第二十九話 放物線あるいは動物園
・主な登場人物
愛ヶ崎天使 (まながさき てんし):この物語の主人公。天使ちゃん。現在は生徒会執行部副会長。アニメやゲームのグッズを買いたいが、親に好きなものをバレたくないので購入を躊躇してしまうタイプ。
藍虎碧 (あいとら みどり):一年四組のクラス委員長兼生徒会執行部書記。真面目でクールキャラだと思われがちだが、汗をかき大声を出すスポーツが好きな熱血タイプでもある。小学校の時はおままごとよりもかけっこの方が好きだった。
細小路悠怜 (ささめこうじ ゆうれい):幽霊ちゃん。様々な騒動の後、天使と同居することになった少女。放課後はクラスの友人と出かけることも増えた。
丸背南子 (まるせ なんこ):ニャンコ先輩。生徒会執行部二年で副会長。猫背で長髪低身長、丸眼鏡の落ち着いた少女。誰に対しても敬語で話す。彼氏がいたことがあるが、本人はそれを彼氏だと認識しておらず、ずっと本を読んでいたらいつのまにか振られてしまった。
三峰壱子 (みつみね いちこ):ワンコ先輩。生徒会二年の新生徒会長。低い身長と元気で独特な口調が犬っぽい女子生徒。弟たちの世話を見ることと執行部の両立で時間がなく、恋人を作るつもりは無い。校内の男子生徒をうっすらと見下しており、大学で良い彼氏を作るぞと思っている。
亜熊遥斗 (あぐま はると):悪魔先輩。三年の元生徒会長。冷静で気が利く男子生徒。コートの下はヒートテックを着ている。上着とズボンのレパートリーは無いが、ジャケットやコートのレパートリーは多い。
神城怜子 (かみじょう れいこ):三年の元副会長。自称『神以上』の神城。お高くとまっているようで案外庶民派の女子生徒。身長が結構高い。知らない人からお姉さんと言われると、嬉しい反面、老けて見えているのではないかと落ち込んでしまう。
三峰優二 (みつみね ゆうじ):壱子の弟。小学四年生。高校は台典商高に行きたいとぼんやり思っている。
三峰川里 (みつみね せんり):壱子の妹。幼稚園年少。姉の背を見てすくすく育っている。
――天使がいて、悪魔がいた。
――天使は、生まれながら羽が生えていたわけではなく、今も空を夢見る一人の少女に過ぎない。
――悪魔は、誰もに非難されるような悪いことをしたわけでもなく、ただあるべき自分として在るために正しさを探す一人の少年だ。
悪魔は天使に手を差し伸べて、天使はその誘いのままに夢を見た。
悪魔は、それが自分のやるべきことだと思ったからそうしたし、それが彼女のやるべきことだと思ったからそうしたのだった。けれど、天使はまだ、自分の羽がどこを目指しているのかを知らなかった。そして、悪魔は空を飛べないのだということを知らないでいた。
あれほど燦然と輝いて見えた悪魔の、確実に前へと進んでいくその一歩が、今はどこへ行くのか不安でたまらない。彼は行き先も、帰ってくるかどうかすら、一言も言わないのだから。
その時になって、ようやく天使は気が付いた。
彼は、悪魔は、そうあるべきだと思ったら、誰にだって手を差し伸べるのだと。
それでも、天使は願ってしまいたくなる。
どうか、彼がこちらを向いてくれますようにと、彼方の運命に願ってしまう。それが彼に迷惑をかけることだと分かっていても、この衝動の意味を、知りたくなってしまうのだ。
「——別に、いつでも来てくれたらいいのに」
「でも、天使ちゃんは執行部の仕事とか忙しくなるでしょう?」
「それは……」
年が明け、一月も終わろうかという頃、久しぶりに何もない休日に、悠怜は突然、新居が決まったという報告をさらっと流すと、相談があるの、とローテーブルを挟んで天使と向かい合った。どうやら自立の意味も込めて一人で手続きを行っていたらしく、天使にとっては寝耳に水なのだった。
「あっちは二年契約らしいから、ちょうど今が良かったんだよ」
「にしてもさぁ、ちょっとぐらい教えてよね」
「えへへ、天使ちゃんを驚かせたくってさ」
「新居で寂しくて泣いたって行ってあげないもんね~」
「天使ちゃんこそ」
二人で小突き合って、同時に笑いだす。こんな生活ももう一月ほどになるのかと思うと、少し悲しくもなるが、今は憂いている場合ではないと気持ちを切り替える。
「それで、相談って?」
「実はさ、その、好きな人が……できたの」
「ほ~ん」
天使は思わずからかうように唇を尖らせたが、心の端の方がチクリと痛むような思いがあった。
「で、誰なのさ」
「ええっ⁉ あ、あの、クラスの――くん」
一瞬もやがかかったように名前を認識できなくなる。クラスの、という修飾語のおかげで、なんとかクラスメイトの少年の顔が思い出される。あまり記憶にはないが、多分彼女がどうという話はしていなかった気がする。
「あ、ああ~。——くんね、分かる分かる」
目を細めて、からかうように口角を上げる。
あまり詳しいことは知らないが、かといって知らないというのも気が引けて薄っぺらい同調をしてしまった。気を悪くしていないかと、悠怜の様子をみると、恥ずかしそうにうつむいてしまっていた。
「それで、その、こ、こここ、告白ってやつを、してみたくてね」
「ええっ⁉ゆ、勇気あるね」
「そ、そうなの?むしろ、それが普通なのかと思ってたよ。——くん、優しいんだけどちょっと奥手というか、きっとこのままだと友達以上にはなれないと思うから」
天使は、心の奥に強く意思を固めた悠怜を見て、別に友達のままでいられるならそれでいいのではないかと思った。好きな人だから付き合いたい。好きな人だからずっと一緒にいたい。その感覚は、文面としての理解はできる。言うなれば、国語の問題として、その文法上のつながりを理解することはできる。けれど、それに共感したり同調したりするようなことは、天使にはどうしてもできなかった。
ただ、彼女がそうしたいと、好きな人と一緒にいたいと思うのならば、それを応援しないという選択肢は消え失せてしまう。仮にそれが、親友が独り立ちを決意した、自分との別れを選択した理由である可能性を秘めているとしても、応援しないわけにはいかないのだ。
――私は、『天使』だから。
「まさかあの悠怜ちゃんに彼氏ですか~」
「もう、やめてよ。まだ成功してないんだし」
「任せてよ、絶対成功させて見せるんだから」
そう言って天使はわざとらしく自信気な笑みを見せた。
それからの行動は早かった。なにしろ、もうほとんど付き合っているような関係性の二人を、友達から恋人に進路変更させるだけのことだったのだから。
教室で改めて見る二人の距離は、言われてみれば、随分と仲がよさそうだった。これが、恋人になる二人の距離感なのか、と今更ながら他人事のように、実際他人事のようなものではあるが、感じさせられた。
自分にとってそんな人物はいるだろうかと思考を巡らせると、当然のように執行部の生徒たちの姿が浮かぶ。執行部の先輩と同級生、そのほとんどは同性で、彼氏彼女といった恋人の紋切り型にはあてはまらな――と考えたところで、脳内で像を結んだ一人の男子生徒がこちらをみる。元生徒会長、亜熊遥斗の無口な瞳が、静かに私を貫く。そして、その視線の残滓を残して、背を向けて去っていく。もう手の届く位置に彼はいないのだ。新執行部になってから、受験の多忙さも要因なのだろう、亜熊が顔を出すことは無かった。
