第十八話 勉強をする
・主な登場人物
愛ヶ崎天使:この物語の主人公。天使ちゃん。ムード/トラブルメーカーの天才少女。あらゆる分野において平凡ではないが、同時に突出もしていない。自分が人から愛され信頼されることは当然だと思っているため、他人から向けられる特別な信頼や愛情についても無頓着である。また、自分は特別な人間だと思っている反面、自分の才能の特別さには無自覚的である。
細小路悠怜:幽霊ちゃん。様々な騒動の後、天使と同居することになった少女。学力は中くらいだが、親に啖呵を切って出てきた手前、もっと勉強しなければと思っている。
この学校には、天使と幽霊がいる。それは、細小路悠怜という元凶の少女が、噂に触れることなく学校生活に馴染んでしまったために、校内で独り歩きしている噂である。少女の噂はいつしか尾ひれがつき、地から脚を離し、いよいよ七不思議のひとつとなってしまった。つまりは、細小路悠怜は幽霊ではなくなったということだ。
人は自分の名前のもじりには敏感だが、行動や手癖をあげつらわれても、自分のことだと気づきにくい。自分の一挙手一投足を意識して、まして客観的な目線で記憶している人は少ない。他人の目線を避けることを目的に自身の行動を規定してきた少女ならば、なおのことだった。
幽霊でなくなった少女は、いったい何になったのか。それは当然、ただの生徒になった。学校に定刻通りに登校し、真面目に授業を受け、定刻通りに下校する。良い友人である愛ヶ崎天使という少女は、何かと放課後には用事があるらしく、登校を共にすることは多かったが、一緒に下校することは稀であった。
愛ヶ崎天使という少女は、やはりというべきか、相も変わらず変な生徒であった。朝ごはんをきちんと食べ、定刻よりもやや早く登校する。授業では適度に手を抜くが、見透かされたように教師に指摘を受け、渋々ながら板書を行う。生徒会から頼まれた仕事や、生徒からの相談を受けて東奔西走し、放課後は校内に限らず様々な場所で発見報告があげられる。悠怜は、新聞部の発行している週刊学内新聞を愛読し、そんな天使の動向を楽しんでいた。
徐々に夏の暑さも落ち着き、新しい生活にも慣れてきたころ、天使と同居しているアパートの一室で、悠怜はある一つの疑問に思い当たるのであった。
数式の横に二本の線を引いたとき、ふと悠怜はその式が意味を成していないことに気が付く。左も右も、全く同じ数と記号だ。計算をどこかで間違えたか、立式がおかしかったか。目線をゆっくりと戻して再確認していく。
どこにも違和感が見つけられず、一度教科書に視線を戻す。開かれているページには、大きな四角で囲まれた公式が赤いマーカーで塗られていた。枠に被さるように、定規と分度器を持ったかわいらしいキャラクターが、意思のない文章を吐き散らして、読者となる学徒に理解を促そうとしている。顔には鉛筆でひげが生やされ、吹き出しと口の間のスペースから光線を放出している。人間でないキャラクターに学生から一歩引いた目線でコメントさせて、対立心や疑問を生み出そうとする手法には、少しばかり嫌気がさすが、とはいえここまで落書きされているのを見ると、少しは同情してしまう。
自分に支給された教科書は共用であるため、書き込みが禁止されていた。とはいえ、効率の良い勉強のためには、教科書に書き込んで覚えておきたいと思い、同居人である天使に頼んだところ、快く教科書を貸してくれた。彼女は放課後はあちこちを駆け回っているらしく、家へ帰ってくる時間が遅いため、その間に復習を終えて返却する予定だった。
二人暮らしには少し狭い一室の、壁掛け時計の音がやけに大きく聞こえる。振り向いて時刻を確認すると、いつの間にか一八時を回っていた。天使が帰ってくるのにはもう少し時間がありそうだ。
態勢を戻すと、ひげ面のキャラクターと目が合う。正確には彼らには目線というものがない虚ろな表情なので、一方的に見つめたという方がよいだろう。
――彼女は、愛ヶ崎天使は、どうやって勉強しているのだろう。ふと、そんな疑問がよぎる。
彼女の帰りは自分よりも遅く、出発は自分よりも早い。つまりは勉強にかける時間は自分よりも短いはずである。さらにはこの落書き、このページだけでなく、これまでのあらゆるページに書かれており、さらに言えば、公式や重要語句のマークはされていない。おかげで新しくマーカーを引けるのだが、それはそれとして少し心配になってくる。自信家な印象のせいで忘れがちになるが、彼女はかなり集中力が低い。授業中に当てられやすい理由も、落書きをしたり、クラスメイトの表情を盗み見ようとキョロキョロしたりしているからだ。
クラスで聞くところによると、彼女の成績は入学当時から変わらず主席ということで、勉強には困っていないようだ。
悠怜は、一学期の間クラスメイトとの交流はなかったが、一応中間と期末の試験を受けてはいた。ぼろぼろの教科書で復習し、授業中は誰にも見られないように縮こまっていたが、赤点は回避することができており、教師からの注目は浴びない程度の点数を維持できていたように思う。
