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誰も救えない天使の話  作者: 錆井鈴江
台典商高編  一年生
17/82

第十七話 誰もを救う悪魔の話 後編

・主な登場人物

亜熊遥斗あぐま はると:悪魔先輩。三年の生徒会長。冷静で気が利く男子生徒。ジョークに真顔で返してくるが、本人はおどけた顔をしているつもりらしい。


丸背南子まるせ なんこ:ニャンコ先輩。生徒会二年の書記。猫背で丸眼鏡の落ち着いた少女。誰に対しても敬語で話す。司会で噛むと三峰にずっといじられるので、嚙みそうなところには台本にマーカーを引いている。


三峰壱子みつみね いちこ:ワンコ先輩。生徒会二年の副会長。低い身長と元気で独特な口調が犬っぽい女子生徒。今は三兄弟の長女。噛みつかれると痛い。


神城怜子かみじょう れいこ:生徒会三年の副会長。自称『神以上』。文化祭の舞台発表では、脚本監修、主演、演技指導を担当した。身長が結構高い。


針瀬福良はりせ ふくら:一年二組のクラス副委員長。天使の放り出した仕事をこなしているうちに、あだ名が「委員長」になり不服。まじめで正義感が強い。地声があまり高くないのでアルトパートに入ったものの、低い音が出なくて苦労したらしい。


 この学校には、悪魔と天使がいる。それは台典商業高校の生徒の間で語られた噂の一つである。決して、どちらが良くてどちらが悪いという比較ではなく、どちらも素晴らしいという文脈で使われた噂である。

 しかし、今のところはまだ、その双頭が並び立つところを見た者はいなかった。天使と悪魔。相対するような概念を呼称された者同士、多少の意識はしつつも、学年の差や当人同士が自身の噂に対してほとんど無関心であったために直接的なかかわりを持とうとはしなかったのである。


 時が流れるのは、体感よりもずっと長いらしく、天使の入学から三か月としない内に、二人は天使と悪魔として、まっすぐと向かい合うことになるかもしれなかった。


 ところで、生徒たちにとってはもっと大きなイベントが行われていた。すなわち文化祭である。一日目が終了し、二日目に向けて準備が進められた。生徒たち、とくに商業科の生徒にとっては、一般客の動員や集客というのは授業の一環でもあり重要な要素であった。もっとも、例年通りに行けば、生徒たちの保護者や中学時代の友人たちと後輩などが訪れ、後は市内の元保護者の人々がまばらに来る程度で、良くも悪くも公立高校の規模感であり、ニュースになったり、ネット記事でおすすめされたりはしないささやかな文化祭となる予定だ。


 ともあれ、夜は明け、文化祭の二日目が始まろうとしていた。


 天使はというと、自分がどれだけの数の人間を文化祭に誘ったかなどすっかり忘れて、本番は歌わないくせにハモリのパートを口ずさみながら、いつも通り少しだけ早い時間に、楽しそうに一人でスキップしながら、台典商高の登校路を進むのであった。






「あ、そうか。そうだよね」


 天使はクラスメイト達が声出しをしながら雑談しているのを眺めながら、ふと気が付いた。


「どしたの、天使ちゃん」


 比較的天使に話しかけることに抵抗のない女子生徒が声をかける。


「いやぁ、お母さんに、今日文化祭があるって伝え忘れたなぁと思ってさ。バイト先とかではいっぱい言ってたのに、すっかり忘れてたよ」


 天使は、そもそも越してきてから、母親からかけてこない限りは、わざわざ母親に電話などはしていなかった。便りがないのは元気の証拠という言葉を信じ、できれば連絡をしないで一人で生活していたかった。その方が気楽でいいと思っていたのである。

 しかし、クラスメイトが、家族が見に来るという話をしているのを聞いて、さすがに文化祭という一大行事があるのに、一言も言わないというのは親不孝が過ぎるかと気づいた。


「え~!まだ間に合うって、電話しちゃいなよ」


「で、でも学校内だし……」


 特に携帯端末を持ってきていること自体には否定をせず、言い訳をする天使を、クラスメイトが強引に説得する。


 三コールほど着信音が流れ、通話が始まった。


「あ、もしもし、お母さん?」


 なんとなく家族と話しているところを聞かれるのが嫌で、教室を出る。やっぱ天使も親と話す時は声が低くなるんだ、と男子が少し盛り上がる。


「あら、――どうしたの、急に電話してきて」

 母親はなにか作業をしているようで、衣擦れのような音がかすかに聞こえてくる。


「あの、さ。今日、高校の文化祭で、言うの忘れてたんだけど、今日見に来れる?」


「あらら」


 母親はおかしそうに笑いだした。やはり、急なことだし、ダメだったろうかと反省しようとしたが、

「ちょうど今行こうと思って準備してたのよ。まさかあなたが、自分から誘ってくれるなんてね。心配しなくても、そのくらいの予定は把握しているわよ」


 そうだった。私の母親は、娘の名前に愛情を詰め込んで飽和させてはみ出させるほどの親バカなのだった。一人暮らしや種々のわがままを聞いてもらったとはいえ、その芯が変わるはずもなく、合法的に娘の学校生活に侵入できるとあらば、来ないはずも無かった。


