第二十話 体育祭前編
・主な登場人物
愛ヶ崎天使:この物語の主人公。天使ちゃん。ムード/トラブルメーカーの天才少女。あらゆる分野において平凡ではないが、同時に突出もしていない。自分が人から愛され信頼されることは当然だと思っているため、他人から向けられる特別な信頼や愛情についても無頓着である。また、自分は特別な人間だと思っている反面、自分の才能の特別さには無自覚的である。
細小路悠怜:幽霊ちゃん。様々な騒動の後、天使と同居することになった少女。自分で思っている以上に体力がないが、負けず嫌いなのでそのことを認めきれない。
針瀬福良:一年二組のクラス副委員長の少女。真面目で責任感が強い。
この学校には、天使がいる。それは、どこかのクラスの応援旗に書かれた文言であり、この半期に台典商業高校の生徒ならば必ず聞いたことがある噂だ。
――指揮を執るように、お茶目で元気にこちらに手を伸ばして叫ぶ羽のない天使。
――天使はいる、悔しいが。と言わんばかりに、圧倒的なオーラをまとってこちらを見下す羽と光輪のある天使。
十月になり、台典商高では体育祭が開催されることになった。一年生は、各クラス応援旗と応援合戦によって、上級生を鼓舞する、というのが習わしであった。グラウンドに隣接したテニスコートのフェンスに、八つの応援旗が掲げられている。そのうちの二つは、明らかに実在の誰かをモデルにしたと思われる精巧な人物画であり、残りのいくつかも、それほど露骨にではないがどこか天使の印象に引っ張られたデザインに見られた。
「わー、すごい。かなりデフォルメされてるねぇ」
当の天使、一年二組のクラス委員長であり、生徒会執行部の手伝いも任されている少女、愛ヶ崎天使は、自分がモデルを務めた応援旗を見てそう呟いた。十月の朝はそれなりに涼しく、天使は上下ジャージ姿であった。
「いや、結構写実的だと思うけどなぁ……」
同様に上下ジャージ姿のクラスメイト、細小路悠怜は、ズボンのポケットから体育祭のしおりを取り出しながら苦笑した。応援旗が掲揚されている場所を抜け、段差を一歩ずつ慎重に降りる。悠怜が段差を降りる間に、天使はすでにクラス席のところで副委員長の針瀬と何事か話しているようだった。
会場となるグラウンドにはすでに、保護者や来賓の方々など、様々な人が着席しており、それぞれ開始時間を待っていた。文化祭と異なり、体育祭は対内行事となっており、生徒たちに頒布される入場許可証がなければ、観覧することはできない。その分、保護者向けの観覧スペースは事前の選考を持って配分されており、保護者からの評価は高かった。
真横を走り抜けていく男子生徒の風に、目線を落としていた軽くしおりを押さえて、そろそろ急いだほうがいいだろうかと、悠怜も小走りでクラス席へと向かう。
どこか遠く、気にしたこともない場所から、九時を知らせるサイレンの音が聞こえてくる。それは同時に、台典商高体育祭の開始を告げる音でもあった。
音が消えてから、会場内にアナウンスが響く。
「ただいまより、プログラムナンバー1,台典商業高校体育祭の開会式を行います。生徒の皆さんは、クラス席から所定の位置へ移動し、整列してください」
台典商業高校の体育祭は、一日ですべての競技が行われる。その進行や形式について、特筆される点があるとすれば、得点というものが存在しない、というところである。
多くの教育機関やそれに準ずる場所で行われる体育祭、あるいは運動会などでは、様々な色に名分けされた組ごとに、種々の競技によって順位を競い合い、それに応じて蓄積された得点で総合的な成績を争うことが多い。しかし、台典商高では、順位こそ付けられるがそれがクラスや学年ごとに得点として換算されることはない。学校側の教育方針や指導理念に基づいて、そうした方式がとられているのだが、当然それぞれの種目では競い合いが存在し、二位でもいいかなどと考えるクラスはどこにもいなかった。
