表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
誰も救えない天使の話  作者: 錆井鈴江
台典商高編  一年生
23/81

挿話 なんてことない平凡な打ち上げ

・主な登場人物

亜熊遥斗あぐま はると:台典商高三年の生徒会長。通称、『悪魔』の生徒会長。感情が希薄だが、善い人であろうとする男子生徒。父親は公務員、母親は歴史小説の作家である。クラスチャットはミュートにするタイプ。


神城怜子かみじょう れいこ:台典商高三年の生徒会副会長。自称『神以上』の神城。よく腕を胸の前で組んでいる女子生徒。母親はパートタイムを掛け持ちしている。外国語系学部志望だが、塾に通うお金も時間も無いため、基本的に独学。


 ガチャリと鍵を閉める音が静かに廊下に消えていく。外はすでに薄暗くなり、体育祭で元気に活動していた生徒たちも、もう校舎には残っていないだろう。


 中身のあまり入っていない通学かばんを肩にかけ、生徒会室の鍵と室内の雑多な鍵がまとめられた鍵束を連ねたリングを小指に通して、疲れたように廊下の窓に背を預けた同級生の元へと歩き出す。


「待たせた」


「ん。行きましょうか」


 同級生であり、同じ生徒会執行部の仲間でもある少女——神城玲子(かみじょう れいこ)はそっけなく言った。廊下を並んで歩くと、彼女の方がやや背が高く、目を向けると少しだけ見上げる形になる。実数値で言えば五センチは違うだろう。昨年、彼女に生徒会への参加を打診されたときは、先輩だと勘違いしてしまっていたものだ。それほどに、二年生のころから大人びた顔立ちであり、いつでも凛とした佇まいで思わずこちらも背筋を正す。想像でしかないが、大学で起こりうるような浪人や留年で発生する年の違う同級生の友人は、こんな感覚なのだろうか、などと言うと、彼女に怒られてしまうだろう。


 失礼な考えを頭から追いやり、小指に通された鍵束を軽く回すと、カチャカチャと金属音が鳴った。


「別に、待たずに先に帰っていて良かったんだぞ。三峰と丸背は打ち上げをすると言っていたようだし、合流しても良かったんじゃないか?」


 軽く彼女の顔を見上げたが、神城はこちらを向かないままつぶやく。


「どうせ職員室は通り道なんだから、変わらないわよ。それに、打ち上げに行くのならあなたも連れていかないとでしょうに」


 妙な言い草に違和感を覚えながら、ひとまず職員室に鍵を返しに行く。この時間になると、形式ばった挨拶も必要なく、見知った教師に軽く会釈をして鍵を返した。


 職員室を出ると、律儀に神城は、廊下の壁に体を預けて待っていた。かばんを体の前で垂らして、退屈そうにその振り子運動を眺めている。


 特に声をかけることもなく、俺が昇降口へと向かう階段の方へ向かおうとすると、それに合わせて彼女も歩き出した。


 お互いに言葉もなく、静かな校舎の階段を降りる。昇降口まで来て、クラスの違う俺たちは分かれて違う下駄箱の列へと進む。誰もいない空間に、お互いが下駄箱を閉じる音がやけに大きく、うるさく響く。ジャージ姿のままだったので、こうして運動靴を履き直すと、また体育祭が始まったような気持ちになる。通学かばんの軽さは、特別な学校行事がある日の証のようなもので、単純なことにそれだけのことで気分は少しだけ上を向く。


 俺のクラスの下駄箱は、比較的出入り口に近い。先に校舎から出ようとすると、後ろから駆け足で神城が追い付いて来た。特に息を切らす様子もなく、隣に並ぶと歩調を合わせてきた。


 普段から、三年生が担当する業務や三峰の家庭の事情などで、最後に彼女と二人で生徒会室の施錠をして帰ることは多い。鍵の返却はその場でじゃんけんによって決めて、大抵はばらけて帰る。たまに担当教師が預かってくれる時などは一緒になることもあるが、自分の家が学校に近い団地であるのに対して、彼女は――どこだったかは正確には思い出せないが――数駅先に実家があるため、高校前の階段を降りたところで別れるのが常であった。



「ねえ、遥斗(はると)



 不意に階段の途中で足を止め、神城はそう俺を呼んだ。振り向いて、少し上の段で立ち止まったままの彼女を見上げる。



()()()()、しましょうよ」



 いつになく自信気な、そして有無を言わせないような表情で彼女はそうはっきりと告げる。思い返せば初めて出会った時からそうだ。彼女はいつも、俺にとって予想外で、めんどうで、押し付けがましい最善の提案をしてくる。


「三峰たちと合流するということか?」


 彼女の含意には気が付かないふりをして、一度しらを切る。大して気にしていない様子で彼女は隣まで階段を下りてきた。合わせて俺も階段を降り始める。


「それは断られたからだめよ。新しい世代は新しい世代で。老獪は老獪でね?」


 それほど年上のつもりも、ずるがしこいつもりもないが、悪魔だなんてあだ名をつけられている以上、否定することもできない。とはいえ、彼女の提案を飲むにはまだ、それなりの足踏みする気持ちがあった。