「あ、そうなんだ。じゃあ、いいや。待ってるね」


 急に馬鹿らしくなり、淡白にそう言い切ると返答を待たずに電話を切る。


「どうだった?」


「あ~、なんか来れるってさ」


 良かったじゃんと笑うクラスメイトに、お母さんに良い合唱見せようぜと男子たちも盛り上がり始めた。



 九時を知らせるサイレンが鳴り終わり、長いスカートを履いていても分かるスラっと長い脚をした凛とした少女が、舞台前に置かれたマイクスタンドへと向かう。


「お集りの皆々様方、お待たせいたしました。これより、台典商業高校文化祭、二日目の開会宣言を行いたいと思います。受付を済まされたお客様は、黄色い腕章の係員の指示に従って、お進みください。現在特設席を増設中ですので、立ち見のお客様はご不便をおかけしますが、今しばらくお待ちください」


 生徒会席に他の執行部の生徒の姿はない。今も舞台袖や特別教室から、パイプ椅子や奇妙な形の椅子などをかき集めている最中である。


 生徒席の後ろに用意された一般観覧席は、今のところはまばらな着席率である。しかし、入り口には現在も長い列ができており、ゆっくりとだが席が埋まりつつある。生徒会の予想していた集客数の数倍になるほどの人数が押し寄せていた。


 合唱コンクールは生徒からの投票も受け付けるため、必然全校生徒が体育館で静聴することになる。つまり教室展示や模擬店は投票後に始めなければならず、午前のうちは校舎自体が立ち入りを禁止されるのだ。逆に言えばこの方式は、特に午前において、今回のような集客数は予期していない。本来的にこの文化祭は広く門を開けている割に、内輪の行事なのである。二日目に招かれた、生徒会席の反対側の来賓席に座る自治体やPTAの役員方も、初めて目にする盛況具合に開いた口がふさがらずにいる。


 生徒会執行部は実行委員と連携し、即座に座席の増設のために動き始めた。開会式を神城に一任し、体育館を去っていった亜熊の顔は、とても楽しそうに笑っていた。


 収まらない動揺と騒がしさに生徒や来賓の方々の視線が奪われないよう音が割れないように気を付けながら、神城ははっきりとした口調で話し続ける。


「そうですね。もう少し時間がありそうですから、昨日の副会長に倣って、私も少し宣伝をしようかと思います。ええと、一年生の皆さんの中には、はじめましての方もいるかもしれませんね。しおりには書かれていますが、私は生徒会副会長を務めております、三年二組の神城玲子(かみじょう れいこ)と申します。神を越える、神以上の神城と覚えてください。本日午後の演目である、オペラ風演劇——レイコ・カミージョの華麗なる復讐——でプリマドンナを務めさせていただいております。ぜひ皆さま、お越しくださいませ。最高の観劇体験をお約束いたします」


 恥ずかしげもなくそう言い切って、神城は深くお辞儀をした。不自然なほど自然に笑みを張り付けて、神城は司会を続ける。


「もちろん、これより行われます午前の演目、合唱コンクールもまた、一年生の皆さんの努力やチームワークのすばらしさが心を打つことでしょう。コンクールと銘打っております通り、各クラスの合唱に、皆様でご投票いただき、最も素晴らしい合唱を見せてくれたクラスを決定いたします。発表順につきまして、しおりをお持ちでないお客様におかれましては、台典商高公式ブログや公式SNSアカウントに掲載しておりますので、そちらをご覧いただけますと幸いです」


 神城は、ゆっくりと話して人の波が収まっていくのを待ちながら、だんだんと焦りつつあった。こちらは入学式や卒業式の人数間で会場を用意していたのに、実際には人気アイドルのライブのような動員数だ。いや、そうか。人気アイドル。


 余裕そうに笑みをたたえて校長ばりに話を引き延ばしていた神城の目に、入り口で両腕を上げ、大きな丸印を作る亜熊の姿が見えた。

 いったいどんな方法を使ったのやら、ともかく悪魔は大丈夫と笑っている。ならば、それを信じるのみだろう。


「たくさんのお客様にお越しいただき、生徒一同感無量と言ったところでございます。ぜひ台典商高の生徒たちの思い、努力、協調の結晶をご覧いただければと思います。生徒の皆さん、共に最高の文化祭を作り上げていきましょう!」


 神城の言葉に、生徒たちも歓声を上げる。その多くは、ようやく話が終わりそうだということに安堵するような、自分を奮い立たせようとするようなものだった。


「それでは、ここに、台典商高文化祭二日目の開会宣言を行います!皆さん、良い一日を」


 神城が礼をすると、万雷の、昨日と比べると兆雷のとでも言おうか、拍手が体育館中に響いた。むしろそれはプレッシャーや緊張ではなく、神城玲子の心を鼓舞したのだった。




 六クラス分の合唱を生徒席で聞いた後、天使は舞台袖に移動した。薄暗い舞台袖では、明るくライトで照らされた舞台が際立って見える。反対側の舞台袖で整列するクラスメイト達の顔がこわばっているのが、暗い影の落ちた中でも読み取れた。