二学期になり、天使に連れられて普通の生活というものを手に入れることができたが、一方で学業は少し厳しくなってきた。一学期と比べて進度が速くなり、試験範囲も広くなった。天使との共同生活は正直夢見心地で、楽しいことばかりだが、その分一人の時間は減り、自習の時間もついついおしゃべりをしていると取れなくなる。それも、自習なんてしなくていいよ課題だけでさ、なんて笑う同居人のせいでもあるのだが、彼女も自分のせいで家での時間が潰れているに違いない。もし、次の試験で彼女の成績が下がってしまったとしたら、それは私のせいだということになるのではないか。
全身に雷が走ったようなひらめきに、思わず手から力が抜け、ペンがノートの上に転がる。天使が私のせいでダメになる。これまでは自分のことで精いっぱいで考えたこともなかったその可能性。彼女のために、私は何ができるのだろうか。
ガチャリと玄関の方で扉が開く音が聞こえ、学校よりは幾分かトーンの低い声でただいまと同居人が帰宅した。
きっと今日も八百屋のおじさんにやたらとサービスされたのだろう。おかえりと返しながら、天使の荷物を軽くするために悠怜は部屋を飛び出した。
「勉強会?」
悠怜の言葉に、天使は首を傾げた。
「そう、二学期の中間試験そろそろでしょ?だから、勉強会したいなって思ってさ」
二人とも入浴を終え、いつもなら目的もない話でだらだらと時間を潰して、眠くなったら眠るといった時間帯だった。
「別にいいけど、悠怜ちゃんは何の教科が不安なの?」
二人分の教材が広げられる丸机を持ってきて、筆記用具を出していると天使はそう聞いて来た。
「数学と生物基礎かな。あ、あと一学期の時休みがちだったから、古文がちょっとわかんないところが多くて。休んでたとこ、クラスの人に聞いても訳が結構バラバラでさ……あとは、情報もちょっと不安かも。勉強の仕方が分からなくて――って、ごめん。一気に言い過ぎた」
中間試験の範囲を思い出しながら、ぼんやりと不安を羅列していると、とても一回では終わらない量が漏れ出してきてしまった。
天使はお休みモードでベッドの上に寝転んでいたが、のそりと起き上がると悠怜に肩を寄せて机の上に広げた教科書を眺めた。ゆらゆらと視線を動かして、ゆっくりとまばたきした。
「もしかして、もう眠たい?」
「ううん、だいじょぶ。天使ちゃんに任せなさーい」
ややめんどくさそうに天使は片腕を上げて、そうかけ声を出した。
「とりあえずは、古文からやろっか。そういえば、明日の予習あったよね。そこから始めよう」
そういうと天使はごろりと床に寝転ぶと、精いっぱい体を伸ばして、ベッド脇のリュックからノートを引っ張り出した。
「一学期からノート変えてないから、不安なとこあったら教えて。復習しよっか。古文はねぇ、単語だけじゃなくて、文単位で覚えると忘れにくいよ」
そう言いながらノートをぱらぱらめくる天使に、一抹の不安を覚える。そういえば、天使のノートはどんな風にまとめられているのだろう。板書の文字は、練習したのかと思うほどきれいだが、教科書の落書きは野生児のように豪快だ。それに、出席率の悪い私ですら、古文用のノートは二冊目の半分くらいだった。それが一冊目に収まっているのは、どこか不安である。
これは?とノートを開いて見せてきた天使に、悠怜は絶句する。
開かれたページには、単語がびっしりと詰められていた。大学ノートの一行に単語と意味、例文がまとめられている。私なら例文の訳も含めて三行、次の単語との間に一行開けるから実質的には四行使うところだった。
「これ、見にくくない?」
「え~?見たいものが一枚に収まってる方が良いと思うんだけどな」
学年主席に言われては、エビデンスが無くても信じてしまいそうだが、平々凡々の私には到底理解できそうになかった。
とはいえ、そんな無謀に思えるノートの取り方にも、才能の違いというか、コツがある様だった。ノートを改めて見てみると、文字はびっしりと埋められているが、散らかった印象は受けない。むしろ辞書のような洗練されたまとめ方、とも言える、のか?ともかく、彼女の達筆さが、文字を詰めて書くことのデメリットを上手くかき消しているようで、大きな文字で雑にまとめられたものよりかは見やすく、彼女の言うように一枚に収まっているため、概観しやすいというのも確かだった。
さらにページをめくると、授業で行なった本文の解釈が書かれている。教師の指導方針で、配られたプリントをノートに貼る形になっているが、かなり丁寧に貼っているらしく、紙同士の隙間がほとんどできていない。なんとなくそのあたりはガサツなイメージだったので、意外に感じる。
「あれ、天使ちゃん。ここってまだ授業でやってないとこだよね」
最新の授業のページをめくっていると、本文の写しが書かれたページで、中間試験では出題されないと言われた後半部分も書かれていた。丁寧に品詞の分解や訳も済まされている。
