤立を深めることになるだろう。
――別にそれも構うことではないか。
友人関係というものが長く続いたことはなかった。いつだって、努力している私の方が上で、そう気づいた瞬間、友人だと思っていた相手への興味は消え失せる。私の横に立つにふさわしくない人間と、関わる必要などない。羽虫の小さな手足で足掻いたところで、それが私に影響を与えられるはずもない。
――しかし、彼女は。彼女だけは。
奥歯で固いものが砕ける音がした。どうやら焼き魚に取り除き損ねた小骨が混じっていたらしい。いつもなら丁寧に外すところだが、気の悪くなる想像をしてしまったせいで、集中できそうにない。仕方なく残りの分もそのまま口に運ぶ。幸いにもこの一口の中に小骨は無かったようだ。
――いつまで気にしているつもり?
心の声が自分に語り掛けてくる気がした。冷たい魚の味がどんどんと褪せていく。
私は、何事も一番にならないと気が済まない。それが、表層的な意地でしかないということは、自分が一番よく分かっている。
高校に入って、まずはテニス部に入った。勝手は分からなかったけど、一週間もすると慣れて、同学年の誰より、中学から続けていた子よりも上手くなった。先輩に褒められてうれしかった。でも、その先輩よりも上手くなった時には、もうその部活にいる必要も無くなった。
テニス部を辞めて、陸上競技部に移った。テニス部の友達だった子には嫌われてしまったから、同じクラスの足の速い子に誘われて入部した。基礎トレーニングは、見たことがあるものも多かった。初めの頃は目新しい練習に心が躍った。でも、すぐに飽きてしまって、練習の計測でも誰にも負けなくなった。先輩たちも、悔しそうな顔一つせずに称賛してくれた。
三学期になる前、本格的に冬季練習が始まる頃になって、陸上競技部を辞めた。バレー部にいるという、一年エースを見に行くためだった。
その少女は、身長が高く、腕も足も私なんかよりずっと長い。バレーだけじゃなくて、バスケもサッカーも強そうだと、そんな平凡な感想を抱いた。彼女なら、私の友人になれるかもしれないと、そう思って接近を試みた。
「あれ、もしかして体験希望だったりする?」
誰だったか、バレー部のマネージャーだという女子生徒が声をかけてきた気がする。同じ一年生の女子生徒なのに、女子バレー部のマネージャーだなんておかしな話だ。
「あ~、でも、エリちゃんなんて言うかな~。聞いてきてあげよっか? 一組の鳩場さんだよね」
お願いします、と言った後で、なぜ同じクラスでもない自分の名前を知っているのかと疑問に思った。もしかすると自分は思っているよりも有名なのかもしれない、という予測は、予想外に悪い形で立証される。
「ウチ、こんな時期に入部したいとかいう甘い考えの人を入れる余裕無いから。それも、他の運動部に追い出されてきたんでしょう? 輪を乱したいのなら勝手にしたらいいけど、ウチには近づかないでくれる?」
そう撥ねつけられ、呆気に取られているうちにぴしゃりと体育館の扉は閉められた。悪びれる様子もないマネージャーの生徒に、形ばかりの詫びの言葉を入れられながら外に出て、その時初めて、風が随分と冷たくなったものだと感じた。
そんな私でも、一応はクラス委員長と言うものをしていた。クラスの一位と言えば、委員長だろうと思ったからだ。委員長の仕事は、特に大変ということはなく、ただ淡々とこなせば苦とも思わなかった。
学業は芳しくなかった。というのも、満点を何枚もらったところで、一枚の失点で玉座は奪われてしまうからだ。当然、満点を取ることはたやすくない。対策をして、テスト期間の前から復習を行い、定着させる。そうして挑んで、ようやく見えてくるものだ。どれだけ勉強しても自力が試される国語のテストでは、自分が得意な科目であることにどれだけ感謝したことだろう。
部活動に居づらくなって、私はその闘争から身を引いた。けれど、避けられない競争というものもある。それが定期試験と言う学業の場であった。
そして、その場で私は負け続けた。何よりも屈辱的な、二位という烙印を押され続けた。私の頭に冠はなく、見上げた頭上には天使の羽が舞う。勝ち誇らないその笑みが、何よりも腹が立つ。