「ね、トリって緊張するね」


 指揮者の少女が小さな声で話しかけてくる。入場の都合で、天使は彼女と二人だけで下手側の舞台袖で待機していた。


「いつでも変わんないよ。ボク達はいつも通りにやるだけ、でしょ?」


 薄暗い中でどれだけ伝わっているかは分からなかったが、できるだけ平静を装って、天使はほほ笑んだ。指揮者の少女は安心したように、小さく頷いた。

 外から大音量の拍手が聞こえてくる。客席にいたときはあまり気にならなかったが、舞台側に来ると、観客の多さが嫌でも伝わってきて全身の毛が逆立つ感覚が分かる。


「よし、行こっか」


 前のクラスの退場を確認して、天使は指揮者の少女に手を伸ばす。少女はその手を両手でしっかりと握り、笑い返した。


「続きまして、最後の発表となります。一年二組です。意気込みを紹介します――」


 クラスメイト達が舞台袖から壇上に整列していく間に、書いた覚えのない意気込みが読み上げられていく。おそらくクラスの誰かが書いてくれたのだろう。天使もピアノに楽譜を置いて、準備を整える。


「——今日、みなさんに()()()()()を聞いていただくために、団結して練習してきました。皆さんの耳を奪い、目を奪い、一位をつかみ取りたいと思います」


 淡白に読み上げられたそんな意気込みの一節が、天使の耳に飛び込んできて、ふと、楽譜をめくっていた指が止まる。視線を上げると、クラスメイト達は楽しそうに、けれど対抗心を燃やすように、天使の方を見つめていた。


 天使は驚いたように目を見開き、鼻から大きく息を吸うと、負けじと満面の笑みを浮かべる。


 指揮者とアイコンタクトを取り、まっすぐに正面の客席の方を向く。一瞬まぶしいライトに目がくらみ、だんだんと暗闇の中で自分たちに注目している人々の様子が浮かび上がってくる。


 天使はぎゅっと両手を握りしめる。握りしめた手が思わず震える。数えきれないほどの視線が、こちらに向いている。慕うように、期待するように、憧れるように、あるいは、試すように。


 怖い?


 いいや、違う。



 ――自分は今、これ以上ないほどに興奮している!



 天使はゆっくりと頭を下げ、礼をする。頭の裏に突き刺さるように、豪雨のような拍手が聞こえている。高鳴る胸を落ち着かせるように、ゆっくりと頭を上げる。まるで羽が生えたように全能感に包まれていた。あの意気込みは、クラスメイトからの挑戦状なのだろう。ならば、私も全力で応えなければならない。


 スカートを椅子にかからないように整えてから腰を落ち着ける。そっと指を乗せた鍵盤から伝わってくる冷たさが、思考を明瞭にしてくれる。指揮者が両手を上げると、ただ一音にまとまったクラスメイトの脚の動きの音が響く。


 指揮者の動きに合わせて、静かに、けれど確かに音を紡ぐ。一つ一つの叩いて鳴らされるその音が、一本の糸のように調和していくようなイメージで、穏やかに、目を引くような芯の強さを残して弾いていく。


 女声の混声、男声を加えて四部となり、対話するように、サビへと近づいていく。


 わずかにクラスメイト達の声が硬く感じられ、ちらりと顔色をうかがう。ポップス寄りの楽曲を採用した難点として、どうしても歌詞が棒読みに近くなってしまうところが挙げられる。特にサビは感情を込める部分ほど複雑になり、稚拙な印象を与えてしまうことになる。


 なんだいなんだい。人を煽ってきたって言うのに、そんな不安げな顔で歌うだなんてさ。


 天使は落ち着いて深呼吸をすると、ばちりと視線の合った指揮者にウインクをして、鍵盤に笑顔で顔を落とした。






 ――これは、()()()


 針瀬福良は、焦っていた。


 一番のサビを終え、改めてしっかりと息を吸いなおす。緊張で声がしっかりと出し切れず、音程にも不安が表れていることは、自分でよくわかっていた。けれど、それを適切に調整し、クラスメイト達の指針となるほどの歌唱力は自分にはなかった。


 悪い合唱にはなっていないはずだ。でも、足りない。歌声の伸びが足りず、客席の中空で消えていく声が、余計に不安を煽る。今はなんとか不安定な合唱を最後まで保つことに集中しなければ、たちまちに瓦解してしまう。緩やかに沈む船に乗っているような閉塞感に、指先が冷たくなっていく。


 ふと、指揮者が驚いたように頭を揺らしたように見えた。


 頷いた?誰に――


 疑問が頭を回る前に、指揮者の腕が大きく振られる。なるべく大きく振ろうとするように、わずかに膝が曲がる。ほんの一分ほどの時間ではあったが、緊張から硬直状態にあり血液のめぐりが悪くなっていた脚に刺激が入り、不自然によろめいたような形になりながらも、指揮者は笑って、伴奏者に手を振る。


 サビ前、本来なら盛り上がるサビに向けて少し優しい声色に変わるところだ。


 指揮者の手が頂点に達したところで、鍵盤がその調子を強める。

 激しいだけではない、わずかな違和感——音程がリハーサルとは違う、ソプラノに合わせた伴奏が、今はアルトに合わせられている。まるで自分の存在を示すように、メロディラインをなぞり、ソプラノとピアノで合唱を完結させようとするように主張してくる。