しかし、それは例年の話である。
文化祭においては、異例の集客を発生させ、すでに応援旗のモチーフとして半数近くを占めている天使という少女が、生徒たちが熱くぶつかり合う体育祭という行事において、何の波乱も問題も起こさずにいられるわけがなかった。いや、起こすのは天使本人ではない以上、彼女を責めることはできないのだが、それでも、決して平穏に進むことはないだろうと予感された。
「えー、今日はお日柄もよく、保護者の皆様におかれましてもご足労賜りましたこと、大変ありがたく思います」
小柄な生徒会副会長が、普段の言動とは似つかないわざとらしく慇懃な口調でそう切り出す。開会式で暑くなることを見越して、すでに半袖半パン姿となっている。運動部ではないが適度に筋肉のついた脚と、これまでの炎天下の練習にもかかわらず白く保たれた肌に、気楽そうに振舞う態度に隠れた彼女の真面目さがうかがえる。
「これまで各学年、各クラス、大変熱心に練習を取り組んできたという風に、生徒会の方でも聞き及んでおりまして、かく言う私も組体操では膝の痛みに耐えながら練習を越えてまいりました。本日は高いところから失礼しておりますが、組体操の方ではより高いところから失礼させていただくことを、先にお詫びさせていただき、当然のことながら、皆さんのご期待を越えるような演技をさせていただきたいと思います」
お前は上に乗る側だから膝は痛くないだろう、と副会長の立つ朝礼台の横から、親友の生徒会書記が眼鏡越しに見上げる。長い髪を一つくくりにして、進行の次のページへと台本をめくった。
「続いて、選手宣誓。代表の方は、前にお願いします」
副会長が朝礼台を降りると、日差しを鬱陶しがるようにまばらな拍手が起こる。
司会のアナウンスの後に、校長が朝礼台に登場し、三年生の列の中から、一名の男子生徒が丁寧に小走りでやってきた。生徒会席のテントから出てきた生徒会長が、校旗を手渡すと、代表の生徒は朝礼台に掲げ、迷いのない瞳で声を張り上げる。
「宣誓!我々、選手一同は、これまでの練習の成果を存分に発揮し、すべての種目を全力で楽しみ、ご足労いただきました来賓の皆様、育ててくださった保護者、大切な家族、そして共に支え合った仲間たちに、思い、努力、協調の成果を見せ、最高の思い出とすることを誓います!」
クラス委員長として、最前列で選手宣誓を見ていた天使は、その情熱に心を震わせた。自分もあんな風に前に出て、選手宣誓をしてみたいなと憧憬する。中学までは、体育祭はあまり楽しい行事だという認識はなかった。学校行事なのに親が見に来て恥ずかしいうえ、その母は色んな保護者に声をかけられ、冷やかされているとも分からずに楽しそうに話していた。運動神経にはそれなりに自信があったが、目立ちたくなくてあまり積極的に立候補しないでいた。
けれど、今は違う。クラスの人にも支えられ(クラス目標では打倒!なんて言われているが)、憂いなく好きなように過ごせている。ただ純粋にそうして学校生活を楽しめていることが、天使にとってはとてもうれしいことなのであった。
「続いて、準備体操を行います」
宣誓が終わると、生徒たちの前に各体育委員が整列した後、グラウンドを囲うように一定間隔をあけて並んでいく。
中央の二年生を基準として、生徒たちは両手がぶつからない程度に開いていった。
「いや、無理だと思うよ」
開会式を終え、クラス席に戻った天使に、かなり汗だくな様子の悠怜が言った。手早くジャージを脱いで席にかけると、優しく汗を拭く。
「何でさ、ボクって、自分で言うのもなんだけど、選手宣誓向いていると思うんだけどな」
軽く水分補給をしながら、天使は頬を膨らせる。
「だって、天使ちゃん生徒会入るんでしょう?生徒会執行部の人は、選手宣誓はできないんだよ。開会式の号砲は、三年の二人がやるから、そっちでいいじゃない」
