第十九話 体育祭練習
・主な登場人物
愛ヶ崎天使:この物語の主人公。天使ちゃん。ムード/トラブルメーカーの天才少女。あらゆる分野において平凡ではないが、同時に突出もしていない。自分が人から愛され信頼されることは当然だと思っているため、他人から向けられる特別な信頼や愛情についても無頓着である。また、自分は特別な人間だと思っている反面、自分の才能の特別さには無自覚的である。
細小路悠怜:幽霊ちゃん。様々な騒動の後、天使と同居することになった少女。天使におすすめの化粧品やケア用品を教えてもらったが、香りが被らないように買い揃えた。
針瀬福良:一年二組クラス副委員長。委員長である天使の仕事を代わりにやっていたら、「委員長」というあだ名で呼ばれるようになってしまった少女。真面目で責任感が強い。思ったことをストレートに言ってしまうため、怖がられがち。
この学校には幽霊がいる。しかし、その幽霊は誰にも見つけられてはいない。なぜなら、その幽霊はとっくに成仏してしまい、今ではただの一人の生徒として学校生活を送っているからだ。誰かに見つからない方法は、視線を避けどこかに引きこもるだけではない。誰にも知られずに、同じようにふるまえば、誰も彼女が幽霊だったことなど忘れていってしまうのだ。
とはいえ、世界はそう簡単に幽霊の学生生活への復帰を許してはくれない。今ではただの生徒とはいえ、一学期ほど幽霊として人の目をうかがって生きてきた彼女には、それなりの生活リズムや悪癖が染みついているうえ、その身体にも影響は著しい。
幽霊が苦手なこととはなんだろう。
一枚、二枚、数を数えるのは得意だ。皿の弁償の方法は知らないかもしれないが。
例えばそう、ポピュラーな幽霊には足がない。大抵は地縛霊で、走ることは苦手だと言えるだろう。コンテンポラリーな幽霊は、持ち運び可能な映像機器に憑霊したり、突然背後に瞬間移動したりもするが、陸上競技ならば失格だろう。
あるいは、多くの人から見られることは苦手かもしれない。幽霊という非科学的な事象は、大衆の目線や一般常識といった固定観念によって打ち消されてしまう。大都会の雑踏では、一人二人くらい脚のない人間がいたところで誰も気に留めないだろう。そもそもとして、どんな幽霊も、特別な誰かに見られるために再来してくるわけで、新聞の一面を飾ったり、SNSのトレンドに乗ったりしたいわけではないのだ。
ゆうれいの名を冠する少女もまた、やはり運動と他人の目は大の苦手なのであった。というか、普通に目線って怖くない?と良い友人でもあり同居人の少女を観察しながら、細小路悠怜は思う。
同居人、愛ヶ崎天使は、全然こちらの目を見てこない。時折思い出したようにじっと瞳の奥を覗いてくるが、その視線は焦点のずっと向こう側を覗いているようだった。クラスの人と話す時も、結構そっぽを向いていたりする。ほら、やっぱり目線が怖いのは当たり前なんだよ!
