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誰も救えない天使の話  作者: 錆井鈴江
台典商高編  一年生
32/81

特別編 異世界天使冒険譚

愛ヶ崎天使 (まながさき てんし):主人公の少女。ゲームでは、レベル上げをしっかりやりすぎてボスを瞬殺してしまうタイプ。


細小路悠怜 (ささめこうじ ゆうれい):様々な事情により、天使と同居することになった少女。自分でゲームをプレイすることは無いが、天使がゲームしているのを後ろから見てグラフィックやアートワークに感動している。

 

 目を開くと、暖かい野原の匂いが顔を撫ぜた。まぶしい光がはるか彼方まで続くようなまっすぐな道を照らしている。多くの人が通ったのだろう、整備されたその砂利道には深い轍が残されている。


 何度か瞬きをするうちに、ぼんやりと霞がかっていたような景色が明瞭に描写されていく。辺りを見回すと、見たことのないほど高い山が、しかしずっと遠くにそびえている。自分が立っている道は、雄大な草原に挟まれ、その奥にはうっそうと茂る広葉樹が成す森林が広がっているようだ。


 神経が全身に伸びていき、五体の感覚をはっきりと感じる。視線を落とし、自分の体が自分の物であることを確認する。


「って、なにこれ!」


 天使は自分の服装を見て、素っ頓狂な声を上げる。その声は確かに広い山野に吸い込まれていったはずだが、不思議と聴覚には響かない気がした。口を開いて、声を出しているのに、その振動を一つも感じない。言葉を発しているという結果だけがあり、その過程は一つも残されていない。まるで、ゲームのテキストを読んでいるような、そんな気持ちだ。


 天使は、腰のあたりから放射状に広がる白い布を掴み上げながら、それは変だと考える。それだと、私は私を俯瞰していることになる。


「それは変だよ」


 そう考えていると、いよいよ視界のほんの少し前の方、手を伸ばしても少しだけ届かないところに、自分が発したはずの言葉が、白い長方形のテキストボックスに入って表示され始めた。


 天使はこの不可解な状況に困惑し、改めて自分の服装を確認する。


 大まかに言えば、ドレスというのが近いのだろう。腹部と胸がぴっちりとした布地に覆われ、対照的に裾は開放的に広がっている。花のように白や赤の布地が交互にスカートのデザインを彩っている。不思議なことに、重なったスカート地は軽く、歩行の邪魔にならない。こんなにも日差しが強いのに、暑くも無かった。


 しかし、と天使は嘆息する。


 ドレスは胸元を守る金の装飾を最後に、それ以上の部分はさらけ出す形になっていた。装飾を支えるようにチョーカーが接続している程度で、肩から肘にかけては生肌が覗いている。そう認識して初めて、天使は自分が肘まである白の手袋を身に着けていることに気が付いた。


 厳かで仰々しい金の装飾と、軽く薄っぺらな、純白に朱を垂らしたようなドレス。そのアンバランスさが、少し恥ずかしく、理不尽で不明瞭な状況で一人であることの不安をいっそう煽った。


「これは、夢?」


 また白い吹き出しが現れる。


 夢。そうか、そんな気がしてきた。心当たりなら、無いことはない。暇つぶしに寄ったパソコン研究会の生徒に、オンラインRPGを勧められたのだ。最近はすっかり夢中になり、寝る前に同居人に怒られたりしているほどだ。つまりは、そのゲーム世界に入ってしまうという妄想を今自分はしているのだろう。


 そう自覚しようとした瞬間、突然世界が、ブラックホールに包まれるような暗闇に落ちる。ずっと後ろの方から真っ暗な何かが迫ってくる。その闇に飲み込まれたテクスチャがどうなったのか、思考を巡らせるほど天使はノロマではない。頭の奥の方がすっと冷たくなる。


 得体のしれない恐怖に、慌てて思考を振り切るように、虚無と反対の方向へ走り出す。確かにヒールを履いていたはずなのに、かかとの痛みも走りづらさも感じなかった。


「はぁ……はぁ……」


 吹き出しが出る余裕もないほど必死に走り、膝に手をついて息を整える。胡乱な目で見上げた先は、森の入り口だった。ご丁寧に道の始まりには看板が立てられているが、何が書いてあるのかは遠目では読み取れなかった。