「神城は……ほら、母親が心配したりするんじゃないか。もうかなり夜も更けているし、早く帰った方がいいだろう」


 階段を降り、行く手を塞ぐように目の前で立ち止まった神城にそう提案してみる。


「たまにはね、家にいない方が親孝行になる時もあるのよ。それと、終電が過ぎたらオールコースでよろしく」


 さしもの天使でもここまでの横暴な提案はしないだろう。神城の肯定を待つような目に頭を抱える。両手を腰に当て、威張るようにしながら俺の決断を待つ彼女の後ろを、行き交う車のライトが残光を引く。


「それとも、会長にとって、これは()()()()()()()()()()のかしら?」


 ただ粛々と、行うべきことを行なう。生徒会選挙で俺はそう演説した。それは紛れもない本心で、俺にできるのは手の届く範囲のことを解決していくくらいのことだと、そう思っていた。その手の届く範囲なんてたかが知れていて、目指す理想にも、誰かに憧れる指導者やカリスマなんてものとも程遠いと思っていた。


 だから、自分が生徒会長に選ばれたときには、何か不正でもあったのかと疑ったほどだ。とはいえ、この高校の生徒会執行部は、役職によってそれほど仕事が大きく変わるわけではない。もとより自分にできることがあれば何でもしようと思っていたし、反対に、できないことは誰かに変わってもらおうと思っていたから、役職は自分にとって重要ではなかった。神城も、そのことを理解したうえで自分を誘ってくれていると思っていたし、彼女自身「あなたが会長でも、私が会長でも、きっと変わらず良い学校になるわよ」と豪語していたから、冗談半分で煽るような軽口を言ってみたところ、それはどうやら、彼女にとってかなり屈辱的な発言として心に刺さってしまったらしい。今でもよく蒸し返されていじけられてしまう。


「ああ、そうだな。体育祭の打ち上げなんて、俺にとって()()()()()()()()()()よ」


 一年、二年と、大きな学校行事が終わるたびに、クラスでは打ち上げが行われていた。クラス内での交友関係は悪いものではなかったし、だからこそ生徒会長という役職に就くことになったのだが、打ち上げに参加したことは一度も無い。


 初めは純粋に、面倒だという気持ちだった。クラスの生徒たちが打ち上げをしようと言い始めて参加者を募り始めたのは、すでに自分が家に着いて夕食を終えた後だったから、文化祭とはいえ、改めて盛り上がったり感傷に浸たったりする気持ちになれず、行かないことにした。


 一年の体育祭の時は確か、親の誕生日か何かの記念日だったから、早く帰るように言われて、閉会式の後教室にも戻らず、親と共に帰ったのだ。その頃はまだ、両親ともに仕事が忙しくなく、行事にも顔を出して、あれやこれやとうるさく撮影したり、口を出して来たりしていたものだ。もっとも今は、父は来賓として、日程の同じ他校の行事に招かれたり、母は母で、ふらりとどこかに旅に行ったかと思うと、家に缶詰めになって何かの作業をしていたりと、あまりこちらに干渉してくる様子はない。自分としても、それはありがたいことで、生徒会として活動していると余計に、誰かに拘束されない自分の時間があることの貴重さを感じるのだった。


 二年になってからは、生徒会を理由にすることが多かった。幸いなことに、去年も今年も、執行部のメンバーはそれぞれの家庭の事情もあり、四人での打ち上げを提案するような人がいなかったから、生徒会での打ち上げは理由を付けて断る必要もなく、開催されることすらなかった。仲が悪いというわけではなく、本当の意味で、生徒会執行部は目的集団だったのだと思う。行うべきこと――学校の問題を解決し、円滑に行事を進め、生徒たちを正しく導く――を行うための集団。そんな生徒会は、どこかクラスという空間に閉塞感と疎外感、ともすれば冷笑的な気持ちを感じていた自分にとって、とても居心地がよく、安心できる場所だった。執行部の生徒は、先輩も後輩も誰かに選ばれた生徒というだけあってか、仕事をするうえでなにか気遣いや心配をする必要がなかった。


 彼ら彼女らを好きだったかと聞かれると、それとはまた違う感情だと俺は答えるだろう。自分でも傲慢な言い方だとは思うが、生徒会の仲間は、俺にとっては当たり前を共有できる存在だったのだ。生徒たちから、教師たちから称賛される執行部の活動を、面倒だが簡単なことだと肩をすくめて笑い合える、数少ない人たちだった。


 だからこそ、そんな仲間の一人である彼女が、打ち上げを提案してくることは、俺にとって全くの予想外で、当惑するべき事象なのだ。


「そう。じゃあ、今日の会場は亜熊(あぐま)家で決まりってことで良いかしら」


「……勘弁してくれ」


 通学路と住宅街への道が分岐する、校門前の道で立ち止まったまま交渉を続ける。俺の家を神城が知っているわけはないが、このまま帰路に着けば、ヘンゼルとグレーテルでも簡単に分かってしまうことだろう。


「私、一度くらい打ち上げっていうものをやってみたかったの。何か大きなイベントを越えて、気の合う仲間と語らい夜を明かす、みたいなこと。いつの間にか、高校で最後の大きな行事でしょう?もう機会もないから、やってみたくなったのよね」