 ソプラノパートが一瞬驚いたように声を震わせながらも、すぐに負けないように声を大きくする。さっきよりも洗練された強く自分たちを主張するような声だ。


 サビに入っていく。伴奏はさらに勢いを増していく。テンポは変わっていないのに、荒々しく一つ一つの音を粒立たせるような弾き方に変わっていく。


 いつの間にか、天使が立ち上がっていた。屋根の隙間から天使の顔がのぞいている。こちらを見て、そして、不敵に笑う。かかってこいというように。


 無茶なことをするものだ、といつもならば走り去っていく彼女を呆れた顔で眺めるのだろう。


 だが、今はそうじゃない。


 やってやる。やるしかない、ではなく、自分の意思でやってやるとそう強く念じる。これで失敗したら、全部彼女のせいだと罵ってやろう。そんなくだらない言い訳も噛み潰して、やってやるのだ。


 声の落ちた先など、もう気にならなくなっていた。今私は、私たちは、天使と戦っているのだ。天使に追いつくためではなく、天使を突き放して笑い合うために後ろなんて振り向かずにただひたむきに、前へと走っていく。そうしてようやく、私たちは彼女と()()できるのだ。


 指揮者が、まるで鏡のように思えた。自然と体が動いてしまう。気持ちを抑え込めきれないのだ。不安だ。それ以上に、楽しい。見回さなくたって分かる。声を通して、その感覚が共鳴していることが伝わってくる。


 上手く歌えていたのか。結局それは分からなかった。ただ、一つ一つの拍子が星空のように数えきれないほど炸裂している拍手の音が、どこか遠いところで聞こえているような感覚だけが、まぶしく自分たちを照らす電飾の光と共に記憶に残っていた。







「どのクラスも、素晴らしい合唱でした。皆さま、生徒たちの素晴らしい思い、努力と協調の成果を讃えて、改めて盛大な拍手をお願いします」


 司会のアナウンスに、会場が再び轟音の喝采に包まれた。


「それでは、これより投票を始めたいと思います。休憩終了後、黄色の腕章を付けた実行委員が投票箱を持って巡回しますので、皆さまお好きな箱へご投票ください。投票は昼休憩が終了する一三時で締め切りとさせていただきます。生徒の皆さんも忘れずに投票するようお気を付けください。なお締め切りまでは投票箱を入り口付近にも設置しておきます。

 三十分の休憩の後、教室展示を開始します。担当の生徒は準備に移ってください。舞台発表の開始時刻まで、体育館は休憩スペースとして開放しております。座席はご自由にお使いください。なお、館内は食事禁止となっておりますので、食品の持ち込みはご遠慮ください」


 淀みなく事務連絡がアナウンスされ、生徒たちもだんだんと体育館から出ていく。


「あ、天使ちゃん、ね、これ悪いんだけどさ。()()お願いしてもいい?」


 天使は人波の中で、昨日どこかであったような上級生に話しかけられる。軽く相槌を打ちながら、首掛けの小さな看板を受け取る。一つ受け取ると随分と目立つようで、いつの間にかセレブが大粒のネックレスを誇示するように首に看板がぶら下がる。


 天使は体育館を出る人たちの邪魔にならないように壁際にもたれかかり、スカートのポケットから小さな紙きれを取り出す。紙面にはいくつかの数字と記号が矢印で結ばれている。



「おーっす、天使ちゃん。何してるんだ?」


 突然目を落としていた紙切れを奪い取られ、天使は顔を上げる。そこには悪戯っぽく笑う小柄な少女の姿があった。


「ワンコ先輩!あ、その紙、返してください!()()()()()()()()()()()()()、まだ覚えきれてないので」


「2茶→お化け→ボウリングのピン?→3絵。ふーん」


 三峰は絵柄をざっと見回すと、くしゃくしゃにして自分のポケットにしまう。


「ぅわーっ!ちょ、ちょっと、ワンコ先輩?」


 慌てて紙を取り戻そうとする天使を、三峰はひらりと躱して、後ろから両肩を掴む。


「宣伝活動偉いな、天使ちゃん。でも、お姉さんからのお願いだ。これからは、回る場所を教えるときは、ランダムに教えてあげるんだ。おすすめを一個だけでもいいからさ。いいかい?」


 いつもより少し低い、耳元でささやかれた三峰の言葉に、天使は小さくは、はいと返す。


「よぉーし、偉いなぁ。ああ、それと――」


 三峰はさらに一つだけ伝言すると、人の波を抜けて颯爽と去っていった。




 体育館を出ようかと思案していた天使のもとに、客席で休憩していた人たちが集まってきた。


「おお、天使ちゃんじゃないか」


「あ~~~~~~~~~~~~、八百屋のおじさん。ボクの合唱見に来てくれたんだ」


 天使は眼球を一周ぐるりと回してなんとか顔と記憶を一致させた。


「そうそう、ところでその看板は何だい?」


「ああ、これは教室展示の広告看板だよ。おすすめはねぇ、ここかなぁ」


 三峰に言われた通りに適当な一枚を引っ張って見せる。次々と集まってきた町内の人々に、それぞれ違うところを紹介していく。


「あ、天使ちゃんだ!」


 ようやく町内の人たちから解放され、両手が差し入れのペットボトル飲料の入った袋で塞がったところで、元気の良い声がかけられる。


「あ、優二くんと、今日はご家族ご一緒なんですね」


 振り向くと、幼児を抱えた男性が困ったように少年の後を追いかけてきていた。


「ああ、あなたが噂の。優二の父です。息子が世話になっているようで、ご迷惑をおかけしていたらすみません」


 幼稚園児と思われる抱えられた幼女は、不機嫌そうに父親の頬をぺちぺちと叩いている。


「迷惑なんかかけてねーし!ね、天使ちゃん、姉ちゃんのとこ見に行こうよ」


「おい優二、あんまり駄々をこねるんじゃないよ。すみませんね、どうも娘の展示に連れていこうにも、末の娘を連れたままお化け屋敷に入るのはダメだ、と止められてしまいまして、こうして駄々をこねているんです」


