第二十八話 白馬あるいは悪魔
・主な登場人物
愛ヶ崎天使:この物語の主人公。天使ちゃん。現在生徒会執行部副会長。ムード/トラブルメーカーの天才少女。
藍虎碧:一年四組のクラス委員長兼執行部書記。真面目でクールキャラだと思われがちだが、汗をかき大声を出すスポーツが好きな熱血タイプでもある。
亜熊遥斗:悪魔先輩。三年の元生徒会長。冷静で気が利く男子生徒。
神城怜子:三年の元執行部副会長。自称『神以上』の神城。お高くとまっているようで案外庶民派の女子生徒。身長が結構高い。よく腕を胸の前で組んでいる。
この学校には、悪魔がいた。そんな噂は、もう誰も話していない。
その噂をよく知る三年生は、いよいよやってきた大学受験の勉強に忙殺され、口を開けば偏差値と語呂合わせの話だ。当の悪魔は誰と会話するでもなく黙々と自習し、それなりの点数に落ち着いていた。大学入試のテスト形式は、彼の勉強スタイルや思考方法と相性が良いらしく、秋から冬にかけて志望校を少し上げている。
この学校には、天使がいた。そんな噂が生徒たちの間では持ちきりだ。悪魔とは違い、新鮮な輝きと共に、驚嘆と感激を添えて現在進行形の感嘆符で語られる。
その噂を語る生徒たちは、口々に新執行部の良さを称え合い、ある生徒は天使のことを前から知っていたと古参ぶり、またある生徒は渋々ながらその魅力を認める。当の天使はそうした生徒たちと相も変わらず奔放に接し、あちこちで心を惑わせていたが、変わった点があるとすれば、彼女についての噂が、ポジティブなものばかりになったという点だろう。期待、羨望、嫉妬、称賛、崇拝、敬愛。様々な感情を向けられ、天使の像は肥大化する。
一方で、愛ヶ崎天使という少女は、どこか不安げな瞳で肩をすくめるときがあるのであった。
「——大丈夫よ。私は、一般入試じゃないからみんなほど勉強漬けじゃないの」
忙しい中すみません、と頭を下げると、かつて神以上と豪語し自信気な笑みを見せていた先輩は、優しくほほ笑んだ。
「それで、相談っていうのは?それも、私と二人だけでなんて」
先輩は、興味を示すようにというよりは、親身に心配するように聞いてきた。思えば、これまでの活動の中で、いや、もっと言えば人生においてすら、誰かに悩みを聞いてもらうなんてことはなかった。そうしないのが私だと思っていたし、実際そう悩むようなこともなかったのだ。
「その……新執行部が始まって、先輩たちの引継ぎのおかげで、問題なく活動できているんですけど、私は、本当にうまくできているのかと思って」
「活動の不安ということかしら?とっても上手くできていると思うわよ、話を聞いている限りは」
「あっ、その……活動のこと、というよりも、個人的な話で。なんというか、私はワンコ先輩や、その、あ、亜熊先輩みたいにできているのか、って、そう思うんです」
天使は、自分が悩んでいることをどうにか言語化しようと視線を落として集中した。十二月末の寒い気温も、ファミレスの空調は適度な温度に整えており、考えるには適している。
「あなた個人についても、問題ない、というよりもずっと私たちよりできる子だと思っているけれど……そんなに不安なのかしら」
「あの、なんというか……能力のことというわけでもなくて、その考えていること自体が問題というか……つまり、新執行部で活動しているはずなのに、ずっと先輩のことを考えてしまうことがあって、それがなぜなのか、どういう思いなのかが分からなくて……」
「私たちの影を見てしまうということ、かしら。新執行部は自由に動いていいのよ?私はともかく、遥斗が口出しするとも思えないし」
天使は、神城の要領を得ない返答にどう説明したものかと、意味もなく手で中空をかき混ぜる。それはちょうど自分の心が落ち着く場所を探しているようであり、金庫のダイヤルを開けるような、倒れないようにバランスを取っているような繊細で滑稽な動きだった。
「——その、相談!っていうのが、つまり、この気持ちが何なのか、神城先輩なら知っているかもしれないっていうことで……私、最近ずっと、そうやって亜熊先輩のことを思い出してしまっていて、それで作業もミスが多くて、なんだか体調も少しおかしくて――神城先輩、私、どうしたらいいんですか」
問われた神城は、その目線に一度しっかりと向かい合う。天使の瞳は吸い込まれそうなほど潤み、ずっと奥までその黒さを澄ませている。
