聖女様があらわれた日
ハイデン王国で1週間ほど続いた大嵐が、ようやく止んだ日のことだった。嵐の被害を視察する為、今年17歳になった王太子ヘルムート・フーゴ・フリードリヒ・リルケ・フォン・ハイデンは、飛竜の背中に飛び乗った。
「絵描きよ、かっこよく描いてくれよ!」
空からの視察に行くだけなのに、頭のてっぺんから足の先まで隙なく整っている。2時間かけて仕上げた赤毛には、一筋の後れ毛もない。雨上がりの晴天のもと、不死鳥もかくやとばかりに輝いている。
「風防マントは正確に描くんだぞ?」
朝昼晩念入りに、手ずからブラシをかけているマントだ。春を告げる花ブラシカのような、鮮やかな黄色が翻る。ヘルムートの赤毛と暗い緑の目によく映えていた。
「姫からの贈り物だと、ちゃんと解るようにな!」
お抱えの画家が、素早くスケッチをする。視察に出発するところなので、時間はかけられないのだ。
魔法使いの印である緑色の瞳は、澄んでいるほど力が強いとされている。やや黒ずんだ自分の瞳を、幼年時代のヘルムートは嫌いだった。カビみたいと陰口を叩かれているのも知っていた。
「我が癒し姫は、神秘郷で出会ったあの日のことを、思い出してくださるだろうか」
6歳の頃、初めての独り騎竜飛行に挑んだ。その時、魔法気流に呑まれて不時着してしまった。そこは、一面に青い釣鐘状の小さな花が咲く谷間だった。片側の山裾を走る陽気な渓流のほとりに、輝く金髪の女の子が立っていた。
女の子は5歳くらいだったろうか。飛竜はいないが、やはり魔法気流に巻き込まれたのだろうか。お姫様然とした明るい黄色のドレスを着ていた。その子は巻き毛を川風に遊ばせて、花に溶け込みそうな青紫の大きな瞳でヘルムートを見ていた。
不恰好に不時着したヘルムートは、きまり悪そうにモソモソと立ち上がった。空間を歪ませてしまう魔法気流に揉まれて、マントは飛ばされ、髪はクシャクシャだ。顔も土で汚れている。お城で見かける女の子たちなら、眉を顰めてくすくすと嗤ったことだろう。
「だいじょーぉぶですか?」
一生懸命真面目な顔をして、女の子が言った。その真剣な表情が、ヘルムートの沈んだ心をたちまちに引き上げた。
「大丈夫だ!ありがとう」
思わず溢れる笑顔に惹かれて、女の子もにっこりと頬を染めた。主張のない微かな香りが谷間の花から漂ってくる。
「ここなる童は、ヘルムート・フーゴ・フリードリヒ・リルケ。ハイデン国王の長子です」
「ちょーし?」
「いちばん上の子供です」
女の子は大人っぽく鷹揚に頷くと、ツンと顎を反らした。
「わが名はアルテア。ウィラミラの番人にして、プリマベリス王国の3の姫にございます」
「おめにかかれて光栄です」
ヘルムートも大人のように、片手を胸に当てて腰を折る。これはハイデン王国の丁寧な挨拶だ。幸い、プリマベリス王国でも似たような挨拶形式だったので、アルテアはにこりと微笑んだ。
ほっそりした少女の微笑みに見惚れるヘルムートに、アルテアは優雅なお辞儀をひとつした。ふんわりとした黄色いスカートが膨らんで、金の巻き毛がきらきらと踊る。ヘルムート少年の意識は、金と青紫で塗り尽くされた。
「このウィラミラには、どうして?」
アルテアの可愛らしい声を聞いて、ヘルムートはハッと我に返る。
「お恥ずかしいことですが、魔法気流に呑まれて落ちました」
「あらまあ、お気の毒ですこと」
アルテアは小さなふたつの手をいっぱいに開いて口に当てる。
「ごめいわくでなければ、竜さんを治しても?」
「治す?魔法ですか?」
「プリマベリスでは、神秘の技と呼んでおります」
「神秘の技」
ヘルムートは感心してため息をつく。その呼び名は、なんとなく魔法より上等な気がした。少女は静かに竜に近寄ると、落下で傷ついた羽と脚に手を差し延べた。
