第二十一話 体育祭 中編
・主な登場人物
愛ヶ崎天使:この物語の主人公。天使ちゃん。ムード/トラブルメーカーの天才少女。あらゆる分野において平凡ではないが、同時に突出もしていない。自分が人から愛され信頼されることは当然だと思っているため、他人から向けられる特別な信頼や愛情についても無頓着である。また、自分は特別な人間だと思っている反面、自分の才能の特別さには無自覚的である。
細小路悠怜:幽霊ちゃん。様々な騒動の後、天使と同居することになった少女。徐々にまともな主体性を獲得しつつある。同居を明かして以来、さらにクラスメイトとの関係が良好になった。
針瀬福良:一年二組のクラス副委員長。真面目で正義感が強い。
丸背南子:ニャンコ先輩。生徒会二年の書記。猫背で丸眼鏡の落ち着いた少女。誰に対しても敬語で話す。
三峰壱子:ワンコ先輩。生徒会二年の副会長。低い身長と元気で独特な口調が犬っぽい女子生徒。兄弟が多い。
亜熊遥斗:悪魔先輩。三年の生徒会長。冷静で気が利く男子生徒。
神城怜子:生徒会三年の副会長。自称『神以上』の神城。お高くとまっているようで案外庶民派の女子生徒。身長が結構高い。よく腕を胸の前で組んでいる。
藍虎碧:一年四組のクラス委員長。黒髪セミロングの真面目な少女。堅物だと思われやすいが、突飛な行動にも柔軟に調子を合わせてくれる。
瑞本凛:化学研究部の二年生。匂いに関する研究を行っているが、それ以外については無頓着。あだ名は、水素とリンでP.H。
この学校には、天使がいる。もしそんな噂を聞いたなら、あなたならどうするだろうか。
満願成就、無病息災、恋愛祈願。あらゆる望みを引き寄せる台風の目。交われば波乱を巻き起こすこと間違いなし、けれどその先に何をつかみ取るのかは、あなた次第。
大人になれば、そんなバカげたギャンブルのような街談巷説は鼻息一つで吹き飛ばしてしまうかもしれない。あるいは、もっと若ければ、後先も考えずにその甘い迷信を信じて、様々なトラブルと向かい合うことになるかもしれない。
そうした、噂に甘言、上手い話には裏があるなどと言う偏見は、それなりに理由がある。誰か一人だけが得をするような話など存在しないことを人は知り、知ってしまえばどんな簡単な原理にもその裏で手を引く誰かの存在を疑ってしまう。時にそれは、美人局のような意図的に欲を煽る者であったり、あるいは純粋な善意であったりする。人は騙されないために疑心暗鬼になり、純粋な人間の善さというものを全く信用できなくなるのだ。
台典商業高校における天使という存在は、全く無自覚的な嵐であった。当人はただ善く生きようとしているだけであり、結果的に、それを利用したいと願ったものの心が洗われるのだ。そして、その善性が、あらゆる人間を惹きつけ、彼女の少しの努力で理外の結果をもたらすのである。
つまり、この天使の噂には、悪人も黒幕もいるわけではないのだ。
しかし、誰もが生まれながらに悪になるわけではない。そこに利用できるものがあり、利害を操作できるとなれば、誰だって悪人になることができる。それが、利を生むことを学び、実践する教育を受けたものならば、なおのことであった。
天使がいれば、誰かが得をする。ならば、天使がいなければ、誰かが損をする。星を見失った人間は、どこを目指して歩くのか。良く晴れた秋空を覆い隠すような暗雲が、ただ立ち込めていく中で、それでも彼女たちは立ち上がる。
段差を一気に駆け上がって四階へ。踊り場の窓から外を見下ろすと、しなしなと日光を浴びながら体育館の方へ向かう友人の姿が見えた。さっき見た時計では、クラス練習が始まるまで残り五分。目的の場所までは最短でも二分はかかるから、どう考えても遅刻は確定だ。それでも、進むしかない。自分を呼ぶ誰かがいるのならと、少しでも早く足を前に出す。