神城はため息をついて目を伏せる。前髪をかき上げて、薄汚れた天井を仰ぐ。改めて息を吐き、水泳選手も驚くほどのロングブレスを見せる。温かい呼気が昇り、天井に達したかと思われるほどのタイミングで、神城はようやく視線を戻し、片手間に携帯で誰かに通話を繋ごうとする。
「わ、わわわぁぁぁっ!ちょ、ちょっと先輩っ!この話は、あんまり人に広めないでほしくて……私、そのせいでワンコ先輩に生徒会室から追い出されちゃって」
天使の制止も意味をなさず、コール音が消え通話がつながった。
「もしもし、三峰です」
「あ、ワンコ?天使ちゃんに私を頼るように言ったの、あなた?」
「あ~、ちょっと回線が悪いみたいだな。怜子さん、悪いけどいったん切るぞずざざざざぞぞ――」
「はぁ?ねぇ、ちょっと!」
三峰は口先で砂嵐のような音を立てると無理やり電話を切ってしまった。呆れたように再びため息をついた神城を、机の上に両手を伸ばして突っ伏した天使が見上げる。
「……しょうがないわね。もう一度、きちんと話しなさい。聞いてあげるわよ」
「——要するに、遥斗が好きってことでしょう?」
天使の相談を改めて聞いた後、神城はそう尋ねた。
「好き、なのはワンコ先輩もニャンコ先輩も、もちろん神城先輩だってそうですよ。でも、亜熊先輩のことは、少しだけ違う感じがするって言うか」
「だから、その、何て言うのかしらね、恋愛的にというか。私やワンコのことは、こう親愛っていうのかしら、仲よくしたいみたいな感じで、遥斗のことは、その、一緒にいたいみたいな……ごめんなさいね、私もよくは分からないから曖昧な言い方だけれど」
「れ、恋愛……彼氏とか彼女とかそういうのですよね。あ、亜熊先輩は、そういう人、いたんですか?」
天使は意図していない話を振られたというように動揺し、慌てて話題をずらした。
「あいつにそんなのいるわけ――何て言うと、私の方まで頭が痛くなってくるわね。執行部に入っている時点で、結構そういう話とは縁遠いわよ。仕事人間というか、興味がないと言えば多少聞こえはいいけど、ちょっと見下しているところがあるというか、そんな感じなのよねみんな。まぁ、学内の問題が恋愛がらみのことばかりで嫌になっているのかもしれないけれど」
「そうなんですね。確かに、聞いたことなかったなぁ……」
天使も、悠怜との同棲が当たり前になりつつあり、異性との交際など意識に上ることすらなかった。そんな悠怜はどうなのだろうと思いをはせるが、男子生徒と話しているところを見かけないし、きっと彼女も同じなのだろう。というかそうだったら嬉しいな。
「——でも、やっぱりそういうのとは違うと思うんです。
一緒にいたいというより、亜熊先輩といると、背筋が伸びる感じというか、ちゃんとしないと、と思うというか。でも、そう思うたびに、胸が苦しくなるんです。不安になるというか、あの人の隣を歩いていいのか自信がなくなるというか、そんなざわざわが止められなくて、もっと頑張りたくて、でも頑張ろうと思うと不安になって、その繰り返しで……そんな気持ちを持っていることが、亜熊先輩の邪魔になるんじゃないかって、不安なんです」
「それって、好きってことだと思うのだけれど」
「これって、好きってことなんですか?」
「そうね。違いないと思うのだけど」
「だけど、何です?」天使は不安げに尋ねる。
「いえ、だけどっていうのは、どうしてあなたがそう思っていないのか分からないという意味で、その気持ちは好きってことで間違いないわ」
「それは違うと思うんです」
「いいえ、違わないわ」神城はきっぱりと否定する。
「その、好きというよりかは――」
「ああああ、もうじれったいわね!好きってことで良いの!その方が、天使ちゃんもがんばろうって思えるでしょう?遥斗のことなんてね、いいえ、他人のことなんて、天使ちゃんがおもんぱかる必要はないのよ。みんな究極はどうにか生きていけるし、多少は迷惑をかけながら生きているもの。そう思う、っていうくらいで生きやすくなるのだから、そうした方が得だと思わない?」
神城は、ついに机を掌で叩いて熱弁する。ついグニグニと天使の頬をつねりたくなったが、一応は真面目な忠告をしているつもりだったので自重する。
「……得って、自己利益のために、先輩のことはないがしろにしてもいいってことですか?」
「そこまでは言ってないわよ。結局、あなたはどうしたいの?ってこと。