「打ち上げで夜を明かすのは、馬鹿な大学生くらいだろうに。高校生の打ち上げは健全な時間で解散するよ」


「あら、参加したこともないくせにずいぶんな強弁ね。それに、大学ではそんな時間ないわ。今よりもっと勉強しないといけないものね」


 聞いた話によると、神城の家は母子家庭で、生活にもある程度難儀しているらしい。高校での活動をもとに推薦入学を考えているらしく、奨学金制度のことも考えるとかなり候補は絞られてしまう。神城が学校での勉強や大学入試の勉強の他に、様々な国の言語を学び習得していることは、特に本人から愚痴られていた。本当ならば留学にも行きたいのだが、母親のことや費用のことを考えると、非現実的なのだそうだ。自分には、そこまで向上心を高めていけるモチベーションも、家族に対する忠心も理解できるとは言い難いが、その努力やひたむきさは手放しで称賛できるものだと思っていた。


 だから、彼女が不意に見せた、先のことを憂うるような、そんな寂しそうな表情にこれ以上の反論の言葉を失ってしまう。彼女を悲しませることは、きっと、()()()()()()()()()()のだから。


「分かったよ。打ち上げ、すればいいんだろう」


「よしっ、ついに折れたわね。これで選挙での負け分もチャラだわ。面目躍如とはこのことね」


「違うと思うが。とにかく、少しだけ待っていてくれ。連絡しないといけない人がいるから」


 珍しく満面を破顔させた神城は、いくらでも待つわよと言って、誰にとは聞かずにこちらに背を向けた。そんなに気を使われても困るが、一応は声が届かないように少し離れながら、登録してある電話番号を呼び出す。しばらく呼び出し音が鳴り、いよいよ切れるかというところでようやくつながった。


「——もしもし、遥斗です」


「ああ、仕事は終わったの?晩御飯なら、一応冷蔵庫に置いてあるから、帰って来てから食べなさいね」


 電話の相手、母親は電話をかけたこと自体には触れずに、淡々と連絡を済ませる。大方、仕事の途中で、俺がスーパーかどこかで必要なものがないか聞くために電話してきたとでも思っているのだろう。いつも通りの淡白な受け答えにも、早く電話を切って仕事に戻りたいという気持ちが見えている。


「そのことなんだけど、生徒会の――()()と打ち上げに行くことになったから、帰りは遅くなるかもしれない。もしかしたら、明日になるかも」


「……そう。なら、帰って来てから、朝ごはんにでもしたらいいわ。別に、昼に食べても腐るわけじゃあるまいし。要件はそれだけ?」


 咄嗟に口からこぼれた、うん、という相槌が電波に乗って流れていくと、それじゃあね、とだけ声を残して電話は切れた。ツーツーという電子音が耳元から消えるまで、しばらく携帯電話を耳に当てたままでいた。


「大丈夫そう?」


「ああ、問題ないよ」


 少しだけ心配するように聞いて来た神城に、いつも通りそう返した。生徒会の活動の中で、幾度となく聞かれ、幾度となくそう返したように、いつも通り。





 多くの生徒たちが通学に使用している道を、神城と二人で下っていく。彼女にとっては慣れた道だろうが、自分にとってはまるで通らない道なので、かなり新鮮な風景だ。夜のとばりが降りた穏やかな暗さが、一層異界感を覚えさせる。


「どこか、店のあてでもあるのか?」


 打ち上げをすると決めてから、迷いなく通学路の方へと歩いて行った神城にそう尋ねる。このまま進めば駅周りの通りに突き当たる。確か周辺の商店街は、生徒たちも放課後に買い食いや暇つぶしに利用していると耳にしたことがあるから、概ねその辺りだろう。とはいえ、商店街の店が夜通し営業している印象もなく、あるとすれば居酒屋だが、高校生二人で行くような場所ではない。


「どこって言われても、駅周りならどこかしらあるでしょう。それか、いっそ市外に出てみましょうか」


「無計画か」


「そうよ、悪い?」


 台典市は住むには困らない町だ。ドラッグストアやコンビニエンスストア、病院に銀行、カラオケやゲームセンター、少し手を伸ばせば必要なものにアクセスできる。とはいえ、それぞれの連関性は悪く、基本的には徒歩での移動を考えられていない。どこへ行くにもそれなりに狭いはずの市内を車か、用事によっては自転車で移動するのが当たり前だ。商業施設は特に廃業となったところも多く、学生が時間を潰すには、電車に乗ってより大きな都市に移動した方が、利便性が良い。


「ジャージで電車に乗りたくはないな」


「馬鹿にしているの?」


 本心を漏らすと、神城がやれやれと肩をすくめる。そういえば彼女や、電車通学の生徒はジャージ姿で登校してきたことになるのか。配慮に欠けた発言だったことに気が付き、軽く謝罪した。


「それなら、とりあえず県道沿いに抜けたところのファミレスにしましょうよ。あそこなら夜も空いてるし、ウチの生徒たちが打ち上げできるほど広くはないと思うの」


 神城の提案に、ひとまず賛成し、通学路を途中で外れて目的地へと進路を取る。


 こうして歩いていると忘れてしまいそうになるが、一応のところ俺と彼女は、台典商高生徒会のツートップなのだ。彼女が結局のところ、どんな意図で打ち上げを提案してきたのかは分からないが、向かった先で台典商高の生徒がいたならば、少なからず衝撃を与えることになるだろうし、平穏な打ち上げとは行かないことだろう。あるいは、もっと安直に、ふしだらな噂を流されてしまうかもしれない。住宅街を悠々と進む彼女の背を見て、それだけは避けたいと後ろ暗い気持ちを抱える。