 父親はそう苦笑いしながら、頬を娘に引っ張られる。


「じゃあ、一緒に行こっか」


 天使は看板が足と体の間に挟まらないよう慎重にかがむと、優二と視線を合わせて微笑んだ。


「今からちょうど行こうと思っていたので、気にしないでください。ほら、私もいろいろ巡らないとなんで」


 天使は少年の手を取って、看板を軽く掲げると照れたようにそう笑った。






 そうして、少年を連れていくつかの展示を回り、昼休憩が終わる三十分ほど前に、昼食を取るという親子と別れた。大量にぶら下げていた看板は、教室に向かう中でまた増えていったが、丸背のクラスの教室での遊戯体験をするときに、邪魔だからという理由で外されたかと思うと、体よくどこかに処理されてしまった。差し入れの飲料も色んな生徒に配っていくとたちまち無くなった。


 天使は一人、二階の廊下を歩く。文化祭の喧騒が嘘のように、長く見える廊下には誰もいない。教室棟と特別棟を繋ぐこの棟には、職員室や受験を控えた三年生の教室が位置しており、文化祭では二階以上のフロアの通り抜けが禁止されていた。文化祭の最中でも仕事をしなければならない教員への配慮でもあり、単純に迷い込む客の防止でもあった。


 廊下を曲がり、職員室と反対に進み、突き当りにある部屋に辿り着く。


 ごくりとつばを飲み込んで、その扉をノックする。脳裏に三峰の残した伝言が反響する。


「それと――生徒会長が、昼休憩が終わる前に生徒会室に来てほしいって言ってたぞ」


 ノックからあまり間を置かずに、開いていると中から返答がくる。


「し、失礼します」


 少し緊張して扉を開くと、カーテンで閉め切られた室内で、長方形に並べられた机の奥で一人の男子生徒が顔を上げる。亜熊遥斗、悪魔の生徒会長。手にした分厚い冊子は、午後の舞台発表の台本の様だった。


「文化祭は盛況なようでなによりだ」


 扉を閉めて立ち尽くす天使を、亜熊は台本を置いてまっすぐに見つめた。


「こうして話すのは、入学式以来ということになるのかな」


「は、はい」


 天使は、手近な椅子に座るべきかどうか悩んで、目線をせわしなく動かしながら頷いた。

 生徒会長の視線には、底知れないものを感じた。子犬を被っている光峰とはまた違った、何を考えているのか読み取れないのに、自分のことは手に取るように理解されているような感覚だ。けれど、それが不思議と嫌な感覚にならない。直接会うことは入学式以来だというのに、覚えられていることに怖いというよりも、なぜか嬉しく思った。


「なぜ君を呼び出したか、心当たりはあるかな?」


 亜熊が聞くと、天使は思い出すように視線をそらしたが、正直なところ思い当たる節は数えきれず、むしろ思い出せなかった。


「まぁ、君を咎めたくて呼んだわけではない。むしろその逆だ」


 天使が目線を向けると、生徒会長は静かに立ち上がり、ゆっくりと歩み寄ってくる。教室の電灯に照らされた長い影が、だんだんと短くなって天使の足元で交差する。



「君を、生徒会執行部に勧誘したい」



 不意なその提案に、天使は言葉を失って硬直する。口をポカンと開けたまま固まる天使の頭を、亜熊は軽く笑いながら丸めた台本でポンと叩いた。


「なに、ただの提案だよ。君が嫌なら受ける必要もない。ただうちの生徒会はなぜか向上心が強くてね、いつもメンバーはスカウト式なんだ。かくいう俺も、神城に誘われて渋々立候補したんだ。三峰もそうだし、丸背は三峰が生徒会に入る交換条件で立候補してもらった。選挙もあるが、基本的にはそうして選ばれたメンバーの信任投票だよ。だからあまり役職に大きな違いはない、と俺は思っている」


 我に返って亜熊を見つめる天使から、少し目をそらすようにして亜熊は続ける。


「つまりは、君を生徒会長にしたいと思って勧誘しているわけではない、というわけだ。だから、あまり重くとらえないでほしい。ただ君に、俺たちの仲間になってほしいという誘いだ。どちらかと言えば、三峰と丸背の、ということにはなるかもしれないが」


 またぱくぱくと音にならない声を出す天使の横をするりと抜けて、亜熊は廊下へ出ていく。


「今すぐに決めなくていいさ。そうだな、文化祭の片づけが終わった後にでも――」


「あ、あの!やります、やりたいです!」


 穏やかな笑みで去っていこうとする会長を呼び止めるように、天使は何とか声を絞り出した。予想外の誘いに思考が止まってしまっていたが、これ以上の好機もないと思った。

 いまだに生徒会長の真意は読み取れない。天使は、自分が魅力的で才能にあふれていて大人気なことは自分でよくわかっていたが、彼が自分を誘った理由は、そうした生徒たちの見ている自分の魅力とも、天使自身が演じている虚像のどちらにもないと感じられた。