「——しちゃん?天使ちゃん!」
頬をつつかれ、我に返ると、わずかに頬を紅潮させた悠怜が自分の机にやってきていた。
「ねぇ、見てた?私、変なこと言ってたりしてなかったよね」
「あ、ああ、うん。大丈夫だと思うよ。それで、誘うのはうまく行ったの?」
悠怜は噂の彼がいないか振り返ってよく確認してから、照れ臭そうに何度もうなずいた。
「よかった」
「あのさ、もう一回手を握ってくれない?」
彼女が告白のために友人の男子生徒を呼び出しに行く直前、天使は手を握ることで願掛けを頼まれていた。直前に握った手は酷く冷たく、悠怜が緊張していることが伝わってきた。
「だから、それ迷信だって……私の手はゴッドハンドじゃないんだから、意味無いよ」
「意味ならあるよ。だって、友達だもん」
「……それも、そっか。そうだね」
天使は悠怜の手を優しく包む。先ほどよりもずっと温かくなった彼女の手は、もう他の温もりなど必要ないほどだ。けれど、自分の手を包む友人の手から、何かしらのエネルギーをもらっているかのように、悠怜はそっと目を閉じている。
「——ありがとう。私、頑張るから」
「うん。きっと大丈夫だよ」
そして、また少しだけ時が流れて、天使が家で惚気まくる悠怜に、早く独り立ちしてくれないものかと思い始めたころ。
「それで、天使ちゃんは誰と付き合ってるの?」
「——へ?」
そんなことを、唐突に聞かれた。
「いや、誰とも付き合ってない、けど?」
「え、そうなの⁉でも、天使ちゃんって、恋愛経験豊富そうだし、かわいいし優しいし、文武両道で執行部でも活躍してるんだよね」
いつの間にかおしゃれに切りそろえられた悠怜の前髪の間から、きらきらとした瞳が覗く。
「ま、まあ執行部ではまだ活躍できているかは分からないけど……」
「てっきり、私には秘密にしているだけで、もう彼氏がいるんだとばかり思ってたよ」
「ボクが悠怜ちゃんに秘密にするわけなんて無いでしょ」
ぎこちなく天使は笑う。悠怜は授業の準備を進めるために、背を向けて天使に返答する。
「この前勝手にプリン食べたじゃない」
「いやぁ、あれはさぁ……ごめんなさい」
「許しません!……埋め合わせに、またどこかお出かけしようね。引っ越しももうすぐだし」
「うん」
悠怜はかばんを閉めると、改めて天使の方に向き直る。ベッドに腰掛けてスマートフォンをいじる天使を、まっすぐに見つめている。
「……どうしたの?」
「だから、彼氏だよ、彼氏。好きな人もいないの?」
天使はスマートフォンを充電器に挿すと、視線から逃げるように抱き枕を取って胸の前で抱いた。考え込むように唸り声をあげる。
「天使ちゃん、前からだけど、副会長になってからもっと色んな人と関わるようになったんじゃないの?一人ぐらいさ~、ビビッと来た人いないの~?」
天使は、真っ先に頭に浮かんできた優しい顔を追い払って、執行部の活動やいまだに無くならない『天使』への頼み事の解決で話した生徒たちの顔を思い出す。そもそも、恋愛のことなんて、普段は考えて生きていない。顔が良いとか、性格が良いとか、そういうことはただの個性であって、それ以上深く考える必要もないことだ。だから記憶にも残らないし、こだわりがあるわけでもない。
――じゃあ、先輩への感情は?
振り払おうと思っても付きまとってくる鬱陶しい感情が、べっとりと油汚れのように拭えない問いを投げかける。
それを好きというのだ、と神城は言う。それが好きだと思って損はしないと藍虎は言う。
彼に抱いている感情が好きだというのなら、この胸をかきむしるような焦燥を『好き』だというのなら、私が今まで他人に抱いていた感情は何だったというのだろう。
どちらも『好き』なのだと仮定して、執行部の活動に集中して、今はテストに集中しようと意識をそらしてきた。だけど、いつかは向き合わないといけないのだ。そして、その時はきっと、間近に迫っている。
私は、みんな大好きだ。だから救いたいと思って、天使をという不定形の夢を追い始めたのだ。みんなを救う天使という夢を。
それなのに、この感情が『好き』じゃないなら、今まで困った人や頼ってくれた人を救うときに私が抱いていた感情が、『好き』に由来するものではないというのなら、私は――——
「例えばさ~、ほら亜熊先輩とか。元生徒会長の」
「——なっ⁉」
「お、図星?」
まさか一発目から言い当てられるとは思わなかったうえ、悠怜の口からその名前が出てくるとも思っていなかったので、うっかり反応してしまう。しかし、よく考えてみれば、自分とかかわりのある男子生徒など、本当に限りがあるのだった。暇つぶしのために頻繁に話をするわりに、こういう時には一切候補にあがらないパソ研の同士たちには、今度なにか差し入れでも持って行ってあげようかな。
「その『好き』かは分からないんだけど……」
これ以上隠しても仕方はないかと、もう一月前になる神城と藍虎との会話を要約して伝えた。悠怜は、楽しそうに、そして話を反芻するように何度もうなずきながらその話を聞いていた。
「それはね、好きってことだと思うね」
「そうなのかな」
「それに、亜熊先輩ってことはヤバいよ」
「ヤバいって?」
「だって、もう二月だよ?先輩、卒業しちゃうじゃん。早くしないと!」
急かすように腿を叩く悠怜に、迷うように天使は抱き枕をぎゅっと抱く。
「実はさ――」
と、天使は数日前の執行部での会話を追想する。
執行部での活動は、そのほとんどが書類業務だ。何をそんなにやることがあるのだ、という疑問は執行部が一番思っているが、それなりの問題がいつもどこかで起きており、それなりの対応を要求されているのが現状である。
「そういえば、みんな次の土曜は空けてくれてるんだよな?」
作業の傍らで、三峰は部屋にいる三名に確認を取った。丸背は作業の手を止めて、新生徒会長の方を向く。
「そうですよ、空けてくれとだけ言って、何をするのかは教えてくれませんでしたよね。」
「ああ、ごめんごめん。先方、というか先輩方に確認を取ってからにしようと思っていたら、忘れてたんだぞ」
「先輩方、というと三年生や卒業生の方との用事なのですか?」
藍虎が意外そうに聞いた。基本的に校内問題の解決を担当する執行部にとって、校外に出るような活動、それも休日に行うようなものはあまりない。
「いや、そういう堅苦しい奴じゃなくてだな。お別れ会みたいなものをしようと、怜子さんと話してたんだぞ。それが今度の土曜で調整出来たって感じだな」
「先輩方はまだ入試の途中なんじゃないですか?」
「まぁ息抜きも必要だろうってことでな。怜子さんはともかく、アックマン先輩も大丈夫って言ってたし、大丈夫だろう」
「ワンコ……いいかげん亜熊先輩に怒られますよ?」