「見えたわ、あれね」


 住宅街を抜け、長い直線道路に突き当たると、途端に視界が開け、道路の両側に並ぶ種々の専門店や施設が目に入る。目的のファミリーレストランは、薄暗い道路を煌々と派手な電飾の光で照らしていた。


 迷いなくドアを押して入った神城に続いて中に入る。店員の案内で、店の中央当たりの四人掛けシートに案内された。ソファタイプだからもしかすると六人席かもしれない。店内を見渡すと、ピークを過ぎたのかまばらな埋まり具合だ。奥の座席で、自分たちと同じようにジャージ姿の学生が座っているのが見えた。ジャージのデザインを見るに、近くの別の高校の生徒だろう。


 座席の奥に荷物を押しやり、席に着く。対面に座った神城の顔を見ると、不意に、ずっと昔、母と来たことを思い出した。


 いったい何年前の記憶になるのだろうか。小学校かその辺りの時だろう。どこかに出かけた帰りに、珍しく母が外食をしようと言ってこの店に連れて来てくれた。その時の俺にとって、外食は洋食でも和食でも、それがチェーン店だとしても、高級なものとして映っていた。だから、鮮やかな文字で、一度では食べきれないほどの料理が所狭しと並べられたメニュー表を見て、目を輝かせたものだ。


「本当にここで良かったかしら」


「変な店の方が困るよ。それとも、何か嫌いなものでもあったのか?」


 無い、と思うけど……と言いながら、メニュー表を裏返して忙しなく確認する神城に、どこかほっこりとして、頬が緩む。


「何笑ってるの?」


「いや、何でもない」


 しばらく、唸り声をあげてメニューとにらめっこしていた神城が顔を上げたので、呼び出しのボタンを押して注文をする。


「この三色オムライスと、大盛フライドポテトを一つで」


「あ、私は、このトリプルハンバーググリルセット、ご飯で、ソースはデミグラスでお願いします」


「ドリンクバーはどうされますか?」


「あ、ええっと、どうしようかしら……」


「二つお願いします」


 かしこまりました、と店員が注文を繰り返し、厨房の方へと戻っていった。そそくさとメニューを机の端に直す神城を眺めていると、むっとした表情でにらまれる。


「なによ。今日は太鼓叩いてお腹空いたの、悪い?」


「いや、別に注文のことは何も思っていないが……あまり、ファミレスとかは行かないのか?」


 意外、というほどでもないが、こういう注文はテキパキ行う方だと思っていたので、少しだけじれったくなった。彼女は俺とは違って、クラスメイトとどこかに遊びに行ったり、こうしたファミレスで談笑して時間を潰したりと言ったこともしているのかと思っていたが、落ち着いて思い返してみれば、大抵の放課後は生徒会室にいたような気がしてくる。


「まぁ、そうね。行かないわよ。行く必要がないもの。そういうあなたは、よく来るの?なんだか慣れた様子だったけど」


「いや、随分と久しぶりだよ。料理の値段もかなり高くなったように感じるな」


「ふぅん。あら、この季節のパフェっていうの、おいしそうじゃない?」


「言っておくが、奢りとかはないからな」


「分かっているわよ」


 そんな他愛もない話をしていると、二人の料理が運ばれてくる。気を利かせてか、神城が「お水入れてくるわ」と立ち上がったが、妙に心配になったのでついていくことにした。


「なによ、心配性ね。それなら自分の分は自分で入れなさい」


 手渡されたコップを素直に受け取り、無難に野菜ジュースを入れる。神城はコップに氷を入れた後、悩むようにドリンクバーの後ろで立ち尽くしていた。こんな時の姿勢も、生徒会メンバーの勧誘をしていた時と変わらないのが、彼女の()()()――良いところだろう。


「ねえ、これって二つ以上のドリンクを同時に選択しても大丈夫なのかしら」


 唐突に、初めてファミレスに来た小学生と同じ考えを大真面目に聞かれたので、つい鼻で笑ってしまう。右手に持ったコップの水面が大きく揺れる。


「なに笑っているの?とりあえず、ジンジャーエールで良いかしら」


 幸いにも、全てのドリンクを混ぜる蛮勇には挑まなかったようだ。安心して席に戻った。





「そういえば、神城はアルバイトとかしているのか?」


 ふと店内を甲斐甲斐しく歩き回る店員を見て、そんなことを聞いてみる。


「あれ、言ってなかったかしら。ほら、あの駅前のところの飲み屋街の辺りに旅館があるでしょう。あそこで働いているのよ。それほど多くは入れないのだけどね」


 飲み屋街の辺りと言われても、あまり駅前に行かないのでピンと来なかったが、あそこかと頷いてみる。二人とも料理を食べ終えてしまって、今は死神の蝋燭が消えるのを名残惜しむように、ちびちびと細長いフライドポテトを食べている。


「なかなか勉強と両立するのが難しいのよ。仕事、いつも任せてごめんなさいね」


「過ぎたことは気にするな。どうせ、休日を勉強だけでつぶせるほど俺は集中力がないからな。仕事がある方が有意義に過ごせているんだ」


 ドリンクを注ぎ直して、神城が席に戻ってくる。フライドポテトは、もう底が見えるほど減っており、付け合わせのケチャップの方が多く見えた。


「流石、生徒会長様は言うことが違うわね」


 生徒会室で話すのとはまた違う、どこか砕けた調子に神城の新しい一面を見つける。猫背になって、芋より油の方が比率の高そうな破片で、ケチャップを掬い取った。彼女も人間だ。そういう気分の時もあるのだろう。