「水よ、来たれ、水」
可愛らしい呼びかけで、渓流の水が渦巻いてやってくる。
「風よ、ウェニー、風」
今度は風がそっと吹いて、水を霧のようにする。竜の傷口に降り注ぐ清らかな水は仄白く光っていた。
「ウェラミラの水は特別なのです」
誇らしげなアルテアに、ヘルムートは尊敬の眼差しを向けた。竜の傷はみるみる治ってゆく。
「すばらしいね、姫!ありがとう」
「ふふ、お心やすく、お客人」
アルテア姫はほうわりと笑うと、淑やかな仕草でハンカチを取り出した。ハンカチはドレスとお揃いの鮮やかな黄色だ。縁取りも黄色いレースである。
「ね、お顔、これで」
「素敵な色ですね」
ヘルムートは感激して、受け取ったハンカチを見つめた。
「プリマベリスで春を告げる花の色なの」
「ハイデン王国でも、黄色い花が春に咲きます!」
ヘルムートは嬉しそうに顔を赤くする。
「同じね」
アルテアも声を弾ませた。
「ラプスっていうんです」
「プリマベリスではブラシカですわ」
ふたりは目と目を見合わせて、子供らしくクスクス笑った。
「あら、このお色、ヘルムートさまのおめめにピッタリです」
「えっ、この瞳は薄汚い」
ヘルムートは暗い顔で縮こまる。
「何ですって?そんなこと仰るかた、お水をざぶんてしちゃうわッ」
「ええっ?」
憤慨して足を踏み鳴らしたアルテアに、ヘルムートは肝を潰した。
「あら、その、ごめんなさい」
「え、いや」
「でもね、ヘルムートさま、こんなに素敵なお色なのに。深くて、静かで、素敵だわ」
怒った顔で、アルテア姫はヘルムートのカビ色を褒めまくる。陰口をする人が言うだけで、実際にはカビよりもずっと濃いのだが。
ヘルムートは幸せな気持ちになった。プンスカ怒るアルテア姫への驚きも吹き飛んだ。
「アルテア姫の眼は、ここのお花と同じですね。すごく優しい色だと思う」
「まあっ」
自分は褒めちぎったのに、ヘルムートに良く言われると幼い姫は顔を覆ってはにかんだ。
「また来ることは出来るだろうか?」
「ええ。竜さんが道を覚えてらっしゃるから」
「ではまた来ます、アルテア姫!」
「おや、もうお帰り?」
「ええ。皆が心配しているでしょうから」
「では、いずれまた」
「ぜひ、それまでは」
2人のやんごとなき子供は、習い覚えた別れの作法を精一杯に披露した。ふたりは魔法使いなので、共通の作法があったのだ。
「パックス、カエリー、トゥイー。貴方の空に平安」
「パックス、ウェントー、トゥイー。貴女の風に平安」
それから2人はしばしば神秘郷で遊んだ。2人はとても仲が良く、それを機に両国の国交も開いた。プリマベリスは謎の多い国であったが、ヘルムートのお陰ですんなりと友好関係を築くことが出来た。自然な成り行きによって、ヘルムートが8歳、アルテアが7歳の時に婚約を交わした。
初めて会った日にアルテアが着ていたドレスの印象は、温もりとなってヘルムートの胸に残っていた。出会いの日から10年が経った去年、誕生日に鮮やかな黄色いマントを贈られた。
ヘルムートは包みを開けると、マントを抱きしめた。そのまま息をするのも忘れて、じっとしていたほどだった。出会った日から、ヘルムートは春を告げるその黄色い花を、ブラシカと呼んでいた。プリマベリスの名前で呼ぶと、アルテア姫が近くにいるような気がしたのだ。
「殿下、またプリマベリス語ですか?お婿に行くのでもないのに」
行き詰まったとき、落ち込んだとき、病気のとき、会えないとき。プリマベリス語を呟くと、ヘルムートはたちまち元気になった。事あるごとにプリマベリス語を使うので、宮中ではやや煙たがられていたのだが。