右手には「たすけて りかしつ」と走り書きされたくしゃくしゃの紙の切れ端が握られている。冗談と笑うべきだろうか、いたずらだと訝しむだろうか。そんな時間があるならば、動いた方がずっと楽で、正しくて、性にあっている。
時々、下駄箱に手紙や今回のような紙切れが入れられていることがある。それが恋文やファンレターの類であれば、持ち帰ってしまって、そこから何か行動を取る必要はなかった。それが相手に対する「ごめんなさい」「ありがとう」の意思表示になるからだ。しかし、相談や頼み事はそうはいかない。他の用事を差し置いても――なるべくは上手く都合して――依頼者の悩みを解決するために尽力する。それが自分の使命であり、性であると思っていた。だから、自分に助けを求めている誰かを見捨てるなんてことはしない。それに、からかいや悪戯であったとしても、そこに誰もいないということは、これまで一度も無かった。もし迷惑ないたずらだったなら、そこで文句でも言ってしまえば良いだろう。
四階まで登って、さらに廊下を奥へと進む。良く晴れた日だから、電気もないのに廊下が明るい。こうして走っていると、なんだか遅刻してしまったみたいだ。まぁ、実際そのようなものか。
四階の端に、件の部屋は存在する。移動教室の度に、誰もが愚痴を垂れる立地だ。天使も健脚ではあれど、一〇分の休み時間に移動しろと言われると、嫌気もこみ上げたりするものだ。とはいえ今は、そんな愚痴を言う前に早く用件を済ませなければならなかった。
かくして、メモに書かれた理科室に辿り着き、その扉と向かい合う。別段変わった様子もない、いつもの教室の扉だ。強いて言えば、特別教室であるところの理科室は、普通教室と比べて少し分厚いような、木の厚みを感じるデザインだ。落ち着く意匠と言いたいところだが、建付けが悪く、開閉に難儀するところが多くの生徒から不評であった。
がらがらと扉を開くと、一人の生徒が正面で背のない椅子に座って、窓の外を眺めている。天使からは青空が見えるばかりだが、その生徒からは、おそらく眼下にグラウンドや校舎に面する道路や通学路方向の市街地が一望できるのだろう。椅子の上で足を組み、けだるげな様子で壁から張り出した大理石の台に身を乗り出している。制服のスカートを見るに、女子生徒のようだ。
「この手紙を書いたのは、キミ?」
扉を開けたまま、用心深く近づく。警戒しながら、敵意が伝わらないように、怖がらせないように尋ねる。
角が丸められた白い机六個分の間隔。ぽとりと蛇口から水滴が垂れた音が聞こえた。
こちらの声が聞こえなかったのか、依然座ったままの生徒との距離が半分まで詰まったとき、不意に後ろでぴしゃりと扉が閉まり、鍵のかかる音がした。
「自動ドアなんだ、と言ったら、どうする?」
とっさに振り向いた顔を戻すと、その生徒、少女は意地の悪い笑みを満面に浮かべて、窓際に頬杖を突いた。
「鍵、内側から開けれると思うけど」
「開けたいならどうぞ?好きにしたらいいさ。そうやって目の前のことを理解もせずに逃げるのが君の趣味だというのならね」
クククと少女は笑うと、組んでいた脚を反対に組み替え、その上に肘をついてこちらを見つめてくる。底知れない気味の悪さだ。何を考えているのかが読み取れないが、おそらくあまり気持ちの良いことではないだろう。
「一年二組の、愛ヶ崎天使くんだね。聞いていた通り、お人好しで、大胆で、後先考えない性格で、慎重で、思慮深い。ククク、面白いね、実に」
「そういうキミは、いったい誰なんだい」
「私かい?私は、二年六組の瑞本凛というんだ。聞いたことはないかな。ほら、この校舎にも、なにか垂れ幕が下げられていると聞いたよ。あんな研究に意味などないがね」