「バイトと言えば、天使ちゃんがバイトしている学童が、ワンコの弟がいるところとたまたま一緒だったらしいわね」


「そうらしいな。家族ぐるみで仲がいいと聞いていたが、そういう事情だったとは」


 びっくりよね、と二人で静かに笑い合う。アルバイトの校則も、自分たちの代でかなり条件が緩和された。一人暮らしや、家庭に事情のある生徒が主な対象だが、多くの生徒が緩和をきっかけにアルバイトを始めたと聞いていた。


「遥斗は、そういう友達とかいないの?」

 突然予備動作も無しにそんな質問をしてくる彼女の顔に、いつかの母親の冷たい表情が重なる。


「……いないな。そういう神城はどうなんだ?」


 とはいえ、もう慣れたことだ。一々顔色を変えるような質問ではなかった。深い友人関係など、作る必要はない。俺が生徒会執行部に立候補した動機には、少なからずそんな思いが混ざっている。


「いるわけないでしょう。いたら、あなたとこんなところで打ち上げしていないわよ」


 そういえば、体育祭の打ち上げなのだったと思い出す。


 生徒会執行部のメンバーは、学校中で顔が知れ渡っている。その一方で、俺や神城は必要以上に神格化され、生徒会に入ってからは特に、対等な友人関係を結ぶことが困難になっていた。学校のどこでも気を抜くことはできない。悪魔の会長と、神以上の副会長。そんな尊名を降ろせないまま、この一年ひたすらに学校の顔として過ごし続けてきた。とはいえ、なんか特別なことをする必要があったわけではなく、結局のところは、行うべきことを行なっただけ、なのだが。


「それもそうか」


 だからこそ、こうしていつもより気の抜けた会話をして、生産性など考えない話をしている時間が、妙にこそばゆく、けれど心地よく感じられた。


「天使ちゃん……ね」

 神城が頬杖を突いて、悩まし気にため息をつく。手のかかる子供の将来を案じるような、愁いを帯びた瞳を静かに瞼が覆う。


「ねぇ、あなたはどう思う?天使ちゃんのこと」


「どう思う、と言われてもな」


「これから、あの子はどうなっていくと思う、って話よ。会長直々の引き抜きでしょう?何か期待するところがあったから勧誘したのではなくて?」


「彼女は、そうだな……支えなければならない存在だと思ったんだ。だから生徒会執行部に入れるべきだと思った」


 文化祭の予行演習の時に、彼女の姿を見たときに感じたことを思い出す。豪胆で奔放で、それでいて繊細で調和的な少女だった。


「彼女はエネルギッシュで、人を巻き込む力に長けている。俺よりも、三峰に似たタイプだ。だが、三峰とは違い、愛ヶ崎は自他意識の境界があいまいに見える。彼女は大勢を導き成長していけるが、その実、彼女の進む先を決めているのは導かれている人々の方だ。彼女は求められたように生きている。それで崩壊しないだけの強い自己と能力を持っているが、悪意に簡単に騙されてしまう」


「それで、そんな子のためにあなたの行うべきことが、生徒会への勧誘だったってわけね」


 大事なところを先に言われてしまい、肩をすくめてドリンクで口を潤した。


「自他意識ね。あなたほどそれに固執している人もいないだろうし、その考えも頷けるけれど、そういうあなたは、もっと他人の区別をつけた方がいいと思うのだけどね」


 意外な指摘に、どういう意味だ?と聞き返したくなる。


「少なくとも、生徒の顔と名前の見分けはつけられると思うが」


「そう言うことじゃなくて。結局それだけ分析しておいて、あなたの中では、天使ちゃんだって、()()()()()()()でしかないのでしょう?」


 何気ないことのように言われたその言葉が、楔のように前に進んでいこうとしているはずの足を引き留める。途端に進む先も暗く闇のように見えなくなり、来た道を振り返らざるを得なくなる。これまでの人生、人間関係、これからの生き方。すべてを見直すことを余儀なくされるような、価値観を切り裂かれた感覚。


 彼女に打ち上げに誘われて、この店にやって来た。その数時間の間だけで、俺は神城玲子という人間の新しい側面を多く見たように感じた。きっとそれは、『友人』としての神城玲子なのだろう。そして、それは今になって唐突に目の前に立ち現れたものではなく、手を伸ばせばすぐに、判然と開示されたことだろう。これまでそうならなかったのは、俺がそれを良しとしなかったから、それは()()()()()()()()()()と思っていたから以外に無い。


 今まで、他人と仲良くなるということは、その相手を知り、理解することだと思っていた。言動や行動の癖、思考パターンや忘れがちなこと。その一つ一つを相手個人に当てはめて、その人間を理解する。相手を理解すれば、あらゆる物事は円滑に進み、思い通りに問題は解決できた。細かな配慮や時には大胆な役割分担で、適切な活躍の場を与える。そうした助け合いを通じて感謝され、尊敬され、信頼されることが、仲良くなるということだと思っていた。