三峰は平気だと言わんばかりに肩をすくめたが、一方で天使は、考えないようにしていた亜熊の参加を聞いて、息の止まるような感覚を覚える。同時に、少しばかりの胸の高鳴りも。
「場所は特に決めてないんだけど、どっか行きたいところとかあるか?」と三峰。
「私は別にどこでも構いません。お別れ会って、どこに行くのがいいんでしょうね」と藍虎が会話を回す。
「あ、それなら私、動物園に行きたいです。この前テレビで動物特集を見てから、行きたい気持ちが高まっていたんですよ」丸背がワクワクした様子で鼻を鳴らす。
「え~、でも動物園って屋外だろ?もっとこう、室内のとこが良くないか、プラネタリウムとかさ。冬だし寒いじゃん」
「みんなでプラネタリウム行ってもしょうがないでしょう。それにほら、普段行かないところに行った方が思い出になると思いませんか?」
珍しく強引に動物園に行こうとする丸背の意見に、三峰はうーんと首をひねる。
「まぁ、ニャンコがそこまで言うなら動物園でいいか。いいのか?いいな。よし、そうするか。先輩たちには私が伝えておくから、集合遅れないようにな。それと、制服で来たらダメだからな」
三峰の注意に三人は軽い返事をする。かくして、執行部のお別れ会は動物園で始まることになったのだった。
「それで、先輩も来るってわけか」
「そ、そう」天使は小さく頷く。
「じゃあ、それが実質ラストチャンスってことじゃん」
「そう……かも?」
悠怜はそうだよ!とはしゃいだように立ち上がり、衣装箱を漁り始めた。
「じゃあ、しっかりおめかししないとね」
自分がトレーナーになったように笑う悠怜を見て、天使は、本当に成長したなぁと親のような気持ちでほほ笑んだ。
かくして、二月のある土曜日のことである。未だ寒さの残るどんよりとした空から、白い雪が降り始める。目を覚ました時には、少し冷たい空気が窓越しに感じられる程度であったが、天使が身支度を済ませ、いざ玄関の扉を開けたときにはそれなりの積雪となっていた。
天使は慌てて履きかけていたシューズを脱ぎ、スノーブーツに履き替える。勉強の合間や休日の暇な時など、時間があれば散歩に出かける天使は、カラフルで厚底の運動用シューズを普段履きしている。インソールを含めてお気に入りの一足であり、学校に履いていけない(学校は白靴指定のため)点を除けばマスターピースと言って良かった。
お気に入りの靴で出かけられないことを悲しく思いながら、一度ならず両手で数えきれないほど転んだ経験を思い出し、スノーブーツに足を通す。
「いってきま~す!」
元気よく挨拶をした天使に対して、ひょっこりと悠怜は顔を出して応答する。
「うん、気を付けてね。応援してる」
「ありがとう。それじゃ」
天使が両手をぎゅっと胸の前で握り士気を高めると、悠怜も真似をしてほほ笑む。
そうして、天使はキュッキュッと雪を踏みしめ、待ち合わせの駅へと歩き出した。悠怜は、聞いていた出発の時間よりも少し早いと思ったが、あえて何も言わずに送り出し、緊張が移ったように一人で部屋の中を歩き回っていた。
こんなに雪が積もるのも珍しいな、と天使は白い息を吐きながら思う。むしろこのくらい積もっていてくれた方が、スリップや雪解けの泥水が跳ねるのを軽視しないで済む。今日はいつにもまして汚れてはいけないのだ。もちろん汚れていい日など無いのだが、今日は家に帰って洗えば済むわけではない。
慎重に一歩ずつ踏み出していると、緩やかに立ち上った呼気で金縁の伊達眼鏡が白く曇ってしまう。行儀が悪いとは思いながら、長袖のニットの袖で結露を拭き取る。
積雪のときほど紫外線対策は必要だ、なんて細かいことを気にして付けてきたわけではなく、おしゃれと実用性の偶然の一致だった。しかし、こんなに曇ってしまっては少々不便だったかもしれない。
駅前の交差点は、悪天候の休日でもそれなりの賑わいだった。あるいはこんな雪の日だからこそ出かけようという人々が多いのだろうか。おかげで通りの雪はすっかり解け、路面が露出している。下宿のある通りから交差点に出ると、突然に人の息遣いを感じて、少し暖かさを覚える。それでもダウンジャケットと低めに結んだお団子の隙間から入ってくる冷気は、冬の厳しさを感じさせる。マフラーを巻きたいところだが、基礎体温が高いこともあり、首元が苦しくなることが多く、あまりいい印象を持てていない。
インナーをしっかり履いて、ようやくズボンから差し込む冷気を耐えられる。調子に乗ってスカートを履いてこなくて良かった、と安堵しながら横断歩道を渡る。
腕時計を見ながら高架下をくぐり、待ち合わせ場所である駅と商店街の交差する広場に向かう。動物園までは電車よりもバスの方がアクセスに優れているため、広場で電車通学組と待ち合わせる必要がある。
目印になる像を見つけたときは、待ち合わせ時刻よりも十五分も早かった。これでは楽しみにしているのがバレバレではないか、と内心恥ずかしく思いながら、別に楽しみでもいいではないかと開き直って広場に踏み入る。広場と言っても、所以も意味も分からない像と、植込みのあるだけの、連絡通路のような場所だ。とはいえ、駅周りにランドマークはそう多くないため、休日はそれなりの人待ちの影がみられる。
広場に接続している道を抜け視界が広がる。少しずれた伊達眼鏡を軽く直し、どこで待とうかと広場を見渡す。いっそ駅周りを一周してもよいかもしれない。それくらいの時間はあるだろう。
そう思って反対の通路に通り抜けようとした時、広場の石像(おそらく憩いの場となる様に座れる造形にしてあるのだが、像の顔が険しすぎるため、通学圏内の小学生に座ったら呪われると噂されている)に座っている童女に視線が吸い込まれる。こんな雪の日に気温通り冷たいだろう石像に腰掛け、足をプラプラと揺らしながら本を読んでいる。その丸眼鏡には見覚えがある。
「にゃ、ニャンコ先輩?」
よく目を凝らしてみても、やはりそれは執行部の先輩である丸背南子であった。デニムのオーバーオールをパーカーの上から着用し、キャップを被っている。普段の静かな様子と比べると、意外なほどに活動的な姿なのだが、いつもより三倍増しで幼い印象を受ける。丸眼鏡と読みかけの本は、むしろ背伸びしているような愛らしさを感じてしまう。
か、かわいい……と天使はにやけそうな口を手でわしづかみにして抑え込む。
「おや、これは愛ヶ崎さんではないですか。すみません、読書に集中していて気が付きませんでした。おや、眼鏡、眼鏡ですね。もしかして、愛ヶ崎さんは普段はコンタクトなのですか?」
丸背は、そんな天使の様子は気にせず、むしろ天使の服装に食いついた。
「あ、い、いえ、今日はそのオシャレというか……その、伊達眼鏡で」生粋の眼鏡ユーザーの前でオシャレ眼鏡を付ける気恥しさで、天使はうつむく。
「なるほど紫外線対策用や日射対策と言ったあたりの物ですね。理解しました。しかし、普段も付けていていいと思いますよ。その金縁眼鏡、よくお似合いです。魅惑の曲線ですね」
「はぁ、あ、ありがとうございます」