「なに、してるの?」


 不意にかけられた声に振り向くと、そこにはよく見知った顔があった。


「——悠怜(ゆうれい)ちゃん?」


 その顔立ち、声、体格、振る舞いは確かに、天使の同居人でありクラスメイトでもある細小路悠怜そのものであった。


「あなた、どうして私の名前を知っているの?まぁ、私も有名人になったってことかな。そうだよ。私は()()()()()。いずれ世界を救う大勇者だよ」


 天使は自信気に胸を張る少女を見て、頭が痛くなってきた。いや、痛みは感じていないので、頭が痛い気がしてきたというのが正しい。


 その少女——どうみたって同居人なのだが――は肌の見えない甲冑と、薄い水色のマントをたなびかせている。うすうす予感はしていたが、やはり勇者なのか。


 どうせなら私が勇者になりたかったのに。それと比べたら、私はおそらくお姫様といったところだろうか。女の子なら誰だって憧れる最高の役回りだが、どうしようもなく、異世界ならモンスターを攻撃してぶっ飛ばしたいという欲望が邪魔をして喜びきれない。


 誰だってそうだろう。わざわざRPGの世界に来たのだから、爽快な剣技や大規模な魔法で敵をやっつけたいはずだ。そして、それは世界を救う勇者の役目なのだ。


 彼女の服装と比べると、自分がいかに軽装かを思い知らされる。絶対に前衛ではない。


 天使はすっかり気を落として、もう夢なら覚めていいよ、と思ったが、取り敢えずもう少し話を聞いてみることにした。


「それで、その大勇者様が、どうしてこんなところに?」


「えっと、あなたと同じ理由だと思うのだけど。そこの看板が見えない?」


 天使は指さされて、改めて森の入り口の看板に目を向ける。さっきは随分と遠かった気がするが、手で持っているかのように都合の良い大きさで文章が目に入る。


「……ゴブリンの森」


 文字はどこの言語か分からないが、そう意味だけが理解できた。目に見えないフリガナを読んだ気持ちだ。


「そう。私はここにゴブリン退治にやってきたの。あなたがどうしてもって言うなら、一緒に行ってあげてもいいけど?」


 ゲーム風に言えば、クエストみたいなものなのだろうか。現実世界よりも少しだけ上から目線で、悠怜、いやユウ=レイは提案してきた。やはり勇者だから傲慢な感じになっているのだろうか。


——いや、お姫様の方が偉くない?と天使は疑問に思ったが、きっと王位継承権がめちゃくちゃに低いのだろう。


「じゃあ、お願いしようかな」


 そう口にしたはずだったが、勇者様は腕を組んだまま微動だにしない。不思議に思っていると、視界の端に2つの吹き出しが固定されているのに気が付く。


 Q「行ってあげないこともありませんわ!」

 E「下賤な農民上がりの小娘と一緒するほど、落ちぶれてはいませんわ!」


――そういうキャラなの、私⁉

 というか、断る語彙だけ豊富だな……と少しだけ断りたい衝動に駆られながら、同行に賛成する方の吹き出しに触れてみる。ポワンと不思議な音が鳴って、吹き出しがどこかに消える。


「よし、じゃあパーティー結成だね。ゴブリン退治、出発だ~!」


 唐突に静止状態から動き始めたユウ=レイは、唖然とした天使の横をすり抜けて、森の奥へと進んでいった。





 ザッザッと二人の足音が森の奥へと響いていく。


――いや、本当に自分たちの足音なのか? 天使は自分の装備を考えながら、疑問を抱く。自分はヒール、といっても履き心地はパンプスどころか裸足のような感覚だ。それでいて足の負担は感じられない。これが夢補正か、などと考えていると、またあの暗闇が来てしまいそうで思考を追いやる。


 暗い森の中を進むと、不意に、戦いに適した感じの開けた場所に出る。適度な広さの花畑、時期ではないのか草原のような原野だ。ゴブリンの森でなければ、ブルーシートを広げてサンドイッチでも食べたいところだ。


「来たよっ!」


 ユウ=レイが牽制するように声を上げると、茂みの向こうから一匹のモンスターが飛び出してきた!

