第二十三話 三者面談
・主な登場人物
愛ヶ崎天使:この物語の主人公。天使ちゃん。ムード/トラブルメーカーの天才少女。あらゆる分野において平凡ではないが、同時に突出もしていない。自分が人から愛され信頼されることは当然だと思っているため、他人から向けられる特別な信頼や愛情についても無頓着である。また、自分は特別な人間だと思っている反面、自分の才能の特別さには無自覚的である。
細小路悠怜:様々な騒動の後、親と決別し天使と同居することになった少女。学力は中くらいだが、親に啖呵を切って出てきた手前、もっと勉強しなければと思っている。
この学校には天使がいる。らしいですよ、奥さん。そんな噂が、保護者たちの間でも流れ始めていた。おしゃべりな子供の話は、家族団らんの場ではとても貴重でほほえましいものだ。とりわけ純粋で、大きな問題もない台典商高の生徒たちは、高校で聞いた心躍る青春の一ページを語り聞かせる。そして、文化祭、体育祭と続いた学校行事を経て、保護者達もその魅力的な少女の存在を知る。
とはいえ、多くの大人は、そんな噂を気にすることはない。魅力的と言っても、所詮は児戯である。子供の言うことをすべて真に受けていては、まともな教育などはできまい。
もしそれを気にする親がいるとすれば、そう――天使本人の親くらいだろう。
「だから、最近悩んでいる様子だったんだね」
体育祭を終え、期末考査が視野に入り始めた十一月。悠怜はそんな愚痴を天使から聞かされることになる。お互いに高校以降の進路や、近い話で言えば二年以降のクラス分けにも関わる、文理の選択にも悩んでいる最中だ。
「別に、悪いことは何もしていないつもりなんだけど、先生とお母さんと一緒の空間にいることが嫌なんだよね」
天使たちのクラスの担任は、台典商高の体育教師でそれなりの古株である。しかし、その人情に篤い性格とは反対に、適当な勤務態度や気色の悪い言動、意味の分からない持論の展開など、様々な要素によって生徒たちからは嫌われていた。とはいえ、それが一年二組の生徒間の結束や発足に寄与したと言えないことも無いので、悠怜は少しだけ、暑苦しい担任に憐れみを感じているのだった。
「でも、天使ちゃんはお母さんと仲が悪いわけではないんでしょう?」
「まぁ……悪いわけではないけど、あの人は何というか、ぼうっとしているところがあるから、他の人と話しているのを見ると居心地が悪いんだよ」
「そうなんだ。天使ちゃんとはあんまり似ていないんだね。ちょっと見てみたいな。体育祭の時も挨拶できなかったし」
体育祭が終わった後、天使の母親が撮ったのだという応援合戦の映像を二人で見返した。天使は自分がいない応援合戦を、どうしてか笑顔で眺めて、それからたくさん悠怜を褒めちぎった。
「文化祭の時も、来るだけ来てビデオだけ送ってくるんだからよく分からないよね。もっとよく探しておくんだったよ」
「……天使ちゃんは、お母さんと会うの、平気なの?」
それは、悠怜が言わないようにしていたことだったが、ついポロリとこぼれてしまう。悠怜は、ひょんなことから両親と決別し、現在は天使と二人暮らしをすることになっている。当然のことながら、両親との関係は悪く、もはや両親と言うことすら怪しい。とはいえ、生活の援助を受けていることも事実であり、このお金を返しきったら本当に絶縁だと、妙なわだかまりが胸に留まり続けている。
対して天使は、聞くところによれば実家は高校の通学圏内にあるそうで、わざわざ一人暮らしをしているのも彼女の意思によるものだそうだ。悠怜はついつい自分の境遇に重ねて、親子仲が悪いのかと思っていたが、どうにもそれほど険悪というわけでもなく、しかし母親のことを語る時の天使の表情は、ひどく複雑な、葛藤するような表情だった。きっと、まだ彼女自身も咀嚼しきれていない、錯綜した問題があるのだろう。自分が役に立てることはないだろう。そう思っていても、彼女が不安そうにしていることが気にかかり、心配になってしまうのだ。
「それは、平気。だけど、話すようなこともないし、あの人のこと苦手だから、会いたくないっていうだけで、親孝行とか、ちゃんとしないとって思うこともあるよ。ほら、私お父さんもいないし、実家ではお母さん一人だからさ、勝手に野垂れ死にされるのも困るし、だから、いつかは戻らないといけないと思ってる。でも、まだ、それは今じゃなくて、会いたくないけど、無事ではいてほしいっていうのが本音かな」