思った以上の眼鏡への熱の上げ方に少しだけ気圧される。それにしても――——
「——ニャンコ先輩、着くの早いですね?」
「ええ、どうせ家にいてもすることがあるわけでもないので、三十分ほど前からここで読書をしていました」
「ええっ⁉ あ、あの別にここでなくても、駅の待合室とか、寒くないですよ?」
「それもそうですが、ここで待っていないと時間を忘れてしまいそうでしたから」
だからって……と呆れるやら戸惑うやらで、どう反応していいか分からなくなる。たしかに、言われてみれば先輩のキャップにはうっすらと雪が積もっている。
「それに、冬の空気は冷たくておいしいですから」
そう呑気に笑う丸背の顔に、心配するだけ損な気がしてくる。
「それじゃあ、横、失礼しますね?」
彼女がどんな景色を見ているのか、少しだけ気になった天使は、等間隔で並んだ石像に腰掛ける。案外冷たくないのかもしれないと当たりを付けて座ってみたが、普通に冷たい。一瞬氷点下にも感じられる冷たさが臀部を包み、徐々に体温で中和されていく。
むしろ立ち上がる方が冷たいという頃になって、だんだんと駅前を行き交う人々の姿に目が行く。スーツを着ている人たちは土曜日にも働いているのだろうかと不思議な気持ちになる。将来の自分の姿なんて、今はまだ想像もつかなかった。
「あら、ニャンコと天使ちゃんじゃない。早いのね」
左右に流れていく人の波を眺めていると、後ろから声をかけられる。振り向くと、いつも通り背筋のピンと伸ばして、神城先輩が歩いてきていた。
足の長い神城先輩はパンツスタイルが似合うなあと、少し身長を羨ましく思う。天使も身長が低い方ではないが、少しは見栄を張ってブーツや厚底の靴で盛りたくなる時がある。
神城のロングヘアは、学校で見るよりもふんわりとウェーブしている。姿勢が良いために、本来の身長よりも高く見え、大人びた雰囲気を感じてしまう。手持ちの小さなバッグすらもオシャレに見えるが、羽織っているロングコートがきれいに手入れされているものの、かなり使い古されているような印象を受けるところが、どこか神城らしいと天使は思う。
「二人ともおめかししてて、とっても可愛らしいわ。お人形さんみたいね」
神城は先に到着していた二人の服装を見てそう感想を述べたが、すぐにしまったという顔で口元に手をやる。
「神城先輩?」
「あ、いえ、ごめんなさい。この前同じようにワンコに言ったら、親戚のおばさんみたいと言われて……迷惑だったらごめんなさいね」神城は申し訳なさそうな笑みだ。
「い、いえいえそんな。とっても嬉しいです」
神城は自分で思い出しておきながら、かなりショックだったようでしょんぼりとしてしまった。そんな姿もどこか絵になる、神以上の先輩なのであった。
「……時間ちょうどに来たつもりだったが、待たせてしまったか?」
神城に意識を取られているところに、亜熊も合流する。グレーのダッフルコートと黒の暖かそうなズボン姿は、おしゃれというわけでもないが私服感が強く、かなり新鮮な格好だった。
「いいえ、私も今来たところよ」
「お久しぶりです、亜熊先輩」人がそろってきた雰囲気を感じて、丸背も顔を上げた。
「ああ、久しぶり。後は、三峰と藍虎がまだか」亜熊が三人を見て言う。
「まぁそのうち来るでしょう。私の乗った電車より後だとしても、もう数分だと思うわ」
三峰の家は数駅先だと記憶していたが、藍虎も電車通学なのかと初めて知る。
左手首の腕時計をちらりと見ると、時刻は集合時間にちょうど差し掛かったところだった。遅刻というわけではなく、集まったメンバーの行動が早いだけのようだ。
「あ、来たわね。おーい、ってなんだか大所帯ね」
神城が、駅の方から歩いてくる二人を見つけて手を振る。しかし、どうにも二人だけというわけではないようで、怪訝な顔つきになった。
「お~、もうみんな揃ってるのか。もうちょっと早く着く予定だったんだけど、ちょっとな。立て込んでな」
三峰が申し訳なさそうに視線を落とした先には、しっかりと手を繋がれた男児が、きらきらした目で高校生たちを見回している。
「ほら、優二。ちゃんと自分でお願いできるか?できなかったら、川里を連れて帰ってもらうからな」
「できるって……えっと、姉ちゃんが動物園行くって聞いて、俺も行きたくて着いてきちゃったんですけど、その、一緒に連れていってくれませんか?」優二は少し不安そうに、体の横でこぶしを握りながら、言葉を振り絞った。
「お前な、着いてきちゃったじゃなくて、連れてきていただいた、だろうが。ほら、川里も」
「んん~、碧お姉ちゃん好きぃ。お姉ちゃんより安心する」苦笑いの藍虎の胸で抱かれながら、川里は幸せそうに頬ずりしている。
「おいこら、誰がおしめ変えてやったと思ってるんだ」
「ふふ、相変わらず兄弟仲が良いのね」と神城も笑う。
「まぁ、良いんじゃないか。人が多い方が楽しめるだろう」と亜熊も肯定する。
「せっかくのお別れ会なのに申し訳ないぞ……」
天使は思わぬ人数の増加に心を乱されたが、知り合いの子どもであったために、むしろ天真爛漫さで心が温まる。なんだか大きな家族になったようで穏やかな笑みが自然とこぼれる。
一行はバスのターミナルを目指して歩き始める。スマートフォンのマップを見ながら、予定に支障が出ないかと首をひねる三峰と、川里を抱えながら横を歩く藍虎が先導している。
「わぁ、天使ちゃん、今日の服すっごくかわいいね」
「ありがとう。優二くんも、かっこいい服だね」目を丸くして心から褒めてくれる少年に優しく返答する。
「そうでしょ!お姉ちゃんにも負けないよ」
天使は胸を張ってお気に入りの一着を見せつける彼の頭を優しくなでた。嬉しそうに笑う優二の顔を見ると、こちらまで優しい気持ちになった。
前を行く三峰の服装を見ると、確かにかっこいいに寄った服装だ。暖かそうな黒のムートンジャケットは、雪と反射して光沢が眩しい。隣で歩く藍虎との身長差にも拘わらず、堂々とした振る舞いのせいか、圧というかオーラというか、バチバチのバイブスを感じる。
川里を抱えて歩く藍虎は、かなりフォーマルな格好だった。パンツというよりもスーツに近いスリットの入ったズボンと淡い青色のオックスフォードシャツは、オフィスカジュアルと言われても納得してしまう。スマートな服装でも違和感がないのは、静かで大人びた印象と、スタイルの良さゆえなのだろう。
そうこうしているうちにやってきたバスに、優二の手を引いて天使は乗り込む。幸いにも車内はかなり空いており、優二が飛び出さないように後方の二人掛け席の真ん中に誘導する。天使がバッグを膝の上に置いていると、優二が少し席を詰める。天使が顔を上げると、優二に手を引かれて亜熊が席に座った。二人掛けの席ながら、スペースには余裕があり、高校生二人と小学生一人でちょうど埋まった。
「他の席も空いているし、やっぱり移動しようか?愛ヶ崎、そっちは窮屈ではないか」
「大丈夫だよね、天使ちゃん? みんなで乗った方が楽しいよ!」