 だが、社会において、というよりも、高校というコミュニティにおいて、それは仲が良いとは言わないようだった。堅固にソーシャルな関係を気づいたところで、それを友情だと考える人はいない。むしろ、日常では敬遠されるようになった。必然、クラスでも一人の時間の方が多く、家に帰っても連絡を取り合うような相手もいない。生徒会の活動を除けば、誰かと話す機会もなかった。それはむしろ、自分にとっては好都合なことで、孤独や孤立感に苛まれたり、友人関係を切望したりするようなことも無かった。

 神城の言葉で、自分の心の欠けた部分に冷たい風が吹き、空洞がひどく痛んだ。


 俺が今まで結んできた関係は、一方的なものでしかなかったと気づかされる。行うべきことを行なうための道具としての、支配的な関係。差し伸べられた手をじっと観察し、『生徒会長』の幻影でつないだように見せかける。


 相手との交流の中で、俺自身は一度として、心を開くことはなかった。誰かに、()()()()という存在を開示することはなかった。


()()()()()、彼女を推薦したくなったというのは、矛盾しているか?」


 愛ヶ崎天使という少女は、まさに幻影であると言って良い。とても不安定なバランスで成り立っている。いつ壊れてもおかしくないような奇妙な人間性を、彼女自身の魅力と天性の直感力で完璧に支えている。けれど、彼女の奔放で自由な振る舞いは、きっと本来的な彼女の性質ではない。同じように生徒会長として振舞ってきた者としての勘でしかないが、彼女ほど知恵があり感性の磨かれた人間が、他人の心という複雑怪奇な事象に対して物怖じしないはずがない。あるいは、そんな未知すらも超克させてしまうほどの理想が、彼女の中にはあるのかもしれない。ともすればそれが、誰もが噂するところの『天使』というナニカなのだろうか。


「彼女は面白いよ。面白いと、そう思えたこと。それ以上に彼女に惹かれた理由はない。それに、俺は彼女を()()()()()()()だと考えるほど、素晴らしい人間ではないさ」


 神城は、面白くなさそうな顔でじっとこちらを凝視していたが、おもむろに呼び出しのボタンを押した。呼び出しの軽快な音楽が途切れ、奇妙な静寂をごまかすように彼女はジンジャーエールを呷る。


「お待たせいたしました」


「えっと、この季節のミニパフェってやつ、二つ追加で」


「おい」


「いいでしょ、ポテトの分よ。奢らないつもりならおとなしく奢られなさい」


 注文を繰り返すと、伝票を取って店員は厨房へ戻っていった。



「あなたのそういうつまらないところ、別に嫌いじゃないのよ」


 空になったコップに、なみなみジンジャーエールを注いで神城は席に着いた。俺のコップのジュースは、まだ半分も減っていなかった。


「ビジネスパーソンとしては、その方が信頼できるし、とってもやりやすい。実際、生徒会の上司なわけだけど、安心して活動できていたもの。でも、一人の人間として見れば、それは大きな欠陥になる。あなたは自分の痛みに鈍感すぎるわ。心を偽って、仕事を押し付けられて、誰にも見向きもされないで、あなたがそれを認めてしまったら、だれもあなたを助けられなくなる。あなたが誰もを救っても、あなたを救える人はどこにもいなくなるわ」


「ヒーローを救うのは誰か、という話か?生憎と、俺はそんな大層な人間じゃないし、俺を救ってくれる()()はたくさんあるよ。そのことを誰かに幸せじゃないと糾弾されるくらいなら、最初から誰も救わない方が、俺は良かったと思う」



 夜も更け、静かに届けられた小さなパフェに、そっとスプーンを通す。器に盛られたバニラアイスの下には、半透明のブドウゼリーが埋もれていた。


「そう言って、また当たり前のように手を差し伸べるのでしょう?あなたの善意が、それを行うべきだと思う限り、あなたは誰も救わないなんてことはしないわ」


「それは、ずいぶんと信頼されたものだな」


 神城は、スプーンでバニラアイスを抉ろうと奮闘していたが、あまりの硬さに諦め、表面を薄くすくい取って食べ始めた。眠気もあってか、お行儀悪く片肘をついてこちらに目線を向ける。


「そう。私、結構信頼しているのよ、あなたのこと」


「俺も、神城のことは信頼しているつもりだ」


「あらそう?嬉しいわ」


 しばらく、お互いに無言でパフェを食べ進める。ブドウゼリーのほのかな甘みと柔らかな感触は、バニラアイスとはそれほど親和性がなかった。それでも少しだけ脂っぽくなっていた口の中がさっぱりとする。今度は甘ったるくなってしまった口を、野菜ジュースで直した。


「——カラオケでも行くか」


 何の気なしにそう呟いた。この店自体はまだしばらく営業しているはずだったが、あまり長居する気分ではなかった。


 いまだにバニラアイスと格闘していた神城が、驚いたように視線を上げる。


「なんだ、気持ちの悪い」


 物珍しそうな目でこちらを、にやにやと眺める神城に、思わず悪態をつく。


「いやあね、まさかあの()()()()()()()がそんなことを言ってくるだなんて思ってなかったものだから」


 神城はおかしそうにバニラアイスをつつく。そうして笑っている姿を見ると、彼女もあの生徒たちと同じ、ただの高校三年生なのだということを実感させられた。

 自分も、誰かにそう思われたいと、少しだけ考えてしまう。けれど、それは厚く着飾られた生徒会長という外皮に覆われた自分自身をさらけ出すということであり、ささやかな期待と共に心の隅にしまっておくべき欲望だ。