出会って11年になる今年、ヘルムートは婚姻の日取りを決めたいと申し出ている。アルテア姫がウィラミラの番人であるため、婚姻は難航していたのだ。ハイデン王国の王妃は、飛び地に住んでも構わない。しかしハイデン王国籍となる。ウィラミラは、他国に籍を移した者に任せることができないのだと言う。
引き継げる能力を持つ者が現れず、アルテア姫は、いわば土地に縛り付けられていた。
「次の番人なんて、すぐ見つかると思いましたのに」
段々と会える日が少なくなって、アルテア姫は苛立っていた。愛らしい顔立ちはそのままに、姫はすらりと清楚な乙女になっていた。ヘルムートは騎士らしくがっしりと成長し、ひとりの乙女に心から愛されて自信もついた。
「こちらも飛竜騎士王が絶対条件なのです。弟たちや妹たちは、瞳も美しく魔法に長けているのに、何故か竜には乗れなくて」
ヘルムートは、悔しい思いを手紙に綴る。
「そうでなければ、婿入り致しますのに」
最近は嵐ばかりで、ますます会えなくなっていた。それでもふたりは手紙を欠かさない。魔法の小鳥が秘密の空路で毎日運んでくれるのだ。
「お会いしとうございます」
「懐かしゅうございます」
そんな一言だけの時もある。それでもふたりは幸せだった。その一言で、また1日頑張れた。
そうして過ごす今、災害視察団の出立にお抱え画家が駆けつけた。ヘルムートはこれ幸いと肖像画を頼んだのだ。
「殿下、仕上げはまた戻られてから」
「もう良いか?では視察団、飛翔準備!」
ハイデン王国飛行隊の発着所に王太子の号令が響く。ヘルムートの飛竜の他には、翼ある馬や魔法の大鷲などの飛行生物がいた。それぞれの背中にいる魔法使いたちは、飛行隊の風防眼鏡をカチャリと下ろす。思い思いの風防マントやコートには、頭を覆うフードがついている。魔法の帽子を被る者もいた。
翼のある金色の獅子に乗った、第三子で次女の姫君もいる。美しく澄んだエメラルドの瞳が、キリリと行手を見据えていた。既婚者を表すしっかりと編み込んで結い上げた髪を、ヘルムートは恨めしそうにチラリと睨む。
魔法の力はヘルムートより上なのだ。だが、彼女が乗れるのは魔法の大獅子だけ。玉座を継ぐ義務はなく、比較的自由な結婚を早々にしてしまった。
ともあれ、一行は出立した。城を臨む岩棚から、次々と青空に飛び立つ。眼下に広がる荒地には大雨で川が現れ、動物たちが水浴びをしている。しばらくゆくと、木々に囲まれた窪地に池が出来ていた。
「かなり濁ってるな?」
高度を下げると、池に見えた場所は広いぬかるみであった。
「ん?なんだ?」
「殿下っ、御用心を」
ぬかるみの真ん中で、不定形生物のようなものが蠢いている。泥だらけで茶色く、ぬらぬらと不気味な動きであった。
「殿下」
隊員たちが不安な声を上げたのは、ぬかるみが泡立ったからだ。ボコボコと一面に気泡が現れては消える。不定形生物の周りにも泡が立つ。泡はやがて、一斉に泥の柱となって上空のヘルムートたち目掛けて伸びだした。
「回避だ!総員上昇ッ」
ヘルムートが叫ぶ。泥の柱は飛行隊を追って空中を駆け上る。
「横へッ!回れッ!」
ヘルムートは、回避しながら様子を見ている。蠢く不定形生物が、人の手のような形をした部分を持ち上げる。腕状の部分からは泥が垂れてぬかるみと繋がっていた。
「警戒ッ!」
ヘルムートの叫びと、腕状の泥から閃光が奔るのは同時だった。四方に乱れ飛ぶチョコレート色の光に、ヘルムートたちは思わず目を瞑る。
「くっ」
一瞬の後、皆が目を開けると、泥の柱はなくなっていた。不定形生物は、変わらずぬかるみの真ん中を這い回っている。
「降下!」