無邪気に笑う優二と、心配そうな顔の亜熊の顔を交互に見て、天使は突然の接近に正常な思考が働かない。スペースの余裕はあるため、撥ねつけるわけにもいかないが、乗り気なのも変ではないだろうか。そんな普段は考えないような煩悩が際限なく邪魔をしてくる。
「だ、大丈夫ですっ!三人で、行きましょうっ」
「君が良いなら、俺も気にしないことにするが……やはり窮屈に感じたら言ってくれ。俺は別に立っても構わないし」
そう言って亜熊は視線を進路方向に戻した。こちらに注意を向けないようでいて、優二の手をきちんと握っているあたり、やはり気を使ってくれているのだろう。
ガタンとバスの発車に合わせて車体が揺れる。わずかな推進力の反動を感じながら、天使は今、優二越しに亜熊とつながっているような不思議な感覚になった。
間に子供がいて、二人で手を繋いでいる……まるで夫婦みたいだ――いやいや、恋人をすっ飛ばしてそんな妄想をするのは大概にした方がいいだろう。
天使が一人で顔をぶんぶんと振っていると、不思議そうに優二が見上げる。
「そ、そういえば亜熊先輩は、予定とか大丈夫だったんですか?」
気を紛らわせようと質問してから、無遠慮な問いだったと気が付く。状況が芳しくなかったとしても、良かったにしても、きっとそんなことを忘れるために来ているのだ。それを蒸し返すようなことを聞くのは印象が悪かったことだろう。
「ん?ああ、まぁ息抜きにな。どうせ二次の勉強は、根を詰めて暗記するようなものではない」
「先輩って、どこの大学を目指しているんですか?」
無遠慮と思いつつも、つい深掘りしたくなってしまう。
「大阪の方の大学だよ。ちょうど行きたい学科があってね」
「大阪……って、結構遠いですね」
「まぁな。親は特に希望が無いようだったし、好きにさせてもらっているんだ」
天使は、亜熊がもし希望通りの進路に進めば、本当に疎遠になるのだという現実を改めて実感する。卒業すれば、簡単には会えなくなる。当然のことながら、考えないようにしていた、どこか運命のいたずらに賭けたい気持ちでいた。けれど、それは紛れもなく現実で、きっと遠くへ行ってしまうその背を、私は追いかけることもできないのだろう。
「愛ヶ崎は、勉強に不安なところはないか?……と言っても、君は学年主席だったな」
「えへへ、今のところは、ですけどね。やっぱり、これからもっと難しくなっていくんですか?」
「まぁ、そうとも言えるし、人によるというのが実際のところだ。君ならきっと問題ないよ。確か、文系選択だったよな」
「そうです。理系が苦手というわけではないんですけど、行きたい学科があって」
「そうか。まぁ、今の執行部は理系も文系もいるから、迷ったら頼るといいだろう。ちなみに、何学部志望なんだ?」
亜熊は優しく、世間話の延長のように聞く。天使は、これまで志望学科の話はなんとなく濁してきていた。それは、これまでの自分の名前や振る舞い、好きな物のようにパーソナリティに深く関係することであり、『天使』とは違う、もっと個人的な興味の向いた先だったからである。誰もが自分を愛してくれている。そんな自信や仮定は、むしろ望まれたように進まなければならないという無言の圧を感じさせ、そのレールと複線状態にある自分自身の思いへ移行することに抵抗を起こさせていた。
「……心理学部です」
顔色を窺うように、天使はつぶやく。
文系学部は、親や教師からの反応が悪い。文学部を筆頭に、心理学や社会学といった学問を修めようとすると、その専門家にでもなる気かと冷めた目で見られるばかりだ。法学や教育学、あるいは経営学などの世間的に良いとされる体裁を重視され、その内実に関わらず、あなたの未来を心配しているのだという余計な文言と共に、進路の変更を訴えかけられる。天使のように、その変更を選択できる者はより如実に。
「なるほど、人と関わることが好きな君らしい……実は、俺も去年までは心理学部志望だったんだよ。ちょうど通える範囲の私立大に心理学部があってな」
「あっ、○○大学ですよね。私もそこを考えてたんですけど、先生には反対されていて……」
「君ほどの学力だったら、もっといいところを今からでも目指した方が良いと言われるだろうな。先生の気持ちも分からなくはない」
「……亜熊先輩は、どうして志望校を変えたんですか?」
それも、かなり遠くの大学に。とは言わずにぐっと飲み込む。
「価値観が、変わったんだ。それも偶然というか、ほんの気まぐれの出来事のせいでね」
とても嬉しい記憶を思い出したように、亜熊は優しい笑みを浮かべた。
「どこに行っても、俺は俺のやるべきことをやるだけだ。ただ、そうやって進む中で、少しくらい損をしてもいいと、そう思うようになった」
「やるべきでないことをやってもいい、ってことですか?」
「というよりは、やりたいことをやってもいい、の方が近いかな。やるべきことがすべてではないと、そう思ったんだ」
「……先輩は真面目過ぎるんですよ」
「そうか? そうでもないと思うが、まぁ、善処するよ」
「ほら、また真面目」
天使が口をとがらせて言うと、亜熊も顔をほころばせる。そんな他愛ない会話も、もうできなくなるのだろうかという不安は、出来るだけ今は考えないようにしたかった。そうしないと、この会話一つですら、やりたいことからやるべきことに変わってしまう気がしていた。
「先輩はこどもの世話をするのとか好きですか?」
天使が優二の頭を撫でながら聞くと、優二は自分の話になったと嬉しそうに天使を見上げる。
「嫌いではないよ。俺は一人っ子だから、兄弟というのが少し羨ましくてね。あまり慣れてはいないから、そこが少し心配ではあるが」
「大丈夫ですよ。ね、優二君」
「うん、お兄ちゃんがアックマン先輩でしょ?優しい先輩だってお姉ちゃんが言ってた」
確認しなくても、後方の席で三峰が顔を歪ませているのが分かる。天使は内心面白いと思いつつも、裏で三峰が変な呼び方をしていたとばっちりを受けて胆が冷える。
「はは、それはありがたいな。優二は動物園楽しみか?」
「うん!お兄ちゃんも動物園好きなの?」
「ああ、まぁな。お兄ちゃんも、行くのは久しぶりだから、楽しみなんだ」
案外気にしていない様子の亜熊に、天使は胸をなでおろす。優二に優しく話しかける亜熊の姿が、まだ名前のない感情を刺激し、なんだか胸にたぎるものがあった。
そうして会話を楽しんでいると、不意に車内にベルの音が鳴る。目的地にたどり着きそうだ。神城がボタンから指を離して、風景に目線を戻していた。次停まりますというアナウンスの声に、丸背も本から顔を上げた。
思っていたよりも近いんだなと、天使はまた来ようと思いながら降車する。子供を二人連れていたが、特に問題なく清算も済ませられたようだ――と思っていると、遅れて丸背が降りてきた。
「私は小児料金ではないと分かってもらうのに、かなり時間を食いました。納得がいきませんね」
珍しくむすっとした表情の先輩も可愛いな、などというと怒られそうなので、行きましょうと手を引いて、天使はチケットを買ってくれている光峰のところへと向かった。