でもきっと、二年になれば私は一位に、あの冠に手が届くと信じて、努力を続けてきた。なぜなら、彼女は、天使は生徒会執行部に入ったからだ。ただでさえ凡夫に絡まれて無為な時間を過ごしているのに、さらに時間を圧迫されては、さしもの彼女も勢いを弱めるだろう。
だから、私は彼女に勝ち誇るために、再びクラス委員長になることを決めた。いや、それは決定的な理由ではなく、彼女ができないのだから、私がするしかないという消去法でもある。他の誰に渡せる位置でもない。
昼食を終え、改めて返ってきた中間試験の復習をする。満点、ではなかった。二年生になって、授業も難しくなる。少し足を引っ張っていた部分が、大きな傷となって広がっていく。それが取り返しのつかない穴になる前に、復習しておく必要があるのだ。
誰がためにチャイムは鳴り、ようやく最後のテスト用紙が返ってくる。きっとこれで私は一位になれる。そのはずだと信じて、私はノートを閉じた。
「それじゃあ、今日でテスト返しも終わったみたいだから、学年順位の紙を配るわね~」
担任の女教師が気の抜けた調子で呼びかける。
「え~、もういいってよ~」
田尾のやつは順位を気にするような学力でもないのに、あるいはだからこそ、順位を見たくないといった様子で不満を漏らした。
一人ずつ点呼され、学年順位の紙を渡される。喜ぶ者、落ち込む者、気に留めない者。それぞれがそれぞれの結果と心構えに応じた表情の変化を見せる。
「はい、鳩場さん。よく頑張ったわね、さすがクラス委員長だわ」
担任は張り付いた笑みを傾けて、用紙を手渡す。そうだ、私はクラス委員長で、誰よりも努力していて、一位になるのにふさわしい人間なのだ。
受け取ってすぐには結果を見ない。あくまで悠然と、自席に戻った。
――——不安なのか?
称賛していたはずの担任の顔すら、B級ホラーのように甲高い笑い声となって心を惑わせる。何も書かれていない裏面の白に、結果が透けて見えるようだ。
「………………」
そして、紙を裏返す。目に映るのは、1の文字。
「————五位……?」
そして、それを覆い隠すように並んだ雑多な一桁の数字たち。流れてしまう視線を必死に安定させて、改めて見た1の文字は、全体人数との境界線を示す斜線の前に楕円を挟んでいる。単教科とはいえ、二桁の順位になったのは初めてだった。
表の枠線に影が落ちる。深い谷のような影が何列も走る。知らず指に力が入り、細かく震え始める。帰ってきたテストの結果が、走馬灯のように脳内を駆け回り、その度頭に氷を詰められたように重く冷たい感覚が意識を遠ざけた。
「——はい、愛ヶ崎さん。学年一位なんてすごいわねぇ」
「あはは、ありがとうございます」
耳鳴りと胡乱な意識の中、敏感に聴覚はそんなノイズを拾い上げた。
視線をやると、彼女は気まずそうな愛想笑いを浮かべて席に戻っていくところだった。勝ち誇ることもせず、喜びもせず、楽しみもせず、結果なんてどうでもいいというように。
気が付けば、ホームルームは終わっていた。今日はすぐに家に帰りたい気分だったから、放課後に持ち越すような仕事は先に終わらせていたので、特にすることもない。でも今は、家に帰る気力も起きなかった。動く力も起きない。ただ呆然と、教室の床のタイルの継ぎ目を視線でなぞる。
「おーっす、鳩場ちゃん、放課後暇~?」
不意に視界を遮るように、迷惑な影が映り込む。逸らすように顔を横に向けると、愚鈍な人間は追従して私の机の周りを動き回った。
「なになに、元気ない感じ? もしかして、結構テスト悪かった感じ?」
「っ――あなたには、分からないわよ」
咄嗟に口を着いた言葉は、、しかしかすれた息となって唇の間をすり抜けた。呼吸が苦しい。こんな奴に当たってもしょうがないのに、形の見えない誰かが、私と天使の間にいる誰かが、私を見下しているように思えて怖い。
「? ごめん、どうした? 俺、あんまし耳良くないからさ……」
「……あなたには、分からないって言ってるの」
椅子の横でだらんと垂らしていた腕に力がこもる。喚き散らしそうになる気持ちが分散して、なんとか冷静に声を発せた、気がする。出力された震え声は、自分で思っているよりもずっと嫌悪が滲みだしていた。