天使は、心の中を探し回るように、丁寧にそう言葉を紡いだ。悠怜は、その感覚に少しだけ共感しながら、けれど自分はもう、あの人たちには何の感情も持てないな、と思ってしまった。
「ま、そんな暗い話は止めてさ、進路の話とかしようよ」
「それも十分暗いけどね。天使ちゃんは、やっぱり理系なの?」
「え、なんで?」
「だって、理系科目も得意でしょう。天使ちゃんならどっちに行っても困らないとは思うけど、選べるんだったら理系なんじゃないの?」
「ははーん、さては悠怜ちゃん、進学とか就職のことまで考えてますな?私ゃあバリバリの文系ですよ。もう困っちまうほどの哲学の徒ですから。正直、今の範囲でも物理とか化学とか、結構頭が痛くなっているんだよ。基礎科目だったらともかく、専門になったらどうなるか分からないもの。そういう悠怜ちゃんは、文系なの?」
「まぁね。でも、天使ちゃんと違って、大学進学は考えてないよ。お金も厳しいし、純粋に今のままだと勉強も難しいから」
「そっか。勉強くらいなら、いくらでも教えるから、任せなさいっ!」
天使は大げさに胸を張って、鼻から息を吐いた。
「もう、天使ちゃんは生徒会も忙しいんだから、あんまり無理しないでね」
悠怜はそう茶化して笑ったが、また少しだけ、天使の背が遠くなったような気がした。
そうして、少し日が経って、教室の机が奇妙な形に整列され、三人が腰掛けている。
「と、愛ヶ崎さんの学業成績はまぁ学年主席と言って差し支えないほどで、我々も舌を巻いているところであります」
天使はこれ以上ないほど褒められているにもかかわらず、ふさぎこんだ様に目線を落とし、机の上に置かれた生徒の評価シートのようなものがまとめられた黒いファイルを見た。不用心なこの担任は、センシティブな内容も多分書かれた紙面を無防備に天に晒している。
「あらあらまあまあ。天使ちゃんったら、そんなこと全然言ってくれないから、感激ねぇ。この前までは、吹田のこともふいたって呼んでたものね」
「やめてよ、昔の話は関係ないでしょ」
担任が豪胆に笑い、場を流そうとする。下卑た視線は母親の顔より少し下に向けられている。
「そんなお茶目なところも、愛ヶ崎さんの良いところですな。クラス内でも、問題のある様子は見られませんし、クラス委員長として、よく生徒を導いていると思います。何か、ご家庭の方でご不安な点や、学校への要望などございましたら、気兼ねなくおっしゃってください」
「そうですねぇ。ご家庭と言っても、私はあまり教育には明るくないもので、天使ちゃんも一人で立派に成長しているみたいですから、安心しています。そうね、進路も好きなところに行くといいと普段から言ってますから、ねぇ?もう進む先は決めているんでしょう」
母親がゆったりとした動作で娘の方をちらりと見ると、少女は小さく頷いた。首にかけられたささやかなパールのネックレスが揺れ、母親は再び担任の方に向き直る。
「それでは、三者面談はこのあたりで。いやあ、愛ヶ崎さんは優等生ですから、すぐに終われていいですなあ」
無遠慮に笑う担任から、母親が愛想笑いしながら視線をそらした。母にも苦手なタイプの人間がいるのかと、少しだけ意外に思った。
教室を後にして、二人で廊下を進む。教室の前には、他のクラスの面談待ちの親子や、すでに解放されたのか手を取り笑い合う体操着の生徒がいた。
「あの、お母さん」
「どうしたの、天使ちゃん」
「……紹介したい人がいるの」
「あら、彼氏でもできたのかしら?お母さん、厳しいわよ」
「友達、だけど、その事情があって――」
下駄箱まで下りると、そこには天使の帰りを待っていた悠怜の姿があった。待ち人の姿を確認すると、太ももの上に広げていた教科書を手早くしまった。
「あらあらまぁまぁ、この子がそのお友達?かわいらしい子ね。お名前はなんていうの?」
「細小路悠怜です。えっと、天使ちゃんのお母さん、ですか?」
「そうよ、悠怜ちゃん。なんだか、娘がいろいろとご迷惑をかけているみたいね」