園内もそれなりに雪が積もっており、吐く息はいまだ白い。冷たい雪で研ぎ澄まされた空気は、幸運なことに動物園特有の強烈なにおいを緩和し、不快と感じるほどではなくなっていた。動物たちは寒い冬の気温の中でも悠々と過ごしている。
「やはり、それなりに人がいるものだな」
亜熊の言葉に、天使が周りを見渡すと、雪の日だというのに家族連れやカップル、旅行客など多くの客が来園していた。
「おおっ、リスですよ!可愛いですね」
正門から入った入園者をまず迎える小動物のエリアに、丸背が駆け出してこちらに向けて手を振ってくる。天使もそんな先輩の後に続いて、柵越しのリスを見に行く。
「ほんとだぁ、ちっちゃくて可愛いですね」
「もぐもぐしてます。隠していた餌を食べているんでしょうか」
リスは檻の中で小さな体を右往左往させている。
ゆっくりと歩いてきた神城も、腕を組んだまま興味深そうにその様子を眺めていた。三峰は、妹の世話を藍虎に任せて、檻の外に設置された説明書きを読んでいるようだった。
「あ、あっち、トラがいますよ。藍虎さん、見に行きませんか?」
「え、ああ、そうですね。行きましょうか。三峰先輩、ちょっと見てきますね」藍虎が二人を交互に見て言った。
「おおー、二人分の子守よろしくな~」
三峰が少しだけ注意を向けて、手を振った。あっという間に、オーバーオールの背中が遠くなっていく。後ろを慌てて追いかける藍虎の姿は、保護者というよりは執事やメイドの方が近いかもしれない。
「私たちはゆっくり見て回りましょうか」
「優二、はぐれないように手つないどけよ」
優二が三峰に手を引かれていく。三峰の手に収まった少年の手は、やはり本当の兄弟だからか、画になるような、確かな居場所に見えた。
三峰姉弟と神城は解説のパネルや、飼育員のアナウンスなどを聞きながらゆっくりと進路を進んでいった。天使もその後を追おうかと思ったが、亜熊が入り口の園内マップを見ていたことを思い出し、踏みとどまった。
「愛ヶ崎は行かないのか?」
他のメンバーにすっかり置いていかれているにもかかわらず、マイペースな様子で亜熊はそう言った。おそらく現地でばらけて行動するのはいつものことなのだろう。
「いえ、先輩と一緒に回ろうかと」
亜熊に対しての特別な感情というわけでもなく、自然にそう返した。亜熊は面食らうということもなく、「待たせてしまったか」と申し訳なさそうな顔で少しだけ早歩きで天使の所まで歩いてきた。
「私、ゾウが見たいです」
「ゾウなら、このまままっすぐ進んでサル山を右だな」
なんでもない会話ですらどこか緊張して、ぎこちなくなってしまう。その小さな不自然さを、気づかれていないだろうかと不安に思うと、かすかに雪の降るほどの寒さすらかき消すほど、体の熱が主張する。
無言でいるのも耐えがたく、ついつい何かを話して場を持たせようとしたくなる。
「久しぶりに来ると、なんだかすごくワクワクします。
どの動物も、昔はもっと大きく見えていて、迫力に圧倒されたというか、子供心に自然の雄大さを知った気でいたんです。今はなんだか、かわいいと思うことの方が多いのに、それでも昔と変わらないくらい好奇心は刺激されていて、なんだか有名人にあったみたいな嬉しい気持ちになってます」
天使はゾウのいるエリアに移動しながら、檻の向こうの動物たちを流し目で見た。
「それは、君が彼らのことを、前よりもずっとよく知ることができたという証拠だろう。そして、今ももっと知りたいという向上心を持っている。愛ヶ崎の良いところだな。学ぶ意志が強く、分け隔てない……
なんて、動物園で言うことでもなかったか。すまないな、まだ先輩面が抜けなくて」
苦笑いをする亜熊に、天使は慌てて、気にしていないという風に手を振った。
「先輩は、卒業しても、いつまでも私の先輩ですよ」
自分で言って、自分で変だと思った。
いつまでも先輩だなんて、そんなこと言うつもりではなかったはずだ。今日は、それを変えに来たはずではなかったのか。執行部の先輩と後輩という関係性を、壊したいのではないのか。
『天使』ではない『私』は、『愛ヶ崎天使』は何を見て、何を思っているんだ?
こんなにも近くにいるのに、なぜだか手を伸ばしても届きそうにない彼に、苦しく高鳴る鼓動は、何を伝えたいと思っているんだ。
「それもそうか」
また彼は優しく笑う。私の言葉を彼が受容して、その意味が完結する。なんだか少し気恥しくなって、話をそらしてしまいたくなる。それが何の意味もないごまかしだとしても、あるいはこの機会を逸してしまう破滅の一手だとしても、意識の遠くなっていくような熱い感情に意識を奪われないようにと言葉をひねり出して排熱したくなる。
気が付けば、ゾウのエリアまでたどり着いていた。一言二言、世間話と変わらないような感想の応酬をしたところで、体の熱さは収まらない。ゾウの長い鼻から水をかけてほしいほどだったが、そんなことを言えば、この緊張の駆け引きからは一発でドボンだろう。
まぁ適当に見て回ろう、と言った先輩に、私は何と返しただろう。分からないが、とにかく先輩の後について進んでいく。
ゾウはやはり人気エリアだったようで、出ていくタイミングで同じくらいの人数とすれ違う。マイペースだと思っていた先輩も、心配そうに私の方を振り返りながら人混みを避けて進む。
「——さき、愛ヶ崎っ!」
熱に浮かされるようにぼうっとしていた私の頭を、右手に触れた冷たい他人の体温が引き戻す。先輩はきっと、心が温かいから手は冷たいんだ、などという意味も根拠もない思考を三周ほど回したとき、掴まれた手が優しく引っ張られる。先輩に手を握られていたのだと理解したときには、人混みを抜け、体温は遠く離れていた。
「……少し休もう。人混みに長くいると、自覚している以上に疲労するからな」
手を引かれた先は、ふれあいエリアと遊覧エリアの境にある休憩所だった。昼時のピークはとっくに過ぎて、今はガラガラになっていた。人のいない空間の風は一層涼しく、ぼんやり通していた思考もだんだんと元に戻っていくようだった。
「水、買ってきたけど、飲むか?」
どこかに行っていた様子の亜熊が、片手のペットボトルを差し出してくる。ありがたく受け取って、首筋に当てる。ひんやり、というよりもキンキンの冷水が急速に体温を下げる。同時に視界も明瞭になり、余計な思考も消えていく。
「す、すみません。ありがとうございます」
まだ上手く言葉を紡げないままで、ひとまずもらった飲料水の礼を伝える。思えばやけに喉が渇く。
「いや、構わないさ。俺はあまりアクティブな方ではないし、休憩を挟まないととても回り切れないからな。それより、愛ヶ崎がそこまで疲れているというのも珍しい。何か、執行部で問題でもあったのか?俺に聞けることなら聞くが」
亜熊も一口水を飲んで、それからゆったりと木製の椅子に背を預けた。
問題——先輩に話せることではある、というか先輩に話さなければならないことではある。あるが……