――——怖い、怖い怖い怖い。誰かに見下されるのが怖い。誰かに負かされることことが怖い。
何よりも、努力しても報われないことが、恐ろしくて仕方がない。
私は臆病で、怖がりで、弱虫だ。
運動部を道場破りしていって、どうして水泳部には目も向けなかった? それは私が泳げないからだ。どう頑張っても、水を克服できないからだ。
どうして、文化部ではなく運動部を巡っていった? それは努力では身に着けることのできない、感覚という才能を目の当たりにしたくなかったからだ。
私には、何の才能もない。だから努力して、血と汗を拭って成長してきたのに。
――努力なら、誰にでもできる。
呪詛のように、幼いころの両親の言葉が反響する。その言葉を信じて、私は一位を、冠を目指してきた。
でもそうだ。努力なんて、誰にでもできる。私よりも優れた人間が、私と同じだけの時間を使って努力することができる。
高校二年生になった。大学受験のことを、誰もが口うるさく言ってくる。私だけじゃなく、誰もが努力して、たくさん成長する。落ちこぼれの私は、誰かが頂を目指して伸ばした手に引っ張られ、深く深くに落ちていく。私の努力は、平凡に埋没し、才能に圧し潰される。
努力を止めようとは思わない。けれど、結果はもう思うようについてこないだろう。私が努力だと思ってすることは、誰もが当たり前にすることなのだから。
「……あぁ~、まぁ分かんねぇだろうけどさぁ、でも話した方が楽になるんじゃね?」
何の気負いもないような、軽い調子で田尾はおどける。私の視線に居心地悪そうにするくせに、逃げ出そうとはしない。
「話して楽になって、それの何が良いの?」
「え? 楽になったら最高じゃね?」
「それは、思考を放棄しているだけじゃない。負けを認めるくらいなら、苦しい方がずっといい」
「あぁ……う~んと、ごめん! やっぱ俺には分からん!」
不甲斐ない男は、早々に議論を諦めたのか、恥じらいもなく両手を合わせて頭を下げた。
「てか、そうだよ。テストな、みんな難しかったって言ってるから、勉強会しようって話になってさ」
「みんなってだれ? 私はそんなこと言ってないから」
「あ~、えっと、留木と有飼と――」
あまり親しくないクラスメイト達の名前が羅列されていく。特に名前を聞いたところで行きたくなりはしなかった。傷のなめ合いなら勝手にすればいい。
「で、どう? 勉強会来てよ」
「あなたが行かないなら、行ってあげてもいいけど」
「はぁ~、なんかみんなそう言うんよなぁ。鳩場ちゃんほどストレートではないけど」
「その鳩場ちゃんって言い方、止めて。気味が悪いから」
「あいあ~い。とりま、愛ヶ崎に伝えとくな~」
「——は?」
愛ヶ崎……愛ヶ崎? って、あの憎たらしい天使のこと?
私は、人に教えることで多少はこの惨めな気持ちを埋められるだろうかと思っていたが、彼女がいるならば話は別だ。学年一位の副会長。私がいなくても、彼女が講義すればいい話だろう。
「あ、あの……鳩場さん」
私の座高とそれほど変わらない身長の、少しぽっちゃりとした少女が、おどおどと話しかけてきた。確か名前は、さっき田尾が挙げていた留木、だったか。
「なに? あなたも私を勉強会ってやつに誘いたいの? 悪いけど、参加する気はないわ。たった今無くなった。あなたも成績が悪いなら、天使ちゃんとやらに教えてもらったらいいじゃない」
留木は返す言葉もないのか、おろおろと視線を泳がせる。
「わ、私は、鳩場さんに、教えてほしくて……てんちは教えるの下手で、全然分かんなくって……だから、鳩場さん、成績良いし、教えてほしいなって……う、ううっ」
留木は親とはぐれた子供のように、余分な肉のついた頬を震わせ始めた。別に誰が泣こうと興味は無いが、彼女をそのままにしておくのも、これ以上追い詰めるのも得策ではないと思った。
「はぁ……分かったわよ。でも、私も成績良いわけじゃないから、あまり期待しないで」
人に勉強を教えたことはなかった。それで誰かが得をすることに耐えられなかったから。
だから、どうして彼女にそんなことを言ったのか、自分でもよく分からなかった。自分の成績が悪いだなんて、謙遜でも言いたくないのに。弱い人間に寄り添うなんて意味の無いことを、どうしてか今はしたくなった。