「迷惑だなんてそんな。むしろ、私がたくさん迷惑をおかけしていて、その、何ていうか、私にとっては救世主みたいな、助けて、もらったんです。だから、お母さんにも、お礼もかねてご挨拶がしたくて」
「お礼なんていいのよ。この子が勝手にやったことなのだから、私はもう見ているだけなの。ふふ、なんだか昔のことを思い出しちゃうわね。学生の内はたくさん悩んで、どうにかこうにか頭をひねって、泥臭くても自分の納得のいく道に進みたいと足掻く方がずっと楽しいわよ。うちの子ったら、悩み事を抱え込んじゃう癖があるから、そのときは悠怜ちゃんの方がずっとそばにいてあげられると思うわ。うちの子のこと、よろしくね」
母親はそれだけ言うと、つかみどころのない様子で帰ってしまった。
「……不思議な人だね」
「そうでしょ?変な人なんだよ」
天使は疎むような顔で、正門を抜けていく母親の姿を見送った。
「——それで、なんでお前がここにいるんだ、愛ヶ崎?」
その数分後、担任は怪訝そうな目で、再び三者面談の席に着いた天使に尋ねた。
「だって、悠怜ちゃんの保護者はボクですよね」
「違うが?」
「ほら、あの実質的にみたいな」
「いや、細小路のご家庭の事情はこちらも理解しているよ。しかしまぁ、それでもやはり三者面談くらいはどうにか来てもらえないかと相談して、大丈夫ですと返答してくれたと思うんだが」
「だからボクが来たんじゃないですか」
「いや、だからな……ああもう、じゃあそれでいいよ。確か、二人は同居しているんだったな。家庭の様子で言ったら愛ヶ崎の方が詳しいかもしれん」
天使は、自分で言いだしたことではあったが、それでよくはないだろと内心思ったが、これ以上話をややこしくしないために黙っておくことにした。
「細小路悠怜。成績は悪くはないな。だが、良いとも言えないくらいだ。二学期からは課題も忘れずにこなしているみたいだし、俺の授業の時も積極的に頑張っているように見えるから、先生方も褒めていらしたぞ。とはいえ、一学期の登校状況を思うと、これからに不安がないとも言えない。お前自身はどう思っている?」
「私は、もう大丈夫です。天使ちゃんや、クラスの皆、色んな人に支えられてもう進んでいけるようになりましたから。どの程度先生がご存じかは分かりませんが、お母さんや――あの人のことはもう終わったことです。今はとても学校が楽しくて、みんなと一緒にいたいと思うんです」
担任は分かったような分かっていないような顔で腕を組み、しきりに頷いた。訂正、多分何も分かっていない。
「そうかそうか、それは良かった。まぁとにかく不登校の心配はないということだな。進路についてはどうだ。まだ早いかもしれんが、何か考えていることがあれば言ってみるといい」
「……今は、卒業したら就職を考えています。二年になったら、支援室とか商業科の人に聞いて、視野を広げてみたいと思っていて、それも厳しかったら――」
「——大丈夫だよ」
悠怜が知らず俯いていた視線を上げると、隣に座っていた天使が優しく手を包んでいた。不安や曇りなど一つもない確かな笑顔で、そう笑いかける。
「悠怜ちゃんは、きっと大丈夫。何てったって、ボクが付いているんだからね」
そんな何の根拠もないような言葉に、けれど少しだけ不安を忘れてしまう。担任はわざとらしく大きく頷くと、面倒くさくなったのかファイルをペラペラとめくり始めた。
「まぁ、今の段階でそう焦って悩む必要はない。頼もしい友人もいるみたいだし、ゆっくりと考えなさい。今日はそんなところだな」
担任が追い出すように二人を教室の外へ向かわせる。
「何か不安なことや、困ったことがあれば先生にいつでも相談しなさい」
そう言って、頼りがいのある風に胸を張った。
「「はい!」」
絶対に相談しないだろうという確信をもって、元気に返答して颯爽と二人は階下へと消えた。
それから、二人は気の向くままに料理を作ったり、テレビを見たり、馬鹿なことで笑い合ったり、そうして夜を明かした。なんだかそんな平和で何も考えずにいられる時間は、ひどく久しぶりな気がした。
次の日、二人はそろって寝坊して、いつもより一時間近く遅く起きたが、早起きの習慣のおかげで、幸いにも遅刻することは無かった。
きっと、少しくらいの困難ならば大丈夫だ。寝ぼけ眼で歯を洗う天使を見て、悠怜はそう思った。