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「ねえ、東堂くんって坂入さんと知り合いだったっけ?」
僕が必死に黒板を消している時に彼女、緑川三葉は笑顔で聞いてきた。
「急に何だよ。そんな事よりお前も手伝ってくれ」
僕は黒板消しを一つ緑川に差し出す。緑川は何も言わずにそれを受け取り、黒板を消し始める。しかし、話す事はやめない。
「私、見てしまったんだよ。今日の朝、東堂くんと坂入さんが一緒に歩いている所。今日一日ずっと考えてたんだけど、東堂くんと坂入さんの接点を何一つ見つけられなかったよ」
こいつは、今日一日無駄にしていると気付かないのか?
そうは言わないでおいたが、表情で気付かれてしまったのかもしれない。
「気になるじゃん。あの坂入さんだよ?誰もが話したいと思っている生徒だよ。私だってまだ話した事ないのにずるいよ。私にも紹介して」
「僕と坂入に接点なんてない。偶然会って少し話しただけだ。友達でも何でもない」
嘘はついていない。偶然会って話をした。全て真実だ。本来、僕と坂入は出会う事のない立ち位置にいたのだ。必然ではない。全ては偶然だ。
「えー、ケチ。いいじゃん!同じ日直の仲でしょ」
「僕たちが同じペアで日直なのは今日で終わりだろ。明日からはまた別のペアだし、次いつ一緒になるかも分からない。だからこの仲の有効期限は黒板を消し終わった瞬間に終わりだ」
そう言うと緑川は手を止め、頬を風船みたいに膨らませた。まるでハムスターだ。
「じゃあ私手伝わないもん。君は私に感謝するべき存在なのに、恩を返さないとでも言うの?」
そこを突かれると痛い。そう、僕は緑川に助けてもらったことがある。
そこまで大きな話ではないが、入学当初、一番最初の英語の時間にペアを作れずに困っていた所を助けてもらった。実は、僕が入学して初めて話をしたのが緑川だった。以降、こんな僕とも仲良くしてもらっている。
緑川がいなければ僕は一人ぼっちのままだっただろう。人と話すのは嫌いではないし、人見知りでもない。ただ、積極的ではないだけ。自分から話そうとは思わないだけ。クラスメートは僕から出る謎のオーラみたいなものから察して話しかけてこない。入学して3ヶ月ほど経つが、僕と仲良くしてくれるのは未だに彼女だけだ。
しかし、改めて考えるとこいつに恩を感じる必要はない。僕は友達がいなくても生きていける。授業中ペアが作れなくて先生とペアになってもなんとも思わない。一人でぼっち飯でもいい。僕はそういう人間だ。
「確かに英語の時間毎回ペアになってくれるのはありがたい。だが、僕はペアが先生でも生きていける」
「うわーマジですか。学校ってただ勉強する場所じゃないんだぞ。勉強するだけなら家でも出来るけど、コミュニケーション能力とかっていうのは相手がいないと鍛えられないんだぞ。東堂くんはその能力を鍛えるために私以外の人とも仲良くするべきだぞ?」
「余計なお世話だ」
そう言うと、僕は緑川の分の黒板も消してしまう。そして、黒板消しをクリーナーにかける。
「ああ!何するの!私の仕事なのに!」
「やらないって言ったのはどこのどいつだ」
黒板消しをクリーナーにかけ終わると、学級日誌を持って自分の机に向かう。机の脇にかけてあったリュックを肩に掛け、僕は教室を出ようとする。
「あ!置いていくな!待って!!」
後ろから緑川が慌てて追いかけてくる。別に一緒に帰る約束なんてしていないし、日直の仕事は担任に学級日誌を提出して終わりだ。もうこいつと一緒にいる理由はない。
「お前、昨日言ってたよな?今日が欲しかった漫画の発売日だって。この時間だと学生はみんな本屋行くだろうな。売り切れて買えなくなるぞ?」
カマをかけてみると案の定、食いついた。
「あー、忘れてた!今日は二ヶ月前から楽しみにしていた『JUICE STORY』の発売日だった!ごめん東堂くん先帰るね!」
そう言うと、猛スピードで走って行った。緑川が足速いイメージは無かったが、こういう特別な時は速くなるのだろうか。本当に人間の意思ってやつは恐ろしい。
僕は日直の仕事を果たすべく、職員室に向かい、担任に学級日誌を提出した。その後、帰宅するべく昇降口へ向かう。
下駄箱を開け、自分の靴を取り出そうとしたが、何故か思いとどまって下駄箱を閉める。そして、そのまま屋上へと直行する。
屋上に坂入がいる。何故か、そんな予感がしたのだ。
☆☆☆
「来たのね、東堂くん」
そう言いながら腕組みしながら堂々と立っているのは坂入だった。扉を開けてすぐこの発言。僕が来ると分かっていたのだろう。そして、一体この人はいつからこのポーズでいたのだろうか。
「何時からそこにいたんだ?」