天使は、亜熊と神城の二人が入場前にグラウンド中央でピストルを撃っていたのを思い出す。二組の待機列は少し後ろだったので、音が聞こえる程度できちんとは見えなかったが、おおむね予行練習と同じ感じだったのだろう。
「えぇ~、あれ地味じゃ~ん」
「贅沢言わないの」
解いていた髪を再び結び直しながら、そう軽口をたたく。グラウンドでは、体育委員が何か所かに分かれて綱引きの準備をしていた。
「そういえば、天使ちゃんはああいう準備は手伝いとかないの?」
以前から何かと体育祭の準備に奔走していた天使だったが、今はクラス席でしおり片手に座っており、急ぎの用事はなさそうであった。
「ああっとねぇ、昨日の準備が終わったときに、会長が『当日はこちらで回せるように調整してあるから、君はクラス席で観戦していてくれ。できれば動かないで』って」
悠怜は、あぁ~、となんとなく生徒会長の意図を察して、曖昧な返事を返す。というか、結構生徒会でもその辺りはトラブルメイカーと認識されているのか、と悠怜は驚く。てっきり敏腕一年生としてスカウトされたのだと思っていた。
「それより、綱引きそろそろ始まるよ?楽しみだねぇ」
天使はしおりを持ったまま、うずうずと前の席に身を乗り出してグラウンドを眺めた。クラス席では、綱引きに出場するために出ていった生徒たちの分の空きが目立っていた。続く玉入れの準備に向かっている生徒ももういるのかもしれない。悠怜は二回戦が終わったら行こうかな、という気持ちで、天使の隣に腰掛ける。
「もちろん、悠怜ちゃんの玉入れも楽しみにしてるからね?午前は観戦して、やる気充填だぁ!」
楽しそうに笑う天使の横顔を見ていると、どこか自分まで楽しくなってきて、悠怜も同じように身を乗り出して、応援用の赤い旗を振るクラスメイトの隙間からグラウンドを眺めた。過ごしやすい秋風がテントの隙間を抜けて、背中を押してくれた気がした。
高く投げたやわらかい球が、自分の身長の二倍近くはある籠を通り越して、地面へと落ちていく。地面にできた赤い斑点の分布図に外れ値を刻むように、私の投げた球はだれも見向きしない遠くへと転がってしまった。
「向いてないなぁ、球技」
呆然と籠を見上げていると、誰かの投げた球が見事に網を揺らした。慌てて自分も近くの玉を拾って、再度投げてみる。しかし、今度は籠の下をかすめてあらぬ方向へいってしまう。
悠怜はため息をついて、改めて球を投げようと足元に視線を落としたが、もう手の届く範囲の玉は投げ尽くしてしまったようだった。
体感ではまだ制限時間の半分を過ぎたくらいだった。秋の涼しい季節に、玉入れという運動量の少ない種目にもかかわらず、自分の胸はどこか痛み始めていた。他のクラスメイトの様子を胡乱な目で見回す。誰も、私のことは見ていない。
後ろの方で大きく歓声が上がる。普通科の身長の高い一年生——バレー部だと噂で聞いた気がする――がそのプロポーションと運動神経を生かして、次々と的確に球を投げ入れていく。よく見れば側近のように他の生徒が球を少女の周りに集めていた。
きっと、観客も自分のことなど見てはいないのだろう。ただでさえ影の薄い私を、特に活躍もしない私を、誰が見ているというのだろう。
そう考え始めると、途端にやる気がみなぎってきた。そうだ。球を入れようだなんて考えていたのが間違いなんだ。いつの間にかすっかり乾いていた体操服の胸元で、額の汗を拭う。視界が明瞭になり、ぼんやりと自クラスの球の分布が見えてきた。
籠に近い位置で投げ入れているクラスメイトの背を抜けて、白線のぎりぎりに落ちてしまった球を中央へと投げ返す。といっても、入るわけもないので、できるだけ体力を使わないように、クラスメイトの近くに転がす。息を潜めて、誰にも気づかれないようにと体を縮こませる。歓声や拍手、アナウンスの声が遠くに聞こえる。だんだんと呼吸が落ち着いて、足も軽くなる。
そうして一周回ってきたとき、澄み切った思考を貫くようなピストルの音がグラウンドに響いた。
「そこまで!」