誰も彼もが幸せで苦しまないでいられる選択肢は、この世にはないわよ。遥斗を苦しめ――いえ、迷惑をかけたくないっていうのが本旨なら、あなたはその気持ちを隠して苦しまないといけない。反対に、その気持ちを解放して楽になりたいのが一番なら、迷惑だとか考えずに本人に言っちゃえばいいのよ。『私は先輩のことばっかり考えちゃうんですけど、どうしたらいいですか?』って。遥斗なら、きっと相談に乗ってくれるわ」
天使は、迷うように手を胸に当て、視線を泳がせる。
「……私は、迷惑にはなりたくないです」
神城は、少しだけ意外そうに、目を瞬かせた。
「でも、こんな気持ちになるのは初めてなような気がするんですけど、どこか懐かしい気もしていて、だから、もっと知りたいんです。この苦しい気持ちが、どこから来ているのか。何を目指しているのかを、知りたいんです」
神城は興奮していた体の熱を抑えるように、お冷を一口飲んだ。
「それなら、もう一人助っ人を呼びましょう。私だけでは、少し荷が重いわね」
「——私、亜熊先輩のことが好きなの!どうしたらいいかな?」
出会い頭にそんな宣言をされ、助っ人——藍虎碧は面食らってしまい、天使の隣に座ろうとかばんを下ろした中腰姿勢のままフリーズしてしまった。まず眼球がぐるりと回転し、ぜんまい人形のようにカクカクとした動きで、中断していた動作を再開する。腰を落ち着かせて、震える手でお冷を一口飲む。
「えっと、何の話で私は呼ばれたのか。もう一度聞かせてくれないか」
「だから、亜熊先輩のことが好きなんだけど、どうしたらいいかな?」
再び、藍虎は動作停止を起こしてしまう。慌てて神城が、先ほどまでの話を軽くまとめて話した。
「——つまり、好きだというのは仮定の話なんだね。それで、そのよく分からない気持ちの正体を知るために、どうすればいいかを考えてほしい、ということであっているかい?」
「そうね、今の状況はそれで正しいわ」
なんとか息を吹き返した藍虎が、顎に軽く指をあてて考え込む。
「何か、いいアイデアがないかと思って、藍虎ちゃんを呼んでみたの」
「——そうだね。頼ってもらえるのは、素直に嬉しいけれど、あいにくと私も、恋愛に詳しいわけではないんだ。だから、まずは亜熊先輩について知ることから始めるべきだと思う。彼を知り己を知れば百戦危うからず、とも言うからね。まずは相手のことを知ってみよう。ちょうど、適任の先輩もいらっしゃることだからさ」
藍虎はそう言って神城の方を見た。神城は少し困ったように頬をかく。
「私も、別に詳しいということは無いのだけれど。でもそうね、彼は友達が多い方ではないし、学校内では詳しい方なのかしら」
神城は、思考を整理するために、お冷を一口飲む。すっかりぬるくなったお冷は、コップの表面も室温だ。
「台典商高の悪魔会長。そう呼ぶ人もいるけれど、真面目で正直者、いつでも他人優先で自分の負担はあまり考えない優しい――というより変わった人間ね。仕事も淡々とこなすし、私語もあまりしないかしら。でも、監査委員長——明日斗くんとは軽口を叩いたりもしているから、人と話すのが嫌いというわけではないのかもね。それに、天使ちゃんの話をするときは結構楽しそうというか、笑っていることも多かったから、人間嫌いというわけでもないとは思うわ」
「かいちょ――亜熊先輩って、私の話とかしてたんですか⁉」
「そりゃあするわよ。あなたの話をしていない人の方が少ないものね」
天使が無言で視線を向けると、同意するように藍虎もうなずいた。天使は少し恥ずかしそうにうつむく。
「後はそうね。一人でいるのが好きだと言っていたわ。人間関係で気疲れするタイプなのね。気持ちは分かるわ」
「じゃあ、もしかして私と一緒にいるのも負担になったりしちゃうんですか……」
「どうかしら。少なくとも、執行部のことを嫌がっていた風には見えなかったけれど」
神城は思い返すように額に指をあてる。
「趣味は……何なのかしらね。休日の過ごし方とか、全然知らないわ。でも、読書とか散歩とか、そういうことは好きだって言ってた気がするわね。根っからの文系だって自嘲していたけど、そのくせ数学もできるんだからニクいのよね」
うんざりしたようなため息が吐かれた。
「そういえば、神城先輩は亜熊先輩のことをどう思っているんですか?それこそ、一番仲が深いのですよね」と藍虎。
「遥斗のことか……友達、でもないわね。同僚というか、仕事仲間というか、そんな感じね。顔も悪くはないし、性格もとても良いとは思うけど、干渉し合わない関係でいるのが楽というか。むしろ遥斗自身が、そういう付かず離れずの関係性で人と接するのが好きでそうしていると思うのだけどね」