天使は、通学の際に校舎に掲げられた垂れ幕を思い出す。台典商高は、運動部があまり強くない。そのため、県以上の大会やともすれば全国大会にも出場している文化部の栄光を讃える垂れ幕が、隣接した道路に誇示される形で掲揚されているのだ。確かその一つがそうだった、気がしないでもない。——こういった時に自分の記憶力というものがほとほと嫌になる。興味のないものは、とんと覚えられない。とにかくまぁ、理科室でこうして座っているということは、安直に考えて化学系の部活動に参加しているのだろう。
「ふぅん。それで、そんな人がボクに何の用があるっていうの?助けて、なんて大仰じゃないか。何か悩みでもあるのかな」
天使がそう問うと、瑞本はおかしそうに笑った。ひとしきり笑って、それからまだおかしそうに口の端をゆがめて聞き返す。
「助けて?ああ、彼らはそんな言葉で君を呼び出したっていうのかい。まったく、君のお人好しも大概だが、彼らの浅い精神構造にもほとほとため息が出るね」
「何だって?」
要領を得ない返答に、思わず聞き返してしまう。
「まぁ、助けてほしいというのはあながち間違いではない。私は君に会いたかったからね。同時に彼らは君とは会いたくなかった。というよりも、君がいることに不都合があった。ギブアンドテイクという奴さ。つまりは、君がここにいてくれることで、私を含め、誰かしらが助けられたというわけさ」
「そう、それは良かったよ。じゃあ、もう帰っていいかな?」
体育祭の上気した気持ちも混ざり、知らず強い言い方になる。彼女を見る目も、きっと今は笑顔を取り繕うこともできていないだろう。そんな自分の様子を、興味深く瑞本は覗き込む。大きく見開いた眼は、まるで子供のようにきらきらと、あるいは標的を狙う野生動物のように爛々とうごめいている。
「話を聞いていなかったのかい?君にはもう少しだけここにいてもらわないと困るんだ。それに、私の目的も果たせていないのだから、これでは天使も形無しと言ったところだ」
軽薄に煽るような口調でぺらぺらと少女は続ける。
「もっと近くに寄りたまえ。君の匂いが知りたいんだ」
不気味で奇妙な、とはいえ細身の少女なのだから、力比べをすればこちらが有利だろうと心では思っていても、もっと本能的な部分で躊躇してしまう。ゆっくりと、飼いならされた猛獣に近づくような心持ちで踏み出す。目線の奥、遠くの方でアナウンスが流れ始めたのが分かる。昼休憩が終わり、午後の部が始まろうとしているのだ。結局、クラス練習に間に合うことはできなかった。仕方ないなどと言うことはできない、私の判断ミスで、悔いるべきことだった。いっそ彼女の言うとおりにすれば、応援合戦が始まる前までには戻れるかもしれない。そんな希望を持って、さらに一歩踏み出した。
天使が軽く差し出した手を、紳士が淑女をもてなすような仕草で瑞本は手に取った。美術品の精巧さを確かめるように、骨董品の真贋を見極めるように、皮膚を転がる微生物の一つすら逃すまいとするように、肌に触れ、顔を近づけ胸をいっぱいにするほど嗅いだ。前腕から魂まで吸い出されてしまいそうで、全身に悪寒が走った。
「少し、汗臭いね」
「悪かったね。急いで来たものだから」
「ククク、褒めているんだよ」
不気味な笑い声と共に、瑞本は背後に回り、首筋から肩甲骨、膝の裏まで舐めまわすように鼻を沿わせた。匂いというのなら、したり顔の彼女に屁の一つでもかましてやれたら、さぞこの不快感も晴れるだろうと思ったが、それすらも彼女はビニール袋か何かで採取しようとするかもしれないと想像してしまい、口をきつく結んで寒気に耐えた。