ヘルムートはさっと腕を振り下ろす。一同はぬかるみに近づいてゆく。今回は泥の柱は出てこない。不定形生物から、人間の頭のようなものが持ち上がった。泥が垂れて、長い髪を引き摺っているように見える。
「ヘルムート殿下、お気をつけて」
隊員たちが気遣う中、ヘルムートは先陣切って不定形生物の鼻先に滑り降りて滞空する。泥の頭には顔のような凹凸がある。口に当たる部分が、にやーっと粘着質の笑いを浮かべた。
「うっ」
ヘルムートはくしゃりと潰れたような顔をした。頭には、女性の甲高い声が響く。
「うわぁ、いけめんだぁ」
口が開いているわけではなく、頭に直接届くのだ。他の隊員には聞こえないらしい。苦しそうなヘルムートを、皆顔色を変えて注視している。
「こんにちわぁ、あなたが呼んだんですかぁー?」
「やめろっ」
不定形生物が手らしき物を伸ばす。思わず後退するヘルムート。
「あっ、殿下、泡がまた」
「くっ、退避ッ」
「ええー、またヤツラかよぉ、せっかくイケメン来たのに」
辛くもぬかるみ上空から離脱した一行は、背後に乱れ飛ぶチョコレート色の光を目の端に捉えた。
「殿下、泥の化け物に攻撃されたのですか?」
隊員が聞いてくる。
「いや、頭の中に話しかけてきたんだ」
「意思の疎通ができるのですか」
「何か気持ち悪い、邪悪な波動を感じた」
「ぬかるみですから、乾かしてみてはどうでしょうか」
「よし、火を放ってみよう」
飛行隊は上昇するとぬかるみの周囲を取り囲む。ヘルムートの合図で、一斉に魔法を放つ。
「イグニース、ウェニー、イグニース、炎よ来たれ炎」
オレンジ、青、赤、黄色とさまざまな色の炎が矢となり雨となり、ぬかるみに降り注ぐ。
「ぎゃーっ!何すんのぉー!恩知らず!」
ヘルムートの頭に不定形生物の声が反響する。
「や、やめろ。頭が痛くなる」
「止めるのはそっちだっつぅのおっ」
「恩知らずとは、何だ」
ヘルムートは、遂に未知の生物と会話を始めてしまった。
「化け物退治してるでしょーう!」
「化け物?」
「時々泡が出て、攻撃してくるでしょ!」
「泥の泡はお前の攻撃ではないのか?」
「違ーう!」
「もしかして、囚われているのか?」
ヘルムートの問いかけで、不定形生物は少し落ち着いたようだ。自分の状況を伝えてくる。
「突然泥の中に放り込まれて、謎の泥に攻撃されたら光が出せるようになった」
「放り込まれた?どんな奴にだ」
「知らない。道歩いてたらいきなり泥の中だった」
「それは酷いな」
「でしょー?イケメンさんが犯人じゃないのか」
「断じて違う」
ヘルムートは強い口調で否定する。
「あのねぇ、転移ってやつだと思うんだ」
不定形生物は妙にテンションを上げて来た。ヘルムートは強張った顔で質問を試みる。
「どこから飛ばされて来たんだ」
「日本ってわかる?」
「ニッポン?聞いたことないな」
「ここはなんて国?」
「ハイデン王国だ」
「やっぱり異世界っぽい」
「異世界?異界渡りをさせられたのか?」
「へっ?こっち、普通な感じですかぁ?」
不定形生物は益々興奮した。
「何が?」
「異世界と行き来出来ます?」
「古文書にはあるな」
「今は出来ないのかぁ」
不定形生物はがっかりする。
「連れてこられて帰りたいだけなら、元の世界に返す方法を試してみるか」
「ほんとっ!流石イケメン、太っ腹ぁ」
「現行魔法ではないから、危険はあるがな」
「えーっ、じゃあいいや」
「帰りたくはないのか?」
ヘルムートは人気者ではないが、愛する家族も恋しい婚約者もいる。独り異界に飛ばされたら心細かろうと思った。初めから感じ続けている微弱だが邪悪な波動は、恨みからくるものかとも考えた。
「危険がなくなったら帰りますぅ」
「えらく呑気だな」
「イケメンとか飛竜とか、異世界楽しいしねー」