そんなわけで目線恐怖を改善する気のない悠怜だったが、運動については徐々に向上を見せていた。主な要因として、同居生活による食生活の変化が大きい。もともとは自室に引きこもり、夜勤の母親に合わせて作られた食事を日に一度か二度食べたり食べなかったりしていたせいで、幽霊時代にその肉体はどんどんとやせ細っていった。そもそもの体格が小さく、エネルギー消費も少ない方であったことが幸いし、生活に支障が出るほどではなかったが、それでも運動には不向きだ。現在では、多少は肉が付き始め、これはこれで肥満なのでは?と思春期らしい悩みを持ち始めている。また、体育の授業はペアワークを避けるため極力欠席していたため、健康優良児の天使に周回遅れを付けられる程度には運動不足であり、運動音痴なのであった。
体育のたびに、できないのではない、できていないのだ。と謎の持論を提唱していた悠怜だったが、学校生活を送るには、当然、できるできないではなく、やらなければならないことが発生してくる。
その一つが、スポーツの秋、運動の祭典、体育祭である。
「その、ごめんなさい。全然気付かなくって、準備とか手伝えることあるかな」
ある放課後、HRが終わり、悠怜は普段とは違いすぐには教室から出ず、クラスメイト達に倣って机を教室の後ろに移動させた。
「あ~、別に大丈夫だよ。連絡してなかった私らも悪いし、てか男子は手伝ってないし。でも手伝う場所か~。全体練はもうちょいしてから始める予定だったからな~」
体育委員の長髪の女子生徒が、思案するように目線を宙にあげた。長い睫毛が瞬きで揺れる。
「それなら、こっちを手伝ってくれない?クラスの応援旗の色付けは、何人いても困らないから」
クラス副委員長の針瀬が、教室のロッカーの上から丸められた旗を抱えながら呼びかけた。
「お~、委員長頼むわ。んじゃ、あたしはとりあえず会議行ってくるね~。応援合戦良い配置取ってくるから待ってろよ~」
話が済むと、少女は軽い様子で手を振ると、教室の後ろの入り口から去っていった。
悠怜は、まだ少しばかりの遠慮をしながら、教室の空いたスペースに絵具を広げ始めた集団に近づく。
「あ、あの、よろしくお願いします」
「あ、ありがとね、手伝ってくれて。そこ色分け置いてあるから、適当に塗っていっていいよ。不安だったら聞いて」
針瀬は、突然手伝いを申し出た悠怜に対して、特に頓着せずにそう指示を出した。悠怜は雑多におかれたアクリル絵の具と応援旗を交互に見比べて、呆然と立ち尽くす。
すでに応援旗は半分ほど塗られていたが、いまいちコンセプトがよく分からなかった。中央に何か肉食動物?のような黒い生き物(あるいは影なのか?)が置かれ、周りはそれを強調するように赤で塗られているようだった。
とりあえず図案通りに塗ってみようと指示書を確認すると、塗ろうと思ったところには、丁寧な筆跡で、明るい赤とだけ書かれていた。悠怜はとりあえず赤い絵の具を手にしたが、ピンクに近い色にすべきか、橙に近い色にすべきか判断が難しい。そうこうしているうちに、他の部分を塗っている生徒に、赤色を貸してほしいと頼まれ、慌てて手にしていた絵具を渡した。
色塗りくらいならば、もしかすると手伝えるかもと思ったが、案外単純にはいかなさそうだと気を引き締め直していた悠怜に、そっと針瀬が近づいてくる。今のところ、広く浅くの交友関係を築いていた悠怜は、棘の委員長と陰口をたたかれている彼女の接近に、少しだけ怯えてしまう。
「ねぇ、細小路さん。今日はどうして手伝いに来てくれたの?」
「え、どうしてって……」
まさか昨日の夜に、準備が行われていることを初めて知ったから、とは言えず口ごもる。針瀬は続きを待つようにこちらの顔をじっと見つめていたが、返答しないでいると新しく絵の具に手を伸ばした。私から目をそらして、絵の方を向きながらつぶやく。
