第三十話 卒業式。青。
・主な登場人物
愛ヶ崎天使:この物語の主人公。天使ちゃん。
藍虎碧:一年四組のクラス委員長。兼生徒会執行部書記。
丸背南子:ニャンコ先輩。生徒会二年の副会長。猫背で丸眼鏡の落ち着いた少女。卒業式は、毎年眠いなーと思っている。それなりにきちんと校歌や国家を歌う方。
三峰壱子:ワンコ先輩。生徒会二年の生徒会長。低い身長と元気で独特な口調が犬っぽい女子生徒。送辞では一笑いとれて満足している。
亜熊遥斗:悪魔先輩。三年の元生徒会長。冷静で気が利く男子生徒。卒業式で泣いている生徒を見ると、むしろ涙が引っ込むタイプ。
神城怜子:三年の元副会長。自称『神以上』の神城。今日の晩御飯は、デパ地下の総菜でオードブル。
その学校には、悪魔がいた。
それは、ある生徒の名前をもじったあだ名だ。怖がられていたということはなく、むしろ、優しく穏やかであったために、そうしてからかわれ始めたというあたりだ。
生徒であれば、往々にして進級し、三年たてば学び舎を去っていく。生徒会長であった彼ならば、当然その道理に反するわけもない。ただ普通の生徒がそうあるように、悪魔もまた、卒業していく。
その学校には、神以上と自ら吹聴する女子生徒がいた。
それは自身の名前をもじった二つ名だ。多くの生徒に尊敬され、褒めたたえられ、しかしそれ故に友人の少ない生徒だった。
多くの生徒に見送られ、卒業の記念にとサインやボタンをねだられ、しかし彼女自身は何ももらえない。ただその心には、楽しかった執行部での日々が残されていた。
都合の良いことに最前列にある自席へと、一歩一歩視線を感じながら踏み出していく。たいしたことのない作業だ。これまでの奔放極まる生徒たちの対応と比べれば、この程度の役割は児戯にも等しく、それゆえに退屈でもある。
「卒業生、起立」
学年団の代表教員の号令で、一斉に同級生たちが起立する。さすがに三年も同じようなことを繰り返せば、動きもそろってくる。これを成長や大人になった、なんて褒める人もいるらしいが、結局のところ、慣れでしかない。大学に入って一年もすれば、この中の何割ができなくなっていることだろう。
「——亜熊遥斗」
「はい」
自分の低い声がわずかに反響し、体育館の壁に消えていく。予行演習だというのに、わざわざ点呼をさせられるのは、どうにも不合理だと思う。一組の、名前の順番で早い方の人間だけが受ける不遇である。あぐま、よりも早い人間などそうはいない。いたとしても、この点呼の呪縛から逃れられるだけの数をそろえることはできないだろう。
目立ちたくはない、といつも思っていた。確かに二年の夏まではそう思っていたはずだ。
昼休みは数少ない友人の芽森と歓談し、放課後は誰の目に着く前に早々に帰宅する。勉強はそこそこできる方だと思っていたし、両親はそれに執着しなかった。いや、俺に、というほうが正しいのだろう。
思い返せば、あの時彼女に目を付けられたのがすべての原因なのだ。
あの頃の俺は、一人でいることが正しいことだと思っていた。当たり障りのない会話をしながら、内心では同級生を下に見ていた。真面目に何かに取り組むということも、何かに熱中したという記憶もない。ただ自分を保つことに必死で、冷静を装うために誰かと融け合うことから逃げていた。
今でも、不思議なことだと思う。なぜ彼女——神城は俺なんかに声をかけたのだろう。
人目もはばからず、教室に一人でいる俺に、彼女は突然に声をかけてきた。
「亜熊遥斗——遥斗って呼ぶわね。あなた、生徒会執行部に興味はない?」
その時すでに彼女は『神以上の神城』として、校内で噂になっていた。カリスマを感じさせる佇まいと、自信気な表情や言動。加えて、執行部での問題解決能力の高さが評価されたのだという。
この学校の噂など、根も葉もないどころか土すらないこともあるため、一々その噂に関心を持ったことは無かった。神以上、なんて馬鹿馬鹿しい。実際のところはどうだ。休み時間に貴重な学生生活を共有するような友人もいない俺のような生徒に、さも才能があるかのように声をかけてきた。これがアイドル事務所のプロデューサーなら解雇されていることだろう。あるいは、ナンパ詐欺師なら適職かもしれない。
「ないです」