体育教師である二組の担任の野太い声が次いで聞こえてくる。どうやら制限時間が来たようだ。
クラスメイト達に続いて、白線で区切られた競技エリアの外に整列して座る。競技が始まる前は、二列のうちの前方に座っていたが、続くクラスと前後が変わり、今度は観客席に近い後方に移動することになる。この玉入れは四クラスずつの試技なのだ。
「い~ち!」
クラスの体育委員が、一つずつ球を高く投げ上げカウントをしていく。二組は早々にカウントが止まり、派手な装飾のついた球が地面で物悲しく跳ねた。
「よんじゅうに~!」
会場のどよめきを受けながら、最後のクラスが飾りのついた球を投げ上げた。制限時間から考えると、一秒あたり何個のペースで、と両手を見ていると、不意に頭上から声をかけられる。
「細小路さん、だよね」
自分たちと入れ替わりで待機していた四組の生徒が、振り返って私の方に目線を落としている。冷たい目線、というよりも感情が顔に出ない人が、人に向ける標準の笑顔だと感じた。自分では破顔しているつもりなのだろう、口角がほんの少しだけ上がり、頬の筋肉が丸く盛り上がっている、ような気がする。天使も時々寝起きの悪い朝などに似たような顔をする。
「献身的な動きをするのは良いと思うけれど、玉入れにそんな戦略を持ち出すのはナンセンスだよ。玉入れなんて、誰も本気でやりはしない。つまり、自分を犠牲にして誰かに得をさせようなんてものは、ただ君が損をするだけというわけさ」
少女が人差し指で軽くこちらを指さすと、目元まで伸びた前髪の隙間から静かな瞳が覗く。肩より短く切りそろえられた黒髪は、汗も湿気も知らないようにさらさらと軽く流れている。
何か反論をしようと胸を膨らませたが、とっさに言葉が出てこずに、口からただ空気が漏れていった。
「とりあえず、私たちの玉入れを見ていてくれよ。今年の体育祭の何たるかを見せてあげよう」
そう自信ありげにほほ笑む少女を、クラスメイトが呼ぶ。先に移動した生徒たちは、何やら円陣を組み始めている。少女も駆け足でその輪に入っていくと、突然、大声で「四組~!!ファイッオォォ!!!」と叫び始めた。四組の生徒たちも、呼応するように返したかと思うと、「ファイッオオ!」と叫びながらぐるぐると回り始めた。何の野生動物だ?
本気で玉入れをする奴なんていない、という先ほどの発言とは裏腹なやる気の入りように思わず面食らう。それ以上に、静かで冷たい雰囲気の少女が、あの輪でかけ声をしていると思うと、その方が気の遠くなるような思いだった。
確か、四組のクラス委員長だっただろうか。とっさに名前が思い出せるほど顔が広くない上に記憶力に自身もないが、かといってクラスメイトに「あの子誰だっけ?」と聞けるほど薄情でもない私は、ただ彼女の玉入れの顛末を見届けるほかに無かった。
円陣をほどいた生徒たちが、籠を囲って並ぶ。司会進行の生徒は、急な叫び声にも「元気がいいですね」と軽く流す程度で済ませた。殺気のような緊迫した雰囲気をまとわせ、中腰で待機する四組の生徒たちを眺めていると、ピストルの音が鳴り、玉入れが開始される。
そういえば、さっきの綱引きの時も大声を出していたクラスがあった気がする。それが四組だったのだろうか。でも、確かさっきの結果は――と思案が回る前に、前方で再び生徒たちが大きな声で叫びながら球を投げ始めた。
「「うおおおおお!!!」」 「投げて投げてこ~!!」
「入ってる!入ってるよぉ!!」 「もっともっとぉ!」
「「もっといけるぅ!」」 「どんどん行こ~!」
「「最強ぅ!」」 「「最高ぅ!」」
「球無いよぉっ!」
「球あるよぅっ!」
「もっと声出せるよ!」
「「「四組さいこぉ~!!」」」 「「「最高ぅ!」」」
「「ファイッオゥ!」」
思い思い叫びながら四組の生徒たちは、球を投げ入れていく。けれど、声の方に力が入りすぎているのか、軌道はバラバラで精度はかなり悪いようだった。籠の方を見やると、そろそろ制限時間は半分を過ぎるというのに、数個しか入っていなかった。