「別に責めるつもりがあるわけじゃないのだけど。なんとなく、細小路さんはこういう、みんなで作業したりとかって苦手なのかと思ってたから。ほら、合宿も来てなかったでしょう。だから、今日は何か心境の変化があったのかと思って、それが気になっただけだよ。言いづらいことだったら、全然、大丈夫だけど」
針瀬はそう呟きながら、中央に書かれたよく分からないキャラクターの輪郭をなぞる。
「えっと、心境の変化というか、全然準備を手伝えてなくて申し訳なかったからというか、その――」
心境に変化がなかったかと言われれば、当然嘘になる。天使との出会い、家族との訣別。様々な変化があり、自分は大きく変わったと言えるし、誰に話してもそれは同情され慰められ心配されることだろう。けれど、それを今の不甲斐ない現状の言い訳にしたくはなかった。当たり前のことは、当たり前にするのだ。それが私にとっては努力と呼ぶほかにない苦痛だとしても、そうして日々を勝ち取るのだと、天使と出会い普通を夢見たときに決意したのだから。
だから、一周回って、今の状況には理由が存在していないと言える。準備にこれまで参加していなかったことも、突然今日から参加したことも、連絡の確認を怠ったただの自分の責任なのだ。とはいえ、彼女もそれを責めたいというわけではなく、謝罪や弁明を求めているわけでもなさそうだった。
つまるところは、これはただの世間話のようなもので、私から見た彼女が未知であるように、彼女もまた、不登校気味な状態から急に元気に登校し始めた不可解な生徒を理解して安心したいというだけなのだろう。
ただ、それを納得させられるだけの適当な理由が思いつかなかった。
「——もしかして、愛ヶ崎さん?」
不意に、友人の名前を出されて息が止まる。遅れて、さっき吸った空気が肺に流れ込んだ。
「え、てかさ、細小路、お前愛ヶ崎と同棲してるって噂まじなの?」
対面で作業をしていた男子生徒も身を乗り出して聞いてくる。周囲の視線が自分に集まってくるように感じて、手が震えてくる。
なんて答えたらいい?ごまかしたらいいの?そもそも天使ちゃんは私と一緒に住んでいることを誰かに言ったのだろうか。私のことをどう思っているんだ?誰かに私の陰口を言った?シャンプーの匂い?やっぱり私みたいな人間が急に天使ちゃんと仲良くしているのがおかしいと思われているのか?何か言わなきゃ。何か、言い訳?ごまかすの?天使ちゃんの立場は?何か、何か、なにか――——
「——大丈夫?」
針瀬に手を包まれ、我に返る。全身が、予期していない他人の体温に驚いて震える。
「ごめんなさい。ずけずけ聞いてきて、困っちゃうよね。でもほら、同棲はともかくとしても、愛ヶ崎さんがあなたに向ける視線を見てると、何かはあるんだろうって思ってるの。それが細小路さんにとって良い変化だったならいいの。でもね、もしそれで何か困ったことがあったら、というか彼女のことで困らないことなんて無いでしょうから、私たちのことも、頼ってほしいの」
そこまで私の目を見つめながら、真摯に言ったように見えたが、言い切ると、馬鹿らしいと言った風に針瀬は自嘲気味な笑みを浮かべて、握っていた手を離した。
「頼ってほしい、じゃないか。うん。……細小路さん、これ、見てくれる?」
そう言って、針瀬は一枚のプリントを広げて見せてくる。同じ文言が、応援旗の下書きにも書かれていた。
「打倒、天使?」
「そう、この前体育委員と話し合って決めた、私たち一年二組の体育祭のテーマ。応援合戦の時に、各クラスでテーマを掲げて上級生を鼓舞するらしいんだけど、いいコマーシャリングができると思わない?」
愛ヶ崎天使という少女が、校内でも有名だということは、さすがの悠怜でも知っていたが、その彼女が所属するクラスが、そんなテーマを標榜するという突飛な提案に、呆気に取られてしまう。
「でも、それじゃあ、天使ちゃんはどうするの?」
「愛ヶ崎さんならきっと、負けないぞ~!って言うと思うけど、どうかな」
言いそうだ、と肩透かしを食らった気持ちになる。