「とりあえずは我が国で保護するか」
「わーい、お願いしまーす」
不定形生物はぬかるみでジタバタして喜びを表した。
「一々ここまで来るのは難儀だな」
「しかし殿下、このような泥の化け物が滞在出来る場所はありませんよ」
隊員が釘を刺すと、不定形生物が怒りを露わに叫ぶ。もちろん、聴こえるのはヘルムートだけ。
「ひどーい!泥から助けてくれないんですかぁ!」
「えっ、泥の体ではないのか」
「違いますよぅ」
ヘルムートは少し安堵する。
「でも、このぬかるみの真ん中から動けないんですぅ」
「もしや、番人」
「番人?そいつ倒せば良いんですかぁ?」
「倒すな!」
「えー」
「番人というのは、特定の魔法領域を守る役割の者だ」
「え?動けないんですかあっ?」
ヘルムートはアルテアを思い浮かべてにっこりとする。
「あ、イケメンさんの彼女さん、番人てやつなのぉ?」
「我が婚約者殿は、気高い番人の使命を果たしている」
「ひょー、カッコいい婚約者さんですねぇ」
不定形生物が食いついた。ヘルムートは、アルテアを巻き込んだ気がして後悔した。
「とにかく、番人もずっとその場所にいるわけではない」
「じゃあ、出られる?」
「詳しいものに聞いてみよう」
「おっ、婚約者さんに会えるの?美人?可愛い?」
ヘルムートの頭に届く言葉が、どんどん速度を増してゆく。ヘルムートはゾッとして、飛竜を促し距離を取る。
「悪いが、対策がわかるまでそのまま待ってくれ」
「うわぁ、悪質だなぁ。いくらイケメンでも許されない」
「すまないが、素人が手を出したら何が起こるか分からないんだ」
「ひえー。そしたら、待ってますー」
「そうしてくれ」
ヘルムートはサッと片手を上げると声を張る。
「上昇ッ!帰還する」
飛行隊は無言で従う。一行が飛び去る背後では、時々チョコレート色の強い光が溢れていた。
「泥そのものが化け物なのかも知れないな」
「左様でございますね、兄上」
「とにかく、研究者に解析を頼もう」
それからというもの、研究者チームとヘルムートたち飛行隊が毎日ぬかるみに通うことになった。
意思の疎通が出来るのは、ヘルムートただひとり。研究者チームは飛行隊が運ぶ。異世界生物は、相変わらずぬかるみの中心部をぬめぬめ蠢くしかできない。他にどうしようもないのである。
「殿下、今日は新発明の邪心測定装置を試してみましょう」
研究者チームのリーダーが、背中から箱のようなものを下ろす。上部に金属の紐で繋がっている棒は、魔法の鳥から貰った羽の軸である。
「どんな装置だ?」
「うわぁ、また来た」
「何を言うか」
異世界生物が嫌そうな声を伝えてくるので、ヘルムートが叱った。なんとなくペットのような気分である。だんだん可愛くなって来た。
「機械の実験楽しんでるだけでしょー」
「怖くないぞ。安全だ」
研究者リーダーには言葉が聞こえない。しかし、なんとなく態度で読み取れるようになって来た。
「そいつ新発明って言った!」
「新発明だが、安全性は保証する」
「本当かよっ」
「声が聞こえるようになったのか?」
「いえ、殿下。なんとなくわかります」
「やはり生き物同士、なにかしら分かり合えるものだな」
ヘルムートがしみじみと言った。研究者チームと飛行隊員は、ウンウンと頷いている。
「生き物ぉー?人間なんですけど?」
「えっ」
ヘルムートが絶句する。
「え?じゃないよー、ほんとに」
「ええええーっ?」
ヘルムートは限界まで眼を見開いた。
「殿下、如何なされましたか」
「や、こやつ、人間だと」
「なんと!」
「ちょっと?失礼すぎやしませんか?」
「や、すまぬ」
「すまない」
ヘルムートが謝る。研究者リーダーもなんとなく察知して謝罪を述べる。