「今の書記の子が、受験に集中したいって言って辞めるつもりなの。それで私の下で副会長として活動してくれる生徒を探しているのだけど」
「聞いてないです。そういう活動的なことは、商業科の生徒にでも頼めばいいでしょう」
「だめよ。もうあなたに決めたもの」
普通科とも言わずに、恥ずかしげもなく彼女はそう言い切った。その時の俺の顔は、ひどく嫌な顔をしていたと思いたいが、神城曰く「満更でもなさそう」とのことで、自分の仏頂面が恨めしい。
あの頃から変わらず、彼女は常識というものが、いや、躊躇いというものがなかった。
今にして思えば、それは彼女の家庭環境や生徒会執行部という偏った生育過程における認知のゆがみだ。簡単な話、『神以上』という自信過剰な喧伝は、甘える相手のいない彼女が自分の支えとするためのハリボテのようなものだったというだけの話である。彼女は人を頼ることが下手だった。やるべきことを判断することが苦手で、全てを背負おうとするきらいがあった。
当時の俺はそんなことを知るはずもなく、ただ純粋に、面倒な奴に絡まれてしまったと思っていた。一方で、『神以上』なんて言われている奴が、こうも自分を勧誘してくるという話自体に、心の躍らない部分が無かったとは言えない。その意味では、悔しいことに満更でもないという言葉を切り捨てきれない。
その日は結局、予鈴が鳴るまで断り続けて、渋々と言った様子で神城は帰っていった。それから、クラスメイトに、羨望のような疑惑のような視線を向けられ、居心地の悪かったことを覚えている。
放課後も、次の日も、神城は性懲りもなく勧誘に来た。
断り続けていた理由は、執行部という新しい環境へ足踏みしてしまう気持ちと、できればそんな注目されるようなことはしたくないという気持ち。あとは、この神城という女より先に折れたくはないという変な意地だった。
「ねぇ、あなた同級生でしょう?いい加減、タメ口でもいいのよ」
「いやいやそんな、あの神城さんにタメ口なんて恐れ多いです」
「……むかつく言い方するわね。じゃあ、こうしましょう。今度一緒にご飯でも行かない?」
「……?すみません、ちょっとぼうっとしていて、話を聞き飛ばしてしまっていたかも。もう一度おっしゃっていただいても?」
「だから、一緒にご飯でもどうかって。そうやってコミュニケーションを取ったら、少しは話しやすいんじゃないの?」
「ははは、勘弁してください」
「あら……そう」
意外にも、彼女はその誘いを簡単に取り下げた。まぁ、自分と食事に行きたいだなんて、口から出まかせだったのだろうが、それでもここまで勧誘に執着していた彼女が、提案を取り下げたことに少しの驚きがあった。想像で彼女は、もっと押しの強い――迷惑な人間だと思っていた。
彼女は腫れ物に触ってしまったかのような申し訳なさそうな表情で、一瞬だけ俺から目をそらした。その顔は、なぜだか自分にも心当たりがある。クラスで会話の輪の中に上手くなじめなかったときのような、いつの間にか他の生徒が自分を残してペアになっていくような、そんなときに感じる孤独。踏み込んだ先が間違いだったと後悔するような表情だ。
「——食事は結構ですけど」
別に、彼女のそんな表情に絆されたわけではない。ただ、その頃には、俺を勧誘する神城の姿が噂となってしまっていて、断る方が非難されそうな勢いだったからだ。
「執行部の話、もう少しだけ……教えて、くれるか?」
彼女が後ずさった方に、一歩だけ踏み出す。どうやら、それは間違いではなかったようで、その一歩は、俺が踏み出さなくてはいけない一歩だったようで。
「もちろんよ!未来の副会長さん?」
彼女は最後まで迷惑な――面白い人間だったけれど、そんな彼女のせいで、今の俺があるのだった。
「早春の折、本日は卒業生の皆様の門出を祝するような快晴となりました――」
前に並んで座る生徒たちの肩越しに、在校生の代表としてあいさつをする後輩の姿が見える。予行演習の時は、思ったよりも後ろの席であったために少しばかり不安だったけれど、座高の高さもあって成長した彼女の姿が良く見える。であったころよりも凛とした、しかしやはり一つ下の後輩だからか可愛らしく見える。
神城怜子は、いつも以上にまっすぐ伸ばした背のまま、体ごと新生徒会長の方へと向いた。卒業式の厳かな雰囲気も、彼女にとっては平時と変わりない。常在戦場というわけでもないが、学校にいる時の彼女はいつも気を張っていた。