「じ、実は色々とあって、今日はちょっと疲れてるのかな……でも、大丈夫ですっ!今日は目一杯楽しみます!」
天使が、両手をきゅっと握って胸の前で構えると、亜熊はそれならいいが、とまた一口水を飲んだ。
ふと、二人の椅子の間にある机に置かれた、亜熊のかばんについたアクセサリーが目に留まる。太い氷柱のような簡素な棒状のデザインで、どこにでもありそうではあるがどこにあるかと言われると困る造形だ。
「先輩のかばんについてるのって、もしかして『マジ☆マド』のストラップですか?」
なんとなく見覚えがあった気がして、考えなしに聞いてしまったが、そんなはずもない。
『マジ☆マド』とは、数年前にサイトに投稿された同人アニメ群で、正式タイトルは『マジカル☆マドル』と名付けられている。一見明るい魔法少女モノのように見せて、実際には製作者の趣味なのだろうスプラッターサスペンス要素が視聴者の度肝を抜く。後半の考察要素が一部のオタクの間で過剰に持ち上げられ、投稿直後は話題になったそうだが、最終的にはそれなりの知名度で終わったらしい。というのが、天使がパソコン研究会の生徒から聞かされた概要である。
天使自身も興味本位で一通り視聴し、考察サイトも巡回するほど一時期はハマっていた。その時に投稿者がマーケットに出していたファングッズも、買いはしないまでもラインナップを眺めてはいた。作品のアングラさ故か、直接的なキャラグッズは少なく、分かる人には分かるくらいの実用性を備えた商品が多かったと記憶している。
天使は、『マジ☆マド』はそれほど安易に口に出すほどメジャーな作品でもないということは分かっていたつもりだったが、最近見たせいでついうっかり誰もが知っているような気になっていたのだ。先輩はアニメやゲームも含め、サブカルに興味があるような印象もないから、知っているわけもない。それも、グッズを買うほど傾倒しているはずは――と思ったが、指摘された元生徒会長は、目を丸くして天使の視線を返したまま、返答に困るように硬直していた。
「——知ってるのか?」
亜熊はゆっくりと、試すようにそう聞いた。それが答えと言ってよかった。
「……知ってます」
天使も慎重に、密談をするように机に両肘をついて得意げな笑みを浮かべる。すると、亜熊は大きく息を吐いて、背もたれの向こうへ頭を投げ出した。そして、体を戻してくると、少年のような笑みを浮かべる。
「あんまり知ってる人いないし、知らなかったら普通にオシャレな感じでいいんだよな」
口調はいつもと変わらないはずなのに、どこか砕けた調子で無邪気な様子だ。なんだか知らない一面を見た気持ちになって、呆気にとられながらも嬉しい気持ちの方が大きい。
「ですね」
気の利いた言葉は返せないが、今はその方がずっと良い気がした。それが、先輩と後輩ではない、友達、のような会話だと思った。
遠くから神城たちが歩いてくるのが見える。亜熊は立ち上がると、すっかり元の『悪魔』の顔に戻った。
「あんまり言いふらさないでくれよ。知っての通り、真面目で通しているんだ」
天使の方を振り返り、余裕そうな笑みを一瞬浮かべると、亜熊は何事も無かったように執行部の仲間たちを迎えに行ってしまった。その表情のなまめかしさに、天使は思わず息が苦しくなるような動揺を覚えてしまう。どうして、今になって新しい一面を知ってしまったのだろう。そんな文句を神様にでも言いたくなってしまう。
きっと、バレたって何も変わらないですよ。
そう言いたくもなったが、ぐっと飲み込んで軽食を買いに行く先輩たちに混ざりに行く。
そんなどうだっていいような秘密だって、今は、あなたと私を繋いでいるのだから。
「私は、怜子さんと優二たちを遊園地の方に連れていくけど、みんなはどうする?」
「私は強制なのかしら?まぁいいけどね」
三峰が各々休憩していたところに切り出すと、神城は立ち上がって藍虎から川里の手を預かった。川里は猛獣を手なずけたような、自信気に鼻を膨らませた満面の笑みだ。
「私は、もう少し丸背先輩ともう少し休憩することにします。動物園も一通り見れたので、後から合流しますよ」
丸背は、藍虎の意見に同意するように、無言でソフトクリームを舐める。最後に休憩スペースにやってきた二人は、かなりのハイペースで回ったのだろう。雪の日だというのに額にはうっすらと汗が見える。丸背は一口が小さいらしく、まだ渦の形が鮮明なソフトクリームはしばらく無くなりそうにない。
「俺は、そうだな、もう少し動物園を見てくるよ。そのあと、遊園地の方に合流しよう。愛ヶ崎はどうする?」
「私も、そうします。まだもうちょっと見たいところありますし」亜熊に話を回され、天使が返す。
「じゃあ、また解散だな~。行くぞ優二、今回は怜子さんもジェットコースター乗ってくれるからな~」
「ええっ⁉乗らないわよ……乗らないからね」
仲良さげに小突き合いながら、四人が去っていく。
「俺たちも行くか」
「はいっ」
亜熊が立ち上がったのに合わせて、天使もついていく。
水鳥やワニのいるエリアを巡り、のびのびと過ごす動物たちの間に流れるゆったりとした時間に癒される。時折隣で亜熊が見せる安心したような顔に、天使まで心が落ち着く気持ちになる。
カバののっそりとした動作を見ていると、なんだか微笑ましい気持ちになった。手すりにもたれて、ぼんやりとカバの顔を眺める亜熊も、きっと同じように思っているのだろう。気の抜けたようにあくびをする彼は、私と目が合うと少し恥ずかしそうに手で口元を隠した。少し間をおいて二人で笑い合う。
「もうそろそろ時間か」
あっという間に過ぎる時間に名残惜しく思いながら、天使たちは遊園地のあるエリアに向かう。いつの間にか雪も止み、わずかに路面に積もった雪も解けつつある。
遊園地エリアと遊覧エリアの境のゲートをくぐると、近くの休憩所で神城がぐったりと座り込んでいるのを見つける。
「どうしたんですか、神城先輩」
「ああ、天使ちゃん……いえ、大丈夫よ。ちょっと酔っちゃっただけだから。ワンコたちなら、多分次は観覧車の方に行くんじゃないかしら……私は良いから、呼んできてほしいわ……もうすぐバスの時間でしょう?」
息も絶え絶えと言った様子の神城の頼みに、天使は亜熊と顔を見合わせて苦笑する。
「ああ、愛ヶ崎さんと亜熊先輩。動物園の方は楽しめましたか?」
天使が「神城先輩は私が見ておくので、亜熊先輩はワンコ先輩を」と切り出そうと思っていた時、あるいは亜熊もまた同じようなことを言いだそうとしていた時、遊園地エリアの奥の方から、丸背の手を引く藍虎と眠たそうに目を擦る丸背が歩いてくる。
「ああ、楽しかったよ。藍虎も楽しめたか?」
「ええ、もちろん。丸背先輩も、ご覧の通りです」
「わたしは、もうすこし……」
滑舌の悪い起き抜けのような声で言って、丸背は藍虎の手を抜けて神城の横に座り込むと肩を寄せて目を閉じた。
「それで、先輩たちもアトラクションに?」
「いや、三峰を呼びに行くよう神城に頼まれてな。今から行くところだったんだ」