「んーっ、まあ、イケメンだから許すうー」
異世界生物は、ぬかるみのなかでクネクネした。ヘルムートと研究者リーダーは青褪める。リーダーは中年だが、渋みのある眼鏡ダンディだ。
「ぐっ、早く測定装置を」
「うう、ただいま」
研究者リーダーが、測定装置の棒を異世界生物に向ける。
「あっ」
四角い箱の部分全体が発光し始めた。目まぐるしく色が変わる。やがて光から色が消えてゆき、ついには透明となった。
「眩しいー」
異世界生物が文句を言った。
「殿下、邪心測定値は、聖女級でございます」
「え?この生き物が?」
「またぁー、イケメンの罵倒、いただきました?」
ヘルムートがぐっと眉を寄せて耐える。口の中でプリマベリス語を早口で唱える。
「何?何の呪文?わぁっ、カッコいい」
「あ、呪文じゃないですよ」
研究者リーダーは、また察して説明した。
「要するに婚約者様が可愛いと言う意味のことを、延々と口走っておられます」
「ほーう?どんな?」
泥の窪みがにやにや顔を作る。どう見ても邪悪な生き物だ。なぜこれが、聖女級に邪心が無いと言えるのか。研究者リーダーは、試しに周囲の泥も測定する。
「ああっ、こっちは」
箱の放つ光は黒くなり、箱が見えなくなってしまった。
「魔王級でございます」
「へえっ?」
異世界生物が間抜けな声を上げる。聞こえたのはヘルムートだけだが。
「この泥、魔王なの?凄くね?いやーいいねぇー」
これにはヘルムートも厳しい顔になる。
「やはりこやつ、邪悪」
「ねえねえ、私、聖女様ぁ?この泥浄化すればいいのぉ?そしたら帰れんじゃね?」
「うっ」
ニタニタ気持ち悪い笑顔で、異世界生物が見解を述べる。吐きそうになりながら、ヘルムートは真摯に答える。ニタニタは不気味だが、申し出はまともなのだ。
「確かに、使命を遂げれば帰還出来るやも知れぬ」
「やっぱりぃ?ねえねえ、そこの鳥に乗ってる人ぉ!」
異世界生物は、いきなり後ろに控える飛行隊員に声をかける。しかし届かない。
「イケメン殿下ぁ!伝えてよぉ。もぉ気がきかないなぁ!かわいいかよ!」
「これ、王太子殿下を使いだてするでない」
研究者リーダーは、もはや読心術者の域である。
「よい。何か進展があるのなら」
「ある!すっごいあるぅ」
ヘルムートはため息をつくと、鳥に乗る隊員に話を伝える。
「ファルケ、こやつから何か話があるようだ」
「はっ!」
「あのねー、その人、イケボ!」
ヘルムートは怯みつつも、正確な意味を伝える。特殊な略語も自動的に理解されるようだ。
「ファルケは良い声だと言っている」
「ありがとうございます!」
「そんでね、イケボさんに、頑張れよって!囁いてほしいんですけどー?お願い出来ませんかっ?だめ?いい?」
「うう、ファルケよ、こやつに小声で頑張れよ、と言ってやれ」
「わあっ、言ってくれるんですかぁーっ?」
異世界生物は、ねばねばとした泥の身体でジタバタする。ゴロゴロする。ひたすらおぞけを催す醜態を見せる。しかしそんな状態でも、邪心測定値は聖女級。ピュアピュアである。
「悪意のない純粋な欲望ということか」
ヘルムートはプリマベリス語で悪態をつく。異世界生物には理解出来ない。ハイデン王国に転移してきたので、ハイデン王国語だけは分かるようだ。
試行錯誤の末、3ヶ月ほどかかってぬかるみの邪気は全て浄化された。実を言うと、試行錯誤は特に影響を与えなかった。チョコレート色の閃光を乱射し続けた成果である。
「疲れた」
アルテア姫に届いた久々の手紙には、一言だけ書かれていた。姫は率直な返信を送る。
「ここ3ヶ月というものお返事が途絶え、生きた心地が致しませんでした」