「二組はさ、愛ヶ崎さんがどうしたって目立っちゃうし、実際あの子はどうしようもなく目を引くと思う。でも、それが、私たちが頑張らないでいい理由にはならないと思うんだ。愛ヶ崎さんの人気とかカリスマとかそういうのに媚びたり利用したりするのって、なんだか気が落ち着かないというか、気に入らないというか、それじゃあダメだって思うの」
悠怜は、自分と似た思いを滔々と語られ、鼓舞されるような、気恥しい共感の思いを覚えた。
「天使が空を飛んで行ってしまうとしても、柏手を打って讃えたり、手ぐすねを引いて待ったりするんじゃなくて、私たちだって飛んで見せようって、そんな意味のテーマなの。ぼーっと突っ立ってる人たちを踏み台にしてさ」
針瀬は、柔らかそうな頬を上げて自信気な笑みを浮かべる。この少女がこんな少年のような笑みを浮かべるとは思っていなかった。
「だから、私たちも遠慮なんてしない。天使が何だ!ってつもりでやらないと、すぐに埋もれてしまうから。だから、細小路さんも、私たちを頼ってほしい――じゃなくて、進みたいと思ったら迷惑とか遠慮とか気にしないでよ。それが私たちにとっても、一番うれしいことだから」
そうか、とはたと気が付く。どうやったって、彼らも、私も、その他の有象無象も、あの天使という少女から目を離すことなどできないのだ。目に焼き付いて離れない光のように、いつも遠く遠くで輝いている星のような存在。でも、手を伸ばして焦がれているだけが自分にできることではないのだ。
「みんな、天使ちゃんのことが大好きなんだね」
「はぁ!?そんなこと……ない、けど」
針瀬は心外だというように驚いて、それから優しくほほ笑む。
「ただ、きっとあの子は私たちの手の届くところから、ずっと高くまで飛んでいけると思う。その様を皆見たいんだよ」
手が届くと思った時に、さらに高く悠々と飛んでいく。楽しそうに、意地悪な笑みを浮かべて、飛んでいくのだろう。けれど、掴めなかった手を握りしめながら見上げる天使はきっととても美しくて、私は笑顔になってしまうのだ。
「そ、それじゃあさ、この絵なんだけど、まだ直せるかな」
悠怜は、いらないプリントを引っ張り出して、頭の中に浮かんでいた案を書き出してみる。今からすべてを書き直すのは難しいが、今ある下書きをうまく活用して、テーマを最大限アピールできるようにしたかった。
「細小路、絵上手いなぁ。いや、もう細小路先生って呼ばせてくれ!」
「え、えぇ……とりあえず、こんな感じで塗ってみたいんだけど」
「任せろぉ!いやぁ、美術部だからって任されたけど、正直不安だったんだよな。助かったぜ。俺デザインより塗り専なんよなぁマジで」
屈託なく笑う男子生徒の目を、悠怜は控えめに見つめ返してくすりと笑う。
どこか心の枷が外れたような気持ちで、悠怜は応援旗の制作に取り掛かった。上手く行くかなんてわからなかったけれど、生まれて初めて、こんなに多くの人と作業しているのに、自信を持つことができていた。
その一方で、別のクラスの応援旗の制作のために、天使がモデルとして呼ばれていたことを、悠怜はまだ知らない。後に、「動かないでいるのがしんどくてさ、予定の三倍はかかったって言われちゃったよ」と愚痴られて初めて、「いや、他のクラスに応援に行っちゃだめでしょ」と喝を入れることができたのであった。
数日経って、体育祭が二週間前に迫ったころ、HRで体育委員が全員参加で練習を開始することを宣言した。悠怜は、急な招集は反感を呼ぶのではないかと危惧したが、悠怜以外のクラスメイト達は、文化祭の練習ですでに経験があったために、悠怜の予想に反して素直に練習は始まった。体育委員と分担して指揮を執る針瀬の動きも手際が良く、悠怜は周りに合わせて動いているだけでいいなら楽で助かるなと思っていた。
「ねえねえ、この応援合戦の振り付け、陣地の左側に偏っているけど、スペースが無駄じゃない?」
移動指示が書かれたプリントを見ながら、天使が指摘する。
「右側半分は天使ちゃんが立ってるところだから、それで大丈夫だよ。天使ちゃんの方の振り付けはこれね」