後半で巻き返すかと、じっとタガが外れたように叫び続ける四組の生徒たちを見ていたが、結局それほど入らず、目で見ても分かるほどに酷い結果だった。これだけ大きな声を出したり円陣を組んで協力しようとしたりして、結果がこれではさぞ落ち込むことだろうと生徒たちを見ると、終了の号砲が鳴った瞬間、ぴたりと声を出すのを止め、そして一斉に――おそらく無意識的に一致したのだろう――籠を見上げると、誰からともなく笑い始めた。
「おい、藍虎ぁ!ダメじゃねえか」
「あはははは、ダメだねぇ!」
男子生徒が笑いながら叫ぶと、同じように先ほどの少女、藍虎も愉快そうに笑い返す。しみじみと言った様子は一切なく、クラスの全員が談笑しながらやり切った表情で所定の位置に戻ってきた。
球が数えられ、異例の速さで飾りのついた球が投げ上げられると、会場も思わず笑いと拍手に包まれる。四組の生徒も誇らしげに、というよりも苦笑しながら拍手で応じる。
この少女——藍虎は、結局何が伝えたかったんだ。おかしそうに笑いながら、他のクラスが球の残りをカウントするのを眺めている彼女の背中に問いかける。自信気に飛び出していった割には結果も悪く、かといってクラスの誰もそれを気に留めていない。それがこの体育祭と言いたいのだろうか。
もやもやとした気持ちのまま、続く二年生との入れ替えでグラウンドを後にする。退場門から出て、クラスメイト達とは離れた体育館の影で息を落ち着かせてから、クラス席に戻ることにする。深呼吸しながら見る体育祭の喧騒は、どこか他人事の様で少しそれが寂しく思えた。
入場の整列で混雑している門側ではなく、保護者席のあるグラウンドの後ろ側を通ってクラス席へと戻る。少し大回りにはなるが、太陽の向きを考えても、この道を通った方が影を縫って進めそうだった。
保護者席のテントの影を進んでいると、ふとテニスコートに掲揚された応援旗が目に入る。開会式の前にも確認した八つの旗が自信満々に掲げられていた。
そうだ、と思い立って、四組の応援旗を確認する。
豪華にカラフルに塗られた商業科、五組の旗の横で、その旗はひっそりと、けれど確かな存在感を持って飾られていた。無骨に、飾りも余計な線もないただの一対の翼。その白い翼の横にただ『憧憬』とだけ書かれていた。
これは、間違いなく天使のことを指している。そう悠怜は感じた。もちろん、空を飛ぶことなんて誰だって憧れる。けれど、きっとさっきの彼女たちの振る舞いも、この体育祭のあり方というのも、ただこの二文字に込められていたのだと合点する。
愛ヶ崎天使という少女を憧憬する。いつかクラスメイトに言われた、天使の背を追うもののあり方の、もう一つの答え。立ち止まって天使を讃えるのではなく、天使を追って空を目指すのでもなく、ただ愚直に地を駆け、空を見上げ、天使を憧憬する。それが彼らの目標なのだ。
ぐっと体操服の胸元を握りしめる。あるいはあの少女は、宣戦布告をしたかったのだろうか。こんなにも天使に近い私が、空に駆け出す覚悟も、身を投げうってでも地面を駆ける覚悟もないことに嫌気を感じたのだろうか。
その答えは、今ここで出すことはできなかった。ただ、胸の中でくすぶり始めた熱が、前へ進む意思であると証明するために、応援旗を背にクラス席へと歩き始めた。
クラス席に戻ると、天使はいなかった。同じクラス委員長だし、藍虎という生徒のことを聞いてみようかと思ったが、落ち着いて考えれば、彼女が誰かを覚えている可能性はとても低いだろう。クラスメイトに天使の行き先を聞いたが、曖昧に保護者席の方?と返されたので、おそらくは両親か、あるいは誰かの席に勝手にお邪魔でもしているのだろうと考え、自分の席でぼんやりと観戦することにする。