別に、誰にそうしろと言われたわけでもないのにね、と内心で思う。
――神城怜子が『神以上』である必要性なんて、結局のところ、どこにもなかったのではないか。
ふとした時に、そんな考えがよぎる。自分が相手に疎まれているのではないかという疑心が、どうしようもなく不安を煽る。
だけど、それ以外の生き方を、私は知らなかった。『神以上』の生徒に、対等な友人になろうとする人はクラスにはいなかったけれど、それを求めてこの舞台から降りるのは、自分に寄せられた期待に対して、あまりにも酷いことだと思えてしまった。
――元生徒会長、亜熊遥斗という男は、そんな私の、唯一と言っていい友人だった。なんて言うと、きっと彼は困った顔で、「友人……まぁ、間違いではないか」と言うのだろう。
この一年、執行部で活動をしてきたが、私は彼のことをまるで知らない。それが、私のコミュニケーション能力の低さによるものなのか、彼の自閉性の高さによるものか、はっきりとしないところではあるが、それでも彼とは良い友人であったと思う。
「——神城怜子」
「はい」
教員の点呼に、なるべく短い、凛とした印象になるように返答する。これがこの学校で行う最後の仕事だ。と言っても、一生徒としての、ではあるが。
昔から、才能と言うものに憧れがあった。
母は、仕事の関係であまり家にはいなかったが、夕方から夜にかけての一瞬、家にいるその間は、私のことをとても可愛がってくれた。神城家の神以上の子、だなんて褒めてくれたことが、今でも私の心には楔のように残っている。きっと、あの人の中では、あの時も、あるいは今でも、娘は神以上の存在なのだろう。
他に家族のいない我が家では、学校の他に塾や習い事に行く余裕は無かった。だから、高校に入ってすぐに、アルバイトできるところを探して、本当なら、それだけで高校生活は終わっていくはずだった。
「神城って名字、かっこいいね!」「神城さんって、頼りになる!」
「え、ええ、そうでしょう。何てったって、神以上の神城ですから」
不意に口からこぼれた、母からの恩寵の言葉は、心に留めておいたはずなのに、あっという間に広がって、いつの間にか私の代名詞のようになっていた。
引き下がることもできず、『神以上』として振舞っていた私に、執行部からの勧誘があった。それはまさしく、『才能』を買うということだと、当時の私は思ったのだ。自分には才能があるのだ、本当に『神以上』になれるのだ。そんな胸の高鳴りと共に、精力的に活動した。
実際には、そんな大した仕事があったわけではない。校内の治安維持や行事運営は、私がいなくてもどうにかなることばかりだった。
自分は替えのきく存在だと、そう気づかされても、ぴんと張ってしまった背を曲げることはできなかった。それでも、私に期待して、私を見てくれる人がいるのなら、諦めることなどできなかった。
二年に上がれば、必然、進路の話が立ちふさがる。母親は、行きたいところに行けばいいと言っていたが、学費の比較的安い国公立大学への進学を望んでいることは知っていた。とはいえ、台典市の実家から離れて通うことになると、都市圏外の大学では私立大学へ通うのと同じくらい生活費が増える。通える国公立と言うのは、簡単な話でありながら、険しい道だ。特に、私の行きたかった国際系の学部は、学内での勉強以上に学外での言語学習が必須だった。
執行部と勉強の二足の草鞋。休日はアルバイトで潰れていた。幸いなことに、それ以外に予定が入ることなど無かったため、随分と良い生活を送れていた気がする。緩むことなく張り続けた糸が、不意に切れてしまったのは、彼の、亜熊遥斗のせいだ。
執行部の活動も順調に進んでいたが、書記の生徒が勉強の不振を理由に辞めたいと言い出した。それを言うなら私だって、と言いたくなる気持ちを抑えて、私は後継を探しに校内を回ることにした。
私にできることなのだから、きっと他にずっと適任がいるはずだ。そうして見つけたのが、私と同じように、敏感に世界に怯えていた彼だった。
「——あなた、生徒会執行部に興味はない?」
正直なところ、自分に替えはきくと思っていながら、天狗になってもいたことは認めざるを得ない。正直、勧誘活動なんて、自分が一言声をかければ二つ返事に「あなたと共に働けるなんて光栄だ」と返されると思っていた。だから彼の返事は、そしてワンコの返事もだが、私に強い衝撃を与えた。