藍虎は、仲良く休む二人の姿を見て、それから天使たちの方に向き直ると、交互に二人の顔を見て、それから思いついたように言う。
「でしたら、先輩方の面倒は私が見ておきますので、そちらはお願いします」
「ああ、ありがとう。そうするよ」
亜熊がそう返すと、藍虎はまだまだ元気そうに手のかかる先輩の方へと歩いていく。振り返る一瞬、天使は彼女が自分にだけ見えるようにウインクをした気がした。その意味はよく分からなかったが、何か伏するものがあるのだろうと心に留めておく。
「行くか。観覧車の方、だったな」
「はいっ」
歩き出す先輩に追従して、観覧車の方に向かう。
だんだんと夕暮れ泥む空に、一日の終わりを感じる。それと同時に、この幸せな時間の終焉も。今日で終わりだなんて、決まっているわけでもないのにことさらに意識してしまう。「それが実質ラストチャンス」なんて悠怜の言葉が、気持ちの解決を先延ばしにしようとする気持ちを睨みつけている。
だけど、何となくもう分かっている。自分の気持ちも、先輩の気持ちも。その視線がどこを向いているのかも。
「案外大きいな。どこもこんなものなんだろうか」
観覧車を間近で見て、亜熊は何の気なしにそう呟く。
「確かに、結構大きく見えますね……って、ああっ、今ワンコ先輩たちが乗ってっちゃいました!」
天使が指さす先で、二人の子供を連れた、威圧感のある服装をした美少女が、観覧車に乗り込んでいく。走っても間に合うわけでもなく、間に合ったとしてどうするでもない。ゆっくりと閉じられていく扉に合わせて歩調を緩める。
「——俺たちも乗っていくか?」
彼は一瞬の逡巡もなく、そんな提案をしてくる。私なら、何度も何度も迷って、ためらって、振り絞って言うようなことを、こうも簡単そうに言ってのける。
――なんて、なんて優しい言葉なんだろう。
彼の差し出す手を取りたいと、そう素直に思う。それが『友達』として、当たり前のことだ。きっとそのくらいの、深く考えるほどのないはずの選択だ。彼は優しいから、そうして簡単に手を差し伸べる。私の思いとは関係なく。
「迷う必要ある?これがラストチャンスだよっ!」
返答を絞り出そうと息を吸う私の脳に、そう誰かがささやきかける。
「好きと思ってみても損はないよ。彼がどう思っていようと、いいじゃないか。優しさを利用して、何が悪いんだい?」
思い出が切り取られて、欲深い甘言が背中を押す。彼が手を差し出す。私は、その手を取る。前進するのは、簡単なことだ。まっすぐに進んでいく彼の手を取れば、彼の提案に一言「はいっ」と返事をすれば、それだけで前に進める。
「私、私は――」
甘い言葉で誘惑してくる欲望に耳を塞いで、心の中の私はしゃがみこむ。
私は、『天使』になりたいとそう思って、はるかな空に消えていった背を追って進んできた。今もまだ、どこに続くかわからない道だ。その先に『天使』がいるのかも、『天使』になれるのかも分からない曖昧な夢。だけど、一つだけ確かなことがあって。
「——いえ、すれ違うといけないので、ここで待ちませんか」
彼と観覧車に乗ることが嫌だと捉えられないよう、なんとか悲しい顔をしないように口角を上げる。いつも通りに、何も気にしていないような天真爛漫な笑顔を向けるんだ。
もっと先へ、私は進んでいく。彼もきっと、もっとずっと先へ行くのだろう。けれど、私はその道を、あの空へ向けて羽ばたかなければならない。私だけの羽で、一人で飛び立たなければならないのだ。
「……そうだな」
彼は顔色を変えずそう言って、笑顔を繕った私に合わせるように、わずかに優しい顔になった。
――ああ、私は、この人のことが好きなんだ。
思わず安心してしまうその微笑みに、私はそう思わされてしまう。
ゆっくりと下りていく彼の手を見て、こぼれてしまいそうな涙を隠すために、背を向けてベンチの方を指さす。
「あそことか、ちょうど観覧車が見えてよさそうですっ!」
願わくは、いつか天使が羽を休めるためにその高度を下げたとき、白い羽が描いた放物線が、あなたのまっすぐ進んだその先と交わりますようにと、そんな迷惑な願いを、そっと心にしまう。
「私、先輩に言いたかったことがあるんです」
観覧車はゆっくりと上っていく。その回転が歯車を動かすように、言葉が口からあふれ出していく。彼は何も言わず、じっと言葉の続きを待っている。
「——私、最高の生徒会長になってみせます。亜熊先輩よりも、ワンコ先輩よりもすごい生徒会長になってみせます」
「——ああ、君ならなれるさ。君は、どこまでも翔けていける」
彼は、臆面もなくそう断言してしまう。彼のその視線は、私のずっと先の空を、『天使』を見ていた。その遥かな未来を、疑いもせず私だと信じている。
そんな呆れてしまうほど厚い信頼を受けて、私はもっと先へ進めるような気がした。
あの日、天使の背に焦がれて夢を見始めたときから、恋なんて、誰かを求めることなんて忘れてしまっていたのに。初めて感じたその光は、今もまだ、そしてこれからもきっと、どこかで私を呼び続けるのだろうけれど。
視界は定まった。後は進むだけだ。恋なんかよりも、もっとずっと眩しく輝く、あの空の光へ。私が、手を伸ばす――
それから、目一杯楽しんで眠くなった子供たち(丸背はなんとか自分の足で歩いた)をおぶって、一行は動物園を後にした。
天使は家に帰りつくと、玄関扉のノブを捻る。
「あれ、買い物にでも行ってるのかな?」
てっきり悠怜は家にいるのだと思っていたが、鍵が閉まっているところを見るに外出中の様だった。鞄から鍵を出して、ようやく家に入る。
靴を脱ぐと、一日の疲労がどっと襲ってくるような感覚だった。ダウンジャケットをハンガーにかけて、眼鏡を外す。そのままベッドに倒れこみたい衝動を抑え込み、とりあえずシャワーを浴びることにした。本当なら湯船につかりたいところだったが、湯を沸かしている間に眠ってしまいそうだった。
「ちべたっ」
迂闊にシャワーから出た冷水を浴びてしまい軽く悲鳴を上げる。少しばかり判断能力が鈍ってしまっているようだ。不満げに低く唸り声をあげながら、人肌の温度まで温まるのを待つ。
部屋の暖房はすっかり回ったようで、シャワーを上がるころには快適な室温になっていた。ベッドの上に放り出していたスマートフォンを見ると、悠怜から「今日は遅くなるかも~」というメッセージが届いていた。
「……またか」
こういうときの悠怜は、天使が夜更かししていても帰ってこないくらいには遅いこともある。引きこもっていたころに深夜外出していた影響で、時間の感覚がかなりルーズなのだろうと勝手に思っているが、直接言うのも憚られた。「今日の話、また聞かせてね」という続きのメッセージに、「もちろん!」と返した。
寝巻になってベッドにごろんと転がると、今日一日の様々な思いが去来する。色々なことがあったような複雑な感情だが、きっと最後に残ったことはシンプルだ。
仰向けに寝転がったまま、部屋の照明に手を伸ばす。
なぜだか、心は晴れやかで、もう迷うことはないと、そう思えるのだった。この手は空へ、高く高く進路を定めている。