「そろそろいいかな。こう見えてもボクは忙しいんだよ。今は体育祭の最中で、キミみたいに助けてあげないといけない人たちであふれているからね」
「へぇ、体育祭か。するとあれは、ようやく本番というわけか」
「知っていたから、こんなところで見下ろしていたんじゃないのかい?」
「ククク、いやぁ、そんなことは些事なのさ。私はここで暮らしているようなものでね。他のことにはてんで興味がない。興味を持つ必要もないのさ。今日はたまたま、君を待つ暇つぶしに眺めていたというだけでね」
「へぇ、体育祭に興味が持てないなんて、そりゃあかわいそうなことだね」
「ククク、それじゃあ君は、あのクラスメイト達も同じようにかわいそうだと思っているのかな?」
不意に後ろから耳元で囁くような彼女の発言に、思わず身を引いた。
「なんだい、そうでもなければ、君がいないといけない、なんていうことは起こらない。違うかい?君は自分が特別で、彼らはそれに劣ると思っているから、行かなければならないなどという義務感に駆られているんだ。つまりは、未熟な彼らが心配で仕方ないというわけだね――どうしたんだい、認めたくて仕方がないという顔だ。ならとっとと、私を押し倒してでも彼らの元へ向かえばいいだろう。そうすれば彼らも安心して君の甘い蜜を吸える。君も存分に祀り上げられて、君をここへ追いやろうとした奴は赤っ恥さ。ああ、楽しいねぇ」
瑞本は立ち尽くしたままの私の両腕を軽く上げさせ、ほんのりと湿った体操服の袖をまくり上げた。わざと自分も急所をさらすように両手を高くで押さえて、二の腕から肩にかけて味わうように空気を溜めていく。なるべく嫌な顔を向けて彼女をにらみつけてみるが、少しも気にするそぶりを見せず、むしろ瑞本はにやりと笑う。
どのくらいそうしていただろう。ゆっくりと拘束していた手が降ろされると、椅子に座るように促された。
「次は問診といこうか」
「ちょっと待ってよ、本当に間に合わなくなる」
「それが私の仕事でもあるのだから、元からそのつもりでいるのだけれどね。それとも、今からなら間に合うと言いたいのかい?」
四階の窓から見えるグラウンドには、すでに八つの陣地に各クラスが入場していた。これから一度目の演技があり、その後グラウンドの左右四つずつで入れ替わり、再度演技することになる。仮に今から全力で向かっても、二度目の演技が始まるのに間に合うかどうかだろう。
「くだらないその場しのぎの言葉はやめてくれたまえよ。楽しもうじゃないか。せっかくの蜜月だ。そう怖い顔をしないでくれ。私はただ、知りたいだけなのだから」
どこまで本気か分からない顔で、彼女はかなり分厚いファイルに目を落とした。
「ククク、彼らが不安なら存分に見下ろせばいい。私には至極どうでもいいことだ」
時を少し遡って、昼休憩が終わるころ。
「なあ、天使の奴、まだ来ないのか?」
通しで練習を行った後、男子生徒がそう口にした。昼休憩の時間はもう五分と無かったが、応援合戦の重大な役割を担っているクラス委員長、愛ヶ崎天使はいまだ到着する気配がなかった。さすがの二組の間にも、じわりと不安が広がっていく。
「天使ちゃん、練習もめっちゃ頑張ってたし、今朝もやる気マックスって感じだったから、サボりとかじゃないとは思うんだけど……」
体育委員の女子生徒が、うろたえながらもクラスメイト達を落ち着けようとする。
「じゃあ、もしかして何か事件とか事故とかそういうのってことか?」
「つか、天使いないと俺らの応援合戦成り立つの?」
クラスメイト達の間に、どんどんと波紋が広がっていく。それは不安というよりも絶望に近い、崖っぷちに立たされたような感覚であった。