照れ隠しかしら?と思って数日アタックしてみたものの、どうにも違うらしかった。最後の手段だった買収——ご飯に行って奢る――も断られてしまい、万事休すかと思っていた時、彼は突然に私の誘いに乗ってくれた。それも、へんてこな形で。
「その選挙とやらに出るのは構わない。けど、どうせなら、俺も生徒会長に立候補してもいいか?」
何を言っているのだ、と思ったものの、それでやる気を削いでしまってはいけないと快諾した。今になって思えば、それは彼なりのやさしさだったのだろう。仲間を探すはずが、自分が上だと勝手に思い込んで、から回っていた私に、対等であろうとしてくれたのだ。
「でも、やっぱり少し悔しいわね」
卒業生代表として、卒業証書を授与される遥斗を見て、そうほんの小さな声で漏らす。
卒業生たちは身じろぎもせず、ただ式が終わるのを待っている。多くの生徒にとって、この式自体に大きな意味はなく、通過したということに意味が発生するのだ。教室に帰って初めて、共有できる卒業という状態になるのだ。
生徒たちが全員起立し、校歌を斉唱する。続けて仰げば尊しを歌う。良い曲だとは思うが、予行練習のときに歌ったくらいで、通算でも数えるほどしか歌っていないために、移入できる感情が少ない。歌詞を追うことに必死になってしまうが、商業科の声量に負けてそれほど自分たちが歌う必要もないのではないだろうかという気持ちになってくる。
そうこうしているうちに、式は終わっていく。例年、退場の際に商業科のクラスでは何かしらパフォーマンスをしているらしいが、普通科ではそうしたこともない。たた悠然と無骨なモスグリーンのシートの上を歩いていく。不意に、保護者席でハンカチを片手に涙を拭く母親の姿が目に入る。母もこちらに気が付いて、私は軽く笑みを浮かべて応じる。彼女の目に浮かぶ涙が、私の姿をぼやけさせた頃、もう私は体育館を去っていた。
教室に戻ると、担任の長々とした高説が始まる。一部の生徒は感動したように顔を落としているが、大半はぼんやりと黒板を眺めている。
ようやく長い話が終わり、最後のホームルームが終わる。担任の号令で、教室を解散となったが、すぐに離れる生徒はもちろんいなかった。一時的に許された携帯端末を使用して、写真を取り合っている。
「あれ、神城さん、もう行っちゃうの?」
「……ええ、ごめんなさい。執行部の皆と約束していて」
「そうなんだ!それじゃあ、またね」
「ええ、また、どこかで」
また、だなんて、思ってもいないあいさつで、クラスメイト達と別れる。本当は執行部での集まりなんてなかった。お別れ会をして以降、特に連絡を取ってもいない。
だけど、なぜだか確信じみた予感があった。
誰にも出会わないように、けれど、誰かに出会うために、私は急いで階段を下りて、昇降口に向かった。そして、いた。
「——遥斗っ!」
意外そうな顔をして、その男子生徒は振り向いた。疲れたように背を曲げて、目的地も無いような足取りで、校門に向かっていた。
「……神城か。随分早いが、クラスメイトとのお別れは済んだのか?」
まるで待ち合わせをしていたかのように、彼はそう言う。
「それはこっちのセリフよ。まさか、一人で帰るつもりだったの?」
「まさか。少し……校内を散歩しようかと思ってな」
彼は嘘を吐くのが苦手だ。いつも、嘘だということは分かるだろう?という顔で、嘘をついてくる。
「そう。じゃあ、ご一緒してもいいかしら?」
「ああ、でも、先に芽森に話しておかないといけないことがあったんだった。少し待っていてくれるか?」
「いいけど、知り合いでしょう?私がいたらダメな話?」
私の問いに、彼は答えない。無意味に視線をそらして、次の作戦を考え始めている。こういう時の彼は、いつだって往生際が悪く、不甲斐ない。
「……階段まででいいから」
私がそう言うと、その意を汲んだのか、ああ、と短く返された。
昇降口を出て、生徒玄関をくぐると、まだ日中の光が眩しい。卒業おめでとうと書かれた垂れ幕の文字が、なぜだかとても滑稽に思える。
「ねえ、遥斗は家族と帰らないの?って言っても、家そこなのよね」