 ぴちゃりとわらび餅を床に落としたときのような音——実際現れたのは、それに類似した丸い粘性のモンスター、いわゆるスライムというやつだった。


「ゴブリンの森って、スライムも出るんだ」


 天使の前に現れた吹き出しに、ユウ=レイは反応しない。


「まぁ、先手必勝だよね?ってえええい!」


 天使は、剣を構えたまま上下に体を揺らして立ち止まったままのユウ=レイを追い越して、スライムを蹴り上げた。粘性の体を薄黄色のヒールが蹴り裂いて、辺りに肉片のような水滴が散る。


「ふんっ。まぁ、ボクにかかればこんなものだよ」


 天使がバラバラになったスライムを見下ろして腕を組んでいると、不意に視界が狭まり倒れたスライムにズームインしていく。もう不自然な視界の変化には慣れてきた。


「……あれ?」


 バラバラに散っていったはずのスライムの体が、逆再生のように元の形に戻っていく。


「ちょっと、何してるの?」


 相変わらず、剣を構えたまま浅いスクワットを続けているユウ=レイの元に戻ると、困惑するような冷たい目で見られた。


「コマンドを選択しないと攻撃は通らないよ!」


 まるでチュートリアルを教えてくれるノンプレイヤーキャラのように、ユウ=レイは堅苦しい言い方で、そう言い放った。


 コマンド? と天使は首をかしげる。どうせ夢なら気持ちよく戦わせてくれたらいいものを、どうやら自分の理性というか変なこだわりの部分が、この異世界での冒険譚におけるゲーム的な設定をきちんと通そうとしているらしい。


 目を敵の方に戻すと、すでに先ほどの攻撃など無かったかのように、スライムは元の通りこちらを睨んだまま(というか、スライムには目がないはずなのになぜこちらを向いていると分かるのだろう。きっと私がそう思ったからだ)飛び跳ねている。


「ええいっ!」


 ユウ=レイが果敢に剣でスライムに切りかかる。おそらくそれほど謂れのないだろう旅立ちの剣は、スライムの柔らかい体に包み込まれて甲斐なしとなるかと思われたが、不思議や不思議、適度なダメージを与えた。その証拠に、スライムの頭上に現れた緑色のゲージがわずかに減る。


 ユウ=レイは、わずかに弱った敵に連撃をすることもなく、再び跳び上がると元のように剣を構えて、屈伸煽りのように上下に揺れた。きっとそんな滑稽な動きをしているつもりは無いのだろう。彼女の顔は真剣だ。


「ええと、じゃあ……」


 天使はおそらく自分のターンだと思い、勘で中空をタッチする。コマンドを呼び出すボタンがそこにあったかは不明だが、とりあえず目の前にスキルの一覧と思われる吹き出しが数列出てくる。夢のくせに最強状態で戦わせてくれないらしい。


「いっけえ、ファイアボール!」


 幸運なことに、あるいは冒険の初めに姫職に攻撃魔法を覚えさせる不運のために、天使はMPを消費してスライムに攻撃する。どういう原理かは分からないが、何もない空間から突然、炎の球が現れスライムに向かって突進する。


 しかし、スライムは器用に跳躍すると、その進路から外れる。炎の球は草むらで延焼することもなく、土の中に消えていった。天使をあざけるように、スライムがいた位置に鼠色の「MISS」という文字が現れる。


 魔法を放って、すっかりいい気分になっていた天使は、目をぱちくりとさせて不条理な現実を再確認する。いや、この場合は不条理な夢か。


「あぶないっ!」


 意気消沈としていた天使に、ユウ=レイが叫ぶ。


 スライムのターンだ。ロクに四肢もないモンスターは、定型通り体当たり攻撃を仕掛けてくる。特に防御するつもりも無かった天使の腹部に、柔らかい感触と動的エネルギーが伝わる。