ヘルムートは毎日ぬかるみとの往復で、ぬるぬると不快な異世界生物の相手をしていたのだ。しかもそれが聖女級の存在で、何故か発生した魔王級の泥生物を浄化出来るというのだ。邪険にも出来ない。
「アルテア姫のことを思い出して、乗り切りました」
心が擦り切れる寸前だったヘルムートは、説明不足な手紙を送るのがやっと。せっかく依頼したかっこいい騎竜姿の肖像画も、まだ仕上がりを確認していない。
アルテア姫は業を煮やして、独りハイデン王国に乗り込んできた。ヘルムート好みの鮮やかな黄色いドレスを着て、風に乗ってやって来た。金の巻き毛は夜明けの空に煌めいて、勝ち気な瞳の青紫は薄明かりの中で燃え立つように光る。
アルテア姫は、すとんと音もなく飛行隊の発着所に降り立つ。すると、ヘルムートの飛竜が眠そうに首をもたげた。
「竜さん、お話しくださる?」
有無を合わせぬ口調で、アルテアは飛竜に問いただす。飛竜はかつての恩も、これまでの交流も忘れてはいなかった。
「あら、そんなことが」
全てを聞き終わると、アルテアは柳の眉をひそめて軽く口を曲げた。
「それで、普通のぬかるみになったのに、まだその人出られないのね?」
竜は頷く。
「番人にしても、やっぱりなにかの事故なんじゃないかしら。文字通り土地に縫い付けられてしまうなんて」
状況を把握すると、アルテアは飛行隊の魔法生物たちと雑談を始めた。
「まあっ、ヘルムートさまが?」
「あら!ヘルムートさまが!」
「ふふっ、さすがヘルムートさま」
「ああ、ヘルムートさまらしいわね」
などと王太子情報を聞き出しては喜んでいた。
「テア?」
アルテアの耳に、愛しい人の声が届いた。夢見るような、風に紛れる呟きである。しかし、アルテアは聞き逃さない。赤毛の王太子が口にしたのは、こっそり心の中でだけ呼んでいた自分専用の愛称なのである。
「ヘルムートさまったら!テアだなんてっ」
アルテアは勢いよく振り返る。
「ごめんなさいっ!ご無礼を」
ヘルムートは悪戯を見つかった子供のように身体を丸める。
「嫌だわ。嬉しいのに」
アルテアの頬が薔薇色なのは、昇る朝日のためなのか。それとも、愛称が嬉しく上気したのか。
「ああ、テア。姫には薔薇色もよく似合います」
「え?あら。美しい朝焼けねぇ」
ふたりは肩を寄せ合って、明けゆく空を眺めていた。
アルテアは、三々五々集まって来た飛行隊員と研究者チームとも、和やかな挨拶を交わした。全員揃うと、ヘルムートの飛竜に寄り添って風の道を駆けた。ハイデン王宮の人々は、絵姿とヘルムートからの話でしか知らなかったアルテアの来訪に浮き立っていた。
「美少女ーっうはぁ」
「え」
事前情報があったとはいえ、見ると聞くでは大違い。アルテア姫は固まった。誠に残念なことに、アルテアにも声は響いて来たのである。
「ねぇねぇ、もしかして、イケメン殿下の婚約者さん?」
「そうだ」
アルテアが口を開く前に、ヘルムートは庇うように短く答えた。
「テア、異界渡りで元の世界へ還すことは出来るだろうか」
「ちょっとお待ちになって」
アルテアは目を瞑る。
「おーっ、テアさん凛々しい!気高い!ふぉわぁ!」
アルテアが目を開ける。
「あなた、お静かになさって?」
アルテアは、ドロドロの不快生物にも容赦ない。ヘルムートは内心そんな姫君の勇ましさが可愛くて、すぐにでも抱きしめたいのを我慢していた。
姫がもう一度目を瞑ると、ふわふわと金の巻き毛が持ち上がる。皆は息をつめて姫を見ていた。
やがて静かに瞼は上がる。
「ウィラミラの風たちに尋ねて参りましたの」
アルテアはそれはもう愛くるしい笑顔で言った。ヘルムートは自らの胸に手をのせる。胸を両手でぎゅっと押さえる。もう死ぬんじゃないかと思った。