「父は来賓で来ていたみたいだが、先に帰ったとメッセージが来ていた。母は、多分家だな。時間感覚がないから、寝過ごしたんだろう。神城こそ、母親が見に来ていなかったか?」
「仕事らしいわ。ちゃんと全休取ればいいのに、なんてあの人には言えないけれど」
受験の時からずっと長いと思っていた校舎前の階段を、これまで以上に長く時間をかけて降りる。まだ、降り切るには早い。
「なんだか、今になって寂しくなってきたわ。式の時は、そんなことなかったのに」
「そうか?まぁ、寂しくないわけではないが、むしろ晴れやかな気分だよ」
彼はそう言って軽やかな足取りで階段を降り切った。そして、校舎の方を振り返る。
「思えば、神城とは一年と少しの付き合いなんだな」
「そうね。思ったより短く感じるわ」
彼の含意と同じかは分からないが、率直な気持ちを伝える。
「あなたと過ごすの、結構楽しかったわ。こういうの、青春っていうのかしらね」
階段を下りて、いつもの分岐点に着く。この場所の学校の碑を見ることも、しばらくないのかもしれないと思うと、なんだか良いものに思えてくる。
「一年、ありがとうね。本当に助かったわ」
「こちらこそ。良い一年だったと思うよ」
本当に、良い友人を持ったと思う。他の誰とも深く付き合うことは無かったが、彼とのほんの浅い友人関係は、自分の中で大切にしまうことができる。こんなにも晴れやかな気持ちで、別れていける。それぞれの道へと、進んでいけるのだ。これ以上に良いこともない。
「それじゃあ、さようなら」
「ああ、さようなら」
もう二度と、会うことはないだろうという予感を持って、一歩を――
「あれ、神城先輩!亜熊先輩も!」
——踏み出そうとした時、そんな可愛らしい声が階段の方から飛んでくる。
会わなくていいと思っていた、後輩——愛ヶ崎天使が、体より少し大きい立て看板を持って階段を下りてきていた。卒業証書授与式と書かれた看板は、おそらくこの校門前に設置されているべきものだろう。
「愛ヶ崎、執行部は片付けの指揮を執っているんじゃないのか?」
遥斗が、だからこそ今のタイミングで校舎を出たのだと言わんばかりの論調で聞いた。すでに巣を飛び立った雛に、親鳥がかける言葉はなく。同時に、枷になってもいけない。もう立派に進んでいる彼女たちに、私は必要ではない。彼もきっと同じようなことを考えていたのだろう。
「それが、立て看板を設置し忘れていたらしくて、みんなここで写真を撮るはずだから早く置いてきてと、碧ちゃんに頼まれたんですよ」
私たちが帰ろうとしていることには疑問を持たず、彼女は間に合ってよかったという風に看板を設置する。
「そうか。まぁ、前日にでもきちんと備品の確認はしておくようにな」
それだけ言って、遥斗は話を切り上げようとする。「えへへ、すみません」と笑う天使は、その含意には気づいていないらしい。
「よし!じゃあ、私は片付けに戻りますね。先輩たちも打ち上げ楽しんできてくださいっ!」
打ち上げだなんて一言も言っていないが、良いように解釈してくれていたらしい。とはいえ、これ以上彼女を拘束しないで済みそうでほっと一息つく。
と、天使が去ろうとすると、階段の上からさらに声が響く。
「お~、間に合ったみたいだぞ」
その小さな生徒の影は、見紛うはずもなく、自慢の後輩である三峰壱子とその親友の丸背南子であった。面倒くさそうに新生徒会長の後ろを追ってきた丸眼鏡の少女は、看板の前にたむろする私たちを見て、目を細めたようだった。
逃げ出す間もなく旧生徒会の五人がそろう。天使とは半年ほどの付き合いのはずなのに、なぜだかいないと落ち着かないような愛着がわいてしまっていた。けれど、全員がそろうとかえって逃げ出すように帰ろうとしていたことが恥ずかしくなってくる。
「全く、怜子さんたちはこれだからダメなんだな。それと、天使ちゃんは看板の位置が違うぞ。階段の上の所で良いって、碧も言っていたはずだぞ」
「あ、そうでした。先輩たちがいたからつい降りてきちゃって」
「まぁ、結果オーライか。よく捕まえてくれたな」
「俺たちを珍獣か何かだと思っているのか?」
「実質そうだぞ。すぐ帰るからな。まったく、後輩がこんなに慕ってるんだから、生徒会室にくらい寄ってほしいぞ」三峰はぷんすかと腰に手を当てた。
「執行部が片付けから解放されるのはだいぶ後ですがね」と丸背が自嘲気味に笑う。