「——成り立つよ。成り立たせるんだよ。だって、私たち、いっぱい練習してきたじゃない。それも、私たちだけで。天使ちゃんを倒すんだよね?そのために頑張ってきたんだよ。だったら、こんなところで立ち止まっていられない、そうでしょう?」
不安を切り裂こうと、悠怜は必死に声を振り絞り、クラスメイト達を喝破しようとする。けれど、震えた手ではあまりにも説得力のない言葉として捉えられるだけだった。誰もが立ち上がろうと、立ち上がりたいと思っている。けれど、やはり天使という存在のカリスマ性というものを、彼女に支えられ、引っ張られてきたのだということを誰もが痛感しているのだった。
「——ふふ、あはははは!」
しんとした静寂を切り裂くように、笑い声が響く。生徒たちはギョッとした目でその声の主を見た。
「どしたの委員長。ついにおかしくなった?」
「やべぇ、針瀬が狂った」
クラス副委員長、針瀬福良は唐突に笑い声をあげると、神城がするように腕を組んでふんぞり返った。目つきの鋭い彼女がそうして背筋を伸ばすと、どこか主将のような貫禄があるのだった。
「愛ヶ崎さんが出れなくなる?そんなこと、考慮しないわけがないじゃない!」
針瀬は胸を張ったまま、堂々とそう言い切った。クラスメイト達はポカンとした表情で彼女を見つめる。
「いや、考慮っつってもさ、今から動きとか変えるってことか?流石に――」
「流石に、何?私たちの目標は何だったの?言ってみなさいよ」
「——打倒、天使。だろ?」
「そう。私たちの目標は、天使を倒すこと。そして、天使を倒そうと上級生を奮起させるような応援合戦がプランだった。でも、現実はどう?天使ったら、私たちが怖くって逃げ出しちゃったみたいじゃない!私たちは天使を倒したの。そんな私たちに誰が敵うかな?」
針瀬の滔々とした演説に、生徒たちは動揺し始める。思わず一歩後ずさって逃げ出してしまいたい。天使を倒しただなんて不遜な、大それたことを騙っていいのだろうか、と。
「——あの子なら、こんな時こう言うのかもね」
ふとしたその呟きに、誰もが脳裏に同じ一人の女子生徒の破天荒で、天真爛漫で、はた迷惑な笑顔を思い浮かべる。
針瀬は風船がしぼむように背を丸め、体操服のポケットから、くしゃくしゃになった応援合戦のメモを取り出した。先ほどとは打って変わって、弱弱しい笑顔を浮かべている。
「まぁ、そのなんていうかさ、やるしかないわけだよね。で、一応はプランもある。それは嘘じゃないから。そしたらさ、成功させたいって、私は思うな」
「うん、やろう!」
体育委員の長髪の女子生徒が拳を握り、高く掲げる。続いてクラスメイト達も呼応するように手を振り上げた。
「『Do or do not. There is no try.』か……」
「天使は死んだ!俺たちが倒した!」
「一年二組ィ!戦うぞ~!」
「……で、どういう変更になるの?」
ひとしきり鼓舞し合い、笑いあった後で、冷静になって針瀬の周りに一年二組の生徒たちは集まる。くしゃくしゃのメモには、元々想定されていた三つの演技パターンがあった。
一つは、天使を倒す流れの物。予定ではこのパターンを天使に見せることで、上手く焚きつけて二つ目のパターンを練習させるはずだった。実際、ここまでの練習は二つ目のパターンを本番で行うつもりで練習の比率を調整していた。
二つ目のパターンは、天使に倒されるパターンだ。全体として、愛ヶ崎天使を中心に見せるような陣形移動を行い、悪く言えば観客である生徒に媚びるような、彼女の人気を利用した演技である。二組のアドバンテージである天使の魅力を最大限活用した最善のパフォーマンスだ。とはいえ、天使不在の今の状況では使えそうにも無かった。