「うぐぅっ」


 耐えられないほどではないが、あまり多くは食らいたくない痛みが走る。視線を軽く上にやると、緑色のゲージが減っていき、黄色く変化するところが見えた。嘘っ、私って体力なさすぎ⁉


「これ、使って!」


 やはりお行儀よく元の位置に戻ったスライムを尻目に、ユウ=レイは天使に小瓶を投げ渡した。おそらくは回復薬か何かだろう。


 その場のノリというか、攻撃を食らってまともでなくなっていた脳のせいで、天使は一気にそれを飲み干す。夢の中や怪しい空間の中では飲み食いしてはいけないというのが通説だが、そんなことは知ったことではない。


 途端、体の痛みが引いていき、頭痛や興奮状態がすっと楽になる。これもうそういう薬物では? と思わなくはないが、健康的な効果ばかりなので回復薬というのだろう。おそらく緑色に戻った頭上のゲージから気をそらす。


 すっかり頭が冴え渡ったので、いつもは環境保護に熱心な天使も、今回ばかりは回復薬の空き瓶を森に投げ捨て、改めて攻撃魔法を詠唱する――つまりはファイアボールのコマンドをタッチする。


「焼き尽くせぇっ!」


 なんとなく叫び声をあげたらクリティカルが出やすくなる気がして、天使はスポーツ選手もかくやという声を上げる。


 果たして炎球はスライムに直撃し、一瞬縦に長く伸びたかと思うとスライムは、ぐったりと地面にとろけた。


「やったね、大勝利!」


 軽く一回転してポーズを決めると、ユウ=レイも同じように固有のモーションを披露していた。こういうときに俯瞰の視点になってほしいものだ。


 天使がスライムに突進されたお腹をさすっていると、ユウ=レイはしゃがみこんでスライムのいた場所で何か作業をしていた。


「何してるの?」


「見て分からない?採集作業よ。お金持ちのあなたには必要ないかもしれないけど」


「素材集めってことね」


 天使はしばらく、スポイトでスライムを吸い上げてジッパーのついた袋に詰めるユウ=レイを見ていようと思ったが、夢でまで暇することはないかと先を行くことにした。






 しばらく森を進むと、ユウ=レイが話しかけてきた。


「そろそろ目的地ね。そういえば、あなたの名前はまだ聞いていなかった。一緒のパーティーなんだし、教えてくれない?」


「私は天使だよ。よろしくね」


 天使は、異世界で元の世界の名前を名乗ってもいいのだろうかと不安になったが、もうすでに発言は吹き出しに乗って出てこなくなっていたし、ユウ=レイの口調も、悠怜ちゃんとゲームの中の勇者の口調でごちゃ混ぜになっていたので、気にしないでいいかと思いなおす。細かいことを気にしていたら、夢なんて楽しめないもの。


「ふぅん、変な名前ね」


 天使は、唐突な直接の悪口に思わず胸を押さえてダウンする。オーバーなリアクションだったが、そうしたい気分だった。


 現実の悠怜ちゃんなら絶対に言わないセリフだったが、きっとほんの一瞬でも「そう言われる」と思ってしまったのが良くないのだ。つまりは、私の心の問題なのだ。私はまだ、自分の名前を名乗ることを完全に克服したわけではない。


「——でも、私は好きだな。よろしくね、天使ちゃん」


「——うんっ!」


 それでも、異世界でも、夢の中でも、悠怜ちゃんは悠怜ちゃんだった!そんな感動と喜びと共に、差し出された手を取る。それも自分がそうあってほしいと願ったからではないか、という野暮なことは虚空に葬り捨てよう。人はなぜ夢を見るのか、それはそうあってほしいと願ったからだ。楽しい世界に行きたいと願ったからだ。今だけはそう思っておくことにした。