「10分前くらいね」
坂入は腕時計で時間を確認しながら言う。そこまで前からここにいるわけではなかったようだ。
しかし、今までに何度か屋上に来ているが、坂入と会うのは今日が初めてだ。一体いつここに来ているのだろうか。
「ところで東堂くん」
僕が扉付近にリュックを置いて座っていると、坂入は僕の方へ近づいてくる。僕、何かしただろうか。
坂入は手に持っていたノートを僕に見せた。ノートの表紙には達筆な字で数Ⅰと書かれていた。
「あなた、数学は得意?」
「え、いや、平均点くらいかな」
「そう」
そう言うと、坂入は少し残念そうな顔をしながらノートを広げた。そして、胸ポケットに挟まっていたシャープペンシルを手に取り数学の問題を解き始める。
「それ、宿題か?」
「そうよ。あなたも宿題出ているなら今のうちにやったら?」
意外だった。まさか坂入がこんな所で勉強するだなんて。
一年生はこれまでに定期試験2回、模試2回ほど試験が行われたが、その全てで坂入が学年トップなのは僕でも知っている。一年生で一番頭の良い坂入がまさか屋上で勉強しているとは誰も思うまい。
「私、二次関数の最大値や最小値を求める問題って苦手なのよね。場合分けとか面倒くさいことしたくないわ」
そう言いながらもグラフを3つ描いて丁寧に問題を解いている。しかし、行き詰ったのか教科書を開いて似たような問題を探し始める。解き方を参考にするのだろう。模範解答をすぐ見ないのは流石だ。
「坂入って苦手科目とかあったんだな」
「そうね、理系科目はあまり得意ではないわ」
しかし、これは不思議な時間だった。
まさか、学年一の秀才である坂入が勉強している姿を拝めるなんて。これを三葉に言ったら嫉妬されるだろう。言わないけど。
こうして見ると、彼女も普通の女子高生なのだなと思う。
屋上にいることを除けば、可愛い女子が普通に勉強している。彼女が有名人とは言われなければ分からない。
「何よ、ジロジロ見て」
僕の視線に気づいたのか、坂入が僕から少しだけ離れていく。僕、そんな変な目で見ていただろうか。
「ごめん。何か、こうして見ると普通の女子なんだなって思って……」
僕の言葉を聞いた坂入は、一瞬だけ驚いた顔をした。目を大きくして、普段の完璧な彼女では見せないような表情だった。
しかし、我に返ったのかいつもの表情に戻る。
「そんな事、初めて言われたわ」
それから、坂入は宿題に没頭し続けていた。
僕も、特にすることがないのでスマホで漫画を読んでいた。
坂入と一緒にいるこの不思議な時間。恋愛漫画でよくあるようなラブラブ展開になるわけでもなく、ただただ時間が過ぎていった。
しばらく時間が経ち、読みたい漫画も読み終えて、帰ろうと僕はリュックを取る。
坂入は集中しているようだったから、邪魔しないように静かに帰ろうとしていたのだが、坂入は僕の行動に気づいた。
「東堂くん」
坂入は立ち上がり、僕に近づいてくる。
「東堂くんは誰かに尊敬された経験はある?」
「いや、無いけど……急にどうした?」
「何でもないわ。もう帰るんでしょ?気を付けてね」
一体どういった意図の質問だったのだろうか。僕には分からないが、きっと彼女なりに悩んでいるのだろう。何に悩んでいるのか聞こうかと思ったが、やめておく。僕がもっと坂入と仲良くなったら聞いてみようかな。
「じゃあな。坂入も遅くならないうちに帰れよ」
そう言って、僕は帰ろうと立ち上がった。そして、扉に向かって歩こうとした。
「……私、どうすればいいのかしら」
背中まで下したストレートの髪をなびかせながら、坂入は僕に問う。
一体何のことか分からない問い。今の僕には答えられなかった。
「ごめんなさい、今の忘れて。また会いましょう」
いつか、その問いに答えられる日がくるだろうか。坂入の悩みを聞いてあげられるくらい仲良くなる日が来ることを願って。
その時は、きっと答えよう。坂入が望む最適解を答えたい。
☆☆☆
「普通の女子」
今日、初めて会った男子にそう言われた。
そんな事、初めて言われた。
初めては大げさかもしれないけれど。
少なくとも、「普通の女子」と言われた記憶は残っていない。
彼は何気なく言ったつもりなのだろうけれど、私は嬉しかった。
彼は私を対等に見てくれているのかな。
私は何も特別な人間じゃない。
ただ努力し続けてきただけ。
みんなより人一倍頑張っただけ。
誰でも出来ることをやっただけ。
何となくだけど、彼はそれに気づいてくれている気がした。
……ああ、明日は忙しい日だ。
生徒会の仕事、今日はさぼっちゃったから。
今日の分も頑張らなくちゃ。
私が頑張れば、みんな喜ぶ。
なら、私が頑張らないと。
私が……頑張らないとね。