「う、うんっ」
留木は嬉しそうに笑顔を浮かべると、自分の席に駆けていった。あんな風に飾らずに生きて行けたなら、この息苦しさも知ることは無かったのだろうか。
勉強会と言われたので来てみれば、そこは赤点劣等生たちの補習授業対策会だった。具体的な得点は分からないが、普段の授業でも予習を怠り、授業の進行を遅延させている顔ぶれがそろっている。これでは勉強会にもなるまい。習熟した知識を教えたところで、自分の中で知識がアップグレードするわけではない。
「留木さん、何してるの?」
失せていくやる気に急かされて退室する前に、とりあえずは来た痕跡だけでも残しておこうと、集団から離れて数枚のテスト用紙を広げるクラスメイトに話しかける。勉強会だというのに、一人でいては意味もないのではないか。
「あっ、えと……みんなの邪魔したら悪いから、ここで復習してる」
留木がちらりと見た、早くも脱線して遊び始めている集団の声が聞こえてくる。声をかけても良かったが、一々注意するのも面倒だった。なにより、関わり合いになりたくもない。
「横、座るわよ……ちょっと解答用紙を借りるわね」
自分から誘ったくせに、怯えたように縮こまる留木の横に座り、彼女の誤解答を確認する。基礎的な知識や単語と言った部分はあまり落としていないが、応用問題や文章題がボロボロだ。しかし――——
「この穴埋めが分かるなら、こっちの問題はそのまま代入するだけじゃない」
「てんちもおんなじこと言ってた……でも、よく分からなくて」
「……テスト範囲の問題集はやった?」
「や、やったよ。でも、覚えてなくて、テストでは間違っちゃった」
テスト範囲からそのまま出題された問題を見てみると、模範解答通りの立式をしてはいるが、そこで筆が止まっている。解答欄は適当な数で埋めてあるが、式の意味を理解していないことがよく分かる。
「……愛ヶ崎さんは、何て言ってたの?」
「とりあえず、解答を見なくてもできるまで、問題集をやり直した方が良いって。でも、分からないから、全然進まなくて」
「そう」
なんとなくではあるが、彼女への指導の仕方から学年主席がどんな勉強法をしているかが推測できた。けれど、おそらくそれと同じやり方では、この少女は一歩目すら踏み出せないだろう。
「まずは数学からやりましょうか。問題集、開いて。テスト用紙はしまって良いから」
「え、でも、私……」
「いいから。ノートも開きなさい」
留木は、やはりまだ怯えた様子で準備を進める。
「……私、そんなに恐ろしいかしら」
ほんの愚痴のつもりが、圧をかける姑のように嫌味たらしくこぼれる。留木はさらに怯えるように肩を震わせた。
「そ、そんなことない、と思う」
「別に、慰めてほしいわけじゃないし、あなたが気を使う必要もないから」
自分で言ったものの、それは気を使えと言っているのと同義でしかなかった。コミュニケーションという、偽善と体裁で成り立った行為は難しい。誰も本心なんて見せられない。だから誰も本心を信じない。
「気を使ってなんて、ない、よ。私、鳩場さんともっと、仲良くなりたい、し、私にも、気を使わないで、ほしい、から」
彼女の言葉に、少しだけ驚いた。私が気を使っていると? それは違う。あなたのように、機嫌を損ねないように怯えてなどいない。彼らのように、関係性を保つために虚飾で塗り固めてなんかしていない。
そうしないと会話にならないから、そうしないと同じ目線にならないから。
――それを、気を使っていると、彼女は認識しているのだろうか。
私が、相手を見下して程度を合わせていることを、気を使っていると言いたいのだろうか。侮辱的で屈辱的で、優越感の誇示でしかないことを、そんな優しい言葉で表現しているのか。
あるいは、そんな悪意を、彼女は汲み取れないのだろうか。足りないものを笑う視線に、彼女は気づけないのだろうか。
「気なんて使ってないから……私、性格悪いし、あなたのことは嫌い」
「でも、教えてくれようとしてる。性格悪くても、私のこと嫌いでも、私のことを好きでいてくれる人より、ずっと優しくて責任感があって、頑張ってる」