「そこさ、いっつも授業前に全文訳してるから書いちゃったんだけど、範囲じゃないって言われたからややこしくなってるんだよね」
当たり前のように天使はそうボヤいたが、悠怜は予習の細やかさに驚いてしまった。この単元の授業前ということは、まだ天使と知り合う前のことだ。そんな前から、この範囲の訳を済ませていたのか。なぜ天使が予習にかける時間が少ないのか疑問だったが、これで一つ解決したことになる。その予習は、始まる前に終えていたからだ。それなら課題を出された後に、調べ直さずに済むのだから。
「ねえ、天使ちゃん。他の教科のノートも、良かったら見せてくれない?」
悠怜は、それから一時間ほど、天使のノートを見漁っていた。天使はノートを貸すと、分かんないとこあったら聞いてね、とだけ言い残すと、明日の英単語テストのためにか単語帳を読み始めた。
天使のノートの傾向は、単純だった。文字を小さくして、一つの単元を一ページにまとめる。古文の品詞分解は例外として、単語にマークやラインは引かず、全て黒一色でまとめる。一見すると、勉強に興味のない適当なノートの取り方だが、彼女の成績を考えると、重要な単語を覚えるのではなく、全ての単語を覚えようとしているのだろう。(後で聞いたところによると、単語を書き写すだけの暗記はルーズリーフや雑紙でしていて、使った後はすぐに捨ててしまうのだそうだ。)
特に驚いたのは、数学のノートだった。他の教科と違いかなりゆとりをもって書かれているが、教科書の設問を解く以外には使われておらず、ほとんど課題用のノートと変わらなかった。
「天使ちゃん、ノートに公式書いたりしないの?」
「え?書かない、けど。どうせそのノート見返したりしないからさ。公式なんて書いても覚えらんないよ。とりあえず問題を解かないと」
なにより頭が痛かったのは、その後に続けられた、
「数学は前日に指定された課題の範囲を一気にやったらいけるよ」
という主席直々の一夜漬け宣言だった。
「一回解いた問題を何回も解くの嫌なんだよね。答え分かってるのに」
なんて英単語帳をめくりながら言われた日には、嫌でも自分の吸収の遅さを感じざるを得ない。
思わず苦笑しながらため息をついて、予習から済ませようと自分のノートを広げる。この自由な少女は、初めから私ごときに影響されるような脆弱な構造はしていなかったのだ。なんだか心配して損したというか、心配している場合ではなかったなと気持ちを引き締め直す。
とりあえず予習のプリントに自分なりの回答を出してノートを閉じると、不意に天使が単語帳を閉じて、ベッドから液体のように身を乗り出してきた。
「いいこと思いついた。せっかく二人何だからさ、コミュニケーション英語の勉強しようよ」
それから、天使と悠怜は二人で英文を読みあった。天使は恥ずかしげもなく流ちょうに、というより少しふざけて、英文を読んだので、悠怜もわざわざカタコトの読み方にしたりはしなかった。天使は、単語を読むたびに「これ例えば渋滞の時にさーー」と書かれていない使い方をしようとするので、何度もその単語の使い方を考えることになってしまった。
「ここ天使ちゃんが言ってたとこだ!ってなるぞ~」
悪戯っぽく笑う天使に、出なかったら怒るからねと悠怜もわざとらしく頬を膨らせる。
思えば、たくさんのことを天使ちゃんに教えられてきたのだ。人の優しさ、握る手の暖かさ、人を想う強さ、自分で物事を決める大切さ。誰かと関われるようになったのも、誰かの視線を怖いものだと思う気持ちを克服できたのも、天使ちゃんのおかげなんだ。
胸の奥が暖かくなってきて、深く息を吸った。
「というか、そうだ。悠怜ちゃん、中間試験の勉強よりさ、あっちは大丈夫なの?」
「あっち?」
思わず聞かれた質問に、何のことか見当もつかない。もうすぐ十月になるが、なにか中間試験以外にイベントがあっただろうか。
「そうそう、体育祭だよ。悠怜ちゃん、運動苦手じゃなかった?」
「——体育祭?」
そういえば、最近クラスの生徒たちがすぐに下校しないと思っていた。あれは体育祭の用意をしていたのか。
普通に登校するようになったが、基本的に行事には参加しないつもりで一学期を過ごしていた悠怜は、行事の準備というものがあることを失念していたうえ、あまりにも自然にそれらの説明を聞き流していた。
「まぁ、確か悠怜ちゃんは玉入れしか出場種目が無かったと思うから、大丈夫か。あとは応援合戦の練習だね」
「応援合戦……」
人の視線は怖くないもの。克服したとは言っても、人前にはやはり出たくない。とはいえ、体育祭に出ないと言えば、この同居人は引きずってでも連れていこうとするに違いない。というよりも、私がまた行事を休むことで、私を信じてくれた彼女や生徒会の先輩を裏切ることになることが辛かった。
「あ、ははは。前途多難だぁ」
悠怜は乾いた笑いをこぼす。
不透明な少女は、どうにか都合よく透明になったりできないものかと願ったが、どこに逃げたところで、目の前の少女の無邪気な笑みに照らされてしまうようだった。