「ゴヒュルブルルゥゥ」


 そんな感動の場面を邪魔するように、緑色のモンスターが現れる。小さな人間のようでありながら、その顔面は豚のような醜さだ。そんなことを言うと、ゴブリンと豚の愛護団体か人権団体に訴えられてしまうかもしれない。しかしながら、今は命の危機だ。モンスターを前にして、権利がどうなどと考えてはいられない。それに、これは仕事なのだ。権利の主張は大事だが、仕事の邪魔をするならファイアボールをお見舞いだ。


 と、怪物が現れただけで、天使は一時停止ボタンを押さないといけないくらいに思考を回し、杖も振り回した。(杖なんて持っていたかって?振り回したってことは持っていたのさ)


「出たな、ゴブリン! 食らええっ、火炎切りっ!」


 悠怜は血気盛んに炎をまとった剣を切りつける。


 天使は、自分のスキルで炎属性を武器に付与できるのに、そんな技を持っていたら重複してしまうではないかと悲しくなってしまった。というか、炎属性の剣って何なんだ。そんなもの、どう考えたって即死だろう。でも、あんまり使った記憶がないな……序盤に使えるようになるせいで、後半の敵は炎に対する耐性が高かったりするからか。後半は闇属性とかちょっとズルいぐらい強い技を擦るから、序盤の技とか鼬の最後っ屁みたいなもので、負け確の時かMP不足の時に使っとくかぁぐらいの信用度になっちゃうんだよなぁ。でも実際にあったら炎属性が一番怖いよね、だって当たっただけでやけどしちゃうもんね。


 そんなことをぼんやり考えているうちに、ユウ=レイの攻撃が終わる。ゴブリンの体が炎に包まれ、バッサリと両断される。そもそも両断されたら死なない?


 スライムの時のように元に戻っていくのかと思っていたら、そのままゴブリンは動かなくなってしまった。即死とか野暮なことを考えたからだ、あーあ。


 味方とゴブリンの間の中空に「クエストクリア!」という吹き出しが現れる。どうやら何かのクエストをクリアしたらしい。やったね。


 ユウ=レイは再びゴブリンの死体の元に向かうと素材採集を始めた。


「えーっと、背骨、首輪……固いなこれ。切っちゃえ。えいっ……皮は後で洗った方がいいのかな」


 ユウ=レイは迷いなく旅立ちからの相棒の一振りを使って、ゴブリンを切開して素材に分けていく。幸いにも、夢補正で切り口からは虹色のシャワーが流れ出している。


「思ったより、グロ……」


 天使は吐き気を催したが、これが冒険者の日常だ。


「何か手伝おうか?」


 そう声をかけたが、手伝える気はしていなかった。これ以上近づいたら、虹色のシャワーが現実味のある色に変わってしまいそう――なんて考えるのも危険だ。


「大丈夫、もうすぐ終わるから――よしっ。それじゃあ、クエストも終わったし帰ろうよ」


 ユウ=レイはゴブリンから採集した素材が入った麻袋を担いで立ち上がった。血とか垂れたりしないのかな……




 ともかく町まで行けばいいのかな、と天使は考えて一歩を踏み出そうとしたが、それ以上に良い手を思いついて立ち止まる。横から聞こえるユウ=レイの足音をできるだけ意識せずに、目を閉じてクエストを報告できそうな仲介役の居そうな場所を思い浮かべる。


 果たして、天使が目を開くと、そこは人間の行き交う町の通りであった。夢って便利だなぁ。


 ユウ=レイが木造のそれなりに大きな建物に入っていく。天使も看板や外装をちらちらと見ながら後を追う。看板の文字は全く読めなかったが、おそらく冒険者協会と書いてあったと思う。書いていなくてもそう思って入ればそうなっていることだろう。