「ああ、すまなかったよ」と亜熊は悪びれる様子もなく口先で謝る。
「全く反省してほしいぞ。先輩がいないと、結構寂しいんだからな」
「そ、そうなんですか?」と天使が疑わし気に丸背に聞く。
「そうなんですよ。ワンコったら、一年生が帰った後、しょっちゅう泣きついてきて」
「おいそこ、リークは止めるんだぞ!」
「ふふ、ワンコも可愛いところあるのね」と神城が思わず微笑む。
「怜子さんだって泣きそうなくせに」
「まあまあ、話はそれくらいにして。片付けは本当に大丈夫なのか?」と亜熊。
「それは、碧に任せているから、あと一〇分は大丈夫なはずだぞ」
「そうですよ。時間は無いんでした。早く本題に入りましょう」
「まぁ、本題って言っても、みんなで写真を撮りたいって話だけなんだけどな」
写真、という言葉にクラスでの様子が思い出される。てっきり私も囲まれるのだと思っていたが、本当にあっさりと出られてしまって、少し悲しかったところだ。
「ほらほら、早く並べ~」
「わっ、私こっちですか?」
「どっちでもいいだろ。ほら、三脚もあるから」
「用意がいいわね」
カメラの点滅が早くなり、シャッター音と共に写真が撮られた。すぐに三峰が映りを確認しに行く。
「何か、怜子さん、若いママみたいだな」
「なっ⁉」
驚いてカメラに映されたデータを見ると、確かにワンコとニャンコが両脇に笑顔で立っており、特にポージングをせずにほほ笑んでいる私は、小学校か中学校の卒業式に来た母親のようではあった。なんだか仲の良い同級生のような感じで映れている遥斗と天使が羨ましい。
否定する気も起きず、ワンコの頭をぐりぐりと押して抗議の意を示す。なんだかこんなやり取りももうできないのかと思うと、やはり少し寂しい。
「じゃ、撮れたし帰るか」
「えっ、もうですか。もうちょっと話していきません?」と天使。
「先輩たちも忙しいだろうし、私たちはもっと忙しいからな」
三峰の言葉に、天使は忘れていた仕事を思い出したのか、がっくりと肩を落とした。
「分かりました……それじゃあ、神城先輩、亜熊先輩。この先の益々のご発展をお祈りしております。一年間、も無いんですね。とにかく、お世話になりました。頑張ってくださいっ!」
ワンコは、自分からは言うことが無いという風に親指を立てる。その無責任なような、むしろ私たちのことをよく分かっているような態度に、なんだか落ち着いた温かな気持ちになった。
「ええ、ありがとう。天使ちゃんこそ、頑張ってね」
「愛ヶ崎も、三峰も、もちろん丸背も、頑張るんだぞ」
――頑張って、か。またね、でもなく、さようなら、でもなく。
次に会うことが無いとしても、その旅路の幸せを祈ることはできるのね。なんて、感傷的になりすぎかもしれないけれど、そんなことを考えてしまう。
今度こそ、私たちはそれぞれの道へと歩み始めた。
駅へと向かう道に、私のローファーの音だけが響いている。その間隔が、なぜだかだんだんと長くなる。音が止まってしまって、私は頭上に広がる青空を仰ぐ。
――――おかしいわね、雲一つないのに。
ぼやけた空から、雨粒が地面に落ちた。ひきつるような情けない声が漏れる。
「頑張るわよ、当然ね」
私は、無理やり口角を上げて、誰もいない下校道を、最後まで笑顔で歩いたのだった。
それから、数日が経って、生徒会室に三峰が現像した写真を持ってきた。
「あの、三峰先輩。なんで私の顔が右上に合成されているんですか?故人みたいになっていますが」
「あ~、ごめん。こっちの方が良かったか」
「いえ、窓に入れている方が良いとかではなく。別に私は三年の先輩方と付き合いが深い方ではありませんから、五人の写真で大丈夫だとお伝えしましたよね」
「でも、碧ちゃんも入れて、執行部六人!が旧執行部なんだよ」と天使が笑う。
「そ、そうですか」藍虎は困惑気味に笑う。
「面白いし、しばらく飾っとくか」
「本当にやめてください」
「でも、碧がいない方を飾るのもなぁ」
「藍虎さんの写真は、横に大きい額に入れて飾ったらいいのではないですか?」
「ああもういいですよ窓の方でっ!」
かくして、三年生は卒業し、新たな執行部へと引き継がれていった。そして、去る者がいれば、来る者もいる。天使は進級し、後輩ができることになるのだが、それはまだ先の話である。