留木は、こちらを見ることもなく、うつむいたまま言葉を絞り出している。それがなぜか、彼女の本心から出ているのだと思わされてしまう。
「て、てんちが言ってた。鳩場さんなら、上手く教えてくれるって……」
「私はおちこぼれだから、あなたとも波長が合うって意味かしらね」
「ち、違うよっ! ……鳩場さんが一番、感覚じゃなくて理論的に問題と向き合っているって……だから、すごいって」
どこで私の勉強や解き方の傾向を分析したのか知らないが、天使の言う私の像を否定できなくて悔しい気持ちになる。すごい、だなんてひどい当てつけだ。自分よりすごい人間に褒められるのは嬉しいことだが、あまりにもレベルが違えば、それは嫌味でしかない。
「それで、鳩場さんのすごさを知ってもらって、仲良くなるためにみんなで勉強会をしようって――」
「——は?」
黙って聞いていようと思ったが、つい口から憤りの息が漏れてしまった。つまりはすべて天使の差し金と言うことだったのだ。クラス委員長なのにクラスの輪から外れた可哀想な私を助けてあげようなんて、優しい天使ちゃんのアイデアだったのだ。
「——田尾が」
田尾が言ったのか。ますます迷惑な奴だという認識が深くなる。
「別に、私は理解されたいと思わない。クラスの人とも、仲良くするつもりは無いから。でも、輪を乱すつもりもないし、嫌うなら嫌ってくれて構わない」
「でも、でも……」
留木は何か言いたげに、私の方を相変わらず怯えた目で見る。
「今日は気が向いたから来てあげただけ。あなたに教えたら、もう帰るつもり。それで仲良し会はおしまい、委員長なんて少し嫌われるくらいの方がいいの」
「そんなこと……ない、と思う。私、私は、鳩場さんと仲良くなりたい、から」
「それは、天使ちゃんにそう言われたから。違う?」
自分でも意地悪なことを言っていると思いながら、今にも泣きだしそうに唇をかむ少女を問い詰める。もうとっくに問題もノートも出されていたが、勉強会を始めるつもりは無い。
「わたし……私、目標があるの。自立して、お母さんにもおばあちゃんにも負担をかけないようにしたい。だから、国公立に行きたい」
「それで?」
「それで、えっと……だから、鳩場さんは、自分で色んなことを考えられてすごいなって、思って。だから、仲良くなりたくて。だから、鳩場さんと仲良くなりたいのは、私がそう決めたからなの」
「思ったより打算的なのね。でもそれって、何か私に得がある? あなたといても、時間の無駄なだけよ」
「……分かんないよ……私、馬鹿だから、鳩場さんのこととか、言っていることも、全然分かんない……でも、鳩場さんと仲良くしたいの。それじゃ、ダメかな……?」
彼女は、救いを求めるように潤んだ瞳で私を見る。本当に自立なんて言葉とは程遠い、幼児のような人間だ。ひたすらに手がかかって、時間を浪費して得るようなものもない。
「——分からないなら、努力しなくちゃいけないわ。間違えて、失敗して、恥をかいて、そうしてようやく踏み出した一歩が、意味のないものだとしても、努力しなくちゃいけない。そうしないと、決して前には進めない」
「……?」
「つまり、さっさとその問題集をはじめたらどう? って意味よ。私、あなたのこと嫌いって言ったでしょう。だから、あなたの質問への答えはイエス。ダメよ。私は、あなたと仲良くしたくないもの」
私には、才能がない。人と関わる才能も、人に優しくする才能も。彼女が持っているそれが羨ましくてたまらないと同時に、ひどく不愉快で鳥肌が立つ。私は、嘘を吐くのが苦手だから。嘘には、意味がないから。
――――努力なら、誰にでもできる。
だから、両親に言われてきたその言葉を、馬鹿正直に信じて生きてきた。それが嘘にならないように、あの人たちとの関係を、嘘だと思わないように。
だけれど、こんなにも惨めに、誰かに弱さをさらす顔を見ていると、規格外なんかと自分を比べている私の方が馬鹿みたいに思えてくる。
そうだ。私には才能がない。別に、それの何がいけないというのだ。才能が無くても、笑っている人がいる。なら、私も笑っていたいのだ。心から、楽しいと思う方へ進みたい。
――――思い出した。私の人生は、嘘ばかりだったじゃないか。