全身を決意に漲らせたものの、よく考えたら、私はもう応援合戦以外の種目には出ないのであった。しおりに挟んだ動きの紙を改めて熟読していると、午前の最後の種目である部活対抗リレーが始まっていた。
大抵、部活対抗のリレーというものは初めから勝負が決まっているものだ。まともに走っているのは陸上競技部やサッカー部、野球部のような屋外で走る部活で、他の部活は自分の部活の活動に絡めた実質的な障害物走と化している。なぜか出場している文学部の先輩が倒れこみそうになっているのに思わず感情移入して応援したり、体操部とダンス部が競い合うように技を披露するのに驚嘆したりと、思ったよりも楽しみながら午前の部は終了した。
昼休憩開始のアナウンスとほぼ同時に、テニスコート側、保護者席の方から親子連れと共に天使が歩いて帰ってきた。
「あ、天使ちゃんやっと戻ってきた」
天使は悠怜を視認すると、二人の子供を連れた父親にお辞儀をして、名残惜しそうに手を掴む少年の頭を軽くなでると、こちらに戻ってきた。
「ごめん、お昼いこっか」
「あれ、弟くん?」
天使に兄弟がいるという話は、聞いたことが無かったと思いながらたずねる。
「いや、ともだ――先輩の弟で、バイト先の子なんだよね。文化祭の時も見に来てくれてて、今日も挨拶しに行ってたらいつの間にか、午前の部が終わってたんだよ」
やれやれ、と肩をすくめながら、校舎に向かって歩く。教室においてある弁当を二人でどこか陰のあるところで食べようと話していた。
自分の親には会いに行かないのか、とは聞かなかった。天使も、自分と同じように親とは何かしら折り合いのつかない感情があるようで、その話を振ったときに彼女の顔に差す影が、とても嫌だった。
それから、悠怜は天使と二人で昼食をとり、昼休憩が終わるまではのんびりと過ごした。藍虎のことは、さりげなく聞いてみたものの、やはりぼんやりとしか覚えていないようだった。あの、仕事ができる子だよね。と分かっているのか分かっていないのかあいまいな反応で、それほど親交が深くないことが分かった。
「ねぇ天使ちゃん、私の玉入れどうだった?」
自信気に微笑む藍虎の幻覚をかき消すように、少し嫉妬するように、天使にそう聞くと、彼女はいたずらな笑みを浮かべる。
「下っ手だったねぇ」
もう、と天使の柔らかな頬を両手で軽く挟んでぐいぐいと揉む。笑顔を崩さないまま、ごめんごめんと天使は両手を上げた。
「でも、出て良かったって顔してるね」
何か良いことあった?と聞く天使に、とっさに自分の頬を隠す。天使の頬の暖かさが少しだけ残っていた。
「ちょっとだけ、ね」
そりゃあ良かった、と天使は笑って、そろそろ行こうかと促した。
教室に弁当箱を置いていき、下駄箱で再び運動靴に履き替えていると、不意に天使がつぶやく。
「ごめん、ちょっと先行ってて」
返事も待たずに天使は駆けだしていく。
「ちょっと、クラス練習もう始まるよ!?」
完全に履き替えてしまっていた私は、追うタイミングを失って立ち尽くす。私の脚ではもう追いつけないだろう。
仕方なく一人で指定されていた練習場所まで向かう。昼の熱気は、夏ほどではないにしろ確実に体力を消耗させた。
「あれ、愛ヶ崎さんは一緒じゃないんだ」
クラス副委員長の針瀬さんが、驚いたように聞いてくる。私を天使の腰巾着だと思っているというより、私を天使の居場所を補足する手段のように思っているらしい。
「なんか先行ってて、ってさ」
「あ~、うん、分かった。とりあえず天使ちゃん抜きで通し練習しようか」
針瀬が声をかけて、クラスメイトを集める。
そうして、何度か通し練習をして、ついに昼休憩の時間が終わる。応援合戦は午後の部の最初の種目だ。続く学年種目を鼓舞するためにもきっちりがんばれよ、と担任は言っていたが、三年生のフォークダンスの何を鼓舞するんだ。
「四組~、四組~」
「はいっ、四組います、遅れてすみません」
針瀬が先導して応援合戦の待機列に入っていく。
そうして、応援合戦が始まる。
——ただ一人、愛ヶ崎天使を除いて。