三つ目が、仲良く演技するパターンだ。仮に天使が突然精神的不調や自信を無くすような事態になった場合、極めて平凡な演技にはなってしまうが、天使を隊列に加えて、最小限の陣形移動で、そこそこの協調性と熱量を持ってとりあえず応援合戦をやり過ごすというものだ。基本的に他のパターンを練習していれば、手を抜いて実践できるので、あまり真剣に練習されてはいない。ある意味では天使が自信を失うということを感情に入れない、信頼の証ともいえる。
「基本的に愛ヶ崎さんがいないから、三つ目のパターンにはなるのだけど、それでも一つ目のパターンの熱量は維持したい。だから、前半はそのままで、後半を三つ目に変える感じにしたいんだけど……」
「結局、アイツがいないと陣地がガラガラになるし、掛け合いも上手くいかないんじゃないのか?」
「それは考えがあるわ。ただ、上手くいくかどうかは、やってみないと分からない。正直、今からじゃあ練度も高められないもの」
そう言って、針瀬はメモにいくつかの指示を書き足した。
「なるほどな。確かに、それなら見た目の穴は埋められそうだ。でも、大丈夫なのか?」
「今更でしょう、そんなこと。とはいえ、無理だと思うなら、今ここで決めないといけない。なぜなら、この役を担えるのはあなた以外にいないからよ」
メモを書く手を止め、針瀬は顔を上げる。まっすぐな瞳が、悠怜を見据える。
「——お願いできるかしら、細小路さん」
「もちろん、私が演じて見せるよ。天使ちゃんの影だなんて、これ以上の適役はないよ」
胸を張り、虚勢だとしてもしっかりと笑って見せる。その笑顔に、針瀬も任せるわと親指を立てた。
そうしてチャイムが鳴る。昼休憩が終わる。
「四組~、四組~」
ぎりぎりまで確認をして、急いで生徒たちは招集場所へと向かった。やってみろと煽るように、ギラギラと太陽が照らす。
「はいっ、四組います、遅れてすみません」
二組を整列させて座らせると、係の生徒が進行を行なっている生徒会席に合図を送った。
そうして、午後の部、応援合戦が始まる。
「合図が来た。三番だ」
「そのまま進行して大丈夫ですか?」
「ああ、彼らを信じてみよう。それとして、三峰。捜索を頼んでもいいか?」
生徒会席で執行部の三人が密かに会話をしている。副会長の神城は、応援合戦開始の太鼓や制限時間のタイムキーパーを行うため、グラウンドの真ん中で待機していた。
生徒会執行部の四人は、文化祭で天使が起こした波乱を踏まえて、体育祭成功のために事前にいくつかのシミュレーションをしていた。天使を進行側から外したのは、彼女を自由にすることで対処しやすくするためでもあった。
午前の部はつつがなく進行し、異常が発生したのは、午後の部の最初の種目。担当の生徒から送られてきた合図は三番——天使のみ失踪。予定していた対応は、通常通りの進行と並行して、事前に収集した天使に関する噂と照らし合わせた捜索である。
「昼休憩は教室で過ごしていたって報告があったから、多分校舎に残っているんじゃないかな~。噂通りなら、該当する捜索箇所は『保健室』『視聴覚室』『職員室』『理科室』の近い順番で回れば良さそうだな。でも――」
「ああ、逆の順番で回ってくれ。その方がいい気がする」
「こういうときは勘なの悔しいぞ……応援合戦の様子、後で教えてくれると嬉しいぞ。それじゃあ、組体操までには戻れるよう善処してくる」
三峰はそう言い残して、軽快な歩調で人波を抜けて校舎へと向かった。遅れて司会が生徒の入場を促すアナウンスを始め、グラウンドに太鼓の音が響いた。
「まぁ、ひとまずは静観だな。彼女の動向だけに気を配っているわけにもいかない」
会長が生徒会席に腰を落ち着けると、書記はため息をつく。
「何も起きない方がいいのですがね。本当に、来年を思うと胃が痛いです」