 彼は一体、私の何を見ているのか。彼の視線の先、心の空白に、堆積した思い出で隠された誰かの足跡があるように思えてならなかった。


 そして私は、そんな彼のどこにこれほどまで心を昂らされているのだろうか。


 ただ、それを知りたいと思った。


「即決ありがとう。だがまぁ、後で改めて聞くよ。気持ちが変わらなければ、片付けが終わった後にでも生徒会室に来てくれ。二十時くらいまでは残っていると思う」


 それだけ言うと、丸めた台本を振って亜熊は去っていく。


「あの、舞台発表見に行きます!」


 声が届くと、亜熊は少し足を止め、振り返るとわずかに口角を上げた。


「君ほどは集客できないけどね、期待に応えられるよう頑張るさ」


 そう言って再び歩き始めた。天使はその背が見えなくなるまでじっと彼を見つめていた。




 遅れて体育館に戻った天使は、超満員の人波をなんとかかき分けて自分の席へと戻った。

 観客席に対して生徒席はまばらに埋まっており、まだ多くの生徒が教室展示を見ていることが分かる。舞台の幕はまだ降りているため、舞台発表は始まっていないのだろう。天使は安心してしおりで発表順を確認した。


「あれ、愛ヶ崎さんも舞台発表見に来たんだ。意外、でもないか」


 天使が目線を上げると、隣席に針瀬福良がやってきていた。


「あ、委員長。思っていたより見てる生徒少ないんだね」


「まぁ、三年生なんてほとんど面識ないもの。それより、もっと前で見ないの?」


「前?」


「ほら、舞台発表の三年生は準備で席を空けているから、前の方の生徒席が空いてるのよ」


「でも、終わったら帰ってくるんでしょ?」


「大丈夫よ。みんなまばらに座って、なんとなく最後まで見れると思うから。ほら、あそこの二年生とか」


 針瀬の示した先では、数名の生徒が一つの椅子にたむろっていた。


「そっか。じゃあ、見に行っちゃおっかな」


 怒られたら委員長のせいね、と笑って二人は最前列に向かう。


「あ、ごめん、ちょっと私お手洗い」


 そう言って立ち去っていく針瀬にぼんやりと相槌を返そうとしたとき、汽車が発車するときのようなベルの音が鳴り、ゆっくりと舞台の幕が上がっていく。天使はすっかり気を取られ、舞台を注視した。


 そうして、天使は舞台発表を全力で味わった。


 時々役者の生徒と目が合ってウインクされたり、神城の咥えていた造花のバラを投げ渡されたりしながら、天使は目を輝かせて先輩の舞台発表を鑑賞する。一舞台終わるごとに発表を終えた役者が最前列の天使の周りに集まっていき、ぬいぐるみのようにもみくちゃにされながらも、家族のように笑い合っては拍手を送った。


 三つの舞台を見て、ようやく最後の演目となる。幕が開き、メルヘンチックな背景や小道具が目に付く。おそらくは『不思議の国のアリス』をモチーフにした脚本なのだろうと想像がついた。


 シリアスな雰囲気に身内寄りの学年団教師をいじる様な小ネタを挟みつつ、舞台は進む。主人公を務めている生徒を見ながら、天使はおそらく演劇部の人なのだろうと感じた。少し先輩が主人公でないことに落胆しつつも、生徒会の多忙さを考え当然かと納得する。


 主人公は奇妙な現象や登場人物に翻弄されながら、不思議な国の裁判場へとたどり着く。そこではハートの女王——をパロディしてかクラブの女王が待っていた。緑色のデザインにクラブの冠が、絶妙にブロッコリーに似ていて、会場の笑いを誘う。


 話の通じないクラブの女王と主人公が口論していると、見かねて奥からクラブのキングが現れる。またブロッコリーの王様が来るのかと身構えていると、茹で上がったように真っ赤な衣装の、両腕にザリガニのように大きなハサミを付けた亜熊が登場した。一応被っている王冠がむしろミスマッチだ。


 天使は思わず吹き出し、周りで見ていた三年生の生徒たちも手をたたいて笑う。全体で見ればそれなりに格好はついているのに、壊滅的にダサい衣装の亜熊は、真面目に議論を進めていく。キングとクイーンは腕を組んで去っていくが、色合いが不格好で再び笑いを誘う。しかし、天使は息の合ったその動きに、なぜか少しだけ心のざわめきを覚えた。


 展開は進み、話も終盤に入っていく。極刑判決となった主人公は、世界に破滅をもたらす禁断兵器の起動のために守護者であるクラブのキングと決闘することになる。天使はどうしてそんな展開になったのか全く思い出せなかったが、とりあえず面白いからいいかと思った。


 剣が抜かれる金属音のSEとともに、亜熊は腰の剣にハサミを伸ばすが、ハサミの先はハリボテらしく、隙間から柄が抜けて掴めない。あえなくキングは打ち砕かれ、主人公は禁断の秘宝を手にするのだった。ところが、なぜか兵器は起動せず、危険を悟った主人公は不思議の世界から命からがら脱出する。目を覚ました主人公はもうこんなのこりごりだと肩を落とし、わずかに現実へ不思議の世界が侵食しているような匂わせを残して、暗転していった。