 店内から見える景色はもうすっかりと暗く、星空のきれいな台典市では、それでもまだ人の息遣いをわずかに感じられた。






 それから、少しだけ歩いて近くのカラオケ店に向かった。そもそも高校指定のジャージを着て、深夜にカラオケに入店できるのかと疑問に思ったが、特に止められることもなかった。


「せっかくだし、会員証作っておきましょうよ」


「いや、いいだろ。どうせしばらく来ないだろうし」


「いいじゃない。今日のお土産ってことで」


 強引に俺の分の会員証も作らされ、少し待った後に薄っぺらいカードを一枚渡された。こんなものが今日のお土産かと少し落胆しつつ、財布にしまう。深夜だというのに、それなりに部屋は埋まっており、あちこちから元気な声が漏れ聞こえていた。ここは台典商高ともそれなりに近い場所だ。今日のところは利用させてもらうにしても、生徒たちの深夜のたまり場になっていないかと警戒を強めてもらう必要があるかもしれない、と生徒会長のようなことを考える。


 ドリンクを入れてくるという神城を置いて先に部屋に入り、電気とテレビの電源を付ける。彼女はカラオケの採点を入れるタイプだろうかと少しだけ思案して、とりあえず入れておく。


 しばらく待って、両手にコップを持った神城が、足で扉を開けて入ってくる。神城と入れ替わりでドリンクを取ってこようと考えていたので、申し訳ない気持ちになりつつ、どちらが自分の分かと目を凝らす。片方は、コーラだろうか黒い液体だが、少し濁っている印象だ。もう片方は、ジンジャーエールか白ブドウのドリンクだろう。彼女の好みを考えて、前者が俺の方と考えてよさそうだ。


「これ、遥斗の分ね」


 予想通り、黒い液体の入ったコップが目の前に置かれる。ありがとうと軽い礼を言って、コップを引き寄せた。神城はその様子を黙って見つめたまま動かない。


「どうした。カラオケも初めてか?」


 そう聞いてみても、俺の方のコップを見つめたまま微動だにしない。


「それはそうだけど、()()()()()?」


「いや、まぁ、そのうちな」


「飲みなさいよ、ほら」


 妙に性急に催促してくる神城に不信感を抱きつつ、コップを静かに口に近づける。

 ドリンクの表面で炭酸が弾け、小さな泡が鼻の頭を湿らせた。やっぱりコーラかと口を付けたとたんに、その異様な味が口の中に、そして鼻の奥に広がっていく。お茶か青汁のような臭みが体の気体を押しのけて広がっていき、コーラと乳酸菌飲料の混じった微妙な甘さが気持ち悪く舌を包む。最後にオレンジのような酸味が口に残り、不調和な轍を残して胃の中に落ちる。


「何を混ぜた?」


 少し顔をしかめて神城に聞くと、()()だけど?と危惧していた答えを出される。お前も飲んでみろよ、と不快感から少し乱暴な口調でコップを差し出すと、恐る恐ると言った様子で口を付ける。


「うげぇ、まっずいわね。よくそんな飄々とした顔で飲めるわ」


「まだこんなにあるんだからな」


 神城から返されたコップをテーブルの上に戻し、代わりに電子目次本を充電器から外した。さっきは神城に煽るように聞いたが、自分もカラオケに来るのは久しぶりだ。家では作業やゲームの合間に好きな曲を聴くものの、その曲を今入れるわけにもいかなかった。


「へぇ、なんだかハイテクね」


 曲を決めあぐねていると、肩越しにひょっこりと神城が顔を出す。忘れていた疲労が戻ってきたのか、俺の方に両手を重ねてその上で顔を休めている。


「あ、この曲なら歌えるかも」


 神城が指さした曲をとりあえずは入れてみる。マイクを一本抜きとって手渡す。


「始まったわね。あのバーに合わせて歌うのよね。それくらいは知っているわよ」


「そんなに力まなくても、普通に歌えば大体は合うようになっていると思うぞ」


「そうは言われても、なんだかむず痒いじゃない」


 二番の歌詞は分からないわ、という神城の潔い宣言に、演奏中止のボタンを押す。軽快な音楽と共に、スクリーンに点数が表示された。


「あら、採点なんてしてくれるのね。むむむ、本調子じゃないとはいえ、こんな微妙な点数を見せられると黙っていられないわ。私は神以上の神城よ。こんな点数で満足していられないわ」


 ずかずかと俺の方に近寄ってくると、先ほどよりもかなり慣れた動きで曲を探し始める。やはり、予備知識が少ないだけで知ってしまえば順応は早いようだ。


 再び曲が流れだし、神城は体を揺らしながら好調に歌いだす。サビに入って気持ちよさげに目を閉じる彼女の姿を見ていると、執行部のメンバーもこの場にいたらと夢想してしまう。テーブルを挟んだ向かいのシートに、音楽には興味なさげに参考書に目を落とす丸背(書記)の姿と、神城の歌に調子よく合いの手を入れておきながら、点数が出たら「怜子さんはカラオケ下手なんだな」と煽り始める三峰(副会長)の姿が、蜃気楼のように浮かんで消えた。