陣地につき、ほんの少し前に決定した自分の位置に分かれていく。会場はガヤガヤと騒々しいが、それ以上に緊張した自分の鼓動がうるさい。目の前に座っている二年生の生徒たちは、まだ他のクラスを指さしたり、しおりに目を落としたりとこちらを見てはいない。むしろそうした自由な視線を意識しないようにと、胸に当てた自分の手に目を落とす。右手に掴んだ布の端が不自然に揺れる。振動が伝う布の長辺を追いかけると、体育委員のクラスメイトがこちらを向いて笑いかけていた。まぶしい笑顔とその強がりの裏に見えた恐怖と緊張に、胸がいっぱいになる。精いっぱい負けないようにと息を吸い込み、星のように輝くあの子のように、満面の笑みを返す。
太鼓の音が鳴る。一度、二度、三度。
「各クラス、応援旗を掲揚してください」
右手を高く上げ、旗の全容を眼前のクラスへと誇示する。とはいえ、これまでの間テニスコートで飾られていたものを、彼らが見ていないはずもない。だからこれは、再度の意思表示なのだ。天使を打倒するという、私たちの。
太鼓の音が鳴る。試技順が最初の二組と、その背面に当たるクラス以外は応援旗を降ろし、三角座りで待機となる。
「それでは、一組目の応援を開始してください」
太鼓の音が鳴る。応援合戦が、始まる。
私は素早く高く掲げたままの応援旗の影に隠れた。
天使がいなくなった時の対処――針瀬さんが提案したのは、大胆な変更だった。天使の配役をまるごと隠してしまう。応援旗を掲揚することで、帳の向こうの高貴な人のように演出し、時折手や足だけを見せることで存在をほのめかす。
「——そんな天使の幻想が晴れ、最後に一人の少女が現れる。そして手を取り共に戦うの」
仕切りで隠された魅惑的な少女の幻想は次第にその幅を小さくしていく。両手で何とか半分ほどまで巻き取られた応援旗を掲揚しながら、クラスメイトに合わせて振り付けを返す。寝る前に目の前で踊って見せた彼女の姿を思い出しながら。
「……これって応援合戦なんだよね?」
「うちの応援合戦は、毎年そんな感じのとこが勝ってるらしいよ?まぁ、大体商業科だけどね」
「ようは楽しけりゃいいってことだろ。あるいは楽しそうかってとこ。どれだけ魅せれるかって話だよつまりは」
強く威嚇するようなクラスメイトの合唱に、私は応援旗を手早く降ろすと同時に倒れこむ。人間に敗北した天使の演技として。だけど、帳の先から現れるのは本当の天使じゃない。天使の影を追って、未練がましく世界に戻ってきた幽霊だ。きっと生徒たちは驚くことだろう。落胆することだろう。楽しみにしていた天使はどこだと思うことだろう。
そんなこと、関係ないと差し出された手を取る。天使の虚像は、ただの人間として、共に立ち上がる。かつて天使が自分にそうしたように差し出された手を、再び握り立ち上がる。
応援旗を投げ捨て、合唱する。テンプレートも慣習も投げ捨てて、最後は全員でポーズを取って、私たち一年二組の応援合戦は終わる。
遅れて汗が噴き出す。運動と、緊張と、興奮と。荒い呼吸の音をかき消すように、拍手の音が聞こえてくる。文化祭の時のような、万雷の喝采ではない。けれど確かに、私を、私たちを認めてくれる人たちの拍動が響いている。
太鼓の音が鳴る。私たちはその場に座り、隣のクラスが立ち上がった。
「まだ気は抜けないよ、悠怜ちゃん。もう一回、頑張ろうね!」
体育委員の女子がこっそりと親指を立てたのに、私も強く頷いて返す。
一人で立ち上がることは、誰にだって困難だ。けれど今、私は共に立ち上がれる仲間を見つけた。そんな自信に満ち溢れている。叶うなら、天使ちゃんに見ていてほしかった。でも、きっとこれは、天使ちゃんがいたら訪れなかった成長なんだ。彼女のおかげで立ち上がれたように、彼女がいないことで、新たな一歩を踏み出すことができたのだ。