 B級すぎると天使は思ったが、そもそも文化祭の演劇なんてその方が良いのだと、神城のやたら完成度の高いオペラを思い出しながら笑う。


 盛大な拍手と野次の中、再び舞台が照らされ、役者の生徒たちがスポットライトで照らされた。順に現れていき、少し身軽になった亜熊も前に出てくると、最前列で手を振る天使に、軽く手を振り返し、仰々しく礼をして去った。天使の周りで見ていた三年の女子生徒が黄色い歓声を上げる。


 そうして、幕は下りた。





「まぁ、こんな格好で挨拶をする無礼を許していただきたいところではあるのですが、今日は文化祭ということで、お祭りですから大目に見ていただけると幸いと言ったところです」


 クラブのキングの真っ赤な衣装のまま、ハサミは外して王冠を被った亜熊が、閉会の挨拶を始める。舞台発表を見ていた生徒たちがくすくすと笑う。


「閉会宣言の前に、いくつか連絡を行います。まず、片付けにつきまして、本日は例年よりもたくさんのお客様にお越しいただきました。お忙しい中足を運んでいただきましてありがとうございました。本来ならば、閉会後すぐに片づけに移るのですが、お客様方の支度を待ってから体育館の片づけを開始したいと思います。担当の一年生は、閉会後一時間後に体育館に集合してください。それまでは担任の先生方の指示に従って、待機をお願いします。

 続いて、合唱コンクールの投票結果についてです。投票の結果を三位から発表していきます」


 一年生はごくりと息をのむ。


「まず三位は、七組」

 商業科の生徒たちが手を取り合って喜ぶ。


「続いて、二位は、五組」

 その少し後ろの列の生徒たちが雄たけびを上げる。


 合唱コンクールは例年、商業科のクラスが上位を占めることが多かった。単純な歌唱のうまさというよりも、魅せ方や時事にあった曲選びで巧拙が出るのだ。


「そして、栄えある第一位は――」


 残る商業科の六組と八組の生徒が互いに視線を交わす。普通科の生徒は一様に視線を落として、興味なさげにしていたが、天使は手を握りしめて必死に祈っていた。そんな様子を針瀬は呆れるように苦笑いしている。



「——二組」



 ざわざわと驚きの声が伝播し、当人たちも実感がないようにきょろきょろと互いを見合う。天使は無邪気に喜び、呆然とした様子の針瀬とハイタッチを繰り返す。


「代表者の――針瀬は前に」


 我に返った二組の生徒が、委員長!よっ委員長!とヤジを飛ばす。だから委員長じゃないって、と小さく怒りながら、針瀬は表彰状を受け取り、お辞儀した。


「素晴らしい発表を見せてくれた一年二組に、改めて盛大な拍手を」


 亜熊が促すと、空を割るような拍手で体育館中が包まれる。


「合唱コンクールでは、入学して間もない一年生の団結した姿が見られました。それぞれさらに研鑽し合って、十月の体育祭では、さらなる飛躍を見せてくれることを期待しています。それでは、これを持ちまして、台典商高文化祭の閉会宣言とさせていただきます。生徒の皆さん、本当にお疲れさまでした。そして来場してくださったすべてのお客様、本日はありがとうございました」


 王冠を外し、深く礼をした亜熊を再び惜しみない拍手が注がれた。


 そうして、様々な波乱や騒動を越えた文化祭は終わっていくのであった。






 それから、教室で小さな打ち上げが行われた。


「お、お前らぁ、よぐ頑張っだなぁ」


 なぜか半泣きでドリンクを持ってきた担任を早々に追い出し、生徒たちは乾杯する。


「二組の優勝を祝して~」



「「「「「かんぱ~い!!」」」」」



 思い思いの飲み物を交わして笑い合う生徒たちを、天使は輪の少し外でぼんやりと眺めていた。ちびちびとスポーツドリンクを飲む天使のもとに、針瀬がやって来て飲み物を差し出す。


「ほら、乾杯」


 天使は軽くペットボトルの側面をあてる。針瀬は満足したようににこりとほほ笑む。


「こんなこと言うと愛ヶ崎さん調子に乗りそうだから、あんまり言いたくないんだけど――ありがとね」

 天使の横に腰掛けて、針瀬はそう言った。


「愛ヶ崎さんの伴奏のおかげで、みんなずっと良い合唱ができたと思う。自分でもどんな感じで歌ってたか覚えてないんだけどさ。だから、功労者がボヤっとしてないでさ、胸張ってなよ。その方がずっと、あなたに似合うから」