「ぐっはぁー!」
不快生物がのたうち回る。甘い雰囲気は霧散した。
「この者の使命はこの地の浄化。ですが、この者をご覧になって?泥だらけではありませんか」
「綺麗じゃあないよね」
「アークア、ウェニー、アークア、水よ来たれ水」
アルテア姫はさっさと作業を開始する。荒地の地下深くから、空気の中から、ぬかるみの中から、煌めく水が湧き出した。ヘルムートには、ウィラミラを流れる神秘の渓流の音が聞こえる気がした。
「ウェンテ、ウェニー、ウェントゥス、風よ来たれ風」
アルテア姫が、異世界生物へとたおやかな手を伸ばす。肘先を飾る菜の花色のプリーツが、ひらひらと軽やかに揺れる。
風と水はそれぞれに不思議な魔法の力を帯びて、興奮気味のドロドロ生物を包み込む。くるくると水が回り、風が巡る。
「ひゃ、ひゃ、なんかさっぱりするーぅ」
異世界生物は、水と風に巻き込まれて立ち上がる。ずっと這いずり回っていたので分からなかったが、体格は意外に小柄で華奢だった。
「せんたっきー」
異世界生物が、顔をニヤつかせて奇声を上げている。観察者たちは3ヶ月経ってもまだ慣れることが出来ずに、怯えた様子で佇んでいる。次第に泥が剥がれていって、長い黒髪がビュンビュンと回転し始める。
「うっひょー」
顔からも泥が落ちた。切長の垂れ目から、暗闇のような瞳が現れた。ハイデン王国にもプリマベリス王国にも、暗い色の瞳はある。だが、どちらの国でも赤みが強い。異世界生物は、緑がかっていた。
「おおー?」
異世界生物は走り出した。なんと、裾の短いドレスのような服を着ていた。フリルが沢山ある。真っ黒だ。フリルもリボンもレースも、どれもこれも真っ黒だ。膝下まである編み上げの黒いブーツも履いている。踵は拳を縦にした程度の高さ。
泥水が跳ねるが、異世界生物を取り巻く神秘の風と水で常に洗い流され乾燥される。
「アハハハハ!」
ついには大きな口を開いて大笑いを始めた。白く綺麗に並んだ歯が思い切り良く露出する。
「アハハハ」
もう笑うだけで言葉はない。頭に届く声も消えた。皆は異世界生物を凝視する。鼻は低く眼窩も浅い。全体にのっぺりと印象の薄い、不思議な容貌である。
「あっ」
アルテアが微かに口を開く。いま、ぬかるみから荒地へと、黒いブーツが飛び出そうとしている。
「わあっ」
居並ぶ人々が驚きに騒めいた。足は荒地に出ることがなく、そこに見えない扉でもあるかのように、スルスルと虚空に滑り込んで行った。
「帰れたのかしら」
「さあなあ」
声は聞こえなかった。
「他の世界に呼ばれたのかもしれませんわ」
「それは気の毒だな」
「番人の力を持って生まれてしまったんですもの」
アルテア姫は寂しそうに笑った。
「それでも、あの者は楽しく渡り歩く気がするがな」
ヘルムートは、忌々しそうな様子で鼻に皺を寄せた。
「ふふっ、ヘリィ様、そんなお顔なさって」
不意打ちの愛称に、ヘルムート殿下の意識から、人目があることは吹っ飛んだ。
「テアーっ!」
ヘルムートはアルテアに飛びつくと、ぎゅっと両腕で抱きしめた。
「テアっ、テアっ、早く日取りを決めよう!」
「ダメよ、まだ次の番人が、番人が?」
アルテアはふっと変な顔をして黙り込んだ。
「テア?」
「あの人」
「ん?誰?」
「あの人、異世界の」
「うん?」
「プリマベリスの、国籍」
「国籍?異世界生物が?」
「取得して、あの人」
「え?どうしたの?」
呆然としてブツ切れの言葉を発していたアルテアが、突然カッと目を見開いて叫んだ。
「あの人、ウィラミラを守る次の番人に選ばれちゃったわ!」
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