「あら~、ユウ=レイちゃん、今回もさすがの仕事ぶりね。これ、報酬よ」


 協会受付のおばさんがカウンターにどすんとそれなりに中身の入った袋を置いた。おそらくは金貨か何かなのだろう。


「まぁ、私にかかれば余裕かな」


 かなり調子に乗っている。でも、悠怜ちゃんではないにしても、ほぼ同じ見た目の人間が元気そうにしていることは、天使にとって何となく嬉しくなることだった。


「ねぇ、天使ちゃん。天使ちゃんは今日の宿、もう決めてる?」


「宿?」


 すっかり意識を飛ばして場所を転移することに慣れてしまっていた天使は、宿泊という概念がこの世界、夢の中にあるということに驚いた。夢の中だとしても、世界に睡眠がないわけではないのか――もしかしたら、次の夢ではここからスタートできるようになるのかもしれない。


「もう、お姫さまったらそんなことも知らないの? なら、今日は一緒に泊まろう?」


「えっと、私はいいよ。そのお金だってユウ=レイの物でしょ?」


 この世界での睡眠がどういった意味合いになるのか。興味がないわけではなかったが、少しだけ怖い気持ちになってきたので、もっともらしい理由で断ろうとする。


「良いって良いって。ほら行くよ~」


 しかし、強引なユウ=レイに背中を押され、天使は気づけば宿屋の部屋の中にいた。一瞬でも断り切れないと思ったらこうなってしまうのが、恐ろしいところだ。しばらく、ホラー映画なんかは見ない方がいいかもしれない。


 部屋の中は木造のホテルと言った様子だ。時代設定が前時代的であったとしても、現代っ子の天使が音を上げるような不衛生さはない。これならきっちりとお楽しみできそうだ。


「ねえ、天使ちゃん」


「ん、なぁに?」


 二人で一つの大きなベッドに寝転がる。なんだか同棲を始めたころの、まだ寝る場所が一つしかなかった頃のことを思い出す。


「明日も、一緒に冒険したいな。ううん、明日だけじゃなくて、これからずっと」


 それが自分の心のどこかから抽出された願いだということは、天使にもだんだんと分かっている。これは彼女の言葉ではないのだ。


「うん、もちろん。キミが望むならいつまでも」


 なんだか、とても幸せな夢だとそう思った。温かな気持ちで枕を引き寄せると、自然と睡魔が襲ってくる。夢なのに、睡魔が……







「おやすみなさい、ユウ=レイちゃん……」


「って、寝るな! もう朝だよ天使ちゃんっ! 登校時間!」


 天使は誰かが体を強く揺らしていることを、だんだんと実感する。これは、夢か。


「明日も……一緒に……」


 天使は寝ぼけた口調で言いながら布団を深くかぶる。


「こら~! 起きなさ~い!」


 夢と現実の境が曖昧になってしまっている天使の布団を、悠怜は容赦なく剥ぎ取る。部屋の少し寒い空気が、乱れた寝巻の隙間から天使の腹部に入り込む。


「さっむ――って、悠怜ちゃん……今日はどこに出かけるの?」


「何寝ぼけたこと言ってるの?今日は平日なんだから、学校に決まってるでしょ」


 天使は雑多な脳内を整理するために、硬直したまま何度かゆっくりとまばたきした。だんだんと理解が追い付く。ああ、そうか。やっぱりあれは夢だったんだ。


「そっか。うん、おはよ、悠怜ちゃん」


「早くないからっ! 遅刻しちゃうよ!」


 せわしなく朝ごはんの用意をする同居人の姿に、天使は言いようのない安心感を覚える。昨晩の残り物の味噌汁の匂いが、まだ靄のかかったような意識を覚ます。


「ねぇ、悠怜ちゃん」


「ん、なぁに?」


 天使がベッドのふちに腰掛けたまま声をかけると、キッチンの方から悠怜が返答する。


「——ううん、何でもない」


 天使は、今見た夢の話を彼女に聞かせようと思ったが、すんでのところで止めてしまった。なんだか、話してしまったら本当に夢のように消えてしまう気がした。


 奇妙な夢の話。二人で少しだけ冒険した話。


 ちょっぴり幸せな物語は、この胸の中にしまっておこう。そうしたら、また取り出せるかもしれないから。


「ちょっと、起きたなら手伝ってよ~」


「はぁい」


 天使はのっそりと起きだす。幸せな時間を、当たり前の現実を、それでも噛みしめるように。



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