 その時、ガラガラと教室の扉が開き、片付けに向かうという連絡が入った。


 差し出された針瀬の手を取り、天使も体育館の片づけに向かった。スポーツドリンクは、まだ飲み始めたばかりだった。






「で、勧誘はうまくいったのか?」


 生徒会室の長机の上で伸びをしながら、三峰が聞いた。


「まぁ、彼女次第だな」


「私だったら、生徒会長に勧誘されるなんて、怖くて行けませんね」

 丸背が書類をまとめながらつぶやくと、横から三峰が抱き着く。


「そんなこと言って、結局来てくれたぞ?やっぱりツンデレなんだな」


「違います。ワンコが先輩方に迷惑をかけないか心配になっただけですから」


 頬ずりしようとする親友を引きはがしながら、丸背がそう言っていると、生徒会室の扉が叩かれる。


「どうやら、上手くいったらしい」


 亜熊が開いていると返答すると、扉が遠慮がちに開かれた。怯えた子猫のように慎重に、天使が扉をくぐる。


「おーっす、天使ちゃん。生徒会室へようこそ!」


 三峰が快活にあいさつした。天使は三峰にこ、こんばんはと挨拶をすると、そろりと生徒会長の方まで歩いていく。


「あ、あの。私、色んな人に迷惑かけてばっかりで、役に立てるか分からないし、それでも、皆さんと一緒に、生徒会執行部、させてほしいです。だから、その、お願いします!」


 天使が頭を下げると、ツカツカと神城が歩み寄ってきた。不思議そうに顔を上げた天使の頬をぎゅっとつねり上げてぐるぐると回す。


「あたたたたた、な、何するんですか!?」


「あのねぇ、あなたが迷惑かけてばっかりで発展途上でトラブルメーカーなことぐらい、分かってるわよ。分かったうえで、会長は勧誘したの。それってすごいことなのよ。だから、ほら」


 神城は強引に天使の口角を持ち上げる。


「あなたは自由でいなさい。それが迷惑になるとしても、悪いことではない。そこがあなたの良いところなのでしょうから」


 それだけ言い捨てて、神城は作業に戻る。天使は持ちあげられた頬を自分で何度か触る。


「まぁあまり持ち上げられても困るが、大体言いたいことはそんなところだ。愛ヶ崎、俺が勧誘したのは、紛れもなく君だ。他の誰でもない。だから、君は君のままでいるといい。あまり気負わないようにな」


 天使は、はいと元気に返事をする。


「まぁ、しばらくは一緒に行動するということもないのだがな。こちらから頼みごとをしたり、あるいは呼び出したり。今はただ個人的に誘ったに過ぎないから、そうした手順を踏まないと、生徒会室に拘束していると先生方に怒られてしまうんだ。詳しいことは何か頼みごとができたときに伝えるよ。できれば無いことを祈りたいが、まぁ、おそらくすぐに頼むことになりそうだ」


「逆に困りごとがあったら、いつでも私たちを頼るんだぞ」


 三峰は軽く敬礼のようなポーズを取って笑う。天使も笑顔で返事をした。


「改めて、よろしく頼む。愛ヶ崎」


「はい!」


 亜熊が差し出した手を、天使はしっかりと握り返した。その手が少しだけ暖かく感じられたのは、天使の手がとても冷たかったからかもしれない。


 夕焼けの光が、生徒会室にまぶしく差している。天使は合唱の時に感じたものよりも大きな昂りと期待を全身で感じていた。


 ここから、何かが始まっていくような、何かに向けて一歩踏み出したようなそんな気がした。











 天使が生徒会室を去って、ふと今度は亜熊が三峰に尋ねる。


「そういえば、合唱コンクールの件だが、結局うまくいったか?」


 三峰は、そういえばといった様子で亜熊の方を向く。


「そうそう、実行委員に頼んだら速攻でやってくれたぞ。結果もまぁ一応は予想通りって感じだったな」


 二人の会話を聞いて、神城が眉根をひそめる。


「なにか怪しい話ね。不正でもしたわけ?実際二組の合唱は素晴らしかったでしょう。多少トリで有利を取ったところはあるのかもしれないけれど」


「そうか、執行部は投票しないもんな……いや、むしろ逆だよ。公平になるようにしたんだ」


 亜熊は生徒会室の端に捨て置かれた投票箱を持ってきた。八種類に分かれた投票箱は使いまわされてぼろぼろになっていたが、不自然に真新しい入れ物が追加されていた。


「あれ、その投票箱、入れるところが()()あるわね。クラスは八個でしょう、どういうことなの?」


「まぁ念のための案だったのだが、生徒票だけでも、もしかすると愛ヶ崎の影響で投票が偏るかもしれないと考えたんだ。だから、投票箱に八クラス分に加えて、天使ちゃんボックスを作った。合唱の質に関わらず彼女(天使ちゃん)に投票された票を除くためにな。まさか、あそこまでいろんな人がやってくるとは思っていなかったから、朝はさすがに面食らったが、目論見はまぁ成功だったというわけさ」


「なんと、天使ちゃん票は二組の倍近くあったぞ」


「二組の倍、ということは、結局二組の得票率が単クラス辺りでは一番高かったということですか」

 丸眼鏡がクイと上がる。


「そう、つまり結果は特に変わらないわけだ。彼らの努力には敬意を表するよ。同時に、彼女の脅威性を確認できた。生徒会としては介入せざるを得ない」


「それでやることが勧誘なんだから、変わり者というか、相変わらずお人よしね」


「そうすることが正しいと思ったから、そうするまでだよ。神城だってそうするだろう?」


 神城は、馬鹿言わないでというように肩をすくめる。


「俺は俺にできることをするだけだ。正しい生徒会長としてね」


 亜熊はそう言って、表情の読み取れない笑みを浮かべた。


 夕焼けの空は太陽が沈み、暗く染まっていった。



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