「ほら、鳩場さん一人じゃん。行ってきなって……」
「え~、私やだ~。ジャン負けにしようよ」
――――私、一人でできるからいいよ。
不揃いの羽音が耳障りに脳を揺さぶる。
私だって、友達が欲しくなかったわけじゃない。友達に適格な人間がいなかっただけの事だ。彼女たちを友達にするくらいなら、一人の方がずっと良かった。
「すごいじゃないか、冠凛。学年二位なんて、そうそう取れる物じゃない!なぁ母さん」
「ええそうね、すごいわ冠凛」
――――――うん、そうでしょ。私、頭良いからさ。だって、二人の子どもだもん。
嫌悪、嫉妬、憎悪、怨恨。不快な悪感情が脳を満たす。
私は、いつだって一番が良かった。誰に何と言われようが、それ以外に価値は無くて、あの人たちの口だけの称賛に、心が動いたこともない。
――もう、いいじゃない。一位でなくたって。
………ええ、そうね。一位でなくたって、もういいわ。だってもう、私が一位になることなんてないと、誰よりも私は分かっているのだもの。
そう、私が求めていたのは、誰かに勝つことだった。一位でなくたって、楽しければそれでいい。手を変え品を変え、諦めて逃げ出して、その先のほんの一瞬の、勝利のために、努力を続ける。深追いなんてしなくていい。その一瞬の勝利さえあれば。
だって、勝ち逃げって最高の気分だから。
「——だけど、勉強くらいは教えてあげてもいいわ。そうしたら、こんな気味の悪い勉強会、開かなくても済むでしょう?」
心を満たしたのは、そんな気味の悪い愉悦。天使にはできない私だけの遊び。
小動物のように可愛らしく丸っこい少女は、一瞬戸惑うように目をぱちくりとさせて、それから歓喜の色を顔いっぱいに浮かべる。
「勉強、教えてくれるの⁉」
彼女の中で、私の言葉はどう咀嚼され反芻されたのだろう。どれだけの含意が正しく飲み込まれたのだろう。
少なくとも彼女は、私の提案を好意的に受け取ったらしい。
「ええ、まずは課題の範囲を開いて」
「うん」
「それから、解答のページも開いて」
「み、見ていいの?」
「ええ、まずは、その解答を全部写してみて」
「で、でも、それじゃあ勉強にはならないんじゃ――」
「いいから、やってみて」
少女は、少し圧をかけると、素直に解答を写し始めた。
「ただ写すんじゃだめよ。どの文章がどの式の次に来るかを意識してみて。もう一度」
分かっているのかどうか、判断がつかないが、少なくとも従順に指示に従っている。
「で、できた」
「それじゃあ、解答を閉じて、問題文を見ましょうか」
「でも、もう答えを覚えちゃったから、簡単に解けると思うけど」
「本当? なら、やってみましょうか。答えは見ちゃあだめだからね」
少女は、何度も解答を書き写した問題に、改めて取り組む。しかし、中盤になると対応関係が曖昧になっていたのか、式の展開に難儀し始める。
「あら、出来ていないみたいだけど」
「ち、違くて……さっきと同じように進めたのに、なんか変になって……」
「じゃあ、解答をもう一度見ましょう。あなたの答えと比べてみて?」
「ここの置き換えが違う……」
「ふふ……AとDは小文字だと紛らわしいものね。でも、それって、文字で覚えているってことでしょう?きちんと流れを覚えないと」
「流れ?」
「模範解答が、何に着目してどこから問題をほどいているのか。あなたが詰まった部分が、今、一つ分かったでしょう? それを一つ一つ模範解答と照らし合わせて修正するの。数学なら、それで解けるようになるわ」
「や、やってみる」
少女は再び問題に取り掛かる。
このくらいの作業なら、一人でもできると思ってしまうが、誰かに言われてやることと、自分だけでやることでは、前者の方が前に進みやすい。なぜなら、失敗の責任を人に押し付けることができるからだ。失敗しても自分は悪くないと言い訳できるからだ。
「と、解けた……」
「じゃあ、もう一度検算してみて」
「で、できてる……」
「それじゃあ、試験の問題を見ましょうか。この問題は少しだけ改題されていたわね」
そして何より、成果は自分で独り占めにできる。行動したのは自分なんだからと、恩を捨てて撥ねつけても構わない。
「と、解けた……?」
「ええ、正解ね」