「げぇ~、倒れる演技とかしたくないよ~」
「やってみてから良さそうな方に変えてみるのがいいと思う。正直、これだと愛ヶ崎さんの表現力次第だし」
針瀬が補足すると、天使は露骨にニコニコとして、やってやるぞ~と叫ぶと廊下に出て踊りの練習を始めた。すっかり扱いが手馴れてきている。
「じゃあ、とりあえず動きの確認からかな~。難しい動きは入れてないから、振り付けはあとで確認ね。とりま並んで~」
体育委員の呼び声に、クラスメイト達が移動指示の紙を見ながらだらだらと初期位置に移動する。悠怜が自分の位置を確認すると、最前列の端だった。身長から考えて後列に行くと埋もれてしまうことは分かっていたが、やはり緊張してしまう。
「おっけーい。うん、いい感じかな~。あ、横向いてみて、おっけーい。じゃあ、次が――」
指示に従って、前に進んだり陣形を四角から観客に背を見せないように輪を作ったりと変化していく。移動の様子を見ながら、自分の位置はあまり動かなくていいことに気が付く。おそらく、針瀬か体育委員が、出不精で多少運動音痴な自分を気遣ってこの位置に配置してくれたのだろうと思い、配慮のありがたさに心の中で感謝する。
「よし、完璧~。今の忘れないでね~、じゃあ、次は振り付けなんだけど――」
指示書に書かれていた振り付けは、どうやら有名な海外のオペラ調映画を参考にして作られた物のようだった。応援のために書かれた歌詞には、どことなく原曲の雰囲気が感じられる。
動きは複雑というよりも大胆な動きが多く、ダンス表現というよりも感情を伝えることに重きが置かれているように感じた。激しい動きも少なく、基本的には歌いながらのびやかに手を伸ばしたり天を仰いだりといった動作が多い。これならば、移動の少なさと合わせて、私でも踊りきることが、でき、そう――
「——はぁ、はぁ……う、うげぇぉ」
父親に殴られたときとは違う、心地よい痛みと疲労が全身の筋肉を走る。何とか最後の動きを終えて、教室の床にへたり込む。すっかり涼しくなってきたというのに額からとめどなくあふれてきた汗が顎に垂れて滴っていく。体操服の肩で汗を拭うと、じっとりと濡れた肌が触れ合って、少しだけ冷たく感じられる。
クラスメイト達が冷ややかな、というより率直に心配した様子で自分を見ていることは感じられたが、立ち上がることもできず、片手を突いた姿勢で深呼吸を続けた。
「あ~、ごめん。ちょっといきなり飛ばしすぎたね。みんな各自で不安なとこ練習しといて~。いったん休憩~」
体育委員の指示に、クラスメイトは散り散りに休憩を始める。私ほどではないが、それなりに疲れてはいるようで、あちこちからおいしそうに水分補給をする声が聞こえてくる。
なんとか息が戻って来て、私は立ち上がろうと手に力をこめる。と、その時、不意に首筋にひんやりとした感触があてられる。
「ひゃっ」
驚いて振り向くと、悪戯っぽく笑ってこちらに水筒を差し出す天使の姿があった。
「ごめん、倒れたって聞いたから心配したけど、大丈夫そうだね」
「もう……倒れては、ない、と思いたい、けど、倒れたとも言える、かな」
何それとほほ笑む天使の手を取って、ようやく立ち上がる。魔法瓶の水筒に入れられた麦茶は、喉を流れて体をじんわりと冷やしてくれた。
「天使ちゃんは、順調?」
「まぁね~。でも、合わせてみないことには、かな。目線も皆を見たらいいのか、観客を見たらいいのか分かんないし、これから詰めていかないと。ね、不安だったら、動きだけでも夜に練習しようよ。慣れたら疲れもちょっとは減らせると思うし」
天使と他愛のない話を続けていると、休憩を終えたのかクラスメイトたちが教室に戻ってきていた。
「なになに、秘密の練習会か~?やっぱ、同棲してるってマジだったの?」
確か美術部だという、前に応援旗を共に制作した男子生徒が、茶化すようにそう聞いてくる。おいやめろって、とふざけた調子で別の男子生徒が小突く。