「ねぇ、遥斗も歌いなさいよ。あなたの歌も聞きたいわ」


 不意にそう急かされ、渋々無難な曲を選択する。少し古い曲だが、今でも好きな人は聞いている程度の知名度だ。世代なら聞いたことはあるだろう。


「へぇ、意外。遥斗って、洋楽とか聞いていそうなイメージだったけど、結構Jポップも聞くのね」


 どんなイメージだと突っ込みたくなるが、あまり掘り下げてもよいことはない。無難な曲を無難な程度に歌い、曲順を回す。


「ねえ、案外カラオケって退屈なのね」


「まぁ、大人数の時はそういう人もいるな」


「じゃあ、一緒に歌える曲にしましょうよ。待つのは退屈だもの」


 生徒会メンバーでカラオケに来る想像をしていたが、この調子では、実現しても神城のカラオケ練習会になりそうだと苦笑いする。


「ほら、この曲とか。一年生の時合唱コンで案に上がってたわよね」


 そういえば、と相槌を打ちながら、一年次に彼女と同じクラスだったかと今更になって思い出す。そういえばそうだった気がする。二年になってからの、副会長としての神城の印象が強かったせいでそんなことは頭から抜け落ちていた。むしろ、彼女がそんなことを覚えている方が特異なのかもしれない。


 しばらく、オペラ調の物や合唱系の物など、二人で歌える曲を選んでいると、神城が音を上げ「交互にしましょう交互に」とソファに倒れこんだ。


 何曲か頭をひねって無難な曲を探していたが、次第にそんな気遣いも馬鹿らしくなり、少しずつマイナーな曲に舵取りしはじめる。俺も俺で疲れが回ってきたとしか言いようがない。数曲歌って、スクリーンにでかでかとアニメ本編の映像が流れ始めたところで、ふと我に返る。いったい俺は何を歌っているんだ。羞恥心から慌てて神城の方を向くと、彼女はぐったりとソファにもたれたまま、一瞬薄目でこちらを見上げた後、静かに目を閉じて寝息を立てた。


 俺もこの曲を歌ったら仮眠をとるか、と思いながら、本編の激闘に思いをはせて歌詞をなぞる。そういえば、最近放送していたアニメの主題歌は、もう歌えるのだろうか。




 そんなこんなで色んな曲を歌い継いでいると、いつの間にか夜が明けていた。起き上がりそうな雰囲気を察知して、曲を入れるのを止める。


「おはよう……」


「ああ、おはよう。どうだ、満足したか?」


 大きなあくびをしながら伸びをする神城にそう尋ねる。


「ええ、とっても。生徒会の思い出の最後のページはこれね」

 神城は両手の親指と人差し指で、長方形の枠を作ると、視界を切り取るように俺の方に向けた。


「最後はちゃんと卒業式の写真にしておいてくれ」


 眠気と疲労の混じった乾いた笑いを交わす。



 会計を済ませて、しばらく駅の方へ歩いてから、深夜のカラオケは高いから二度と行かないと愚痴を言って笑い合った。夜明け泥む町は、いつもよりも空気が澄んでいる気がした。


「ここで大丈夫よ」


 駅の改札口まで送って、簡単な別れの言葉で手を振った。なぜだかぼんやりと、ホームへ降りるエスカレーターへ向かう彼女の姿を見えなくなるまで目で追ってから、それから歩き出した。



 疲労と倦怠感で重い足をなんとか動かして、家に帰ってくる。思い返せば、今日は随分な出費だった気がする。いつもなら敬遠するようなことばかりだったが、不思議と悪い気分ではなかった。


 家の門を開け、小さな庭を横断する煉瓦造りの小道を渡っていると、目の前で玄関の扉が開き、スーツ姿の父が出てきた。今日は土曜日だというのに、こんな時間から出勤だろうか。


「……遥斗。ずいぶんと遅くまで出歩いていたようだな。母さんも心配していたぞ」


「友達と体育祭の打ち上げをしていただけだよ。変な所には行っていない」


「そうか。それならいいが、まぁ、気を付けなさい。体は資本だ。若いうちでも、あまり無理をするものじゃない」


「うん。分かった」


 体を巡る血流が急速に速度を増し、反対に体温がすっと下がっていくのを感じる。


 父親はそれだけ言うと、車に乗り込んでどこかへ出発した。


 悪いタイミングというべきか、良いタイミングというべきか。インターホンを鳴らすことなく開いてくれた玄関から、家に帰りつく。しばらくは母親も家から出ないだろうからと、父親の代わりに鍵を閉めておく。


 靴を脱いでリビングに向かうと、自分の物音で目覚めたというわけではなさそうな、いつも通りのジャージを着た母親が麦茶を飲んでいた。


「あら、遥斗。帰っていたのね。父さんと入れ違いか。とりあえず、シャワーでも浴びたらどう?あんた今日は休みなんだから、好き勝手出来ていいわね」


 大概好き勝手に生きている母は、今日もそうして自室へと戻っていった。


 部屋から着替えを取って来て、ジャージを乱雑に洗濯かごに投げ入れたら、シャワーを浴びる。生温い水が顔を流れていくと、必然今日の、あるいは昨日の記憶も走馬灯のように流れてくる。


 ファミレスで語り合い、カラオケで夜を明かした。要素だけ抜き取れば、なんてことのない時間だった。けれど、明確に心のどこかが昨日までよりも変わっているような気がする。


 こんな時間が、高校生活で最も記憶に残っているなんていえば、大抵の人は一笑に付すだろう。


 けれど今は、ただあの時間が薄れて消えていかなければいいのにと、そう心から願うのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