「やはり、謎が多いというか、本心の見えない人なんですね、亜熊先輩は」
藍虎は再び考え込むように視線を落とす。すっかりコップの氷も溶けている。
「でも、なんとなく気持ちは分かります。亜熊先輩は、人の気持ちに踏み込みすぎないようにしている感じですよね。その代わりに、踏み込まれないようにしているというか」
天使の言葉に、少しの静寂が降りる。
「それじゃあ、先輩について知るのはこれくらいにして、次は愛ヶ崎さんの気持ちについて整理してみよう。
まずは好意だね。少なくとも、先輩のことを慕っていることは確かだ。問題はそれを先輩がどう思うかかな。
次に不安だ。今言ったように、先輩から受け入れられるかを不安に思っている。そして同時に、受け入れられないことで自分の未熟さが露わになるのではないかとも思っているんじゃないかな。
最後に期待だ。先輩を慕い、不安に思うのは、愛ヶ崎さんがその先で成長できるという期待を抱いているからだと思う。一方で、成長できないかもしれないという思いが不安につながり、成長のために先輩に迷惑をかけるかもしれないという思いが負担になっている。
後は、その気持ちが何なのか。恋愛——と言いたいところだけど、それは少し違うという話だったね。なら、尊敬ということではないのかな。尊敬しているから、それが今、後を継ぐという場面でプレッシャーになっている、とか」
藍虎は専門家のようによどみなく天使の気持ちを分析した。事細かに自分の思いを綴られた天使は、少し息の詰まるような感覚になったが、総括で少し違和感を覚える。
「尊敬、というのも少し違うのかもしれない。亜熊先輩はすごい。先輩自身はそんなこと言わないし、誇るどころかずっと謙遜してばかりだけど……
でも、私はそんな先輩みたいになりたいとは思ってないの。仕事とか責任とかそういうものを引き継ぐことには、不安よりも楽しみな気持ちが強いんだ。今は副会長で、その次は会長になって、そうしたらもっと先へ行ける気がするから。
だから、その先に亜熊先輩を見ているわけではなくて、神城先輩が言っていたみたいに、同僚というか、戦友みたいな、力をくれた恩人みたいに思っていて……でも、そういう暖かい気持ちだけじゃないもやもやが湧いてくることが不安になっている、んだ。
えっと、だからつまり、亜熊先輩のことは好きで、でもその好きが不純になってほしくは無くて、でも忘れたくはない気持ちというか、手放したくは無くて……」
言葉を何とか紡ぎながら、指先で喉元をなぞる。視線を落ち着きなく泳がせて、正解を探そうとする。そんな天使の背を、温かな掌がさすった。
「思うに、答えを見つける必要はないんだ。例えば、ミロのヴィーナスやサモトラケのニケみたいなもので、欠けているからといって、その魅力や効力が失われているとは言えないものもある。愛ヶ崎さんが抱えているソレはそうして悩んでいることで、その歪みが成長の原動力となるようなものなのかもしれない。
もちろん、その過程は苦しかったり、じれったかったりするもので、それが嫌になったら、吐き出してしまうのも手だと思う。あるいは、手放してしまっても構わないだろう」
「……それは、嫌だよ。辛くても、苦しくても、目を背けたくはないの。自分の気持ちに蓋をしたくはないから」
藍虎は安心したように口角を上げる。
「なら、今はふさぎこまずにポジティブにしている方がいいと思うよ。とりあえずはそう、先輩のことが好きだと思ってみたりね。ナンプレでも、分からなくなったらとりあえず当てはめてみるのが定石だ。好きだという仮定をしてみて損はないし、ひょんなことで正解と出会ってしまうかもしれない。とにかく、私から言えるのはそれくらいかな。それと、いい加減まじめに仕事をしてほしいからね」
「それは、ごめんなさい……うん。頑張ってみる」
「一件落着、とは言えないけれど、一区切りはついたかしら。まだ二人は高校生活長いのだから、いっぱい悩むといいわ。そういうの、青春っていうのでしょう?」
羨ましそうに頬杖を突いて、神城は笑った。
それから、奢るわよと言った神城に遠慮せずに注文した天使は、脳天にチョップを食らい、結局パフェを食べて解散になった。
しばらくの間、天使はその気持ちについて考えていたが、次第に年始の行事や勉強に追われてざわめきは収まっていった。
その『正解』というものと天使が出会うのは、年が明けて少し遅めの積雪が見られた二月頭のことだった。