「で、でも、これ全部の問題でやるの?」
教室の時計を見ると、すっかり長針は反対側に回っていた。たった十点ぽっちの問題に、かなりの時間を割いている。この調子ではこの勉強会の中ではあと数問が限度だろう。それにおそらく、彼女には他の科目の補修もあるはずだ。そのすべてを網羅するには、苦労することだろう。
「——ええ、そうよ」
「すごい解けるようにはなったけど、でも、一問にこんなにかけてたら……」
「じゃあ、あなたのこれまでの勉強時間はどれくらいあったのかしら。効率の悪い確実な勉強法と、効率すら分からない意味のない勉強法とで、どちらの方がいいと思うの?」
「それは……」
「自立したいなら、努力をしなくちゃいけないわ。そう、簡単なことでしょ? 努力は、誰にだってできるわ。もちろん、留木さん、あなたにも」
私は女郎蜘蛛にでもなった気分で、妖艶に囁き笑う。
糸の先には可愛い可愛いハムスター。疑うこともなく、用意された道を走り続ける哀れな少女。あなたが身をゆだねるのなら、私が素敵に踊らせてあげる。
あなたがいつか自立したとき、思い出してしまうような甘い飴を。身に染みて忘れられなくなるくらい素敵な鞭を。
あなたが望むなら、血のにじむような努力の方法を教えてあげる。才能のない人間が歩き出すための、走り出すための、そして――——羽ばたくための。
「——う、うん。頑張る! 私、頑張りたいの!」
そうしていつか、あなたはどこかで報われるといいわ。その時にようやく、私はあの天使に勝てるのだから。ただ一人でも、道に迷って落ちていくあなたを掬い取れたなら。
それから、一時間ほど留木は勉強をつづけた。
だんだんと習熟し、感覚を掴めたのか、何とかキリの良いところまで終わることができた。
「なぁ、それ何やってんの?」
また、はた迷惑な男がやってきて、横から口を挟む。
「田尾には教えねぇよっ!」
私よりは随分親し気に、留木は田尾に言い放つ。
「いや、別にいいけどさ……解答開きながら問題解くって、意味なくね?」
「そう思うなら、あなたはやらなければいい話でしょう? その代わり、あなたは赤点から逃れられないけれどね」
「んなにぃっ⁉ つーか、俺は赤点取ってないっつーの」
田尾が大げさなリアクションを取ると、さすがに目立つのか、友人の――有飼、そう有飼くんが近づいてきた。
「あれ、田尾来たんだ。じゃあ、もう解散かな……留木さん、めっちゃ頑張ってたね。良かったらおすすめの勉強方教えて」
「あ、うん」
「……いや、やっぱいいや。めんどくさそうだし……俺も真面目に勉強するかなぁ」
有飼は細目を閉じて、背伸びをした。眠たそうな顔と表情のわりに、思ったよりはっきりとしゃべるのね……それに、口数も多い。
「田尾来たし、今日は解散にしよっ」
「えっ、なに俺って鶏の逆みたいな立ち位置?」
「よく分かんないし、それでいいんじゃない。結構名誉なことかもよ」
「ぜってぇちげぇ」
クスリと愛想笑いをすると、留木も少しだけ笑う。
「鳩場さん、良かったら一緒に帰らない?」
「ええ、もちろん。それと、冠凛でいいわよ、ハムちゃん?」
「は、はむ……う、うん、分かった。か、冠凛、ちゃん」
なんだかそうしていると、本当の友達の様で、懐かしいような温かい気持ちになった。
良く話す彼女のおかげで、退屈しない帰り道を過ごした。偶然にも、近くの団地だったようで、分岐点は案外学校から遠かった。
お気に入りのCDを流すように、帰り道の会話を脳内で反芻する。
「ただいま」
玄関のドアを開けた私の家は、昨日までと一つも変わりやしないけれど、私はもう、昨日までとは違っていた。
「あら、何か良いことでもあった?」
いつもは耳障りな母の声も、今日だけはその苦しさが心地いい。
「ううん、なぁんにも無かったよ」
きっとまた、いつもと同じような言葉をかけられるんだと思いながら、テストの結果を親に報告して、やっぱり何も変わらなくて。それがなぜだか、嬉しく感じた。
いつか天使の被った冠をかすめ取る日を、虎視眈々と思い続ける。それまで精々美しく、可憐に、奔放に、鷹揚と、あなたは空を飛んでいるといいわ。
明日もまた学校だと、初めてそれが楽しみになった。