いまだ冷めやらない興奮が、熱く胸の中を埋め尽くしていた。弾けて飛び出しそうな脈動を、そっと閉じ込めて、笑う。彼女がいつもそうしていたように。
四組ずつの演技が終了し、一年生は東西の配置を転換する。二年生に向けて演技していた四クラスは三年生に、三年生に向けて演技していた四クラスは二年生に、それぞれもう一度応援を行う。
グラウンドの反対側から、移動のために別のクラスが駆け足でやってくる。その先頭に、見たことのある生徒を見かける。四組のクラス委員長、藍虎だ。爽やかな黒髪は、午後の部でも変わらずさらさらと流れている。やり切った表情でクラスメイト達と笑い合いながら、こちらに駆けてくる。二つのクラスが交差するとき、その視線は――こちらを一瞥することもなく通り過ぎていった。
クラスメイトに置いて行かれないように着いて行きながら、四組を振り返る。彼女は、もう私など眼中にもないのか。その視線の先にあるのは眩く光る少女——天使だけだとでも言うように、楽しそうに彼女たちは笑う。
「どうしたの、悠怜ちゃん」
不意に声をかけられ、少し驚く。意識しない内に、笑みがこぼれていたらしい。
「ううん、何でもない。次は、もっとうまく演じて見せるからね」
決意して、口にする。額から垂れた汗が少し塩辛く舌を刺激した。
私たちも、もっと先に行くからね。天使ちゃんにも負けないくらい、成長して見せるから。
太鼓の音が鳴る。二回目の演技が始まる。もう迷いも恐れもない。ただ楽しいと、そう思った。
それから、四階に駆け上った三峰によって、天使は発見される。
「そうだね、次の質問だ。今、何問目?」
「三十五。いつ終わるの、これ?もう応援合戦は間に合わないとしても、キミみたいにボクは陰鬱と校舎の隅で閉じこもるのは趣味じゃないから、早く戻りたいんだけど」
「ククク、そんなことより、先輩をキミだなんて呼ぶのをそろそろ止めたまえよ。いい加減うんざりしてきたところだ」
「そっちだって君って呼んでるじゃないか、おあいこだよ」
「それは私が先輩だからだ。後輩は後輩らしくしていたまえ。そんな調子ではウザがられて友人もできまい」
「は~~~ん、じゃあお前だよお前!それでいいですか、せ・ん・ぱ・い??」
ガラガラと理科室の扉が開かれ、机に身を乗り出して掴みかからんとしていた天使も振り返る。
「お~本当にいたぞ。というか、やっぱりお前かHP!商業科の一年と組んで、応援合戦の妨害をするって噂は当たりだったかな」
「なんだ、今は研究の最中だ。帰ってくれワンコくん。それと、私にはP.Hという先輩から賜った素晴らしい名があるのだから、日本式に直すのは頂けないな。それでも理系かい?」
三峰は、瑞本の煽り口調には慣れているのか、気にしていない様子で歩み寄ると、天使の首根っこを掴んで入り口まで無理やり引っ張っていった。
「なんでもいいけど、後で監査行きだからな」
「ククク、構わないよ。前の時に、今期はこれ以上減らせないと言われているからね」
「だから、来期はもっと減らすってことだよ。覚悟しとけよな、私の代は容赦しないぞ」
ご丁寧に四階の階段まで憎まれ口を叩きながら、PHの少女は着いて来た。
「お手柔らかに。十分に欲しい情報は得られた。しばらくは鳴りを潜めるさ」
「そうか、授業はちゃんと出ろよ」
ぶっきらぼうな口調に、天使は、案外二人は仲が良いのかと邪推する。一仕事終えてけだるげに階段を降りる二人の背中に、クククと不気味な笑い声が響いていた。
かくして、体育祭はつつがない進行へと戻っていく。もちろん、天使が気の済むまでクラスメイトに叱責された後で、だが。