天使は、意外なことを聞かれたといったように目を見開いて一瞬硬直したが、すぐに満面の笑みで私の肩を抱き寄せ、頬ずりしてくる。予想外の体温に、恥ずかしいほど全身が熱くなっていくのを感じて、この熱が天使に伝わっていないようにと願いながら、目を閉じてうつむいた。
「——そう、私たち友達だから、ね?」
薄目で天使を見上げると、笑顔でウインクをしてくる。この悪魔め。
教室の空気が凍り付き、示し合わせたようにヒュ~と誰かが口笛を吹いた。その音を皮切りになぜか私の方にクラスメイト達が群がり集まり、獰猛な人の波に天使は教室の外へと追いやられていった。「あ~れ~」と頓狂な声を上げて、天使が抜けていった扉を、お手洗いから帰ってきたところの針瀬が、奇異の目線で一瞥した。私はクラスメイト達の組んず解れつの渦中で頬を優しく揉まれたり、髪を撫でられたり、指先を握られたりしていた。
「悠怜ちゃん、ちょっとうらやましい~」「お肌すべすべだと思ってた~」「ね、シャンプーどこのなの?」「化粧水どこの?」「寝るのは早い方?それか朝まで?」「一緒の布団なの?ベッドなの?」「どっちがどっちで何何なの??」
「ちょもちゃち!友達だから!」
しばらく質問攻めにあって、一生分の会話エネルギーを使い果たした私は、教室の床にへたり込む。クラスメイト達は我に返り、しゃがみこんで、ごめんねと口々に慰めてくれた。
「なんか本人には聞きづらいから、聞いちゃえって思っちゃって、ごめんぐいぐいと……」
「せめてYESかNOかだけでも……」
「な、何もないから……」
反省しているのかしていないのかよく分からない調子で笑うクラスメイトの手を取って立ち上がり、応援合戦の陣形に戻る。運動できる気力もあるか分からなかったが、いっそやってやれという気持ちだった。
「いや~、衝撃の事実だったけど、むしろありがたいね。天使ちゃんの専門家みたいなものでしょこりゃあ。悠怜ちゃんの力を借りて、打倒天使ってことで、練習再開!」
強引に混乱をまとめた体育委員のかけ声で、再び練習が始まっていく。針瀬から助言をもらい、とりあえずは声出しはせずに動きの習得に集中することにした。すると、体力の減り方が見違えるように変わり、私は物事の同時進行が苦手なのかと理解した。
応援の練習をしながら、迷いなく自分の肩を抱いて同棲をばらした天使のことを思い返す。
そうか、そうだった。天使ちゃんはそういう人間なのだ。自分の決めたことを、決して後悔しない。いつだって自信満々で、こちらを照らすまぶしい存在。少しでも彼女が自分を疎んでいるのではないかと思ったことを、天使ちゃんが信じてくれた自分を卑下したことを悔しく思う。
天使ちゃんに助けられて、私は確かにこの世界に足を付けて生きようと思えた。
だから、ここからは、私が私を支えていかないといけないんだ。それがきっと何よりの恩返しで、彼女に憧れるということなのだから。
それから、一年二組は二週間の猛特訓を終え、体育祭に臨む。
悠怜は、きちんと確認したところ、本当に個人種目は玉入れにしかエントリーされておらず、失望や悲しさというよりも安堵が先に来た。クラスメイト達がリレーの練習をしているのを眺めているだけで、意識が遠くなるような気持ちになったが、楽しそうに走る天使を見ていると、少し楽になるのであった。
そして、体育祭当日、少し肌寒い秋の空気を感じながら、悠怜は目を覚ます。準備の手伝いをするということで、天使はすでに家を出ていた。
「……もう」
机に置き忘れられた水筒と、二人分の弁当箱をリュックサックに詰める。
家を出る直前、誰もいない朝日の差し込む部屋を振り返る。静かで、冷たい空気が満ちている。けれど、どこを見たって、驚いたり怒ったり嫉妬したり寂しがったり嬉しそうだったり、だけどいつも最後には笑顔になる、天使の顔が思い浮かんだ。
「行ってきます」
誰もいない部屋にそう呟いた。追いかけるように、バタンと扉の閉まる音が響く。ガチャリと鍵が閉まり、足音は楽しそうに離れていった。